パワーポイントで研究計画?
先日、ある大学の先生から、こんな話を聞いた。
”パワーポイントを使って大学院生が研究発表するようになると、内容が薄くなる。箇条書きでキーワードを並べるだけになったり、ちゃんとした研究計画、論理展開ができていないのに、スライドをパッパッと変えることで、誤魔化してしまうことができるから。
見ている教員の方も、分かっていないんだけど、分かった気にさせられてしまう(笑)。やはり研究計画はワードで文章で書くべきだよ”
---
この問題、言われてみると、「なるほど、さもありなん」と思った。僕自分は「研究計画は文章で書く派」なので、全く気づかなかったけれどね・・・。
パワーポイントは「枠の大きさ」が限られているので、そんなに多くの文字が書けない。故に、本当は細かい議論をしなくてはいけない部分を、すべてomitしつつ、「雰囲気」で研究計画を語るようになる可能性がある。
実際、僕自身が研究計画をたてるのだとしたら、「パワーポイントを使って箇条書きで研究計画を書く方」が、「ワードなどで文章で書く」よりもよっぽど楽であろう、と思われる。
もちろん、慣れてくれば、どちらのツールでもOKなのだろうけど、研究計画を立てたことがないうちは、面倒くさくても文章で綴ることが重要なのではないか、と思った。
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中原研究室は「研究計画はワードで文章で書く」を方針にしようと思う。
投稿者 jun : 2007年01月31日 17:48 | トラックバック
インドの衝撃・・・大学はどういう人材を育てるべきか?
ここ数日放送されていたNHKスペシャル「インドの衝撃」を見た。
インドの衝撃
http://www.nhk.or.jp/special/onair/070128.html
第一回「わきあがる頭脳パワー」は、インドのIT技術者を養成する学校、IIT(Indian Institute of Technology)の教育現場の実態を取材したものであった。
IITは、
IITに落ちたらMIT(マサチューセッツ工科大学)に行く
と言われるほどの超難関校で、インド全土から優秀な学生が集まってくる。
そこでの教育は、基礎基本を徹底しつつも、正解に至るまでのプロセスを重視するというものである。生徒は、ドミトリーにかえって勉強するか、学校に行って勉強するか、2社択一?の、超インテンシィヴな4年間の生活を送る。
最近、僕のまわりでも、多くのソフトウェアがインドで開発されるようになった、という話をよく聞く。いわゆるオフショアリングがとめどもなく進んでいるということだ。こういうオフショアリングを支えているのが、IITの卒業生たちであろう。
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ひるがえって、先日、ある工学部の先生とお会いした際、彼が自嘲気味に、こんなことを言っていたのが印象的だった。
”(日本の大学の)工学部の学生が、みんな、プログラミングができるって? それはそうともいえないと思いますよ。世間的には、工学部にいったのだから、プログラミングや、ハードウェアの組み立てくらいはできるだろう、という印象がありますけど・・・。
いや、確かにできる学生は確かにいます。でも、できない学生がその10倍はいるでしょう。
工学部の学生は、実はスキルを持っていないのではないか、というのが企業にバレてますから。どうせ、一から鍛えなければならないのだとしたら、だったら、コミュニケーションスキルのある文系学生取ったって同じだろう、ということになるのではないでしょうか。
工学部に人が集まらないのは、そういうことも一因なのです”
もちろん、先生は自嘲気味かつ遠慮気味におっしゃっているので、ここに書かれてあることを鵜呑みに、過剰な一般化を行うことはできない。
キッチリとした学生を育てている大学も多い。中には「先進的なソフトウェア開発」「ロボティクス」や「バイオ」領域で、高い成果をあげている大学もある。
それと同時に、そうでない大学もあるのだろう。
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ともかく、トマス=フリードマン風にいうならば、グローバル化の中でサバイブできる人材とは、「代替可能性のない人材」か、あるいは「代替を迫られたときに、学び直しによって新たな強みを獲得できる人材」である。
アジアの国々では、今日も貧困から抜け出すべく、知識と技能をもとめ若者が大学で徹夜で学んでいる。
日本の大学は、今、どのような人材を育成するべきなのだろう。
実は、今度、あるシンポジウムでパネリストを務めるのであるが、そのときに話題になるテーマがこれだ。難問だと思う。
レノボイノベーションフォーラム2007
http://www-06.ibm.com/jp/pc/seminar/2007/01/index.shtml?re=home_C_jp
ともかく、一つだけ確かなことがある。
Tomorrow's leaders and exparts are sitting in the today's colledge classroom.
ゆえに、大学教育のクオリティは、常に革新されていかなければならぬ。
投稿者 jun : 2007年01月31日 09:16 | トラックバック
集中講義を終えた
関西大学での集中講義を終えた。

あれも、これも、といろいろ詰め込み過ぎて、ちょっと「しゃべりすぎた」感じもしないわけではないけれど、あっという間の時間だった。
今回の講義では、ここ10年の間にやってきた自分の研究を紹介するのと同時に、研究方法論について話した。
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○研究方法論とは「宗教」ではない
○研究方法論とは武器である
- だから、Pickyになってはいけない
- 武器はたくさんもっていた方がいい
○研究方法論とは「退治できる敵」が
決まっている武器である
○困難は分割せよ
- いかにResearch Questionを作業定義化
できるかが重要である
○研究方法論とは組み合わせてもよい
- 分割した作業定義に従った方法論を
組み合わせて、戦うべし
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などのことを、お伝えしたかったのだけれど、どうだっただろうか。いろいろと言ったけれど、結局のところ、「やってみなはれ」です。自分の主張に従って、計画を組んでみて、あとは「やってみる」しかないですね。
ともかく、お聞きいただいた学部生、大学院生の方々、お疲れ様でした。そして、黒上先生、久保田先生、牧野先生、ありがとうございました。
投稿者 jun : 2007年01月30日 19:17 | コメント (2) | トラックバック
教育の有識者?
朝日新聞「時流自論」の本田由紀先生(教育社会学)のコラムを興味深く読んだ。
時間がないので(今から新幹線)、骨子だけを引用。
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・(1月24日にまとめられた報告書は)教育についての科学的な検証に従事している者を一人も含まないメンバーからなる教育再生会議が、インパクト重視でまとめた報告書。その提言が、将来この社会を担うすべての子どもたちの毎日の生活を大きく左右しかねないことに対して、計り知れない危機感を感じる
・(たとえば)授業時間数を増大させることによって「学力向上」は達成されるのか、ということである。(ある研究グループの調査によれば)授業時間数と成績の間に関連は認められない。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/gijiroku/005/03070801/004.pdf
・(そもそも)学力向上の必要性の根拠になっている「学力低下」は現実に生じているのか。(ある調査によれば)上昇傾向が見られ、93年~95年調査と比べても明確に低下してはいない
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/17/04/05042302.htm
---
「教育についての科学的な検証に従事している者が一人も含まれない」事態は、なぜ引き起こされたのだろう。
そもそも、教育の「有識者」って「誰」のこと?
どういう人のことをさすのか?
投稿者 jun : 2007年01月29日 07:56 | トラックバック
コンセプトを決めることの重要性 DSとWii
モノをつくるにあたって、最も重要なことは「コンセプトを決めること」である。
「そもそも誰が使うものなのか」
「何のために開発するのか」
「そのモノを使う人が、どういう生活を実現できるのか」
こうした基本的な事柄を、誰にでもわかる言葉で、しっかりと決めておく必要がある。コンセプトが揺らぐと、すべてが揺らぐ。コンセプトが無ければ、曖昧なものができる。
逆にいったんコンセプトを決めてしまえば、あとは「カタチ」をつくることである。
昨今の開発物で、コンセプトが秀逸だったのはNINTENDOの「DS」と「Wii」であると思われる。
NINTENDO DSのコンセプトは、
・5歳から95歳まで
・誰もが同じスタートライン
である。
Wiiの方は、
・家族の誰にも敵視されない
・年齢・性別・ゲーム経験を問わない
・家族全員にとって自分に関係のある存在になる
・毎日電源をいれてもらう
ということで、基本的にはDSの路線を踏襲している。
そして、このコンセプトに基づいて、DSの方はタッチスクリーン、Wiiの方はセンサーリモコンを実装しているのは周知の事実だ。コンセプトがカタチを伴った好例だと思われる。
しかし、ともすれば実際の開発現場では、カタチがまず何にも先行してできあがっていて、それからコンセプトを後付で決めることを強いられたり、「カタチの高度化」自体がコンセプトになってしまう場合が、見受けられる。注意が必要だ。
ともかく、1にコンセプト、2にコンセプト、3・4がなくて、5にコンセプトである。そのためには、開発全体を100だとするならば、半分程度の資源をさいてもよいと個人的には思う。
投稿者 jun : 2007年01月28日 10:35 | トラックバック
リーダーシップを発揮したのはいつ、どんな時ですか?
現在、アメリカでMBAを取得している後輩のK君が、自分のblogで「アメリカでの就職面接」について書いていた。非常に興味深かったので、この場でご紹介したい。
それによると、
---
1.アメリカと日本の就職面接は違う
2.アメリカの就職面接は下記の3つから構成されることが多いように思われる。日本の面接は、主にgeneral questionが多い。
・General Question
- 略歴
- 志望動機など
・Behavioral question
-「~のスキルを発揮した時のことに
ついて教えてください」というもの
- 例えば「リーダーシップを発揮した
ときの出来事について教えてください
- 「Problem - Action - Result」という
風に整理して話すと好印象だとか
・Case question
- 短いケースを使って、業務知識・技能を
見るもの
---
とのことであった。
僕としては、特に「Behavioral question」に興味をもつ。「Behavioral question」とは要するに「自分が活躍したときの出来事をエピソディックに、わかりやすいストーリーにして語ってください」ということだ。
なぜ、僕がこの問いに興味をもつかというと、僕自身が「面接をする側の人間」としていつも忸怩たる思いをしているからだ。
僕の少ない経験からすると、ほとんどの志望者が苦手とするのが、この類の質問のように思える。エピソードを語る、ストーリーをつけてわかりやすく喋ることが本当にできない。
多くの学生は面接で、
「わたしはリーダーシップがあります」
と述べることができる。通り一遍の回答だ、意志の表明といってもよい。
だけれども、こちらが
「どんなことでリーダーシップを発揮したのですか」
と問うと、途端に顔が曇っちゃうことが多い。
「中学の頃、バスケ部の主将をしていて、そのときにリーダーシップを発揮しました」
くらいが関の山だろうか。
「どんな問題が生じて、あなたがどんな行動をして、どんな結果が生まれたか」
面接官はそういうエピソディックなストーリーをを求めているのに、それ以上、話が全く具体的にならない。
なぜ、そういうストーリーを求めるか。それは、短い時間で、その本人の人となりを把握しなければならないときに、ストーリーによる理解が、最も認知的負荷が低く、かつ、弁別可能性が高いからである。
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大寒を過ぎ、春の足音が聞こえ始めてきている。梅が咲いたという話もきいた。これから、いろいろな場所で、面接がおこなわれるだろう。
これから面接に出かける人は、ぜひ、「ストーリーで語ることを練習する」といいと思う。
投稿者 jun : 2007年01月27日 08:52 | トラックバック
「コミュニティ」と聞いたらご用心!
誰かが「コミュニティ」という言葉を口にしたら、まず疑ってかかる必要がある。
「その人」を疑え、というのではない。その人が、何を指し示して「コミュニティ」といっているのか、について言外の意味を含めて、注意深く類推する必要がある。
ベネディクト=アンダーソンのいう集合的虚構としての「想像の共同体」から、「セカンドライフ」風の最新ヴァーチャルコミュニティまで、コミュニティの意味は多様に広がっている。
---
僕の研究に近い学問領域でいえば、教育学の人がコミュニティという場合と、工学の人がコミュニティという場合は全く意味が異なる場合が多い。
教育学の人がコミュニティという場合は、「ある複数の人によって「共有できる実践」があり、各人がそれに相互に貢献しあっているような集団」を想定していることが多い。いわゆるエティエンヌ=ウェンガー流の「コミュニティ」である。
ところが、工学の人が「コミュニティ」という場合は、中心に「共有された実践」がない。むしろ、顔も名前も知らないのだけれど、ある関心をもった人たちを称してコミュニティといっている場合がある。相互貢献性のニュアンスはやや薄い。
---
まぁ、僕としてはやはり教育学風の「コミュニティ」に親近感を覚える。ただ、それに共感しつつも、「コミュニティ」というのを人に説明するのは、本当に難しいなぁ、と日々思っていた。
そしたら、先日、友人のK君のblogで、ある経営学者の言葉が目にとまった。
コミュニティとは「共通の記憶」をもつ集団である
うーん、わかりやすい。
今度から、そういって説明しようとネタ帳に書き込んだ。「共通の記憶」か。なるほどなぁ。そんな気がするなぁ。
投稿者 jun : 2007年01月26日 10:07 | トラックバック
関西大学・集中講義の準備
実は、来週月曜日、火曜日と関西大学総合情報学部で、集中講義(集中ワークショップ?)があります。
招いてくださったのは黒上先生です。先生と相談した結果、内容は、僕のこの10年の研究を振り返りつつ、今やっている新しい研究3つについて紹介する、ということになりました。研究方法論について話す、というオマケもある(これが難題・・・結局研究紹介の中で話すことになりそう・・・)。
今、そのための資料をつくっているのですが、ハッキリ言って、今にもクタバリそうです。もっと早くからやっときゃよかった。読んで欲しい論文を探すだけでも一苦労です、整理できない男なので。
考えてみれば、時間数でいえば、講演5本から6本分の内容があるんだよなぁ・・・。見積もり誤った・・・完全に。また始発出勤かよ・・・。
それにしても、こうして振り返ってみると、いろんなことをやってきたなぁ・・・。何だかビミョーに一本の線でつながるようで、つながらないような(笑)。自分にとっても、いいリフレクションにはなります。
関西大学の方々、お会いできることを愉しみにしています。
投稿者 jun : 2007年01月25日 04:50 | コメント (1) | トラックバック
だけど、僕にはチチがない
先日、ある雑誌を読んでいたら、男性の育児参加についての「特集」がありました。以前は、こういうページには全く興味がなかったのだけれども、最近は自然と目がとまってしまうから不思議ですね。
記事ではいくつかのアンケート結果を紹介していました。
ちょっと長いけど、下記、引用してみましょう。
---
Q.パパも育児に参加するのがアタリマエである?
パパもするのがあたりまえ・・・78%
ママに頼まれたら手伝う程度・・17%
そもそも男にはできない・・・・3%
妻がするべき・・・・・・・・・2%
(おはよう赤ちゃん調べ)
---
Q.夫の育児行動率
20代後半・・・29.5%
30代・・・・・18.9%
40代・・・・・5.3%
(国民生活白書)
---
Q.六歳未満児のいる男性の育児時間
日本・・・・・・25分
アメリカ・・・・1時間13分
イギリス・・・・1時間
フランス・・・・40分
(少子化社会白書)
---
Q.子育ての役割分担
理想
妻6:夫4(40%)
現実
妻8:夫2(29.3%)
妻9:夫1(29.1%)
(子ども未来財団)
---
「育児をしない人をパパとは呼ばない」のコピーの効果なのかね、これは。
要するに、「若い世代ほど、育児に参加することは当然と思いつつも、仕事のことなどを考えると、なかなか育児に参加できない・・・役割分担がうまくいかない」という現状が見て取れるでしょうか。
このほか興味深かったのは、「パパとママが育児について話すほど、ママが育児を楽しいと思う比率は高まる」という調査でした(子ども未来財団)。そうだよなぁ・・・大変だもんなぁ。
---
僕の場合は、「おむつ替え」「あそぶ」「お風呂」「ミルクでの授乳」などを一応すべてやります。パパ云々もあるけれど、研究者としての(不純な?)興味もあるから、まぁ、一応はすべてやる。
ただ、それがどの程度の割合かっていうと、うーん、難しいね。まぁ、日にはよりますが、6:4には絶対になっていないと思う。授乳は、やはり「おっぱい」の方が多いですし。
もしもオチチがあったなら
だけど、僕にはチチがない
君に飲ませるすべもない
とか、西田敏行風にふざけて歌っているけど。
まぁ、今は妻が産休中ですが、これが仕事復帰したらどうなるんだろうなぁ・・・。どういう割合で分担することになるのかな。まぁ、やってみるしかないのだけれども。

投稿者 jun : 2007年01月24日 09:32 | コメント (7) | トラックバック
残された時間は・・・
最近の研究ノートより、下記引用。
---
「公立校を地域の"学びのコミュニティ"として再編しよう」とする教育思想の、最もナイーヴな点は、コミュニティを中心とした地域の「再編」や「再構築」をコーディネーションできる専門性のある人材が、そもそも全国に多いわけではない、ことにあるのではないかと思われる。
もし、それを中軸原則として、公立校や地域を再編しようとするならば、それが可能な「専門性のある人材」を育成することにも取り組まなければならない。
現在のところ、"学びのコミュニティ"は、研究者のアクションリサーチを主導として展開されることが暗に期待されている。が、そういう研究者や、研究マインドをもった実践家は、それほど多いわけではない。
一言でいえば、
まー、それでもいいけど、で、誰が、やんの?
これである。
---
もう1点ナイーブだと思われる点は、"学びのコミュニティ"が、自己目的化してしまうことにある。
ともすれば、「学力低下論」や「基礎学力の向上」などの社会ニーズに対して、それとは全く逆の立場として、「学びのコミュニティ」を位置してしまう傾向があるから、話がややこしい。
圧倒的に社会ニーズの高まっている学力低下論に相対するものとして、それを布置してしまうと、いわゆる「基礎学力か、学びのコミュニティか?」という単純な二項対立に議論が回収され、本来理論がもっていた豊穣さ、可能性が失われる。
事実、
「学校が学びのコミュニティである方がいいですか、それとも、百マス計算がいいですか?」
という二項対立図式を持ち込んだ質問を(本来は二項対立になるわけがないんだけど・・・)、保護者に問うた場合、前者を選ぶ人はほぼ皆無だろう。
たとえ、教員や学校長が、「後者を選びたがる保護者」を何とかかんとか説得しようとしても、非常に困難であることが容易に予想される。
本来、「学びの共同体」は、学校と社会の組織原理であるはずだ。つまり、「よい教育」を実現するための「手段」のひとつであって - つまりは市場における競争を中軸原則とした教育理論がその「手段」のひとつであるのと同じように - 「目的」ではない。ところが、これが自己目的化してしまうことが多い。
---
一方、これに対する新保守主義的な教育改革にも、ナイーブな点がある。「なぜ、競争を経れば、教育がよくなるのか」という内部メカニズムに対して、誰も説明していないことである。
正しくいうと、「競争によって、教育全体がよくなるのか、それとも局所的な教育がよくなるのか - つまりはすべての学校が底上げするのか、それとも、よい環境にある学校だけが、よりよくなるのか」全然わからない。
全然わからないのに、その内部メカニズムに関しては思考停止する。「何となく、民間オーライ、競争オーライ」の雰囲気のもと、教育改革が進行している。
昨今、いろいろ教師、学校の不祥事などが明るみになっているけれど、そういうことは、「民間」の人が担えば、「会社」が一部を担うようになれば、本当に減るのだろうか。
そんなに、みんな「ミンカン」を信頼しているのか・・・
と素朴に思う。「あのねー、ミンカンって言っても、いろいろあるぞ、いろんな人いるぞ」と思う。
どんな社会であろうと、一定の割合で社会的不適格な人物はいるし、やはり一定の割合で、組織は間違いをおかす。
ひとつの事件や事故をもって、ヒステリックに全体システムをそのたびごとに、場当たり的に替えることは、必ずしもよい結果を生まないように思う。それほどまでに不信感が募っているのだから、どうしようもないのかもしれないのだけれど。
---
ともかく、どちらの陣営も、「国民の議論が必要だ」というけれど、残された時間はそう多くない。
投稿者 jun : 2007年01月23日 17:00 | トラックバック
ワークショップ向けソーシャルネットワーキングサービス
「子ども向けワークショップのソーシャルネットワーキングサービス」というのができたとのことで、ある方にご紹介いただいた。ありがとうございます。
ちゃぷら
http://www.chapla.jp/
まだそれほど試しているわけではないのだが、プロフィールなどを入れてみた。オフィシャルコミュニティというのがあり、ワークショップに関する情報が流れるところが、専門SNSっぽいところだろうか。
それにしても、「専門のSNSをつくりたい」と思ったときに利用できるオープンソースのパッケージはあるのだろうか? あったら、結構ニーズがあるような気もする。
---
SNSといえば、先日、ある人から「女性から見た男性の嫌なところに関するアンケート」の結果を教えてもらった。女性限定SNS「キレイナビ」で収集されたデータらしい。
それによると、結果は下記である。
1位 飲食店などで、店員に偉そうにする
2位 割り勘で10円台まできっちり請求してくる
3位 蛾やゴキブリが出現したときに大騒ぎする
4位 食後に爪楊枝で思いっきり歯の掃除をする
5位 オフィスの机の上がフィギュアだらけ
6位 下着代わりの柄モノTシャツが、
Yシャツの下から透けている
7位 車の駐車が下手
8位 職場ではスーツ姿が決まっているのに、
私服がイマイチ
9位 電車の中で携帯ゲームに夢中になっている
10位おしぼりで顔を拭く
小生、見事に3位、10位にランクインだと思われる(8位などは、そもそもスーツを年に数回しか着ないのでわかんない)。
気をつけよう・・・でも、おしぼりで顔をふくのは、やめられそうにないなぁ。後ろむいて「こっそり」やればいいのね?
---
そして人生は続く
投稿者 jun : 2007年01月23日 08:28 | コメント (5) | トラックバック
12の春
昨今は、「18の春」ならぬ「12の春」である。
本年度、私立・国立中学受験をおこなう12歳は、40万人になると言われている。
特に、都心は激烈な進学競争が予想される。本日の朝日新聞記事によると、もっとも高い進学率を示しているのは、千代田区39.5%、港区37.4%らしい。
受験が集中する日には、「クラスメートの7割が欠席してしまう」という異常事態も発生してしまう。
公立校を避け、私立中学受験を志向する理由は、いくつかあげることができる。もっとも大きな理由は、下記の2点だろうか。
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1.私立では「こういう生徒を育てるために、こういうカリキュラムをつくっている」と親に明示し、その結果をアカウントしている
2.いじめなどの問題行動をおこした生徒に対して、断固たる態度がとれる(ゼロ・トレランスポリシーなど)
---
これはウラを返すと、「公立校では、1も2もできないだろう」と、親自身が認識し始めているということだろう。
「子どもを預かる学校ならば、このくらいはやって当然なのに、それさえちゃんとやっていない」と公立校を批判する親は多い。一言でいうと、親は教育を「消費」するものだと考え、学校は「サービスの提供機関」だと思っている。だから、「サービス機関だったら、そのくらいやってアタリマエ」の、サービスクオリティを学校に求め始めてきている。
かくして「公立学校に対する不信感」と「そのオルタナティブとしての私立学校に対する信頼と依存」が渦をまいている。
いったん親がこういう認識にたってしまった場合 - つまり、「今まで公立学校がなしえなかったことが、当然、学校が果たす義務だ」「学校はサービス機関なのだから、それくらいのことはするべきだ」と、ある一定以上の数の認識された場合 - には、もう公立学校は、今のままではいられない。
「いいや、そもそも公立校とはそういうものじゃない」とか「そもそも教育の公共性とは・・・」という、そもそも論からはじめても、説得力はゼロに近い(はじめたい気持ちはよくわかる)。
なしえることは、ひとつ。肥大化する親の希望をある程度満たしつつも、社会基盤を構築する役割を担うこと。つまりは、公共性を保てるような「第三の道」を模索することの他はないと、個人的には感じてしまう(専門的な議論は専門の方におまかせする)。
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そういえば、先日、教育再生会議は、下記のような7つの方針を提出した。
1.ゆとり教育を見直し、学力向上
▽基礎学力強化プログラム
▽習熟度別指導の拡充
▽学校選択制の導入
2.学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする
▽出席停止制度を活用
▽反社会的行動に対して毅然たる指導
3.すべての子供に規範意識を教える
▽道徳の時間の確保と充実
▽高校での奉仕活動の必修化
4.魅力的で尊敬できる先生を育てる
▽社会の多様な分野から大量に教員採用
▽メリハリある給与体系で差をつける
▽不適格教員は教壇に立たせない
5.保護者や地域の信頼に真に応える学校にする
▽教育水準保障機関による外部評価
▽管理職に外部の人材を登用
6.教育委員会のあり方見直し
▽危機管理
▽教職員の人事権を移譲
7.社会総がかりで子供の教育にあたる
---
上記の施策に対して細かいことを問えば、「学校選択制度導入すれば、なぜ、学力が向上するのか」「教員免許をもたない民間人を大量採用すれば、なぜ、魅力的で尊敬できる先生になるのか」など、おおよそ、論理飛躍・根拠レスとしか思えないようなものが散見される。「誰のアタマの中で、この理屈が立派につながってるんだろう・・・」と訝ってしまう。しかし、個々の施策の是非に関しては、ここでは敢えて問わない。
要するに、再生会議がやりたいことというのは、
「公立校に、私立学校なみのスタンダードを導入しますよ。ひいては、競争環境の中で、質を向上させていってほしいねー」
ということだと思う。
一言でいうと、教育再生とは「グローバル化の流れに教育をのせること」であるらしい。トマス=フリードマン風にいうのなら、「グローバル化のための黄金の拘束服を公立校にも着てもらうからね!」ということになるのだと思う。
いったん公立校が「黄金の拘束服」を来てしまえば、「公立校」という聖域が瓦解し、「公立校以外」との「境界」が曖昧になっていく。その先には、果てない競争空間が広がっている。
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是非はともかくとして、こうした流れ、つまり「教育のグローバル化」は、私たちが望む、望まないにかかわらず(私たちが世界の王だったら話は別だけど)、不可逆に進行するのではないか、と僕は予想する(あくまで予想する)。それは「教育の世界だけで完結するスタンダード」ではなく、「冷戦以降の世界秩序のスタンダード」であるからだ。
問題は、もはや2社択一問題ではない。いわゆる「調整問題」である。こうした流れを「やり過ごしつつ」も、教育のもつローカルな特殊性をいかに守ることができるか、ということにあるのではないか、とため息混じりに思ってしまう。
---
話を元に戻す。
僕も一人の親として、我が子が10年後、どのような進路をとるのか、考えないわけにはいかない。
タクが「中学受験をするか、しないか」を決定する時期になったとき、僕らの目の前には、どのような「教育空間」が広がっているのだろうか。そして、その教育空間は、我が子が幸せになれる場なのか、そうでないのか。
親として、いつかこの問題に直面するべき時は、必ずくる。そして、そのことは、子どもをもつ決断をする前から、僕は、教育学者としてわかっていたつもりである。
それにしても、想像力をフルに働かせ、感情レヴェルで、この問題を見つめるとき、やはり「12の春」は厳しいと言わざるをえない。そりゃ、うまくいけばいい。だけれども、確実に「人生のはやい段階で失敗する大量の子ども」が出てくる。その果てに重松清的な世界 が待っていないとは限らない。
親としては、そのことを考えるだけで、やるせない。
投稿者 jun : 2007年01月22日 05:00 | コメント (1) | トラックバック
子どもの成長は、リセットも、リプレイもない
とうとう親子3人になった。
ここ1ヶ月半は、妻の実家にお世話になっていたのだけれども、ようやくタクと親子3人で暮らすことになった。
タクの成長を見守れることは喜びであるけれど、不安といえば、不安がないわけではない。僕たちのように、夫婦両方が地方出身者である場合は、困ったときに誰も助けてくれる人はいない。
普段何も問題がないときは、まだいい。ただ、病気をしたとき、それに僕の出張が重なったときなどは、いったいどうなるのだろう、と思う。さらに妻が仕事に復帰したあとは・・・。
ただ、もう何とかかんとか、愉快に生活していく他はない。僕らには、それができる。そう自分たちを勇気づける。
---
ここ1週間でタクにおこった変化は下記のとおり。

・僕や妻の姿を目で追うようになった
・僕や妻が顔をのぞき込むと笑うようになった
・夜は12時から7時あたりまで寝るようになった
・夕方に、なぜかグズルことが多い
・指しゃぶりが多くなってきた
・屁の圧力がすごい。思わずこのまま
空を飛ぶんじゃないかと思ってしまう。
もし飛んだら、「世界びっくり人間大賞」
にエントリーしようと思う。
・夕方、もっともクソ忙しい時間にウンコをする。
もはやリキッド型ウンコではない。
むしろペースト状。においは変わらず。
---
子育て支援ツールとして、電動スイング器をレンタルした。ここに寝かせておくと、寝てしまうというシロモノだけど、タクには効くだろうか。

数日つかった感じでは、あんまり効いていないような気もする。今のところ、反応には再現性がないため、効果を見極めるのが難しい。
---
それにしても、タクと過ごしていると・・・というか、彼をケアしていると、1日がたつのはあっという間だ。上から飲ませれば、下からでる。たとえば、今日は2時間に6回もおむつを替えた。
肉体的にも、精神的にも結構タフな作業である。イヴァン・イリッチ風にいうならば、これこそが、いわゆるシャドウワーク(shadow work)そのものなのだろう。
子どもというのは、親の時間やパワーを、チューチューと吸い取りながら、大きくなるのだなぁ
と実感する。
かつては、僕もカミサンもそうだった。僕たちは、自分たちの親の時間とパワーを吸い取って、ここまで大きくなった。
「子育てをするようになったら、自分たちの親に対する見方が変わる」と言われことがあったけど、それは正しいなぁと思う。
---
ともかく・・・明日はまた来る
子どもの成長は、リセットも、リプレイもない。

投稿者 jun : 2007年01月21日 17:41 | コメント (4) | トラックバック
今日も、明日も、明後日も決して楽にはならない
今、こんなに頑張っているのだから、いつかは必ず楽になるハズだ
はじめての受験に苦しんでいる高校生、博士論文を夜な夜な執筆している大学院生、深夜まで残業して働くサラリーマン、起業したての新米社長・・・
「いつかは必ず楽になる」・・・今、辛い思いをして頑張っている誰もが、そのことを夢見て、今を生きている。
しかし、僕の経験に関する限り、この認識は間違いであるように思う。
世の中は、明日も明後日も、その「次の日」のために走り続けなければならないようにできている
つまり、ユートピアはない。ミもフタもないけれど、これが「真実」ではないかと思う。
はじめての受験が終われば、次の受験がある。博士論文を執筆しおえれば、就職がある。疲れたカラダをひきずって家に帰れば、明日もまた出勤しなければならない。
今日は、明日のために走り続ける。明日は、明後日のために走り続ける。それが、生けとし生きるものの宿命であるように思う。
もしそうだとするならば - 「我々が走り続けなければならないこと」を引き受けなければならないのだとしたら、どのように対処しなければならないのか。
それは「走り方」を工夫することである。立ち止まることが許されるのなら、「走り方」を考えるしかない。
僕はいつも思うことがある。
決して、全力疾走をしてはいけない!
適当なところで、いい加減な頃合いで、力を温存しながら、陽気に走るべきだ、と僕は思う。
僕らは、学校で「手抜きはダメ」として教えられた。「何事にも全力疾走せよ」と教えられた。しかし、学校においては「コレクトなこと」は、世の中で、必ずしも「コレクト」とは限らない。
学校の課題は一瞬で終わる。しかし、人の一生は本当に長いのだ。それは終わりなき旅のようにも思える。
僕の人生も、そして、あなたの人生も、明日は決して楽にならない。明後日も楽にならない。
そんなキツイ道中、陽気にいくしかない。
投稿者 jun : 2007年01月21日 05:00 | トラックバック
人間の味覚は変化する
人間の味覚というものは、成長(加齢?)に従って、変わっていくものだと切に思う。
思春期の頃は、一番好きなものは「肉」、二番目は「肉」、三番目も「肉」だった。つまりは「肉肉肉」。
夕食に「魚」や「野菜」がでていようものなら、「がっくりと項垂れていた」ものが、二十歳を超える頃から、味覚が変わってくる。
だんだんと「魚」が好きになり、「野菜」が好きになる。今では、ほとんど「肉」は食べない。ヴィーガン(完全無欠のヴェジタリアン)ではないものの、かなり「野菜」を好む方である。
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「肉から魚・野菜への味覚の変化」の他に、昔は嫌いだったものが、好きになってくる場合もあるから不思議だ。
たとえばブルーチーズ。
生まれてはじめてそれを食べたときには、そのあまりの独特の臭いに驚愕してしまった。
口の中から「すかしっ屁」がでてきたような感じがして、思わず、ひょえー、と吐きだしてしまったのを覚えている。
それが不思議や不思議。今となってはチーズの中で、かなり好きな部類に入ってしまっていたりする。赤ワインを飲みながら、クラッカーにブルーチーズをつけて食べるのは、この上ない幸せだ。
人間の味覚なんて当てにならない。そして、おそらく、今の僕も、変化の途上にいる。
これから僕は何を好きになるのだろう。まさか、大嫌いな「納豆」も食べられるようになるのだろうか。
それは想像するだけでも、おぞましいけれど。
投稿者 jun : 2007年01月20日 05:00 | コメント (1) | トラックバック
このメッセージの「宛先」は誰?
今度、講義で使おうと思って、「情報教育の実践を収録したビデオ」を、ざーっと見ていた。
「子どもが何かを調べる - 発信する」というかたちの授業が多かった。「発信する」の部分では、子どもにニュース番組をつくらせたり、Webをつくらせたりしている(つくっているのは教師である・・・)。
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しばらく見ていて、なんだか違和感を感じてきた。
「発信する」の部分でつくられるWebや番組が、いったい「誰」に向かって発信しているのか、わからなくなってきた、からだ。
通常、わたしたちが何かのメディアで何かを発信するときには、「発信された情報」を受け取るターゲットが想定される。Webサイトでもそうだし、テレビ番組だったら、なおさらだろう。
「発信」という活動において、「メッセージの宛先性」はもっとも基本的なものである。
でも、僕が見た実践は、どちらかというと、「Webサイトをつくること」「テレビ番組をつくること」が自己目的化しているように見受けられた(あくまで僕が見た授業に関する、僕個人の感想である。情報教育の授業全般に私見をあてはめる気は毛頭ない)。
見ていて、何となくこちらが気恥ずかしくなってしまうというのか、どこか「内輪ウケ」っぽく見えてしまうのは、そのせいではないかな、と思った。
メッセージには「宛先」が必要だ。「自分の言葉を受け取る人」のことをいったん意識すれば、発信の目的、メッセージの構成、そこで使われる言葉・表現が、よりシャープになるのではないかな、と思った。
単に「伝えて・まとめよう」だけではなく、たとえば「低学年の子どもにわかるように伝えよう」とするだけで、目的や内容がよりくっきりするのではないか、と思う。
「宛先」の想定されていないメッセージは、口に出した途端、目の前に、すっと虚ろに落ちてしまう。
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ここまで考えて、ふっと我に返った。
僕は、「誰」に向けて、このblogを書いているのだろう?
「誰」に向けて???
投稿者 jun : 2007年01月19日 17:23 | コメント (3) | トラックバック
携帯電話のアドレス帳とネットワークサイズ
この一週間は、またまた激務だった。いろいろな研究プロジェクトが、またもや佳境に入っている。同時に、学内の仕事もピークに達している。ぎゃぼ。つーか、眠たいぜ。
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今日は、朝っぱらから、「企業OJTの成功度を測るための質問紙開発プロジェクト」のミーティングだった。北村君(東大)、荒木さん(東大)との共同研究である。
このプロジェクト、半年の下調べをへて、いよいよ質問紙調査作成の段階に入っていた。
が、なんと、ここにきて、いくつかの理由から、プロジェクト名が「OJTプロジェクト」から「Workplace Learningプロジェクト」に変わった。ひょえー。
「おいおい、プロジェクトタイトルを変えるだなんて、そんな研究の根幹を変えてしまっていいのか、今になって」という気もしないでもないけれど、「これでいいのだ、パパなのだ」と自分を納得させる(意味不明、わかるかな、年齢がバレる)。
ここ半年、海外文献の購読、日本の先行研究の調査、インタビュー調査をシコシコと続けてきたが、そこで得られた情報の多くが、今日の「プロジェクト目標の大転換の英断?」を支持するのだからやむをえない。
頑張ろう、明日からも頑張ろう。
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ところで、今日の研究会では、オモシロイ研究の知見を聞いた。
人口一万人以上の都市にすむ若年層なら、携帯電話のアドレス帳の登録数が、その人のネットワークサイズ=知人の広がりをはかる指標になる
のだそうだ。
ちなみに、僕は、324件のアドレスが登録されていた。もちろん、中には「本郷の激安飲み屋 白糸」「マッサージ屋 もみ吉」みたいな、しょーもない登録もあるのだけれど。
この数字は、多いのだろうか、少ないのだろうか・・・。
よーわからんが、ほほーと思った。
皆さんの携帯電話のアドレス帳の登録数はいかに?
投稿者 jun : 2007年01月19日 00:38 | トラックバック
赤ちゃんは赤ちゃんでも・・・
生後1ヶ月20日くらい。最近のタクに起きてきた変化。
・視線があうように感じるときがある
・より笑うようになった
・あー、うー、など声をだすようになってきた
・ウンコの間隔が長くなってきた
・僕が話しかけると、黙って聞き耳をたてることがある
・抱き癖がついてきた
(以前はハラ減ったときと、下の世話のときだけ泣いたのに)
先日読んだ研究知見によると、
・赤ちゃんに話しかける母親の発話には、長母音が多く含まれる。
という結果を見た。
ほほー。
赤ちゃんの発話も、長母音からはじまるので、そこには何らかの関係があるのかも。
こないだ読んだ論文にはこんなのもあった。
・感覚刺激のないところで育った赤ちゃんの脳の重さは、豊富な感覚刺激に囲まれたところで育った赤ちゃんよりも、統計的有意に軽かった
ちなみに、こちらは赤ちゃんは赤ちゃんでも、ネズミの赤ちゃんですけれども。

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■UT Open Course Ware(東大オープンコースウェア)
東京大学の講義資料、講義ビデオを無料公開中!
・小柴昌俊教授「学術俯瞰講義」
・藤本隆宏教授「経営管理」
・高橋伸夫教授「経営」
・丹野義彦教授「認知臨床心理学」
・佐々木毅前総長ら「学術俯瞰講義」
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投稿者 jun : 2007年01月17日 19:46 | コメント (2) | トラックバック
ザ・転移 : 東大で学習科学の研究会が開かれた!
転移とは、踏み絵である
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転移とは、わたしたちが学ぶ際に、「ある文脈で学んだことが、新しい別の文脈でもうまく適応して、何らかの影響がでること」をいいます。
先にやった学習の結果で、あとで学ぶことが促進される場合を「正の転移」、悪影響を与えてしまう場合を「負の転移」という風にいいます。
より一般的な言葉でいうと、「正の転移」は、「何かを学んだ結果を、あてはめたり、組み合わせたりして、あとでの学習が、よりよく進んでしまうこと」ですね。あんまり負転移に関しては扱われないので、ここでは割愛します。
で、この転移が、なぜ「踏み絵」かというと、これほど定義も大揺れで、実験結果も全然一致しなくて、かつ、研究者の広範な関心を読んでしまっていることも珍しくないからです。
まず転移の定義からして大揺れ。人によってぜんぜん違う。さらに結果も大揺れ。人によっては、転移なんて存在しない、という人もいる。それ言っちゃ、おしまいよ。
まぁ、これだけだったら、「研究者の間の論争」ですむんだけど、転移というのは、教育システムにとっては、かなり重要で重大な問題なんです。
なぜかっていうと、「学校教育」、そして「学校で教えられる知識」というものが、転移に前提にしている教育システムだからです。
たとえば、学校ではいろいろな基礎的な事柄を学びますね。これを学んでおけば、実世界にでて役に立つ、ということを前提にして、いろんなことを積み上げて学んでいくのが、学校なわけです。
もし、学校で学んだことが、実世界で全く役に立たない、というのであれば、つまり「転移」を前提にしないのであれば、学校教育というシステム自体が、かなり怪しくなる・・・。「なぜ学校で学ぶのか」ということがちょっと脅かされるのですね。
転移があるのかないのか。それは可能なのか。
また、転移に対して、どういう態度をとるか。
そんなわけで、転移は研究者にとっては、「踏み絵」みたいなものだよなぁと思うのです。
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ところで、転移は、今、なぜ学習科学にとってホットトピックになっているのでしょうか。
よく知られているように、転移研究はソーンダイクからはじまっあったと言われています。ソーンダイクは、「課題の共通性が高いのならば、転移が起こるもんねー」といったのですね。
この後、いわゆるクラシカルな転移研究がはじまっていきます。もっともよく知られているのは、ホリオークの研究ですね。
この時代になると、転移研究に、頭の中の構築物(constructs)が想定されるようになった。「2つの問題の心的表象による類似性が重要だ」と言われるようになってきます。
その後、1980年代後半から90年代前半にはいり、認知革命といわれる知的潮流が起こった。Lave & Wengerが、転移を批判し始め、転移が疑われます。
ちなみに、僕が学部生の頃は、「転移、そんなもん古くさいもん」という感じでした。熱狂的に状況論が流行していた時代だった。転移がいかにきかないか、という論文ばかり読んでいました。
それから10年・・・
現在、Lave & Wenger的なsocio culturalな理論と、従来の認知理論が、ようやく歩み寄りを見せようとしている感じに、今、あります。
ーーー
今日は、東京大学で学習科学の研究会が開かれました。テーマは、ザ・転移!

読んだ本は下記です。
あと、Journal of learning scienceの最新号ね。これは転移の小特集が組まれています。
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その中に収録されている論文で、僕が興味をもったのは、下記かな。
まずは、Engleの研究。
彼女の主張を一言でいうと、
学習する文脈と転意の文脈の関係性があれば、転移はおこるのだ
ということでしょうか。文脈間関係性(intercontextuality)という概念を提唱しています。
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最も興味をもったのは、やはりシュワルツ&ブランスフォードさんの「preparation for learning」の論文。
一言でいうと、転移というのを短期間の現象という風に、解釈せずに、「未来の学習への備えができ、そのことで成果があがるんだ」と考えようということですね。
彼らは、「転移はすぐにおきるわけではない」のに、「多くの心理学研究では、転移をわずか数分の遅延テストではかっている」と批判しています。
で、彼らがとった方法はこうですね。ある問題Aを学ばせたあとで、同型の問題B(common learning resources)をいったん学習させる。
そうすると、問題Aの影響を受けて、問題B(common learning resources)の学び方が変わってくる。で、その学習Bの異なった学び方のおかげで、転移課題Cの結果がかわるよ、ということですね。
シュワルツさんのこうした研究の背景には、「一度勉強したことは無駄にはならん」「過去の経験は、学び方を変える」という信念があると思われます。
教育工学屋としては、問題Bの与え方をどのようにすれば、問題Cの結果がどうかわるかが、とても興味がありますね。要するに、問題B、つまりは、Common learning resourcesのデザインの仕方についてです。
---
ちなみに、僕は、Pellegrinoの論文の短く紹介したのですね。評価研究で有名な人です。
この論文は、「評価」と「転移」の解説の論文ですが、その説明の中に、いわゆる行動主義、認知主義、状況主義、みたいな記述がでてくる。それらのキーワードをつかって、「評価」と「転移」のフレームワーク(要は分類・整理)づくりをしました、という論文。
行動主義、認知主義、状況主義・・・・この3つのキーワードね、15年前くらいまえから結構使われるタキソノミーだったのですが、そろそろヤバイね。
現在の学習科学の進展を見ていると、この分け方が、かなりドキュソだな、と思いました。
自分の若い頃は、これで学んだし、僕自身も論文でさんざん使っていたけどなぁ・・・。
嗚呼。
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研究会は、北は北海道、南は京都まで、全国から16名の方々が集まりました。三宅まさき君のコーディネートです>ありがとう&お疲れ様でした。
中には、転移で学位論文をお書きになった先生もいらっしゃっていて、転移研究の難しさについて、お話ししていました。
「インストラクションがちょっと変わるとすぐに結果がかわる」「学生のレヴェルが少し変わると、すぐにかわる」
本当に転移研究は難しいですね。
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それにしても、なぜsocioculturalな理論と、いわゆる従来の学習科学の理論が歩み寄りを見せているのでしょうか。
研究会に参加なさったある先生が、こんなことを教えてくれました。
米国では、NSFの支援をうけて、Learning Science Centerを全米にいくつも建設する動きがでてきています。Learning Science Centerは、やはり今までやってきた心理学、そしてSocio Culturalな研究者、脳科学、教育学を統合して、「学びの科学」の統一理論をつくろうとすることで、生き残りをかけている。理論融合が最近進んでいるのは、そういう影響もあるのでしょうね。
・・・なるほどねぇ。
そういう点でいくと、日本のこの分裂状況は、かなりマズイよなぁ。
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また、ある脳機能測定をなさっている先生の言葉も印象的だった。
fMRIを活用した現在の脳機能測定は、比較的短いシンプルな課題を繰り返しおこなって、同じような傾向が見えるときにようやく同定できる程度です。
転移のように、長期間継続する、高次の認知的課題に関しては、現在の測定装置では追うのは難しいですね。
なるほど・・・。
融合するといっても、簡単な話じゃないねぇ。
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いろいろ勉強になった一日でした。
最後は、転移についてよりわからなくなった(笑)
学習についても、さらにわからなくなった(笑)
・・・複雑だ・・・学んだとか、転移したとか、気軽に言えないよなぁ。
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ちなみに、研究会のレジュメは、公開してくださるそうです。参加できなかった方も、ぜひ、ご高覧下さい。
ともかく、本日の研究会、参加いただいた皆さん、お疲れ様でした。三宅君、重ねてありがとう。
投稿者 jun : 2007年01月16日 17:57 | トラックバック
あなたはどこで最期を迎えますか?:在宅で死ぬということ 押川真喜子著
あなたは、病院で最期を迎えたいですか? それとも家ですか?
誰に看取って欲しいですか? 医者ですか、それとも家族ですか?
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押川真喜子著「在宅で死ぬということ」を読んだ。聖路加国際病院 訪問看護科のベテランナースである押川氏が、10数年にわたって見続けた「在宅での死」の実話を綴っている。
「楽になりたいの、そう思うのはいけないこと?」とつぶやき最期を迎えた20歳女性。「いちばん大切なのはばあさん、人生悔いなしだなぁ」、と大往生を迎えた87歳男性。一口に「在宅の死」というけれど、人それぞれ。いろいろな「死」がある。
人間は、生まれてから一歩一歩、確実に死に向かって歩み続ける動物である。そういったのは、どの哲学者だったか。何人たりとも「死」を避けることはできない。ゆえに、本書で提示されている「死」は、決して他人事ではない。どのように生きるか、と同時に、どのように死を迎えたいか、ということは、誰もが考えなければならぬことである。
それにしても、訪問看護士というのはキツイ仕事だと思う。仕事で出会う人々は、ほぼ死を直前に控えた人たちだ。単に彼らを看護・介護するだけでなく、彼らの家族の精神的なケアもおこなう必要がある。
病院で仕事をするのなら、「医学」「検査データ」という後ろ盾をつかって患者や家族を説得することも可能かもしれないが、在宅ではそれもできない・・・。
一口に家族といっても、死生観は微妙に異なる。患者の死生観と家族のそれが異なることは、よくおこることである。
また在宅で患者を看護・介護するというのは、口で言うのは簡単だけど、とてつもない負担である。長期にわたることも多いし、ゴールなど、誰一人としてわからない。時には家族が病んでいく場合もないわけではない。
---
・・・僕は今年32歳になる。自分ではまだまだ「死」は遠いところにあると思っているけれど、それは誰もわからない。確実なことは、僕にも、いつか死は訪れる。
僕は、どのように死にたいか。誰に看取られて、最期を迎えるか。読みながら、深く考えさせられた。
投稿者 jun : 2007年01月14日 11:16 | トラックバック
おまえは世界の王様か! : 原田宗典を読む
原田宗典著「おまえは世界の王様か!」を読んだ。
爆笑エッセイストであり小説家の原田宗典さんが、若い駆け出しの頃につづっていた読書ノートを再読しつつ、現在、再びコメントをつけたもの。
三島由紀夫、大江健三郎、モーパッサンなど、泣く黙る文豪たちを、何の遠慮もなく、小気味よく切り倒し、時に賞揚している。その立ち位置は、あたかも「世界の王様」のような感じ。
一方、現在の原田さんは、当時の自分を「おまえは世界の王様か」とツッコミをいれつつも、どこか昔を懐かしむようなトーンで、コメントをしている。そのアンバランスが、とても微笑ましい。
---
どこかで耳にした台詞なのだが、
若い頃というのは「大いなる勘違い」である。
若い頃は「無知であること」「大いなる勘違い」をしていることによって、大言壮語が生まれる。「世界の王様」だから、「批判」も容赦はない。
しかし、時がたち身の丈を知り、世の中の実際の動き方を知るにつけて、「昔はビシッ、バシッ、ズバッと批判できたものが、できなくなっていく。
かつて変革しようと思っていた「世の中」にどっぷりとつかり、今度は「そちら側」に取り込まれていく自分に気がつく。自分の立ち位置が、かつて自分が批判していた側にあるという皮肉に鈍感になっていく。
やがて
「仕方ない」
「なんとかなる」
が口癖になる。
この2つの言葉は「無敵」だ。この言葉ですべてお茶を濁していれば、決して傷つくこともなければ、悲しむこともない。かくて「終わりなき日常」が続く。
---
おまえは世界の王様か!
我々はともすれば、若者を見て、そう思う。そういう若者を疎ましくも思ったりする。
しかし、若者が、たとえ様々なコンフリクトを生み出す可能性があったとしても、たとえそれが大言壮語であったとしても、世の中に無知あるが故の批判だったとしても、彼らのもつ「夢」「理想」を否定してはいけない。
むしろ、
「口だけじゃなくて、今やれ、すぐやれ、ただちにやれ」
と、けしかけなければならない。それが大人の作法だ。
確実なことが一つある。
夢や理想しか、現実になるものはない。
投稿者 jun : 2007年01月13日 17:00 | トラックバック
ベーグル道を行く:ハイアット福岡STAR26の黒蜜ベーグル
宿泊したホテルのすぐ近くで、たまたま入ったパン屋さんの「ベーゴー」が絶品だったので、ここで紹介。博多駅前「ハイアットリージェンシー福岡」の1Fにある「STAR26」の黒蜜ベーグルです。

〒812-0013
福岡市博多区博多駅南2-14-1
092-412-1234
http://www.hyattregencyfukuoka.co.jp/
まずは、もっちりとした食感。これは、本場ニューヨークのそれを思い出す。また、上にかかっている黒蜜の控えめな甘みが、ヘルシーでよろしい。もともと、ベーグル食べる人は、そういう志向をもっているはずだから。
ちなみに、隣で売っている「イチジクとチョコのベーグル」も素晴らしかった。チョコは口溶け柔らかい質のよいものを使っている。単に甘いだけでなく、イチジクの酸味との合わせ技がいい。
思わずお土産で8個も買ってしまった。博多まで行って、ベーグルを買って帰ることになるとは。あなどれん、博多のベーグル。
そして、僕はベーグル道をいく。今日も「飲み助の勘」を働かせて、ブラリ、パン屋に入る(飲み助の勘は、パン屋でもきくのだ!)。
どこか美味しいところあったら、教えて。
投稿者 jun : 2007年01月13日 09:37 | コメント (2) | トラックバック
スーパーシートでアタリ
福岡へのフライトでの出来事。あと2ヶ月で失効してしまうANAアップグレード券が余っていたので、スーパーシートを予約した。
そしたら、ボーナス!
山内千代殿(仲間由紀恵さん)を目撃した。思わず、「ちよぉー」槍を振り回して叫びそうになったけど、みっともないのでやめた。よく考えてみたら、「槍」もってないし。
スーパーシート1Aの席(一番前の一番左)は、たいていVIPがのることが多い。VIPであればあるほど、だいたい飛行機がでる間際に、駆け込んでくるので、すぐにわかる。
好きな女性芸能人がのったときは「アタリ」。政治家が乗ったときは「ハズレ」。スーパーシートに乗る機会があるたび、そんな「賭け事」を密かに一人楽しんでいる。
それにしても、仲間さんは細かった。
足なんか、ルパン3世みたいだった。
投稿者 jun : 2007年01月12日 15:31 | トラックバック
大トロ化するわたし?
先日、行きつけの寿司屋に、お昼を食べに行った。このお店は、夜に3000円以上でだしているお寿司を、ランチでは1000円で提供してくれる。僕は、非常に重宝していて、結構頻繁に通っている。
年末年始はご無沙汰だったから、この日は、久しぶりの来店だった。そんなこともあり、帳場の大将は、「今年もよろしく」ということで、その日入った最高の大トロをオマケでつけてくれた。

こういう、プチオマケは非常に嬉しい。「こちらこそ、今年もよろしく」と言いつつ、有り難く大トロ様を頂こうとした途端、フッと、ある考えが浮かんだ。
---
大トロとは、腹腔のまわりの脂身の部分を言う。大トロは、英語で「Fatty Tuna」というけれど、その名前からも、「脂のってますけんのー」という感じが漂ってくる。
「腹腔の周りの脂身」・・・・、てことは、人間でいうと、要するに下っ腹の脂身ってことになる。
てことは、いわゆる大トロとは、要するに今話題の「メタボな部分」じゃないのか?
・
・
・
いったんそう思い、大トロ様をマジマジと見ていると、今度は「メタボリックシンドロームっす、申し訳ないっす」という雰囲気が感じられる。
ここ数年はマグロの値段があがっているせいもあって、大トロは大変貴重だ。でも、要するに、ここは「メタボ爆心地」なのか・・・。そう思うと、何だか少し食欲が減退した。
(そんなことを言っては、病的脂肪肝であるフォアグラなんて食えたものじゃない)
---
結局・・・大トロはおいしくいただいたけれど、それを食べながらも、自分が「大トロになること」だけは避けたいな、と切に思った。
実は正直に告白すると、この正月で、僕は暴飲暴食の結果2.5キロも太った。「中トロ化」した、と言っても過言ではない。
まぁ、正月なのだから、「中トロ化」くらいはやむを得ないことなのかもしれない。でも、「大トロ」だけは、何としても避けたい。いや、避けるべきなのだ。
久しぶりにダイエットプログラムを発動しよう。
僕は一生「赤身」でいたい。
投稿者 jun : 2007年01月11日 23:25 | トラックバック
教育コンテンツ開発室
来年度から立ち上がる「東京大学 教育コンテンツ開発室」のことで、僕のアタマ・・・というか、生活はいっぱいいっぱいだ。
カネ、ヒト、スペース・・・・・・。
なんでこんなに複雑なんだろう、と思うんだけど、このための調整、交渉、書類作り、ルール作り、組織作り、予算折衝で、あっという間に一日が終わる。
これ以外に、「論文執筆」も「頼まれ原稿」も「査読」も「質問項目作り」も「実験計画づくり」もある。毎朝5時に起きて仕事をしていても、今、なおまだ終わらない(もうイヤになって日記を書いている)。まさに「エンドレス」である。
今日は、「嗚呼、今日こそ原稿が書ける」と思ったけど、実際、蓋をあけたら、研究室に入ってからというもの、すべてが会議、打ち合わせで終わった・・・。同僚に「中原さん、大学にきたら、そんなものだよ」と言われて少し悲しかった・・・。ゼミにも行けなかったなぁ。
もう少しこのような混乱はつづくのだろうけれど、やるしかない。やるしかないんだよ。
---
そんな中でも、嬉しいニュース。
最近、「新しいスタッフをチームに迎えること」ができた。
1月1日から、重田勝介君が特任助手として着任し、これまで外注していた「撮影・編集・デジタル化」の作業チームを率いていくことになった。とうとう、東大にも、教育コンテンツ専門の撮影クルーができる。
著作権処理の方は、本日、新しい学生スタッフの顔合わせ会が開かれた。こちらは、山本恵美特任専門職員を中心に、組織作りのまっただ中であるが、次第に落ち着いてくるものと思う。
何かを成し遂げるためには、チームワークこそがすべてである。サスティナブルで、お互いに貢献しあえるステキな組織をつくりたい。
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明日は朝一のフライトで、福岡である。
そして・・・というか、それでも人生は続く。
投稿者 jun : 2007年01月11日 22:22 | トラックバック
可処分時間はどのくらい?
「大人の学び」をここ最近の研究テーマに掲げていることもあり、昨年から今年にかけて、のべ十数人の「社会人」にインタビューをおこなってきた。
僕がインタビューをしているのは20代後半から30代中盤にかけての、「今、働き盛りの若手」。
世間では「貧乏くじ世代」とか、「ロストジェネレーション」「難民」とか、言いたい放題言われているけれど、そんなことはモノともせず、日々働いている人々である。
インタビューする僕自身も、まさに彼らと同じ世代なので、とても興味深い。「僕はどのように日々を過ごすべきなのか」・・・インタビューを通して自分が一番学んでいるのかもしれない。
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彼らにインタビューをするときに、必ず聞いている質問がひとつある。
「あなたの可処分時間は、一日、どのくらいですか?」
可処分時間とは、「自分の自由になる時間」のことを意味する。
この問いに対する答えは本当に人によるのだけれど、長い人で3時間くらいだろうか。だいたい平均は30分から1時間くらい。
中には
「それって、お風呂とか食事の時間もいれての時間ですか? 違う? うーん、それもカウントしないなら、ゼロに限りなく近いんじゃないでしょうか・・・いやー、改めて振り返ると、私って可哀想ですね・・・」
という人もいる。
否、そういう人は決して珍しいわけじゃない。2割くらいの人は、真顔でそう答える。
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インタビューをしていると、こんな悲鳴に似た声もよく耳にする。
「忙しさに追われてパサパサになっていくのがわかってるんですけどね。でも、これ以上なんかやる、というのは無理ですよね」
家庭をもっている人ならば、こんな感じになる。
「会社では仕事、仕事、仕事。家に帰っても、子どもの相手という仕事ですからね。とてもとても自分の時間をもつなんて贅沢ですよ」
中には
「もう学生時代に蓄積したタメは使い果たしてしまいましたよ。今はどうしているかって? そうですね、気力ですよ、気力。何とか騙しだまし、日々を過ごしています」
という人もいる。
---
アタリマエのことだけれど、「大人の学び」には、やはりある程度の時間と心の余裕が必要だ。
「モバイルを活用した学習」、いわゆるモバイルラーニングを利用すれば、ある程度、「スキマ時間」を「可処分時間」に変換することができるかもしれないが、それは所詮「付け焼き刃」「変化球」のようなものである。それを3年も研究している人間が言っているんだから、それほどズレた指摘ではないはずだ。
日々の忙しさでパンパンになっているアタマとココロには、どんな学習内容も虚ろに響く。まず、そこである。
仕事を日常的にこなしつつも、時には、ピリリとスパイスのきいた学習に取り組む。せめて、そういう余裕を何とか社会人に保証できないものだろうか。そう望むことは、若い働き手にとって、贅沢なことなのだろうか。
---
ここ数年、水面下では、2007年に大量退職を迎える団塊の世代を対象にした教育サービスの構築が進んでいる。
みんな彼らの「金」と「時間」をあてにしている。中には、新設大学の設置、大学院大学の拡充などに取り組む事例もある。
「団塊の世代」が新たなターゲットとして設定される一方で、彼らの「年金」を支える現役世代は、パサパサに乾いていく自分を意識しながら、日常に追われる。
かつて子どもの頃に遊んだファミコンのように、できることなら、自分の日常を「リセット」したい。「リセット」とは言わずとも、せめて自分を「アップデート」させてくれ。そう思う人も少なくない。
---
「忙しい」の「忙」という字は「りっしんべん=ココロ」を「亡ぼす」と書く。
働きながら学びたいと思ったときに、何とかかんとか取り組むことのできるココロの余裕。そんなココロの余裕を持たせるくらいの労働環境を何とか整備できないものなのだろうか。
インタビューを終えるたびに、深いため息がこぼれる。
投稿者 jun : 2007年01月11日 05:00 | コメント (1) | トラックバック
違いがわかる男
今日、カミサンが、間違っていつもより薄いミルクをつくってタクに与えてしまった。
すると、タクは苦虫をかみつぶしたような顔をして、ペッペッとしたそうだ。
ダバダー。オマエは「違いがわかる男」か?
0才の分際で、クソ生意気に(笑)
---
僕は子どもの頃、母によくこう言われて育った。
「何でもおいしいと思って食べなさい、そしたら必ずおいしい」
はっきり言って無茶苦茶である(笑)。でも、従順な僕は、そんなものかな、と思ってた。
---
・・・まぁ、少しは違いがわかった方がいいかな。悪くなった牛乳も見分けられるだろうし。

投稿者 jun : 2007年01月09日 23:17 | コメント (2) | トラックバック
遠きにありて思うもの
今日の関東地方は快晴。いったん大学研究室に行き、ミーティング。それからインタビュー調査に多摩方面へ小旅行。それから都内に戻り打ち合わせ。外回りの日、晴れててよかった。
さっき、テレビで故郷、北海道旭川がうつった。旭川も快晴。ただ、真っ白な世界だった。
嗚呼、こういう日は、しばれて、寒いんじゃないかな
と予想した。本当のところはわからないけれど、何となくそう思った。
(注 しばれる・・・とても寒いということです)
---
最近は動物園ですっかり旭川は有名になってしまった。
だけれども、僕にとっての故郷の原風景というのは、やはり、こういう「しばれた日」であったり、「吹雪の日」であったり、要するに冬の北海道の自然の厳しさにある。
そして冬の自然が厳しいだけに、短い短い夏や春が本当に待ち遠しく感じる。春になって、コートを脱ぐ頃に感じる、あの開放感! まだ肌寒いんだけど、陽光が差し込み、思わず外出したくなってしまう、あの春の日。それも故郷の原風景かもしれない。
---
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
室生犀星
これが私の古里だ
さやかに風も吹いている
あヽおまへは何をしてきたのだと
吹き来る風が私にいふ
中原中也
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暖かな太陽の光が差し込む関東とは、異なり、旭川はまだまだ冬のまっただ中にある。それは遠きにありて思うもの。
投稿者 jun : 2007年01月09日 22:49 | トラックバック
うち知ってんねん!:尾上圭介著「大阪ことば学」
突然で悪いのですけれども、僕の「関西弁」は「なんちゃって」なのですね。
1)3年間大阪で暮らしたことと、2)カミサンの出身地が「鹿も市役所で働いている」という奈良県出身であり、おうちの公用語は関西弁にされてしまったこと。この2つの理由から、「なんちゃって関西弁」の使い手になりました。
「なんちゃって」なら敢えて使わなければいいのに、と訝る方もいるかもしれない。特にホンマモンコテコテの関西人は、僕の関西弁の「なんちゃってさ」に、密かに腹を立てているのかもしれない。
だけどね、アンタ、本当に申し訳ないんだけど、そうはイカソーメンよ(意味不明)。
僕の中で関西弁は、もう自動化されちゃっており、閾下で処理されているのです。僕のあずかり知らないところで、勝手に「発話」されちゃってるんです。
自分が「どういう時に関西弁を使っているのか」、逆に言うと、「どういうときに関西弁を使っていないのか」、僕には全くわかりません。
自慢じゃないんだけど、全く意識したことなんかないんだよね。気がついたら、関西弁だし、ハッと思ったら標準語、あれれ、知らないうちに北海道弁という風に、常に僕の語り方は変化します。
何となく、その場の雰囲気 - おそらく、それは誰とどのようなコンテキストで話すか、ということだと思いますが - それによって、言葉を使い分けているようです。
つーことで、オレは知らん。関西弁のクレームは、オレに言ってくれるな。「ブローカー野」に言ってくれ。
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まぁ、そんなことはどうでもいいとして。こういう背景をもっているんで、普段から「関西弁」に関する本は好んで読んでいます。僕にとっては、一番身近な外国語のようなものなので、興味があるのですね。
先日は、言語学者の尾上圭介氏が大阪弁を解説する本「大阪ことば学」を読みました。なかなか面白かった。
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本書によりますと、関西弁で頻発する「ねん」というのは、もともと「のや」なのですね。そして、この「のや」が下記のように変化をとげた。
「のや」→「ねや」→「ねん」
「のや」とは標準語でいうと「のだ」の意味に近い。ただ、標準語で「のだ」というのと、関西弁の「ねん」というのは、ちょっとニュアンスが違うといいます。
「のだ」は、どちらかというと「断定」なのですが、「ねん」は、話してだけが知っている事情を「実はね」「あのね」と教えてあげる感じに近いのですね。「のだ」に比べて、ちょっと「まろやか」で「やわらかな」表現と言ってもよいのではないでしょうか。
その事例として、島田陽子さんの、とっても印象的な詩が引用されていた。これが、何度読んでも、可愛らしくてね。北海道弁




