可処分時間はどのくらい?

「大人の学び」をここ最近の研究テーマに掲げていることもあり、昨年から今年にかけて、のべ十数人の「社会人」にインタビューをおこなってきた。

 僕がインタビューをしているのは20代後半から30代中盤にかけての、「今、働き盛りの若手」。

 世間では「貧乏くじ世代」とか、「ロストジェネレーション」「難民」とか、言いたい放題言われているけれど、そんなことはモノともせず、日々働いている人々である。

 インタビューする僕自身も、まさに彼らと同じ世代なので、とても興味深い。「僕はどのように日々を過ごすべきなのか」・・・インタビューを通して自分が一番学んでいるのかもしれない。

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 彼らにインタビューをするときに、必ず聞いている質問がひとつある。

「あなたの可処分時間は、一日、どのくらいですか?」

 可処分時間とは、「自分の自由になる時間」のことを意味する。
 この問いに対する答えは本当に人によるのだけれど、長い人で3時間くらいだろうか。だいたい平均は30分から1時間くらい。

 中には

「それって、お風呂とか食事の時間もいれての時間ですか? 違う? うーん、それもカウントしないなら、ゼロに限りなく近いんじゃないでしょうか・・・いやー、改めて振り返ると、私って可哀想ですね・・・」

 という人もいる。
 否、そういう人は決して珍しいわけじゃない。2割くらいの人は、真顔でそう答える。

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 インタビューをしていると、こんな悲鳴に似た声もよく耳にする。

「忙しさに追われてパサパサになっていくのがわかってるんですけどね。でも、これ以上なんかやる、というのは無理ですよね」

 家庭をもっている人ならば、こんな感じになる。

「会社では仕事、仕事、仕事。家に帰っても、子どもの相手という仕事ですからね。とてもとても自分の時間をもつなんて贅沢ですよ」

 中には

「もう学生時代に蓄積したタメは使い果たしてしまいましたよ。今はどうしているかって? そうですね、気力ですよ、気力。何とか騙しだまし、日々を過ごしています」

 という人もいる。

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 アタリマエのことだけれど、「大人の学び」には、やはりある程度の時間と心の余裕が必要だ。

「モバイルを活用した学習」、いわゆるモバイルラーニングを利用すれば、ある程度、「スキマ時間」を「可処分時間」に変換することができるかもしれないが、それは所詮「付け焼き刃」「変化球」のようなものである。それを3年も研究している人間が言っているんだから、それほどズレた指摘ではないはずだ。

 日々の忙しさでパンパンになっているアタマとココロには、どんな学習内容も虚ろに響く。まず、そこである。

 仕事を日常的にこなしつつも、時には、ピリリとスパイスのきいた学習に取り組む。せめて、そういう余裕を何とか社会人に保証できないものだろうか。そう望むことは、若い働き手にとって、贅沢なことなのだろうか。

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 ここ数年、水面下では、2007年に大量退職を迎える団塊の世代を対象にした教育サービスの構築が進んでいる。

 みんな彼らの「金」と「時間」をあてにしている。中には、新設大学の設置、大学院大学の拡充などに取り組む事例もある。

「団塊の世代」が新たなターゲットとして設定される一方で、彼らの「年金」を支える現役世代は、パサパサに乾いていく自分を意識しながら、日常に追われる。

 かつて子どもの頃に遊んだファミコンのように、できることなら、自分の日常を「リセット」したい。「リセット」とは言わずとも、せめて自分を「アップデート」させてくれ。そう思う人も少なくない。

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 「忙しい」の「忙」という字は「りっしんべん=ココロ」を「亡ぼす」と書く。

 働きながら学びたいと思ったときに、何とかかんとか取り組むことのできるココロの余裕。そんなココロの余裕を持たせるくらいの労働環境を何とか整備できないものなのだろうか。

 インタビューを終えるたびに、深いため息がこぼれる。