新しいことを発想するために心がけていること:ちゃぶ台返しをねらって、ヘタヘタな絵を描き、アウェイ空間で苦虫をかみつぶす!?

「新しいことを考えること」は、僕の仕事にとって、とても大切なことです(僕の発想していることが、新しいかはさておき、そうありたいと願っています)。

 最近は、「リサーチの"リ"」の字のカケラもないような「アドミニストレィティブなアフタヌーン」を、「まったり、ダバダー」と過ごす日も少なくありません。
 しかし、そんなことに、「宛先」なくいちいち「グダグダ」文句を垂れていても、「まったり、ダバダーなアフタヌーン」が「キラキラデー」になるわけではありません。

 結局、何とか、工夫するしかない。
「まったり、ダバダー」を最小限にする工夫をして、「新しいことを考えること」に、いかに最大限時間を費やすか。僕の場合は、究極、それしかありません。他の方がどうかは知りません。

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 しかしながら「新しいことを考えること」と一口にいいますが、それは、なかなか難しいものです。
 逆立ちして、頭を「逆さ」にして、カランコロンと振ってみても、アイデアがでてこないときには、頭に血が上るだけで、ビー玉一個さえ転がりません。

「新しいことを考えること」に「王道」はありません。また、「背中に包丁を突きつけられ、追いまくられた状態で、人は、キラキラクリエィティブなこと」を発想できません。
 それはいつも「偶発性」に満ちています。いわば、「神」を待つしかない。少なくとも僕の場合は、そうです。

 ただ、「新しいことを発想すること」は、「偶発的」で「王道」はないことはアタリマエダのクラッカーにしても、それにつながるような「コツ」や「習慣」が全くないか、というと、自分の場合は、そうでもないように思うことがあります。
 先だって、都内某所で、新事業開発をなさる方々の会に参加させて頂いたのですが、そのとき、そんなことが少し話題になりました。

 自分としては、その壇上にのぼるまで、発想法、着想法なんてものを、ふだんは全く考えたことは1度もなかったのですが、敢えて振り返ってみると、自分では、何か「新しいものを考えるとき」に、こんな風に発想しているな、と思ったことがありました。
 本当は10くらいあるんですが、TAKUZOが起きてくるので、敢えて3つにしぼります。鼻血ブーなほど、追われてんだよ、本当に(笑)。

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1.「そもそも」を問うて、「ちゃぶ台返し」をねらう
 たとえば、今、あなたが、これから「効率的なOJTのやり方」のことを考えるのだとします。一般的には「効率的なOJTのやり方って、何かある?」と先行する事例などを探し、問題解決プロセスに入るのですが、一番最初は、敢えて、そういう知識深化系の問いをもうけません。

 まず、問うべきは、

 そもそも「OJT」ってなに?

 からはじめます。
 その上で、「ちゃぶ台がえしができないか、どうか」「ちゃぶ台返しの隙がないか、どうか」を考えます。
 つまり「これまでの議論はすべて・・・という前提にたっていたが、その前提自体がおかしい。これからは・・・を・・・・と新たに捉えることからはじめなければならない」という論法が可能なのではないか、それを問います。つまり「前提をひっくりがえす=ちゃぶ台替えし」のです。

 これは、僕が学生時代に指導教官から厳しく指導されたことです。「前提を疑え=前提に怒りをもて=前提をひっくりかえし」すぎていると、反社会的になってしまうので、注意が必要ですが、発想法としては、優れているな、と思います。

2.とにかく「ヘタヘタな絵」を描く
 何か新しいものを考えるとき、僕は、ホワイトボードやら、スケッチブックやらを取り出して、とにかく絵を描きます。「ヘタウマ」ならぬ、本気で「ヘタヘタな絵」です(図工2!:泣)。

 このときは「新しいものを生み出すこと」は忘れています。そうではなくて、自分は「誰が、誰と、どういうことを話し、どういう活動をしている光景」を見たいのか、その「絵」を書くのです。

 1の活動がロジックであるならば、こちらの活動はイメージかもしれません。研究室の大学院生諸氏にも、このことは、いつも行っていることです。

「その仮説は、ロジックとしてはわかるけど、具体的に、誰が、誰と何をしていることを検証しようとしているの?」

 とかく研究の世界は、ロジックが頭でっかちになりがちです。興味深いものでロジックというものは、気をつけていかないと「浮世離れ」しがちなものです。
 また、ロジックを突き詰めすぎていると、そのロジックから離れられなくなり、論理の隙間をうめるために無意識に「嘘」をついてしまうことが、ままあります。
 絵を描くというのは、そういうことを防止することでもあるかもしれません。先だっての会でも、多くの事業家の方が、絵を描いている、とおっしゃっていたことが印象的でした。

3.アウェイ空間で、ケツの座りの悪さを愉しむ!
 これは敢えて敢えて自分に課していることですが、なるべく「アウェイ空間」に出かけるようにしています。ここで「アウェイ空間」とは「異質な領域で活動なさっている人たちと接点のある会合」などをさします。
 子育てがありますので、出張、飲み会、週末のイベントは難しいのですが、本当に必要だと思ったときは、アウェイ空間に自らでかけます。
 アウェイ空間に、僕の知っている人は一人もいないことが、ままあります。そのとき、自分は、あたかも異邦人でケツの座りがよろしくないことが、ままあります。
 しかし、こうした場に身をおくことが、自分の常識やステレオタイプを異化する機会として機能しますし。また、アウェイ空間で得た情報を、自分の領域の議論と、うまくトッピングすることで、面白いことが生まれたりする可能性もあります。
 最近では、出かけるのも難しいので、自分や自分の仲間たちを巻き込んで、自ら異質な人々が集まる研究会などをつくるようにもなってきました。「他人のつくったアウェイ空間」ではなく「自らアウェイ空間をつくること」も、また大切なことかもしれません。

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 今日は、「新しいことを発想するにはどうすればいいのか?」というテーマで、思い切り乱暴に、時間がないので、脱●気分で書いてみました(ごめんなさい)。

 でも、改めて、このテーマで考えるに、一番大切なことは、こういう「些末な行動」ではなく、もっともっと「地味なこと」かもしれないな、とも思います。

 それは、

「新しいことを発想するには、常に、新しいことを考え続ける」

 ということです。「考え続けることだけが、発想につながる」。細かなテクニックに走る方は、そのことを、つい、忘れがちなのかもしれません。

 以下は、ややブラックな物言いにも聞こえるかもしれないので、真に受けないで欲しいのですが、

「24時間、新しいことを考え続けている人が、新しいことを発想できる」

 のかもしれないな、とも思います。
 もちろん、誰にでもできることではありませんし、他人に強制するつもりもありません。

 そして人生は続く。