我が家に新メンバーが加わりました!

待って、待って、待ち続け
待ち望みつつ、待ち焦がれ

待ちわびるほど、待ちに待ち
待ち続けて、待ちあぐみ
とうとう本日、生まれました。
待ちにまった「第二子」。
わが家に「男の子」が誕生しました。

KENZO.png

 ▼

3510g、51センチ。
誠にありがたいことに、
母子ともども元気です。
無事生まれてきてくれて、よかった。
無事で無事で、本当によかった。

立ち会いの最中、何度もパパは、思いました。
目の前の二人が「生命」を賭けている、
この苦しく長い時間が
神様、どうか、早く、終わりますよう。
ごめん、僕、何もできずに。
でも、どうか早く、終わって欲しい。
早く、誰も苦しまず、産まれて欲しい。
頼む、頼む、頼む!

 ▼

今、ママの横で寝ている君に、ひとつだけ。
お母さんがどんなに頑張って、君を生んだか、
その頑張りと苦労と、お母さんの思いを
いつか知ってください。
ママからもらった自分の生命を大事にしてください。

確かに、この世は、楽で愉しいことばかりじゃない。
泣きたくなる日も、たぶん、ある。

でも、きっと、すごいことなんだよ、
君が生まれてきたということは。

 ▼

カミサン、2度目の妊娠は、本当に大変でした。
本当にお疲れさまでした。
本当にありがとう。
今は、ゆっくり休んでください。
君の無事に心から感謝します。

 ▼

今日、僕は2人の子どもの父親になりました。
これから家族4人で、協力しあい、励ましあって
生きていきたいと思います。
新生児ともども、どうぞよろしく御願いします。

 ・
 ・
 ・

そして、わが家の物語は続く。

投稿者 jun : 2013年11月30日 01:56


人材育成のイメージを「高速道路」に喩えてみるとどうなるか!? : 仕事をアサインするときの試行錯誤の幅!?

 OJTなどに代表されるように「仕事の中から学ぶ」とは、「仕事のなかで生じる困難を、試行錯誤しながら、解決しつつ、学ぶこと」とほぼ同義です。
 そして、この「試行錯誤」という言葉を聞く度に、僕は、いつも頭の中に、下記のような「遠近法つきの高速道路」のイメージを思い浮かべてしまいます。
 3分間で思いついたようなしょーもない絵ですが、なかなか目に見えにくい「育成のイメージ」を他者と共有することもできるかな、と思って、皆さんにお裾分けします。
 ちなみに、全く理論的ではないのですが、かっこつけて「高速道路理論」とよぶことにしましょう。真に受けないでください。

 「高速道路理論」においてメタファとされているのは、4つの要素です。

「車」が「試行錯誤している人」
「車の進行・進み方」が「仕事の進行」
「高速道路の幅」が「試行錯誤の幅」
「道路が行き着く先」が「ゴールの幅」

 です。
 で、こんな3つの絵を描いてみました。「仕事の中で学ぶこと」の3つのイメージです。

Doc-2013_11_29 8_26-page-1.png

 たとえば、1は「二車線幅広めの高速道路」を車(部下)で走っています。
 道は比較的広いので、すこし蛇行して進んでも、すなわち、ちょっとくらい試行錯誤しても、OKです。
 一番奥はゴールの幅ですが、まぁ、これも広い。つまり、まぁ、人によって、ゴールには幅があっていいということになります。「試行錯誤可能で、多様なゴールがあっていい経験学習」をこちらは表現しています。

 2は二車線ではありますが、道幅が狭い、「これ、採算とれるんですか?的な田舎の高速道路」です。ここでは、試行錯誤はできず、まっすぐに進むしかありません。ゴールの幅も狭いので、みんな同じようなゴール=目標に到達することになります。こちらが表現しているのは「試行錯誤というよりは、作業を積み重ねて同じゴールに到達するような経験学習」でしょうか。

 3は遠近法ががっつりきいている4車線道路です。アメリカの高速道路みたいだね。道幅は広いので、蛇行することも可能です。つまり、試行錯誤はがんがんできる、パラリラ、パラリラ。ただし、ゴールは狭いので、試行錯誤をしても、皆が到達するべき目標は同じようなところです。こちらが表現しているのは、「振れ幅が最大の経験学習」です。振れ幅が大きいということは、蛇行しますので、事故の可能性も高まりますね。

 さて、以上、「仕事の中で学ばせること」というと非常に抽象的で、何だかわかったようなわからないような感じになりがちですが、このように「道路」に喩えてみると、ほんのちょっとは、わかりやすくなるのかな、と思いました。

 特に「育成のイメージ」というのは、共有しにくいものです。たとえば、新任マネジャーが、どのくらいの仕事を任せてよいかわからないというとき、こういう絵を描いてもらって、どんなイメージで育成を考えておられるのか、「外化」してもらってはいかがでしょうか。

 新任マネジャーが3を理想だと思っていても、実際は、2を実践していたりすることは、多いものです。それは、「育成というもののイメージ」がつかみくいからです。つまり、思っていることと実践がズレるパターンですね。

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 今日は、ちょっと朝に思いついた3分間小ネタでした。でも、3分間小ネタでしたが、よくよく考えてみると、ひとつ大切なことを表現してもいますね。それはいずれの場合でも「道路の両側はある」ということですよね。育成とは「道路」がある。道路なき大草原、道なき道を爆走するみたいのは、「冒険」ですね。

 面白いね。
 そして人生は続く

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追伸.
 今、池袋駅のホームのベンチで、このブログを書いています。知り合いのNさんに、突然声をかけられました。あーびっくりした。お久しぶりです。こんなところで、ブログ書いてるんです、ふふふ。

投稿者 jun : 2013年11月29日 09:26


わずか13字で「世界」を表現し、人を惹きつける方法!?

 先だって、いくつか用事が重なって、日本で最もPVの多いWebポータル事業を手がけるIT企業を訪問させていただきました(バレバレですな)。
 お会いした方が、たまたま、そちらで「ニュースのタイトルをつける仕事」にかつて従事なさっていた方だったので、用事が済んだあと、そのご経験を興味深く伺っていました。現場の生の経験とは、まことに面白いものです。ありがとうございます。

 その方曰く、そのポータルサイトで配信されているニュースは、タイトルが13文字と決まっているそうです(いやー、バレバレですな)。このタイトル13字で、数百万というアクセスを稼ぐ。

 問題は、通常は長いニュースの内容を毀損することなく、また必要以上に「釣ること」なく、いかに短く13文字でタイトルをつけるか、ということ。ひと言でいえば「13文字というあまりに短い文字数の制約」で、いかに人を引きつけるか、ということですね。
 ここに、僕の「クリエィティブの神様」がピピンと反応し、大変興味をもちました。

  ▼

 といいますのは、自分もブログを書きますが、結構、悩むのは、「本文」ではなく「タイトル」だったりするからです。

 Webの世界は面白いもので、たまーに、アクセスログなんかを見てみると、自分としては「しょーもない」と思っていた記事が、タイトルによって「誤読」され、とんでもないヒットを記録していたり、また、全く逆に、自分としては「結構頑張ったな」と思う記事が、タイトルをミスッたおかげで、シオシオのパーだったりします。
 そんなん、つづきはったら、嗚呼、誰にも読まれないもんね・・・なんで、オレは早朝から書いてんねんねん、と自己嫌悪に陥りますわな(泣)。

 別にアクセス数で「ごはん」を食べているので、僕にとっては、それは「二の次」なのだけれども、せっかく書くなら、多くの方々に読まれた方がいいですよね、一般的には、まー、人なら、そうだろうよ(笑)。
 というわけで、タイトルは、結構考えます。「釣ろう」とか、そういう猥褻な意図をもって考えるというよりも、僕の記事を面白いと思って読んで頂ける方に適切に届くように。
 ま、考えるといっても、ブログ執筆時間20分のうち、最後の2分だけど(笑)。最低3本はだしますかね。

 たとえば、昨日の記事のタイトル

「組織を外部から支援する者は「複数の顔」と「マージナル」と「別れ」を生きる!?」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/11/post_2137.html

 は、

「ODコンサルタントが心がけたい3つのこと」

 とやってもいいし、もっと誰にも読んでほしくないと思うのなら!?

「Burke,Wの「Organization Development」に見るODコンサルタントの役割」

 でも、いいわけですよね。誰も読まないね、読んでほしくない匂いすら感じるね、このタイトルは。

 昨日の記事では、最初「ODコンサルタントが心がけたい3つのこと」にしようかな、と思いました。が、こうやってしまうと、「OD」という言葉が一般的ではないし、そこを知らない人は、お届けできなくなります。

 なので、1分くらい考えて、敢えて「読み替え」と「メタファ」を用いることにしました。
 まずODを「組織を外部から支援する者」に読み替え(すんません)、あとは「3つの役割」を「複数の顔」と「マージナル」と「別れ」というメタファにしてみました。「生きる」を使ったのは、ちょっぴりスパイシーな感じを漂わせたかったからです。

 このタイトル、一般ウケはしないだろうけれど、僕のブログを読んでくださっている「人材開発」「人材育成」に興味をお持ちの方なら、何となく好きかな、と思って。

 僕の場合、全く13字ではないし、全然こなれていないのだけれども、僕は、こんな感じでタイトルをつけています。

 ▼

 今日は「タイトルづけ」の話でした。
 こういう話をすると、「たかがタイトルじゃねーか、中身で勝負しろ、このタコ」と怒り狂うオッサンもいらっしゃいそうですね。すみませんね。
 でもね、「中身は練るだけ練って、でも、お届けできないコンテンツ」って世の中に溢れていませんか。そういうのって「中身信仰」じゃないかな、と思うんです。
 中身が大切なのはよくわかる。でも「アクセスされなきゃ、中身で勝負しようがない」のもまた事実です。
 だから、たかがタイトルじゃないのね、されどタイトルなんです。

 こういうのは、あー、もう長くなるからやめますが、イベント・研修・セミナーのタイトルでも、めちゃくちゃ考えます。

 例えば、12月2日に開催するイベント

OJTの再創造!? :僕らは"イマドキのOJT"の仕組みをつくることにした!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/10/ojt_ojt_122.html

「OJTの再創造」という7文字でシンプルに内容を表現。副題は「僕ら・・・することにした」はちょっと遊んでみました。

 先だって開催されたワークショップのタイトル

「オーケストラに"聴く"プロフェショナルの学び」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/09/post_2085.html

 は、オーケストラの音楽を「聴く」という意味と、オーケストラの方々に実際どうなのよ、と「聞く」をかけてみました。

 12月21日のイベントでは、

あなただけの「小さな雑誌」をつくるワークショップ!?:Playful_work Press and Party!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/11/1221playful_work_press_and_par.html

 としました。「リトルプレス」を「あなただけの小さな雑誌」としたところが工夫点です。

 面白いもので、これだ!と思うタイトルが思いついたときは、イベントの企画がすいすい進むものですね。不思議なものです。

 ちなみに、某企業では、タイトルをつけるのは個人でやるけれども、必ず公開前に別のメンバー(他者)の目をとおす、ということをなさるそうです。そうして渾身の13文字が生まれるわけですね。なるほどね、他者のチェックがあるんだ。愚息7歳・TAKUZOにどれがいいって聴いてみようかな。

 ちなみに、今日のブログ記事は

わずか13字で「世界」を表現し、人を惹きつける方法!?

 にしてみました。
 イマイチ?  ゴメン13字じゃなくて。
 あんた、何、学んできたんだって・・・?
 どなたか、今日のブログによいタイトルをつけてください。

 すんません(笑)
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年11月28日 07:03


組織を外部から支援する者は、「複数の顔」と「マージナル」と「別れ」を生きる!?

 Burke, W.(1987)が著したOrganization Developmentを読み返していて、改めて面白いなと思うくだりがありました。ここでは、組織開発を「行動科学の知見を用いて、計画的に組織文化を変革するプロセス」と単純に定義しておきます。難しければ「組織変革」「組織活性化」と考えても問題ないかと思います。

  ▼

 興味深く感じたのは、ODコンサルタント、すなわち、「組織の外部から組織に対して介入を行い変革を援助する人」の役割に関する指摘です。

 Burke自身はこう書いているわけではないのですが(正しくいうと、Lippit and Lippit 1978の議論を紹介しています)、僕が、その要旨を、ワンセンテンスで表現するとすれば(ごめんなさい、ワンセンテンスで、でも、時間がないのです)、

 1. 組織変革を外部から支援するものは、
 たくさんの「顔」を生きる
 
 2. 組織変革を外部から支援するものは、
 マージナル(境界)を生きる

 ということです。

 それに僕がひとつだけ付け加えるのだとしたら、

 3. 組織変革を外部から支援するものは、
 「別れ」を生きる

 というのもあるな、と感じます。
 以下、これらについて説明をしていきましょう。

  ▼

 まず、第一に「組織変革を外部から支援するものは、たくさんの「顔」を生きる」とはどういう意味でしょうか。
 
 それは、外部から組織内部に入り込み、様々な支援を行うものは、クライアントのニーズや状況に応じて、1)変革の提唱者、2)技術的専門家、3)教育者・トレーナー、4)協働者、5)代替案提案者、6)プロセスコンサルタント、7)反射鏡といった、様々な役割を演じつつ、介入を行うことを求められる、ということです。

 時にエバンジェリストになり、時に、トレーナーとなって研修を行い、時に代案を一緒に考える。そうかと思えば、会議に参加しつつ沈黙を守り、そこで展開される議論のプロセスに傾聴する。
 外部から組織内部に介入するものは、そうした複数の多種多様な役割を担わざるをえない、というのが、第一のテーゼです。ここでは「役割」を「顔」と比喩しているのですね。そして、このことは、場合によっては、外部介入者自身の「アイデンティティの揺らぎ」にもつながります。だって、「複数の顔」を生きなければならないんだから。

 この第一テーゼは、たとえば、

「外部からの介入者は・・・・・の役割を担うべきである」

 という単一の「顔」を想定しがちなこの主の議論へのアンチテーゼです。
 たとえば、昨日の話「研究者と実践者」の話に、むりしゃり(方言?)、リンクさせるのなら、「研究ー実践の言説群」の中には、

「研究者は、実践者に対して・・・・の役割を担うべきである」
「研究者は、実践者に教えてはいけないのであーる」
「研究者は、実践者とともに考えるべきである」

 という単一の役割を想定した規範的な考え方が存在します。
 特に、一度も、実践者と関与した経験がなくて、「研究ー実践の言説群を批評している場合」には、その傾向が強いように感じます。
 しかし、現場は、そんなに甘くはありません。状況に応じて、臨機応変に、時には演じることすら求められます。

 結局、外部から組織内部にアプローチするときに「単一の顔で、規範的に振る舞おうとすること」は、「顧客志向性」は低いのです。
 なぜなら、顧客の状況に「かかわらず」、あるひとつの役割を規範的に演じることが、あらかじめ、決められているのですから。

 ▼
 
 第二の「組織変革を外部から支援するものは、マージナル(境界)を生きる」とは、どういう意味でしょうか。

 それは、外部から内部に介入しようとするものは、一見、内部の人間のふりをしつつ、時には外の人というポジションを活かし、内部の人には言えないことをいうことが求められる、ということです。わたしの言葉でいえば、要するに「知らんぷり」して「刺す」ですね(笑)。

 逆に、全く「外の人」と思われると、内部の人からは受け入れてもらえません。よって、他方では「内部の人として、皆さんで頑張っていきましょうや」という風に、演じることが求められます。

 結局、そのポジションは、すべてが矛盾しています。内部に染まらないように、内部に入って行かなくてはなりません。そして外部でないふりをして、外部でなければなりません

 この状態こそが「マージナル」です。
 組織開発を行うものは、内部であって「完全な内部」ではなく、外部であって「完全な外部」ではない、微妙な「境界」を、まさに綱渡りしなくてはなりません。「綱渡り」ってことは、ひと言でいえば「リスキー」だということです。外部からの組織変革とは、まさに「リスクを生きること」でもあります。

 ▼

 第三の「組織開発を行うものは、別れを生きる」とはどういう意味でしょうか。それは、外部から介入するべきものは、最後の最後は、内部の人と「別れる」運命にあるということです。

 なぜなら、理想的状態は、内部の人々が、内部を自ら変革し続ける状態を維持するべく、能力や意欲をつけることが大切だからです。
 たとえ、外部からの支援によって内部が変わった場合においても、内部の人には、「自分たちが変えたのだ!」と思わせなくてはなりません。また、外部の人は、そのために、内部の人とは「別れなくては」なりません。

 組織開発を行うものは、最初から「別れ」を想定して、支援を行わなくてはなりません。
 究極をいえば、「自分がいなくても、物事がまわるように、組織内部にキーマンを育成し、仕組みをつくらなくてはならない」ということです。つまり「組織を外部から変革する行為」とは、究極、「介入者である自分」を「消去」する行為でもあります。

 ▼

 今日の話は、組織開発コンサルタントに求められる役割でした。時間が今日は15分しかなく、本当はもっともっと書きたいのですが、このくらいにしておきます。でも、なかなか、考えさせられる読書でした。

 特に、昨日、お話ししたような「研究者ー実践者の関係を論じる言説」において、本日のお話しは、示唆は深いと思います。ま、飛躍してるけど、思い切り想像力をたくましくしてよめば、関連づけて考えることもできますね。

 今日のお話と昨日の話を関連づけて話すのだとすれば、今日の話は、「研究者ー実践者の関係を論じる言説」においては、ともすれば、「パターナリスティックな価値観」が非常に強くなる傾向があることへのアンチテーゼになるのだと思います。それも一面ではよいことなのですが、あまりに強すぎることは、組織を外部から支援することのリアリティを見失ってしまいがちです。

 特に、僕が抵抗があるのは、

「研究者はかくかくしかじかの(理論上想定される)単一な役割で、実践にかかわり、実践者と・・・しなくてはならない」

「研究者は実践者と"ともに"・・・しなければならない」

「研究者は実践に、"ずっと"かかわらなくてはならない」

 とかいう、まことに「牧歌的」な批評的言説です。
 そう「思いたい」のはわかるし(正しく言うと、「そう思いたいという思いはわかるけど、僕はそう思っていない」)、それを「理想」としたいのはわかるけど(正しく言うと、「それを理想としたいんだろうな、という雰囲気はわかるけど、僕はそれが理想だとは思わない」)、しかし、リアリティはそうではないような気がします。
 そうした牧歌的言説は「組織に外部から関わる人」が覚悟し、腹をくくらなくてはならない、もうひとつの「厳しい現実」を忘れがちです。

「たくさんの顔をもち、リスクをとって、マージナルを生き、別れを連続する」というものは、なかなか「厳しい生き方」です。
 組織に外部から介入するときに経験するであろう、そういう「リアリティ」を、わたしたちは、意図的に無視することはできません。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年11月27日 08:08


「研究者ー実務家との関係づくり」の「研究そのもの」っぷり: あんたが実践して、やって見せてくれないか?

 人材開発 / 人材育成の研究を志して、早いもので10年が過ぎようとしています。
 最初の船出は、ほとんど「遭難」、アタシは恋の難破船(古い)!?...のようなものでしたが、ようやく5年くらい前から研究成果らしきものが出せるようになり、ここ数年は、毎年、単著の論文と書籍などを編めるようになってきました。まことにありがたいことです。何とかこのペースを維持していきたいと思います。

  ▼

 自分でいうのも何ですが、人材開発 / 人材育成の研究領域というのは、本当に「面白い」です。いや、マジで。どんなによく出来たフィクションよりも、リアルで、アクチュアルで、本当に面白い。心の底から、僕は自分の研究領域が好きです。
 その面白さをあげつらえていけば枚挙に暇がないのですが、そのひとつに、この研究領域は、いつも「研究と実践が不即不離である」ということがあげられます(ただ、これが面白い!と感じるかどうかは、研究者によるでしょうね)。
 
 「研究と実践が不即不離」にあるとは、また、いくつもの含意がここにはありますが、そのひとつは、「研究者の実践に対するスタンスが常に問われる」ということでもあります。
 ひと言で申しますと、他の研究以上に「実践・実務とかかわること」「実践・実務の問いと向き合うこと」を社会的要請される場合が多い、ということです。

 すなわち、研究者が、安定的に研究をしていくためには、いかにして、同じ目標を共有できる実践者の方と出会い、彼らと腹をわって話し合い、ともに何を為すのか、ということに、心を砕かなくてはならない、ということです。そうでなければ、フィールドにもエントリーできませんし、データをいただくこともできません。人材開発 / 人材育成の現場は「研究室」ではないのです、それは「組織内部の現場」なのです。
 従って、この領域の「研究者と実務家との関係づくり」は、もはや研究の外部に、副次的に存在するのではありません。それは研究の「内部」にあり、「研究そのもの」と不即不離に結びついているのです。

 研究領域も多様ですので「一般論」を述べることをしませんが、少なくとも、僕の近くで起こっていることは、そのことが言えるようです。

  ▼

「研究者と実務家の関係づくり」・・・僕が、そのことを本格的に痛感しはじめたのは、人材開発 / 人材育成の研究を、始めかけた頃でした。この頃、たくさんのことを僕は学ばせて頂きました。

 その頃、僕は、ある企業の経営者が自ら講師をつとめる研修(私塾)に、参与観察をさせていただく機会を得ていたのですが、研修終了後、その経営者の方と研修改善のための議論していて、こんなひと言をいただいたことを、はっきり憶えています。

「先生、研修の感想を、ありがとう。先生の言うことは頭ではわかる。でも、オレは、まだ、イメージができないんだ。先生、御願いがあるんだけど、ちょっとだけでいい。先生が、研修を実践して、やって見せてくれないか?」

 要するに、この経営者の方に僕は、僕自身が改善ポイントだと指摘したことを、僕自身が実践して見せて欲しい、と依頼されたわけです。「人材開発 / 人材育成のプロなら、実践できて当たり前である」ということが前提にあります。
 最初に断っておきたいのですが、この経営者の方は、意地悪でこう述べたのではありません。そうではなく、実践をよくしたいという強い思いをお持ちだったのです。

 「イメージをつかみたい。あんたが、研修をやってみせてくれないか?」

 まぁ、こう言われるのは当たり前といえば、当たり前なのです。経営者には時間がありません。
 でも、僕は、一瞬だけ、たじろぎました。僕は「研究者」です。「実践をやってみせてほしい」と御願いされることは、それまでの僕には、一度もなかったからです。
 しかし、「研究者」だからという理由で「できません」と口にすることは僕の研究領域では難しいことが多いものです。それ以来、僕は、自分の教授能力やファシリテーションの技術を学び、磨くことを試みました。それは研究を為すために必要なことでした。

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 そういえば、こんなこともありました。
 かなり前のことになりますが、僕が、ある事業会社と東大の共同研究で、人材育成に資する職場づくりの研究に従事していた頃のことです。
 その企業の担当者の方とデータの受け渡しについて話していたとき、こんなひと言をもらったことを憶えています。

「うちの組織は、これまで自分たちは"特殊だ"といってきたんです。でも、本当にそうかは、わからないんです。だから、うちのデータを使ってください。他の企業のデータとあわせて使って、一般解を探して欲しい。そのうえで、一緒に、特殊解を考えてくれませんか?」

 ふつうは、研究者が実践現場のデータをいただいて見出したいと思っていることは、おおよそ「一般解」です。しかし、「一般解を探すこと」を実現するためには、「特殊解を探すことに対する貢献」も同時に求められます。「一般解を見つけること」と「特殊解をともに探ること」、このように「メビウスの輪」のようにつながっています。

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 話が長くなりました。しかし、要点は、このようないくつかの出来事があり、僕は、自分の志す研究が、実践や実践現場と不即不離にあることを痛感するようになっていったということです。
 特に、僕には「継承するべき知的地盤」がありません。自分の「知的探求のベンチャーっぷり」は、自分自身がよく理解しているつもりです。
 そういう自分であるからなおさら、この研究領域で、研究を続けていくためには、「実務や実践といかに付き合うか」と真摯に向き合うことが必要なんだ、と思うようになりました。研究を安定的に続けていくために、この問いに向き合うことが不可欠なんだ、と悟りました。

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 今日は「研究と実務(実践)の関係」について書きました。
 もちろん、僕が上記に掲げるような研究のあり方は、僕の「特殊解」であり、これを研究者の「一般解」とすることは致しません。

 ただ、最近、こうした「僕自身の経験」や「研究の裏側」も、後世に伝えていかなくてはならないな、と感じています。最近、研究室の学生が、大学などに職を得たり、博士号取得にチャレンジしていたりしているので、なおさらそう思うようになってきているのかもしれません。

 今まで、こういう「研究の裏側」のことは、僕だけが密かに取り組み、学生にはあまり見せないようにしてきました。大学院生には、研究の裏側で、どのような交渉や打ち合わせがなされているのかを、敢えて見せてきませんでした。今から考えてみれば、それもよくなかったのかな、とも思っています。

 ただ、これから伝えるにしても、どう伝えればよいのか、僕自身、よくわかっていないのですが。。。

 そして問いは続く。

投稿者 jun : 2013年11月26日 12:37


せこせこ、やいのやいのつっこみながら、ドロドロ血をうにょうにょ生き抜くリーダー!?

 現在、「マネジャー本」を、シコシコと書いているせいでしょうか。最近、マネジメントのことについて、よく考えます。

 書いていて、疑問に思うのが、「リーダーとマネジャーの違い」という、世間に広く広まっている概念です。おそらく創始者はKotter, J.の影響力がもっとも強いと思います。よく知られているように、彼のリーダー論では、リーダーのあり方を、マネジャーのそれと対照づけることを特徴としています。

 まずは共通点からです。
 リーダーもマネジャーも、ヴィジョンを描き、そのヴィジョンを実現するネットワーク構築を行うことは一緒です。

 しかし、それらの相違点は、実現に至る手法とプロセスにあります。
 計画立案・進捗確認・組織づくり・人材配置を行うのがマネジャー。その特徴は、ひと言で表現すれば「コントロール」と呼べるでしょうか。
 対して、リーダーは、目標に対する共感を喚起し、多くの人々をひとつに統合していくといいます。その特徴は、先ほどと対照づけるのならば「エンカレッジ」ということになるのかもしれません。

 Kotter自身も、これらの二分法は、相互補完的であることは述べているのですが、「そもそも」、実務的にはこれらを分けることには慎重であった方がいいよな、と思います。

 なぜなら、リーダーの行う「エンカレッジ施策」は、短期的には奏功するものの、中長期の観点から考えるのであれば、「計画立案・組織づくり・人材配置」といったハードでフォーマルなマネジャー的仕事に落ち着く必要があります。つまり、中長期に考えるのであれば、ヴィジョンはそれとは対極にある「オペレーション」に落とさなくてはならない。

 また、そもそもヴィジョンがどんなに素晴らしいものであっても、どんなに素晴らしい人的リソース、人的ネットワークを準備できても、物事を達成するためには、丁寧でしっかりした「進捗確認」が必要になります。そういうことからも、マネジメントとリーダーの違いを二分法で語ることの限界がわかります。

  ▼

 それに人は「リーダーを描くとき」は、そこに「ロマンス」を見たくなるものです。
 つまり、リーダーとは「偶像化」され、「理想」を重ねられがちです。

 そして「リーダの理想」を描くときに、「せこせこ来年度のプランをたてつつ、ペーパーワークに従事したり」、「重箱の隅をつつくような細かいことを、やいのやいの、つついて進捗確認」したり、ポリティカルに動きながら、「組織内政治をウニョウニョと生き抜く姿」を描写したくないでしょう。いやだよね、そんな「せこせこしてるリーダー」の姿を夢想するなんて・・・。

 でも、おそらく、物事を成し遂げるためには、「大言壮語的なビジョン」とともに「細かくて、ドロドロ血的な作業をせなアカン」のが、実際のリーダーなのかな、とも思います。
 そして、そんな人々の姿を ー もはや、今になっては、リーダーと呼んでも、マネジャーと呼んでも、どっちでもいいですが ー データに基づきながら描き出すことが、僕の今書いている本の役割かなと思っています。

 そして人生は続く

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追伸.
 マネジメントとリーダーは「Function(機能)」と考える方が、妥当なようにも思います。ひとりの管理者の中には、リーダー的機能とマネジメント的機能が必要である。そして、もし、現在の自社の管理者がマネジメント的機能が強く、リーダー的機能が弱い現状があるのだとしたら、後者を前者と対照づけて、強調したくなる気持ちはわかります。

投稿者 jun : 2013年11月25日 08:22


人材開発の歴史をたどる : 「知識か、経験か?」「教室か、現場か?」「インフォーマルか、フォーマルか?」・・・ちっとも懲りない二極思考!?

 現在執筆している書籍「研修開発入門」(2014年春 ダイヤモンド社より拙著刊)の一節に「人材開発・小史」という「小さな節」があります。1.2節でしたか、確か。

 この「小さな節」では、戦後から、我が国の「人材開発の歴史」をざっくり紹介しています。人材開発を専門になさっている方でも、人材開発の「手法」や「理論」については把握していても、その「歴史」というのは、なかなか「意識」することはないのではないでしょうか。
 この本では、少し回り道になるかもしれませんが、人材開発の最も基礎的なところから、話を進めようと思っています。ふだんは、あまり意識しない「歴史」という最も基礎的なところから、人材開発の話をしています。

 ま、とはいえ・・・人材開発「小」史です・・・歴史といっても、「長い歴史」があるわけではありません。さかのぼっても「戦後」です。僕は歴史の専門家じゃないんで、ざっくりと語ります、すみません。
 あと、企業といっても、企業規模から業態まで、いろんな企業がありますので、そのすべてを網羅できているわけではありません。そもそも人材開発の歴史といっても、政策など、明確に開始年度が規定できるものがないので、その流れは、ザクっとしたものになります。つまり、年代には「幅」があるということです。
 どちらかというと、以下の歴史は、人材開発に積極的な企業の歴史、ないしは、人材開発の言説のトレンドを、ざっくりとたどった歴史とお考え下さい。

 しかしながら、改めて振り返ってみますと、本当に、人材開発の歴史は「揺れ続ける振り子」のようなものだったことがわかります。つまり、それは「教室(研修)か現場(OJT)」ないしは「知識か経験か」「インフォーマルか、フォーマルか」の二極をぶらーん、ぶらーん、とあてもなく揺れ続けているのです。いわば「懲りない二極思考」です。それは、あたかも「揺れ続ける振り子」のように、当時の関係者を、現場を、いつも「翻弄」してきたのかもしれません。

 今日のブログでは、それを少し振り返ってみましょう。
 人材開発をご専門になさる皆さんは、どこまで、自分の仕事の歴史をご存じですか?

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 さて、早速、タイムマシンにのりましょう。
 行き着く先は、今から70年前、1940年代になります。

Doc-2013_11_22 6_29-page-1.png
(ごめん、へたくそで・・・)

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 1940年代の人材育成の主なキーワードは、「米国」「軍隊」「研修」「官製輸入」です。
 戦後、敗戦からの復興と民主化を成し遂げるという目的の下、米国の軍隊で用いられていた管理者プログラムや、リーダー養成プログラムが、省庁などの力によって官製輸入され、日本の様々な企業・組織で用いられることになりました。これらの研修を提供する業界団体がつくられ、米国から研修プログラムが輸入されました。
 1940年代の振り子は「研修・教室・知識」に触れています。

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 1950年、朝鮮戦争が起こります。日本は、戦争の莫大な軍需品生産を背景にして、徐々に経済復興をなしとげます。官製輸入された研修が全盛を極める時代です。振り子は、「研修・教室・知識」に最大の振れ幅を記録しました。
 体系化・定型化された研修が日本企業に広がりました。業界内でも同じ研修を導入するというのは、競争優位につながらない、という意味で、少し変な気もするのですが、当時、意識されていたのは「国内」ではないのかもしれません。
 戦後、日本企業がまさに「一丸」となって、なりふりかまわず、生産力をあげ、戦後から脱しようとしていた時期なのかもしれません。

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 そして1950年代--60年代、日本の高度経済成長の足音がきこえはじめるようになると、日本の産業は、急速に工業化をとげ、製造業・重工業が発展します。
 この高度経済成長期に本格的に発展したのが、日本のお家芸ともよばれた経験重視型の「OJT(On the job training)」です。
 地方では、村落共同体がそのまま、工場の労働力として引き継がれされ、その強固なネットワークを基盤にしたマネジメントが徹底されました。

 この時代には、振り子が大きく「現場・経験」の方向に揺れ始めました。前時代の研修を、半ば相対化するようにして肥大化するOJT。長期雇用を背景にして、先達の技術を後輩が仕事経験を踏みながら憶えていく「OJT」が、主に、製造業・重工業を対象として、制度としても確立していったのです。

 しかし、日本のOJTは「単純な作業手順のコピー」ではありませんでした。「単一の仕事」を単純に覚えるだけでなく、長期雇用を前提として、多種多様な仕事に中長期間従事させ、様々な突発的出来事に対応できる幅の広い専門性を獲得させることが、その特徴でした。この「幅広い専門性」を有する優秀な従業員が、日本の高度経済成長を支えることになります。

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 やがて日本は1960年ー70年代に突入します。高度経済成長を謳歌しつつ、次第に安定成長を迎えます。これが、OJTから研修に対して「振り子」が揺れた瞬間でした。

 この時期には、米国での心理学研究などを取り入れた「感受性訓練」(センシティビティ・トレーニング)などが、「組織開発」というラヴェルのもとで普及していきました 。

 今となっては「科学」と「実践」が不即不離な関係にあることは自明ですが、研修の中に行動科学や社会科学の知見を活かすといった考え方は、前時代に、それほど濃厚であったわけではありません。「行動科学に基づく」ということが喧伝されたのは、この時代の研修でした。

 ただし、いわゆる「組織開発」は、市場の急速な拡大に講師育成が追いつかなかったことなどなどから、その後、急速に廃れていきました。学術専門誌・組織科学で、組織開発の特集が組まれたのは、1973年のことでしたが、その後は、動きが止まりました。

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 1973年に、日本はオイルショックを経験します。様々な公害が社会問題となったのもこの頃です。社会不安を背景に、管理職や管理職予備軍などによる勉強会、異業種交流会が流行しました。
 振り子は、「研修・教室・知識」ではなく、「組織外・交流」に例外的にふれはじめます。不況の時には、人は「組織外」に目が向くものです。

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 時代は1980年代に入ります。
 この頃になりますと、製造業の海外進出(工場の海外流出)がはじまり、「国際人」「国際化」とよばれる概念が人材教育の世界に流入してきます。やはり振り子は「研修・教室・知識」にあります。

 この時期には、多種多様な「異文化適応プログラム」や「異文化教育」、「言語学習」などが製造業を中心にブームになりました。2010年代初頭、急速なグローバリゼーションの進展によって、いわゆる「グローバル人材育成ブーム」がおきていますが、1980年代ー1990年代には、製造業を中心に、すでに第一次グローバル人材育成ブームとよばれるものがおこっています。

 また、この頃は、いわゆるMBA(Master of Business Administration:経営学修士)が注目され、バブル経済の好景気を背景に、数々の企業派遣生たちが、海外の大学大学院で学ぶようになっていきました。
 ちょうど、この頃、民間の教育ベンダーの中にも、MBA教育を標榜するブームが起きています。ちなみに、MBA教育の隆盛の陰に、いわゆる伝統的で封建的なOJTは「時代遅れなもの」として位置づけられる傾向があり、教室を中心とした研修、知識重視型の人材育成が主流となっていました。振り子は「教室・研修・知識」にふれはじめます。

 ただし、海外は少し様相が異なります。海外進出を果たした製造業は、現地の工場で、現地人をOJTで育て始めます。「現地人」を技術指導し、ひいては、自社の現地マネジャーに育てていく。工場とともに、日本式の人材育成、OJTも海外に輸出されました。

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 1990年は、人材開発の「冬の時代」のはじまりです。1989年バブル経済が破綻し、企業は、それまで伝家の宝刀としてきた、「終身雇用」「年功序列賃金」等の、いわゆる「日本型雇用施策」を、一部、転換せざるを得なくなりました。
 この時期、中間管理職の削減を行い、意志決定の迅速化をはかる「組織のフラット化」やそれにともなう「リストラクチャリング」、また年功序列賃金を一部修正する、いわゆる「成果主義賃金」があいついで導入されていきました。
 これらの雇用制度の変化は、この時代の日本企業にとっては、不可欠のことであったかもしれませんが、「職場の人材育成機能の弱体化」という副次的産物も、同時にうみだすことになりました 。組織のフラット化、リストラクチャリングによって、職場のメンバーが減り、マネジャーの業務が多忙化します。行きすぎた成果主義は、職場における組織市民行動(自発的な助け合い)を減少させ、成果につながらない若い労働者の育成を担おうとしない雰囲気が生まれた職場もありました。

 企業によっては、この時期、新卒採用を抑制したことも、悪循環に拍車をかけることになります。職場の世代間に大きなギャップが生まれ、コミュニケーションがうまくいかなくなる職場もでてきました。また、年代間の断絶により、知識や技術の伝承が進まない上、当時、新卒採用された社員がマネジャー層になる頃には「育てられた経験」も「育てた経験」もないために「育てられない」マネジャーが続出するようになってしまったのです。この時期をひと言でいえば「職場の機能不全」、このひと言につきると思います。

 ちなみに、1990年代は、研修予算も大幅に削られた時代でした。前時代に増加した研修予算は、コストカットの圧力のもと、大幅に削減されていきました。振り子は、ふたたび「職場・現場・経験」に戻ってきました。

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 1990年代後半ー2000年代前半にかけて、隆盛をはかったのは、職場における人材育成を可能にする部下育成の技術です。目標の提示と支援を主眼とする「コーチング」を管理職研修で導入するようになりました。「自己成長の物語」を主眼としつつ、それをいかに「支援する」のか、という視点で人材開発が語れるようになりました。
 これは、どのようにして部下と関わり、指導していくべきか悩む管理職層に受け入れられる結果となりました。振り子の振り幅は「職場・現場」に大きく触れています。
 
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 2000年代は、企業の経営課題に「人材育成」が前景化してくる時代です。1990年代に冷え込んだ職場の人材育成機能を何とか立て直そうと、企業が人材育成・人材開発に注力しました。
 この時代は、「従業員は現場の経験で学ぶ」という認識が広まり、「OJT」を再構築しようという動きが活発になりました。

 日本の経済発展を支えてきた団塊世代の大量退職を前に、知識・技術の継承、若手の育成が大きな課題となり、経営人材を育成するため、選抜型でミドル社員を強化して育成する「リーダーシップ開発」も活発になりました。選抜された社員にタフなプロジェクトや業務をアサインし、アクションをうながしつつ、リフレクションさせるかたちのリーダーシップ開発です。これは、リーダーシップの開発を「リーダーの行動の改善」ととらえた1940年代とは明らかに様相を異にする動きでした。
 
 この時代には、1990年代と比べて、企業の人材開発の動きが、「従業員全員に均等に配分される」という動きが弱まり、成果をだし将来活躍していく社員に対して、「選抜型」で選択的に教育機会を配分する動きが生まれてきました。教育予算も2000年代中盤をのぞいては、減少傾向にあります。

 また振り子は「現場」にあります。

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 2000年代、人材育成における「OJT」の重要性が再認識される中、盛んに行われていた「企業内研修」の質的転換がおこりました。「階層別研修」などの、儀式的要素の高い研修が見直され、より「実務に活かされる研修のあり方」が模索されるようになりました。教授設計理論や学習科学の知見が人材開発研究に本格的に流入したことも見逃せない変化でした。かくして、研修の手法も、研修室で行われる従来の講義型研修から、現場の課題解決を研修課題とするアクション・ラーニング型の研修などが取り入れられるようになってきました。
 アクションラーニングは、1980年代、1)実践と行動に基づく学習を試行すること、2)実践の内省を重視すること、3)探究的洞察を重視することなどを重視した学習形態としてRevansによって創始されたものですが、それが本邦で人口に膾炙するようになりました。

 2000年代は1980年代とは異なったかたちで、人材開発において学問が消費された時代でした。OJTを刷新したり、研修を開発したり、人材施策を見直すために消費された学問知見が注目されました。
 この時期、社会的ニーズを背景に、職場での人材育成のあり方、OJTのあり方や研修効果に対する実証研究があいついで発表されました。それまで、職場の垂直的な発達支援関係を扱うことが多かった組織社会化研究に「職場の多種多様なメンバー・ネットワーク」を扱う研究が、少しずつ増えてきました。
 2000年代から流入した教授設計理論や学習科学の知見は、「アクティブラーニング」「ワークショップ」などのブームを生み出します。それらはいわば「バズワード化」しつつ、2010年代に引き継がれました。

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 2008年、世界は未曾有の不況に襲われます。
 いわゆる「リーマンショック」です。米国のサブプライムローンの焦げ付きに端を発する世界最大の投資会社のひとつリーマンブラザーズ証券が64兆円ともいわれる巨額の負債を抱えて倒産。その余波は、世界同時不況というかたちであらわれました。

 長引く不況の中、雇用不安・キャリア不安が拡大し、よっつの変化があらわれました。

 ひとつめは「研修の内製化」、製造業においてはあたりまえですが、製造業以外においても自社社員を用いて人材開発研修を担当させる動きが盛んになりました。研修講師養成プログラムが注目を浴びますが、それらの一部には教師教育研究の知見が反映されていきます。

 ふたつめは、ふたたび社外の勉強会や交流会が盛んになりました。バウンダリーレスキャリア、プロティアンキャリアなどという言葉がもてはやされ、組織の境界を越えて自らのキャリアを切り開かなければならないという認識が広まりました。これは、今から30年前、1980年代にも存在していた風潮です。
 それらに加えて、企業が保持する技術や知識を外部に公開し、他企業と連携、協力するコラボレーション(異業種間コラボ)によってイノベーションを起こそうという(オープンイノベーション )の流れも、社外の多種多様な集まりが活況を呈するきっかけになったことも否めません。また企業研修も、異業種の企業が協力して運営するかたちの研修が広まってきました。いずれにしても企業間の垣根は低くなり、異業種のアライアンスも頻繁に生まれるようになってきました。

 みっつめは、研修開発のグローバル化です。多国籍で事業展開する企業においては、現地と国内の研修を一律化し、ダイバーシティ溢れる参加者によって研修が実施される流れが生まれてきました。それは1980年代に流行した「国際化」の流れとは明らかに一線を画するものです。
 一部の大手事業会社では、人事部・人材開発部の社員として、日本人以外の外国人が登用されるようになってきました。いくつかの外部の教育ベンダーは、海外に出て行く日本企業を追って、海外の事業展開を進めました。

 よっつめは、組織開発の再注目です。1980年代、一度は途絶えたかのように見えた「組織開発」が、再評価されています。ダイバーシティあふれる職場・雇用関係を背景に、それらをいかにまとめ、組織の卓越性を果たすか。再注目を浴びています。

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 以上が、人材開発・小史、1.2節の要旨です。
 あくまで私見ですし、ざっくりと語っています。ですが、いかがでしたでしょうか?

 大切なことは、今まさにわたしたち自身も「揺れ続ける振り子」の中にあるということです。
「振り子」の揺れは、社会の変化もさることながら、様々な理由でつくられます。世の中には「揺れがない」と困る人々もいらっしゃるのです。

 重要なことは「振り子の揺れ」に惑わされないために、自分の軸をもつこと。「新しいと思っていたこと」が、実は、「過去に注目されていたこと」を知ること。そして「歴史から学ぶこと」ではないか、と思います。たいていは「安易な二極思考」を避けることで、本質が見えてくる可能性が高まるものです。

 僕は学生によくいうことがあります。

 物事を考えるために「大きな世界地図」を持とう。その地図の中で、自分のめざすゴールだけでなく、その周辺を見てみよう。

 自分の持っているのが「大きな世界地図」ではなく、「はじめてのおつかいで、子どもが持たされる地図」のようなものだったとしたら、常に、自分の行くべきゴール(八百屋さん)にしか目が向かないよ。でも、世界はもっと広いんだよ。

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 さて、研修開発入門は、とりあえず第一稿をあげました。これから間杉さん(ダイヤモンド社)、井上さんらと編集・構成をさらに整えていくことになると思います。間杉さん、井上さん、どうぞよろしく御願いいたします。
 今日からは、もう一冊の新書「マネジメント本」に取り組んでいます。今日は4時から執筆を進めてきましたが、先ほど、序章を書き終えたところで、力尽きました。もうダメポ。

 _| ̄|○

 こちらは、黒田さん(中公新書ラクレ)、秋山さんとの作業になると思います。長い長い道のりになりそうです・・・すみません・・・どうぞよろしく御願いいたします。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2013年11月22日 07:00


合宿をデザインする!? : 「飲んで、食って、温泉入って、二日酔いで帰る」を避ける!?

 最近、多くのビジネスパーソンとお話するなかで、気になりはじめたことのひとつに「合宿」があります。

 昨今は、ダイバーシティあふれる環境のなかで仕事をなさる方が多いので、チームの方向性や職場の目的を「腹をわって」、話し合ったり、あるいは、IT系の方々だと、新たなプログラム開発のために、「合宿:Gashuku」に出かける方が多くなっている印象です。

 そして、僕が気になっているのは、この「合宿」にあります。海外ですと、レトリートとか、オフサイトとか、Woods learningとよばれる活動に近いのかもしれません。

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 そもそも「合宿」とは、辞書的定義を斜め読みして要素に分解すれば、下記のように要素分解できます。

 すなわち、

1)日常の社会生活から切断された場所において
2)特定の目的を共有する複数人の人々が
3)一定期間、起居を共にしつつ
4)目的達成に資する集合的活動に従事すること

 つまり「合宿」とは、そもそも単に「宿泊する」だけではないですし、「勉強・練習・開発」をするだけの場ではありません。まして、「夜のエンドレス飲み会」を愉しむ場ではありません。

 それは、強制的に「日常からの切断」と「生活経験の共有」することをとおして、「メンバーシップの強化」と「集合的活動の深化・強化」をはかり、「目的達成」を円滑にするための「学習(再学習)機会」と、意味づけられます。
 
 しかし、この「合宿」というものに対して、わたしたちは、それをどのように実施するか、ということについては、あまり体系的な知を持ち合わせていません。もう少しシャレた言葉を使うのなら、わたしたちは

 合宿をいかにデザインすればいいのか?

 ということについて、プリミティブな認識しかない印象があるのです。そこについて、既存の理論が答えうるのは、あまりにも限定的である印象を僕はもっています。

 例えば、いわゆる教授設計理論は、教授の場を超えたもの、たとえば「食べること」「生活すること」や「集団のメンバーシップを強化すること」に関しては、明確な答えを持ち合わせていません。

 経営学の観点でいうと、組織社会化の理論や、組織開発の理論が、それに該当するのかもしれません。たとえば、組織社会化の理論は「生活経験の共有」や「日常からの切断」に関する理論的意味づけを行うものの、それを「デザインする知見」をあまり持ち合わせていません。「実践としての組織開発」は、たしかに合宿の形式で行われるものの、そこで語られる手続きは「組織開発の手法」に限定されています。

 つまり「研修のデザイン」については語られていても、「合宿」はデザインすることに有用な知は少ない。「合宿」で起こっていることを「社会化の専門用語」で解釈することはできても、「合宿はデザインできない」。すなわち「合宿のデザイン」は「ブルーオーシャン」のように見えるのです。

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 しかし、今、世の中で求められていることは、「研修のデザイン」もさることながら、「合宿のデザイン」なのだと思います。
 単に「学ぶ」のではなく、集団の凝集性を高める。目的をしっかり共有する。そういうことが求められているような気がします。

 合宿の最大のメリットは、「比較的まとまった長い時間を共有できること」にあるのですが、それは安易に時間を過ごしてしまった場合、容易に「デメリット」に「反転」します。

 要するに、

 飲んで、食って、温泉はいって、ちょびっと作業して、また飲んで、朝は二日酔いになって、帰る

 ことになるのです。

 いそがしい現代であるからこそ、いったん立ち止まり、じっくりと腹をわって、お互いに向き合う。そういう貴重な時間をいかに過ごせばいいのか。そういうことに関心をもって、今日も電車に揺られています。

 そして人生は続く

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追伸.
「合宿のデザインの知」に比較的近い領域として、野外教育の知、キャンプ研究があります。その話は、また別の機会に!

投稿者 jun : 2013年11月21日 07:34


議論するのは非効率!? 僕はひとりで考えてもいいですか?

 最近は、あまり経験することが少なくなりましたが、10年弱くらい前は、授業などでグループでの議論をうながすと、それに参加しない学生がでてくることが、ごく希にありました。

「どうしても議論しなくてはならないですか? 一人でやった方が早いかもしれません 僕はひとりで考えてもいいですか?」

 まー、わかる、言いたいことは(笑)。たいがい、こういう意見をもっているのは、いかにも優秀そうに見える、尖った学生で、頭に少し寝癖がついてて、だいたい、前の席の横の方に座ってますかね(笑)。
 今となっては、なかなか気骨のある学生だな、と思うところもないわけではないですが、授業を運営していく観点からすると、なかなか困った事態です。家で、いくらでも、ひとりで考えるのはいいんだけどね、授業ではね。

 何とかしなくてはなりません。

  ▼

 こういう場合、いくつか対応策があります。
 もっとも単純なのは授業のシラバスに、"この授業ではグループでの議論があること"が明示されていれば、それを持ち出して、

「おら、こういう方針で授業運営しているんだよね、書いてあるよね、授業の冒頭で確認したよね」

 と説明するやり方です。
 シラバスを書くこと、授業の一番最初に学生と「シラバスをにぎること」は、こうした観点からも、大切なことです。僕はどんな授業でも、一番最初のオリエンでは、シラバスリーディングを行って、必ず学生に問いかけます。

「今読んできたように、経営学習論という授業をやるけど、ここにいらっしゃる方は僕と、同じ船にのれますか? もし難しいなら、この授業をとるのはやめるという選択をとっても、ぜんぜんいいですよ。気分を害しませんから、遠慮なくいってください。皆さん、ほんとうに、いいですか?」

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 先ほどの気骨のある学生は、まだモジモジしています。ここまできたら「抵抗」すらしないものの、「あと一歩背中を押してあげなければ」、活動に「ノレ」ません。そういう場合は、「シラバス作戦」に加え、「あのねー、将来にとって大切なんだよ」という意味づけで迫ります。

「君は、"一人でできるから集団はいらない"と思っているかもしれないけどさ、話しあいで意見を出せるってのは、君の将来にとっても、大切な練習だよ。授業は練習だと思いなよ。

一般企業に就職したら、たぶん仕事の9割は、共同作業だよ。仕事にもよるけど、多くの場合、ひとりで仕事ができるわけじゃない。そこには話し合いとか、必ず入ってくる。

研究者になったら、ひとりで研究できるかっていうと、そうでもない。分野にもよるけど、今の研究の多くは共同研究だし、研究者は、思考を深めるために、たくさん、研究者同士で議論するよ」

 一般企業はいうまでもないことですが、研究者の場合でも、話し合いは大切だ、ということを述べます。「研究者すら孤独ではいられないということ」を明らかにしたのは、Dunberなどの近年の科学フィールド研究の知見ですね。

 こういう場合、こうした意味づけで、100%学習者の満足が得られるわけじゃないのですが、僕は、こんな感じで対処してきました。これがベストだとは思いませんが、まー、何とかかんとか。
 興味深いのは、こうしたかたちで、最初に抵抗を示した学生ほど、あとあと、ノリノリになる場合もあるということです。もちろん、すべてではありませんが。

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 今日の話は、グループワークと「人はひとりじゃいられない」という話でした。ちょっと前は、たまに「グループワーク」に加われない方も多かったけれど、最近は、こうしたこともめっきりなくなりました。

 それだけ、学生が慣れてきているのかな、とも思いますし、それはそれで、ほんのちょっぴり寂しいことでも?あります。「ほんとの困ったちゃん」は「マジなんとかしてくれ、困ったちゃん」なのですが、グループに加われないような「ちょっぴり困ったちゃん」は、それはそれで「かわいらしい」ものなのです。

「あまのじゃく」だね、全く(笑)。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年11月20日 10:04


【参加者募集】12/21(土) あなただけの「小さな雑誌」をつくるワークショップ!?:Playful_work Press and Party!

11月20日 13時00分 予想を超えた応募をいただきましたので、〆切前ですが、募集を停止させていただきました。あしからず、ご了承下さい。ありがとうございました! 抽選結果は、近日中にメールにてお知らせいたします。
11月19日 11時29分 応募開始しました!

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年末12月21日(土曜日)に、またまた、世界初!?のワークショップをやります。

 今回のテーマは、

「自分のキャリアを振り返り、自分だけの小さな雑誌をつくる!」

 です。

「自分の過去・現在・未来」と「自分の仕事」を振り返りつつ、自分の小さな雑誌をつくり、そのあと、パーティをしちゃいます。雑誌をお互いに読んで、元気になりましょう。
 えっ、表現は苦手なんだけど、とおっしゃる方、大丈夫です!どなたでも、雑誌をつくることができるよう、仕掛けがあります。「図工2」の僕でも大丈夫なくらいです(泣)。

 こちらは、Learning barの写真を撮って下さっていた見木久夫さん(「部活みたいな会社」スイベルアンドノット)と、牧村真帆さんとのコラボ企画です。企画するわたしたち自身が、新たな表現、新たな学び、見つけていきたいです。

 みなさまとお会いできますこと、愉しみにしています!

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PPP : Playful_work Press and Party ワークショップ
自分のこれまで、仕事、これからを伝えるリトルプレス(小さな雑誌)をつくる!
参加者募集!→12/21(土)13:00-20:30 kurkku Home
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 自分をキャリアを振り返るって、また、モティベーショングラフ書くんですか?
 自己分析をして、作文をするのでしょうか?
 また、レゴブロックで何かをつくって、そのあとで、語るんでしょうか?

 モティベーショングラフや、作文や、レゴがパワフルなのはわかります
 でも、それを「こなし」ていませんか?
 
 僕たちは、全く異なる「表現方法」で、この問題に迫ろうと思います。
 着目したのは「あなただけの小さな雑誌をつくること」です。

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   ・

このたび、PPP(Press and Party Publishing)では、
「自分のこれまで」と「仕事への思い」を伝えるリトルプレス
(p12の小冊子)を、なんと1日でつくってしまい、
さらにそれをつかったダイアログパーティまで
やっちゃおうという、世界初?!の超キワモノの
ワークショップ、その名も"Playful_work Press and Party"
を開催することになりました。

リトルプレスは、写真や雑誌の切り抜きをブリコラージュ
してつくります。どこでも手に入る道具と素材でつくりますので、
どなたでも、プレイフルなリトルプレス をつくることができます。

というわけで!
今回のワークショップの参加者、30名を募集させていただきます。
リトルプレスが完成したあとは、夕方からパーティをします!
パーティでは、完成したリトルプレスを皆で読みあい、
対話を深める機会にしたいと思います。
みなさまのご参加を心よりお待ちしております。

見木久夫 / 牧村真帆 / 中原 淳

■主催
Press and Party Publishing(PPP)
見木久夫 / 牧村真帆 / 中原 淳

■共催
「部活みたいな会社」株式会社スイベルアンドノット
http://swivel.co.jp/

■日時
2013年12月21日(土曜日)
13:00-20:30
(開場 12:30から)

■会場
Kurkku Home(クルックホーム)
http://www.kurkku-home.jp/
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前2-18-21
交通:東京メトロ千代田線・副都心線「明治神宮前」駅徒歩10分
東京メトロ銀座線「外苑前」駅徒歩12分
JR山手線「原宿」駅徒歩15分

■協力
株式会社オアゾ

■参加募集人数
30人

■参加費:
(ワークショップ+パーティ代こみ)
大学生 3,000円を申し受けます
社会人 5,000円を申し受けます

■内容
・13:00-13:30 オーバービュー(リトルプレスの作り方)
・13:30-16:30 リトルプレス製作ワークショップ"Playful_work Press"
Production
Gallery walk
・16:30-17:00 Break
・17:00-18:00 Partyの準備を皆でします!
・18:00-18:30 Break
・18:30 - 20:30 Playful_work Press Party!

■ワークショップ参加者の方への宿題
0.リトルプレスのテーマは「Playful_Work」です。

1. 当日は、自分の過去、現在、仕事への思いを表現できるような
写真、簡単な文章、絵などの素材を持ってきてください。
素材は少なくとも15点以上お持ちください。
※切ったり貼ったり、場合によっては他の方と共有いただく可能性も
あります。貴重なものはお持ちにならないようお願いいたします。

2. 自分の過去・現在・これから・仕事を表す
ワンワードや、メタファを考えてきてください。

3. リトルプレスに使用したい素材などがありましたら、お持ちください。
(マスキングテープ、シール、デコレーション素材、他)
素材は、他の参加者の方と共有しても良いものにしてください。

4. リトルプレスは、アナログで、雑誌や写真やイラストを
ブリコラージュしながらつくります。
※完成したリトルプレスは当日お持ち帰りいただけます。

■参加条件

下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいているとみなします。

1.リトルプレス作成ワークショップにご参加の方は、
上記の宿題をあらかじめ実施し、参加してくださる方に限ります。

2.写真等の素材は、製作にあたって原形をとどめない可能性があること、
他の参加者の方とシェアされる可能性があることをあらかじめご了承ください。
またおつくりいただいた作品は、当日の参加者に共有させていただくほか、
企画者の学術研究、研究開発等に許諾なく利用させていただく可能性があります。

3.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画・作品は、企画者が関与するWebサイト等の広報手段、
講演資料、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。
マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

4.欠席の際には、お手数でもその旨、PPP事務局まで(ppp@swivel.co.jp)
ご連絡下さい。お申込み多数の場合には、繰り上げで
他の方に席をお譲りいたします。

以上、ご了承いただいた方は、下記のサイトより参加お申し込み下さい。
本参加は人数が多い場合は抽選とさせていただきます。
本日11月19日より募集を開始し(〆切11月29日)、
11月30日までには参加の可否を御連絡させて頂きます。
なお、応募が多く人数を大きく超える可能性がある場合には、〆切前で
あっても、予告なく応募を停止する可能性がございます。
どうぞお早めにお申し込み下さい。

Playful_work Press and Party!参加者募集!
本ワークショップは募集を停止させて頂きました。ありがとうございました。

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Press and Party Publishing(PPP)
見木久夫 / 牧村真帆 / 中原 淳
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投稿者 jun : 2013年11月19日 11:29


顧客に賢くなってもらう戦略!? : 敷居を下げるのではなく、スマートな顧客をつくる!?

「敷居を下げる」のではなく、「顧客に賢くなってもらう」ために「学びの場をつくること」は、大切なのではないか?

 最近、僕は、そんなことを思います。
 今日の話題は「顧客に賢くなってもらうこと」。ざっくりひと言で述べるならば、「伝統的エンターテインメント(アート)」と「顧客教育」の関係についてのお話です。

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 最近、こんなことを思い至るようになったのには、理由があります。
 先日、「オーケストラに聴くプロフェッショナルの学び」というイベントを、坂口さん、山岸さん、日本フィルの方々の協力を得て、開催させていただいたのですが、そのイベントの「後」で、僕自身に起こっている「変化」が、我がことながら(!?)、まことに興味深いのです。


世界初!?ワークショップ「オーケストラに"聴く"プロフェショナルの学び」参加者募集!

http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/09/post_2085.html

 イベント「オーケストラに聴くプロフェッショナルの学び」は、オーケストラの「リハーサル」を観察・見学させていただき、楽曲のポイント、作曲家の特徴についての解説を日本フィルの山岸さんなどからいただいたうえで、「本番」を聴くというイベントでした。イベントのテーマは「プロフェッショナルの学び」。音楽を聴きながら、経営的テーマを考えるという世界初!?のイベントです(最近、世界初!?と名乗ってしまったもん勝ちだと思い込んでいる節あり)。

 リハ・本番の曲目は、マーラー。それも9番!マーラーが晩年、自らの死を予感しつつ書いた「それはそれは渋い曲」です。
 指揮者ラザレフのタクトは鬼気迫るものがありました。第四楽章最終部では、消え入る音の中で、プルプル震えるラザレフを見ることができました。このプルプルラザレフ、なかなか、忘れられない印象深いものでした。
 坂口さんの安定的なファシリテーション、山岸さんの専門的解説は、松浦さんの堅牢なロジスティクスのおかげで、イベントは盛会に終わりました。

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 ところで、このイベントのあと、僕に起こっている変化とは何かと申しますと、ひと言で申しますと「クラシックルネッサンス」です(笑)。
 9番からはじまり、マーラーの交響曲をもう一度すべて聞き直したり、それからはじまって、ベートーベンを聞き直したり、こんなにクラシックを聴くことはなかったな、と思うくらいに聴くようになったのです。

bernstein_2013.png

 昔、ピアノをやっておりましたので、そこそこクラッシックは聴いておりますが、最近は、とんと、ご無沙汰でした。
 その僕が、もう一度、クラシックを聴き直している、というのが興味深いところです。

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 今から考えてみると、きっかけは、やはりあの瞬間だったな、と思うのです。それも、僕は、自分一人でコンサートを聴きにでかけただけでは、今の状態にはならなかったな、とも思います。

 当日の楽曲は、マーラー9番。そして、リハーサルで演奏されているのは第四楽章でした。
 少し詳しい方ならおわかり頂けると思うのですが、マーラー9番第四楽章とは、静かなレクイエムのような曲です。
 吹奏楽で演奏したいと思わせる曲ではないですし、その性格から、なかなかの「玄人さん」しか、一般には、聴かないのではないでしょうか。

 しかし、この日のリハーサルは第四楽章でした。
 リハーサルでは、参加者の方々は、事前に日本フィルの山岸さんから、第四楽章の聴き方をいくつか指南していただき、そのうえで、ホールに入っていきました。

 僕がもっとも興味深かったのは

「第四楽章には、何度か同じメロディがかたちをかえて繰り返されます。そのメロディを探してみてください」

 という山岸さんの、ひと言でした。このひとことで、僕は俄然興味をもち、第四楽章を「愉しむこと」ができました。会の終了後は、みなさんと、対話をしたり、それは愉しい時間でした。
 ふとしたきっかけで、本番に感動し、クラシックをもう一度聞き直す生活にはまっているというわけです。まことにありがたいことです。

  ▼

 最近は、忙しくてあまり出かけることができませんが、暇をみつけて、クラシックや能など、伝統的なエンターテインメントに出かけていて、いつも思うことがあります。それは、ひと言でもうしますと「顧客の高齢化」です。場によっては、かなり「空席」が目立つものも少なくありません。経営的にはそう楽ではない、と推測します。

 僕はエンターテインメントには全くの門外漢。それも、ヘビーユーザーではありませんので、あまり詳しいことはしりませんが、たとえば僕くらいのお客さんが、圧倒的に少ないことは、非常に気になっていました。

 若年層は忙しいですし、また「客単価」がそこそこしますので、おいそれと「伝統的なエンターテインメント(アート)」には、なかなか出かけられません。
 しかし、それにもまして、おそらく障壁になるのは「伝統的なエンターテインメント(アート)」は愉しく鑑賞するためには、ある程度の知識や教養やヒントみたいなものが必要で、興味をもっていたとしても、なかなか「新規参入」しにくい性質があります。つまりひと言で申しますと「敷居が高い」ということです。

 こうした場合、マーケティングの観点から考えますと、「伝統的なエンターテインメント(アート)」が採用しうる方向性は2つあります。

 それは、「伝統的なエンターテインメント(アート)」が「自らの敷居を下げる」か。それとも、「顧客に賢くなってもらうか=顧客教育を行うか」です。
 図に書きますと、こういうことですね。

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 前者の場合ももちろん奏功するケースはあるんでしょう。とくに最初のきっかけにはいい気がします。しかし、長期的な視野にたった場合、「敷居を下げて顧客に迎合してしまった伝統的アート」といいますのは、どうも自己矛盾の可能性を孕みうる気もしてきます。
 やはり、こういう場合は、後者のように「顧客に学びの場を提供し、賢くなってもらう。そのうえで、継続顧客につなげる」という戦略も、検討の余地はあるのではないか、と思いました。ひと言でいうと、「学びの場を提供し、ファンをつくる」ということです。

「敷居を下げる」のではなく、「顧客に賢くなってもらう」ために「学びの場をつくること」

 おやおや、こんなところにも、学びの可能性がひらけているようです。
 そして人生は続く。 

投稿者 jun : 2013年11月18日 08:08


アクティブラーニングはアクティブラーニングの中で学ぶ!? : 複雑怪奇な入れ子deラーニング!?

 今年から東大では「近い将来、教壇にたつ大学院生に"教えることを教える"ための全学教育プログラム」東京大学フューチャーファカルティプログラムを開講しています。


東京大学フューチャーファカルティプログラム

http://www.todaifd.com/ffp/

 このプログラムはミニワークショップ×2つと大学院共通科目「大学教育開発論」を計3つすべて受講すると、大学から公式の履修証が授与されるプログラムで、同僚の栗田佳代子さん、藤本夕衣さんらが中心になって運営されています。授業は後期も、大学院生で満員御礼。まことにうれしいことです。

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 このプログラムで僕は主に裏方で、授業にはほんの1部だけ登壇させていただいておりますが、短い時間ですが、自ら授業で「インタラクティブに教えるやり方」を紹介しながら、つくづく思うことがありま)。

  ▼

 それは、

 アクティブラーニングの教え方は、アクティブラーニングを実践している授業の中でしか、教えられない

 ということです。

 すなわち、

 教員が、アクティブラーニングのやり方を学びたい学生を相手に、自らアクティブラーニングの形式で授業を実施する。
 学生は、そうした双方向の授業に参加し、アクティブラーニングを自ら体験し、教員の実践のスタイルを観察することで、アクティブラーニングを実践することを学ぶ

 ということです。

 これは先ほどのセンテンス中の「アクティブラーニング」というワードを「ワークショップ」や「ファシリテーション」に変えてもいいかもしれません。

 単刀直入にいうならば、

 ワークショップのやり方は、ワークショップの中で学ぶ
 ファシリテーションのやり方は、ファシリテーションの中で学ぶ

 ということです。ま、根拠レスだけど、たぶん、そうじゃないかな、と思う(笑)。

 この「入れ子構造の中の学び」、いわゆるひとつの?「入れ子ラーニング」は、言葉にすると、めちゃくちゃややこしいのだけれども、実際、やってみて、そう思うんだから、しょうがありません。

 ▼

「インタラクティブな学びをいかにつくるか?」は、インタラクティブなティーチングの中でしか、学べないという命題が、もし仮に真だとしたならば、いくつか留意するべきことがあります。

 ひとつは、教える側は「腹をくくる覚悟」が必要だ、ということです。そして、教える側の専門性向上(教授力向上)が何よりも問われるということです。僕はFDは専門ではないし、FD業界!?のことは、よく知らないけど、そうじゃないんでしょうか。いわゆるひとつの「FD批評 / 古今東西FD事情紹介」をするのならともかく「実践としてFDをなす」ならば、FDを提供した相手に発するメッセージには再帰性があるような気がします。

 だって、あーた、そうでしょうよ(笑)。「インタラクティブな授業のやり方」を教えることは、自らの実践と自らの実践の様子を「モデリング」されることでしか学べないのなら、常に、授業内で教員が学生に対して発するメッセージの宛先は、ブーメランのように「教員側にも」かえってくるからです。
 
 あんたは、インタラクティブな授業をせよ、という。

 そういう、あんたの授業は、どうなんだ?
 あんたの授業は、学習効果は高いのか?
 学生のモティベーションはあがるのか?

 そういうあんたは、どうなんだ?

 ふたつめは、教員が意識するにせよ、しないにせよ、教え方は世代継承されるということです。
 つまり、アクティブラーニングの授業で育った世代は、自らが教員となったとき、それを再生産する可能性が高くなる。一方、10年前につくった講義ノートを詩吟するような授業で育った世代は、自らが教壇にたったとき、その授業を、悪気なしで、再生産する可能性が高くなる。

 つまり、

 授業のやり方は、授業を通して学ばれている

 ということであり、

 授業のやり方は、授業を通して再生産される

 ということです。

 この場合の問題は、教員を取り巻く外部環境や社会的要請は、前の世代と今の世代では、微妙に異なっていることです。
 再生産された学習の手法が、外部環境や社会的要請とマッチしているのなら、1ミリも問題はありません。しかし、そうでないのだとすると、結局、いつか行き詰まるのは、将来の世代である、ということです。

 ▼

 今日は授業をインタラクティブにすることをいかに伝えるか、という話をしました。
 もちろん、こういうからといって、すべての授業が、インタラクティブでなくてもいいし、アクティブでなくてもいいし、そんな「前のめり」である必要は1ミリもありません。僕は、いつも学生に言っているのは、「学習者が自分の頭で考えさせる」ができれば、一斉講義でも全く問題なし、ということです。
 学問分野や、大学生の状況にあわせて、手法などは柔軟に選択されればよいのだと思います。

 東京大学フューチャーファカルティプログラムで行っていることは、おそらく、そのための「お道具箱」を、大学院生にお渡しすることでしょう。ぜひ、この「お道具箱」のお道具を柔軟に使いながら、それぞれの学問分野で、素敵な授業をつくっていってほしいものです。

【いいね!希望です!御願いします!】東京大学フューチャーファカルティプログラム on Facebook(こちらで授業の様子を見ることができます)
https://www.facebook.com/TodaiFFP

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年11月15日 06:20


クオリティは高いんだけど、人が集まらない研修コンテンツ!?

 僕自身も、様々な研修やワークショップを、人並み以上に、たくさん企画していますので、今日の話題は、「自爆炸裂、ちゅどーん!的物言い」になりますが、最近、とみに思うことがあります。
 研修開発入門という本を書いているせいか、最近、こうした話題が多くなっていますが、どうかお許しを(泣)。僕も頭が2個も3個もあるわけではありません。貯めてしまっている別の原稿を脇目にしながら、何とかかんとか、この本を書き切らなくてはならないのです(泣)

 今日の話は、ワンセンテンスで申しますと、それは組織における「研修のクオリティ」と「デリバー」と「貢献価値」の関係です。
 もうそろそろTAKUZOが起きてくるので、結論を急ぎますと(泣)、「組織における、研修とは、人に届いて、はじめて貢献価値が生まれるよね」ということです。

 ▼

 一般に、研修などを企画しておりますと、たとえば一生懸命考えて練りに練ってつくったプログラムに対して、人が思ったように集まらない、という「残念な事態」が生じます。
 要するに「コンテンツのクオリティとしては申し分ないんだけど、人っこ一人、誰も来ないよね」という事態です。「インストラクションデザインの理論どおり、教材設計したんだけど、でも、ちょっとスカスカだね」みたいな事態です。そういう「悲しい現実」が、たまにある。

 もちろん企画によっては、人も寄りつけないような「高尚」なものもあるかもしれないし、人が集まることに、それほど意味のないものもあるかもしれません。また、そもそも人を集めることが目的ではないものもあるかもしれません。
 また、全くイノベィティブなコンテンツの場合には、普及には、一定の時間はかかります。この場合には、中長期的視野にたって、事態を見詰めなければなりません。
 だから、ここで、十把一絡げに「人が集まること」をよしとすることは、どだい「無理なこと」かもしれません。しかし、ここでは、それを仮に認めたうえで、話を先に進めます。

 ここで問題になるのは、そういう事態が生じた場合に、企画者側が、どのように意味づけをするかなのです。ごく希に、「コンテンツはいいんだけど、興味をもつ人がいない」のは、「興味をもたない人が悪い」のだ、と意味づける場合があるようです。別の言葉でいうならば、「コンテンツのクオリティが高ければ、人が集まろうが、集まらなかろうが、別に気にしない」という態度です。

 しかし、そもそも、組織の人材育成(研修を含む)の目的とは、「他者の学習を組織化することで、組織の戦略・目標達成に資すること」です。もし仮に、この定義を認めて、しまうのだとしたら、学習はいわば「戦略・目標達成のための手段」です。ここが「組織において」コンテンツを開発することと、自発的にコンテンツを開発することの明確な差です。

 コンテンツや学習としてのクオリティは申し分なかったのだけれども、それが「人に届かない事態」は、その先にある「戦略・目標達成」もままならないのですから、そもそも「人材育成」の位置づけの観点からすれば「大きな痛手」です。

 もう少し踏み込んで言うと、「コンテンツとしては申し分なかったんだけど、人が集まらなかった」という風に意味づけるのではなく、「コンテンツの企画としてはダメだったんだ」と考えるべきだと思います。なぜなら、人が集まっておらず、そもそも「戦略・目標達成への貢献価値がゼロ」なのであるから。

 ちなみに、この状況は、商品開発に喩えるとこういうことです。

「めちゃくちゃ高機能な商品つくったんだけどな。でも、誰も買わなかったね。でも、高機能な製品できたんだから、いいじゃん、何が悪いの?」

 皆さんが経営者だったら、こういう開き直りに、どう答えますか?
 「誰も買ってないんだよ」ということは「売り上げゼロ」です。

 こういうことをいうと、「中原は、学習を商品に喩えるなんて、あいつは、本当にケシカラン」とか、心ある人々に、便所スリッパで頭ひっぱたかれそうだけど(笑)。喩えです、喩え!真に受けないでください。

 ▼

 そう考えますと、研修を開発するという物事の中には「人を集めること」の企画も、含まれるべきである、ということになります。

「人を集める」といいますと、一般には「軽薄短小、枝葉の問題」と考えられがちですが、それはそうではありません。そもそも、コンテンツ開発をするときには、「人を集めるための戦略立案」も必要なのです。

 開発したコンテンツをいかに魅力的に見せるのか、適切な人に来てもらえるのか。自戒をこめていいますが、貢献価値を生み出すのは、なかなか難しく、悩みはつきません。

 そして人生は続く。

 ---

追伸.
 いわゆる「オン・ザ・マユゲ of TAKUZO」です。自宅の風呂で切ったら、こうなりました。僕が切ったわけではありません。南無。

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投稿者 jun : 2013年11月14日 07:46


「ゲームデザイン」と「人材育成」の似ているところ!? : 「開始直後から街を出れば情け容赦なく強敵モンスターが襲ってくるRPG」はつくらない!?

 先だって、東京大学駒場キャンパスで開催された講演会で、山本貴光さんの講演を拝聴する機会に恵まれました。山本さんはゲーム会社の「コーエー」で、「三国志」や「提督の決断」シリーズなど、各種のゲーム制作を10年間行ったのち、現在は、フリーランスとなり、文筆業を営んでいらっしゃる方です。

山本貴光さんのTwitter
https://twitter.com/yakumoizuru

 最近では、MITプレスから出版されたゲームデザインの大書「Rules of Play」を翻訳なさり(この本は、留学中に入手していました。かなりの大著です!)、大学などで講義をなさっております。講演当日は、Crash town、Cookie Clicker、信長の野望といった、様々なゲームを題材に、ゲームデザインの要点を、より一般化した原理・原則として、簡潔に1時間で講演くださいました。

  

 僕は、講演後、別の用事があり、山本さんの講演を聞いたあとでやむなく中座しなければならなかったのですが、その内容は、爆発的に興味深いものでした。ゲームの内部からゲームを語らず、より一歩メタな立場にたったゲームの語りは、非常に面白いものでした。このようなお話を聞かせて頂いたことに感謝いたします。

 ▼

 個人的な感想を繰り返しますと、山本さんの講演は、この1年で「最も面白い!」ものでした。
 それでは、僕が「面白い!」と思ったことは、何か?

 それは、実は、「ゲームそのもの」にはありません。というよりも、むしろ、山本さんが専門となさっている「一般化したゲームデザインの原則」と、僕の専門とする「人を育成すること」は、非常に似ているということなのです。
 同じ人を対象にした営為なのですから、それに類似性が見いだせるのは、よく考えれば会得できるのですが、敢えてそんな視点からゲームや人材育成を考えたことがなかっただけに、非常に面白いものでした。

 山本さんはおっしゃいます。
 その語りは、ICレコーダを持っているわけではないので、一字一句同じではないですが、下記に要約しますと、こう解釈できそうです。

 曰く、

 ゲームでは、スーパーマリオであろうと、ドラクエであろうと、「プレイヤーはゲームから、問題を解決せよ、と命令される」。つまり、ゲームとは「問題への挑戦」なのだ、と。

 しかし、どのような「問題」であってもよいか、というと、それは違う。ゲームデザインでは、「ディレンマが渦巻く、一見、複雑そうな世界」を提示し、ユーザを「試行錯誤」に導く。「試行錯誤」をしているうちに、ユーザーには、その背後にルールが見えてきて、「解決」ができる。

 喩えて述べるならば、ゲームデザイナーは、「開始直後から街を出れば情け容赦なく強敵モンスターが襲ってくれるRPG」はつくらない。まして「どこまでいってもゴールにたどり着けないーパーマリオ」もつくらない。
 とはいえ、「開始直後から街をでると、すぐとなりにゴールがあるドラクエ」もつくらないし、「開始直後からBダッシュすればゴールできるマリオゲーム」もつくらない。

 そこには、ユーザーの「試行錯誤が継続可能」な幅らしきものがある。さらによいゲームでは、開発者が想定すらしなかった使い方をユーザーはしてくる。そこに「創発」が生まれる。

 まとめると、よい、ゲームのデザインには、下記のような条件を満たしている。

 ゲームには「必勝」とか「楽勝」は禁物である。
 ゲームには「失敗」させる可能性が欲しい
 プレイするたびに「違う状況」が生じる

 ただし、ゲームはひとりで完結しない。
 ユーザーが「解決」に近づいているか否かはわかることは重要である
 言葉をかえれば「手応え」や「フィードバック」は感じさせなくてはならない
 そのようなプロセスを通じて、プレイヤーは何かをしたくなる

 未解決の問題こそが、プレイヤーを招く
 畢竟、すぐれたゲームは「未解決感」が残る

 ここまで述べて「勘の鋭い方」ならおわかりいただけると思うのですが、これは、「人材育成の原則」、言葉を換えていうならば、「上司から部下への仕事の割り振り」のセオリーにそっくりなのです。
 だって、「必勝」とか「楽勝」の仕事を割り振りしても、能力は伸びない。そこには「試行錯誤」や「未解決感」が大切である。そのうえ放置していても、能力は伸びないので、「手応え」や「フィードバック」を与えなくてはならない。かなり似ているではありませんか。

 山本さんには、講演のあいだに、感想を述べました。

「話を一般化すれば、優れたマネジャーや優れた教育者のしていることと、山本さんの仕事は、かなり似ていると思いますよ。彼らは、山本さんの話を聴けば、かならずピンとくる、と思います」
 
 とお話しました。

 山本さんは「そうですね」と笑顔でおっしゃっていました。
 僕はゲームには、全くの門外漢ながら、「人材育成=学習・教育の世界」と「ゲームデザイン」の間の接点が見えた瞬間でした。人を夢中にして、その能力を伸ばすためには「開始直後から街を出れば情け容赦なく強敵モンスターが襲ってくるRPG」はつくらないんですよ。まして「どこまでいってもゴールにたどり着けないスーパーマリオ」もね。

   ▼

 今日はゲームデザインと人材育成の類似について述べました。先にも述べましたように、ゲームデザインも、人材育成も、同じ人を扱っているので、その原則が近似していても、不思議はありません。

 しかし、これらの両領域は、言説領域として全くオーバーラッピングがない、別々の空間を占めています。ゲームデザインを語る人が、人材育成を語ることは、まずないし、逆も真でしょう。
 しかし、「一般化」してみれば、同じような原理・原則をお話しになっているという点で、非常に興味深いものでした。「ゲームの言説の内部からゲームを語る」のではなく、「ゲームの外にいったんでて、ゲームを語る」。まさに「学際の夜」を堪能できました。ありがとうございます。

 最後になりますが、講演をしてくださった山本貴光さん、企画してくださった同僚の藤本徹先生には、心より感謝いたします。ありがとうございました。次回のメディア創造ワークショップも、学生がどんな提案を行って下さるか、非常に楽しみです。この講演の模様は、後日、東大TVにて、ネットで無料公開されるそうです。ぜひご覧いただけますと幸いです。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年11月13日 06:13


「人材開発の仕事の未来」と「グローバリゼーションひたひたモデル」!?

 この5年間くらいで、人材開発の仕事は、急速に「グローバル化」したような気がします。
 ここで、グローバル化というのは、「ヒトモノカネの全球的流動」のことですが、「人材開発の仕事にとってのグローバル化」とは「人材育成施策の対象になる人材が、全球的に存在し、出入りしているような状況」とします。

 今日の話題は、80年代にすでにそれを終えてしまった一部の製造業の方々からすれば「今さらジロー感あふれる話題」かもしれません。

 また、今なおバリバリの「マルドメカンパニー」で人材育成の仕事をなさっている方からすれば、「どこの国の話よ?感」あふれる話題かもしれませんが、授業に参加して下さる社会人の方々の様子を拝見していて、そんなことを、とみに思います。

  ▼

 一般に「グローバル化」は、突然来港した「黒船」に喩えられるのかもしれませんが、どちらかというと、人材開発の場合、様子を拝見していると水が徐々に染みこんでくるような「ひたひた」モデルに近いような気がします。ま、印象論ですが、以下、「グローバリゼーションひたひたモデル」にお付き合いです。

 事態は下記のように進行します。
 まず、人材開発の仕事ですので、まず、研修やOJTの参加者に、異なる国籍の方々が、チラホラ混じるようになってくる。ひた・・・。あっ、今年の採用では、ずいぶん、留学生を採用したな・・・。ひた・・・。

 あれっ、海外に赴任するマネジャーに、研修を企画しろというのがふってきたぞ。何やればいいのかな。ひたひた・・・。

 海外の現地法人や、M&Aした会社のマネジャー層が、国内での研修に参加してくるようになってきたな。なんだか、またうちの会社、海外の現法を立ち上げたみたいだな。ちょっと、出張して、そこのマネジャーと人の話をしないとな。ひたひた・・・。

 グループ全社で統一の研修をうとう、ということになったらしいよひたひたひた・・・。
 かくして、気がついたときには、現地の人材開発担当者やら、マネジャーと英語でメールや、テレカンを使ってやりとりをする日々になっている。ひたひたひた・・・。

 研修のロジスティクスひとつとっても、その複雑さは、半端ではありません。例えば、研修には「アゴ(食事)」がつきものですが、文化的背景が異なれば、当然、食べられる、食べられないの問題がでてきます。そういう調整すら必要になってきます。

「グローバリゼーションひたひたモデル」の印象は、こんな感じでしょうか。皆さんの場合は、いかがでしたか? いま、「ひた」くらいでしょうか? それとも「ひたひたひたひた?」(笑)

  ▼

 これは印象論ですが、今後、グローバリゼーションの動きは、おそらく加速することはあっても、低下するということはないような気がします。
 そうなれば、早晩、必要になってくるのは、英語云々もそうでしょうけど、「ひとの育成や学習」に関して、きちんと理論や概念に基づき、社会的・文化的背景の異なる方々に「説明」ができることのように思います。

 なぜ、このプログラムなのか?
 ここには、どんな含意やねらいがあるのか?
 それで、どんなメリットがあるのか?

 これまでは「あうん」の呼吸で済んだものが、ひとつひとつ「言挙げ」されてきます。それをひとつひとつ議論したり、説明したりする必要がでてきます。それは大変なことだよな、と思います。

 先だって、実は、僕も、自分の研究を外国人の方に説明していました。日本の「shokuba」を「Workplace」と訳して、外国人の方に説明するのは簡単ですが、それでは、どうにも不十分です。
 結局、日本式の人事制度、仕事のやり方(overlappingの程度)、メンバー間の組織市民行動(OCB)の程度、相互作用の程度、などをひとつひとつ説明していかなければなりませんでした。

 それだけ言葉をつくさなければ、

 The HRD function of Japanese company has been unintentionally embedded into shokuba.

(人が育つ仕組みは、非意図的に職場に埋め込まれてきました)

 という文章には到達しないのです。それは、正直、面倒くさくて、まどろっこしくて、かったるい時間ですが、反面、曖昧にしてきた自分を振り返るよい契機になりました。結局、言葉にすることに時間をかけなければダメなのだよな、と思いました。

 ▼

 今日はグローバリゼーションと人材開発について話しました。

 「ひた」がまだ感じられない方にとっては、今日の話は、なんのこっちゃい、という話ですね、すみません。
 でも、少しでも「ひた」を感じられている方は、それが「ひたひた」になるか、「ひたひたひた」になるかを、少しは実感いただけたのかな、とも思います。

 今まさに、あなたは、いくつめの「ひた」を実感していますか?

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年11月12日 06:28


研修の「表目標」と「裏目標」!?

 組織の中で行われる研修には、「表目標」とともに、時に「裏目標」が設定されていることがあります。
 ここでいう「表目標」とは、「学習者がどのようなことを学び、どのように行動を変化させるのか?」ということですね。組織の中で、表だって語られ、参加者についても開示されている目標です。

 一方、実務においては、研修などに「隠れた裏目標」を設定している場合も少なくありません(というか、正しくいうと、裏目標すら複数あるような場合も、少なくありません)。
 ここでいう裏目標とは「研修をつくる側が意識はしているものの、参加者などには隠されている目標で、研修を通しておのずと学ばれてしまうものです」です。

 たとえば、今、「営業系の研修」を例にとりあげまましょう。
 この研修の「表目標」は、今、仮に「顧客に10分間で商品説明を行えるようにすること」であったとします、シンプルに。でも、この研修には、実際には「裏目標」が存在していました。

 たとえば「裏目標」には、「A支店の営業マンとB支店の営業マンが仲が悪く、この研修を機に距離を縮めたい」とか、そういうものがありえるかもしれません。多くの場合、「裏目標」は、政治的で社会的な内容が含まれることの方が多いような気がします。

 こうした「裏目標」は、表舞台で語られることはなく、また参加者が知るよしもなく、様々なかたちで研修内容に実装され、達成されていきます。「プレゼン研修」の「表目標」を達成しつつも、いかに「裏目標」を副次的に実現するかが、ポイントです。

「裏目標」は、一般に、現場や経営幹部などのステークホルダーから暗に伝えられていたり、さまざまな打ち合わせの中で表出してくることもあります。それをいかに拾い出すかも、また研修開発側のスキルです。

 ▼

 さて、今日は、研修の「表目標」と「裏目標」の話をしました。週明けから、ドロドロ血的な話題ですみません。最近、「研修開発入門」という本を書いているからでしょうか。頭の中が、そのモードです。今月にはあがると思います。

 ああ、まーま、時間がないわ。もう、6時54分、そろそろ、TAKUZOが起きてきそうなので、このくらいにしておきますが(笑)、裏目標は、一般的な、いわゆる教授設計理論では、あまり取り扱わないかもしれません。
 場合にもよりますが、教授設計理論にとっては「目標は行動目標化され、学習者に明示されること」が基本的想定となっている場合が多いからです。

 しかし、組織的な立ち位置から研修の機能を意味づけようとするとき、また、実務の観点から、研修をかんがえるとき、こうした、なかなか「表に出てこないものの存在」が掘り出される場合があります。

 その研修の「表目標」は何ですか?
 そして、その研修には「裏目標」はありますか?

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追伸.
 昔むかしの概念に「Latent Curriculum(潜在的カリキュラム)」「Hidden Curriculum(隠されたカリキュラム)」という考え方がありますね。これらは「教える側がインフォーマルに行う全く無意図な行為で、しかし、政治的・かつ社会的なメッセージを含みうる行為が、学習者に、無意識的に学ばれてしまうこと」を意味しますね。
 これと今日の話題の「裏目標」はちょっと違います。「裏目標」も「Latent Curriculum」も、「学習者はわからないこと」は共通していますが、前者は「教える側」は意識してます。後者に関しては、「教える側すら意識していない」ものです。

投稿者 jun : 2013年11月11日 06:53


博士の結婚挨拶

 昨夜は、某所で一献した際、微笑ましい話を伺いました(お招きありがとうございました)。話題は、博士課程の大学院生同士が、このたび、めでたくゴールイン、結婚なさるときのお話です。まことに明るい話題です。おめでとうございます。

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 言うまでもなく、結婚は、誠に「社会的な行為」です。一般的には、結婚には、お互いの親への挨拶など、さまざまな社会的行為を、二人で力をあわせて行う必要がでてくることが多いのではないでしょうか。
 そして、「男性」から「女性の親」への挨拶ということになりますと、日曜日あたりに、男性が女性のお宅をおとずれて、「XXさんと結婚させて下さい」とやるのが、いまだに一般的なのでしょうか。

 この大学院生の方々の場合、男性は、「博士らしい!?挨拶」をなさいました。

 一般的に行われる紋切り型の文言である、

「XXさんと結婚させて下さい」

 を用いませんでした。
 その挨拶には「根拠」がない(笑)。ですので、男性は「根拠を示した上で、結論(決意)を述べたのです(笑)。

 口上の詳細は知りませんが、

「XXさんを僕が好きな理由は3点あります。第一の理由は・・・。第二の理由は・・・。第三の理由は・・・です。以上3点の理由にて、XXさんと結婚させて下さい」

  そんなかたちで、女性の親に挨拶なさったそうです。女性のお父上さんは「長かかったな」とおっしゃったそうですが、快く受け入れて下さり、めでたくゴールインとなったそうです。

 結婚の親への挨拶に、「3つの根拠」を示すところが、まことに微笑ましい。

 ▼

 僕は、こういう大学院生が好きです。
 ぜひ素晴らしい家庭をお持ちになっていただきたいと思いますし、ぜひ、幸せになって欲しいと思いました。
 
 そして、お二人の人生は続く
 おめでとうございました。

投稿者 jun : 2013年11月 9日 08:18


社会問題の解決 × ゲーム!? : メディア創造ワークショップ・特別公開セッション

「メディア創造ワークショップ」の特別公開セッション第二弾です。藤本徹先生が、こんなシンポジウムを企画してくださいました。「社会問題の解決 × デジタルゲーム」という感じです。一般にも公開されているシンポジウムですので、もしご興味あらばおこしください。

藤本徹先生のブログ
http://www.anotherway.jp/

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メディア創造ワークショップ・特別公開セッション
「社会問題に対応したデジタルゲーム開発の技術」
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趣旨:
近年、ゲームエンジンなどのデジタルゲーム開発のために開発され
た技術が、娯楽以外の社会的な用途のゲームやシミュレーション
(シリアスゲーム)の開発に利用される事例が増えており、ゲーム
産業と社会をつなぐ新たな可能性を示しています。

中でも近年ゲームエンジン「Unity」が採用される例が多くなり、
教育や医療、さまざまな社会活動のためのデジタルゲーム開発に
も貢献しています。この公開セッションでは、ユニティ・テクノ
ロジーズ・ジャパンの伊藤周氏をお招きして、Unityが提供する
開発環境の概要と、教育用ゲームや訓練用シミュレータの開発事
例やヘッドマウントディスプレイ等の技術との組み合わせによる
新たな経験を生み出す可能性について解説していただきます。

本セッションは、東京大学駒場キャンパスで開講中の「メディア
創造ワークショップ」の特別公開セッション第2回です。
学外の方の参加も歓迎いたしますのでどうぞご参加ください。

(セッション1) Unity の開発環境が生み出す可能性
講師: 伊藤 周(いとう まこと)氏
(ユニティ・テクノロジーズ・ジャパン合同会社 エバンジェリスト)
(プロフィール)
株式会社セガでアーケードゲーム「頭文字D」「ガンダムカード
ビルダー」やモバイルゲーム「三国志コンクエスト」を開発。そ
の後Unity Technologies Japan合同会社に転職し、Unity
エバンジェリストとして今に至る。個人(@warapuri)としても
Oculus Rift用ゲーム「Titan」を開発。短時間でゲーム開発
を競うWEG:ゲームクエスト市川チャレンジの初代優勝者。

(セッション2) Unityを用いた教育コンテンツ開発事例
講師:
清水 宏一(しみず ひろかず)氏
(株式会社キャドセンター 取締役社長)
曽我 光厳(そが みつよし)氏
(株式会社キャドセンター インタラクティブコミュニケーショングループ)

日時: 2013年11月26日(火)18時30分~20時15分
会場: 東京大学駒場キャンパス21KOMCEEレクチャーホール(B1F)
http://www.komcee.c.u-tokyo.ac.jp/access

参加費: 無料
定員: 100名(学内生を優先しますが、一般からもご参加いただけます)

参加申込方法: 下記の参加申込フォームよりお申し込みください。
http://bit.ly/mcw2013-sp02

主催: 東京大学 大学総合教育研究センター 教育課程・方法開発部門

お問い合わせ:(担当講師:藤本・中原宛)
mcw<at> tree.ep.u-tokyo.ac.jp

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投稿者 jun : 2013年11月 8日 06:46


研究方法論を学ぶとは「実践すること」である!?

 中原研究室は、今、まさに「代替わり期」にあります。
 経験ある大学院生が卒業・就職していく段を迎え、新たに入ってくる大学院生に、その技術やノウハウをいかに伝えるかが、非常に大きな課題になっています。

 特に、統計分析や調査法などの、いわゆる「研究方法論」は、その肝は、入門書に書いてないような「ディテール」に「神」や「ノウハウ」が宿っています。これらを直ちに伝える必要があります。
 先日、僕は「研究室の種火を消さない」という記事を書きましたが、まさにそのものズバリの大きな課題が、中原研を襲っています。

組織の中の「種火」を消さない!?:世代を超えてスキルを継承することの難しさ
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/10/post_2114.html

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 先日、大学院生の有志と、新たなプロジェクトを立ち上げました。このプロジェクトは、「Research project:研究プロジェクト」でもあり、「Learning project:学びのためのプロジェクト」でもあります。

 経験ある大学院生とともに経験の浅い大学院生らが、ひとつの目的のもと、質問紙をつくり、実際に調査を行い、分析をして、学会発表を行い、論文化を行う。その一連のプロセスを通して、新たな大学院生に、技術を学んでもらおうということです。

 論文化まで行うということは、内容は「ガチ・リサーチ」です。査読も入るし、批判も受けます。しかし、そうしたプロセスの中で、こちら側は、なるべく学んでもらえる配慮をしていこうと思いますし、学ぶ側にも積極的なかかわりをしてもらいたいと考えています。
 ですので、「Research」と「Learning」は不即不離です。これらを切り離して考えることはできません。

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 これは、僕の私見なので真に受けないで欲しいのですが、わたしの研究領域に必要な、統計などの研究方法論(ユーザーとしての統計)を学ぶために必要なのは、「プロジェクト」「仲間」そして「時間」です。

 本を読んで統計を学ぶことも不可能ではありません。しかし、結局は、「リアルなプロジェクトのメンバーとして、ガチな課題にマジで取り組むこと」がもっとも早いと思います。
 なぜなら、プロジェクトには、〆切が迫ってきます。〆切がくれば、自分の分析知見をもって、他の研究者と議論をしなくてはなりません。そのときに、「わかんないとか、わかる」とか、低次のことを言っている暇はないのです。
 他の研究者に迷惑をかけないためにも、「わかるように」自分でするしかないですし、議論の俎上にのせるのは、より高次な分析結果でなくてはなりません。

 しかし、そうした厳しい「プロジェクト」だけがあれば、学べるか、というと、それは異なります。
 そこに必要なのは、困ったときに相談できる「仲間」、アドバイスをくれる「仲間」、一緒にひーひーいう仲間です。ですので、ラボには、なるべく時間をあわせて、皆で集まり分析を行うように、御願いしました。どうか、それを守って欲しい、と思います。

 そして本当に必要なものがあります。それは「時間」です。
 ちょっと考えたくらいで、分析が終わるのなら、こんなに楽なことはありません。
 実際は、仮説をつくっては崩し、崩してはつくり、ポチっとやって数時間の苦労が泡になり、泡から突然ヒントが生まれる。
 そういう何十時間もの試行錯誤があって、ようやくわかってくるものです。それには「長い時間」がかかります。

「考え続けたものだけが、思いつく」

 のです。

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 今日は、「研究方法論を学ぶこと」について書きました。大切なものは「プロジェクト」「仲間」「時間」です。要するにひと言でいえば、

 「研究方法論を学ぶことは実践すること」

 だということです。

 もちろん、これはあくまで僕の領域で、かつ、僕らに必要な技術の範囲で書いているので、他の領域や研究者がどう考えるかはわかりません。

 どうか「長旅」を愉しんで欲しいと思います。
 大丈夫、「終わりのない旅」はありません。

 Enjoy!

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追伸.
 東京大学新聞の「研究室散歩」で、中原研が取材されました。ありがとうございました。このコーナー、いつも愉しみに見ていますが、本当に東大には多種多様な研究室があると思っています。どんな領域にも、専門の研究者がいる。おそらく探究していない領域は存在しないのではないか、という具合に。大学という場所は、不思議な場所です。

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投稿者 jun : 2013年11月 7日 08:19


新しいことを発想するために心がけていること:ちゃぶ台返しをねらって、ヘタヘタな絵を描き、アウェイ空間で苦虫をかみつぶす!?

「新しいことを考えること」は、僕の仕事にとって、とても大切なことです(僕の発想していることが、新しいかはさておき、そうありたいと願っています)。

 最近は、「リサーチの"リ"」の字のカケラもないような「アドミニストレィティブなアフタヌーン」を、「まったり、ダバダー」と過ごす日も少なくありません。
 しかし、そんなことに、「宛先」なくいちいち「グダグダ」文句を垂れていても、「まったり、ダバダーなアフタヌーン」が「キラキラデー」になるわけではありません。

 結局、何とか、工夫するしかない。
「まったり、ダバダー」を最小限にする工夫をして、「新しいことを考えること」に、いかに最大限時間を費やすか。僕の場合は、究極、それしかありません。他の方がどうかは知りません。

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 しかしながら「新しいことを考えること」と一口にいいますが、それは、なかなか難しいものです。
 逆立ちして、頭を「逆さ」にして、カランコロンと振ってみても、アイデアがでてこないときには、頭に血が上るだけで、ビー玉一個さえ転がりません。

「新しいことを考えること」に「王道」はありません。また、「背中に包丁を突きつけられ、追いまくられた状態で、人は、キラキラクリエィティブなこと」を発想できません。
 それはいつも「偶発性」に満ちています。いわば、「神」を待つしかない。少なくとも僕の場合は、そうです。

 ただ、「新しいことを発想すること」は、「偶発的」で「王道」はないことはアタリマエダのクラッカーにしても、それにつながるような「コツ」や「習慣」が全くないか、というと、自分の場合は、そうでもないように思うことがあります。
 先だって、都内某所で、新事業開発をなさる方々の会に参加させて頂いたのですが、そのとき、そんなことが少し話題になりました。

 自分としては、その壇上にのぼるまで、発想法、着想法なんてものを、ふだんは全く考えたことは1度もなかったのですが、敢えて振り返ってみると、自分では、何か「新しいものを考えるとき」に、こんな風に発想しているな、と思ったことがありました。
 本当は10くらいあるんですが、TAKUZOが起きてくるので、敢えて3つにしぼります。鼻血ブーなほど、追われてんだよ、本当に(笑)。

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1.「そもそも」を問うて、「ちゃぶ台返し」をねらう
 たとえば、今、あなたが、これから「効率的なOJTのやり方」のことを考えるのだとします。一般的には「効率的なOJTのやり方って、何かある?」と先行する事例などを探し、問題解決プロセスに入るのですが、一番最初は、敢えて、そういう知識深化系の問いをもうけません。

 まず、問うべきは、

 そもそも「OJT」ってなに?

 からはじめます。
 その上で、「ちゃぶ台がえしができないか、どうか」「ちゃぶ台返しの隙がないか、どうか」を考えます。
 つまり「これまでの議論はすべて・・・という前提にたっていたが、その前提自体がおかしい。これからは・・・を・・・・と新たに捉えることからはじめなければならない」という論法が可能なのではないか、それを問います。つまり「前提をひっくりがえす=ちゃぶ台替えし」のです。

 これは、僕が学生時代に指導教官から厳しく指導されたことです。「前提を疑え=前提に怒りをもて=前提をひっくりかえし」すぎていると、反社会的になってしまうので、注意が必要ですが、発想法としては、優れているな、と思います。

2.とにかく「ヘタヘタな絵」を描く
 何か新しいものを考えるとき、僕は、ホワイトボードやら、スケッチブックやらを取り出して、とにかく絵を描きます。「ヘタウマ」ならぬ、本気で「ヘタヘタな絵」です(図工2!:泣)。

 このときは「新しいものを生み出すこと」は忘れています。そうではなくて、自分は「誰が、誰と、どういうことを話し、どういう活動をしている光景」を見たいのか、その「絵」を書くのです。

 1の活動がロジックであるならば、こちらの活動はイメージかもしれません。研究室の大学院生諸氏にも、このことは、いつも行っていることです。

「その仮説は、ロジックとしてはわかるけど、具体的に、誰が、誰と何をしていることを検証しようとしているの?」

 とかく研究の世界は、ロジックが頭でっかちになりがちです。興味深いものでロジックというものは、気をつけていかないと「浮世離れ」しがちなものです。
 また、ロジックを突き詰めすぎていると、そのロジックから離れられなくなり、論理の隙間をうめるために無意識に「嘘」をついてしまうことが、ままあります。
 絵を描くというのは、そういうことを防止することでもあるかもしれません。先だっての会でも、多くの事業家の方が、絵を描いている、とおっしゃっていたことが印象的でした。

3.アウェイ空間で、ケツの座りの悪さを愉しむ!
 これは敢えて敢えて自分に課していることですが、なるべく「アウェイ空間」に出かけるようにしています。ここで「アウェイ空間」とは「異質な領域で活動なさっている人たちと接点のある会合」などをさします。
 子育てがありますので、出張、飲み会、週末のイベントは難しいのですが、本当に必要だと思ったときは、アウェイ空間に自らでかけます。
 アウェイ空間に、僕の知っている人は一人もいないことが、ままあります。そのとき、自分は、あたかも異邦人でケツの座りがよろしくないことが、ままあります。
 しかし、こうした場に身をおくことが、自分の常識やステレオタイプを異化する機会として機能しますし。また、アウェイ空間で得た情報を、自分の領域の議論と、うまくトッピングすることで、面白いことが生まれたりする可能性もあります。
 最近では、出かけるのも難しいので、自分や自分の仲間たちを巻き込んで、自ら異質な人々が集まる研究会などをつくるようにもなってきました。「他人のつくったアウェイ空間」ではなく「自らアウェイ空間をつくること」も、また大切なことかもしれません。

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 今日は、「新しいことを発想するにはどうすればいいのか?」というテーマで、思い切り乱暴に、時間がないので、脱●気分で書いてみました(ごめんなさい)。

 でも、改めて、このテーマで考えるに、一番大切なことは、こういう「些末な行動」ではなく、もっともっと「地味なこと」かもしれないな、とも思います。

 それは、

「新しいことを発想するには、常に、新しいことを考え続ける」

 ということです。「考え続けることだけが、発想につながる」。細かなテクニックに走る方は、そのことを、つい、忘れがちなのかもしれません。

 以下は、ややブラックな物言いにも聞こえるかもしれないので、真に受けないで欲しいのですが、

「24時間、新しいことを考え続けている人が、新しいことを発想できる」

 のかもしれないな、とも思います。
 もちろん、誰にでもできることではありませんし、他人に強制するつもりもありません。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年11月 6日 09:03


ソシオグラムが「見えにくい」時代の治療!?:面接技術の向上と信頼の形成

 ちょっと前のことになりますが、肩こり・腰痛などなど、その他モロモロで(泣)、日頃からお世話になっている鍼灸師さんが、こんなことをおっしゃっていました。

「ここ10年の変化は、そうですね、患者さんのソシオグラムが見えにくくなったことですかね。(中略)ご時世柄、仕方がないことなのですが、新しい保険証の普及もあって、治療に役立てられる情報が減ってしまったんで、それを補わなければならないんですよ。たとえば面談技術で、補いますけれどもね」

 ICレコーダーを持っていたわけではありませんし、今まさに小生に鍼が打たれている、まさに「そのとき」の会話ですので(プスッ)、先生の言葉を正確に覚えていません。が、「ソシオグラム」という言葉(街の中では、なかなか、耳にしない言葉ですよね?)がとても印象的でしたので、たぶん、これで、趣旨はあっていると思います。

 ここで鍼灸師さんが述べている、「新しくなった保険証」とは「ここ5年ー10年で普及している、1人1枚のカード型の保険証のこと」です。
「ソシオグラム」とは「昔の保険証には明示されていたが、今の保険証には記載されていない家族関係の情報のこと」をさしているのだと思います。

 僕は保険証の専門家ではないので、詳細はわかりかねますが、要するに、先生の言いたいことは、「最近の?新しい保険証は、1人1枚になったので、被保険者の家族関係が記載されていた部分がない」ということなのだと思います。

 家族の情報(ソシオグラム)は、治療に必要な局面もあるのだが、しかし、今は、それが「自動的」には見えなくなった。
 だから、それを高度な面談技術 / 医療面接技術で補い、患者さんとラポールをとりつつ、自然とそうした情報が、口にでてくるのを待たなければならない、ということなのだと思います。

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 ところで、鍼灸師さんによりますと、鍼灸とは「診断即治療」ということばがあるのだそうです。
 診断即治療とは「施術者が、触れて感じた感覚から、そのつど、そのつど診断を即時的に行い、ただちに次の治療に活かす」という感覚だそうです。
 詳細は知りませんが、その施術とは、ややバタくさい言葉を使えば、インプロヴィゼーションに近いところがありそうです。

 しかし、こうした「インプロ的行為の象徴のような鍼灸治療」ですが、ここに来る人の社会的背景は非常に多様です。一人暮らしのお年寄りから、若い人まで、様々な人がいる。病状も、フィジカルな問題から、そうでない問題まで、様々な人がいる。

 これらの多種多様な患者さんたちが、症状を改善していくためには、治療だけでなく、やはり「家庭での生活」を切り離して考えることはできない。
 そのためには、患者さんたちが、誰と、どういう風に、ふだん生活をしているのか、そうした社会的情報も必要とする。適切な治療を行うためには、彼らの「ソシオグラム」を把握する必要がある。
 たとえば、湿布ひとつでも、そうである。ソシオグラムを把握せず、自分一人では張ることができない部位の治療のために、湿布をだしても、それは独り身の場合には「使われない」。否、「使えない」。ソシオグラムによって活きる治療もあれば、そうでない治療もある。

 医療の知識はないし、なにせ「プスッ」の最中ですので、うろ覚えですが、たしか、先生は、こうしたことをおっしゃっていました。

 ZZZZZ...

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 改めて自分の保険証をとりだしてみると、たしかに、保険証は僕ひとりの専用のカードになっており、僕の家族関係(勤務先はわかりますね!)は、把握しにくい構造になっています。
 たしか、昔のペラペラの紙のときは、2枚目だったかに、子どもなどの氏名などが書かれていた気がしますが、それは、うろ覚えでしょうか。

 先生のおっしゃるような「ソシオグラムが見えにくい」という事態は、昨今の個人情報保護の観点からは、致し方ないことなのかもしれません。また、そのような状況を抱えている領域は、医療関係以外にもいろいろあるような気がします。

 しかし「ソシオグラムが見えにくい」今だからこそ、なおさら、本人の便益・目的達成のために、患者ー医療者がラポールを達成し、「ソシオグラムを読み解く努力」が必要なのかもしれませんね。

 プスッ。

 治療の間中、僕は、うとうとと、そんなことを考えていました。そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年11月 5日 06:34


教えたとおりに「弾いて」はいけないよ!?:「反復練習」と「最後の自由」

 三連休、みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

 僕は、仕事は一切行わず(すみません!)、家庭で、妻と子どもと過ごしています。日中出かけ、夜はDVDをみたり、遊んだり、そんな「まったり」した生活です。

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 ところで、昨日の夜、見ていたDVDに非常に印象深いシーンがありました。このDVDは、サイトウキネンオーケストラを、小澤征爾が指揮するコンサートが収録されているもので、曲目はブラームスの交響曲第一番です。

 サイトウキネンオーケストラといえば、いわずもがな小澤征爾さんの師匠である「齋藤秀雄さん」の教え子達が、つくったオーケストラですね。
 齋藤秀雄さんは、チェロ奏者でありながら、指揮者として活躍なさり、また非常にすぐれた教育者として桐朋学園・教授、学長として活躍なさり、数多くの教え子達を輩出しました。サイトウキネンオーケストラは、齋藤さんたちが教えた、その教え子たちが活躍するオーケストラです。

 印象深いシーンは、DVDの冒頭、教え子のひとりの女性が、昔の齋藤さんの指導のエピソードを語るシーンです(原文は英語でした)。

「何度も齋藤先生のレッスンを受けたあと、いざ演奏会で弾く段になると、齋藤先生は、こういうのです。

教えたとおりに弾いてはいけないよ。
僕が君に教えたのとは違うやり方で、弾くんだよ!

小さい頃は、戸惑いました。齋藤先生は、とても厳しい先生でした。ただ、最後に自由になる権利を与えてくれるんです」

 非常に興味深いですね。
 練習では、何度も何度も教えたとおりに弾くことを要求しつつ、いざ、本番、演奏会で弾く段になると、それらをすべて忘れて、違うやりかたを為せという。最後には生徒にこう告げて、コンサートに送り出す。

You have to play in different way that I taught you!

 本番の舞台は、いくら指導者といえども、もう傍らにいることはできません。演奏家ひとりが、表現者として舞台に立たなくてはならないのです。

 もちろん、最後に自由になる権利は、反復練習があってこそ、発揮できるものです。
 換言するならば、「最後に自由になる権利」、そして、そこで得られる「伸びやかな表現のすばらしさ」は、先生の言うことに従い、何度も何度も注意深い反復練習をした果てにあるということなのかもしれません。

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 今日は連休最終日です。首都圏は天気がよくなるようですが、皆さんの地域はいかがでしょうか? もし、皆さんが、ブラームス1番をお持ちでしたら、秋のよき日、久しぶりにCDを探して聴いてみると、新たな発見があるかもしれませんね。

 素晴らしい一日を!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年11月 4日 07:04


撮りたいものしか撮らない、いや、撮れない!:「植田正治のつくりかた」展を見た!

 東京駅の美術館、東京ステーションギャラリーで開催されている写真家「植田正治のつくりかた」展に出かけてきました。今年は植田正治、生誕100年です。この展覧会はそれを記念して開催されているようです。

uedashouji2.JPG

東京ステーションギャラリー「植田正治のつくりかた」
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/

 植田正治さんは、世界的によく知られている日本の写真家のひとりで、その作品は「Ueda-cho(植田調)」と呼ばれ、前衛的な演出写真として評価されています。

 数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」は皆さんもご覧になったことがあるのではないでしょうか。砂丘という「それ以上、引き算しようがないもの」をモティーフは、見るものに非常に強烈な印象を与えます。

こちらで植田さんの写真を見ることができます
http://www.fashion-press.net/news/gallery/7263/128809

 非常に印象的だったのは、植田さんの下記の言葉です。

 撮りたいものしか撮らない
 いや、撮れない
 写真することがとても楽しい

 生涯アマチュアリズムにこだった植田さんらしい言葉です。
 鳥取に「植田正治写真美術館」があるのだそうです。いつになるかはわかりませんが、ぜひ訪れてみたいものです。

 展覧会、この3連休で、お暇でしたら、どうぞお出かけください。おすすめです。

 そして人生は続く

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追伸.
 僕が植田さんの写真に出会ったのは、鷲田清一さんの哲学書「聴くことの力―臨床哲学試論」に、学生時代に出会い、そこに植田さんの写真が用いられていることを拝見してからです。
 鷲田さんの書籍も、非常に素晴らしいです。こちらを読みつつ、植田さんの写真を見るということができたとしたら、なかなかよい休日の過ごし方かと思います(笑)


投稿者 jun : 2013年11月 2日 07:00


知識をがんがん、課題できゅうきゅう、参加者をひーひー言わせた研修は「モト」がとれるのか?

 仕事柄、研修(企業研修・教員研修・看護研修・管理職研修・新人研修など様々です)などを参与観察させていただくこともあるのですが、そんなことをおりますと、時折、関係者の、こんな言葉に出会います。

研修で、せっかく時間をとったのだから、「がんがん」、知識を詰め込むだけ、詰め込んで、「きゅうきゅう」に絞って、参加者を「ひーひー」、言わせた方がいいのではないですか?

 なるほど、このクソ忙しい中、業務を抜けさせて、時間をつくらせたのですから、時間を無駄にしてはもったいない。おっしゃる意味はよくわかります
 。せっかく時間をとったのだから、知識やスキルを「詰め込む」だけ詰め込み、参加者を課題責めにして、きゅうきゅう絞って、「ひーひー」、言わせる(書いてて、ものすごく、どSかつどMなシーンを不謹慎にも想像してしまいました)。そうすれば、かけた時間の「もと」がとれる、ということでしょうか。

 興味深いことに、こうした言葉は、関係者どころか、時折、参加者の方からも聞こえてくるときがあります。
 特に、強制的に呼ばれて受けさせられる悉皆の研修などで、参加者のあいだに、かなり「やらされ感」が漂っているときなどに、「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」メタファの言葉が、半ば怒りをもって、事務局側にぶつけられる場面を、これまで、何回かみてきました。

 皆さん「どM」なのかな、それともヤケクソなのかな、それとも「もとをとりたい」んでしょうか(笑)。
 いずれにしても、この「がんがん、きゅうきゅう」には、関係者が語るにしても、参加者が語るにしても、どこか「受験勉強」を彷彿とさせるものがあります。

 学ばせるとは「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」言わせることなのでしょうか?
 学ぶとは「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」言うことなのでしょうか?

  ▼

 さて、この場合、「関係者が(がんがん、きゅうきゅう、ひーひー)をやりたい」といい、「参加者もそうしてくれ」と望んでいるのならば、僕が何も横から申し上げることはありません。どうぞ、朝っぱらから「どS、どMの饗宴」を展開していただければと思います
「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」でも、その反対の「まったり、ゆるふわ、ダバダー」でも、どちらでもいいです。僕が学ぶわけでも、学ばせるわけでもないので(笑)

 ただし、これが研修であるのならば、最大のポイントは、

「学んだ内容が現場で実践され、成果を出せるかどうか? 変化が生まれるかどうか?」

 です。

 もう少し踏み込んで言うならば、学んだ内容を現場で実践するのは、関係者でも、ファシリテータでもありません。学習者です。

 そうであるならば、大切なことは、

「最後の最後には、現場のフロントラインに立つ人が、エンパワーメントされ、自分で何かを現場で立ち上がって、やろうと思うかどうか」

 です。

 究極、問われていることは「実践の実現性」「成果のだせる可能性」「変革の可能性」であり「現場の人がエンパワーメントされるかどうか」です。

 それが「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」であるか「まったり、ゆるふわ、ダバダー」のどちらによって実現されるのでしょうか。
 「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」にしても「まったり、ゆるふわ、ダバダー」は、あくまでそこに至る「プロセス」ですね。プロセスがどうでもいい、という気は全くないのですが、しかし、やはりそ「プロセス」を語る際には、「アウトプット」とからめて語られる必要があります。

  ▼

 今日は、研修にまつわるイメージと、プロセスとアウトプットの関係のお話をしました。アウトプットにからめてプロセスを語るとき、僕が講師にたつのなら「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」はしたくないし、もちろん「まったり、ゆるふわ、ダバダー」もいたしません。おそらく、どちらも「実践の実現性」「成果のだせる可能性」「変革の可能性」につながらないと思うし、おそらくは「現場の人がエンパワーメントすることができない」と考えるからです。

 じゃあ、どうするの?

 ということですね。
 僕には「第三の道がある」とは思いますが、その詳細は、現在、ひーこらひーこら執筆している書籍に書くことにします。
 ぜひ、皆さんもお考え頂ければ幸いです。

 あなたの研修は、「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」ですか?
 それとも、「まったり、ゆるふわ、ダバダー」ですか?
 それとも「第三の道」を歩みますか?

(今日のブログの記事は、そのまま執筆につながりますね。執筆というのはまことに辛い作業です。こうでもして、モティベーションをあげなければ、なかなか走りきることはできません)

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年11月 1日 08:29