若さとは「漂流権」をもつということである!?

 ちょっと前のことになりますが、ある真面目な学部生の方に、相談を受けました。
 入学から約数ヶ月。ようやく大学に慣れ初めて、「うんとこしょ、どっこいしょ、それでもカブは抜けません」という感じで(意味不明)、嗚呼、気がついたら、夏休み。

 彼曰く、

「これから長い休みなんですが、何をやったらいいか、わからないから、何もはじめられない」

 とのこと。
 うーむ、そうか。それは、ぼんやり、「霧の摩周湖」だろうなぁ(死語?)。
 今から20年前、かつての小生も、そうだったな、と思いながら、しみじみと聞いていました。

 一寸、僕は考えました。
 で、少しだけ、僕の考えたことを、彼にお伝えしようと思いました。
 社会人と学生が対峙するときに、非対称な関係の中、自分の考えを学生に押しつけるというのが、僕は、あまり好きではないので、彼には、少しだけ、かつ、控えめに言うことにしました。

  ▼

「何をやったらいいか、まずは頭でわかってから、人は、何かをはじめるんだろうか? 何かをはじめた人は、まず、頭で計画をしっかりたててから、何かをしたんだろうか?

頭で考えて、アクションを起こすというよりも、むしろアクションを起こして、そのつど、"軌道修正型"でもいいんじゃないだろうか。

もし、そちらに、時間があるんだったら、現段階の自分としてはイマイチだな、と思うことも、嫌だなと思うことも、とりあえず、何でもいいから、全部、「頭で好き嫌い」せず、やってみれば。

僕は、大学時代に、たぶん、このバイトは自分にはあわないだろうな、というバイトをやって、意外に続くなってことがあった。反対に、これ面白いだろうなっていうバイトをやってみて、うわ、全然オレにはあわんわ、と思った。面白いだろうなって頭で考えたことを、そのまま仕事にしなくてよかった。

最初、大学に入った頃は、●●学をやりたいな、と思ったけど、概論の授業聞いたら、全く自分にはあわないな、と思った。まさか、●●の授業は、僕にはあわないだろうな、と思ってとったら、意外にハマった。頭で考えていた専門を、自分の専門にしなくてよかった。

好き嫌いせずに、やってみれば、嫌なことは嫌だな、とはっきりわかるし、いいなと思うことは、いいなと思えるようになる。大学4年間で、そんなふうに「動いて"違い"を見つけ」てみればいいんじゃない。

そのうち、いろんな場所で、きっと魅力的な人にも出会うでしょう。そうすれば、その人に、流されちゃえばいい。そこで面白いことに出会えば、そのまま、流されていけばいいんじゃないの。

若いということは、そういう"ドリフト(漂流)の特権"、"漂流権"をもっているんじゃないの?」

 一字一句同じというわけではないですが、小生の、クソの役にも立たないアドバイスは、別名「わたしの大学生キャリア論」は、以上のようなものでした。

 要するに、言いたいことは

「動きの中で"軌道修正"してもいいんじゃないの?」
「人のやりたいことは、"差異"の中でしかわからないんじゃないの?」
「若さとは"漂流権"をもっているということなのではないか」

 ということです。

「漂流」したまま、「軌道修正」しないのなら「遭難」しちゃって「あべし」ですけれども(笑)。まー、そういう人もなかなかいないでしょう。みんな、コンパスくらいは持ってるから。

  ▼

 最近、大学生研究×組織研究の学際的研究ということで、京都大学溝上慎一先生と東大・中原研有志で実施した共同研究のデータを、しこしこ分析しています。

 そして、そのデータを見るにつけ、

「何事にもほどほどにしかやらない」
「頭では考えるけれど、実際に動かない」

 ような大学時代の過ごし方が、「その後の顛末」を見ていますと、残念に思えてきます。もちろん、人の生き方ですので、人それぞれでいいと思うけど。

 で、ついつい、40近いオッサンとしては、思っちゃうんですよね。大学生の頃は、世にも貴重な「漂流権」をもっているのだから、自分の動きの中で「差異」をつくり、「軌道修正」して欲しいな、と。ついついね。

 ま、オッサン臭くなってきたら、このくらいでやめます。

 いいなー、漂流権。
 僕も、今から、がんがんに、漂流したいよ。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年7月31日 09:38


職場の新人が、朝イチで出社することの5つの意味!?

 先日、「OJT指導の効果測定」に関する共同研究でご一緒している関根さん(中原研・OB)と研究室で話していて、興味深い話題になった(本研究には自動車のN社さま、精密機械のN社さまがご参加いただいております。この場を借りて、感謝いたします。ありがとうございます)。

 僕たちが話していたのは、

「自分の指導する新人が職場に朝早く来ると、OJT指導員は喜ぶ場合が多いが、それはなぜか?」

 という話題である。
 これには、いくつかの理由があるんだろう、というのが僕たちの「真面目な雑談」の内容だった。以下、それを5つの理由にわけて、列挙してみよう。

  ▼

 ひとつの理由に「時間の融通」。
 OJT指導員は、通常、自分の仕事をしながら新人の面倒も見ている。ただでさえ時間がないのだから、新人の指導は、まだ始業前にやっておきたいし、日々のコミュニケーションも、ここでとっておきたい。
 新人も始業前に、昨日積み残した仕事を追うことや復習ができるし、今日、これから行う仕事の予習もできる。また、OJT指導のノートや日誌などを課している会社の新人は、OJT指導にかかわる様々な付帯業務も、この時間にこなすことができる。

  ▼

 ふたつめに「社会的接点」
 始業時間よりも早く新人が職場にいれば、当然出社してくる他の社員と挨拶をしたり、声をかけられる可能性が高くなる。給湯室などにいってみれば、コーヒーやお茶を飲みに来た他の社員とも雑談などにもなるかもしれない。
 要するに、始業前の時間を使って、職場の既存メンバーとの社会的接点を多数持つことができる。この結果、組織社会化のスピードは、そうでない場合と比べて、早くなる可能性がある。いざ始業時間になってしまえば、きったはったの世界がはじまるので、多くの人々は、新人のことだけにかまっていられなくなるだろうから。

  ▼

 みっつめに「仕事の習慣獲得・組織適応」。
 OJT指導員にとって、新人に教えなければならないことは「仕事の内容」だけではない。仕事の習慣を身につけさせること、また組織にはやく適応させること。こうしたことも、「教えなければならないこと」である。

 まず朝早く起きて、しっかりと体調を整え、職場の自席につくこと。これは、ぜひとも早期に獲得しなければならない習慣である。

 また、組織に周辺的に参加していて、まだ生産性をあげていない新人が、せめて朝早くきて、組織のためにせめてもの貢献を行うことは、当人に対する組織メンバーの印象をよいものにする。結果、組織適応は早くなると想像できる。

  ▼

 よっつめに「熱意やモティベーションのディスプレイ」。
「誰にも頼まれていないのに、朝早く出社する光景」は、仕事のへの熱意やモティベーションを、新人が有していることを、他者に対してディスプレイ(提示)する(本当に熱意やモティベーションをもっているかはわからない)。

 OJT指導員は、ただでさえ忙しいのにもかかわらず、他人の面倒を見ている。自分の指導している新人が、朝早く出社してくる光景を見ることは、OJT指導員が新人の成長を実感できるリソースとなる。よって、OJT指導員自身の感情浄化(カタルシス)につながるし、モティベーションにもつながる。

  ▼

 最後、いつつめに「OJT指導の効果を伝える政治的メッセージ」
「誰にも頼まれていないのに、朝早く出社する光景」は、OJT指導員のみならず、多くの組織メンバー、特にOJT指導員の「上司」に当たる人も目にする。
 そういう意味では、新人の朝早く出社する光景は、「OJT指導員による新人指導が、効果をあげていること」を上司を含む組織メンバーに政治的かつ社会的に「証明」する行為でもある。結果、OJT指導員の社会的レピュテーションは、向上することが想像できる。

 だいたい、こんなものであろうか。
 もちろん、会社・組織といっても、いろんな会社があるので、単純に新人を「しごく」「いびる」ためだけに「早朝出社」を迫っているところもあるから注意が必要だけれども。また、こういうのは、第三者や組織から強制されるものでは、ないよなとも思います。そうだとすれば、単なる長時間労働にしかならないから。
 ここは、まえむきに、かつ、合理的理由にしぼって「新人が朝早くくること」の意味を解釈するならば、上に示したいくつかの可能性、あるいは、その混成体が想像できると思う。
 もちろん、他の可能性や解釈も多々あるだろう。
 ぜひ、伺ってみたいな、と思う。

  ▼

 今年も、はやいもので8月になる。
 4月に入社してきた新人は、早いもので4ヶ月を過ごしたことになる。多くの会社では、職場配属を終え、すでに仕事に取りかかっているだろう。

 今日、職場に一番早く来たのは、誰だったろうか?

 新人?
 えっ違う? じゃあ、OJT指導員?
 いやいや、案外、「課長」だったりしてね・・・。

 そして人生は続く

 ---
追伸.
 最近、論文を執筆しているせいでしょうか、今日の文章は、なぜか「である調」になってしまいました。今日、何にも考えずに書き出したら、こうなった(笑)。もうすこしで論文は完成します。明日か明後日には投稿したいと思います。そうすれば、いつもの「ぐだぐだ、ゆるゆる調」に戻ります(笑)。

投稿者 jun : 2013年7月30日 08:48


「思考」と「対話」を導く「問い」の3つの条件

 昨今では、成人学習の領域でも、研修・授業・ワークショップの合間に、参加者同士で「対話」をする機会が増えてきました。10年前 - 15年前を考えますと「隔世の感」がありますが、学びをよりインタラクティブにする工夫に関して、多くの人々が興味を持ち始めているような気がします。

 しかし、「惨い話しあい」「惨いディスカッション」「惨い対話」というのも、一方で、随分と生まれ出ている気がします。

「なぜ、話し合わなければならないのかがわからない」
「何について話し合わなければならないのかわからない」
 
「対話」を安易に捉えて、「参加者の自由に時間を過ごすこと」とイコールに考えてしまう。その結果、参加者を「放置してしまい、実りのあるディスカッションにならない、ということが生まれてきます。

 そういう場合によく見られる認識が、下記のようなものです。

「対話をさせるんだから、自由闊達に話をさせればいいんだよね。そうすれば、素晴らしい話し合いができるんだよね」

 いわゆる「対話ロマンティシズム症候群」とよばれるような状況が、散見されます。
 
  ▼

 とはいえ、「実りの多い対話」を導くために留意するべき点は、枚挙に暇がありません。
 しかし、ここで大切なことを、敢えて「ひとつ」だけ述べるのだとすれば、やはり「問い」だろうということになります。
 自由に話し合ってもらうのはいい。しかし、そのプロセスの中で、人々に「考えてもらう」問いをいかに練るか。Driving Question - すなわち、思考を駆り立てるような問いをいかにつくるか。これが最も重要なことのように思います。

 じゃあ、「問い」はどんなものがよいのか、ということになりますと、3つの観点からチェックができるのではないか、と思います。問いは「共有可能(K)」であり「思考可能(S)」であり「出力可能(S)」なものであればよいのかな、と思うのです。

 すなわち、多くの人々がともに関心を共有できるものであり(共有可能)、かつ、それを考えることにフィージビリティがあり(思考可能)、話し合った結果を、何らかのかたちでアウトプットできるものであるということです(出力可能)。
 
 こう書いてしまえば、アタリマエのように聞こえますが、これがなかなか、そうはいきません。
 参加者の一部だけが反応し、他が白けるような問いを投げかけてしまう。そのことを考えても、あまり意味がなさそうなことを問いにしてしまう。よって、話し合った結果は「今ひとつ」でとらえどころがなく、言語化・アウトプットすらできない。そういうことが、まま、あるような気がします。

  ▼

 問いを投げかける瞬間、僕のいつも心に浮かぶのは、「静かだった湖に小石を投げ、水紋が広がっていくイメージ」です。なぜこのイメージなんだかよくわかりませんが(笑)、そんなことを思います。

 願わくば「良質の思考」を導く「良質の問い」を練っていきたいものです。
 自戒を込めて

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年7月29日 07:53


遠隔ファシリテーション!?の技術:三地点同時に進行するグループワーク!?

 先日、あるところで、350名弱の現場のマネジャーの方々に、講演をさせていただきました。
 非常に興味深かったのは、この講演が、200名弱は東京、70名は名古屋、70名は大阪で、3地点を同時にテレビ会議システムで中継して行う講演だったことです。

 3地点同時中継の講演といっても、講演のスタイルが、いわゆる「ザ・講演」といいましょうか、「一方向的に情報を伝達する講演」だったとしたら、今どき、そういうのも、そう珍しいことではないのかもしれません。

 しかし、僕の行う講演(!?)ですから、そうはいきません。
 レクチャーをしては、グループワークやエクササイズをして、またレクチャーという風に続いていきます。半分レクチャー的?、半分ワークショップ的?なかたちで、会が進行していきます。
 グループワークやエクササイズの時間は、僕は東京でインストラクションを行い、会場を歩き回り、名古屋・大阪では、拠点におられた方々が、会場のお世話をしていただきました。

  ▼

 背中が汗びっしょりになるほど最も「緊張」したのは、グループワークのあとに、どんな話題が出たか、各拠点のマネジャーの方々から意見をいただく場面です

「大阪にいらっしゃるAさん、こちらに関しては、どんな風に体制づくりをなさったらいいでしょうか?」

「名古屋に、Bさん、いらっしゃいますよね。この場合には、どんな問題が考えられますかね?」

 という風に、遠隔地にいらっしゃる方々に向けて、話を振っていきました。そして、この時がもっとも「緊張」しました。

 もし音声がつながらなかったら、どうしよう・・・
 もし答えてくれなかったら、どうしよう・・・
 もし話がかみ合わなかったら、どうしよう・・・

 今回、東京にいる200名の方々と僕は、大阪と名古屋の様子は見えません。音声は聞こえますが、大阪と名古屋の会場の様子、そしてそちらにいらっしゃるマネジャーの方方も、僕からは「顔が見えない状況」なのです。つまり、この場合、「顔が見えない」状況で、遠隔からファシリテーションを行う必要がある、ということです。

 幸い、大阪にいらっしゃるマネジャーの方も、名古屋の方も、明瞭かつ素晴らしいお答えをいただき、かつ、音声等も明瞭であったため、全く問題なく、会は進行しました。
 どれだけホッとしたかは、本当に言葉に言い尽くせません。

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 遠隔での講演(!?・・・講演なのかな、ワークショップなのかな・・・わからなくなってきました・・・とりあえず講演で)を終え、思ったことがあります。それは、今回のような教授機会が、さらに増えていくのではないか、ということです。
 もし、仮にそうなのだとすれば、これからは、「教える側」には「遠隔ファシリテーションの技術」が求められるようになるんだろうな、ということです。

 もちろん、対面状況、フェイスtoフェイスの会も大切であることは言うまでもありません。しかし、皆さん仕事が忙しく、またコストも考えなくてはなりません。実際、今回大阪・名古屋で受講してくださった140名の方々を、出張させる交通費+宿泊費+人件費を考えると、途方もない金額が浮かびます。

 また妄想力をたくましくしますと、今回は、企業での講演でしたけれども、大学でも出来ないことはないよな、とも思いました。
 たとえば、皆が聞きたいような著名な先生の講義が、ある大学ではじまる。その様子はすべて同時中継されていて、各所には、ティームティーチングを行って下さる方がいる。
 このようなこと昔は、人工衛星を貸し切るとか、大変お金をかけなければできませんでしたけども、今なら、かなり音声も動画もクリアにつながりますので、そんなことも可能になるのかな、と思いました。もっとも、そのようになったことが常態化してきた場合、大学教員の就職問題がさらに深刻になると思われますけれども。

  ▼

 遠隔での講演(!?)は、僕自身にとって、非常に大きな「学びの機会」になりました。「もし、次にやるのだとしたら、どういう風にやろうか?」「どういう風に改善できるだろう」と帰り道考えていました。これまで一カ所をファシリテーションすることはやってきましたが、遠隔ファシリテーションは考えつかなかった。これについて考えていました。

 最後になりますが、このような機会をくださった某社・人材開発部の方々に、心より感謝いたします。特に事務局のIさん、Aさん、お疲れさまでした。今回の遠隔講演を実現するために、人材開発部の方々は、3度もリハーサルをなさったそうですから、本当にご苦労をおかけしたと感じています。本当にありがとうございました。

 世の中はさらに複雑に、メディアはさらに高度に発展していきます。それにともない、必要な教授スキル、ファシリテーションのスキルも、変化していくのかもしれません。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年7月26日 09:22


「毎日やること」と「数日おきにやること」の差

 先日、ある方から、ご質問をいただきました。

「中原さんは、なぜ、毎日ブログをかけるのですか?」

 うーむ、いいご質問ですね。
 心のどこかで「おれって、暇人だなと思われてるんだろうな」と思いつつ、その疑念を振り払い、僕が、お答えしたのは、

「毎日書くからです」

 というトートロジカルな答えです。

「なぜ毎日ブログを書けるのか?」という質問に対して「毎日書くからです」と答えるのは、誰が見ても明確に「答え」になっていません。でも、僕の認識ですと、それは「正しい」のです。

 執筆時間を毎日20分と決めます。そして、土日以外、毎日、必ず書く。
 それがもし万が一、「2日ー3日にいっぺん書くのでもいいのですよ」「数日にいっぺんやるのでいいですよ」、と言われたら、僕は、きっと書くことはできなくなる、書くことをやめてしまうと思います。
 ついつい、「今日は忙しいから、明日にしよう」「今日も忙しいから、あさってでいいや」というようになるでしょう。

 つまり「毎日やること」と「数日おきにやること」には明確な差があるのです。「毎日やること」には「言い訳」はききません。対して「数日おきにやること」は「無限に言い訳がきく」のです。そして、ずるずる伸ばし伸ばしにする。そして、やめてしまう。自戒をこめていいますが、僕は「弱い人間」です。「無限の言い訳」に僕はついつい頼ってしまいます。
 
 それに、一度動き出したものを、もう一度動かすためには、「初動負荷」がかかります。つまり、止まっているものを動かして、軌道にのせるのには、大変な労力を必要とする。
 しかし、一度動き出したものをとめず、そのまま動かし続けることには、それほど負荷がかかりません。だから、やめようと思うまでもなくなるのだと感じます。

 私見に関する限り、「毎日やること」と「数日おきにやること」には明確な差があります。そして、どうせやるなら「毎日やった方」が僕の場合は「楽」です。

 そして人生は続く

 

投稿者 jun : 2013年7月25日 08:31


ロジックがほんわか・ゆるゆるしたスティーブ・ジョブズ並のプレゼン!? : プレゼン全盛時代に文章を書くことの意味

 大学教員になって、はやいもので13年ほど立ちますが、これまでを「振り返って」、いつも思うことに、

「この10余年で、学生のプレゼンテーションのスキルは、格段に向上したな」

 というのがあります。

 昔は、プレゼンといっても、パワポがそもそもつくれないとか、ずっと下を向きながらあらかじめつくってきた原稿を、ただ読んでいるだけ、という学生も少なくなかったように思います。

 ところが、最近は、中には

「あなたはスティーブ・ジョブズじゃないの?」

 というような!?(持ち上げすぎ)学生もでてくるようになってきました。

 生まれながらにして家庭に情報機器があふれているせいなのでしょうか、初等中等教育での情報教育がよいせいなのでしょうか、僕には、その理由はわかりません。
 
 が、堂々としたプレゼンテーションを最初から行うことができる学生が、以前よりは、非常に増えてきたな、という印象を持っています。

 ▼

 しかし、いくつか、気になることもないわけではありません。

 ひとつは「格差」が大きいということです。
 ジョブズなみのプレゼンを行う学生がいる一方で、全くプレゼンを行ったことのない学生、携帯電話以外のメディアを使ったことの学生がいます。
 知識を生産するためにメディアを利用する一方で、知識を消費することにしかメディアを利用しない学生がいます。この差が年々ひろがっているように感じるのは、気のせいでしょうか。

 この背後には、おそらく家庭でのメディア利用、ひいていえば、親の文化資本、経済資本の問題、そして、地方と都市 / 私立と公立の教育格差の問題があるような気がします。無理矢理こじつけ野郎的な論理ですみません。詳細は専門家ではないので、わかりません。

 もうひとつは、うまくなっているプレゼンの技術は「アピアランス(見せ方)」に特化している傾向があるということです。つまり「見せ方」が、この10年で格段にうまくなってきたしかし、一報で、デリバリーするコンテンツの「ロジック(論理・因果)」は、「飛躍」が見られることも多々あります。

 プレゼンとは、伝えたいコンテンツをそのままデリバリーするだけでなく、「相手を説得・魅了する技術」であったりします。
 よって、前後のスライドのあいだでロジックが多少破綻していたり、飛躍があったりしていても、「ほんわか」「ゆるゆる」「なんとなく」つながっていれば、それでOKというところもないわけではありません。

 オーディエンスは、消え去ってしまった前画面のロジックを、憶えていないことがあります。次のスライドが提示されたときには、前の画面をはっきり憶えていない。こんな風にして、前後のロジックが「ほんわか」「ゆるゆる」したものになっている印象があります。

 もしかすると、ないものねだりなのでしょうか。
 最近の学生のプレゼンを見ていると、確かに「アピアランス」は非常に魅力的になりましたが、その分だけ「ロジック」がややぼけているところが目につくようになってきました。昔と比べて、ロジック構築の能力があがったのか、さがったのかはわかりません。印象的には、それほど変わらない印象があります。ただ、アピアランスの能力が上がったために、相対的に目につくようになっただけなのかもしれません。

 ちなみに、僕は、大学院の自分のゼミ発表では、学生にプレゼンで研究説明をすることを禁じています。敢えて紙(レジュメ)を用意させ、一文一文、文章でロジックを書かせます。
 プレゼンだと、ロジックを誤魔化すことができるけれど、文章になると、それは不可能です。そういう理由で、プレゼン全盛時代に、敢えて、文章に書かせて発表をしてもらっています。

 もちろん、最初からロジックもアピアランスも秀でている人は少ないと思いますし、それが学びなのですから、両者をバランスよく獲得できるよう、学生時代を過ごせばよいということになります。焦る必要はまったくありません。大丈夫だよ、昔はアピアランスさえ、ひどかったんだから。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年7月24日 09:10


桂枝雀さんの落語に学ぶ「デリバラブル発想」:「誰かに何かを届ける視点」で自分の仕事を見つめる

 誠に残念なことに、今となっては、故人となってしまわれましたが、落語家の桂枝雀さんがよく使われた落語の枕に「地球滅亡」というものがあったそうです。
 先日、神戸大学の金井壽宏先生の授業で、先生からご教示いただきました(誠にありがとうございます。心より感謝いたします)。

 枝雀の「地球滅亡」に曰く(やや再現風に)、

「いよいよ地球も最後ということになってしまったのでございます。地球から脱出する宇宙船にはそんなに大勢の人は乗せられないのでございます。なぜなら宇宙船には定員というのであるのでございますからな。

というわけで、まず、宇宙船には、まず食べ物をつくる農民がいいりますね。次に家を建てる大工さんがいりますね。万が一、病気になったときのことを考えて、お医者さんも必要でしょう。そうやってどうしても、必要な人を選んでいくと、どうしても私みたいなのは残りますな。

あの方はどんな方ですか? ああ落語家です。落語家って何をしてくださる方ですかな? 右向いたり、左向いたりして、早口でしゃべるものですな。・・・それなら、別に、いなくてもいいですな、宇宙船には乗せられませんな。地球に置いていくしかないですな」

 元ネタを聞いたことがないので再現することは難しいですが、どうやら、どうやら、こういうネタであったようです。
 聞くところによりますと、やや自虐ネタがはいった、この枕は、お客さんに大変受けたそうで、ぜひ、僕なども、往年の姿を、この目でぜひ見てみたかったな、と思います。

  ▼

 ところで、この枕は、人材マネジメントの言説空間で言われる「デリバラブル発想」と「ドゥアラブル発想」を考えるうえで、非常に示唆にとむ視点を提供してくれます。

 デリバラブル発想(Deliverable発想)とは、ひと言でいえば「付加価値の提供」。「自分がいることで、何(どんな価値)を他者にもたらせるか」という発想です。

 対して、ドゥラブル発想(Doalble発想)は「自分が現在やっていること」「自分が現在やろうとすればできること」です。「付加価値を他者に対してもたらす」ということを考えるのではなく、「今、まさに自分がやっていること」を列挙する発想です。

 勘のよい皆様なら、もうおわかりですね。
 地球滅亡が近くなったときに宇宙船に「乗せてもらえる」のは、デリバラブルな仕事をして、誰かに何かを届けている方なのです。

 もちろん、落語家も、大勢の人々に「笑い」を届けているという意味では、十分に「デリバラブル」だと思うのですが、枝雀さんは、敢えて、その仕事を「右向いたり、左向いたりして、早口でしゃべる」という風に自虐的に喩えることで、「大受け」をとっておられました。

 まことに興味深いですね。

  ▼

 デリバラブル発想というのは、毎日、この発想で、自分に問いかけられるとシンドイものがあるのですが(その必要もないでしょう)、時々、この発想で、自分の仕事を「振り返る」と、よい刺激になってよいようにも思います。

 たとえば「全く宇宙船に乗せてもらえそうもない僕の仕事」の場合ですと、ドゥアラブルに答えますと、こんな風になります。

「原稿を書いています」
「プレゼンテーションをつくっています」
「会議にでています」

 金井先生もおっしゃっておりましたが、「やっていること」でよいのならば、こんな風に、たくさんたくさん列挙できる。しかし、うーん、このままでは、本当に「全く宇宙船には乗せてもらえそうにない」ですね(笑)。

 逆に、「宛先に対して付加価値を届けること」を重視するデリバラブル発想にもちたちえるのだとしたら、先ほどの例は、

「願わくば、現場の方々に呼んでもらえるような原稿を書いています」
「できるかぎり、現場の方々に考えて頂ける時間をつくれるようなプレゼンをつくっています」

 という風になりえるのかもしれません。

 最後の「会議に出ています」は、どうにもデリバラブルになりそうにないのが、やや苦しく悲しいですが、まぁ、組織の中にはデリバラブルな仕事ばかりではありません。むしろ、ドゥアラブルの方が圧倒的に多いくらいかもしれませんね。

 ただ、しかし、本当に時々でもよいので「誰かに何かをもたらすこと」を重視するデリバラブル発想にたち、自分の仕事をチェックしていくと、なかなかに考えさせられます。ドゥラブル的世界に過剰適応してしまった日にはよい刺激になるかもしれません。

 また、ドゥラブル的世界に疲れた日には、デリバラブルな視点で、日々やっていることを見つめ直せば、案外に、「宛先」や「届けている付加価値」が見えてくることなのかもしれません。「わたしの仕事は、単調だと思っていたけれど、本当は・・・の人に・・・・を届けていたのだ」と、自分の仕事の意味を再発見できるのかもしれません。

今日の話は、もちろんのこと自戒を込めて言いますけれど、そんな時間を、僕自身は時に持ちたいものです。

 ま、地球滅亡の瞬間、僕は地球で宇宙船を見送ることになるとは思いますが(笑)
 それも人生。

 明日も人生は続く。

投稿者 jun : 2013年7月23日 05:05


博士論文とは「U字谷の旅」である

 今年は、僕の指導する大学院生が、揃いもそろって、数名、博士論文にチャレンジする段になりつつあります。今年は忙しいな、と思いつつ、指導教員として、気が引き締まる思いで一杯です。

 というわけで、今日は博士論文の書き方のお話をすることにしましょう。

 「てめーごときのペーペーが、D論を語るんじゃない」

 と便所スリッパで後頭部をスコーンとやられそうですが、ま、気にせず(笑)、自戒をこめて書いてみましょう。
 学問分野によって違いはあるでしょうが、少なくとも、僕の分野では、こんな書き方が典型的だよ、ということでお読み下さい。

 ▼

 一般に、最近の課程博士論文とは、個々にこれまで書いてきた論文をまとめ、一本のストーリーとすることで成立することが多いのではないか、というお話は、以前にしました。

 その難しさは、「構造を書くことであることではないか」という問題提起は、以前、このブログで書かせていただいたことがあります。

博士論文とは「構造を書くこと」である!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/11/post_1907.html

 すなわち、ひとつの大きなRQ(Research Question)を、小さなRQに分割し、それらをまとめつつ、One Conclusionを導く。博士論文の最大の課題とは、この「構造を描くこと」であると、僕は思います。

 今日は、以前お話しした課題とはちょっと違った角度から、博士論文を「別のメタファ」で語ってみたいと思うのです。

 曰く、

 博士論文とは「U字谷の旅」である

 「U字谷(ゆうじだに)」とは、文字通り「Uの字のかたちをした谷」です。要するに、下記のイラストにあるような博士論文のストーリーの流れのことです。

Doc-2013_07_22 9_06-page-1.png

 今日、僕が、究極言いたいことは、博士論文とは、このUの谷を下って、上がってくる「旅」に似ていますね、ということですね。

  ▼

 博士論文の最初は「一般・理論・抽象的な議論 / 社会背景 / 歴史的背景」といったような「高み」からはじまります。それは「高み」の世界です。
 そして、そうした「高み」にこれからやるべきこと、すなわち、自分の研究を意味づけ、位置づけながら、「個別・実践・具体」の世界に「下っていく」。この「下り」は「先行研究を批判的に吟味する / 自分の研究のオリジナリティを主張する」とよぶこともあります。

「下界」におりたら、ただちに、RQをかかげて、いくつかの研究知見を積み重ねなくてはなりません。ここは個別・具体的に研究を積み重ねるところです。

 問題は、ここからです。下界で得られた知見は、そのままにしておいてはいけません。そこで「旅」を終えては「谷底で遭難」です(笑)。

「下界」で得られたものを、もう一度持ち帰るべく、谷をはいあがらなくてはならない(笑)。
「下界」で得られた知見を、「一般・理論・抽象な議論」といったような「高み」に「意味づけなおし」「位置づけなおし」を行わなくてはならないのです。それができて、ようやく「高み」に戻ることができました。やったー、無事終了です。

 よくある失敗ケースは、2つです。
 ひとつは「高み」の世界から「下界」に降りられない。つまり、自分がこれからやりたいことを、うまく位置づけられない。「急ぎすぎて降りてしまって」、スピードがありすぎて、止まれない。これでは事故がおこります。

 もうひとつのケースは「下界」から「高み」にはいあがられない。つまり、個別・具体的に、自らがやったことを、もう一度、理論的世界、抽象的世界に位置づけられないことです。下界の世界も悪くないな、と居着いちゃうとか(笑)、あるいは、這い上がろうとして、ケガをしてしまう、ということでしょうか。

 以上、自戒をこめて書きましたが、おわかりいただけますでしょうか? うーん、うまくたとえられていたかな。またヘンテコリンなメタファを出してしまいましたが、気にしないで、真に受けないでね(笑)

 ▼

 博士論文をお書きになる大学院生の皆さんが、無事、Uの谷の旅を終えられることを願います。

 ご安全に、素晴らしき旅を
 大丈夫、終わらない旅は、ないものです。

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追伸.
 雑誌「プレジデント」で「しごとの未来地図」という連載を一部担当させて頂いております。今週号は「資格取得のこと」を枕にしながら書かせて頂きました。編集担当の九法崇雄さん、構成の井上佐保子さんには大変お世話になっております。ありがとうございます!

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投稿者 jun : 2013年7月22日 09:14


無敵モティベーターとしての「カブトムシ」

 小学1年生の息子・TAKUZOは、夏休みに入りました。今日は、千葉県・佐倉にカブトムシをとりにいきました。NPO法人佐倉みどりネットさんがやっておられる、カブトムシとBBQの集いに参加させていただいたのです(地元の年配シニアの方々、中心になって運営なさっているNPOのようです。非常によくしていただきました。親子ともども愉しめました。心より感謝いたします!)。

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NPO法人佐倉みどりネット
http://www.sakura-greennet.com/

カブトムシとBBQの集い
http://blog.goo.ne.jp/sakuramidorinet7/

 TAKUZOは、カブトムシを雄と雌一匹ずつとることができました。いずれも野生のものです。

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 早速、昨日は帰宅後、カブトムシを育てるためのシートやら、餌やら、何やらかんやらを街の文房具屋さんで揃えてきました。最近は、土やら、餌やら、いろんなものを売っているのですね。びっくりしました。

 今日も朝から「お世話」ということで、何度もなんど「お世話」といっても、そんなに早く餌がなくなるわけでもなし、特に何にもすることは、ないのですけれども(笑)。

 昨日の日記には、カブトムシのことが書いてありました。ここまでに、小さな男の子のモティベーションをかきたてる「カブトムシ」という虫は、ある意味で、「無敵モティベーター」ですね。すごい。

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 夏、本番です。
 今日も、また暑い日になりそうです。

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 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年7月21日 08:56


均質に並び、繰り返され、等しく焦点があたる「不思議な光景」:写真家・アンドレアス・グルスキー展に行ってきた!

 すべてのものに焦点が定まり
 すべてのものが均質に並び
 すべてのものが繰り返される

 ちょっと前のことになりますが、国立新美術館で開催されているドイツの現代写真家アンドレアス・グルスキーの個展に行ってきました。

andreas_gursky.png

 グルスキーといえば、写真を現代アートの域にまで高めたといわれる一人で、MoMAをはじめとして世界中の美術館で個展が開かれています。

 僕には「アート」の専門知識も教養もありません。
 専門知識、詳細はわかりませんが、その筋の専門家に「便所スリッパ」で、後頭部を殴られることを覚悟して、その写真を、ひと言で形容すれば、それは「無ノイズ・均質・点描空間」だと感じました。
 グルスキーによって、一見、何の変哲もなくうつされた日常的な空間の写真は、よくよく見てみると、一点の曇りも、一点のノイズもないことがわかります。

 その写真は、デジタル処理を施して、徹底的にノイズを排除され、かつ、抽象的に表現された「広大な面」なのです。おおくの場合、そこに無数に存在する「細かい物体」が存在しています。
 下記に少し作品がのっていますので、ぜひ、ご覧下さい。会場では、壁一面に、彼の大型作品がかけられていて、圧巻です。


アンドレアス・グルスキー展

http://gursky.jp/highlight.html
 
 グルスキーが作品にすることが多いのは、「今の世相をあらわすもの」「今、動いているもの」であり、現代の都市社会やグローバル社会を象徴する一コマです。日本も好んで作品にしています。上記のサイトにあるスーパーカミオカンデもそうですね。すごいよ、実際に見ると、これ。

 個人的には、1990年に撮影されたという「東京証券取引所」の写真が、ノスタルジックでしたし、そこに切なさを感じました。
 バブルないしはバブル直後の東京証券取引所で、行き交うマネー。そこに激しく蠢く無数の証券マン。その一瞬をグルスキーはとらえます。この写真から、この後、ロストジェネレーションと形容される未曾有の不況に、日本が陥ることを、誰が、予想できたでしょうか。

 好き嫌いはあるとは思いますが、オーディオガイドもよかったです。こちらのオーディオガイドは、グルスキー個人が選別した楽曲をBGMとして、石丸幹二さんが、ナビゲータをつとめていらっしゃいます。「Jin Choi」というベルリン在住のアーティストの作品が、今も、耳にこだましています。

 それにしても、小中学校の通知表で「図工2」を叩き出していた「美術オンチの自分」が、ヘタの横好きか、大人になってから、「アート好き」になるとは思いませんでした。わからないね、人生なんて。

 でも、グルスキーのような「キンキンに尖ったアート」を見ておりますと、ついつい、自分に叱咤激励されているように感じるのです。自意識過剰かもしれませんし、僕は、彼と違って「なんちゃって」ですけれども、そんな風に感じるのです。

「丸くなってんじゃねーよ」
「安定しようとしてんじゃねーよ」

 と、そういう声が、作品の奥から、本当にびんびんと聞こえてくるのです(幻聴? やばい?ビョーキ?)。

 評価の高いといわれる作品は、いつも「枠」を「変えた」作品です。
 今回の場合でいいますと、グルスキーの評価が高いのは、それが「写真を撮影した作品」ではなく、「写真を変えた作品」だからなのかな、と思います。

 おすすめの展覧会です。小中校生はタダ、高校生は期間限定でやはりタダみたいですよ、お得じゃん。

 それ、いいじゃない。

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追伸.
 国立新美術館の次回は「アメリカンポップアート展」だそうです。こりゃ、混むだろうな、きっと。

american_popart.png

投稿者 jun : 2013年7月18日 17:28


「徒弟制ロマンス」という落とし穴 - 徒弟制を成立させる社会的条件

「必ず高座のあとは打ち上げがあるわ。でも、あんたは飲んじゃだめ。師匠をおくる仕事があるんだからね / 食べ物は勧められたら、断るな。ありがとうございますって言って、全部、平らげるの。それも、誰よりも、早く食べなさい」

「あんたも楽屋に入ったら、しくじりの山だよ。落ち込んでいる暇もないよ」

「いい / 初対面の師匠には、前座は決して、自分から言葉をかけてはいけないの。 / 必ず、立前座から紹介して頂くのが、決まりよ」

「今日一日で、何回、すみません」を言っただろう。明日は、何回言うんだろう」

「体を動かせ、頭を使え。どんなに楽屋が忙しくても、耳は高座に向けていろ。そこは落語を愉しむ場所じゃねぇ。学ぶ場所だ」


 ▼

rakugo_tanoshimu.png

 ふだん漫画を読むことはないのですが、最近、はまっているものがあります。漫画「どうらく息子」です。
 この漫画、ひと言でいえば、ある一人の青年が、落語の師匠のところに弟子入りし、熟達していくプロセスを描いている漫画です。兄弟子、おかみさん、他の一門の師匠。様々な人間関係の網の目の中で、青年は落語家になっていくプロセスを描写しています。

  

 この漫画の面白いところは、「徒弟制」という「教え方 - 学び方」の面白さ、魅力を伝える一方で、その「闇」や機能する「諸条件」も描き出していているところです。

 どんなに師匠が間違っていようと、何を指示されようと、「はい」か「すみません」しか言えない上下関係。高座の裏のタイトな人間関係。「楽屋」での「しくじり」と、嘲笑などは、その筋を経験した人にしか、想像すらつかない世界でしょう。

 かつて、僕がインタビューさせていただいた落語家の方は、落語家の熟達を「血と血のつながった家族になること」とおっしゃっていました。
 徒弟制のパワフルさは、「特殊な人間関係」に裏打ちされています。「家族」という切っても切れない関係が、「闇」を凌駕するからこそ、この制度が機能します。

 ▼

 ひるがえって、企業人材育成の言説空間では、ともすれば、よくこの「徒弟制」が、あまり文脈を考慮されず、引用され、消費されます。
 若手を育成するシステムとして、それが引用され、ともすれば、ノスタルジックな感情、懐古的な感情とともに、それが語られます。その様相は、さしずめ、「徒弟制ロマンス」とも言いえるかもしれません。

 先にも述べましたように、徒弟制が機能するためには、「血と血のつながった家族になること」がベースであります。より具体的にいうならば、それが機能するためには、

1)長期間にわたる安定的で右肩あがりの修行期間が確保されていること

2)長期間のモティベーションを確保するために、師匠に「威光模倣」が存在すること(師の背後に広がる世界の華々しさがあること)

3)師匠から継承するべき技術が、世の中の環境変化に対して頑健で、それほど変化しないこと。そして、その学び取る技術は師の能力を超えていないこと

4)学習は偶発的に起こることから、その教育的瞬間にフィードバックを変えすためのタイトな人間関係とモニタリングシステムが存在すること

5)伝承は非言語コミュニケーションによって行われることもあるので、生活をともにできること

 などの諸条件が存在しうるものと思われます。
 
 誤解を避けるために申し上げますが、これらの諸条件が機能し、かつ、組織のかかげる戦略に合致しているのであれば、徒弟制はパワフルに機能します。それがよいとか、悪い、とか言っているわけではありません。

 徒弟制とは「特殊な社会的コンテキスト」のもとに成立する育成システムである。そして、ともすれば、人はそのパワフルさや効果に魅了される一方で、それをならしめている「特殊な社会的コンテキスト」を無視するという「徒弟制ロマンス」に陥りやすい。
 だからこそ、それを参考にするときには、それを成立ならしめている社会的コンテキストに注目しなければならないのではないか、と申し上げているのです。

  ▼

 それにしても、この漫画は面白いです。
 勧めてくださったのは、同僚の藤本徹先生ですが、この場を借りて感謝いたします。いつものように思いつきなのですが、そういう「学び・熟達プロセスを描いた漫画」を集めて、本が描けたとしたら(〆切間近の論文1本、本2冊を抱えて、よくしゃーしゃーと新しい企画を語れるな、という感じですが)、より多くの人々に、「経営学習論的世界」を知って頂けるような気もしています。ぜひご教示いただければと思います(笑)。

 もう少し、寝不足の毎日が続きそうです。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年7月18日 08:34


「予想を裏切り、期待を裏切らない研修」と「予想を裏切らず、期待を裏切る研修」

 研修やワークショップなどの「大人の学びの場」には、参加者の「予想を裏切ること」も、また大切なことだろう、と思います。

「予想を裏切る」というのは、「学習者を裏切る」「期待を裏切る」ということではありません(泣)。
 そうではなく、「学習者が、きっと、こうなるだろうな」と思っている「これからの展開の予想」を「敢えて裏切り」つつ、そのことで「いつもと違う感」を演出し、学習者の「注意(Attention)」を確保した上で、その後の学習を組織化するということです。

 ひと言でいえば、

 「脱・予定調和」

 もっと端的にいえば、

 「!」

 ということです。

   ▼

 研修やワークショップに対して、ネガティブなイメージをもっている人々も、世の中には、少なくありません。

 後者の方が前者よりも、まだ100倍マシかもしれませんが、ここ数年のワークショップバブル以降は、多種多様なものが「ワークショップ」として形容され、実施されていますので、もしかすると、たいした変わらないかもしれません。

「惨いグループワーク」から学習されてしまうもの
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/06/post_2024.html

「ワークショップ疲れ」という現象の背後にあるもの
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/02/post_1948.html

「惨い研修」「惨いワークショップ」への参加履歴を通して、「研修」そのもの、「ワークショップ」そのもののイメージは、ネガティブな方向に変容していきます。
 そして、変容しているのは、イメージだけではありません。そこでは、典型的な研修の手続き、ワークショップの手続き - ここではスクリプト - も学習されています。

すなわち、

「一般には、研修だったら・・・・最初に、こうなって、次にこうなって、最後はこう終わるに違いない」

「ワークショップって言ったら、最初にアイスブレーキングがあって・・・次にこうなって、こうなるに違いない」

 そういう典型的な手続きと流れも、同時に学習されているのです。
 ですので、この典型性、この予定調和化したスクリプトを、よい意味で「裏切る」ことが、時に必要になります。「裏切ること」で、学習者の「注意(Attention)」を確保するといったことが必要になる局面があります。

 来週は、僕が講師を務める250名規模の会が、3個、予定されております。
 250名規模で初対面、しかも相手がミドルクラス、マネジャークラスということになりますと、初期状況の注意確保(Attention確保)は、容易なことではありません。たかが「注意」ですが、されど「注意」です。注意が確保されないことには、その後に、どんなコンテンツをデリバーしようとも、受容はされません。

「学習者を裏切ること」「期待を裏切ること」を避けつつ、どんな風に「予想を裏切ろうかな」。
(予想を裏切らず、期待を裏切る研修というのは、なかなか最悪な状況ですね)

 今、必死に考えています。
 いや、マジで。
 
 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 来週担当させていただくのは、ひとつは、企業のマネジャークラスの研修です(日本全国3地点で250名以上の方々が遠隔受講されるとのことで、かなり緊張しています)。
 もうひとつは横浜市の現場の先生方の10年次研修です。10年次研修は、250名の研修を2セット。計500人の方々が参加者です。

 後者は、横浜市教育委員会ー東大・中原研の共同研究として、1年目教員、2年目教員、3年目教員、5年目教員、10年目教員、管理職の方々と、3年間にわたって、調査データを蓄積してきました。それらの知見をまとめ、サーベイフィードバックの手法を用いて、研修で皆さんにお返し、それらを素材にして、対話をしていただきます。
 この研修は、いわゆる「サンドイッチ方式」になっていて、2回目は2014年1月です。2回目は、1000人規模の大ホールで、10年次教員の方々の中で校内で実践を積み重ねた方々が、いわゆるTED風のスーパープレゼンテーションをする、という感じになっています。先生方のプレゼン、去年、かっこよかったですよ。

 僕が学校教育を離れて長い長い時間がたっていますので、僕自身が学校研究をすることは、もうないですが、いろいろなかたちでご縁がありましたので、横浜市教育委員会の方々とご一緒させていただいています。ありがたいことです。

 この知見は、教育現場の人材育成を研究する大学院生、元大学院生らと、書籍出版する予定です。

投稿者 jun : 2013年7月17日 16:53


弟子は「師が見ているもの」を見なければならない!? : 仕事の価値軸をつくることの意味

 伝統芸能の世界でよく言われる言葉のひとつに、

「弟子は、師を見てはいけない。
 師が見ているものを見なければならない」

 というのがあるそうです。
「ダバダー」と香ばしさが漂う(笑)、非常に含蓄のある、深い言葉ですね。

 この言葉、何度も見つめるうちに、つい考えてしまうのは、「師を見てはいけない理由」と「師が見ているものを見た方がいい理由」についてです。
 どうして、前者がネガティブで、後者が推奨されるのかについて、考えてしまいますね。

 先ほど述べましたように、この2つ自体、非常に多様な解釈を含みうる要素ですし、また、僕は伝統芸能とは、全く縁遠い世界に生きておりますので、もっともな解釈ができるとは全く思えないのですが、足りない知識を「妄想力」で補いつつ、この2つの部分で言いたかったことは、こんなことなのかな、と想像しました。

 すなわち「師を見てはいけない」とは、文字通り「師を観察してはいけない」という意味ではないのではないだろうか。
 もし、それが「弟子による、師の技の観察学習の否定」を意味するならば、「師 - 弟子という徒弟制」そのものへの「疑義」となってしまう可能性があります。
 むしろ、それは「師の過去を絶対化してはいけない」という意味として解釈可能なのかな、と。

 そして「師が見ているものを見る」とは、「今の師が、見ているものを見つめ、師が何を"よい"と思い、これから未来に向けてどういう方向に自らを発展させようと思っているのか」を想像しながら、己の稽古・自己研鑽をつめということなのかな、と思いました。

 もっとざっくり述べるのならば、「師が見ているものを見ること」で、「よい芸とは何か?」を考え、「さらによりよくあるために何を変えなければならないかを考える」、ということでしょうか。「芸のよさ」という曖昧なものに関する「価値軸を」つくる、といってもいいのかもしれません。

 ま、上記は、小生の妄想力たっぷりの(たぶん誤解を相当含む)解釈ですが、どうかご容赦ください。ぜひ、伝統芸能の先生方に、解釈を伺いたいものです。

  ▼

 ちょっとレベルもコンテキストも異なるので、ここは明確に「論理的飛躍」することを「予告」しつつ、「論理飛躍」しますけれども(笑・・・伝統芸能と一般の企業を重ね合わせることは明らかに変です)、最近、僕は、よく思うことがあります。

 それは、仕事にとって「価値」「軸」「基準」というのは、本当に大切だな、ということです。
 そういうものを、いかに仕事をおぼえるときに、つくりあげていくのか。それが出来ている人と、できていない人では、その後の熟達が変わっていくな、と思うのです。

 先日も、あるマネジャーの方と話していたのですが、

 なぜなら「何がよい仕事なのか」をつかめていないひとに、どんな手法や技法を教えても、なかなか、役に立たないよね。だって、価値とか基準がないから、打ち手をたくさんもっていても、間違った方向で使っちゃうんだよね・・・

「師が見ているものを見ること」には、そのことに関するヒントが何かあるような気がしております。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年7月16日 10:23


手話カフェ「Social Cafe Sign with Me」のおいしいスープランチを食べよう!

 連休中、皆さま、いかがお過ごしですか?

 小生のブログは、いつも「ゆるい」ですが、今日は、休日ということもあり、さらにゆるい話題。今日の話題は、最近、小生がよく出かけている「手話カフェ:Social Cafe Sign with Me」です。文京区・本郷の東大赤門近く、通りの反対側に、そのカフェはあります。

sign_with_me.png

Social Cafe Sign with Me
http://signwithme.in/

 こちらのカフェ、聴覚障害者の方が立ち上げ、耳が不自由な方がスタッフをつとめておられます。公用語は「日本手話」と「書記日本語」。
 でも、手話ができなくても、全然大丈夫です。食べたいものを「指さして」注文することができます。店内にはいったら、まずはカウンターで注文なさってください。

 メニューは、ヘルシーなスープが中心です。ここが、小生にはとても嬉しい。本郷には「がっつり、ドカンと、肉肉肉的なお店!?」は多いのですが、ヘルシーなランチを提供してくれるお店は、非常に少なく思います。ランチには、スープ、ランチ、サラダがついてます(他にもいろいろありますよ)。
 もちろん、がっつり食べたい方も、プレミアムスープというものがあり、こちらは、かなりのボリュームです。

 とくに小生がお薦めしたいのは、ここのパンです。ヒーティングされてサーブされる、このお店のパンは、本当においしい。

 開店への経緯は、こちらで出版もなされているようです。今度、小生も読んでみたいと思っています。

 というわけで、本郷、東大にお越しの際には、ぜひ、こちらにおこしください。おすすめのお店です。

投稿者 jun : 2013年7月15日 14:42


「何がわからないか言ってごらん」という言葉は「わからなさ」をさらに増す!? : 「かみこんで」やらな、変わりまへんな!

 昨日は、臨床心理士の先生との対話を通して、僕が印象的だったことをお話ししました。
1)「なぜ〜しなかったんだ」という言葉は「理由」を聴いているわけではないこと。2)さらには「なぜ〜しなかったんだ」は二重拘束を内包すること、について、ゆるゆると書きました。

  ▼

 実は、臨床心理の先生とお話していて、もうひとつ興味深いことがあったので、今日は、その話です。それは、

「何が、わからないか、いってごらん。なぜ、わからないんだ!」

 という言葉です。
 この言葉も、おそらく、上司 - 部下の関係の中で、あるいは教員 - 子ども、親 - 子どもという非対称な関係の中で、用いられる可能性が高い言葉のように思います。そして、これは相手を追い込んでしまう言葉として機能する可能性が高い、ということです。
 つまりは「わからない側」、つまりは、言われる側を、必要以上に困惑させてしまう言葉のひとつだ、という話でした。

 なぜか?

 それは「わからない人」は「自分が、何が、わからないか」すら、「わからない」ことが多いからです。
 「自分が、何が、わからないか」すら、「わからない」人に、何を問うても、それ以上、説明はできません。どんなに彼が「頑張って」も、どんなに「努力」をしても、「何がわからないか」を「わからない」人には、「わからなさ」を口にできないのです。
 むしろ「何がわからないか」をわかっていない人に、「わかっていない理由」を「なぜ」と問うても、かえって、「わからなさの濃霧」は増して、濃くなるばかり。さらに、プレッシャーがかかるので、場合によっては、パニックです。そんなとき、人は、沈黙を守り、肩をすくめ、怯えるのです。

  ▼

 臨床心理の先生は、「なぜ、わからないか?」を考えるのは、「わからせる側」の責任だとおっしゃっていました。
 たとえば、教育の現場ならば、「相手がなぜわからないか」を考えることは「教える」という活動の根幹であり、それは「教員」が「考えるべき問題」であるということです。

 おそらく、こういうときはひとつひとつ相手の理解を確かめていくこと。相手がどこまでわかっているかを確認していく作業が必要であるように思います。そもそも何が起こったのか。何をしようとしたのか。ひとつ足を一歩手前に引いて、そもそも、の部分から理解を確かめていく必要があります。

 そんなことを考えていたら、先日、ヒアリングでお邪魔した、あるマネジャーさんの言葉を思い出しました。彼は、「言葉にならない人」に、ひとりひとり「かみこんで」、言葉にすることを促します。

 言葉にならない人はいるんですわ。そういうひとは、ひとつひとつプロセスみてやって、行動とか、考え方とか、「かみこんで」やらな、変わりまへんな。

 ここまでわかっているか。 なぜ失敗したんや。次、どうすりゃええねん。ひとりひとりに、かみこんでいくんです。

 皆さん、苦労なさっていますね。

 それにしても、異なる学問分野の先生との対話は、刺激的です。なかなか深く考えさせられました。ありがとうございました。

 そして人生は続く。 

投稿者 jun : 2013年7月13日 07:31


「なぜ〜しなかったんだ?」は理由を聞いている言葉ではない!? : 言葉の背後にひそむ二重拘束

 昨日、お仕事で長く臨床の現場でカウンセリングにあたってきた臨床心理士の先生とお話する機会を得ました。
 僕は、カウンセリングも、よもや、臨床心理も、全くのズブのドシロウトでしたので、非常に学ぶことが多く、興味深くお話をうかがいました。

  ▼

 臨床心理士の先生とのお話は、どのお話も面白いものでしたが、最も印象的だったのは、

「なぜ〜しなかったんだ?」

 という言葉の「意味」です。

 こうした言葉は、部下がミスをしでかしたとき上司が、その理由を問い詰めたり、子どもが悪いことをしたとき親が用いる言葉です。僕もふくめて、一般に、よく使われるのではないでしょうか。

 「なぜ〜しなかったんだ?」という言葉は、上の立場、つまりは、問う側の立場から、文字通り解釈すると、「理由」を聴いているように思うかもしれません。文体上、「なぜ?」と問うているので、「理由」を聴いていると解釈できます。

 しかし、これを「言われる立場」、つまり「問われる立場」の方から見ると、それは「理由を聞かれている」のではない。むしろ「おいそれと、理由を答えられないような、無条件の叱責」に感じる、というお話が、非常に興味深いことでした。
「なぜ?」と問われていることは、もはや、どうでもよくて、「〜しなかったこと」を無条件に責められていると感じることが多いそうです。
 もちろん、「理由」を冷静に聞いている場合もあるのでしょうが、「そう、感じない」場合も多い、というのが興味深いことでした。

  ▼

 確かに、この言葉は、よく考えてみると、「二重拘束」を含む言葉のようにも感じます。

 なぜって?

 もし、仮に、怒られている方が、「なぜ〜しなかったんだ?」という問いに、簡単に「理由を答えて」しまえば、

「なぜ、理由がわかっているのに、やってしまったんだ!」

 とさらに怒られそうです。
 じゃあ、反対はどうか。
 今度は「なぜ〜しなかったんだ?」の問いに、「理由を答えなかった」とすれば「なぜ?答えない!」としても、さらに怒られる。

 要するに、どっちにしても、「さらに怒られる可能性」がある言葉なのです。だから、人は、その言葉に怯え、すくむ。

  ▼

 このようなことは、僕は、これまで一度も考えたことがないことでした。

「何気なく用いている言葉ひとつで、相手を追い込んでしまうんだな」

 学びの多いお話でした。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年7月12日 07:34


マネジャーとは「グレー」を生きること : 白とも、黒ともいえない不確実な世界

 今さらジロー、いわずもがな、アタリマエダのクラッカー(死語)ですが
 
 マネジャーとは「グレーを生きる」こと
 
 です。

「グレー」という言葉は、悪い意味で、言っているわけではありません。まして、マネジャーが「腹黒さん(ハラグロ)」だと言っているでもありません。そういう方もいないわけではない、とは思いますが、ここで問題にしたいのは「ハラグロマネジャー」ではありません。むしろ、ここでは「マネジャーが、正解・正しさのない世界を生きること」をもって「グレーを生きる」と形容して今宇s。

 マネジャーの生きる世界を「グレー」と形容することには、いくつか意味があります。
 時間がないので、ひとつだけかかげるとすれば、その「意思決定の難しさ」について。
(マネジャーになれば、見たくないものも見なくてはならない、という意味で、グレーな世界を生きる、ということも言えるのですが、ここでは、それらについては扱いません。むしろ、意思決定に話を絞ります)

  ▼
 
 マネジャーが意思決定するさいには、判断の根拠となるような情報が必要です。しかし、マネジャーは、多くの場合、実務担当者よりも多くの「現場粘着情報」を得られることは「希」です。
 現場とは「現在進行形」「具体性」「複雑性」「予測不可能性」「即興性」の支配する場所。そこには「現場にぴったりと張り付いている情報で、現場にいかなければわからない情報」、すなわち、実務担当者としてそこにいあわせなければ獲得できないような「現場粘着情報」がたしかに存在します。

 実務担当者は「現場粘着情報」を持ち合わせますが、多くの場合、マネジャーはそれを持ち合わせません。実務担当者とのコミュニケーションを通じて、「現場粘着情報」を「間接的」に確保するしかありません。もちろん、マネジャー自ら現場にいくこともできるのですが、多くの場合、彼 / 彼女の時間には限りがあります。多くの場合は、「間接的な情報」をもとに意思決定をしなくてはなりません。
 しかし、そうした「情報の間接性」にもかかわらず、意思決定を行い、さらには「責任」をとらなくてはならない。この「判断に必要な現場観は、なかなか持ち合わせられないのにもかかわらず、一方で、責任をとること」が求められることに、マネジメントの難しさが、あらわれます。

 そして、マネジャーが「グレーな世界を生きる」といわざるをえない最大のポイントは、意思決定を即時に求められる、その内容にあります。すなわち、マネジャーのもとに寄せられる問題の多くは、本質的に「白、黒はっきりしない」、そもそも「グレー」なものであることが多いのです。「白」とも「黒」とも、一意に答えが求められない。まさに「正解」がなく、正しさが担保できない。そうした実務担当者では判断がつかない「グレーな問題」が、マネジャーのところにまで「上がってくる」のです。

 「あっちをたたせれば、こっちがたたない」
 「こっちがたてば、あっちがたたない」

  あるいは、

 「半分」は賛成しているけれど、「半分」は反対している
 「押し切れないこともない」が、押し切ったら、何が起こるかわからない

  あるいは、

  短期的には、こうやればいいけど
  中長期的には、このままでは破綻する

  あるいは、

 「やったらダメ」とは書いてないけど、
 「やってよい」とも書いてない
 「やってよいか、ダメ」かは、やってみないとわからない
 
  あるいは、
 
 「リスク満点だが、目標達成できる選択肢」を選ぶのか、
 「リスク極小だが、惨敗する選択肢」を選ぶのか

 マネジャーのもとに寄せられる課題のいくつかは、そのようなものです。
 マネジャーのもとに、こうした「グレーな選択」が押し寄せるのは、もし「白黒」がはっきりしているのなら、「正しさ」がはっきりしているのなら、担当者レベルで「現場粘着情報」をもとに、即時に意思決定され、実務担当者の仕事の範囲内で、実行される可能性が高いからです。だから、そこでは判断つかないものだけが、上に上がってくるのです。

 かくして、マネジャーは「グレーを生きること」になります。
 マネジャーになることとは「比較的白黒はっきりした世界」から「グレーな世界」への移行なのです。

 しかも、この「グレーっぷり」を、なかなかマネジャーは口に出せないことがあります。場合によっては、部下には「グレーな世界」を「白黒のはっきりした世界」のように「見せ」なくてはなりません。
 現場で自信をもって仕事をしてもらうためには、部下には「グレーな世界」をそのまま見せてはならない局面が、ないわけではありません。「グレーな世界」を「クリアな世界」に演出することも、時には求められます。

 ▼

 ここ数年、公益財団法人・日本生産性本部の矢吹恒夫さん、大西孝治さん、野沢清さん、木下耕二さん、中村美紀さんらと、「実務担当者からマネジャーになる役割移行のプロセスは、いったい、どのように進行するのか?」「役割移行のプロセスの中で、マネジャーが抱える課題を、どのように支援したらいいのか?」「マネジャーが自分のマネジメントを内省し、自分のマネジメントスタイルを発見してもらうのか」を探究するプロジェクト「マネジメント・ディスカバリー(Management Discovery)」で、議論を続けてきました。

 このプロジェクトのプロセス、そして自分が日々行っているマネジャー向けのヒアリングの過程では、たくさんのマネジャーの方がたにお逢いしましたが、こうした状況を、まえむきにとらえ「だから、マネジメントの仕事は楽しい」と考えられる方々もいらっしゃいます。また、こうした「実務担当者からマネジャーへの役割移行」において、こうした「仕事の変化」に戸惑う方もいらっしゃいます。

 いずれにしても、大切なのは「マネジメントとは何か?」を改めて学ぶことであり、少し経験を積んだあとで、折りにふれて、自らのマネジメントを内省することであるように思います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年7月11日 08:23


「精度の高い教室セッティング」のお話:教えやすく、学びやすい環境をつくること

 ご本人はとても謙遜なさる方ですし、敢えて、ここでお名前をお出しすることで、ご迷惑をおかけしてはならないと思いますので、敢えて、本日、みなさんに、ご紹介する方の名前を、Sさんとしておきます。

 Sさんは、ある社会人教育施設で、「研修事業の教室 / 教材等のセッティング」を担当なさっている方です。僕は、その施設で、数年にわたり、授業を行ってきました。

 今日、Sさんを、皆さんにご紹介したいのは、彼の行う「仕事の精度」についてです。その仕事の丁寧さが、半端ではない。そして、僕は、そうした丁寧な仕事に、ずいぶん助けられてきました。心より感謝しています。

  ▼

 Sさんの「教室セッティング」は、いわば「名人芸」です。
 それは授業者にとって「教えやすく」、学習者にとっては「学びやすく」配慮されています。

 教室内の可動式の椅子やテーブルは、非常にどっしりと安定的です。ガタつくことはありません。そして、それらは、人が通りやすく、かつ、それでいて、きちんとした放射状の配列で、寸分、違わず置かれています。
 
 PCに利用するケーブル類は、きちんと揃っておかれており、講師が、あれこれ、悩むことがない。いつものように、PCをもって、いつもの場所にあるケーブルをさすだけ。これでセットアップは完了。

 教材、教具、授業に必要な書類等をおく場所は、決められた場所に、決められたように置かれており、これも、授業者や学習者が迷うことはない。

 ホワイドボードは、1点の汚れなく磨かれている。マーカーをひとつ取り出してボードに描いてみると、スッと線が伸びる。インクがかすれて、描けなかったことは1度もない。常に、赤、黒、青を2本ずつ。決まった場所に、あたりまえのようにある。

   ・
   ・
   ・

「教室のセッティング」は、重い什器の移動も含むため、なかなかの重労働です。
 おそらくは、事務局役のSさん(こちらもSさんですね)、セッティング係のSさんが協働なさって、このような事前準備を行っていると思うのですが(感謝!)、それにしても、授業者として教えていて、こうした、一見、「人目につかないような精度の高い仕事」がいかに助かるか、を本当に思うのです。

 あらゆるものが、そこに、あたりまえのようにある。
 そこで授業者は、何のストレスなく、目の前の学習者に真正面から「正対」し、彼らに対してだけ、目配りを行い、真剣勝負を行うことができる。講師自らが、その前段階の作業を補完したり、学習環境をつくりなおす必要がない。誠にありがたいことです。心より感謝いたします。

 ▼

 何? 今日の話は、教室のセッティングの話?

 読者の中には、今日の僕の話を、大げさに思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし、そうではないのです。以前、事務局考という内容で記事にしたことがあるのですが、「学びの機会」は、コンテンツエキスパートである授業者や講師だけでつくられているものではないのです。

「事務局」考
http://www.nakahara-lab.net/blog/2010/08/post_1733.html

 むしろ、事務局をつとめてくださる方々、そして、教室をセッティングしてくださる方々が、いかに高度な仕事をしてくださるかで、そのクオリティが決まります。
 彼らが高度な問題解決を行って下さいますと、僕は、受講者に伝えたいコンテンツをいかにデリバリするかに集中することができるようになりますし、受講者とのインタラクションを非常にきめ細かい対応をすることが可能になります。
 逆に、こうした「下準備」が疎かですと、授業者は学習者に「正対」することができません。コンテンツのデリバリも疎かになり、インタラクションも粗くなります。

 授業をなさった方なら、おそらくご経験があるかと思うのですが、

 なかなか、つながらないネットワークケーブル
 インクがかすれているのに、交換されないホワイトボードマーカー
 ガタガタする机や椅子
(どことは言いませんが、インクがでないホワイトボードマーカーしか存在しない、教育施設もありますね・・・僕は自分のものを持参することもあります)

 こうしたものは、いわゆる「学習の衛生要因」です。しかし、これらの「衛生要因」すら満足ではない場所も少なくありません。これらに、悩まされることが、授業者としていかに多いか。その多くはメインテナンスの問題であることが少なくありません。そして、そのたびごとに、授業者の時間は失われていきます。

 1年を単位として、場合によっては複数年にわたって実施されるような学校教育とは異なり、社会人教育の圧倒的な違いは、「学習時間の短さ」です。特に忙しいビジネスパーソンを相手にするときには、「短い学習時間」は授業者と学習者の「真剣勝負」です。

 数時間という「圧倒的な短さ」の中で、伝えるべきところを伝えます。しかし、デリバリするだけでは不足です。その中でも問いかけ、「考える時間」をつくり、さらにはアウトプットを出して、議論していただく必要があります。
 こうした仕事は、本気の本気の本気の真剣勝負です。多くの場合は、授業者ひとりでは、準備からデリバリまで完走することはできません。学習者と「正対」し、真剣勝負を行うために、事務局をつとめてくださる方々、そして、教室をセッティングしてくださる方と連携する必要があります。

 そして、こうした方々の仕事は、もはやロジスティクスや裏方ではありません。ラーニングエクスペリエンス(学習経験)を講師とともに共同創造する存在なのです。人によって考え方は異なりますが、僕は、そう思って仕事をしています。

  ▼

 今日のお話は、研修、セミナー、授業などの、いわゆる社会人教育を支える裏側の方々の奮闘でした。
 社会人ふくめて、よく教育施設が話題にのぼるといいますと、よくハードの立派さ、ハコモノのゴージャスさ、空間デザインのかっこよさ、などが話題にのぼりますが、そういうソフト面での、きめ細かく、ホスピタリティあふれる、精度の高い仕事が、いかに大切かを僕は痛感しています。

 そういう方々のご努力に、今日も支えられて、仕事をしています。
 心より感謝しています。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2013年7月10日 06:20


下を向いて、一点凝視し、指だけ動かす人々の「筋肉的疎外」

「筋肉を見れば、その人の仕事、生活は、ある程度わかるものです」

 先日、お世話になっている鍼灸師さんが、こんなことをおっしゃっていました。

 曰く、

「特に、ここ数年は、肩胛骨と首の緊張が強い人が増えています。ずっと動かず、座った姿勢を維持して、首だけ下を向けて、目で細かいものを1点凝視し、さらには指を動かす運動。そうですね、オフィスでノートPCに向かっている作業が想像できますね。だいたい、肩胛骨と首の緊張が強い人は、ホワイトカラーのビジネスパーソンです。最近では、その症状に、スマホでの細かいが追い打ちをかけていますね。この動作も、基本的には動きはないのですが、首と目と指だけを動かす作業なのです」

 かつて、演劇実践家のアウグスト・ボアールは、人が企業・組織内で仕事をしていくことによって身体・筋肉に変化が受けることをさして「筋肉的疎外」という概念を提案しました。

 人は、自分がなしている労働に応じて、少しずつ身体が変化し、立ち振る舞いが変わってきます。その仕事、その仕事ごとに強張る筋肉の部位が異なり、獲得されていく立ち振る舞い方は、異なるのです。
 ゆっくりと、だが確実に、ひたひたと、本人のあずかり知らないところで、あなたの身体は「組織化」されていきます。それが「筋肉的疎外」です。

 あなたは、どちらの筋肉が「疎外」されていますか?

 1960年代、おそらくボアールが「筋肉的疎外」の概念を提案したときに、彼の脳裏にあったのは、「激しい動きをともなう、つまりは、実作業をともなうような労働」による筋肉の「疎外」では、なかったか、と妄想します。
 現在のように、オフィスで座ったままで、しかし、決まった動作による動きがないのにもかかわらず、筋肉が「疎外」されてしまう事態を、あまり想定してはいなかったのではないでしょうか。

「現代社会は、マイム芸で、表現しづらくなっている」

 そう口にしたのは、パントマイムの始祖のひとりである、フランスのマルセル・マルソーです。
 本来、マルソーが表現手段とするマイムは、「動き」を戯画化し、表現しなければならないのに、現代社会の労働には「動き」そのものがなくなってきている。だかこそ、現代は、マイムで表現しにくくなっている。先ほどの話と重ね合わせるならば、マルソーの言葉は、このようにも解釈できそうです。

  ▼

 かくいう僕も、首、肩、肩胛骨、腰などに多くの痛みを感じています。時には頭痛がするほどで、そんなときは、何もやる気がしません。原因ははっきりしていて、ノートPCの過剰使用によるものです。

 ストレッチをしたり、泳ぎにいったり、ジムにいったり、ストレッチポールにのったり、スロトレしたり、いろいろして、何とかかんとか、騙し騙し暮らしていますが、まぁ、困ったものです。
 でも、仕事や執筆を放り出すわけにもいかないので、まぁ、よいつきあい方をしなくてはならないな、と感じています。皆さんは、いかがでしょうか。

 そして人生は続く。

 ---

追伸.
 今週の日経ビジネスには、三週にわたって続いた連載の最終会です。藤原和博さんと中原で「内省を生み出す人間関係」について論じあっています。もしよろしければ、どうぞご笑覧ください。藤原さん、編集にあたってくださった日経の中野目さん、構成・ライティングをいただいた秋山さん、ありがとうございました。

fujiwara_nakahara.png

投稿者 jun : 2013年7月 9日 07:55


「実践を為すこと」と「実践を記録すること」:写真による簡単ドキュメンテーションムービー

 この週末に開催されたラーニングイベント(研究会)「対話をうみだす実践知をさぐる」の新たなドキュメンテーション(記録)です。

 今度は、料理写真家として活動しながら、学び系ワークショップにも興味をもち、多くの実践現場で写真をとりためている「大崎えりや」さんの写真によるドキュメンテーションですね。写真というのも、また味わい深いですね。

kikuchi_presen.jpg

 プロの写真家の方で、「学び」に興味をもってくださる方が、今後も増えていくことは、非常に嬉しい事ですね。
 大崎さんにも、みなさんの方で、もしお依頼がございましたら、ぜひ、声をかけてあげてください。大崎さん、このたびは、撮影ありがとうございました(心より感謝!)。

写真家・大崎えりやさん Facebook
https://www.facebook.com/eriyaosaki

知っておきたい「結婚式での写真撮影テクニック」4つ(大崎えりやさん記事・こちらも興味深いですね!) http://www.men-joy.jp/archives/88013

 今回のドキュメンテーションは、大崎さんの写真をもとに、小生が、ムービーをつくったものです。作成時間は30分。ムービーとして書き出す時間(レンダリングの時間)の方が長いくらいです。要するに、お手軽ムービーです。

kato_presen.jpg

 写真はプロですが、小生の編集は「しろうと丸出し」「適当パンチ」ですので(時間と体力の限界)、あしからず。
 でも、いかがでしょうか、曲とメディアがかわれば、イメージがかわりますね。どうぞおたのしみください。

   ▼

 今日は、先日の「対話のイベント」のドキュメンテーションのお話でした。
 実践とは、「現在進行形」で、「具体的」で、「即興性」を帯びて進行する人々の行為です。それは、ほおっておけば、かならず忘却の彼方に向かいます。よって、実践にとっては、ドキュメンテーション(記録)はとても大切なことです。

 それは、実践にかかわる人々のリフレクション、専門性発達の機会を提供する可能性がありますし、それがパブリックに公開された場合には、今は、実践にかかわっていない多くの人々に感心をもってもらうことができます。
 そういう意味では、ドキュメンテーションは、学びのサプライサイドと参加者のためだけのものではないのですね。それは、コミュニティ形成にもつながります。多くの実践で、「実践をなすこと」とともに、「実践を記録すること」が重視されているのは、そういう理由です。

 実践を為すこと
 実践を記録すること
 そして、
 実践を残すこと
 実践にかかわる人々を増やすこと

 これらは、すべて「同じこと」の裏表であるような気がします。

 というわけで、僕といたしましては、Management × Learningに興味をもってくださる方が、さらに増えていくことを願っております(笑)。

jun_presen.jpg

 また近いうちに公開研究会を開催させていただきます。
 どうぞ、ご都合・ご関心があえば、どうぞおこしください。
 なお、中原の主催するイベント等のご案内は、中原研究室メルマガで行いますので、ご登録をご検討ください。
 楽しく怪しいイベントはご紹介いたしますが、怪しいツボをご案内することはありません。ご安心を!

中原研究室メルマガ(研究会やイベントのご案内メルマガ)
http://www.nakahara-lab.net/learningbar.html

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年7月 8日 07:39


【速報版報告】「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」、本日無事終了いたしました!(感謝です)

 本日は東大で「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」というラーニングイベントを開催しました。すべての日程を終え、ただいま、自宅にかえってきました。

7/6(土)「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」(参加申し込み〆切済)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/_vs.html

 詳細は、また別の機会にブログでご報告いたしますが、取り急ぎ、本日の中原のイントロ・ラップアップの資料を公開させていただきます。

 本日の様子をおさめたショートビデオはこちらです。

 ビデオの方は、時間がないのと、もう僕の体力も限界に近づいてきているので、本当にただつないだだけです。これだけ見ても、「ぎょうざじゃんけん」して「エアなわとび」して、みなで話し合ってように見えちゃいます(笑)。今日の裏テーマは「対話や様々なエクササイズを通して、対話をうみだす実践知を学ぶこと」でした。様々なエクササイズやワークを実施しましたが、主に、その様子をつなぎました。

 もちろん、両先生方、舘野さんらには、対話が必要になる社会的背景、実践知を問題提起いただき、「なぜ、対話が必要なのか」について皆さんで探究しているのですが、そこまでは、実際に、この場に居合わせていただかないと、お伝えすることが難しいようです。
 当日の雰囲気だけ、おたのしみください。「あっ、楽しく、皆さん、学べたんだな」ということを、その雰囲気を、おわかりいただければ幸いです。

 最後になりますが、素晴らしいプレゼンテーション&エクササイズをいただいた菊池先生、加藤さん、そしてディレクターをつとめてくださった舘野さん、保田さん、コンセプチュアル・スイーツをつくってくださった大塩さん、そしてお手伝いいただいた学生の皆様、またご参加いただきましたすべての皆様に、この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年7月 7日 00:13


【参加者募集】コンドルズ・近藤良平さん、心理学者・有元典文先生をお招きして、ダンスパフォーマンスを通してモティベーションを考える(経営学習研究所・岡部大介理事企画)

 経営学習研究所・岡部大介理事(東京都市大学)の注目、興味深い、新企画です。
 とても楽しみですね!

「コンドルズ・近藤良平さん、心理学者・有元典文先生をお招きして、ダンスパフォーマンスを通してモティベーションを考える」

申し込みサイトはこちら!
http://ow.ly/mHNT5

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経営学習研究所 ギャラリーMALL
「行為の動機を行為する:ダンス・パフォーマンスを通してモチベーションを考える」
KEYWORD : モチベーション、身体、表現、デザイン
日時:2013年7月28日12時から15時
会場:内田洋行 東京ユビキタス協創広場CANVAS地下1階
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■企画趣旨:ギャラリーMALL「行為の動機を行為する:ダンス・
パフォーマンスを通してモチベーションを考える」

 皆さま、いかがお過ごしでしょうか、経営学習研究所の岡部です。
今日は、イベントのご案内があります。来る7月28日(日)、経営
学習研究所企画のギャラリーMALLイベントを開催させていただく
ことになりました。

 今回のイベントは、

【行為の動機を行為する:
 ダンス・パフォーマンスを通してモチベーションを考える】

です。

 ワークショップなどに参加している時、ついつい頭で考えてしま
って、経験に意味付けてしまうことはないでしょうか?会社や学校
で「この活動には何の意味があるのですか?」と聞く/聞かれるこ
とはないでしょうか?こんな時の私たちは、「経験には意味がある」
というアタマ(前提)になってしまっていませんか?

 この「とらわれ」自体を、疑ってみませんか?

 私たちにとって「経験に意味付けること」、「経験について考え
ること」は意外に簡単で、むしろ、経験の価値を信じて「考えない
こと」の方が難しくなってきているとも言えます。

 今回のギャラリーMALLでは、舞踏家の近藤良平さんのファシリ
テーションのもと、「考えない」で、即興的にからだを動かす実
験的なワークショップを行います。経験を頭で考えるのではなく
、身体の経験そのものを行為してみませんか。このワークショッ
プの「お土産」は頭での理解ではなく、行為の経験そのものです。

 このたびご登壇いただくのは、
 NHK「サラリーマンNEO」内「テレビサラリーマン体操」や同
朝の連続テレビ小説「てっぱん」オープニングダンスを手掛け、
今秋、スポーツ祭東京2013の式典演技総演出を担当する舞踊家の

 近藤良平(こんどうりょうへい)さん

 学習心理学がご専門で、「デザインド・リアリティ:半径300
メートルの文化心理学」の著者である、横浜国立大学教育人間科
学部の有元典文(ありもとのりふみ)さん

 です。

 おふたりのこのワークショップでの企みは、参加者が行為の
動機を実際に経験する事です。頭で考えるだけなら誰でもでき
ます。誰もが意欲や動機、プランを持つ事があるでしょう。た
だし、そこまでは頭の中での話しです。

 頭の中で考えることと、実際にパフォーム(行為)すること
の間には、0と1位の無限の距離があります。「小説を書こう!」
「ゲームを作ろう!」「歌を歌おう!」と夢想したり動機を持つ
ことは誰でもできますが、実際に作品をつくり抜いたりパフォ
ームすることは、それとは全く別のこと。

 行為というのは頭の中に収まった思いとは異なり、対象や、
他者や、社会や、現実に、自分の身体ごと向かう事です。それ
は物理的な作用と、その社会的な反作用です。そのことで空気
や、モノや、相手の身体や、そして心が具体的に動き、影響さ
れることです。つまり世界との交流です。ついつい「考えて」
立ちすくむのではなく、行為の動機に身を任せ、世界に働きか
け、世界を受け止めることの意味と価値を、近藤さんのガイド
によってみなさんと一緒に体験したいと思います。

 今回のイベントは、企画趣旨にご賛同いただいた内田洋行教
育総合研究所さんの会場協力により実現しました。

 からだを動かすことを通した経験をふんだんに行います。
当日はラジオ体操が行える程度の動きやすい服装でいらして下さい。

 ふるってご参加頂けますと幸いです。
 身体ごと世界と交流しましょう。

■ゲスト:
・近藤良平氏(コンドルズ)
(舞踊家、振付家・コンドルズ主宰・
 横浜国立大学教育人間科学部非常勤講師)
コンドルズHP http://www.condors.jp/

・有元典文(横浜国立大学)(教育心理学)

■主催
一般社団法人経営学習研究所
http://mallweb.jp/

■共催
北樹出版株式会社

■協力
内田洋行教育総合研究所
東京ユビキタス協創広場CANVAS地下1階

■日時
2013年7月28日(日)12時から15時まで。
開場は11時30分を予定しています。

■会場
株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場CANVAS地下1階
http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas.html
JR・東京メトロ八丁堀駅または東京メトロ茅場町駅下車 徒歩5分
※近隣に内田洋行様の別ビルもありますのでお間違いのないように
お願いいたします。

■参加費・定員
お一人様、5000円を申し受けます。
定員50名
当日はソフトドリンク等の飲料と軽食、お菓子をご用意いたします。

■内容(予定)
11:30 開場(ドリンクや軽食、お菓子をつまんで下さい)
12:00 近藤さんご紹介、近藤さんのファシリテーションのもと、参加者全員で身体を動かします。
12:45 休憩と歓談
13:05 近藤さんのファシリテーションのもと、参加者全員で再度踊ります。
13:50 休憩と歓談
14:10 ラップアップ:ダンス・パフォーマンスを通した「考えないことによる学習」と「行為のモチベーション」について
15:00 閉会

■ 準備等
1.当日はジャージや運動靴などの動きやすい服装でお越し下さい。
(ラジオ体操が行える程度の服装が好ましいです。)
2. 当日は、更衣室を設けますので、会場にて着替えて頂くことが可能です。
3.施設内にシャワールームなどはありませんので、各自タオル・制汗剤などご準備をお願いします。
4.運動を行うことによる保険等は各自で加入下さい。

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■参加条件

申し込みいただいた方には、下記の条件についてご承諾いただいて
いるとみなさせていただきます。

1. 本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・ビデオ撮
影・ストリーミング配信する可能性があります。写真・動画は、経
営学習研究所、ないしは、経営学習研究所の企画担当理事が関与す
るWebサイト等の広報手段、講演資料、書籍等に許諾なく用いられ
る場合があります。マスメディアによる取材に対しても、許諾なく
提供することがあります。参加に際しては、上記をご了承いただけ
る方に限ります。

2. 欠席の際には、お手数でもその旨、 info [あっとまーく]mallweb.jp(松浦)  まで必ずご連絡をお願いします。

3.人数多数の場合は、抽選とさせていただきます。7月10日(水)
までにお申し込みください。7月11日(木)には抽選結果を送信させ
ていただきますので、あしからずご了承下さい。

4. 本イベントの内容は、一部、『デザインド・リアリティ』増補版
に収録されることを予定しております。ご了承下さい。

申し込みサイトはこちら!
http://ow.ly/mHNT5

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投稿者 jun : 2013年7月 6日 10:39


学校人と企業人の「幸せな!?出会い」

 学校教育関係の研究を離れて、もう10年弱です。最近の学校教育の問題、また、現場の動向については残念ながら把握していませんが、そんな僕でも、時折、学校関係の方々から「人材育成・人材マネジメント」という観点で、お声がけいただくこともあります。

 さすがに、メインは企業研究ですので、すべてにお答えすることはできません。ただし、最初にお声がけいただいた横浜市のお仕事と、生まれ故郷の北海道のお仕事だけは、できる範囲内で、お引き受けしています。

 ▼

 昨日は、企業の人事担当者 / 人材開発担当者の方々を対象にした僕の授業に、横浜市と北海道の学校教育関係者の方々がオブザーバ参加し、企業の方々とともに議論に参加して頂きました。それぞれ、どんな感想をお持ちになったかは、わかりませんが、ポスターセッションでは、熱心にお話をなさっていたのが印象的でした。

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 こういう授業を組織化したからといっても、もちろん、学校関係者の方々に「企業から一方向的に学べ」と思っているわけでは、断じてありません。「学校が、企業みたいなやり方を取り入れるべきだ」とも1ミリも思いません。

 僕自身、学校教育を離れてみますと、学校と企業は全く異なる職場環境 / 人材マネジメントシステムであることを、痛感します。
 おそらく、僕の場合、「学校のシステムの内側から企業を見る」のではなく、完全に「学校」の観点を離れ、「企業研究の外部の目から学校」を見ているので、なおさら、「学校と企業が違う組織体」であること思うのかもしれません。
 ふだんお話をすることが多いのは、企業の経営者、経営企画担当者、人事担当者、現場のマネジャーの方がた、そして経営学者の方々です。そういう方々の生きるシステムと、学校がいかに異なっているかを、痛感します。

 ですので、近年の学校教育のマネジメントに、「企業のマネジメントの用語」や「企業の人材マネジメントシステム」が、安易に導入されているのだとしたら、僕は「違和感」があります。「民間的経営」だか「民間のマネジメント」だか知りませんが、「民間」と冠がつけば「万能な処方箋」があるかのように語られるのは「明らかな誤解」ではないかと思います。だいいち、十把一絡げに「民間」といいますが、それは、いったい「何」を指し示しているのでしょうか。
 企業によって、事業によって、職場によって、マネジメントのシステムは相当に異なっています。企業のマネジメントシステムを、十把一絡げに「民間」と呼称することは、とても不思議に聞こえます。

  ▼

 ですが、とはいいつつも、「学校関係者」と「企業関係者」のあいだに「前向きな交流」はあったほうがいいようにも思います。それぞれの持ち味や状況の違いをしっかりと踏まえつつ、企業の人事の方々と、学校教育の関係者の方々が、建設的で前向きな刺激を与えあったり、お互いに学べるところを取捨選択しつつ、参考とすることには、よい効果があるような気がしています。

 ともすれば、企業と学校ともうしますと、「やれ、学校が悪い」「やれ、企業は黒い」と、お互いに責任をなすりつけあい、「批判の応酬」になる傾向があったような気がします。両者は、これまで「幸せに出会えて」いたのでしょうか。
 もちろん、両者のあいだで、批判はあってもよいのですが、願わくば、その前に「曇りのない目で、お互いの立ち位置」を見つめ合い、「対話する機会」が持った方がいいように思うのです。そういう機会をつくることが、今の僕にできるなのかもしれません。

 昨日の授業が、そのようなつながりのきっかけになったとしたら、幸いです。
 また土曜日(7月6日)には、企業の方々、学校教育の関係者の方々が参加する異種混交の研究会が開催されます。
 8月17日にも、こちらは大学ですけれども、大学関係者と企業関係者の出会う研究会が開催されます。お互いの違いを認識しつつも、違いを愉しみ、対話できる場所になることを願います。
 グローバルな競争にさらされている、この国には、人材の観点から、「やれ学校"が"悪い」「やれ企業"が"悪い」と「がの応酬」をしている暇は、残念ながら、ありません。また「がの応酬」をしていても、事態はいっこうに解決されません。僕は、そう思います。

8/17(土)【参加申し込み中】「就職、キャリア、大学教育のフロンティアを知る : 大学生研究フォーラム2013「大学生の今、変わる企業:学生のうちに経験させたいこと」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/07/post_2042.html

7/6(土)「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」(参加申し込み〆切済)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/_vs.html

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年7月 5日 08:41


就職、キャリア、大学教育のフロンティアを知る : 大学生研究フォーラム2013「大学生の今、変わる企業:学生のうちに経験させたいこと」

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就職、キャリア、大学教育のフロンティアを知る
大学生研究フォーラム2013
「大学生の今、変わる企業:学生のうちに経験させたいこと」
8/17(土) 東京大学・本郷キャンパス 無料
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8/17(土)、毎年恒例となりました『大学生研究フォーラム2013』
を開催いたします。

今年のテーマは「学生のうちに経験させたいこと―」です。
 フォーラムは、まず、大学と企業の「今」を探ります。
 知っているようで、混沌としている「大学の今」としては

「大学生の学び、キャリア」(溝上慎一氏:京都大学)
「大学生のインターンシップ」佐藤博樹氏:東京大学)
「大学生の留学」(松尾泰樹氏:文部科学省)

 にお話をいただきます。
 一方「企業の今」としては、

「変わる採用」(田中潤氏:株式会社ぐるなび)
「変わる働き方・人材活用」(奈良崎修二氏:日産自動車株式会社)

 のお二人からお話をいただきます。
 その上で、大会テーマである「学生のうちに経験させたいこととは何か?」
を参加者のみなさま、全員で考える機会を持ちたいと考えております。

 基調講演には「教育が日本をひらくグローバル世紀への提言」とい
うことで、安西祐一郎氏(日本学術振興会 理事長)にご講演をたま
わります。総括パネルディスカッションには、吉見俊哉氏(東京大学)
、平田純一氏(立命館アジア太平洋大学)、笹倉和幸氏(早稲田大学
大学院)のディスカッションも予定されています。

 ぜひおたのしみに!

申し込みはこちらです!
http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/2013.html

 ーーー

主催:東京大学大学総合教育研究センター
   京都大学高等教育研究開発推進センター
   公益財団法人電通育英会
   (公益財団法人 電通育英会設立50周年事業)

内容:

■1日目(8/17):
◆基調講演「教育が日本をひらくグローバル世紀への提言」
 安西祐一郎(独立行政法人 日本学術振興会 理事長)

◆大学・大学生の今を知る
「大学生の学び、キャリア」
 溝上慎一(京都大学 高等教育研究開発推進センター)
「大学生のインターンシップ、企業」
 佐藤博樹(東京大学大学院 情報学環)
「大学生の留学」
 松尾泰樹(文部科学省 高等教育局 学生・留学生課長)
 【司会】中原淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

◆企業経営のフロンティアを知る
「変わる採用」
 田中潤(株式会社ぐるなび 人事部門長兼総務部門長)
「変わる働き方・人材活用」
 奈良崎修二(日産自動車株式会社 人事本部 副本部長)
 【司会】中原淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

◆総括パネルディスカッション「学生のうちに経験させたいこと」
 吉見俊哉(東京大学 副学長/大学総合教育研究センター長)
 平田純一(立命館アジア太平洋大学 副学長)
 笹倉和幸(早稲田大学大学院 政治経済学術院/学生部長)
 【司会】大塚雄作(京都大学 高等教育研究開発推進センター長)

 お申し込みは先着順で、下記のWebサイトから行うことができます!
お早めにお申し込み下さい。

■企画詳細・申し込みはこちらです!
http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/2013.html

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投稿者 jun : 2013年7月 4日 11:32


学生の発表を聴きながら、ひそかに、僕がチェックしていること

 昨日は修士論文中間発表会で1日、審査にあたっていました。大学院学際情報学府の、今年の修士論文執筆予定者が、修士論文の計画・問題に関してプレゼンテーションを行い、複数人の教員が、それに対してフィードバックしつつ、質疑・ディスカッションをする。昨日は、そういう一日でした。

 中間発表は、発表をなさる大学院生の方が一番大変だと思います。まことにお疲れさまでした。よかったね、終わって(笑)。
 でも、一方で、発表を連続で聴く教員の方も、この日は、なかなか大変です。

 自分の研究分野とは必ずしも重ならない研究発表をはじめてうかがい、なるべく、学生のお役に立てるような情報を、即時にフィードバックしなくてはならない。
 現在、当該学生さんが抱えている「ロジックの飛躍」「実験計画や調査計画の盲点」を見抜かなければならない。それを、ただちに指摘しなくてはならない。

 それは、それで、なかなかの「知的重労働」で、昨日などは、帰り際の電車の中で、口をあけて爆睡してしまい、隣のオッサンによっかかっていました。かなり嫌がられた。ごめんよ、オッサン(オレもオッサン)。まことに迷惑な光景であったと想像します。

 いやー、それにしても、ハードな一日だった。

  ▼

 ところで、話題を変わりますが、大学教員などをしておりますと、年に数回、こうした発表会や審査会があるのですが、そのたびごとに、僕が試みている「知的チャレンジ」があります。

 それは、同じ研究発表を聴いている他の審査員の先生方と(複数人で学生の研究発表を聴きます)、どれだけ同じようなコメントを自分がすることができるか、ということです。
 同じというと、すこし語弊があるかもしれません。
 むしろ他の先生方と同じ知的鋭敏さで「問題の本質」を、どれだけ、見抜くことができるのか。そんな風に、自分の感覚を「自己チェック」する機会として、この審査会・発表会を役立てているのです。

 不思議なもので、本当に全く学問領域は異なるのですが、同じ発表を伺っていて、先生方がコメントする内容は、驚くほど似ているな、というのが、僕の「偽らざる感想」です。
 もちろん、言い方や表現、そして用いる専門用語は、それぞれに異なります。しかし、同じ発表を聴いたときに行う研究へのアドバイスは、「本質的には同じこと」を言っていることが、実に多いような気がします。

 ここで確かめたいのは、自分の問題把握力のズレです。
 別の言葉でいうと、

 自分の知的感覚、本質的な問題把握力が「まだまともか」を、他の先生方のコメントを「鏡」にして、確認している(オマエは、もうヤバイとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが)

 といったら言い過ぎでしょうか。
 まぁ、ひそかに愉しんでいる「おひとりさまゲーム」です。

  ▼

 僕にとって、昨日は、そういう日でもありました。
 結果は、ここでは述べませんけれども、まぁ、自分的には「まだまともかも」という感想を持ちました(笑)。自分が研究発表を聴いたときに思うことと、他の先生との認識の間には、それほどズレはなかった、と認識しています(オマエと一緒にすんじゃない、と怒られそうですが)。
 あぁ、よかった。

 一般に、

 人は「無能になるまで」成長する

 という言葉があります。

 とくにミドル以降というのは、他から、あまり指摘を受けなくなるので、自分の知的鋭敏さが、もし鈍ってきたとしても、なかなか自覚できない。しかし、ミドル以降こそ、自己に対して、かなり自覚的、かつ、内省的になる必要があるような気がします。
 自戒をこめていいますが、領域によっても、違うのかもしれませんが、何らかの機会をとらえて、常に、自分をチェックしていく必要があるのかもしれません。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年7月 4日 06:52


「ブラック臭がダバダーと漂う背伸びの仕事」とそこに忍び寄る「善意の権力」

「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」

 何と言ってもよいのですが、目の前の仕事や困難を、何とかかんとか、ひととおりこなすことで、能力形成につながったり、のちのち、成長や自信を実感できたりする仕事が、おそらく、社会にはあります。

 確かにそう。しかも、それはパワフル。
 僕自身も、あの仕事、あの研究は、自分にとって大切な意味をもったな、という出来事が、過去にあります。
(個人が、苦難の出来事を回顧した場合、その出来事は、自己にとって魅力的に物語化されることを勘案したとしても、上記は、おそらく言えることなのかな、と思います)

 しかし、一方で、「これらの言葉」は、「権力をもつ他者」によって「善意のデコレーション」をされたうえで、巧妙に、権力をもつものに都合のよいように「利用」される可能性もないわけではないから、注意が必要です。
 くどいようですが、ダメだ、といっているわけでは1ミリもありません。そこには、一定の注意と目配りと監視が必要だと言うことです。

 つまり、どこからともなく「ブラック臭」がダバダーと漂う仕事を、「この仕事は、あなたの"能力"や"成長"につながるから」という理由で正当化して、押しつける・・・「あなたの成長ために」
 やり抜けば「よかったね、能力が伸びて!」。失敗すれば「あなたが悪い。努力が足りなかったね、能力が伸びないね」で終わる。
 その仕事が「業務として妥当なものであったか、否か」「それを付与することがマネジメントとして適当であったかどうか」は問われることは少ない。
 そういう言説として「能力形成」「キャリア発達」という言葉が用いられるということです。

 誰の目から見ても「火ボーボー」状況で、誰一人かかわりたくない物事がそこにある。そこからは、香ばしい「危険な香り」がしているのにもかかわらず、「個人の能力や成長につながる」という言説を利用しつつ、この仕事を、他者に対して付与する。

 「近代」と「ポスト近代」にわたる「権力のあり方」を分析したフーコーは、近代のそれが「権力に従わなければ、罰を与える」という作動原理において体制化されていたことを明らかにしています。
 しかし、よく知られているように、ポスト近代の権力とは、そこまであけっぴろげで、あっけらかんとして、「そのまんまやん!」的ではありません。
 むしろそこで巧妙に利用されているのは「自己」です。
 ポスト近代の権力とは、「権力の指し示すベクトルにのるならば、あなたの今後は、よきものになるだろう」というかたちで、巧妙に「自己の関与」をとりこみ、「他者が自発的に動くという建前」を担保しつつ、他者の「管理」を可能にしたことを明らかにしています。
(これらの説明は僕の誤解もたぶんに含んでいるかもしれません。専門家ではないので、ごめんなさい。)

 以前も指摘したことですが、McCallらは、「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」が付与される際には、それらを引き受けるものへのサポート、それらを正統に評価する仕組み、メンタリングの仕組み(支援)など、各種のセーフティネットが必要であることを明らかにしていました。また、戦略への同期性、組織の目指すベクトルの明示も大切なことであると指摘しました。
 また拙著「経営学習論」でも述べましたが、「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」を作動させるためには、管理者から本人に対する仕事の説明、目標設定が行われ、意味づけがしっかりおこなわれる必要があります。
 しかし、前者の3つに比べて、後者の「警告」や「諸条件」の必要性は、忘れ去られる傾向があります。

 いま、仮に、喩えとして妥当かどうかは知りませんが、「走り高跳び」に喩えてみましょうか。
 たとえば、今、あなたは「走り高跳び」を数回しかやったことのない人だとして、コーチにバーの高さを設定される状況だとします。
 あなたはまだ走り高跳びをやったことがない。それなのに、そのバーが、たとえば、鳥人ブブカでも超えられなかったような高さ、6m20cmに設定されていたとしたら、困るでしょう。
 もし乗り越えられなくて、失敗してしまったときに、「じゃ、どう落とし前とってくれるんだ? おらおら」と聞かれても、困るでしょう。
 万が一、飛ぶことに成功して、受け身をとって着地しようと思ったら、そこに「穴」が掘ってあったら、衝撃、涙目でしょう。
 あるいは、走り高跳びをやると聞かされていて練習をしてきたのに、飛んだらすぐにルールが変わって、「走り幅跳び」になっていたら、びびるでしょう。せっかく飛ぶことに成功したのに、「何、頑張って、飛んでんの? 」と言われたら、信じるものを失った気がするでしょう。
 よい喩えかどうか知りませんが、お伝えしたかったことの一部は、そういうことでもあります(笑)。ごめん、この喩えは、あまり真に受けないでください。

 くどいようですが、社会には「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」として後付けされる仕事の機会が、たしかにあると思います。そして、それらはパワフルであり、そうした挑戦の機会を、得ていくことが大切だと思います。

 しかし、これらの言葉は、知らず知らずのうちに「悪意のある他者」によって「利用」される可能性があること。それらが作動するためには、種々のソーシャルサポートが必要です。

 それらが存在しない「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」とは、単なる「ブラックな仕事」です。「ブラックな仕事」が、「能力形成・キャリア発達」という「善意のデコレーション」で、人工的で、魅力的、かつ、甘美な香りを漂わせている、ということだと思います。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年7月 3日 07:01


走って、触って、はしゃいで、写真撮影ができる美術館!? : 「オバケとパンツとお星さま」

 Don' touch!からPlease Touchへ!

 先週末は、TAKUZOを連れて、東京都現代美術館で開催されている展示「オバケとパンツとお星さま」に出かけてきました。

3H1A5824.JPG

オバケとパンツとお星さま―こどもが、こどもで、いられる場
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/146/

 この展示は、子どもが好きな「オバケ・パンツ・お星さま」をキーワードに、アーティストの方々が、美術館を「子どもが、ありのままでいられる場所」とすることをめざしたものです。

 冒頭に述べましたように、一般に美術館とは、「Don' touch!(展示物には触ってはいけない)」ですし、さらには「Don't Run(走り回っちゃいけない)」「はしゃいじゃいけない(Don't play)」ですね。

 この展示では、この美術館のコードを、全く裏側に「反転」させます。つまり「走ること」「さわること」「はしゃぐこと」を真正面からとらえ、その上で、子どもと親が、アートをいかに愉しむことができるかに、挑戦しているように感じます。
 その挑戦は、美術館最大のタブーである「写真撮影」におよび、これを敢えて「可」としているところが印象的です。

 というわけで、ほれ、このとおり。

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 いつもは、美術館で、触っちゃいけない、はしゃいじゃいけない、走っちゃいけないと言われている愚息・TAKUZOですが、展示を愉しみ、遊び回っていました。

 とても素敵な時間を過ごすことができました。
 もちろん、美術館を出たあとは、なぜ一般の美術館では「触っちゃいけない、はしゃいじゃいけない、走っちゃいけない」かも話し合いました。

  ▼

 思うに、今回の展示は、究極的には「美術館とは何か?」を問うている気もします。特に「子ども」の行う「鑑賞」に関して、考えるきっかけをわたしたちに、投げかけている気がします。

 そんなことは、遊んでいる当の本人たちはどうでもいいことのようにも思いますが、子どもを遊ばせながら、僕は、そんなことを考えていました。

 ま、最後にややこしいことを書きましたが、純粋に、親にとっても楽しいです。ぜひ、お暇なら、お子さんを連れてお出かけ下さい。

 そして人生は続く

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追伸.
雑誌「日経ビジネス」で、6月24日号から三週連続で、藤原和博さんと中原の対談記事が掲載されています。もしよろしければご高覧ください。
 6月24日号では、「リフレクティブマネジャー」以降細々と続けているマネジャー研究、また、ここ数年ご一緒してきた日本生産性本部さんとの調査研究・開発研究の成果を中心にしながら「実務担当者からマネジャーのトランジション」のことを論じています。今週は、企業内外における能力形成・キャリア開発のことを話し合っています。

マネジメントディスカバリー
https://jpc-management.jp/md/
 
 対談相手の藤原和博さん、編集者の中野目さん、構成の秋山さんには、大変お世話になりました。ありがとうございました。

投稿者 jun : 2013年7月 2日 08:50


渋谷駅地下の「渋滞スポット」で考える!? : なぜこの場所は「渋滞」するのか?

 東急東横線のプラットフォームが地下に生まれ、装いをあらたにした「渋谷駅」。

 その構造は、結構、複雑で、最初のうちは、仕事で渋谷に訪れるたび、「迷子」になっていました。乗り換えに当社比1.2倍の時間がかかるのです。

 しかし、まぁ「慣れ」というのは恐ろしいものですね。最近は、かなりショートカットなども憶え、ずいぶん、はやく移動できるようになってきました。

  ▼

 ところで、「渋谷駅」と申しますと、駅地下の「ある場所」を通り過ぎるたび、僕は、「不思議な気持ち」になります。

「人間がどのようにして動き、行動するか、なんて予想することは難しいよな」

「ある光景」を見ると、そのように思うのです。
 わかる方はわかると思うのですが、その場所とは「地下の8番出口のエスカレータ前」です。ここは、渋谷駅地下の「渋滞」ゾーンではないか、と思います。

shibuya_transaction.png

 ここは、東急田園都市線から降りるお客さんがもともと多いのですが、さらに、最近では、東急東横線から渋谷交差点方面に向かうお客さんが、この場所で「クロス」するもので、「渋滞」が発生することが多いのです。
 お客さんのベクトルが、ちょうど、このスポットで「直行する=ガチンコする」イメージでしょうか。

Aさん「おれは、こっちの階段に登らなきゃならないんだよ。だから、長い列つくって、並んでるんじゃないか。なかなか列が進まないよー」

Bさん「わたしは、その"列"を突っ切って、マルキュー方面に行かなければならないのよ。どこに列つくられたら、困るのよ。ちょっと間をあけてください」

Aさん「おっ、なんか、変な人が、間に入ってきたぞ。もしかして、この女性は、オレの列に横入りしようとしてんじゃないか? 通さぬぞ、通さぬぞ」

Bさん「だから、あたしは、あんたの列なんかに1ミリも興味はないのよ。通せんぼしてないで、さっさとどきなさいよ。わたしが行きたいのはあっち! 列の向こう!」

 ・・・そら、進まんわな。
 
 こういうからといって、特に、駅の方に何か申し上げたい気持ちはありません。「渋滞」をつくりたい、と思う関係者など、いないわけで、何とかしたいと思っているでしょうから。
 よくこういう人の混んでいる場所で、どう考えても権限がなさそうに思われる若い駅員さんやアルバイトの方に「キレ」ているオッサンがいますが、そういうのを見るたびに、僕は切なくなります。何という「宛先のないメッセージだ」と。

 むしろ、そうした光景をみたときに、「人々の行動を予測して、流れをつくること」って難しいだろうなと感じます。また、「最低限のリソースで、現状をいったい、どのように変えればいいのかな」なんて、妄想が膨らむこともあります。

 おそらく、こちらの解決策を何とかうてば、どこかで、また違う行動が起きるかもしれない。そうすると、他の流れとバッティングするかもしれない。
 変更するといっても、新たにエスカレータ増設とか、穴ぼこトカーンと掘るといったことは簡単にはできない。ならば、最低限のリソースで、何を変え得るのか。そして、何も変えることはできないのか。これは、全くどうしようもないことなのか。
 
 かくして、考えると、人の行動、ないしは、人の行動を変化させるというのは、まことに興味深いものです。そして、そのように考えていると、大渋滞を抜けて、いつのまにか、外に出ています。

  ▼

 ま、かくして、誰にとっても「1ミリ」も得にならないお話から、週がはじまりました(笑)。渋滞をどのように変化させるかを考えることは、誰にも頼まれたことではないので、余計なお世話なのですけれども(笑)、皆さんのお近くにも、そのようなゾーンがないでしょうか? 鉄道会社の方には、そうした場所を極力少なくする努力を継続して頂くとして、そうしたゾーンで、ふと考えてみることも、面白いことのように思います。

 あなたの近くにふとしたことから「渋滞」が生じる場所はありませんか?
 それはなぜ「発生」しますか?
 それは、プチ工夫で、改善することはできませんか?

 嗚呼、今日は月曜日。
 今週も、なかなかにハードです。
 今週の小生の目的は「生き残る」。

 そして人生は続く。 

投稿者 jun : 2013年7月 1日 07:11