「別にぃ」と「ウザい」と「ノミュニケーション」はつながっている!? : 考えることを省略し、お茶を濁す思考停止ワンワードを「癖」にしない!?

 これといって特筆するべきことは何一つしていない我が家の子育てですが、ひとつだけ、TAKUZOやKENZO?(まだ1歳・パパしか言えない)に、「耳タコ的」に言い続けていることがあります。

 それは、

「別にぃ・・・」「特に・・・」「何でもいい」という言葉を我が家では「使用禁止」にするということ

 です。
 ふだんは半跏思惟像?のように温厚な小生ですが、その言葉を子どもが口にしたときだけは「烈火」のごとく怒ります。

 親として、子どもに「別にぃ」とか「何でもいい」とか「言われる」と「腹がたつ」から、そのような禁止措置をとっているわけではありません。
 そういう「言葉にすることを省略しちゃう思考停止ワンワード」を用いることが「癖」になっていくと、今後の社会を生き抜いていくうえで、困難になると僕が信じているから、禁止しているのです。

 それはこういうことです。

  ▼

 何の工夫もなくて月並みですが、これからの社会は、「多様化」「流動化」「細分化」の方向に進むことが予想されます。社会の「バラバラ感」はさらに強くなり、「液体」のようにカタチを日々変えながら、しかし、それぞれ認識している対象は、さらに「狭まっていく」ということです。

 そのような分断された社会にとって必要なことのひとつは、「みんなが同じことを思っているはずだ」という思い込みを廃して、どんなことであっても「自分の考えや意見を論理的に表明していくこと」です。
 他者と協力するため、共生するためには、「ことば」にリスペクトをもち、それを大切にしながら、自己を表明していかなければなりません。そのうえで、他者とコミュニケーションが可能になるのです。
「なんだ、他人行儀だ、水臭い」って? でもね、これからの社会を端的に述べるのならば「みんなバラバラ、液体的変化のある、視野狭窄社会」を子ども達は生きていくのです。
 もうわたしたちは「あうんの呼吸」「背中で語る」の世界の住人ではいられなくなってきているのです。

 「言葉にすることを省略しちゃう思考停止ワンワード」は、僕は、それとは「極」にある言語実践だと僕は思っています。それは「自分の思いや考えをきちんと論理的に言葉にすることを拒否」します。ひとつひとつの言葉はトリヴィアルなことかもしれませんが、それが繰り返されると「癖」になると僕は考えています。

 子ども時代に

「別にぃ・・・」「特に・・・」「何でもいい」

 を連発する子どもは、いずれ中高生になったときに、

「ウザい」「きもい」

 を連発するようになります。
 まー、流行語もいろいろあるんだろうから、何を使っても結構、勝手になさんなさいな。
 でも、それらの言葉をもって自分が「何」を省略しているかについては、たぶん気づかないと思うけど、少し注意を払った方がいいと思うのです。

 要するに、こうした言葉で省略しているのは、

「自分が何を感じ、何を思い、どうしたいのか?」
「なぜ、そういう判断にいたったのか?」

 という「ロジック」であり、「WHY」、「他者とコミュニケーションする意志」なのです。それがすべて「うざい」「きもい」「別に」「特に」のワンワードで省略しているのですね。

 要するに

 「自分の考えを表明することを省略し、思考停止したうえで、ワンワードで、その場のお茶を濁している」

 のです。

 それは僕の予想する、これから子ども達が生き抜いていかなければならない社会とは真っ向から対立する世界です。だから禁止しているのです。 

 ▼

 これに関連して、面白い本を読みました。「言語技術」が日本のサッカーを変えるという田嶋幸三さん(元サッカー日本代表、日本サッカー協会副会長)がお書きになった本です。

 田嶋さんがこの本でお書きになっていることの要諦は、

 何も考えずにボールを蹴っているだけで、おまえのサッカーは本当にうまくなるのか?

 という言葉です。

 田嶋さんによりますと、たとえばプレーを途中でとめて(フリーズさせて)、「君の、今の、そのプレーの意図は何?」と訊かれたとき、日本人のプレーヤーは世界の選手と比べて、「自分の考えを論理的に言葉にして表明すること」ができず、ついつい「監督の目を見て答えを探ろうとする」のだそうです。

 「自分の考えを言葉にする表現力」「論理力」そして、それらに裏打ちされた「自己決定の経験」が徹底的に欠けている。

 田嶋さんは、そうした思いで、選手向けの言語技術養成プログラムを企画して実施していたそうです。

 子育てとサッカー・・・全く違う世界のことを喋っているようですが、要するに言いたいことは同じことですね。
 
 ちなみに、僕は、かつて同じことを、リーダーシップの発達の文脈でも書いていました。
 
「雲の上マネジメント」から「言霊マネジメント」へ:マネジャーと言葉
http://www.nakahara-lab.net/2013/06/post_2035.html

 現代の職場のマネジメントに必要なのは「飲み会で発揮される饒舌さ」ではありません。
 なぜなら、ノミュニケーションとは、「ごくごく限られた雇用形態の人々にしか作用しないあうんのコミュニケーション・説得技法であり、酒のちからを借りて困った問題に蓋をして思考停止を誘う営為」です。それは問題を言挙げしません。問題をなかったことにします。

 これからのマネジャーは酒の力を借りて「饒舌」でなくてもいいのかもしれません。しかし、様々な異なる背景をもつ人々と向き合い、聴くこと。ひとつひとつ言葉を選ぶこと。場合によっては、相手の言葉を引き出すこと。
 これからさらに求められていくのは、そうした「地に足のついた言葉」であるような気がします。

 ▼

 今日は「ことば」について、子育て、サッカー、マネジメントの側面から書きました。皆さんはいかが思われますか?

 GW突入? えっ、ホント?
 いつも通りに仕事なんですけど・・・

 そして人生は続く


 ーーー

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投稿者 jun : 2015年4月30日 06:21


「もうひとつの子ども時代」でカブトムシを育てる!?

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 僕は子ども時代、虫は嫌いでした。
 脚は長いし、黒光りしているし、
 なんか、むにゃむにゃしてるし。

 虫の皆さま、今さら、すみません。
 僕は、あなたたちを「嫌悪」していました。

  ▼

 多くの男の子が、一度は熱中することに
 カブトムシの飼育があります。
 幼虫から飼いはじめて、成虫にする飼育。

 子ども時代の僕ならば、
 えーと、それって何かの「罰ゲーム」ですか?
 と心の中で思ったに違いありません。

 僕は、カブトムシはおろか、
 一度も虫を飼ったことがありません。
 要するに「虫嫌い」なのです。

  ▼

 それから30年。
 僕たち家族にも子どもができ、
 いつのまにか、
 僕は父親と言われるようになりました。

 正直に申しまして、
 僕は子育てが「得意」な方ではありません。

 自分が何かしようと思いたったとき、
 アイデアを思いついちゃったとき、
 何かを中断せざるを得なかったり、
 あきらめざるを得なかったすることが、
 子育てをしていると、
 どうしても多くなるものです。

 そのたびに僕は、
 「やり場のないため息」を漏らします。

  ▼
  
 でも、子育てをしていると、
 心にホンワカするものを
 ごくごく希に感じることがあります。
 
 そのひとつが、
 僕に顔のよく似た息子たちが、
 もうひとつの「子ども時代」を生きているときです。

 へー、僕は、いやだったけど、
 TAKUZOは、虫、好きなんだ。
 へー、子どもの頃の僕は、カブトムシなんか
 興味がなかったけど、幼虫ってこんなに大きいんだ。
 へー、40年生きてきて、そんなの見たのはじめてだよ。
 へー、生まれてはじめて、幼虫に触ったよ。

 そんなとき、僕は、なるべく「一緒」に、子どもと
 虫を触ったり、何かを育てたりするようにしています。

 子育ての醍醐味のひとつとは、
 もうひとつの「子ども時代」を
 自分の子どもとともに生きることが
 できることかもしれません。

 時計の針は二度と元には帰らないけれど、
 僕たちは、子育てを通して、
 もう一度、「子ども時代」に戻ることができるのです。

 そりゃ、いいことばかりじゃない。
 身に沁みてわかっているけどね。

「もうひとつの子ども時代」を生き抜きたいと思います。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月28日 12:20


実践家はなぜ「研究知見」をスルーするのか?:理論と実践の「死の谷」めぐる罵声の根拠!?

 僕の専門分野は、いわゆる「実践現場をもつ学問」です。人材開発は「研究」として存在している「以前」に、それとは無縁の、より多くの人々が日々取り組んでいる「社会的実践」です。

 それが人材開発であるかどうかについて、意識するかしないかは別にせよ、複数の人々がある目標を達成するときに、能力やスキルを発揮させる環境をいかにつくるかは、人々の大きな関心事です。
 といいましょうか、、、ある程度のスパンと規模をもつ事業を継続させ、何かを成し遂げるためには、それを考えざるを得ないのです。

 研究より「以前」に、「実践」があります。
 むしろ、人材開発が、ひとつの研究領域として浮かび上がる、ずっとずっと昔から、人材開発という営為は有史以来連綿と続いてきました。この歴史の詳細については、先だっての大学院の授業でやったので、ここでは繰り返しません。

  ▼

 ところで、「実践現場をもつ学問」とは、ある「十字架」を背負っています。
 それは、単に「研究知見」を生み出し、研究者のあいだで流通させればよいということではないという「十字架」です。

 願わくば、せっかく生まれた「研究の知見をいかに実践に活かしていくのか」ということが問われます。要するに「研究知見をいかに現場にかえすのか?」ということです。この一連の難問に対して、なんらかの答えや示唆を与えることが期待されるのです。

 もちろん、すべての研究が、現場の実践者に「かえらなければならない」というわけではありません。中には「基礎的な分野」もあるでしょうし、分野によっては、そういう「研究と実践」の循環を想定しなくても、学問の存在意義を認められている領域というものも、存在するのかもしれません。それは個々の研究者が判断すればよろしい。

 ちなみに、一言だけ申し上げますが、「基礎的」というからには、本当に「人間の根源的な問い」に向き合っていることが担保されなければなりません。そうしたものは、当然、高い評価を受けており、たとえば各種の図書賞、学術賞を授与している可能性も高いでしょうし、トップジャーナルでも評価されていることでしょう。
「基礎的だからオレには関係ない」という文言は、時に「基礎的でもなんでもない、しかも、実践にもかえらない研究」を自己正当化するロジックとして巧妙に利用される傾向があるから、わたしたちは注意ぶかくこれを見つめなければなりません。

 話を元に戻します。
 もちろん、「実践現場をもつ学問」のすべての研究が現場に返らなくてもいい。しかし、「実践現場をもつ学問」の多くの研究領域は、そうではありません。
「研究知見をいかに現場にかえすのか」というダイレクトな問いまでいかなくても、せめて、「あなたは研究者として現場の実践にどのようにかかわるのか?」くらいは考えておく必要があります。

  ▼

 しかし、一般に、生まれた研究知見が実践現場にただちに返ることを夢想できるほど、世の中はあまくありません。実践と現場には「死の谷」よりも深い「断絶」が横たわっているのです。
 そして、研究者の中には、「死の谷」の存在を嘆き、「谷の片側」にいながら、「もう片方にいる実務家」に「罵声」を投げかけるものもいます。
 こうした領域の研究書・学術書を読んでいると、「罵声」がオンパレードで登場します。

 曰く、

 実務家は、あいもかわらず、「ほにゃらら研究」の知見を知ろうともしないし、活用すらしない。だから、実務はだめなのだ。

 メディアは、「ちょめちょめ学」の知見を配慮しようともしない。「ちょめちょめ学」の知見を正しく伝えないからダメなのだ。

 実務は、「ちょめちょめ研究」の知見と離れて行われており、けしからん。「ちょめちょめ研究」の知見をもっと勉強して実践をなすべきだ。

 領域にもよりますが、「死の谷」が深く、しかも、研究者側が自らの権力を誇示している領域ほど、この「罵声」は強くなる傾向があります。
「実務」から遠いところにある研究の知見」が活かされていないこと、知られていないことをもって、実践者や実務家を「非難」しているのです。

 もちろん、実際は、その「罵声」は実務家には届いていません。
 研究者しかよまない専門書の中で、研究者同士で、罵声を消費しているだけです。そして多くの場合、罵声の生産者は、そのことをよく熟知している。「死の谷」の向こうには、届いていないことを前提に、片側に対して「罵声」を浴びせるのですから、要するに、これは「ドラマトゥルギー」です。わたしたちは、そのようなパフォーマンスを相対化する冷静な目をもちたいものです。

 だって、罵声が本当に「実践者」に「届いて」しまったとしたら、ケンカになってしまうでしょう?
 届かせたいと願いつつも、心の中で、届かないことを夢想する。それが証拠に、この罵声は、僕が学生の頃から、ずっと同じトーンで「死の谷」にこだましています。つまり、「何ひとつかわっていない」。物事を変えたいのだけれども、一方で、変わらないことをよしとする。こうした相反する感情の中に、罵声の主はいます。

  ▼

 ちなみに、この問題に関しての僕の認識は、むしろ「逆」です。
 それはワンセンテンスで申し上げますと、「実務」や「実践」は、研究「以前」から存在していたし、「研究がなく」ても、今後も連綿と継続する、という事実を受け入れるところからはじまります。

 その上で、

 実務が「ほにゃらら研究」の知見を知らないのは、研究者が届けるメディアや機会をもとうとしないからだ。あるいは、「ほにゃらら研究」の知見そのものが、実務と遠く離れている可能性があるからだ

 メディアは、たしかに一面的に物事を切り取る。しかし、メディアなどが過剰に「ちょめちょめ学」の知見を無視するのは、「ちょめちょめ学」の存在すら知らないからであり、場合によっては、その学問特有の問題の切り取り方が、環境変化にあっていないと考えているからではないか

 「ちょめちょめ研究」の知見と離れておこなれる「実務」が存在するのは、そもそもアタリマエだ。問われるべきは、「ちょめちょめ研究」が実務とは全く無縁の問題の切り取り方をしていることではないか

 僕だったら、こう考えます。

 要するに、僕だったら、それらの事態で自己内省を行わなければならない対象は、「研究知見の生産者」であると考えます。
 この場に及んで、いったい、誰に対して、文句を垂れているんだか(笑)
 まずは、「自分が生み出したもの」が「届かないこと」の理由を「自分事」として引き受けることからはじめたいものです。

  ▼
 
 研究と実践ー今日は、週の頭から、なかなかヘビーなことを考えました。
 この問題は、研究領域によっても一概にいえないので、なかなか書くことが難しいですが、僕の認識は以上です。

 僕は、

 自分の研究が、明日突然、この世からなくなったとしても、実践は、あいかわらず継続するという事実

 を抱きしめることから、まずはすべての思考をスタートします。
 そのうえで、実務家でも、メディアでもなく、まずは「自分」に何ができるかを考えたいと思います。それが実践に対する、僕の研究のスタンスです。

 そして人生は続く 

投稿者 jun : 2015年4月27日 06:06


「−1から1へのリーダーシップ」:痛みをともなう「立て直し」の経験

 先だって、あるところで行ったリーダーシップに関する授業の中で、僕は「たてなおす」ということをテーマにして授業をしてみました。

 リーダーシップと申しますと、やれ「サーバントリーダーシップ」だの「変革型リーダーシップ」だの「リレーショナルリーダーシップ」だの群雄割拠四面楚歌?状態で、さまざまなリーダーシップが主張されています。
 先だっての大学院・中原ゼミで、博士課程の吉村さんがご発表なさった英語レビュー論文でも、その百家争鳴っぷりがよくわかりました(Avolio, B. J. et al(2009) Leadership : Current theories, research, and future direction. Annual review of psychology. 60:pp421-449)。もう、わやだわな。

 が、そういうリーダーシップの「種類」ー学術的タイポロジーには「敢えて」一線をおき、リーダーシップが「街で起こっているどういうリアルな状況」に対して行使されるのかを考えるとき、大きく分けて4つくらいの状態が、組織の中ではよく起こりえるかなと思います。ここでは、それらを敢えて戯画的にわけて、下記に描き出してみましょう。

 1.「0から1を生み出す状況」(新規事業創造系)
 2.「1を生み出し続ける状況」(日常のオペレーション系)
 3.「1を2にする状況」(事業規模拡大)
 4.「−1を1にする状況」(立てなおす)

 「0から1を生み出す状況」とは、いわゆる「新規事業創造系」です。全く何もない「0の地平」から、様々な人々の協力をえて「1」をうみだすのは、リーダーシップといえそうです。
 最近は「0から1を生み出せる人材」のように、こうした人材を求める声が、人事・経営界隈では、よく聞かれますね。

 また2「1を生み出し続ける状況」とは、日々のオペレーションを滞りなくまわす力です。これは、場合によっては「それって管理じゃないの?」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここではあえてその是非はといません。
 目標にしたがい、人々を動かすことがリーダーシップなら2も、それに入れてもよいのではないかと、僕は思います。

 次に「1を2にする状況」とは、たとえていうならば「事業規模の拡大」です。タネになる「1」はすでに誰かがつくってできてはいるけれど、それを「2」とか「3」に規模拡大したい。そういうときにも、やはりさまざまな人々の協力は必要で、リーダーシップは行使されるでしょう。

 最後が、先だって授業で行った「−1を1にする状況」、すなわち「立て直す系」です。
 環境変化のせいか、前任者の怠慢なのか、すでに職場の状況は「−1」です。これを何とかして「0」にまでもってきて、さらには願わくば「1」の状況までもっていかなくてはならない。そういうときにも、様々な苦難を乗り越え、人々の協力を得なくてはなりません。こちらは、なかなかのハードシップです。

 で、僕がなぜ、この「−1から1のリーダーシップ」を授業で扱ったのか、というと、実際に、これまでマネジャー向けにおおくの調査をしてきますと、これらの「立て直し経験」を、リーダー就任前に経験することが、想定よりも多いことがわかっているからです。
 僕は、公益財団法人・日本生産性本部さんと「マネジメントディスカバリー」というマネジャー向け調査+フォローアップ研修の開発プロジェクトでご一緒していますが、そちらでも、これに類する結果が見受けられました。

management_discovery2015.png
マネジメントディスカバリー:マネジャー向け調査+フォローアップ研修
https://jpc-management.jp/md/

 もちろん、リーダーとして最前線にたって行動することは限られているにせよ、そうした「立て直し」の局面に、なんらかのかたちでサポートにかかわることは、非常に多いことがわかっています。もちろん、人や場合によって、「組織がひっくりかえるくらいの立て直し」から、「プチ立て直し」までいろいろありますけれども。
 これから職場に出て、人を率いて仕事をする人にとっては、「立て直し」という問題は、「誰かの問題」ではなく、「みんなの問題」なのです。もちろん、程度の差はあるとは思いますが。

 考えてみれば、こうもいえます。
 2「1を生み出し続ける状況」の状態は、いわゆる「日常」そのものなので、これはさておき、要するに、1「0から1を生み出す状況」のように「0の地平」を「ほら、ここから何かを生み出してごらん」と「与えられること」は、もしかすると「希」なのかもしれません。
 また、3のように、すでに「売れるタネができている状態」なら、前任者が手放したり、更迭されることはあまり想定されないので、それを「1を2にする状況」を他者に頼むというのは、少ないのかもしれません。
  
 「−1から1へのリーダーシップ」というのは、初期状態が「−1」であるがゆえに、職場のメンバーに変容的学習(痛みをともなう学習)やアンラーニングを迫らざるをえない局面が出てくることが予想されます。
 しかし、リアルな現場で本当に実際に起こっていることは、そういうドロドロの痛みをともなう状況の中で、何かをつくりあげることであり、そうしたことのリアリティやアクチュアリティを、授業ではお伝えしたいなと思いました。ま、限られた時間の中で、どこまでお伝えできたかはわかりませんが。

 ▼

 最近、自分自身は、「0から1」とか「1から2」とか、そういうことが大切だと言うこともわかりつつも、「−1から1」とか「マイナスの状態をたてなおすこと」にリアリティを感じます。
 別に「マイナス」が好きなわけではないのですが、年齢を重ねつつあるせいか、「綺麗なもの」「まっさらなもの」「これから拡大だけしていけばいいもの」には、相対的に、あまり魅力を感じないのです。これは個人的な問題です。だんだんと、ドロドロ系?が好きになってきました。

「−1」をそのままほおっておけば、マイナスのままです。そうではなく、「−1」の状態から、痛みや苦しみをともないつつ、「1」を信じて、いかに状況を変えうるか。
「街で起こっているリアル」や「誰もが経験しているアクチュアリティ」を、いかに研究の中に盛り込んでいくかが、僕の課題です。

 あなたは「−1から1へのリーダーシップ」を経験なさったことがありますか?
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月24日 06:28


「1万人の大運動会」に響く家族の歓声!? : 行ってこい、あとは知らんの「海外赴任プロセス」を変える!?

 先だって、ある企業の人事部の方が、数年ぶりに仕事の同僚の方を連れだって研究室にこられました。
 来研の目的は、今後導入する某人事制度に関するご相談で、これに関してはひとしきり議論しましたが、今日のブログは、その話題ではありません。今日の話題は「海外赴任」です。

  ▼

 実は、その方は、最近、アジアのある国の海外赴任からお帰りになったのですが、今、アジアにはものすごい数の日本人が海外赴任なさっているのですね。

 その国の日本人学校には、小中あわせて3000人の子ども達が学んでいるのだとか。3000人ってすごいですね。国内で、3000人の学校ってあるんだろうか。

 3000人の児童の運動会ともなると、こちらもものすごいことになるそうで、お父さん、お母さん、ご家族みなで出かけますから、会場には1万人近い人がつめかけるのだそうです。

 徒競走などは、望遠レンズを使って、「子どもを探す」といった状況が生まれるそうですね。

 政治的には様々な課題が多々あるのでしょうけれども、アジアは、国内企業にとって大きな生産拠点でもあり、販売拠点となっていることは、もはや言うまでもないことです。

 たとえば、自動車とか、大きな製造業が工場をうつせば、それに1次、2次、3次と下請け企業がついていきますので、そうした日本からの海外赴任の人々が積もり積もれば「1万人の大運動会」となるのでしょう。

   ▼

 しかし、この話題のなかで印象的だったのは、その方がおっしゃっていた一言です。 
 曰く、

 海外赴任というのはとにかく「揺れる」んです。ローカルと本社のあいだを揺れるんです。

 海外赴任者は、ローカルの現地社員らとつきあいながら、本社の意向や顔色をうかがいながら、その調整を行うことが仕事の眼目になってきますが、ともすれば「ローカルと本社のあいだを揺れる」。そして、たいていの場合は「ひとしきり揺れたあとで、本社に肩入れ」してしまう。
 その結果、ローカルの人々と、うまくつきあうことができず、聞き取りを行うと、ローカルの人々の不満がかなり出てくる、という結果に陥るのだとか。

 立ち位置的に葛藤を抱えるのはやむを得ないにせよ、もう少し組織としてできることはあるのではないだろうか。

「企業は、ある日突然、"行ってこい!"と命令するで、これまで海外赴任・帰任者にあまり何もしてこなかった。そうした姿勢を見直すときかもしれませんね」

 といった類のことをおっしゃっていたのが印象的でした。

 ▼

 海外赴任の難しさに関しては、小論を拙著「経営学習論」の最終章あたりに、かつて書かせて頂いたことがあります。最も僕が言いたかったことは、

 海外赴任、そして帰任とは、「一回性のイベント」ではなく、「プロセス」である

 そして、

 企業は海外赴任内定から帰任に至る「プロセス」を、整備・支援しなければならない

 ということです。

 今、僕は、ダイヤモンドさんとの新たな共同研究で、

「どのような海外赴任者が、赴任後、新たな組織に適応し、成果を残しているか」

 に関する縦断研究を行っており、ただいま分析の真っ最中ですが、この研究の知見から、もう少し詳細に「プロセスの支援のあり方」が明らかになってくるかもしれません。海外赴任前と海外赴任後の2地点での縦断データを用いながら、海外赴任で成果を残すための規定要因を探す研究です(分析遅れていてすみません!)。

 グローバル化の進展によって、海外赴任は、今後も増えていくのではないかと思います。「1万人の大運動会」に響く家族の歓声を守っていくためにも、組織からの支援や対策が必要ではないかと思います。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2015年4月23日 06:21


精神論を振りかざしても「勝負に勝てない」理由!? : 「理論」と「根性」の関係を考える!?

 精神論と理論の関係について、鋭い洞察をなさっている方に、元ラグビー日本代表監督の宿沢広朗さんの言葉があります。宿沢さんは惜しくも若くして病に倒れますが、彼が残した著書「テストマッチ」には、その言葉が残されています。少し長くなりますが、ここで引用してみましょう。

 まず、宿沢さんは、スポーツやラグビーの世界に蔓延する「精神論第一主義」や「ガンバリズム」を相対化しつつ、「精神論」と「理論」の関係を下記のように述べます。

理論と相対するものに「精神論」がある。いわゆる「根性論」や「気合い」や「やる気」といったものだが、精神論第一主義的な考え方は「危険」である。
(中略)
「絶対に勝て」とか「死ぬ気で頑張れ」というのは比較的やさしいことである。 (中略)しかし、本当に必要なことは「絶対に勝て」ということよりも、「どうやって」勝つのかを指導することであり、「がんばれ」というのなら「どこでどのように」具体的にかつ理論的に「がんばる」のか指示することではないだろうか。
(中略)

 つまり、根性論や気合いややる気といったものをいったん「相対化」します。僕の言葉をもってすれば「あとは根性で!」「あとは気合いで!」というのは、「思考停止」を促すワードであるように思います。宿沢さんは、それらの言葉を相対化したうえで、「具体的」かつ「理論的」に指導することの大切さを述べます。

 一方で、宿沢さんの素晴らしいところは、「精神論」を完全には否定しないことです。「理論だけで試合には勝てない」という言葉は、非常に重みをもって感じ入ることができます。僕もそのとおりだと思います。セオリーや考えることだけで試合に勝てたら、苦労はしません。そこには、やはり「思い」や「感情」や「根性」も必要なのです。

精神論を全く否定する気は毛頭無い。理論だけで試合には勝てないことも充分知っている。しかし、理論的な技術、判断力をしっかり身につけたうえで精神論を展開しないと、まったく無意味なことになってしまう。

(中略)

 その上で、下記のように結論づけます。

 要するにスピリットとかメンタルなこと、すなわち精神論的なものは「プラスアルファー」のものであって、あくまで理論が優先すべきものと考えている。精神論だけをふりまわすのは「有害」である。
(同書p53より引用)

 精神論とは「プラスアルファ」のものであって、あくまでそれは理論を補強するためのものであること。そして精神論だけを振り回すのは有害であることです。

  ▼

 いかがでしょうか。これほど明快に、精神論と理論の関係を述べている言葉を僕はあったことはありませんでした。惜しむらくは、宿沢さんが夭折なさったことです。僕はラグビーはやったことはありませんが、一度、彼らの試合を見てみたかったなと心から思います。

「リーダーとは選ぶものではない。育てるものである」
(宿沢広朗)

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月22日 07:20


あなたは「ことば」で「希望」を処方できますか!?:将来への不安に苛まれる人々に贈りたい一言とは?

 わたしたちの発する「たった一言」は、時に、「他人を追い込む刃」として機能したり、「暗雲の隙間から差し込む一筋の光明」を他人に感じさせたりします。可能であるならば、我らが言葉は、「他者」を窮地に追い込むのではなく、「他者」を支える一言でありたい、と願います。

  ▼

 先だって、中井久夫(著)「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)を読みました。

 著者の中井久夫先生は、神戸大学医学部・教授(精神医学)をおつとめになった希代の臨床家で、1995年の阪神大震災当時、ご自身の経験とネットワークをいかして、絶望に苦しむ患者さんにケアのネットワークをおつくりになった方として著名な方です。

 中井先生の業績、および、その評価に関しては、僕は「専門外」なのでよく知りません。しかし、その著書を拝見するに、著書に綴られている言葉ひとつひとつに、重みと奥行きのある方だなと感じました。プロの臨床家とは、こういう言葉掛けをするのか、と感じ入りました。

 ちなみに、中井先生は、統合失調症における風景構成法の実践・研究でも大変著名な方ですが、本書は、そうした専門の内容ではありません。
 むしろ、著者本人が、日常の臨床場面において、患者にどのような言葉掛けをしてきたのか、どのように接してきたのかを述懐する本でしょうか。内容は、2005年に有馬病院でなされた医療従事者に対する研修会での講義内容の模様です。

  ▼

 例えば、精神科の受診がはじめてでとても緊張していますが、「自分は大丈夫だ」「自分は普通だ」と感じておられる患者さんに、中井先生は、こんな言葉掛けをします。
 以下、同書より引用しつつ紹介してみましょう(以下、中井久夫(著)「こんなときわたしはどうしてきたか」1章より随時引用)。

 先生曰く

「あなたは、一生に何度かしかない、とても重要なときにいると、わたしは判断します」

 こんなとき「わたしは判断する」というIメッセージを用いるのは、「自分が責任をもって、対応しますよ」というメッセージを患者さんに伝えるためです。

 そのうえで、

「ここでしばらく過ごしたら、よいほうに変わってくるよ。 / 人生に、ひょっとしたら二度、三度しかないような大事なときというものが、ときどきあるもんだよ」

 とも患者さんに伝えるのだといいます。

 医師にとっては「毎回繰り返される光景」でも、患者さんにとってみれば「生まれてはじめて」ということも少なくありません。けだし「経験の非対称性」は、専門家にとって、非常に大きな可能性、ないしは、誤謬を生み出すと、僕は思います。
 事実、「患者さんが、今生まれて初めての瞬間」を迎えていることが認識できると、随分、患者を見る風景が違ってくると中井先生はおっしゃいます。そうした方に、ことの重大さを認識させつつも、しっかり責任をもつことを伝えるといいます。

 しかし、そうした言葉掛けをしてみても、「わたしはこれからどうなるのでしょう?」と聞かれる患者さんもおられます。実際、患者さんの立場からすると、そう聞きたくなるのだと思います。少なくとも、僕がそうなら、そう聞きたくなります。

 そんなときの言葉書けについて、中井先生は、非常に興味深く、しかし、これ以上の表現はないと思われるようなメタファで、その対処を語ります。

 それが、

 「希望を処方する」

 という表現です。

 医療従事者にとって何よりも大切なのは、「希望を処方すること」ーすなわち、「あなたは大いに変わりうる」ことをしっかりと伝えることだと言います。しかし、嘘はなく、かつ、患者に「こびない表現」で。

 曰く、

「医療と家族とあなたとの三者の呼吸があうかどうかによって、これからどうなるかは、"大いに変わりうる"」

 ここでは「絶対に治りますからね」と安請け合いをしているのではありません。しかし、それでいて、患者が希望を感じられるようにする。つまり「幅がある」「可塑性がある」「変わりうる」ことを、ひとことひとことを選び、しっかりと伝えます。

 中井先生はおっしゃいます。

「患者さんというものは、こういうときの言葉の一語一語を何年たっても覚えています。患者さんにとっては、ほんとうに人生ののるかそるかのときですから、切迫感があるんです。 / 患者さんはしっかり聞いています。何十年たっても覚えている・・・」

 そのうえで、

「君の側の協力は、まず第一に都合の悪いことを教えてくれることだ」

 と御願いをするのだといいます。このように医療従事者が判断を間違わない素地を、患者の協力を得ることでつくりあげておくことが重要であるといいます。

 ▼

 本日、このブログでご紹介した中井先生の言葉のひとつひとつは、専門の臨床家が発するものであり、僕を含む一般の人々は、日常的に、そこまで、一言を選んで発することはありません。また、ふだんわたしたちが接している現場とは、中井先生が対峙している現場ほどには切迫してはいません。

 しかし、中井先生の一言ひとことの選択からは、私たちは学ぶことは非常に多いように思います。「妙にへりくだる」のでもなく、さりとて「尊大に振る舞うのでもなく」、こちらが大切だと思われるメッセージを伝えつつも、希望を実感してもらう。

「言葉の選択」とは「意志」であり「目的的行為」です。

 わたしたちは聖人君主ではありませんから、すべての言葉が意図通りをなしうるわけではありません。しかし、可能であるならば、自らの言葉が、他者の「助け」になりつつ生きていきたいものです。
 
 専門職ではないわたしたちに「希望を処方すること」はできません。「処方」はできない。
 しかし、願わくば他者に対峙するとき「希望を贈りたい」と感じました。

 あなたの言葉に「希望」はありますか?

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
「人事・人材開発の最先端」をご紹介している「人事よ、ススメ!」も好評発売中です。発売から1ヶ月以上がたちますが、AMAZON「人事管理」カテゴリー等で「1位」を記録しつづけています。人事、人材開発の最先端の考え方、理論、実践についてご興味のお持ちの方には、おすすめの内容です。こちらもどうぞよろしく御願いいたします。

 また「教師の学びを科学する: データから見える若手の育成と熟達のモデル」が4月末発売です。脇本さん、町支さんが中心になって著し、中原は監修を担当しました。我が国は、これから未曾有の「教師入れ替わり時期」に突入します。経験の浅い教員の育成にご関心がおありな方はぜひご高覧いただけますと幸いです。

投稿者 jun : 2015年4月21日 07:06


「今日のコンディション」を教えてくれる「毎朝の習慣」!?

「毎朝、毎日ブログを書く」ということは、時に「シンドイこと」でもあり、チャレンジングなことです。

 もちろん、「そこに楽しさを見出してるから続く」というのも真実ですし、「もう習慣化しているから続く」というのも事実です。

 しかし、人間生きていれば「ネタが全くない朝」というのもありますし(笑)、「忙しくてそれどころではない朝」もありますし、「体調が悪くて、なんかだるいな朝」もあるのです。
「毎日書く」ということは、「だから今日はやめておこう」というのではなく、「それでも書き続ける」という「意志」です。

「書くこと」には「葛藤」を覚えることもあります。しかし、もっとも「葛藤」を覚えるのは、「毎朝、ブログを書かなければならないこと」ではありません。そんなことは、習慣化していれば、実際は「何とでもなること」です。

 もっとも葛藤を覚えるのは、「記事を書くこと」ではなく「記事を公開すること」にまつわること ー 特に「自分としてはイマイチだなと思っていても、書いたものを他者に公開しなければならないこと」であったりします。
 たかだか20分で書いている記事です。しかも、TAKUZOの勉強を見てやりながら、片手間で書いている記事です。僕のブログには、そういう制約があります。

 ここにはいくつかの選択肢があります。

「自分にとってベストなものでなければ、公開しない」という立ち位置。それは「プロ意識」であり、「美学」でしょう。

 一方は、

「自分にとってベストなものでなくても、今、ここの思考を公開しよう」という立ち位置。

 僕は、積極的に「後者」をとってこれまで生きてきました。別の喩えをするなら、

 今日は「快心のヒット」は打てないかもしれないけれど、とにかく「打席」に立つ、ということ
 
 かもしれないな、ということです。 
 そのことによって、僕自身が「ブリリアントな思考の持ち主」では「ない」ことは充分におわかりいただけるものと思います。「あ、いつも、こいつは、こういうしょーもないことを考えている」のだという「人となり」に関しては、伝わっているのではないでしょうか。ですので、僕にとってブログは、「仕事の発表の場」ではなくて、「人となりメディア」かもしれないなと思います(こんな記事で、仕事の発表の場と言われても、困ると思いますが)。

 僕にとってブログを書くとは、そういう「葛藤」を抱えることです。
 いやならやめればいいのですが、「モンモンとして打席にたつこと」が嫌いじゃありません(笑)。

 ▼

 一方、その日がどんな状態でも「書き続けること」によって、僕自身は、確実なメリットも感じています。それは、「今日一日の自分のコンディション」を理解できることです。自分の思考が、今日は、どの程度良好か、それとも芳しくないのかを、みずから身をもって理解することができるのです。

「今日は、なんか、頭が冴えてるかもしれない」

 と思う朝も、ごくごく「希」にあります。

 たいていは、

「今日は、フツーだな」

 と思います。

「あっ、今日は、完全に思考がクローズだわ」

 と思う日もないわけではありません。

 仕事にいく前に、自分のコンディションを概ね知ることができます。これは明らかなメリットといえるかもしれません。それによって、どういう風に、今日一日を過ごそうかを考えます。今日はシンドイなと思える日は、ハードな思考を次の日に回したりします。

 ▼

 このように、仕事をする人にとって、毎日同じことを繰り返すことや、同じ儀式を持っていることは、自分のコンディションを知り、それに応じた「今日一日の仕事」をつくりだすことに役立つような気がします。
 僕の場合は、それが「他者」にも公開されているので、皆様にもそれがおわかりいただける?ので、自分をあげてるんだか、下げてるんだか、よくわからないことになっていますが、まぁ、そうした「浮き沈み」を感じて頂ければ幸いです。

 今日は、ま、イマイチだね(笑)
 週明け、月曜日なんて、こんなものです。
 調子なんて、浮き沈み。

 あなたには、「自分の今日のコンディション」を教えてくれる「毎朝の習慣」がありますか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月20日 08:30


90分に慣れ親しんだ「わたしの身体」!? : アンラーニングと適応の春

 東京大学は、今年度から、1コマあたり90分だった授業が105分に延長されました。背景には「単位の実質化」とよばれる問題やら、何やらかんやらあるのですが、ここでは、ややこしいので詳細に触れません。
 要するに、これまで1コマあたり90分だった授業が、15分増えて105分になったということです。

 たかが15分とよばれるかもしれませんが、これが、授業をする側からすると、なかなか「大きな変化」です。僕だけですか? もしそうだったらすみません。

 要するに、僕自身が15年にもわたる大学教員歴の中で、90分授業に、身体感覚・時間感覚が慣れ親しんでしまっているということです。そして、突然授業時間が15分ふえても、うまく、その時間をとり扱えないのです。
 「いかに自分が90分授業に慣れ親しんでいるか」なんてふだんはあまり考えませんが、今回の授業ではそのことを痛感させられました。

  ▼

 先だって行われた大学院の最初の授業では、「今年は15分増えたから、今までよりじっくり話せるな」と思って、レクチャー部分を増やしました。ところが、これが大失敗。
 もともと、これまで僕の授業は90分の授業のうち、冒頭15分が僕のレクチャー、残り1時間は学生のプレゼンとディスカッション、最後15分が僕のレクチャーとなっていたのですが、このうち冒頭の15分のレクチャーをがっつり増やしたのです。

 しかし、、、増えた「15分の感覚」というのが、どうにもわからず、結局、授業は最後は「時間切れ」。「人材開発の歴史的展開」の部分を次週に回すことになってしまいました。トホホ。
 わたくしとしたことが、「時間切れ」なんて初歩的なミスを!(僕は、授業・講演いずれにしても、絶対に時間どおりにはじまり、時間通りに終わることをプロとして信念としているのです・・・ま、アタリマエですが)

 ▼

 このように、自らが長いあいだ「適応」しているものは、本人は必ずしも「自覚的」であるとは限りません。このようなことは、みなさんにもあるのではないでしょうか。
 いいえ、たいがいの場合、個人は「適応」しているものには「無自覚」で、そのことが「適応は適応を阻害する」という事態を招くのだと思います。これに類する経験をおもちの方も、少なくないでしょう。

 「適応は適応を阻害する」とは、「"中長期によって実現したある適応"は、"後続する環境変化への適応"を邪魔してしまう」ということです。

 長いあいだ慣れ親しんでしまった「90分の身体・時間感覚」をいかにアンラーンして、新たな105分環境に適応するか。
 僕自身も、日々、アンラーンと適応のループの中にいます。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月17日 08:29


「気合い・根性・精神論のスポーツ指導」から「問いかけて考え抜かせる選手育成」へ!? : 上野山信行(著)「日本のメッシの育て方」を読んだ!

「学ぶことをやめたら、教えることもやめなければならない」
 フランス・サッカー代表監督 ロジェ・ルメール

  ▼

 朝っぱらからまことに恐縮ですが、僕は、これまで全くの「思い違い」をしていました。まずは、本日のブログを書くにあたり、自分の「浅学」と「視点の狭隘さ」を「恥じること」からはじめたいと思います。

 僕が衝撃を受けたのは、ある方のおすすめにより、上野山信行(著)「日本のメッシの育て方」を読んだことからはじまります。この読書経験が、スポーツやスポーツ指導の世界に対する僕のイメージを一新させるきっかけになりました。

 本書「日本のメッシの育て方」は、「サッカーのスポーツ指導とはいかにあるべきか?」を論じている次世代のスポーツ選手育成の指南書です。

 Jリーグが誇る希代の育成コーチであり、かつて、宮本恒靖、稲本潤一、宇佐美貴史らを育てた上野山信行さんが、ご自身のサッカー指導・後輩育成のメソッドをおしげもなく披露しています。
 希代の育成コーチである一方、上野山さん自らも貪欲な「学び手」であるといいます。冒頭紹介させて頂いたロジェ・ルメール監督の言葉「学ぶことをやめたら、教えることもやめなければならない」は、本書に何度か繰り返しでてくることばです。

 そして、上野山さんのお考えと、彼の豊富な事例が、僕のスポーツやスポーツ指導に対するイメージを変えました。

  ▼

 といいますのは、これまでの自分は、スポーツとは「体力と精神力と根性の世界」であり、まことに申し訳ないのですが、「自分には関係のないもの」と、思ってきました。

 昨今にいたっても、体育会での体罰やら、スポーツ指導の不条理さが問題になり、紙面を賑わすこともありますが、スポーツの選手育成とは「体力と精神力と根性の世界」なのだろうと思っていたのです。そうしたイメージにて色眼鏡で物事をみていたことを、まずはお詫びいたします。

 しかし、そのように思うことには理由もあったような気もします。
 まず、それほど体力にも恵まれなかった僕には、「スポーツは自分には関係ない」し、そこでどのような育成が行われていようとも、それは僕の研究分野の「育成」とは違う世界のものなんだろう、と思っていた節もあります。

 これまで自分が受けてきたスポーツ指導?も、僕が、そのように考えることの後押しをしていたようにも思います。それは、おおよそ「考えること」とは対極にある世界のように僕には思えました。

 たとえば、スポーツ指導?の世界は、たとえてみれば、

 「狙ったところにシュートするためには、よく見てシュートをするんだ」
 
 的なトートロジー?(同語反復)が跳梁跋扈する世界でした。

 少し考えてみればおわかりいただけるように、「よく見ること」は「狙うこと」です。よって、上述の文章は「狙ったとおりにシュートするためには、狙ってシュートする」と解釈可能です。
 要するに、ここが大学院ならば、僕は「その論理って、トートロジーだよね、1ミリも現象を説明していないじゃん」と言い放つと思います。1ミリも現象をかみくだいて説明していないのだから、「指導でも何でもない」。

 あるいは、こんな風にも思いました。スポーツ指導の世界とは、

 「熱意を持ち続けられるかどうかが、最後のねばりを決めるんだ」

 的な根性論、精神論が幅を聞かせる世界なのかな、と思っていました。

 監督やコーチといわれる人は、たいていマッチョで、機嫌悪そうで、怖く、よくわかんないけど竹刀とかもっていてマスクしていて、グラウンドや体育館で怒鳴っている。そういうものがスポーツ指導なんだと思っていました。
 もちろん、そうしたことも必要??なのかもしれませんが、僕にはピンとこないし、敢えて、自分をそうした世界から「切断」して生きてきたような気がします。
 
 現に、僕は、生まれてこの方、野球やサッカーをしたことも、見たことも、「ほぼゼロ」に近いと思います(数回はあるけど・・・)。ナイター中継も見ないし、ワールドカップだろうが、何だろうが、一切みない。

 しかし、本書を読んで、それは少し狭隘なものの見方だったなと思い至りました。

  ▼

 本書にて、上野山さんの語るスポーツ指導は、全くそれとは一線を画するものでした。

 上野山さんは、よいサッカー選手とは「自分の頭で考え抜くことができる選手」であるとし、そこで必要なのは「知力」だといいます。

 そして、「自分で考えぬく姿勢」は、決して、教え込みや根性で学ばれるのではなく、「問いかけること」や「具体的な助言」で学ばれるのだとしています。

 なぜ、そうするのか?
 それで、世界にいけるのか? 何をすればいいのか?

 必要なのは、こうした「問いかけ」と、「具体的な助言」だというのです。「根性でねばれ」と叫ぶことではないし、「あーしろ、こーしろ」と「教え込むこと」でもない。「メッシなら、あと30センチねばれる。どうしたらいい?」と声をかけることが、重要なのだといいます。
 
 サッカーなどのスポーツをご存じの方は何をあたりまえと思うことかもしれませんが、それとは縁遠い場所に生きていた僕としては「衝撃」でした。
 そして、それは、自分の研究分野とスポーツが、ひょんなことから「接合」した瞬間だったような気もします。

  ▼

 上野山さんは、本書冒頭、子どもに関する、ある詩を取り上げています。原典はよく存じ上げませんが、その思いに感銘を受けます。

 おそらくは、この詩をもって、上野山さんは、「育成の仕事とは、現在の世代をまっとうにつくることでもあり、かつ、次世代をつくること」であると述べたいのかなと勝手に解釈しておりました。

「子ども」 ドロシー・ロー・ノルト(米国の教育学者)

批判ばかりされた子どもは、非難することをおぼえる
殴られて大きくなった子どもは、力にたよることをおぼえる
笑いものにされた子どもは、ものを言わずにいることをおぼえる
皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心のもちぬしとなる

しかし

激励をうけた子どもは、自信をおぼえる
寛容にであった子どもは、忍耐をおぼえる
賞賛をうけた子どもは、評価することをおぼえる
フェアプレーを経験した子どもは、公正をおぼえる
友情を知る子どもは、親切をおぼえる
安心を経験した子どもは、信頼をおぼえる
可愛がられ抱きしめられた子どもは、
世界中の愛情を感じとることをおぼえる

 そういえば、昨日の大学院の授業では、育成の科学、すなわち「人的資源開発」にたずさわるものには、倫理や信条が大切であることを講義しました。

 あたりまえのことかもしれませんが、スポーツ指導の世界に必要なのは、育成する側の哲学や倫理、そして科学ではないかと思います。
 人間とは何か?という「育成の哲学」、コーチやトレーナが守るべき「育成の倫理」、そして経験的、科学的裏付けのある「育成の科学」ではないかと思った次第です。

 「批判」され、殴られて、怒鳴られてスポーツ選手になった子どもは、必ず、そのことを「再生産」するものです。かくして理性あるスポーツ指導は、現在の世代のみならず、次世代をつくることにも、つながっています。

 上野山信行さんは、こんな言葉も残しておられます。

 育成でしか、世の中を変えられない

 そして人生は続く

  ーーー

追伸.
 僕に本書を教えてくれたのは、ヤフー執行役員の本間さんです。先だって行った打ち合わせの最中に、「中原さん、絶対、好きですよ」とおっしゃりながら、本書を教えてくれました。新しい世界をありがとうございます。

 これからは、スポーツ指導論?の本を大量・大人買いして、読みあさろうと思います。この場を借りて感謝申し上げます。

投稿者 jun : 2015年4月16日 06:12


【シェア・いいね・RT拡散御願いします!】「ベテラン一斉退職」と「若手大量採用」時代をどのように乗り切るか?: 「教師の学びを科学する:データから見える若手の育成と熟達のモデル」(北大路書房)の予約販売が始まりました!

 これまで5年以上にわたって一緒に共同研究を進めてきた脇本健弘さん(中原研OB)と町支大祐さん(勝野研究室OB)が、彼らの処女作ともいうべき書籍「教師の学びを科学する:データから見える若手の育成と熟達のモデル」(北大路書房)を編みました。

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 こちら刊行は4月末(4月28日を予定)発売ですが、すでにAMAZONでの先行予約販売がはじまりましたので、お知らせさせて頂きます!もしご興味がおありな方がいらっしゃったら、ぜひ手にとっていただけるとうれしいことです。

  ▼

 本書のきっかけになったのは、横浜市教育委員会と東京大学・中原淳研究室が2011年から2013年の3年間にわたって行った「教職員の育成に関する共同研究」です。

 この共同研究では、

(1)経験の浅い教員、初任教員の育成実態等を量的調査・ヒアリング等によって把握すること、さらには様々な調査を重ねながらデータを蓄積し、これらのデータを踏まえたうえで教育委員会のご担当者の方々と大学関係者が議論をつくし、

 実際に

(2)各種の教員研修、フォーラムなどを実施することなどを目的としてきました。

 単に調査をするだけではない。現場の先生方向けに、「調査をもとにしたフォーラム(ワークショップ)」、いわゆる「サーベイフィードバック型の教員研修」を企画・実施してきたことは、これまでにもブログでもご紹介させていただいたことがございます。

サーベイフィードバックと対話による「教員研修」!? : 地方に広がる「若手教員の大量採用」にどうそなえるか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/01/post_2346.html


数字を「お返し」し、物語を「紡ぐ」10年経験者研修

http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/07/1011410_123510n500100010_10_10.html

「他人の育成」を手がけることで「自分の能力」を伸ばすこと
http://www.nakahara-lab.net/2014/01/post_2165.html

 本試みは、実態調査をはじめとする「研究」と、研修やフォーラムの開発・デリバーという「実践」、その両者をあわせもち、循環を成すことを企図したアクションリサーチ的なプロジェクトでした。

 現在、中原研究室のプロジェクトは、ほぼ99%、企業を対象にしたアクションリサーチで、かつ、今後もそれが継続すると思いますが、こちらは、僕が、この10年で唯一かかわらせてもらった教育現場のプロジェクトになりました。

 その理由は、横浜市教育委員会が、メンタリングという施策を通じて若手教員育成を行うことにかなり前から取り組んでおり、それが僕の従来からの主張である「職場の"面"(人的ネットワーク)による育成」という内容と合致していたからです。

 今から5年ほど前、僕の「職場学習論」(東京大学出版会)をお読みになった、ある心ある首席指導主事の先生が、研究室をおとずれ、一緒によきことをなしましょう、とお声がけいただきました。
 これをきっかけにして、志ある事務官の方や教育委員会の先生方が、ひとつひとつハードルを乗り越え、数年にわたる共同研究をなせたことが、本書誕生のきっかけになります。この場を借りて心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

   ▼

 本書では、メンタリング、経験学習、リーダーシップ経験、大学からのトランジションまで、最新の人材開発の概念で、教師の育成を、お二人が論じています。
 本書は、いわゆる「教師教育」を論じている本ではありませんが、人的資源開発論、経営学習論の観点から見れば、教員の育成は、このように語り得るのだと思います。

第1章 教師をめぐる今日の状況――社会背景
第2章 これまでの教師研究――本書の理論的位置づけ
第3章 調査概要――本書で用いるデータ
第4章 教師は経験からどのように学ぶのか――教師の経験学習
第5章 教師の成長を促す大学時代の経験――大学からのトランジション
第6章 学校への新規参入と適応――組織社会化
第7章 若手教師が抱える困難――参入時の困難経験
第8章 初めての異動――初任校から2校目への環境変化
第9章 若手教師としてリーダーを務めること――リーダー経験
第10章 学校内における組織的なメンタリング――メンターチーム
第11章 若手教師への効果的な支援――メンターチームの手法
第12章 管理職のメンターチームへの関わり――メンターチームと管理職
第13章 メンティからメンターへの移行――メンタリング行為の連続性
第14章 総 括――若手教師の成長と育成
第15章 教員研修の変革――サーベイフィードバックの応用
第16章 これからの教師教育研究――学校現場・教育委員会・大学の三者間連携

 本書の帯には、無藤隆先生より、ご推薦のお言葉もいただいております。

◆白梅学園大学 教授 無藤 隆 氏 推薦!
若手教師の育成をメンターチームにより進める。
著者たちの実証調査と研修の組織化が横浜の学校を変える。

 本当にありがとうございます。

   ▼

 書籍内部では、経験の浅い教師が、学校で仕事をはじめた場合、どのような問題を抱え、それがどのような人々の支援によって克服されているのかを分析する章があったり、教師の経験学習をめぐる考察をすすめている章があります。基本的には、量的・質的ふくめて、すべての論拠になっているのは、横浜市の学校教育現場の実証データです。

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 メンタリングをどのように運営していけばいいのかについては、横浜市は、伝統的に、メンターチーム(経験の浅い教員を、10年未満の教員がチームとして支える仕組み)をとってきました。このたびの共同研究では、これの運営方法についても、ゴリゴリと実証的に明らかにしています。

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とくに、「かつてメンター役をつとめた人」が、数年後、いかに「メンターになってもらうか」ーすなわち、メンタリングの世代継承性は、この種の育成にとって重要なことです。それに関しても考察をすすめています。この得体の知れない図をみてもわかんないとは思いますが、詳細は本書にて(笑)

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 僕は、横浜市の10年次教員研修の研修講師を担当させていただいておりましたので、そちらの研修について書かせてもらっています。
 横浜市全市の小学校、中学校、高校の500名の先生方に対して、いかに3時間で、対話型かつワークショップ型の研修をなすか。しかも、横浜市の現状をいかに理解してもらい、ミドルリーダーとしてよきことを為してもらうのか。その様子を書かせていただきました。

 今だから語れますが、一番最初に登壇したときは、これまで最もハードルの高い挑戦でした。これまで、いろんな組織の、いろんな考えをお持ちの!ビジネスパーソンや管理職の方々に研修をしたり、一緒に共同研究をしてきましたが、それにも引けをとらない、否、それにも勝る「味わい深い現場」でした(笑)。10年次研修、副校長研修、校長研修など、いろいろさせていただきましたが、いずれも今となってはよい思い出です。
 数年をかけて、こちらの研修はカスタマイズし、現在は、ほぼ脇本さん、町支さんらがメイン部分を担当して下さっています。

monogatari_LEGO.png

   ▼

 既述いたしましたように、このプロジェクトには、僕のほか、僕の元指導大学院学生である脇本さん、指導教員の勝野正章先生のご理解と御協力によって本プロジェクトに参加した教育学研究科の町支さんらの大学院学生(当時)にも、当初より、参加して頂きました。
 勝野先生には、日本教育経営学会の大会企画委員でもお世話になっておりますが、本プロジェクトへの町支さんのご参加をお認め下さったことを心より感謝いたします。ありがとうございました。

 脇本健弘さんのブログ
 http://www.wakimoto-lab.net/blogs/

 町支大祐さんのWebページ
 https://cdai80.wordpress.com/

 役割分担としては、研究の総括と調査等の指導、さらには研修講師の役割を僕が行い、調査設計、分析、ヒアリングなどは、本書の著者である脇本、町支が行うことになりました。
 途中、同じ教育学研究科の讃井康智さんが加わることもありましたが、基本的には脇本さん、町支さんが研究の実を担当したということになります。

 このたび、両名が本書を著者として執筆するにあたり、このような経緯から僕は監修者の役割をお引き受けすることにいたしました。二人の執筆原稿を時折拝読させてもらいながら(矢のような強烈な催促)、よりよい原稿となるよう助言(激烈指導?)をしてきました。僕個人としては15章、さきほどの研修章を執筆しています。

  ▼

 最後になりますが、諸事情によりお名前を全員ここであげさせていただくことはできないものの、過去5年間ほどにわたって伴走してくださった横浜市教育委員会の皆様に、この場を借りて、厚く御礼を申し上げます。
 本来ならば、この間によくしてくださった指導主事の先生、現在は校長先生になられておられる先生方、そして事務手続きに奔走してくれた心ある事務官の皆様に、おひとりおひとりに御礼を申し上げたいのですが、まずは略儀ながら、この場にて感謝をいたします。本当にありがとうございました。

 また、若い二人に執筆の機会を与えて下さった北大路書房の奥野浩之さん、安井理紗さんにも心より御礼を申し上げます。丁寧な編集と、プロモーション企画をありがとうございました。

 本書は、両名の若く志ある研究者がはじめて舵をとり、いわば「処女航海」を為す一冊です。本書が、横浜市を含むすべての教育現場の活性化に少しでも役立つとしたら、監修者、またプロジェクトの統括責任者として、非常に嬉しく思います。

  ▼

 横浜市は、日本有数での大都市であり、また「課題先進地」です。

 誰もが通ったことのある「身近な組織」で、かつ、日本の社会を下支えしている組織ー学校は、いま、大量退職と若手の大量採用で、「教員育成のバランス」がとりにくくなっています。
 たとえば横浜市の小学校の場合は、「経験10年未満のメンバーが56%を超える状況」になっておりますが、これは、課題先進地である横浜市だからこそ、「今」、まさに「問題が顕在化」しているのです。
 これが、これから10年立たないうちに、全国の諸地方に広がっていきます。
 そうです、人口動態に関することは、おおよそ、予想がつくのです。これから全国の地方都市からはじまり、さらには地方の諸地域まで、ベテランの一斉退職と若手の大量採用というかたちで「教員の入れ替わり」がはじまっていきます。
 もちろん、教育のノウハウの世代伝承の危機でもありますが、我が国の教育が生まれ変わるチャンスと考えることもできます。

 これから10年、「これまで横浜が直面してきた課題」は、「みんなの課題」になります。本書がメインターゲットにした課題は、この「みんなの課題」です。
 本書の記述や分析は、荒削りなところが多々あるので、いろいろ、専門家の方々から、やいのやいの、言われるんでしょう。至らぬところもたくさんあると思います。なにせ、監修者が「学校現場」の研究をしてないんだから(笑)。

 でも、ときおり、学校の現場を「外」から垣間見させてもらって、「これって外から見ると、こんな強みがあるんだけどな」と思うことも多々あります。人材開発研究という観点からみた場合、教師の育成の問題はどのように見えるのか。ぜひ、そのあたりを感じて頂ければなと思います。

 でも、なんらかのアウトプットに対して、何の議論も生まれないよりは、議論が生まれた方がよっぽどよいですね。本書が、この問題に関する多くの教育関係者の議論のきっかけになることを願います。そして、どうぞ、本書を「上書き保存」していただける知見が生まれることを願っています。
 
 そして人生は続く


  
  ーーー

追伸.
 ここ1年くらいにかけて、自分が指導した大学院生が、就職し、本を編んだりしはじめる時期を迎えています。これまでにも研究室で取り組む研究はまとめてきましたが、なんか不思議な気分です(笑)。いや、ほんとに(笑)。

 お次は、舘野さん(中原研OB)が中心になって編んでいる「トランジション本」でしょうか。こちらは「活躍する組織人の探究」(東京大学出版会)の続編になるプロジェクトを、研究室有志で実施しており、今年度中に心ある出版社から出版される予定です。こちらも、サーベイ+ワークショップ開発の合わせ技バーンですね(笑)。

 人的資源開発、経営学習論のよいところを抜き出し(悪いところは乗り越え)、そのエッセンスを、それぞれの研究領域で、発揮してくれたとしたら、これ以上、うれしいことはないですね。Keep on great work!

投稿者 jun : 2015年4月15日 05:43


現場をフィールドワークすれば、自ずと発見が生まれる!? : フィールドワークの99%は「まったりとした日常」!?

 ずっとずっと前のことになりますが、僕も、一時期、フィールドワーク(のマネゴト)みたいなことをしたことがあって、なんちゃってかもしれませんが「エスノグラフィーらしきもの」を書いたことがあります。もう20年弱も前の出来事ですが。

 昔々のことで恥ずかしいので、これまであまり詳細は語らないできましたが、たまたま、ある専門書の編集担当の先生から、

 過去のフィールドワーク経験を思い出して、フィールドワークの論文をまとめるうえで大切なポイントを1章にまとめて欲しい

 というご依頼をいただきました。
 
 最初は遠い遠い過去であるので、丁重に辞退させて頂いたのですが、恐れ多くも「学会で一定の評価を受けた論文だったので、どうしても」いうことだそうです。結局、それならばというかたちで、ありがたくお引き受けいたしました。

 しかし、なかなか原稿はすすまず(泣)。そもそもなんちゃってフィールドワーカーに、このお題は難しかったのですが、なんと恐れ多いことをしてしまったと気づいたのは、しばらく時間がたってからのことでした。
 このところの矢のような催促に、この1週間ほどウンウン唸って考えては書き、書いては考えしていたのですが、ようやく原稿にめどをつけ、本日送るところまできそうですので、このことについてブログで書くことにしました。

 ▼

 今回の原稿を書いてみて、僕は、フィールドワークにはいくつか「神話」みたいなものがあるなと思いました。
 世にはびこる俗説で、これって、実際フィールドワークをやってみると、ちょっと違うんじゃないかと思っていることが、下記の3点です。

1.フィールドワーカーは、いわば「ぬり壁」のようになって、「客観的」に研究対象を見ることができる

2.フィールドワークで、現場にでて観察を続けていれば、おのずと「発見」が生まれてくる

3.フィールドワークで編まれた知見「エスノグラフィー」は物語であるから、現場の人々に読まれやすく、現場の変革に寄与しやすい

 特に、2の神話は、ビジネスの領域にもエスノグラフィーやらフィールドワークが「拡大」してきて、さらに強化されていますね。「現場に出さえすれば自ずと何かが見えてくる信仰」というのかな。

「ヘイ!、さぁ、みんなで現場に出ようぜ。観察して付箋紙つかってポスター作ろうぜ。ほら、そうすると、量的調査では見えなかったもの、おのずと見えてくるだろう」

 みたいな感じ。
 経験者からすると、そんなハッピーなことはなかったけどな、と思います。僕のやり方が悪かったのかな?

 思うに、

 フィールドワークの99%は、研究対象者が過ごす「まったりとした日常」

 なのです。そう簡単に「現場に出たからと言って、すぐに発見が生まれるわけじゃない」と思います。
 あとのポイントは、時間が激烈にないので、「あいだ」をはしょって(もう3分でTAKUZOを起こさなきゃ!)、結論だけを申し上げますと、

1.フィールドワークでは、研究対象に「かかわら」ないと、よいデータが生まれにくい

2.フィールドワークで、知見を生み出すのは「現場」ではなく、「机上」である

3.フィールドワークで編まれた知見「エスノグラフィー」だから現場に返りやすいというのは嘘である。現場の変革に寄与するためには、エスノグラフィーがいかに現場に返るのかを設計しておく必要がある

 ということです。原稿では、これらの神話を「プチ解体」するべく、いろいろ論じておりますが、それが成功しているか、あえなく撃沈かは読者の方々にお任せしたいと思っています。

 ▼

 今日はフィールドワークにまつわる神話について書きました。今度、機会をみて、量的研究についての神話も書いてみようかなと思います。気が向いたら。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月14日 06:26


支援とは、あなたが「届けたい人」には、もれなく「届かない」!?:自発参加のディレンマを超える!?

 おおよそ、人にまつわることには「ディレンマ」がつきまといます。
 こと「人材開発の世界」にも、たくさんのディレンマがありますが、そのひとつに「自発性のディレンマ」というものがあります。ネーミングは気にしないでください。僕が勝手にそう読んでいるだけです。

「自発性のディレンマ」とは、こういうものです。
 今、仮に、「ある問題を抱えた人」を支援するために、ある「学習プログラム」をつくったとします。工夫をこらして開発されたプログラムを、ぜひ、「問題を抱えた、あの人」に「自発的」に受講して欲しい。主催者としては、そのように考えます。

 しかし、実際、「ふた」をあけてみると、プログラムを自発的に受講してきたのは、優秀で、アンテナが高く、いわゆるハイパフォーマーとよばれる人。もともとそういう学習プログラムが「必要のない人」が受講者になってしまったというディレンマです。

 じゃあ、「問題を抱えた人」はどのように反応したか。ヒアリングを重ねてみると、「このプログラムが自発的参加であるから、自分は参加しなくてはよいのだ」という意味づけを行っていることがわかりました。ゆえに参加はしない。
 じゃあ、ここでプログラムを「必修」「強制」にするとどうなるか。今度は、「問題を抱えた人」は「やらされ感」を漂わせ、いやいや満点ムードで、ワークショップにあらわれます。よって、どんなにプログラムの学習効果が高かったとしても、効果はなし。

 つまり、

 プログラムは「本当に届けたい人」には「届かない」

 ということになります。悲しいことですが。

 さらに悪いことに、こうした場合、「格差」は広がることはままあることです。優秀な人は、そのプログラムに参加し、さらに力をつけ、自信をもつようになりました。しかし「本来受けさせたい人」は、自ら、そこに参加することはありませんでした。結局、「集団間の能力格差」が拡大することになりました、あべし(泣)。

 かつては、この「自発性のディレンマ」が存在することを、ある種の「理由」をして、プログラムの提供自体を差し控えるといったこともあります。しかし、少しずつ人材開発の世界も変わってきています。

 どんな境遇にあっても、自ら伸びようとする人々を支援して伸ばすことはできます。しかし、自ら伸びることを諦めてしまった人は、どんな支援も奏功しません。そういう認識が広がってきています。

 ▼

 今日は、人にまつわるディレンマのうち、人材開発のディレンマを書きました。この問題、結構、ここあそこで起きているような問題のように思えますが、皆さんの組織ではいかがでしょうか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月13日 08:05


経験格差社会にどう向き合うか?:NPO法人カタリバの理事会で考える!?

 先だって、理事を仰せつかっているNPO法人カタリバの理事会が開催され、各事業部からのご報告を受けました。

 まずは、今村さん、岡本さんを筆頭に、カタリバ事業・東北事業、その他経営部門を引っ張っておられるディレクターの方々、見事なフォロワーシップを発揮なさってフロントラインで努力なさっているスタッフの方々に「お疲れさま!」を申し上げたいと思います。

 お疲れさまです!
 引き続き、どうか「心ゆく」まで動いてください(笑)。

 ▼

 現在、カタリバは、従来のカタリバ事業(高校生に対して大学生がキャリアを語る場をつくる事業)から、今村さんの力強いリーダーシップで発動した東北でのコラボスクール運営事業(東北被災地に、子どもが放課後過ごすことのできる居場所・学びの場をつくる事業)や、blad事業(文京区の中高生が集える場をつくる事業)など、多方面に、かつ、多角的に事業展開しています。

 それ自体は大変素晴らしいことなのですが、そのように事業拡大していくからこそ、今一度、自らが、この社会の中でどのような立場と役割を示していかなければならないのか、折りに触れて、自らも「対話」と「リフレクション」を繰り返していくことが重要であるような気がします。
 カタリバが他者に対して「対話」と「サンプリング」と「語り」を促す存在であるからこそ、その「鋭い要求」は「自己」「自分たち」にも向けられるべきです。

 もちろん「折りに触れて」でよいのです。カタリバが「アクションオリエンティッドな団体」であるからこそ「折りに触れて」、きっちりと対話と内省を繰り返していくことが大切であるような気がします。このことは理事会で繰り返し、申し上げてきました。

 おそらく、そうでなければ、行政と現場のあいだ(スキマ)を埋める「場当たり的な問題解決エンジン」「場当たり的な問題の投げ込み場所(ゴミ箱)」になっていってしまうことを懸念します。その中でルーツを見失い、それでも規模拡大を続けていくことこそが、懸念です。

 このように社会の中で重要な位置を占めるようになってきたからこそ、今後カタリバが、この社会が今後どうなっていくのか?という「世界観」と、自らがどのような貢献をなしうるのか(敢えて、この分野には貢献しないのか?)というヴィジョンを決めることが大切であるような気がします。
 
 ▼

 個人的な思いを述べると、カタリバが創業した頃と、今では、社会の様相がかなり変わってきています。
 当初「キャリア教育」というものがあまり人口に膾炙していなかったときに、いちはやく「高校生のキャリア」という問題に目をつけ、そこに「比較的安価で、良質な対話の機会を創出」してきたことこそ、カタリバのルーツです。まずは、この「ルーツ」を抱きしめた方がよいと思います。

 一方、この10年で世の中は大きく変わりました。
 最近、とみに僕が感じていることは、「経験格差社会の誕生」ということです。

 要するに、

・従来の標準テストで測定しうるような基礎的学力はもはやミニマム化の方向に向かっており、社会的成功をなすためには、さらに上位の指標が意味を成すようになってきている。

・そのひとつに「他人とは異なる差異化の記号となるような経験を成し遂げて」、そこから「どのようなことを学び」、「何を今後していきたいのか」?というストーリーが評価指標として用いられるようになってきている。それらは従来の標準テストで測定されるのではなく、まったく異なる評価手法によって測定されはじめようとしている

・しかし「成長に資する経験」「社会的成功につながる学習経験」の獲得は、生まれた家庭の経済階層・文化的資本に強く影響を受ける。また、そうした経験へのアプローチは、自分がどのような社会集団に所属しているか、ということの影響を強く受ける。このような中で、いわゆる「格差」がさらに拡大していくことが予想される。

・しかし、「生まれながらの差」の根源は、なかなか埋めようがない。ならば、「生まれながらの差」をいかに縮小する政策や施策を社会にどのようにデザインしていくかが求められるようになる

 ということです。ブログなんで詳細は差し控えますが、これに類することは、以前にも申し上げたことがございます。

経験獲得競争社会を生きる!? : 資源化・資本化する直接経験!?
http://www.nakahara-lab.net/2013/04/post_1995.html

 カタリバは、事業を多角化していく中で、もともとルーツとしてもっていた「対話の経験」をコアにして、さまざまな「問題解決の経験」「創造の経験」「葛藤の経験」を高校生などに提供してきました。

 個人的には、このような背景のもとで、カタリバが「経験格差社会」にどのように向き合うかが、問われているような気がしています。まったくの個人的意見ですが。

 理事としては変な物言い?ですが、僕はカタリバを応援しています(笑)。
 ぜひ、多くのNPOの模範となるような、自らのルーツにねざした、カタリバらしい事業展開を今後も期待しています。
 繰り返しになりますが、「心ゆくまで動いて下さい!」

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月10日 08:42


組織を「立て直す」とは何か?を考える授業

 新学期がはじまっています。あまり詳細を語ることは差し控えますが、今日は、学部生向けの授業をやります。

 ここ1週間ほど、さて、しょっぱなは、どんな内容にしようかなと思っていたのですが、映像を2つ使いながら、「組織の再生」を考える、という、全く学部生向けではない「渋い内容」にすることにしました。
 最初は、学部生に「あわせた」内容、すなわち「新人育成」とか、そういう話にしようかなとも思ったのですが、辞めました。いかにもすぎるので(笑)。

  ▼

 授業で視聴してもらうビデオは、ひとつが「企業再生」に関するもの。ひとつは「学級の再生」に関するものです。企業・学級、大人と子ども、経営者と教員と違いはあるのですが、共通点もあるよね、というところが少しミソです。

 前者は、ある経営者が、経営に難のある企業を買収し、その従業員に徹底的に権限を委譲し、自ら経営再生プランを考えさせることで、組織を再生させようとする物語です。
 後者は、経験ある先生が、荒れ果てた学級を担任し、子ども達のやる気に火をつけて、学級を再生する物語です。どのようなビデオを用いるのか、ピンときた方もいらっしゃるかもしれません。

 授業では2つの映像を比較しながら視聴したうえで、

 組織のパフォーマンスとは何に規定されているのか?
 経営者と教員は「何」を変えたのか?
 そして「組織を立て直す」とは何か?

 を議論していきたいと思っています。ちょっと学部生にはマニアックすぎるかな(笑)。ま、でも、何とかなるでしょう。
 昔むかし、青山学院大学で授業をもっていたときに、よくこんな授業をしたな、と思い出しました。昔むかしの思い出です。

  ▼

 うまくいくかどうかはわかりません、、、一度もやったことがないので(笑)。でも、何とかかんとか、皆さんと一緒に、このような問いについて考えていきたいと思っています。

 そして人生は続く 

投稿者 jun : 2015年4月 9日 09:00


「フィードバック慣れ」した人と、「フィードバック恐怖」に打ち震える人!?

 ここ数年、様々な場所で、フィードバックの現場に立ち会う機会があります。
 
 ここでいう「フィードバック」とは、いわば「鏡」のような行為です。自分では気づいていないけれど、他者には気づいてしまうような行為・思考の癖などを他人が語り、相手に返してあげる行為です。もちろん、十分に心理的安全と信頼を確保したうえで、このような作業は行われます。

「僕には・・・XXさんの・・・・は・・・・のように見える」

 実際の場面は、研修での360度フィードバックの場面や、相互にフィードバックしあうグループでの話しあいのプロセスということになります。

 年齢があがればあがるほど、本人には「言いにくいこと」が増え、かつ、「褒められること」が減ってくる傾向があります。
 しかし、本人がそのことを知らないままでは、本人のためになりません。ポジティブも、ネガティブも含めて、フィードバックは、見えたものを「鏡」のように本人に返します。比喩的な言い方が許されるのならば、それは「贈り物」のようなものです。

 ▼

 さて、フィードバックの現場を拝見していて、時折気になることがあります。それは妙に「フィードバック慣れしている人」と「フィードバック恐怖症に陥っている人」が時折散見されることです。

 前者は、フィードバックを何度も経験していて、もう、言われることに慣れっこになっている方によく見受けられます。どんなフィードバックを返そうとも、

 「そうだよね、、、わかってるんだけどね、デヘ」

 みたいなかたちで、てんで聞く気がありません。これはこれでフィードバックが「刺さらない」ので、困った者です。

 一方、「フィードバック恐怖に打ち震えている方」もいらっしゃいます。何を他人から言われるか怯え、貝のように自分を守っています。腕組みをして、自分の身体を抱きしめていることから、その様子はすぐにわかります。先ほどの「フィードバック慣れ」も困るのですが、こちらもこちらで、せっかく貴重なフィードバックが、あまりにも強固な鎧にはばまれ「刺さらない」ので問題です。

 ▼

 フィードバックは、「正しく進む」ために存在します。その背後には、

「どんな推進力(イニシアチブ)でも、フィードバックのないものは絶対的に腐敗する」

 という古からの智慧があるのかもしれません。実際、みなさんのまわりを見回してみてください。

 フィードバックループが機能していないものからは、ときおり、腐敗臭がしませんか?(泣)
 オマエは、もう死んでいる!?(死語)

 自戒をこめて申し上げますが、しなやかに、しかし、確実にフィードバックを「受け止めること」ができたとしたら、幸せなことのように思います。

 ポジの意見には喜び、ネガには一次的には心理的葛藤を覚えるのだけれども、「言いにくいことが自分に届くうち」は、まだまだ幸せなことなのかもしれません。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2015年4月 8日 05:52


明日から大学院の授業ですー90分授業から105分授業へ:「経営学習論」人材開発・組織開発の理論と実践

 新学期ですね。死ぬほど忙しいです。明日から大学院の授業、ゼミがいよいよはじまります。
 今年の大学院授業「経営学習論」では、人材開発のハンドブックをよむことで、教育訓練研究・組織開発研究の理論と実践の基礎を学ぶことにしました。
 今年から東大は90分授業から105分授業に変更になります。これまでジェットコースターにのるような感じで、レクチャーやらディスカッションを短い時間に詰め込んできましたが、これからはもう少しじっくりお話することができます。これまでよりも、背景説明や議論の時間をとることができるので、僕個人としては非常に大歓迎です。

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「経営学習論」:人材開発・組織開発の理論と実践
 中原 淳
 東京大学大学院 学際情報学府 2015年度 夏学期授業
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中原 淳
東京大学 大学総合教育研究センター 准教授
     大学院学際情報学府(兼任)
 
■講義の概要
 経営学習論とは「経営・組織における学習」に対する学際的
研究領域です。一般的な用語を用いれば、組織における「人材開発」
「人材育成」の基礎理論に関する研究領域です。人が組織にエントリーし
どのような発達をとげ、どのように熟達していくかを、探究します。

 本講義では、Swanson and Holton(2009) Foundations of
Human Resource Developmentという人材開発の教科書を購読し、
本領域に関する理解を深めます。研修開発・組織開発の基礎を学習する
ことができます。想定される受講者像としては、下記を想定しています。

・組織における知識共有、学習に関心のある方
・組織のおける人材育成、人間の成長に関心のある方
・組織変革や文化の構築等に関心のある方 
 
 本講義は、受講者全員が、グループないしは個人での英語文献発表や
ディスカッションを行います。ディスカッションは日本語です。
このことの趣旨を十分理解し実践できる方の受講を期待します。
 なお、本講義は学部生の聴講を認める場合がありますが、学部生には
単位はでません。外部聴講は認める場合がありますが、文献担当を行わない
参加を認めません。
 すべての学生が文献購読・ディスカッションに参加することが求められ
ますので、どうかご留意ください。
 
 
■評価
 下記の3点から成績をつけます。
1.コメントカードによる出席点30%
2.プレゼンテーション(全員からの相互評価30%)
3.最終プレゼンテーション(全員からの相互評価40%)

 なお、相互評価のポイントは下記の5点。
  1.スライド・配付資料のわかりやすさ( / 5)
  2.プレゼンテーション手法(声・身振り)( / 5)
  3.質疑応答の適切さ( / 5)
  4.理論の解説がわかりやすいか( / 5)
  5.考察がなされているか( / 5)
 
 
■場所・時間
 水曜日 4限より(14:55-16:40)
 福武ホール B2 スタジオ1(本郷キャンパス)
 
 
■連絡先
 中原 淳(なかはらじゅん)
 〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1
 東京大学 大学総合教育研究センター 准教授
 Blog : http://www.nakahara-lab.net/


■授業アーキテクチャ
 ・イントロダクション(中原:20分)
 ・文献発表(文献担当グループによる:30分)
 ・ディスカッション(グループで:20分)
 ・オープンディスカッション(クラス全体で:25分)
 ・ラップアップ(中原:10分)


■英語文献発表のやり方
・個人ないしはグループで、課題として設定された文献を購読し、
内容を要約します。

・発表はレジュメを用いて行います。パワポの配付資料での発表
はお控えください。
 レジュメ事例は、上記の文献パッケージに入っているので、みておくこと

・レジュメの構成時には下記を検討する
 ・各文献の要約をまとめた内容
 ・今回の文献で興味深かったところ/面白かったところ
 ・今回の内容を見て思いついた関連する事例など
 ・(グループの場合)今回のプレゼンテーションの各人がどのような
  役割を担ったか?

・配付資料は人数分用意し、各自で印刷すること。

・配付資料は「レジュメ配付資料」を用意する。
印刷は各グループで行うこと。

・発表の前か後に、利用したデジタル
ファイル(ワードファイルなど)をメーリングリストにながす。

・発表の時間は30分。その後質疑応答があるので、質問にも答えられる
ようにしておくこと。
 
 
■購読文献
・Swanson and Holton(2009)
Foundations of Human resource development. Barlett-Koehler.

 授業では下記を読みます。

Chapter1: Human resource development as a professional field of practice
(専門領域としての人材開発の発展)

Chapter3: History of human resource development
(人材開発の歴史)

Chapter4: The role of theory and philosophy in human resource development
(人材開発における理論と哲学)

Chapter5: Theory of human resource development
(人材開発の理論群1)

Chapter6: Component theories of human resource development
(人材開発の理論群2)

Chapter7:Paradigm of human resource development
(人材開発のパラダイム)

Chapter10:Overview of training and development
(教育訓練研究のオーバービュー)

Chapter12:training and development practice
(教育訓練研究の実践)

Chapter13:Overview of organization development
(組織開発研究の発展)

Chapter14:The nature of the change process
(組織変革プロセスの本質)

Chapter15:Organization development practice
(組織開発研究の実践)

Chapter19:Globalization and human resource development
(グローバリゼーションと人材開発)

Chapter21:Challenges facing human resource development
(人材開発の挑戦課題)

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投稿者 jun : 2015年4月 7日 19:15


【〆切秒読み段階:拡散御願いします】東京大学フューチャーファカルティプログラムで「教える技術」を身につけませんか?

■■東京大学フューチャーファカルティプログラム2015 第5期申し込み■■
http://www.todaifd.com/entry_open/

【〆切秒読み中:4月9日まで】
近い将来、大学の教壇に立ちたい大学院生に
  「教育実践力」を獲得してもらうための全学教育プログラム
  「東京大学フューチャーファカルティプログラム2015」
   3年目突入、第5期生募集中!

   履歴書に書くことのできる「履修証」を大学より発行!
   全学全研究科から集まる大学院生同士の仲間も出来る!
   これまで200名弱の大学院学生に「教える知識・スキル」を伝えてきました。
   大学院生(修士課程・博士博士)の皆様のご登録を、大歓迎いたします!

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■■東京大学フューチャーファカルティプログラム2015 第5期申し込み■■
http://www.todaifd.com/entry_open/

 東京大学では2年前から「近い将来、大学の教壇に立ちたい大学院学生に教えるための知識・スキル」を教える教育プログラム「東京大学フューチャーファカルティプログラム」を実施しています。計26時間のトレーニングのあと、履修証より交付し、大学院生のキャリアアップに役立ててもらえる全学教育プログラムです。

 東京大学フューチャーファカルティプログラムは、今年度、第5期50名を募集中です。こちらすでに応募を開始しており、残席わずかとなりました。どうぞご興味のおありの東京大学大学院の大学院生の方々は、お早めにお申し込みをお願いいたします。

 東京大学フューチャーファカルティプログラム」に関しては、受講生からのアンケートにおいても、非常に高い成果が認められています。

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 また,卒業生もすでに教員になり活躍している人が増えてきています。下記は卒業生の声です。

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東京大学フューチャーファカルティプログラム2015 第5期申し込み
http://www.todaifd.com/entry_open/

 また東京大学フューチャーファカルティプログラムでは、「インタラクティブな授業、教育に熱意をもつ若手大学教員を採用なさりたい皆様方へのご案内ページ」をつくり、全国の大学から「教育実践力のある若手を採用したい採用情報」を非定期的に流しています。無事修了証を手にして、アラムナイネットワークに加入すれば、こちらの情報にもアクセスが可能です。

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東京大学:教育にパッションのある若手教員を採用したい方へのご案内ページ
http://www.todaifd.com/recruit/

  ▼

 本プログラムは,東京大学に在籍する大学院生(修士・博士ともに可能)ならばどなたでも受講できます.博士のときに研究が忙しくなるのでしたら、修士のときに履修してもかまいません。
 第5期の東京大学フューチャーファカルティプログラムは、木曜日クラスと金曜日クラスに分かれており駒場キャンパス、本郷キャンパスで実施いたします。木曜開講授業(駒場4・5限)、金曜開講授業(本郷3、4限)となります.

 募集締め切りは、4月9日(木)24時です。もう既に半数程度の方々登録を終えております。もしご関心のある方がいらっしゃいましたら、下記のエントリーフォームからどうぞよろしく御願いいたします。

■■東京大学フューチャーファカルティプログラム2015 第5期申し込み■■
http://www.todaifd.com/entry_open/

  そして人生は続く!

投稿者 jun : 2015年4月 7日 13:45


お隣に座っている人と「メール」で会話するのはなぜか?:CC爆弾が生まれるひとつの理由!?

 先だって某所で、組織内のコミュニケーションについての話をしました。

 お題は、

「オフィスで隣に座っているのにもかかわらず、なぜ、人は、メールを用いてコミュニケーションしたがる場合があるのか?」

 ということでした。

 この問いに対しては、それこそ、いろんな答えがあるんでしょう。「最近の人間関係は希薄だから」とか「最近の若者は、人が面と向かって行う直接対話を避ける傾向がある」とか、さまざまな理由が考えられそうです。

 しかし、巷間に流布する「最近の・・・はちょめちょめ論」(!?)に理解を示しつつも、ここでは一定の距離を置き、「物事の合理的理由」に思いを馳せてみましょう。おそらく、それには「仕事上便利な理由」があるのだと思うのです。

 おそらく、近いところにいるのにもかかわらず、Orality(口述)を拒否し、メールという書き物(Literacy)に頼りたくなるのは、メールがもつ下記の3つの特徴があるように思います。

 1.履歴がのこるから
 2.同報できるから
 3.あとで検索・検証可能だから

 ということの3つの利点です。これはデジタルメディアの利点とも言えるかもしれません。
 これら3つの論点を敢えてエイヤッとまとめますと、要するに人々がメールを用いるのは「自己保身」ー「自分の身を守るため」ではないかというのが僕の考えです。
 仕事をしていても「自分の身が危ないと感じる職場」ないしは「自分の身を自分で守ることが強制される職場」では、人々はそのような行動をとりやすいのではないか、という仮説が生まれます(笑)。

 どういうことかを考えるうえで、参考になるのは、先ほどの「口述」です。これはちょうど、書き物の逆の特徴をもっています。

「口述」に対して、書き物とは、

 1.履歴が遺らない=情報がフローしてしまう
 2.その場に居合わせる人々に情報拡散範囲が限られる
 3.情報がフローしてしまうので、あとで検索・検証できない

 ということを特徴ともっています。

 要するに、ここまでをまとめると、少し話せば良いことでも、メールに人々がつい用いてしまうのは、

1.あらゆるコミュニケーションに履歴を残し、
2.ステークホルダーにそのメール内容を同報したうえで責任範囲を分散し、
3.あとで何かがあったときには、検証可能にして責任を回避、明瞭にしたい

 というメンタリティが存在しているのではないかという、ひとつの「妄想」が生まれます。

 先に述べましたように、口述の場合では、「履歴は遺りませんし、その場にいないステークホルダーにはどうしても情報のヌケが生まれ、かつ、情報がフローしてしまいます。

 要するに

 「言った言わないの水掛け論」

 が生まれやすいのです。

 少し話せばわかるのに、人々がメールをついつい用いてしまうのは、「言った言わないの水掛け論」を避け、かつ、責任者・関係者に同報しておくことで、何かあったばあいの責任を回避し、かつ、あとで自ら検証可能にしておきたいという気持ちがあるのではないかと推察します。
 もちろん、そうしたことを、組織側から要請されている部下の方々も、多々いるんでしょう。組織として、そうしたコミュニケーションをリスクヘッジの手段として採用するということです。

 かくして「CC爆弾」とよばれる状況が生まれます。
 「CC爆弾」とは筆者が著書「駆け出しマネジャーの成長論」の中で紹介した言葉で、「どんなメールであっても、マネジャーには部下のメールがCCされる状況」を描写する言葉です。それはあたかも「爆弾」のように降り注ぎ、情報洪水をマネジャーにもたらします。嗚呼。

 ▼

 今日は、少し話せばすぐに用事がすむのに、人が仕事でなぜメールを用いるのかについて考えてみました。もちろん、これはひとつの考え方(妄想)で、これ以外にも様々な可能性があるでしょう。
 また、メールは確かに「書き言葉上」様々な責任を回避することができますが、その書き言葉は、それぞれ読む人の自由な「解釈」に開かれています。だから、メールで同報し、責任を一端回避できたからといっても、それが「解釈の余地」に開かれている以上、トラブルは一定の確率で起こります。残念ながら、万能なコミュニケーション手段はありません。

 さて、すぐ近くにいる同僚に、今、メールを送ろうとしている皆さん。
 皆さんがメールを用いるのはなぜですか?

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 3月刊行されました「人事よ、ススメ!」ですが、おかげさまで、発売後約1ヶ月たっても、AMAZON「人事・労務」カテゴリー、「キャリアデザイン」カテゴリーで1位をいただいております。

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 こちらは、慶應丸の内シティキャンパスで僕が主宰している「ラーニングイノベーション論」の2年前の講義録で、第一線の人事研究者、実務家の方々をお招きしたリレー講義が収録されています。1冊で人事、人材開発の最先端の内容を知ることのできる本だと思いますので、ぜひ、どうかご一読いただけますと幸いです。

投稿者 jun : 2015年4月 7日 06:52


うちの会社では、今期から「部長部」をつくります!? : 「登山の研究」から「下山の研究」へ

 先だって、あるメディアの取材で、「中高年の人材育成 / 人材マネジメント」についてお話をさせていただきました。

 日本の、いわゆる伝統的な大企業では、「若手の育成」もさることながら、「中高年の人材育成 / 人材マネジメント」が、すでに「曲がり角」にきており、「膨らみ続ける人件費」と「先延ばしされる社会保障」のせめぎ合いの中で、こうした層の方々を、どのように処遇していくべきかが、ここ10年で問われることになる、というお話でした。

 すでにこの問題に手をうっている先進的な企業からすれば、「何をいまさらジロー的なお話」だとは思いますが、組織を「退出」するのではなく、そこに「滞留」しながら、ポジション/処遇ふくめて「キャリアの下降移動」をしなければならない状況をとらえた研究は、非常に数が限られています。

 このような社会動向を受けて、去年から、大学院中原研究室では、大学院生有志とともに、志ある企業の支援を受けて(名前やイニシャルさえここでは挙げることはできませんが、ご担当者のお二人には、心より感謝いたします)、「下山の研究」を開始している、というお話をしました。

 研究プロジェクトは、研究室の田中聡さん、保田江美さんが中心になり、新M1の斎藤光弘さん、辻和洋さん、中原で推進しています。まことにおつかれさまです。

  ▼

 ここでいう、「下山の研究」というのは、もちろん「メタファ」です。

 新人をどのように育成していけばいいのか?
 どのようにリーダーを育成するのか?

 といったような一連の研究を、「経験の浅い人がいかに何かを獲得していき、キャリアを上昇させていくか」という意味で「登山の研究」とするならば、「下山の研究」は、そのピークをすぎた方々が、いかに自分のキャリアを収束させ、生活に困らないポジションと待遇を維持し、安全に下山するか、という研究です。
 逆に、そうした「下山」をいかに経営側としては促していけばいいのか、どのような管理行動をとっていけばいいのかが、経営学的な関心事になります。

 よく知られているように、山登りで、怪我をするのは「登山」のときではなく「下山」のときが多いものです。
 
 山登りでは、安全に「下山」ができない状況のことを「遭難」といいます。「山登り」で人は「山を登ること」に心をとらわれがちですが、少し引いてみてみれば「遭難」せずに、「下山すること」も非常に大切なことです。

 かくして、「いかに下山をなすのか」という研究は、今後、10年ー20年の人材開発研究の裏テーマになっていくのではないかと、僕は思っています。一見、暗い?いぶし銀的なテーマなので、シンポジウムのメインテーマなどにはならないとは思いますが、この問題から目を背けることは、研究者としてはできません。

  ▼
 
 インタビューは、編集ご担当者の方々と時折議論をまじえながら、和やかに進みましたが、その中のひとりのTさんが、この問題に際して、ひとつ興味深い事例を示してくれました。

 ある企業では、「名ばかりの管理職である部長職」が増え、対して、若い「実務担当者」が少なくなり、職場が「部長だらけ」になってしまった。その状況は、いわば「部長部」をつくってしまえると揶揄されるくらいになっているのだいいます。
 いっそ、本当に「新部署」として「部長部」を作ってしまえばいいのに、というお話でした。

 これに関して、先だって、某所でお会いした、ある人事パーソンから、僕は、こんなお話も聞きました。

「うちの会社の従業員の平均年齢は40歳。おそらく40歳くらいでは部下はいません。職場全体の6割は管理職で、4割が実務担当者なんです。うちの会社は変わっていますかね?」

 平均年齢が上がることは、決して悪いことではないですし、両社ともに業績は悪くないと伺っているので問題はないのでしょうが、このような状況が、今後、好況/不況時のウェーブの中で、長く安定的に続くとは、僕には、あまり思えません。
 
 そのとき、経営として手をうつならば、どういう打ち手がありうるのか。そうしたとき、職場のマネジャーとしてはいかなる管理行動をとっていけばいいのか。
 今後は、大学院生の方々、ご協力いただいている企業のご担当者の方々とともに、データに基づいた実証的な探求を続けていきたいと感じています。

  ▼

 週の最初のブログ記事から、なぜか今週は「渋いテーマ」になりました(笑)

 僕自身は今年40歳。まだ自分のキャリア的には、「下山」にさしかかっているとは思えません。
 しかし、俗に「40歳は人生の正午」ともいいますし、もし「下山のこと」を考えるのであれば、本当に「キャリアのピーク」にさしかかる「前」だよな、とも思います。

 その意味では、「下山の研究」は、僕自身の近い将来の課題にもなりえるのかな、とも思っています。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2015年4月 6日 09:31


【拡散どうか御願いします】将来、大学の教壇に立ちたい大学院生に「教えるスキル」を教えるプログラム受講生募集中:東京大学フューチャーファカルティプログラム第5期受講生募集中!

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近い将来、大学の教壇に立ちたい大学院生に
  「教育実践力」を獲得してもらうための全学教育プログラム
  「東京大学フューチャーファカルティプログラム2015」
   3年目突入、第5期生募集中!

履歴書に書くことのできる「履修証」を大学より発行!
全学全研究科から集まる大学院生同士の仲間も出来る!
これまで200名弱の大学院学生に「教える知識・スキル」を伝えてきました。
大学院生(修士課程・博士博士)の皆様のご登録を、大歓迎いたします!

【シェア・拡散もご自由にどうぞよろしくお願いします】

■■東京大学フューチャーファカルティプログラム2015 第5期申し込み■■
http://www.todaifd.com/entry_open/

 東京大学では2年前から「近い将来、大学の教壇に立ちたい大学院学生に教えるための知識・スキル」を教える教育プログラム「東京大学フューチャーファカルティプログラム」を実施しています。計26時間のトレーニングのあと、履修証より交付し、大学院生のキャリアアップに役立ててもらえる全学教育プログラムです。

 東京大学フューチャーファカルティプログラムは、今年度、第5期50名を募集中です。こちらすでに応募を開始しており、すでに1クラス程度の人数が集まりました。どうぞご興味のおありの東京大学大学院の大学院生の方々は、お早めにお申し込みをお願いいたします。

  ▼

 現在、大学教員の公募の際には,模擬授業の実施や授業案,シラバスの提出など,教育実践力を問われることが年々増加しています。
 大学教員公募の申し込み書類に1科目分のシラバス提出が義務づけられたり、数名の教授陣の前で、模擬授業をしたりするなどのことが行われはじめているのです。
 なお、これらの教育実践力は、教育現場においてのみ通用するものではありません。研究においても,他者にわかりやすく伝える力が、プレゼンテーションする能力が求められています.その能力は、リサーチのプレゼンテーション等においても、活用できることでしょう。こうした力をつけるためのプログラムが「東京大学フューチャーファカルティプログラム」です。

 東京大学フューチャーファカルティプログラムでは,授業デザインや評価などを実際に数々のアクティブ・ラーニング手法を体験しながら学んでゆきます。下記には1分間ビデオがございますので、どうかご覧下さい。

 本プログラムはこれまで,ほぼ全ての研究科から参加者を集め,研究領域を超えた仲間とともに学べるので視野を広げるチャンスでもあります。

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 また、プログラム修了時には,公式の履修証が発行されますので,履歴書に書くことができます。
 下記は、かつての履修証交付式の様子です。吉見俊哉副学長・大総センター長から履修証が交付されています。

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 受講生からのアンケートの調査の結果は非常に高いものがあります。満足度等においても、9割以上の学生が本プログラムに高い評価をしています。

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 また,修了後もネットワークがあり,他大学での模擬授業実施の機会や,アラムナイを対象とした公募の情報の共有,興味関心に応じた勉強会の開催等,活発な活動が継続的に続けられています.

東京大学フューチャーファカルティプログラム2015 第5期申し込み
http://www.todaifd.com/entry_open/

 また東京大学フューチャーファカルティプログラムでは、「インタラクティブな授業、教育に熱意をもつ若手大学教員を採用なさりたい皆様方へのご案内ページ」をつくり、全国の大学から「教育実践力のある若手を採用したい採用情報」を非定期的に流しています。無事修了証を手にして、アラムナイネットワークに加入すれば、こちらの情報にもアクセスが可能です。

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東京大学:教育にパッションのある若手教員を採用したい方へのご案内ページ
http://www.todaifd.com/recruit/

  ▼

 本プログラムは,東京大学に在籍する大学院生(修士・博士ともに可能)ならばどなたでも受講できます.博士のときに研究が忙しくなるのでしたら、修士のときに履修してもかまいません。
 第5期の東京大学フューチャーファカルティプログラムは、木曜日クラスと金曜日クラスに分かれており駒場キャンパス、本郷キャンパスで実施いたします。木曜開講授業(駒場4・5限)、金曜開講授業(本郷3、4限)となります.

 募集締め切りは、4月9日(木)24時です。もう既に半数程度の方々登録を終えております。もしご関心のある方がいらっしゃいましたら、下記のエントリーフォームからどうぞよろしく御願いいたします。

■■東京大学フューチャーファカルティプログラム2015 第5期申し込み■■
http://www.todaifd.com/entry_open/

  そして人生は続く!

投稿者 jun : 2015年4月 2日 17:21


年を重ねて「裸の王様」になっちゃった!?を避ける工夫 : 「経験を重ねること」と「他者からのフィードバック」

 今、ヤフー株式会社執行役員の本間浩輔さんとともに、

 「現場マネジャーの抱える、ひとにまつわるディレンマ」
 
 にまつわるディレンマに関する本を書いています。
 光文社新書さんから出版させていただく予定で、編集担当は樋口さん、古谷さん、そして構成には、秋山基さんにご担当いただいております。ありがとうございます。

  ▼

 先だっては、この本の執筆のため、現場マネジャーの抱えるディレンマについて、僕のブログで、皆様からさまざまなご意見・事例を募集させていただきました。
 この無茶ぶり的御願いに関しましては、多くの方々から回答をいただき、心より感謝いたします。ありがとうございました。著書の中で、何とか、活かしていきたいと考えています。

「現場マネジャーの抱えるディレンマ」を絶賛募集中!:えーい、どないせーちゅうねん系悶絶ディレンマ、あなたの周りにございませんか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/01/post_2347.html

  ▼

 ところで、先だってのチームと研究室で打ち合わせをしていて、ひょんなことから、

「人は、どれだけ年や経験を重ねれば一人前で、他者からのフィードバックを必要としなくなるのか?」

 という話題になりました。

 かつては、管理職は「あがり」と見なされ、そこに至れば「一人前」。それから先は、「部下に対してフィードバックをすること」はあっても「フィードバックされること」は少なかったのではないかと想います。

 昨今は、この状況も、かなり改善され、360度評価など、様々なツール群が、こと大企業に関しては準備されていますが、「年を重ねれば、フィードバックから疎くなる」というのは、一般論として言い得ることなのかな、とも感じます。
 だからこそ、昨今の人材マネジメントでは、敢えて人工的にフィードバックループを準備しなければならないということになるのでしょう。

 それに対して、僕も本間さんも

 どれだけ年や年齢を重ねても、否、年を重ねるからこそ、他者からのフィードバックは不可欠だ

 という持論を持っています。
 僕の場合、かつて著した「職場学習論的な世界観」は、ワンセンテンスで申しますと、

 「人は、他者にひらかれて成長する」

 ということです。職場学習論に限らず、「人の成長は、個に完結できない」は、僕の研究のコアをなす信念かと想いました。

 本間さんは、

「あのタイガーウッズでさえも、コーチが必要なんですよ」

 とおっしゃっていました。
 曰く、この世界には、タイガーウッズよりも名プレイを為すコーチはいないんでしょうけれども、彼がどんなに能力が高かったとしても、コーチ、すなわち、他者からのフィードバックは必要であるということになります。

 そういえば、これに「ゆるく」関連したところですと、先だって拝見した糸井重里さんと宮沢りえさんの対談でも、似たようなことが述べられていたことを思い出しました。

 糸井さん・宮沢さん曰く、

糸井
クリント・イーストウッドは、
今でもプレゼンテーションしているんですよ。

宮沢
ああーー。

糸井
「こういう映画の企画があって、
 こういうキャストで、
 こういうスタッフを集められ、
 お金はこれくらいあります」
で、映画にしてOKかどうかっていうのは‥‥
オーディションなんですよ。
(下記より引用)

AERA×ほぼ日刊イトイ新聞「試練という栄養」第5回
http://www.1101.com/rie2014/2014-11-10.html

 クリント・イーストウッドが受けているのは、フィードバックではないのですけれども、あの名優ですら、試練が与えられ、そして「見るー見られる」の関係の中に、みずから投企されている、ということが、印象的でした。

 要するに、

 どんなに年を重ねても、熟達していても、他者からのフィードバックは必要である

 どんなに年を重ねても、熟達していても、他者にひらかれていなければならない

 逆にいうと、

「年を重ねたから、オレは王様だ!」とか「このポジションまで上り詰めたから、あとは好き勝手だ」というのは、非常に危険である、ということになるのでしょう。それは「裸の王様」への第一歩を歩み始めた証左かもしれません。

 ▼

 今日は、「年や経験を重ねることと他者からのフィードバック」についてお話をしました。
 年功序列の考え方の色濃く浸透している我が国では、年を重ねれば、「言いにくい状況」が生まれ、やがて「誰からもフィードバックを受けない期間」がつくられがちです。

 しかし、自戒をこめて申し上げますが、事態は逆で、年齢や経験を重ねたからこそ「フィードバック」を必要とする状況が生まれているのだと感じます。

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 拙編著「人事よ、ススメ!」がAMAZONの各種カテゴリーの1位を獲得したようです。ありがとうございました。人事・人材開発の最先端を、研究者・実践者がリレー講義する講座「ラーニングイノベーション論」を実況中継した内容です。ぜひご高覧いただけたとしたら幸いです。

 なお「ラーニングイノベーション論」は常に変わり続ける、人材開発の最高峰のカリキュラムをめざしています。
 今年のカリキュラムも、昨年、2年前とはかなり変わっていますが、先日、募集を開始しました。この13回で、人材開発の基礎基本を「最先端の話題」で学ぶことができます。

ラーニングイノベーション論 2015(慶應丸の内シティキャンパス)
http://www.keiomcc.com/program/lin/

 もしご興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、どうか受講をご検討いただけますようよろしくお願いいたします。
 募集はまだはじまったばかりなので、まだ「残席」がございますが、どうかお早めにご検討をお願いいたします。まずは話から聞いてみよう、ということでももちろん大丈夫です。どうぞよろしく御願いいたします。

投稿者 jun : 2015年4月 2日 06:33


新年度に想う:儀式とは「境界を創るメディア」である!?

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 新年度です。

 本郷キャンパスには、黒いスーツに身を包んだフレッシュマンらしき人々が行き交っています。
 これから専門学部で学ぶ人、大学につとめる人、様々な目的をもった方々が、キャンパスを歩いておられます。それぞれの門出、まことにめでたいことですね。

 僕の部門でも、今日は、これから同じ研究部門で働く同僚をお迎えし、辞令交付式を行います。これと同様のことは、数万人が暮らす、この大学のここあそこで行われていることでしょう。
 おそらくは、キャンパスの至る所で、様々な「儀式」が行われているものと思います。

   ▼

 儀式とは「境界をつくるメディア」です。

「昨日」と「今日」には本質的には、さして「差はない」のかもしれませんが、そこに明確な「境界」をもうけ、流れゆく時間を「分節化」します。
「ここまで」は「あちらの人」であった人が、「ここから」は「こちらの人」になります。先ほどまでは「あちら村の住人」であった人が、ここからは「そちら村の住人」になります。

 言い方は難しいですが、興味深いのは、「儀式そのものにおいて執り行われる行為自体」には、さして意味がないということです。

 たとえば、辞令交付に際してやりとりされるのは「紙切れ1枚」。もちろん、「紙切れ1枚」と申しましても、意味があるといえばあるのですが、でも、それ自体を交換する行為自体は、わずか5秒で終了します。あっという間です。

 儀式は、さして「意味のない象徴的行為」を通して、「境界」をつくります。
 そして、そこに「意味を見出していく」のは、境界によってわかたれた人々の「その後の行為である」ということになります。
 そういう意味で、「儀式」とは、その後の行為に開かれたメディアです。それは意味づけられることを、待っています。
 フレッシュな人々の奮闘を期待したいものです。

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 新年度、まことにめでたいものです。
 今日、車窓からは満開の桜が見えました。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年4月 1日 08:59