北の国から・・・シモヤケ、ビックカツ、チャラ度ゼロ

 散歩の途中、ほぼ15年ぶりに、自分の通っていた中学校をたずねてみました。自宅から歩いて20分くらいのところの距離なので、そんなに遠くはないのですが、卒業以来、足を向けることはありませんでした。

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 15年ぶりの中学校の外見は、ほとんど当時と変わりはないようです。白い石でできた校門は、ところどころカドが欠けていましたが、それ以外は、本当に、何もかもあの頃のままです。

 ただ、僕の記憶の中にあるグランド、中学校の校舎は、ものすごい広いイメージでしたが、実際にいってみると、「小さく感じる」のですよね。

 こんな狭いところで、僕は走ったり、飛んだり、勉強していたり、居眠りしたり、怒ったり、泣いたり、恋に落ちてコッパミジンコになっていたりしたんだ(泣)・・・と思うと、少し驚いてしまいます。

 いいえ、中学校に限らず、散歩をしていると、いろんな懐かしい場所を目にするのですが、何もかも、一回り小さく感じてしまうのはなぜでしょうか。まだ、僕のカラダが小さかったからなのかな・・・。

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 それにしても、中学校まで、20分と簡単にいいますが、これね、夏ならいいけどさ、冬は地獄です。

 なにせ、氷点下20度なんかザラですから、登校の途中で「行き倒れ」になって、春の雪解けとともに発見される・・・

 ってことはないんだけれども(笑)。よく、耳とかがシモヤケになっちゃうんですね。

 まぁ、言うなれば、ひとつの拷問です(笑)。というか、北海道の子どもたちならば、一度は体験しなければならないサバイバル・イニシエーションなのでしょう。登校途中でシモヤケを経験したことのない北海道の中学生は、はっきり言って、モグリだね。

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 中学校にいく道すがら、僕が毎日のように通ったスキー場もありました。こちらは、家から10分のところにあります。当時は、リフトが2機ありましたが、いまは、1つは取り壊されてしまったようです。

 僕は、このスキー場でスキーを覚えました。

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 申し訳ないのですが、内地の方々のスキーのやり方と、僕らのそれは根本的に異なります。僕らにとってスキーは、一年に一回のイベントではありません。それは、まさに「終わりなき日常」。

 あとチャラチャラしていません、僕らのスキーは。チャラ度ゼロです。女の子の存在ゼロです。「わたしをスキーに連れてって(古い!)」のような心ときめくことは、皆無です。むしろ、「わたしにスキー以外のことをさせて」という感じです。

 毎日のように通い、一日にリフトに50回、60回とか乗って、ひたすら滑るのです。コブやジャンプ台、アルペンコースを自分たちでつくり、自分たちで記録をつくるのです。本当に禁欲的にワザを極める。

 僕にとって、スキーは、そういうものでした。というか、冬は雪に閉ざされて、車にも乗れない子どもは、それくらいしかやることがなかったのですね。

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 学校の帰り道、よく買い食いをしていた商店も、まだ健在でした。考えてみれば、「買い食い」とは変な言葉ですね。買って食うのはアタリマエです(笑)、なぜ買い食いというのでしょうね。

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 当時、登下校途中の「買い食い」は、学校で禁止されており、多少の後ろめたさをもちつつ、店にはいったものです。

 ここで、僕はよく、ガリガリ君とか、パンとか、買って食べていました。一番のお気に入りは、駄菓子の「ビックカツ」でした。「ビックカツ」ってご存じですか? 反対側が透けて見えてしまうような「薄い肉」が、申し訳なさそう程度に入っている駄菓子です。

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 今から考えれば、何がうまくて、それを食っていたのか、理由が全くわかりません。でも、よく買っていました・・・お腹をすかせて。

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 散歩をすれば、当時の記憶がよみがえってきます。よみがえってくるけれど、肝心なところは、すべてぼんやりと曖昧になっている、それでいて懐かしい記憶。

 確かに、15年前、僕はここにいました。
 明日も散歩に行ってみましょう。

投稿者 jun : 2006年4月30日 21:17


北の国から:こんなに広かったか?

 北海道旭川の実家に帰省しています。

 今、朝の6時。そちらは何時ですか? おっと、時差はないんだった(笑)。ロシア領じゃないんだから。

 ただ、気温はかなり寒い。今、2度くらいです。おいおい、1桁かよ。きっと東京都は20度近く違うんだろうね・・・やっぱり違う国だよ。

 まだ雪が、ところどころ残っていましたよ。

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 飛行機を降りて、実家に向かいます。
 いやー、広いねー。何もかもが広く感じます。まず道幅が広い。無用に広いね。

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 さらに空間の使い方がリッチです。
 ちょっと実家にいく前、日本料理レストラン(大雪の蔵という、日本酒蔵元のやっているレストランです)にはいったのですが、そこの庭があまりに広く、びっくりしました。建物よりも、庭の方が広いです。

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 スペースがあまりに不足している大学の本郷キャンパスに暮らしていると、変な癖が身に付きます。
 ちょっと空いた土地を見つけると、「ムムム、このスペースはもったいない。まだ建物が立てられる・・・まだまだ研究室ができるぞ!」と思ってしまうのですね(笑)。

 あまりに広大な土地を見ていると、そんな自分の卑しい思考(笑)を恥じました。
 昔、12年前までは、旭川を、広くなんて感じたことすらなかったのにね。北海道に住んでいる人が、誰も気にとめないことを、今の僕は、「北海道的だなぁ」と思ってしまうのですね。12年の年月は、そういう認識を育てるのに十分な長さだったのかもしれません。

 今日はこれから散歩に行こうと思います。
 ちょっと寒いんだけどね・・・まぁ、気持ちがよいので。

投稿者 jun : 2006年4月30日 07:03


医龍

 先日、テレビドラマ「医龍」を見た。

 「医龍」は、朝田という型破りな天才外科医と、彼を利用してバチスタ手術の論文を書き、教授になりあがろうとする女性助教授の物語。
 
 もともとは、小学館ビッグコミックスペリオールで連載されている漫画である。今回のクールから、フジテレビのドラマとしてリメイクされた。僕はあるプレゼンをつくるときのネタ探しで、マンガの方を既に読んでいた。

医龍
http://wwwz.fujitv.co.jp/iryu/index2.html

 医龍で描かれている「型破りな天才外科医」というキャラクターといい、「医学部の教授選」というコンテキストといい、この手の医学系マンガ、医学系ドラマでは多用されているものであり、それモチーフ自体には、新しさは薄いように思う。

 しかし、よくあるマンガやドラマが、「難手術の達成」を「外科医個人の資質や才能に還元しすぎてしまうきらいがある」のに対し、医龍では、それを「チームの共同作業」に求める傾向がある。
 物語は、朝田が医大付属病院に赴任し、難手術を達成するチームをさがすところから描かれている。内科医、麻酔医・・・様々な専門性をもった、その道の「優秀な鼻つまみ者たち」が、集まって、共同作業に取り組む。そこが、僕としてはオモシロイ。

 また、医龍では、「医局の論理に染まっていない研修医」が朝田のもとで徒弟的に学ぶことで、医局の誰よりも的確な処置が行えるようになっていくプロセスが描かれている。ここも、大変興味深い。熟達化研究ではないけれど、「誰もが最初は初心者だった」のである。

 個人的にはテレビドラマよりも、マンガの方がおすすめである。が、テンポの早いドラマの方が好きという人もいるかもしれない。

    

 医龍を見ていても、学習研究のことをつい考えてしまう。
 共同作業研究には、空港の管制官とか、艦船の航行とかがあったけど、手術室の共同作業プロセスとかの研究はあるんだろうか・・・とか。そうだ、熟達化研究に、X線読影の話があったなぁ・・・とか。

 ユビキタスラーニングとかいう言葉が注目される以前からも、そもそも学習は「ユビキタス」である。そして、そうであるが故に、学習研究のネタも、空港であろうが、艦船であろうが、手術室であろうが、「ユビキタス」に転がっている。

※中原は本日より5月8日までバケーションです。メール等へのレスは非常に遅くなりますので(あるいは日によっては全くできなくなります)、ご了承ください。みなさんもすてきな休日をお過ごし下さい!

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投稿者 jun : 2006年4月29日 06:20


政治

 政治的に振る舞う、交渉がうまいとはどういうことでしょうか。一般には「声のでかい人」「まくしたてる人」「熱意あふれる人」を、そう呼ぶのではないでしょうか。でも、僕は、どうも違うように思うのです。

 たとえば譲歩する・・・つまりは「折れる」。
 「折れる」ということは、一般に後ろ向きな行為と見られます。が、「折れること」は、そのまま「負けること」ではありません。「折れる」ことで不本意な妥協点に甘んじてしまう場合もある。が、いったんは「折れる」ことで、長期的視野にたって、よりよい条件をひきだせる場合もある。

 たとえば「謝る」。これも、同じです。
 「謝る」ということは「負ける」ということを意味しません。「謝る」ことで自尊心が傷つけられ、ダメになる人もいますが、「謝ることで闘う人もいる」。

 いったん後ろ向きに見える行為の奥底で、密かな闘志を燃やす。そういうアンビバレントさの中に生まれるやりとりが、政治的なやりとりだと思うのです。
 
 テレビをつけて、ニュースにでてくる政治家を見る。本当に政治のうまい人は、「政治的な人」には見えないものですし、「交渉の手腕が長けている」ようには見えないのではないか、とつい思ってしまいます。

 一見して、「政治的に見える人」は、あまり恐れることはないのかも。
 「政治的に見えない人で、政治的な人」にあったときこそ、ムムム、おぬし、と思います。

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投稿者 jun : 2006年4月29日 06:15


コーヒー、サラダ、ベーグル

 アメリカにどうしても勝てないものが、日本にあるとすれば、それはコーヒー、サラダ、ベーグルの3点だと僕は思う(他にももっとある!とか、オレはそう思わない!、とか青筋立てて怒らないでね・・・あくまでも僕の感想)。

 まずコーヒー。これはアメリカの方が圧倒的に種類が多い。様々な種類のフレーバーコーヒーが、ふつうのスーパーに売っており、またコーヒー豆の種類も本当に多い。

 もちろん、「コルァ、誰が白湯注文したー!と「ちゃぶ台をひっくりかえしたくなる」ような「うすうすのアメリカン」もある。

 しかし、アメリカの場合、どちらかというと、ハズレるときは大きくはずれるが、平均的にコーヒーは本当においしい率が高い気がする。それと比べると、日本は、平均的に特徴のないコーヒーをサーブする店が多いような気がする。というわけで、僕のメンタリティとしては、アメリカに軍配をあげたくなる。

 次にサラダ。これは、コーヒーよりは差が開いている。サラダを主食に食べる国と、付け合わせのひとつくらいの位置づけしかない国では、さすがに気合いが違う。

 個人的に、サラダのうまさは、パリッとかカリッという触感と、みずみずしい触感が、混じり合うことにあると思う。
 アメリカ人は、ここをよく心得ていて、何ともいえないハーモニーをつくる。それに比べると、日本のサラダは貧弱だ。ハーモニー以前の問題で、野菜が「申し訳なさそうにしんなりとしている」ことも少なくない。僕のような「イカサマベジタリアン」は、この国では、かなりツライ。

 最後にベーグル。これは天と地くらいの差があるだろう。日本での「おいしいベーグル」は、アメリカではフツーにスーパーで売っているものに近いと思う。表面がカリッとしていて、モチモチしているベーグル・・・そういうベーグルに僕は日本で出会ったことはない。

 今日は、たまたまアメリカ礼賛の日であった。しかし、僕は、むしろいつもは逆の人間である。むしろ、かなり日本が好きである。

 しかし、今日は、たまたまお昼に「コーヒー、サラダ、ベーグル」の3点セットを食べた。で、アメリカにいた頃が、とても懐かしくなった。

 がんばれ、日本の喫茶店! 

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投稿者 jun : 2006年4月28日 20:29


グローバル化する大学

 アルクの企画で「東大よりハーバードへ行こう」というものがある。ハーバードをはじめとする海外大学に留学したい方々がblogでそのプロセスをつづる、という企画。実際に見事合格を果たした方もいた!おめでとうございます。

東大よりハーバードへ行こう
http://morita.alc.co.jp/motoyama/

 本の方も拝見させて頂いたが、「東大の教育情報化プロジェクト」に従事する人間としては、耳の痛い話も多い。

 よいことか悪いことか知らぬが、高等教育のグローバル化は、今後確実に進んでいく。海外大学大学院に決して負けない教育環境を実現しなければならない、と思う。昨日も学生さんから、ある問題についてリクエストを受けた・・・ちょっと待ってね・・・。

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 この企画、立ち上げたのは知り合いの森田君(久しくお逢いしていないが、元気そうだな)。

 それにしても、「東大よりハーバードへ行こう」というネーミングはやめなさい(笑)。アンタも東大生だろ(笑)。

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投稿者 jun : 2006年4月28日 07:37


北大路魯山人

 先日、平野雅章著「魯山人 もてなしの神髄」を読みました。もてなし(ホスピタリティ)という言葉に興味をもって。

 下記は印象的だった言葉。

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 魯山人は新鮮でよい素材を手に入れるためには金と労力を惜しまなかった。
 いわく、「料理は素材が八、料理人の腕が二、素材がよければ、すでに料理は完成したも同然だ」

 (中略)

 「素材を生かし切るためには素材の声を聞かなければならない。いまの時季は自分を食べてくれ、と素材が叫んでる。それに耳を傾けろ」

 これが魯山人の第一の料理の信条なのである。

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 素材が叫んでる! ステキな言葉ですね。きっと、その素材の叫びは、聞こえる料理人と聞こえない人がいるんでしょうね。

 声なき声を聞け!

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投稿者 jun : 2006年4月27日 17:40


授業研究と談話分析

 放送大学の授業で「授業研究と談話分析('06)」というのがあるようです。さっき見つけてしまいました!

授業研究と談話分析('06)
http://www.u-air.ac.jp/hp/kamoku/kyouyou/hattatu/s_1511300.html

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授業は児童期・青年期における教育と学習の場の中心である。授業をどのように研究し分析できるのかを近年の教育心理学や学習科学の視点を中心にして明らかにすることによって、共同の中で学ぶ過程、授業をデザインする過程について考えていく

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 だそうです。シラバスを拝見したら、大変オモシロそうですね。

 早速、Amazonで購入しようと思ったのですが、まだ売っていないみたいです。セブンイレブンしかないんですね。

セブンイレブンで購入
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=31672684

 大学生協にいったらあるかな?
 帰りによってみようかな・・・。

それにしても、学習科学とかの観点からすると、放送大学の授業は充実していますね!たぶん、ひとつの大学で、一番関連科目数が多いのではないでしょうか yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月27日 12:35


「領域横断的」

 見田宗介先生の「社会学入門」を読みました。

 その中でとても印象的だった箇所を、ちょっと長いのだけれども、下記に引用します。

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 社会学は<越境する知>とよばれたきたように、その学の初心において、社会現象のこういう様々な側面を、横断的に踏破し統合する学問として成立しました。

(中略)

 マックスウェーバー、デュルケーム、マルクスのような「古典的」な社会学者をはじめ、フロム、リースマン、パーソンズ、アドルノ、バタイユ、サルトル、レヴィ=ストロース、フーコーといった、現在の社会学の若い研究者たちが魅力を感じて読んでいる主要な著者たちは、すべて複数の ー 経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学、等々の ー 領域を横断する知性たちです。

 けれども重要なことは「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとってほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。

(中略)

 近代の知のシステムは、専門分化主義ですから、あちこちに「立ち入り禁止」の札がたっています。「それは○○学のテーマではないよ。そういうことをやりたいのなら、他にいきなさい」「××学の専門家でもない人間が余計な口出しをするな」等々。学問の立ち入り禁止の立て札が至る所に立てられている。

 しかし、この立ち入り禁止の立て札の前でとまってしまうと、現代社会の大切な問題は解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルアな問題をどこまでも追求しようとする人間は、やむにやまれず境界を突破するのです。

 「領域横断的」であること、「越境する知」であることを、それ自体として目的としたり、誇示したりすることは、つまらないこと、やってはいけないことなのです。

(見田宗介(2006) 社会学入門 - 人間と社会の未来. 岩波書店, 東京 pp7-8より引用)

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 なるほど。

 ちょっと前のことになりますが、ある所である方と「学習に対する研究アプローチ」について議論することがあって、それはなんとなく自分の中で附におちない議論だったのですが、そこで生じた、自分のわだかまりみたいなものが、スッと解けた気がしました。

 どんな問題であったか。

 学習という現象に対して、心理学っぽく切り込んだり、状況論のように社会学や人類学っぽく切り込んだり、研究者によってアプローチの仕方が違う。で、最近は、脳科学、神経科学のアプローチが流行っている。で、これは「ありなのか」? やれ血流が何とかという話で、学習という複雑な現象がわかるのか?

 という問題を投げかけられたわけです。

 僕は即座に、ですが自信をもって「大ありだ」と答えました。その答えは今も変わりません。僕自身がそういう研究に着手しているわけではありませんが、学習科学の一分野には脳科学アプローチがありますし、その中には非常に興味深い知見があります(アタリマエですが知見の有用性は研究によります)。それをなぜタブー視するのかがわからなかった。

 ですが、このときの、この問いの立てられ方「ありなのか?」と、僕の答え方「大ありだ」に違和感があったのです。で、この違和感の所在が、なんとなくわかった気がした。

 「社会学入門」における見田先生の指摘は、社会学についてでした。学習や教育を研究する世界にも、いろんな「立て札」があるようです。

GW前・・・本当に忙しいですね yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月27日 06:19


オススメの・・・

 先日、ある学生さんから、学習科学は、どのようなもので学べばよいのですか?と聞かれました。

 ちょっと調べればいろいろあるのに・・・。
とりあえず、下記のようなものをオススメいたしました。ちょうど、ブックリストをつくっていたときだったのです。これらは、放送大学のテキスト教材なので、自学自習で学びやすいと思います。

稲垣 佳世子・鈴木宏昭・亀田達也(2002) 認知過程研究―知識の獲得とその利用. 放送大学教育振興会, 東京
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4595133480/nakaharalabne-22

三宅なほみ・白水始(2004) 学習科学とテクノロジ. 放送大学出版振興会, 東京
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4595236182/nakaharalabne-22

波多野誼余夫・大浦容子・大島純(2004) 学習科学. 放送大学教育振興会, 東京
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4595237189/nakaharalabne-22

波多野誼余夫・永野重史・大浦容子(2002) 教授学習過程論. 放送大学教育振興会, 東京
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4595133499/nakaharalabne-22

 あと、ちょっと余力があるなら、こんな本もあります。「How people learn」の実践版といった感じで、おすすめです。

 前にこのwebページでもアナウンスしたとおり、こんなのもでていますよ。

少し疲れました・・・ yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月26日 11:14


そうだ、寿司屋に行こう!

 最近、雑誌などで鮨特集が多いですね。

 下記は、近いうちに行ってみたいと思っている寿司屋さん。中には「おまかせ」で3万円を超えるものも。そんなとこいったら、1週間、「塩食ってなアカンわ」。ランチにいくべし・・・それでも高いか?

 行ったことのある方は、感想を教えて下さい。

<銀座ハイエンド系>
鮨さわ田(夜3万、ランチあり)
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13001043/

■すし青木(ランチあり・昼の握り3150円・夜20000円)
http://nikkei.hi-ho.ne.jp/selectrestaurant/kishoku/aoki.html

久兵衛(ランチ8000円)
http://gourmet.yahoo.co.jp/0000612915/M0013000985/

新富寿司(ランチ2625円・池波正太郎の愛した寿司屋・夜1万)
http://www.ginza.jp/shintomi/

すきやばし次郎(夜25000円・さっと鮨系・夜のみ)
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13002260/

銀座天川(ランチ3675円)
http://www.ginza-tenkawa.sakura.ne.jp/index.html

菊鮨(内幸町・ランチ1200円・夜10000円・土日祝休)
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%94%B0%E5%8C%BA%E5%86%85%E5%B9%B8%E7%94%BA1-1-7

鮨若竹 ホテル西洋銀座店(ランチ3675円・夜15000円)
http://www.seiyo-ginza.co.jp/restaurant/takewaka/

http://www.elle.co.jp/atable/data/rguide/show.php?id=231鮨かねさか(ランチ3150円・夜18000円)
http://www.elle.co.jp/atable/data/rguide/show.php?id=231

<お酒が飲める>
鮨の与志喜(夜のみ12000円・酒を飲める寿司屋)
http://r.gnavi.co.jp/g146800/

ぎんざ賀久(夜のみ13000円・酒を飲める寿司屋)
http://r.gnavi.co.jp/g154600/

銀座 鰤門(ランチ2940円)
http://r.gnavi.co.jp/g729101/

すし喜八(土日祝休み・利き酒コース・昼1200円・夜4000円)
http://www.sushi-kihachi.com/

<新世代銀座>
築地寿司清(夜8000円おまかせ・昼2675円、いわゆる新世代銀座の寿司屋)
http://www.tsukijisushisay.co.jp/

はこだて鮨金(夜7000円おまかせ・いわゆる新世代銀座の寿司屋)
http://www.clever.co.jp/susikin-ginza/

すしやの助六3丁目店(昼3000円)
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA%E9%8A%80%E5%BA%A73-13-4

<大学から近い>
寿司花(巣鴨・夜1人前2500円・月曜休・夜のみ)
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13021024/

■多津美鮨(1人前1700円・ランチあり・月曜休)
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%87%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E5%B0%8F%E7%9F%B3%E5%B7%9D1%EF%BC%8D3%EF%BC%8D10

神田笹鮨(ランチあり・おまかせ8000円)
http://www.sasazushi.com/index.html

櫻寿司(夜のみ・おまかせ5000円・水曜休)
http://www.sugamomap.com/contents/sakurasusi.html


<中原がたまにおじゃまする寿司屋さん>
■蛇の健寿司(夜のみ)
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%8C%BA%E9%81%93%E7%8E%84%E5%9D%821-20-4

■まさひろ寿司(ランチあり)
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%96%87%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E6%9C%AC%E9%A7%92%E8%BE%BC6-5-1

<その他>

龍寿司(築地場内・ランチ2100円・日祝築地休日日休・6:30-14:30)
http://gourmet.yahoo.co.jp/0000618917/M0013000433/

大和寿司(日祝水休み・5:30-13:00・築地場内)
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006710805/M0013000430/

おけい寿司(八重洲口・土日祝休み・ランチあり・夜8000円)
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13000498/

鮨処 平河(ランチ1000円・千代田区平河)
http://www.leport.jp/restaurant/hirakawa/index.html

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ランチいきてーな・・・でも、とても時間ないよなぁ。 yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月25日 21:36


多津美鮨:文京区小石川

 善は急げ!
 逃がした魚は泳いでる!

 というわけで、早速行って参りました、多津美鮨。相変わらず、生き急いでいます。でも、大学から歩いて近いんだよね、15分くらいさ、ブラブラと、ブラブラとね。

多津美鮨
文京区小石川1-3-10
03-3811-2559
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%87%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E5%B0%8F%E7%9F%B3%E5%B7%9D1%EF%BC%8D3%EF%BC%8D10

 店のたたずまいは、大変レトロな感じですが、おいしゅうございました。さすがは、岸朝子さんがよく行かれるお店だけはあるな、という感じです。

tatsumi.jpg

 白身はシャリとの組み合わせがいうことなしです。甘エビは大変甘い。赤貝は身がしゃっきりしておりました。玉子がいいねぇ。あと、ネギトロはなめらかです。あっというまの8カンでした。これで1700円。みそ汁は100円です。

 ここはかなりオススメです。
 
それにしても、オレ、鮨ばっかり食ってるなぁ・・・カラダが酢っぽくなるぞ、きっと yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月25日 19:37


貧乏寿司好き

 最近、寿司屋のお話が多いのですが(仕事してんのか?・・・してます、腐るほど)、先日、ある人と話していたら、「寿司屋は高いよな・・・」という話題になりました。

 確かに安くはない!
 そこで「えっ安いんじゃない?」といっちゃうほど、高給取りじゃありません、むしろ「貧乏暇なし」です。ちょっと食べれば、まぁ、5000円くらいにはすぐになってしまいますね。そりゃ、居酒屋と比べれば高い感じがするのは否めません。

 でもね、安くはないけど、高くなっちゃうのは注文の仕方にも問題があると思うんです。時給1億円みたいな大金持ちは、気にしなくていいんだろうけど、僕みたいな「貧乏寿司好き(最悪だな・・・家庭をつぶすぞ、今に)」は、注文の仕方を気をつけなきゃならないのですね。

 まず一番やっちゃいけないのは、おまかせで「トロ責め」というヤツです。
 トロは一カン2500円くらいするからね・・・高いとこだと3000円はします。あのね、1人前じゃないからね、1カンですよ、1カン。これがおいしいからといって、2カンも3カンも頼んでいたら、もういっきに万札がとびます。
 むしろ、牛のように反芻するべきですね、トロ食うときは。反芻しろ、反芻。

 でも、ちょっと前になりますが、ある寿司屋のオカミサンが「トロはわたしたちも赤字でお出ししているんです」と泣いておりました。仕入れ値が、あまりにも高くて、でも、その値段をすべてお客さんに転嫁するわけにもいかないので、結局、赤字になっちゃうそうです。握れば握るほど、赤字なんだって。

 でさー、これさえ守れば、結構、リーゾナブルに食べられると思うんだけどね、寿司屋でも。トロを食べなくても、今の時期なら、サヨリとかさ、ニハマとか、安くておいしいと思います。

 「貧乏寿司好き」は、欲望のままに食ってちゃダメなのよ。
 いろいろ考えなアカンわけだ、アタマ休まる暇ないね

僕はあまりトロが好きじゃないんで、かなりエコノミーに食べることができますが・・・ yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月25日 14:00


東京大学で国際会議!:ご投稿しませんか?

 本年、実は、第7回APRU DLI 2006(Asia Pacific Rim Universities Distance Learning and the Internet 2006)という国際会議が、11月8日-10日の3日間、東京大学本郷キャンパス内弥生講堂にて開催されます。

APRU DLI2006
http://apru2006.dir.u-tokyo.ac.jp/

APRU DLI 2006は、2000年の第1回から数えて7回目にあたり、遠隔教育、eラーニング、教育支援関連技術に関わる、世界中の教育界、産業界および政府機関から専門家が集まり発表、意見交換を行う恰好の場を提供するものです。

論文は査読つき!
投稿ガイドラインは下記のようになります。〆切は6月1日までですので、ふるってご投稿いただければ幸いです。

投稿者 jun : 2006年4月25日 12:37


教育ビジネス特殊講義

 将来的にぜひ機会があったらやってみたい授業に「教育ビジネス特殊講義」というのがある。いくつかの民間教育会社の人たちにゲストとして来てもらい、そのビジネスモデルを語り、議論する講義である。

 アタリマエの話だが、「学校」だけが教育の担い手ではない。民間でも、年間莫大な金額が教育に費やされている。

 しかし、これまで教育はビジネスとは無縁の、いわば聖性を帯びた営みとして把握され、それについて語るものは多くはなかったように思われる。少なくとも大学の授業科目として、それが教えられたことは、あまりなかったのではないだろうか。

 塾、教材会社、通信教育会社、教育ソフトウェア開発会社、人材育成会社・・・様々な教育ビジネスが存在しているものの、そのビジネスモデルについて教えている事例は、そう多いわけではない

 「教育ビジネス特殊講義」・・・オモシロイと思うんだが、いかがだろうか。
 講義の最後の課題には、学生自ら新しい教育事業を提案するというのがいいのかな、勝手に想像を膨らませる。願わくば、教育ビジネスを推進する方々に、そのフィージビリティを採点して評価とするのがよいかもしれない。

 近い将来に是非やってみたい。
 学校だけが教育変革の担い手ではない。
 それは広く民間に開かれている。

この講義をするためには、僕もかなり勉強せなアカンなぁ・・・ yajirushi.gif yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月25日 06:30


小学校の英語必修!

 「小学校における英語教育の必修化」が政策課題になっている。導入賛成論者の意見もわかるし、反対論者の気持ちもわかる。だけれども、全般的に見れば、導入の方向に動くのではないかと、邪推したくなってしまう。

 昨今の教育改革論議は多くがそのパターンである。
「なぜ改革を行わなねばならぬのか」を考えるよりも、「とにかく改革を行うべきだ」という議論の方が、常にパワーをもっている。すでに国民に知らされたときには、おおよその方向性は決まっているのではないか、と思われる。

 ただ、「英語教育を小学校で必修化する」と主張することと、「どのように必修化するのかということ」のあいだには乖離がある。だいたい、誰が、どのように教えるのだろうか・・・。ALTを大量に雇用する、という回答は、あまりにナイーブすぎる。

 彼らは、英語を喋れることができたとしても、教えることは難しいのではないだろうか。街を闊歩する日本人は皆一様に日本語を話せる。しかし、日本語を教えられる人は、そう多くない。それと同じである。

 どこかひとつの学校にありったけの資金と人的リソースを投下して、モデルスクールをつくることと、「必修」というのは、違う。

 それは甘い世界ではない。

皆さんは、どう思いますか?必修賛成?それとも反対 yajirushi.gif yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月25日 00:18


ミスタードーナツの思い出

 突然ですが!、ミスドのドーナツって、小さくなった気がしませんか? そう思うの、僕だけ?

 実は、昨日、家の近くにある大型ショッピングモールにでかけたんです。ものすごく大きなモールで、中にはフードコートがあるんですね。

 僕は、あまりジャンキーなものは食べないのですが、カミサンが「インドカレーが食べたい」とゴネルので、でかけたわけです。

 フードコートは親子連れで埋め尽くされていました。本当にスゴイ人だよねー。あっちでも、こっちでも、子どもの泣き声が聞こえたわな。夫婦だけで来ているのは、僕らくらいなもので、「水あたり」ならぬ「ガキあたり」しちゃいましたけど・・・。

 まぁ、それはどうでもいいとして、ふと隣の子どもを見ると、ミスドのドーナツを食べているではありませんか。うまそうに食うんだな、こいつが。

 で、思わず「最後に食べたの、いつかなぁ」と振り返っちゃった・・・・小学生の頃は、よく親が仕事の帰りに買ってきてくれたなぁ・・・とか、高校時代は、よく学校帰りに寄って、コーヒー一杯で3時間はねばっていたなぁ・・・とかさ、そういうこと思いだしちゃったわけよ。

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 久しぶりに見るドーナツたち。エンゼルクリームとか、オールドファッションとか、定番はありました。

 ただ、僕が昔から好きだったドーナツ - たとえばハニーチュロとか、なんていうんだっけ、シナモンにハチミツがかかったやつ・・・とかはなかったですね。種類は少なくなったのかな。

 でもさ、何より一番気になって仕方がなかったのはさ、、なんかドーナツが小さくなった気がするんだよねぇ・・・。昔は、もっとドカーンとデカクなかったか。こう思うのは僕だけでしょうか?

 でも、これ自信ないんだよなぁ。ほら、幼い頃って、何でも大きく見えるからね。
 小学校1年生の頃は、小学校6年生なんかが大人に見えるものじゃないですか。うわっ、でけーよみたいな。だから、ドーナツも大きく見えたのかな・・・って思うんです。

 本当のところは、どうなんでしょうか。
 ずっと行っている人なら、わかるのかな。

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 それにしても、今はどうだか知らないけど、昔のミスドのコピーって格好良かったよねぇ。

 「アメリカがアメリカだった頃のアメリカがある」

 っていうヤツです。

 あとオマケもさ。下のなんか、思い出すけどね。遊んだなぁ、このシャボン玉づくり器で。

シャボン玉づくり器
http://www.misterdonut.jp/museum/1986/images/mug86070.jpg

 これがオマケで配布されていたのは1986年。僕は小学校5年生だ。
 遠い昔の話です。

あなたのミスドの思い出は? yajirushi.gif yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月24日 15:00


研究者版「人生ゲーム」!:あなたは何型研究者?

 有象無象のアカデミックな世界で、いかにサバイブするか?

 「研究者の世界」でちょっと話題になっているボードゲームに「Happy Academic Life 2006」がある。

研究人生を楽しむ会
http://academiclife.jp/

「Happy Academic Life 2006」は人工知能学会が真面目に作成したゲームで、「研究者のキャリアを体験できる」のだという。

 「アカデミックワールドのサバイブ戦略」は研究者にとって最大のテーマであろう。しかし、これは大学院では教えてくれない。自分で戦略をたてて自分で考えるしかない。

 特に、若手研究者にとっては、自分のキャリアをデザインする機会になる。また年配の研究者にとっても、自分がこれまでたどったキャリアを見直す機会になるのではないだろうか。

 僕自身はまだトライしたことはないのだが、なにやら、マスメディアに掲載された記事を見ていると、相当オモシロそうである。「悠々自適型」「業績量産型」「学術栄誉型」 「教育者型」 「文化人型」「学内政治型」というキャリアの選択があるらしい。

IT MEDIA
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0604/20/news073.html

 さっそく、担当者の方には、もし入手出来るようであれば、情報をいただきたいとメールをおくった。

 それにしても、このゲームの開発は、人工知能学会の20周年記念事業「AI若手研究者のためのキャリアデザイン能力育成事業:幸福な研究人生に至る道」において、実施された。このような企画を通してしまうところに、人工知能学会の懐の深さを感じる。

 素晴らしい! こういう遊び心を発揮出来るっていうのは、学会が元気な印なのではないかと推察する。

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 悠々自適型、業績量産型、学術栄誉型、教育者型、文化人型、学内政治型・・・。

僕は何型なんだろう?・・・あなたは何型の研究者? yajirushi.gif yajirushi.gif ranking.gif 今日も応援1クリックをお願いします bikkuri.gif bikkuri.gif

投稿者 jun : 2006年4月24日 08:08


あなたは常識人?

 本日の朝日新聞朝刊によると、「常識力検定」というのが、最近流行っているそうですね。さっそく僕もチャレンジしてみることにしました。

日本常識力検定
http://www.josikiryoku.com/

オンライン診断テスト
http://www.josikiryoku.com/online_test/test.cgi

 結果は・・・「60点 ランクC」。やべー、結構間違えてんなー。常識あんだか、ないんだかわかんないけど。

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 でも、これ、よーく考えてみると、「フツーのクイズ」と何が違うんだろうか?

 診断テストをやった段階では、いったい、僕の「何」が測定されているのかわかりませんでした。
 案内を見ますと、常識とは、「人間が相互理解をするための共通認識である知識や表現」ということになるのでしょう。
 てことは、問題をつくるときには、ここで問われている知識が人間にとっての共通知識とみなしうる、セオリー、あるいは、判断基準があるということになるのでしょうね。たとえば、常識とは、どういう知識ドメインで構成されている・・・みたいな定義が。
 ・・・まぁ、いいけど・・・。

 最近は、社員教育とかで松下でも取り入れられているそうです。

 それにしても、ウマイですね。「最近の若い者は・・・ケシカラン、常識がない!」ってのは、紀元前の人たちから、ずーっと言われていたわけですから、とってもネーミングがキャッチーだ。誰にでも非常にわかりやすい。

 また、言うまでもなく「検定ビジネス」は、教育業界の中で、もっとも安定した収益をかせぐことのできるビジネスモデルのひとつです。

 1) お金をはらって受験してもらえる、2) 受験するためには問題集にチャレンジしなければならないから、出版でも儲けることができる。3)教材開発とか、ソフトウェア開発みたいに莫大な資金は必要ない。4) ブランド化に成功すれば営業努力がそれほど必要ない。5) 教材とかに比べて、在庫を抱えることがそれほどない(テストは申し込みがあってから印刷したっていい)。6) 売っているのは問題という「知財」であり、いったんデータベースにいれてしまえば、くり返し使え、失われることがない。

 さらに、ライセンス更新方式にして、資格取得後も何年に何回かは受験しなければならない、という風にルールを定めることができれば、無敵でしょう。安定した収益になります。

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 それにしても、僕は常識がない方なのかな? 平均点と偏差がないとわからないですね・・・。みなさん、ぜひ、チャレンジしてみて下さい。

昨日は結局ジムの日でした・・・ちょっとカラダが重いので、また今日も行って来ます! 今日も1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月23日 08:41


今日は散歩の日か、ジムの日か?

 今日は天気がよいですね。
 こんな日は、「ジムの日」にするか「散歩の日」にするか、とても悩みます。

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 散歩の日であるならば、朝地図を眺め、「今日はどこを歩こうか」と考え始めます。

「おぉ、そうそう、アールグレイが切れていた・・・松坂屋に買いにいかなくては・・・」

 目的地が銀座と決まったならば、あとは「どこから銀座に歩いて向かうか」ですね。ボーッとしながら、考えます。

 これが簡単なようでなかなか難しいのです。あまり車の往来が激しいところを選んでしまうと、かえって、ノドが痛くなって、逆効果でしょう。だから、なるべく緑の多いところにしなくてはなりません。でも、緑が多いっていったってねー、東京にそんなとこ、なかなかないんですよねぇ・・・。

 カミサンの意向というものもあります。これが結構ムシできません。「今日のコースは坂ばっかりだ」、とか歩いている間に不満がでてきます。歩いている間中、黙って歩き続けることになります。これは避けなければなりません。

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 ジムの日であるならば、チャッと朝風呂にはいって、早々に家をでます。家から10分ほどのところにフィットネスセンターがあるのですね、近い、近い。

 まずは、柔軟。その後、まだ運動はしませんよ。センター内にある整骨院に向かいます。ここは保険がきくので、1回500円で、伝吉寮とマッサージを受けることができます。極楽。

 それが終わっても、まだ運動はしませんよ・・・。やはりセンター内にある電機マッサージ椅子に座って、1時間の集中マッサージを受けます。マッサージ椅子を降りる頃には、すっかりダメ人間になっています。さらに極楽。ここでアンティパストが終了でしょうか。

 いよいよメイン。「運動」です。

 まずは1時間ほどランニングをします。だいたい消費カロリーは600キロくらい。6キロくらいを走ったことになるのでしょうか。その後、腹筋です。こちらは100回をワンセットで、3回繰り返します。その後、ストレッチで終了。敢えて筋肉をモリモリとつける運動はいっさいしません。筋肉をあまりつけてしまうと、それが落ちたときがブヨブヨになってしまいますので。

 その後、プールに入ります。いうたら、これが「ドルチェ」でしょう。こちらは300メートルくらいしか泳ぎません。これは「泳ぐこと」が目的というよりも、肩こりを治すことが目的です。水泳は、「ぐるぐると肩を回す」でしょう。これが肩こりにいいそうです。その後、温浴マッサージ風呂に入ります。

 これでコースが終了です。

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 なるべく土日に仕事をしないようにすることにしました。土日の仕事は原則的にはお断りしています。「若いんだから、週末も働け、この贅沢者め」とお怒りになるかたもいるかもしれませんが、それは余計なお世話です。バランスをとることが、重要だと思っていますし、せめて土日くらいは家庭で過ごしたいと思います。それに運動もしたいし、本も読みたい。

 前にも日記で書きましたが、某外資系企業の方たちは、金曜日の7時以降は連絡をくれるな、というそうです。土日も働くことをアタリマエとする日本の企業文化からすると、なんだか「わがまま」に感じてしまいそうですが、そこはメリハリではないでしょうか・・・そう個人的には思います。

 どうしても土日に動かなくてはならない、というせっぱ詰まった状況は、どこの組織にもあるでしょう。大学だってあります。それは致し方ない。それに、業種によっては、土日が「書き入れ時」という仕事もあるでしょう。それは仕方がないと思います。

 だけれども、そうではない場合、「恒常的に土日働くことをよしとする組織、仕事のやり方」が、生産性が高いか、クリエイティヴィティが高いか、というとそれには議論の余地があるのではないかと思います。

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 今日は朝起きるのが遅かった・・・本当ならば、朝9時からジムにいって、その後銀座というのがいいかなと思うのですが、今からではどちらかでしょう。

 ジムにするか、散歩にするか、悩みは深い。
 でも、そろそろ決めねばなりません。

皆さん、Have a relaxing weekend! 今日も1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月22日 11:02


誰のために評価はあるの!?

 ちょっと前のことになりますが、ある方と話しているときに、ふと話が「評価」のことに及びました。その方は、「評価は学習者がよりよく学べるために行うものであり、それが理想なのだ」ということをおっしゃっていたのですが、どうも、これが僕にはひっかかっちゃったんだねー。

 いいえ、別に異論があるわけではないんです。「評価で、教育活動が何らかのかたちで改善されるのならば、学習者にとってとてもよいこと」でありましょう。

 というよりも、「それだけなのだろうか?」、と、ふと思ってしまったのです。小学生的にいうと、「つけたしー」とか言って、手をあげちゃう感じ。

 最終的に「メリット」を享受できるのは学習者であることに全く異論はないのですが、それとは違った側面があるんじゃないかな、と思ったのよ。

 結論からいうと、評価は「教育に変革を起こそうと思っている側」のためにもなるのではないかと思うのです。それを行わないと、なかなか「変革」を長続きさせることはできない。今風にいうと、サスティナビリティが確保出来ないわけです。

 ここで重要なのはさ、「長続きしない」のは「教育に変革を起こそうと思っている側」が「サボッてる」とか、「タルんでる」、とかそういう問題ではないの。そういうところで、青筋立てちゃいけないの。「教育で手を動かしたことのない人」ほど、ここで「ケシカラン」といいがちだけど。

 これ、宿命なんです。教育という営みの性格と、人間の性(サガ)から導き出される宿命よ。だから、この宿命に「静かなる抵抗」を行うために、評価が必要なのですね。

 なんだか、よくわけがわからなくなってきましたので(笑)、まず、「教育」に関して、もっとも基本的なことを押さえましょう。それはこういうことです。

「教育に王道がない故に、ある一時輝いて見えた変革は、必ず色褪せてしまう」

「教育に、変革をもたらしたとしても、その効果は、なかなか目に見えにくく、変革をもたらした側にとっても手応えを実感しにくい」

 なんだ、アタリマエのコンコンチキだと思うかも知れませんが、これを押さえることは、とても重要だと僕は思います。

 まず、「変革は必ず色あせる」というのはアタリマエだよね。だって、最初のうちは変革であっても、だんだん日常になっていくんだもん。そうなると惰性ですよ、まさに「終わりなき日常」。

 また後者の方、教育は、「タミフル」とか「バチスタ手術」とか、そういう類のものではないのです。変革の効果は、劇的にドパーンとでてくるものではありません。どちらかというと、漢方?・・・。

 いや、よくわからないけれど、とにかく、「ある日、突然、子どもが変わりました」っていうものじゃない。それは教育じゃないよ、なんか変なもん食わせただろう(笑)。

 とにかく、教育の効果は目に見えにくい。それを「目に見える」ようにするための手段が評価ということになります。それはテストかも知れないし、面接かも知れない。

 いずれにしても、何らかの「介入」を行って、手応えを「実感」できるのです。変革の効果は「見えるようにするための手段」を講じないと「見えません」ということになります。

 で、この「見えにくい」「手応えを実感しにくい」という性質のおかげで、評価がない場合、どうなるかというと、こうなっちゃうんですね。

「変革の手応えが、いつまでたっても、実感出来ないから、だんだんヤケのヤンパチになって、焦り出す」

「変革の効果が見えないから、どんどん中だるみをおこすようになっていく」

「変革の効果を、誰にも説明出来ないから、変革の方針の確からしさを確認できずに、どんどんと不安になっていく」

 これは人間の性ですね。誰だって、フィードバックのないアクションなんて、長続きしない。そんな強いものじゃないの、人なんだから。焦りだしたり、もういいよ、ってことになったり、不安になっちゃうんです。

 で、どうなるか・・・。

 その先にあるものは、「変革の終わり」ですよ。いつしか「変革」は忘れ去られ、闇に葬られます。

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 評価というのは、ある変革をサスティナブルにする効果をもっているのですね。そしてそれは変革を起こす側のメンタリティを支える至言にもなる。結局、最後は学習者にとってのメリットになる可能性もあるんですけどね。

 その人と話しているあいだ、僕は、そんなことを考えていました。

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投稿者 jun : 2006年4月21日 08:42


京都って京都大学!?

 僕は「京都大学」以外の「京都」をあまり知らない。最近、本当に京都への出張が多いのだけれども、その用務はほとんどが「京都大学」であり、それ以外の場所にいくことはほとんどない。

 京都大学への出張は「ドアツードア」をまさに地でいく出張だ。
 10時の新幹線にとびのり、京都駅をでて、タクシーをとばして京都大学で用事をすませ、そのまま東京にとんぼ返りをして6時からの会議に参加する、みたいな出張。

 自分でも、なんで、こんなスケジュールになってしまうのかわからない。でも、京都出張はいつも過酷である。

 たぶん東京 - 京都間っていうのは、「気合いを入れれば帰れてしまう短い距離」だという「イケない思いこみ」が僕にあって、そのようなスケジュールを知らず知らずのうちに組んでしまうのであろう。

 京都大学のアカデミックな雰囲気は非常に好きなのだけれども、たまには、ドアツードアではなくて、せめて移動のときだけでも、京都の町並みを歩いたりする時間が欲しいなぁと思う。

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 そんなことを言っていたら、あれれ、また京都への出張がはいった。来月は2回である。うーん、よほど、縁があるんだろうなぁ。
 どうせだったら、せめて夕食くらいは、とっておきの料理を食べたいけれども。

明日は東京に戻ります・・・ 応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月20日 22:12


キッザニア

 前々から注目はしていたのですが、このところ「キッザニア」が話題になっているようですね。

キッザニア
http://www.kidzania.jp/

 キッザニアは「遊びながら社会の仕組みを学ぶ - 子どものためのオシゴト体験タウン」です。空港、テレビ局、警察、消防署、病院、獣医、銀行、美容室、お菓子工場、コンビニなどの仕事を体験できるんだって。オモシロそうですね、僕も体験してみたいよ、他の仕事。

 注目の背景には、今の親にとって、キャリア教育とか、いわゆる<ニート>問題とか、「仕事」への感心が高いことがあるんでしょうね。わからんけど(笑)・・・おいおい。「我が子をキチンと仕事につけるようにせな」みたいなプレッシャーというのかな。

 それにしても、キッザニアで体験出来る仕事に、大学教員ってのはないのかね?

 授業の合間に、いろんな学内委員会にでなきゃならん・・・お昼には、研究室にマンション勧誘の電話がかかってきて、午後は、またひたすら会議をして、メールを書きまくって、自分の研究はキッザニア閉館後にやらなければならない、っていう、オモシロパビリオン(笑)。

 あんまり人気なさそうだな(笑)。

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追伸.
 京都会議1日目です。今日は、プレカンファレンス・ディナー。久しぶりにOCW関係者にお会いしました。

 ディナーで近くに座ったある方から、「中原さんは、会議では、相当クールに見えます」と言われました。たぶん、よほどイヤなヤツに見えてんだろうなぁ(笑)、ていうかイヤなヤツ!?・・・すみません。今度は、「クールに見えないように」、会議に「鼻めがね」でもつけていこうかな。安心感はでるかな?

 海外からいらっしゃっているお客様とひたすらトークする日でした。なんか、明日のことで、いろいろ依頼されたような(笑)。てんやわんやで、何食ったんだか、よーわからん。まさにアタマが「えいご漬け」だ。

 会議では、以前、NIMEにVisiting scholarできていたタイのアヌチャイ先生と再会。品のある、おだやかなしゃべりは変わらずだったけど。

 以前、彼はチュラロンコン大学にいたのですが、名刺をみたら、Ministry of Educationになっています。異動したんだろうか・・・。でも、名刺はチュラのメールアドレスもあるぞ。

 よく見たら、Thailand Cyber University Project の副ディレクターってなってますね。どんなプロジェクト? 明日聞いてみます。

 大学では、ネットワーク配信をめぐって、<ドエライご迷惑>を各所にかけてしまいました。謝罪しどおしの一日でした。はぁ・・・正直、落ち込むなぁ。でも、ココカラは僕の仕事だよねぇ。関係各所をうまく調整して、粛々と解決策をさがすしかないですね。「アムロー、振り向かないで・・・」って歌いたくなるね(意味不明)。

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 ディナーからの帰り道は、加茂川ぞいを歩いてきました。暗い中、カップルが、かなり接近してましたけど。いいねー、アンタらは。

 ホテルに帰ってきたはいいけど、少し興奮気味で眠れないので、「さっきの件への対応」を考えつつ、論文執筆。

 研究は僕の仕事の本分なのですが、いつも早朝、深夜になるんだよなぁ。でも、西森さんのおかげで、ちょっといいデータをみつけました。このデータ、昨日のモデルにいれたら、どうなるかな・・・。

 ほぼ徹じゃん。
 そして人生は続く・・・。

 ていうか、メシだ、メシ。
 朝飯食いにいくど。

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投稿者 jun : 2006年4月20日 06:22


統計学の物語

 先日、渋谷のブックファーストで何気なく手にとった本「統計学を拓いた異才たち」が愉快でたまりません。

 おっ、オモシロイなと思い、ひとり夜な夜な読んでいたら、数日後、大阪大学の松河君(若杉!)も、日記で同じようなことを書いていました。「同じ本に興味を感じているんだな」と思って、なんか不思議な気持ちになったけれども。

 「統計学を拓いた異才たち」には、いわゆる統計学の本ではありません。統計アレルギーをもっている人でも、僕のように統計はツールだ、と割り切って使っている人でも、誰でも読むことができます。

 というよりは、むしろ統計学の手法は、どのような人によって、どのようなきっかけで生まれたのかに焦点をあてた本ですね。ストーリーです、ストーリー。

 たとえば、スチューデントのt検定。これ、なんで「スチューデント」というかご存じですか?これは、実は、なんと「ビールのギネス」に関係があるんですね。ギネスだぞ、ギネス、あの泡がクリーミーで苦いギネス。一見全く統計とは関係ないところから、統計の手法が生まれているのです。どう関係があるかは、読んでのお楽しみ。

 実は、今、TODAI TVでは統計学のコンテンツを準備しています。統計に苦手意識を抱える文系大学院生があまりに多いので、彼らに対して自学自習の学習機会を提供することを企画しています。

TODAI TV
http://www.todai.tv/

 一見、無味乾燥に思える統計手法にも、そこには必ず「人」があり、「物語」がある。

 「物語」から入ってみてはいかがですか。きっと今まで、どうしてもとっつきにくかった、それらの手法が違った風に見えるから。

追伸.
 今日は朝っぱらから、思わず涙がでてしまいそうになるほど、嬉しいことがありました。健気でね、その様子が。

明日から京都グローバルOCW国際会議です・・・僕はデモスペースの責任者ですので、そのあたりにいます。声をかけてくださいね。 応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月19日 18:55


放送大学の授業

 去年の秋頃だったか、放送大学「総合情報学」の中の1コマ「情報化社会と教育」の収録が、本郷キャンパスでありました。「大学教育をITでどのように支援するか」ということについて、ケータイ、UT OCW、podcastingなどのネタについて、山内さんと掛けあいながら授業をすすめました。

 先日担当のディレクターの方から、完成したビデオがおくられてきたんですね。おそるおそるビデオをデッキに差し込み見てみると・・・。

 うーん、どうも僕はテレビにうつるのが苦手だなぁ。なんだか画面越しの自分を見ていると、「ゲ○」っぽく見えてしまう・・・(ゲロじゃないぞ)。ちょっと古いけど、保毛○田 保○男みたい感じ!?、なんちゅう講師やねん。

 先日のNHKの取材もそうだったし、きっとこないだ撮影した青学さんの授業についてもそうだと思うんですけどね。あー、自己嫌悪。

 こういうのは「自意識過剰この上ない」のかも知れないけれど、なんか自分じゃないような気分になってしまうんですよね。

 あと「声」ね・・・。これ何とかならんか?
 どうしてこんなに僕の声は通りが悪いんだろう。これも自分の声のようには思えないんだよね。まわりにいる人は、迷惑せんばんだよなぁと思う。

 というわけです。放映は5月25日(木曜日)13時45分からだそうです。コワイわー。

近況
 このところ午後4時になると、急激に眠くなる。「早朝SPSS」「早朝AMOS」がきいているのだと思う。朝っぱらから大学でなかなかその時間をとるのは不可能である。知的な時間をおくりたい。

今日から京都出張です・・・昨日は修羅場だったし、まだ疲れがとれません。ホンマに眠たいわ・・・ 応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月19日 08:55


先生争奪 - 誰でも教員になる時代

 昨日の朝日新聞では、センセーショナルな見出しがつけられていた。要するに、いわゆる「団塊の世代の大量退職をきっかけに都市部では、これから数年教員が圧倒的に不足することから、なりふりかまわない大量採用がはじまっている」というニュースである。このblogでも、この問題については、これまでも扱ってきた。

 どのくらい大量採用かというと、東京都の場合、96年の小学校教員採用はわずか129名。倍率は15.3倍だったのにもかかわらず、08年度の教員数は1800名。倍率は2倍になるという。

 私見では、この「2倍」には、当然、記念受験のような人も含まれるし、そもそも何にも勉強しないでくる受験生もいよう。実質的な倍率は限りなく1に近い - つまりは全入に近くなる!? - のではないかと推察する。

 受験科目を減らしたり、日本全国で就職説明会を行ったり、あの手この手を使った大都市の教員争奪競争は、激化している。一方、福井、高知、島根などの地方では、相変わらずの高倍率(20倍程度)となっており、いびつな格差が生まれている。

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 人口の動態は、一朝一夕に、突然かわるものではない。よって、今日の「先生争奪戦」の様相は、10年前にも予測出来たことである。

 教育学研究者の中には、そのことに警告をならす人も少なくなかった。「いびつな年齢構成は、必ずや学校内の徒弟システムを破壊する」「教員の質の低下をまねくおそれが強い」「公立校のさらなる地位低下に結びつかないだろうか」などの指摘があった。

 1996年・・・熱い志をもちながら教員になりたくてもなれなかった人たち、苦労した人たちを、僕はたくさん知っている。

 彼らの多くは、結局、教壇をあきらめ、市役所や民間企業に不本意ながら就職したりした。何年も何年も浪人を重ねて、いまだに非常勤で不安定な身分のもと、勤務している人もいる。

 彼らは時代に翻弄された。

 それから10年 - 2005年・・・時代は変わった。

 大方の学生は真面目である。しかし、正直いって、教員志望の学生の中には、「この学生も教員になるのかなぁ・・・」と疑わざるを得ない学生も少なくない。彼らは、それほど勉強しなくても、望みさえすれば、より容易に教員になることができる。

 もちろん、1996年にも教員不適格な人はいたし、2005年にも苦労する人はいることは事実である。しかし、あまりにも条件が違いすぎる。僕は今年で30歳。自らも「貧乏くじ世代」であるせいか、どうも、これには解せない。

 「それは時代だよ」と言ってしまえば、それで終わりなのかもしれない。しかし、この歪みは別のかたちで、必ず教育現場にあらわれると思う。

 「無理が通れば道理が引っ込む」

すべては「時代」のせいなのでしょうか? 応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月18日 08:33


ケータイの裏側の戦い!

 先日、ある広告会社に勤務する同期と話していたら、モバイル向けの動画コンテンツの囲い込みが進んでいるという。来るべき定額制・常時接続時代をみすえてのことだという。下記のようなサービス開始も、その流れをみすえての先行投資であろう。

モバイルGYAO
http://www.gyao.jp/mobile/

 いくら定額制といっても、モバイルにはモバイルなりのコンテンツの容量がある。コンパクトでインパクトのあるコンテンツなんてそう多いわけじゃない。

 まして、それでいて開発コストが安いものということになると、「企画 - 撮影 - 編集 - MA」というすべての作業をひとりでできるディレクター、クリエータが狙われる。どうしても、外に仕事をだすとコストがかさむ。プロダクションのすべてをデジタルで作業出来る人が必要になる。

 ケータイの裏側ではもう次の戦いがはじまっている。
 それは遠い未来の話ではない。

あー、忙しい・・・。 応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月17日 22:47


藤田嗣治展を見に行った!

 先日、皇居一周の散歩の途中で、国立近代美術館で催されている「藤田嗣治展(ふじた・つぐはる)」に立ち寄った。入り口付近には、長い列ができるほどの盛況ぶり。

koukyonite.jpg

fujita.jpg

 周知のとおり、藤田は、戦前で唯一の世界で成功した日本人画家。彼の作品がこれだけの規模で集まることは数十年ぶりであり、それに期待した人々が押し寄せているのだと思う。

藤田嗣治展
http://www.momat.go.jp/Honkan/Foujita/index.html

 藤田嗣治は「異端の人」であった。

 東京芸大を卒業し、黒田清輝らの勢いが強かった日本の美術界に愛想をつかし、パリにわたったのが27歳の頃。モディリアーニ、ピカソらと親交を交わした。

 「女」を主要な題材としたパリ在住時代。特に、彼の主要な主題のひとつである「裸婦」は、「乳白色の肌」と「陰翳」によって特徴的かつ優雅に描かれている。これによって、当時のパリの画壇を一世風靡した。

 その後、南米にわたりラテン系の画風を取り入れたり、帰国しては、いわゆる「日本的なもの」を泥臭く描いたりした。きっとパリで成功をはたした彼の目には、南米も日本も、独自の色彩をもった特徴ある世界にうつったのだろうな、と思った。第二次世界大戦中には、従軍の画家として戦争画を数多く描く。

 その画風の推移は、まさにトマス=クーンのいう「パラダイム」という言葉を思い起こさせる。そのときに自分がいた場所、状況に応じて、彼の作風はどんどんと変わっていく。

 戦後、彼は戦争画を数多く描いたことにより、日本画壇から非難、糾弾される。その戦争責任は重いとされ、画壇から追放された。「私が日本を捨てたのではない・・・日本に捨てられたのだ」と言葉を残しながら、自分自身を最初に認めてくれた国、フランスに旅立った。

 晩年はインテリアの仕事をしたりする一方、子どもを描いた。彼が描いたのは「乳白色の肌」をもつ子ども。それは、かつて彼が描いた裸婦の延長線上にあるように思う。生々流転する「作風」・・・最後にたどり着いたのは、結局、彼が若い頃に苦労して生み出した、あの「色」であった。

 今回の展覧会では、そうした彼の作風の展開に応じて作品が公開されている。その作風の変転からは、藤田嗣治の人生が見て取れるようで、展覧会場を出る頃には、その激しさにすっかり圧倒される。

 絵は口ほどに物をいう。

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投稿者 jun : 2006年4月16日 22:53


学校選択制度の果てにあるもの?

「教育機関が競い合うことで、教育の質はよくなるはずである」

 これは、多くの人々が共有している<常識>ではないかと思います。

 しかし、この<常識>はいくつかの事柄を前提にしています。

 ひとつめは「ある一定期間において、教育の質が誰の目にもわかるかたちで、測定され、表現され、伝えることができなければならない」ということです。

 もうひとつは「公開された教育の質がきっかけとなって、教育機関の競い合いがおこらなければならない」ということですね。

 つまり、教育機関側は、教育の質を、第三者が了解可能なかたちで、表象する必要があります。そして教育機関を選ぶ側が、判断の際に「教育の質」を把握し、判断し、それに基づいた意志決定が起こらなければなりません。

 しかし、一言でまとめてしまうのは簡単なのですが、これはそう易しいことではないように思います。

 教育の質を表現することには、膨大なコストがかかりますね。先生はまた作業負担を強いられる。ともすれば、「評価のための作業がふくれあがり、授業研究はさっぱり」という逆転現象が生まれてしまうこともありえます。また、どんなによい教育を行っていたとしても、教育の効果が必ずしも短期間に発露するわけではない。教育というものはそういうものです。
 
 万が一仮に教育の質を、親に公開しえたとしましょう。しかし、実際に親が、学校を選ぶときに判断の基準とする指標は、そんなことではないかもしれない。

 「家から学校が近いから」とか「学校の人数が多いから」とか「あまりガラのよくない地域にあるから」とかいう理由かも知れません。

 また古くから「あの学校からはよい学校への進学者が多い」という、あまり根拠のないブランド化した学校イメージが流布している場合、それが一人歩きしてしまって、親の意志決定のインパクトファクターとなってしまう。

 かくして「教育機関が競い合うことで、教育の質はよくなるはずである」という命題は、必ずしも真ではなくなる可能性がでてきます。

 ・・・ただし・・・じゃあ、そうかといって、このまま何の「劇薬=外部刺激」も導入しないで、学校の自己組織化作用だけで、学校を変えることができるのか?

 これはかなり難しいだろうなぁ、という社会通念があるように思います。少なくとも行政官や親の中には、「内部からの学校変革の可能性」を信じている人たちは、あまりいないのではないでしょうか。

 ここに最大のディレンマがあります。

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 本日の朝日新聞、「競争導入で光と影」は、公立学校の学校選択制度についてでした。

 いったんよいイメージがついた学校は、栄えていく。しかし、競争に敗れた学校は、どんな教育内容を精選しても、固定化した悪いイメージを変えることは難しくなる。学校版「The rich get richer」が少しずつ進行している、という話でした。

 かつて学校選択制度が議論されていたとき、「人数の少ない学校では、少人数教育ができる。教育の質をわかる親たちは、そういう学校を選ぶだろうから、人数の多寡は是正される」という話がまことしやかに語られていた時代がありました。

 もちろん、まだ制度が導入されて、あまり時間がたっていません。どのような事態が起こるかは、まだわかりません。

 我々は競争の果てに、どんな学校の姿を見るのでしょうか。そして、その学校は、私たちの知る「学校」なのでしょうか。「学校選択制度」による学校改革は、こうしているあいだも、静かに進行しています。

東京は午後から晴れだそうです、今日は万歩計をつけて、本屋に行こうと思います・・・ 応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月16日 10:01


学術俯瞰講義、ポッドキャスティングランキング

 東京大学教養学部実施の学術俯瞰講義のポッドキャスティングですが、とても人気になっているようです。

 ポッドキャスティング全体のランキングでは、1位、4位、5位、6位にはいっています。教育カテゴリーでは1位、2位、3位、4位ですね。

gakujyutuhukan1.jpg  gakujyutuhukan2.jpg

 知の公開に関するニーズは非常に高いものがあるのかもれませんね。

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投稿者 jun : 2006年4月16日 05:30


まさひろ寿司 千石・巣鴨のおいしい寿司屋

 今日、山内さんおすすめの寿司屋「まさひろ寿司」にカミサンをつれていった。僕はここにいくのは4度目になるけれども、いつものようにおいしい寿司をいただいた。

masahiro.jpg

 注文は、「特上まさひろにぎり」からはじめて、あとは「お好み」。

 今日とても印象深かったのは、ふっくらと炊いた「穴子」、あまりにもクリーミーで舌の上でとろける「うに」、今日は最高のものがはいったという大トロ、中トロだった。カミサンをはじめて連れて行ったということで、車エビがサービスになったのは嬉しかった。何度も言うのもなんだけど、特に「うに」はねー、僕はスゴイと思いますね。本当に2カン、3カンと食べたくなってしまう。クリームそのものなのですよ。
 そうそう、トロとたくわんを巻いた「トロたく」という巻物をつくってくれたんだけど、これもとてもあっていたなぁ。

 お好みでは、コハダ、サバ、シャコ、穴きゅうなどをもらった。これも大変おいしく頂いた。

 かなりおなか一杯食べて、プラスお酒もすこし飲んで、2名で9000円ほど。銀座のほぼ4分の1くらいだろうか。とてもリーズナブル。大満足であった。

 まさひろ寿司は下記の場所にあります。
 席数が少ないので、必ず予約をしていったほうがよいかと思います。土曜日・日曜日もやっているそうです。

まさひろ寿司
文京区本駒込6-5-1
電話03-5395-9109
千石駅から徒歩3分(A-4出口)
巣鴨駅南口から徒歩7分
ちょうど都営三田千石駅とJR巣鴨駅の途中にあります
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%96%87%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E6%9C%AC%E9%A7%92%E8%BE%BC6-5-1

 ちなみに、まさひろ寿司の大将「まさひろ」さんは、ある電子掲示板で、お客さんから寄せられる意見・要望・クレームにお答えになっています。僕も今日みつけたのですが、これには感心しました。

巣鴨周辺マップ まさひろ寿司
http://www.sugamomap.com/contents/masahirosushi.html 

 これはなかなかできないことです。いわゆる寿司屋版「Formative evaluation(形成的評価)」だよねぇ。これはなかなかできないよ・・・。その真摯な対応に、足繁く通う人が増えてくるんでしょうね。

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 そばめぐりも一段落したので、ちょっと次は「寿司屋めぐり」をしようかと。次はどこに行こうかな。

 安くて、おいしくて、気むずかしくない、おすすめのお寿司屋さんがあったら、ぜひ、教えて下さい。独り占めしないでさ・・・シェアしようや。

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投稿者 jun : 2006年4月15日 20:44


研究室をつくる

 先日、ボストン留学時代のある友人とメールでやりとりしていた際、「大学の研究室の話」になりました。彼が、

「アメリカでは、博士号をとって、ポスドクやってようやく一人前の研究者として認められる。分野にもよるし、個人の才能にもよるけれど、それまでは、学術論文誌になんて投稿させてもらえないし、教えさせてはもらえないよ」

 と言うので、

「研究室のカルチャーにもよるけれど、僕の育った研究室では、修士号をとったら、研究室の下の人の面倒をみだす。学術論文誌への投稿は書けるのであれば早くても問題ない。たいていは、修士号をとったあたりから投稿する。教えることもそう、修士号をとったら大学で非常勤講師をやる人もいる。学部がSee one, 修士がDo one, 博士がTeach oneなのかもね」

 という話をしました。

 もちろん、過剰な一般化は避けなければなりませんが、両国の研究室には、このような違いがあるのかもしれません。そしてこれにはそれぞれデメリット、メリットがあるでしょう。

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 話はすこし飛びますが、ちょっとした理由があって、最近、「研究室運営」について考えることが多くなっています。日本の研究室といっても、いろんな研究室の運営がある。

 よく一般には「研究室の生産性やクリエィティヴィティ」というのを「教員の個人の資質」に帰属してしまいがちですが、それも一理ある一方で、その寄与率はあまり高くないのではないかと思ってしまいます。それは組織づくりの問題であり、ルール設計でもある。そう思うのです。

 「クリエィティヴな仕事を、サスティナブルに生み出しつづける研究室」をつくるには、どのような方法があるのでしょうか。なんかいい方法とか工夫があるのでしょうかね?

 目下の悩みです。

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投稿者 jun : 2006年4月15日 06:32


blogの更新について

 なんでそんなにblogの更新ができるのですか?

 と最近よく言われます。なんか、暗に「アンタ、暇人?」と言われているような気がして、とても後ろめたいのですが(笑)、決してそんなことはありません。
 「薄氷の上をわたるように」、「お手玉しながらサーカスの綱渡りをする」ように、日々を過ごしています。

 先日、ある人に聞きましたが、「新しく立ち上げられたblogの80%ははじまって数週間のうちに更新されなくなる」そうです。何となくわかるような気もします。

 僕が、更新を頻繁にできるのは、いくつか理由があります。

 まず最大の理由は、僕が愉しんでいるということでしょう。「正解」がある教科としての国語は苦手でしたが、書くことは昔から好きなのです。それはとても楽しい。
 毎日が、ネタ探しです。それはエキサイティングなことです。誰かの名言に、「日記を書くということは毎日を丁寧に生きるということである」というのがありましたが、まさにその気分です。

 次の理由は、「僕はリアルタイムに書いていない」ということです。更新日を指定して、記事を自動更新しているのですね。暇なときに、ザッとネタを書き殴っているのです・・・ですので、毎日の更新からは免れることになります。

 3つめの理由は、カミサンという「もうひとつのネタ帳」の存在です。うちのカミサンはマスメディアで働いていることもあり、日々、キタロウの「妖怪アンテナ」みたいに、いろいろなものを探しています。
 ネタにつまったときには、彼女にずいぶん、お題を提供してもらっているのです。だから、あまりネタづまりということがありません。

 最後の理由は、いろいろな人に「見てるよ」とか「あのエントリーのここの議論はおもしろかった」という風に、声をかけていただけることでしょうか。
 はじめてあった人と名刺交換などをすると、頻繁にこのように言われます。そうすると、「なんだか以前から知り合いだったかのように思えてくる」から不思議ですね。自分の書いているものを見てくれる他者の存在、これは本当に励みになりますね。blogランキングもそのひとつです。

 様々なものに助けられ、僕は書き続けていられます。

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投稿者 jun : 2006年4月14日 22:25


社会人、大学院へ行こう!

 帰国しました・・・。

「10分間黙っていると電源が自動的に切れそう」なくらい、時差ボケで眠たいです。が、ここは耐えなくてはね・・・万年時差ボケになってしまうから。

 今日は、午後11時目標よ。まぁ、仕事も終わってないから、ちょうどいいけど・・・というか、そのくらいにはなってしまいそうですが。

 それにしても、明日、某大学の教材のビデオ収録だってことを忘れていました・・・今からプレゼンつくんのかいな・・・マジすか。頑張ります、頑張りますとも。

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 そうそう・・・先日、僕が大学院生だった頃、同じ研究室の学部生だったA君からメールがきて、秋からアメリカにMBA留学するんだっていうんですよね。「でかした!、よかったねー」と思いつつ、とっても羨ましかった。

 同期のB君も、去年から某大学院MBAに行っていているんですよね。彼の場合、もう既に修士号はもっているわけですよ。いわゆる「ダブルマスター」ですね。トリプルマスターめざすね、ヤツは、きっと。

 別に、自分の生活に不満があるわけでは断じてありません。充実しています。これは断言出来る。むしろ、「もうこれ以上充実しなくてもいいかなー」ってほど(笑)。

 だけれども、どこまでも「学びバカ」なのか、たまーに、大学院に、もう一回いって、今までとは違ったことをゼロから学んでみたいなぁなんて思ってしまいます。

 この上大学院にいってゼロから学び始めたら、「死にかけ人形」状態になるのかもしれないけれど・・・想像しただけでコワイわ。でもねぇ・・・行きたい気持ちはあるねー。皆さんには、ふと、そんな風に思うことがないでしょうか?

 もちろん、こういう風に「行きたいと言い続けて行動を起こさない」のは、ダメなんですよね。ダメダメ、そんなんじゃ。本当に行きたいのだったら、腰あげてるよ、とっくのまに。

 後輩A君も、今の会社で働きながら、一生懸命、GMATとか勉強したんでしょうね。同期のB君だって激務の中、毎朝はやくに起きて勉強してるんだろ。たいしたものだよね。

 今が自己投資時期だと思ったんだろうな・・・。35歳までに何かアクションを起こすなら、投資は今だもんな。

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投稿者 jun : 2006年4月13日 20:43


正しい英語!?

 もう旅立ちです・・・「隣の部屋のティッシュを引く音」さえも聞こえる「壁の薄いホテル」でしたが(笑)、お別れの時となっては、寂しいモノです。ありがとう、そしてさようなら。

 ところで、今回、久しりにカリフォルニアの方にきて思ったのは、こちらは、英語で話すのが楽ですねぇ。昨日、タクシーの運転手さんと話していたのですが、彼がこんなことを言ってました。

「こっちに、誰が、正しい英語を話せるヤツがいるってんだ。みんなデタラメ、いい加減のコンコンチキじゃねーか。いーんだよ通じれば。Who cares!」

 なるほどね・・・。

 もちろん、大学人は正しい英語を話していますが、ストリートや町中では、確かに「正しい英語」を聞かない気もする・・・なんとなくね・・・どことなく。
 うーん、正しいというよりは、とても「聞き取りやすい」ように思います。ボストンよりは、ずっと人種構成も豊かな気もします。

 ボストンのアカデミックな雰囲気は大好きですし、そこで過ごした時間に一点の後悔もありませんが、一番最初の留学には、カリフォルニアの方が「楽」かも知れないなぁと思いました。たいした変わらないかな?

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投稿者 jun : 2006年4月13日 00:10


☆ド短期ツメコミ教育 豪腕!コーチング!!

 眠れん。もうこのまま日本に帰ろ。

 いつも読んでいるMさんのblogを読んでいたら、こんな番組があることを知りました。Tバック・・・というとなんか違う意味になっちゃうけど・・・トラックバックしたいのですが、Mixi内なので、残念。

☆ド短期ツメコミ教育 豪腕!コーチング!!
http://www.tv-tokyo.co.jp/gowan/

 僕自身は見たことがないのですが、どなたか見た方いらっしゃいますか? 番組コンセプトがかなりオモシロイですね。

 番組紹介には「目標を達成するためだけの思わぬ裏技とは?達人だけが知っている、その道のテクニックを余すところなくご紹介」とありました。

 どんなテクニック? それこそ、インストラクショナルデザイン?

 いろんな意味で、授業に教材として使えるかも。
 見てないので、何とも言えないけれども。

オモシロイ番組をつくるものですねぇ・・・ 応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月12日 20:47


この1週間を振り返る!:最後の全米教育学会ネタ

 全米教育学会、ようやく終わりました!
 もう1週間たってしまったんですね、本当に早いです。昨日来たばかりのようにも感じますけど。そんなこたー、ねーやな。

 それにしても、英語にもよーやく慣れてきた頃に、「バイナラ」ですね(相変わらず死語だねぇ)。これで、また、全く英語がうまくならずに帰国ってことね。で、帰国したら、仕事満載ね、これ、常識ね・・・トホホ。

 とにかく、もう最後ですから、今回の学会を振り返って、何が旬だったのか、キーワードだったのかを考えてみましょう。もちろん、独断と偏見極まりないです・・・一般性ゼロね。ほとんど備忘録に近い。

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 今回の学会を振り返って、「よー聞いたなぁ、またオマエさんかい」というキーワードは次のとおりです。

 1).Large scale assesment(大規模な評価)
 2).School leadership(学校でのリーダーシップ)
 3).Professional Development(教師の専門性向上)
 4).Sustainablity(持続性)
  ---
 5).Narrative Approach(ナラティヴ・アプローチ)
 6). Design Research / Learning Science
 7).Neuro science / brain science(神経科学/脳科学)

 これに勝手きわまりない解釈をつけていくと、こんな風になりますね。根拠レスな新春大放談ということで、よろしく。

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 まず1)の「大規模な評価」とは2つがあります。

 1つは、ブッシュ大統領がすすめているNo child Left Behindの影響による、州全体、あるいは州を超えた大規模テストのこと。

 もうひとつは、日本でもマスメディアでおなじみ「TIMMS」「PISA」の結果でしょう。やはりアメリカでもTIMMSやPISAの調査結果を見て、「想像以上にやべー、どないしよ?」みたいな雰囲気はあるようです。

 まぁ、いずれにしても、学力を測定するということに関するニーズは、しばらくの間増すことはあっても、下がることはないのではないでしょうか。これは、地域間格差や階級間格差の問題も絡んでいるから、なおさらかなと思いますけれども。

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 2)と3)の「学校リーダーシップ」「教師の専門性向上」は1)に大いに関係があります。

 要するに、1)のように学業成績の多寡が激しく問われるようになって、「校長はどのようにすれば、学校を変革できるのか」「教師は教えるプロになれるのか」という問題が浮上している。ちょうど、前者がトップダウンの改革、後者がボトムアップの改革と言えるかも知れないですね。

 2)のリーダーシップは、あまり日本の教育研究では語られないことですが、きっとこれからどんどん注目されるんでしょうね。でも、リーダーシップを行使するということは、その背後にはResponsibilityが伴うわけです。そういう意味では、どうでしょうね?日本で注目されるだろうか。

 3)の「教師の専門性向上」の部分では、日本のLesson Study(授業研究)が、やっぱり注目されていました。数学だったら、どう進めるか、理科だったらどうするか、など教科単位の議論も盛んでした。もちろん、オンライン環境での専門性向上も、もはやアタリマエダのクラッカー状態になっている気がします。

 でも、それにしてもオモシロイよねぇ・・・。
 日本の授業研究って、「教師がお互いの力量を高めあうために無償でやりますよね」。まさか授業研究するからといって、余計に給料よこせー、って話にはならない。そら、ならんわなぁ。

 だけれども、アメリカはそうじゃないところもあるんですね。まず基本的に職員室というものがない学校の方が多いし、もともと教員の孤立化(isolation)が問題になっている国です。そして授業研究はエキストラの給料払ってやるところもあるんだって。

 こりゃ、オラ、たまげたね。

 授業研究の発表している人に対して、「いくらインセンティヴを払ったんですか?」という質問がフロアから寄せられるわけです。

 どっひゃーだな、おい。

もちろん、アメリカは過剰一般化の危険な国ですので、Lesson studyだったら、すべて金を払っているというわけではないと思いますけど。少なくとも僕が参加したセッションでは、そういう話がでていました。

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 4)は、そのままですよね。
 要するに「打ち上げ花火的研究」とか「自分の研究室の中だけで完結する研究」はアカンぞ、と。外部とうまく連携して、なるべく「持続可能な実践」を構築せよ、と。そのためには、教員、学校、大学・・・のあいだに循環的な関係「ecosystem」をつくらなければならないぞ、ということではないかと思います。

 実は、これは6)とも関係しますね。6)のデザインリサーチにおいて、いわゆるプレ=ポストパラダイムを採用しない場合には、クロノジカルな比較っていうのが王道になるのではないでしょうか。その場合は、やっぱり持続可能な実践でないとね・・・経年比較にならんから、一発屋だと。

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 ここまでがかなり教育現場によった話で、5)、6)、7)は研究的な流行かなと思います。
 5)のNarrative Approachについては、注目されはじめてからずいぶんと長い時間がたちましたが、具体的な事例が報告されていました。

 6)の「Learning Science」はどこのセッションも満員近かったです。ただし、今年あたりは、いわゆる「テクノロジ利用」の既存のプロジェクトが終わり、大規模プロジェクトに移行する境目だと思うんですね。
 そういう意味では、既存の発表も新しい発表はあまりなかったように思います。来年、再来年あたりが楽しみですね。

 7)の「Neuro Science/brain Science」はどのように利用出来るか、を模索している感じでしょうか。

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 というわけで新春大放談でした。
 さようなら、また日本でお逢いしましょう。

stanford.jpg

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投稿者 jun : 2006年4月12日 16:59


手堅い研究のデザイン:全米教育学会最終日

 AERA最終日です。今日も朝早くから会議に参加しました(8時から・・・なんて早起きなんだ!アメリカの教育学者は)。

 下記、僕がオモシロイなぁと思ったセッションです。

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 まず一つめ。ジャネット=コロドナーさんがチェア、カール=ベライターさん、ジョン=ブランスフォードさんがディスカッサントをつとめる「複雑系」のセッションにでました。

bransford.jpg
熱弁をふるうブランスフォードさん

 このセッションでは、「複雑系をどのように教えるか」という話と、「複雑系」というものをどのように教育研究に活かすか、という2点が熱心に議論されていました。前者の話は、MITのStar Logoみたいな話。後者の視点は非常にオモシロイ。

 僕自身も、複雑系については数冊本を読んだだけなので、それほどわかっているわけではありませんが、それは「ある系を構成するエージェントたちが、それぞれ自律的に動き相互作用することによって、系の外部からの直接的な刺激や制約が与えられなくても、そこにある種の規則性やパターンが創発してしまう現象」、とまとめることができるでしょうか。

 複雑系では、このような現象を「自己組織化」といい、エージェントによって構成される系=モデルを「エージェントベースモデル」といいます。
 
 通常の科学では、ある現象を説明するとき因果関係(causal chain)を想定しますね。inputがあり、outputがある。共分散構造分析で分析されるな複雑なモデルでも、結局は、因果の集合です。
 現象があまりに巨大な場合は、ルネ・デカルトの有名な格言「困難は分割せよ」のとおり、要素に還元して因果をさぐることになります(isolable units of analysis)。

 しかし、複雑系の科学ではそういう因果関係の同定や、要素還元をいっさい行いません。エージェント間の相互作用により因果は循環する(causal loop / feedback loop)ものと考え、統合したダイナミックなモデルを構築することをめざします(integrated dynamic model)。

 たとえば教室の相互作用を分析する際、このようなモデルを使って現象を説明出来ないか、というのが本セッションのテーマです。要するに、どのように学習が創発するか(How learning is self-organized)するかをエージェントベースモデルをもって明らかにするのですね。

 とまぁ、ここまで簡単に書きましたけど、これは容易なことではありません。なぜかはここでは書きませんが、何をエージェントとみなし、エージェントの変数を何と想定し、何をシュミレートするのか・・・こうしたことを考えれば、わかるはずです。

 何だったらこのモデルが生き、何を表現しうるだろうか・・・ジョン=ブランスフォードさんの明快な指摘をききながら、ちょっと考え込んでしまいました。

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 次に参加したのは「先進的なテクノロジーの利用」のセッション。ここでは、ドイツの研究者ジャンさんが(Jan Ulrich Hense)、ゲームの教育効果について報告していました。

 ジャンさんが教材に選んだのは、Simgameというビジネスゲームです。ボードゲームとコンピュータが連動したものだそうです。

Simgame
http://www.simgame.org/

 これをスロバキア、オーストラリア、ドイツの3カ国の教師37名、25クラス、生徒465名に体験してもらい、そのプレポスト+質問紙を分析しました。異国間で評価実験をするなんてすごいよねぇ。

 彼の研究を聞いていてオモシロイなぁと思ったのは、その分析の方法です。彼は下記のようなモデルをたてました。

 ---

<input:初期状態>
 ・studentの初期状態、既有知識
 ・教師の動機
 ・教師の経験年数などなど

<Process>
 ・ゲームをしているときの生徒の会話

<短期間の学習効果:short-term learning effect>
 ・cognitive effect
 ・social effect
 ・motivational effect

<長期間の学習効果:long-term learning effect>
 ・生徒の学業成績の向上

 ---

 で、今回の研究ではshort-term learning effectのうちcognitive effectにどのような要因がきいているのかを重回帰を使って明らかにしおうとしたのですね。

 結論は、1)生徒の既有知識、2)教師の教えた経験が、cognitive learning effectをpredictする要因であった・・・というちょっと悲しい(なぜ悲しいかっていうと、ゲームはどこいった?という話になるから・・・)なのですが、このモデルが結構使えるんじゃないかな、と思ったのと、実験のデザインがうまかったので、なるほどねぇと思いました。

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 アタリマエのことなのですが、「研究とは、はじめる前に勝負は決まっている」のです。かつて、

 オマエはもう死んでいる

 という流行の台詞がありましたが、「ill desiged research」とは、

 オマエはもう負けている

 という感じなのですね。どんなにオモシロクても、どんなに実践的でも、どんなに子どもの目が輝いても、そこから知見をひねることは結構難しいのです。

 重要なのは研究方法論というヤツかもしれません。
 1)「実験計画」をキチンとたてられること、2)「開発 - 実装 - 評価」を一貫して計画できれば、もうすでに8割方、研究は終わっているように思います。8割は嘘かな・・・実装するのはツライもんね・・・だけど、かなりの部分は終わっているのですね。

 もちろんこれは自戒を込めて言っています。僕自身も日々勉強をしながら、「どないしよー」「やべー」「やってもうた」とのたうち回っています。エレガントになれないねー。難しいんですよね・・・いろんなことを気にしなきゃならないからね、煩悩が多いんです、教育研究は。だからオモシロくて止められないのだけれども。

 ---

 今日もなかなか収穫のあった一日でした。
 いやー、今日で最終日だけど、本当にきてよかったなぁ。
 帰ってシコシコとたまった仕事を取り戻します。

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投稿者 jun : 2006年4月12日 15:03


東大の授業、ポッドキャスティングで公開!

東京大学教養学部で実施された「学術俯瞰講義」のネット公開、ポッドキャスティングに関するニュースが、本日朝日新聞の朝刊、NHK「おはよう日本」にて紹介されました。

podcasting.jpg

朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0412/TKY200604110422.html

NHK「おはよう日本」
http://www3.nhk.or.jp/news/2006/04/12/k20060412000012.html

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投稿者 jun : 2006年4月12日 13:41


プロフェッショナルになるためには

 引き続き「全米教育学会」ネタです。「変則三面待ち」的な「時差ぼけ」によって(麻雀やっていた人にはわかるはず)、日中眠くて桃色吐息、虫の息なのですが(意味不明)、やはりここは「最大の勉強の機会」なのだと思い直し、頑張ってセッションに参加しています。ヒアリングしてたら、意識失いそうだけど。

 今日、一番面白かったのは、Professional Education(専門家教育)のセッションです。教育学研究者で知らない人はモグリというリー・ショーマン(Lee shulman)が座長を務めていました。

 ショーマンは、もともとスタンフォード大学に在籍し、教師研究を長い間行っていました。特に教師にとって必要な知識を「Pedagogical content knowledge:PCK」として定式化し、のちの教師研究に多大なる影響を与えたことで知られています。いや、ホント。PCKは、仮に「教師に関する研究をやっていまんねん」とおっしゃる人がいるならば、「知らずに生きていること」が許されない概念です。

 ショーマンさん、現在は、カーネギー財団先進教授学習センターの所長として活躍なさっていますね。

リー・ショーマン
http://www.carnegiefoundation.org/about/sub.asp?key=10&subkey=289

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 今回のセッションでは、「Professionality(専門性)」をどのように獲得するか、ということが中心的な話題でした。これを明らかにするために、工学、医学、看護、法律などの専門領域を選んで、彼らが専門性を獲得するプロセスをフィールドワークするのです。

 フィールドワークはチームで行われます。最初に、ある研究者が看護をフィールドワークする。で、今度は違った人がみる。要するに、交代しながらチームでフィールドワークするのね。そうやって、Cross validationをしつつ、「専門家になっていくプロセス」を観察するわけです。

 特に、このセッションで発表した研究者たちは、大学院やその他の専門教育機関で学習する方法、いわゆる「学校的学習法」と、状況に応じて生まれる「現場での学習法」がどのように接合するか、という点です。

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 一人目の発表は、カリフォルニア州立大学バークリ校の博士課程に通う女性でした。

 彼女は、「患者との出会い/診察(解釈)」「事例のディスカッション(コミュニケーション)」という新人研修医の活動が、「観察」「他者に支援されての診療」「自分ひとりでの診療」のどのレベルで実践されているかを観察しました。

 その結果、教育学的なインプリケーションとしては、研修医に対しては、1)なるべくAuthenticな学習の場を与える、2)期待をはっきり述べる、3)ガイドを行う/適切なフィードバックを行う、4)十分な時間を与える、5)学習した内容に責任をもたせる、などの点を指摘していました。

 彼女の研究は、「徒弟制的学習」の方にフィーチャーしたものですね。データはやや抽象的で、より具体的なものが必要だとは思いましたが、彼女はこれを実行するために、全米9つのメディカルスクールの3年生、4年生を対象にして、11のフォーカスグループを組んでもらってインタビューを行っているそうです。

 その苦労には、ホホーと感心してしまいました。今、彼女はドクター論文を執筆中のようです・・・ショーマンさんが言っていましたから。きっとそれで、ババーンと結果がでるのでしょうね。

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 2人目の発表は、現役バリバリの看護士さんによるものでした。彼女は、「実践を教えることはなぜ難しいか」を下記のようにまとめていました。

1.実践の中に埋め込まれた知識は、explicitにすることは不可能である

2.出来事(症例の変化)が起こったときに教えるしかない。そういうときにしか、学習の機会がもてない。

3.実践的推論は状況に基づいて実施される。重要なことは患者の状況は常に変わり続けるため、そこでの推論も変化することを前提に行わなければならない。

 その上で、現在の看護教育において行われている教育方法を2つに分類して話していました。
 ひとつめが「Cataroging and taxinomical teahing(カタログ・分類的教授)」というヤツで、もうひとつが、先ほども登場した「Apprenticeship」というヤツですね。

 前者の「カタログ化・分類的教授」というのは、症例のカテゴリー体系の獲得を優先した方法です。ひとつの症例を教えるのに、他との違いによって教えていく方法。それはとても静的に症例をとらえ、体系的、かつ構造的に教えていくのですね。
 2つの方法は、いわゆる徒弟制です。先輩看護士と一緒に、何か出来事があるたびに学んでいく方法。

 で、看護師の彼女が言いたかった結論としては、それらが統合された方法じゃないとダメだってことでしょうか。

1.生徒には「教示をともなう共同看護(collaborative nursing with instruction)環境」を提供する。協働するだけでなく、明確に教える必要がある。

2.患者は何を訴え、看護師はそれにどう答えるか、という関係を教えられるようにすること

3.患者の症例を一時的に切り取って教えるのではなく、その病状変化をケースに含むこと

 などのインプリケーションを述べていました。

 このことは数日前に大島先生と話していたのですが、やはり「教えなければならない基礎的な知識」は教える必要があるし、獲得してもらわなければならないのです。反復も必要なのですよ。

 なぜならば・・・敢えて理由をつけるのだとすれば、そういう知識は文化を超えて伝承されてきたものであり、それを獲得することが、社会に参加していくことであり、文化を継承していくことだからです。わたしたちは、文化や社会を構成する一員になる必要があるということです。

 このセッションが、「学校的学習法」と「現場での学習法(徒弟制)」の統合に焦点があたっていると言いましたが、ともすれば、教育学の議論は、徒弟制を過度に強調した議論になる場合って、そう少なくないのですね。そうするのが教育学的にコレクトな態度だと思っている人もいる。この問題には、そういう態度をとっぱらって、ゼロから考える必要がありそうですね。

 ---

 今回のセッションでは、看護に関する話題が語られていましたが、明日の日記で話しますけど、「Professional education」は、流行みたいなところがあって、AERA内での様々なセッションが組まれていました。

 プロフェッショナルについては、前に日記で「流行やでー」と書いたことがありましたが、今後も様々な研究が生まれていくんでしょうね。

流行としてのプロフェッショナル
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/02/post_58.html

 特に、今回採用されていた方法 - ある専門領域の人々がどのように熟達化していくのかを質的に明らかにする方法 - というのは、日本でももっと取り組まれてもいいのにな、と思いました。なぜか、教育工学では、こうしたアプローチは、なかなかないですよね。

 明日は、AERA最終日ですので、今大会をまとめるエントリーをひとつと思っていますけど。まとまるんかいな!?

いやー、今夜は寝るぞ・・・ほなね応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月11日 15:36


「ノリノリ!演歌」を恨む

 うーん、先日はからずも「時差ボケ」の上に、夜更かし(半徹)をしてしまったせいか、日中は常に「眠い」。その一方で、夜は常に「眠たくない」。

 てことは、日本時間てことですか、僕の体内時計は!

 夜中全く眠れないのもツライもので、昨日の夜は、なんとか寝ようと思い、ふとんに入ってカラダを温かくしながら「教育思想」の英語論文を読んだり!?していたんですが、全然ダメね。クソも眠くならん。

 しゃーないので、夜中の3時にホテルのフィットネスセンターにいって1時間走りました。

 いつも行っている日本のジムでは、いつもランニングは30分と決めているのだけれども、「疲れて眠れる」ためによ、思い切り走ったんださ・・・。

 でもさ、ipodの選曲が悪かったのと、フィットネスセンターに誰もいなくて歌い放題だったのが悪かった。歌っちゃうよねぇ、ステージになっちゃうよねぇ・・・。だって、一時間も黙々と走ってられないですよ・・・深夜なのにコワイし。

 昨日の選曲は「ノリノリ!演歌」ね。美空ひばりの「お祭りマンボ」、チータの「365歩のマーチ」だっけ、誰だか忘れたけど「星降る街角」とか、そういうアップテンポのものを集めたプレイリストがあるんです、僕のipodには。

 それを聞いて走りまくっていたんですけど、さらに吉幾三の曲が入っていたのが悪かった。「おら東京さいくだ」がきた。

 ハーッ
 テレビもねぇ ラジオもねぇ
 車もそれほど走ってねー
 ピアノもねー バーもねー
 おまわり毎日ぐーるぐる
 朝起きて 牛つれて
 二時間ちょっとの散歩道
 電話もねー ガスもねー
 バスは一日一度くる

 オらこんな村やだー
 オらこんな村やだー
 東京へでるだー
 東京へでただら 銭こぁためて
 東京でベコ買うだぇ

 この曲は、たぶん僕が小学生の頃の曲なのですが、久しぶりに聞いたのでハマッてしまいました。で、走りながら何回か繰り返して歌っていたら、次の曲は「オレはぜったいプレスリー」だったわけです。

 オレは田舎のプレスリー
 百姓のせがれ
 生まれ青森五所川原
 あら、いっぺんきてみなよ
 (中略)
 鍬ば片手に声だせば
 すずめこ 寄ってくる
 田舎育ちとバカにしの
 オレはプレスリー
 くみ取りしながら 歌い出せば
 ウ○コもいっしょに 踊り出す
 村じゃ ウン○のプレスリー
 イエイエイエイエー

 なんでか知らないけど、またツボにハマッて絶叫してました。誰もいないからね、そんな時間に。

 というわけで、本来「疲れるために走ったはず」なのだけれども、全然、眠くなくなっちゃった。僕、怖がりなんですよね・・・深夜にひとりで広いフィットネスセンターにいるってのが恐かったんだよね、きっと。じゃあ、歌っちゃえと。でも、おかげさまでストレスすっきりよ。

 結局眠りについたのは6時ね・・・思い切り、朝じゃねーか。ちなみに国際会議は8時15分からはじまって、午後5時までぶっ通しですよ。今日は絶対にいかなければならないものばかりだからね・・・あーあ。

 もういっそ、このまま日本時間ですごそうかな・・・。時差ボケなくていーだろ、その方が。
 
 ちなみに、僕はホッカイドウの田舎育ちですが、「電話」も「ガス」もありましたよ。便所は「くみ取り」だったけど。

 「くみ取り」で何が悪い?

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投稿者 jun : 2006年4月11日 10:30


カーネギーラーニング!?:全米教育学会報告

 AERAでは、今日も、ものすごい数の発表と熱い議論が繰り返されています。普通のコンサートホールレベルの建物を4つと、ホテルを1つ使って行われているんですね、学会が。なんか怪しい団体の集会じゃねーかってくらい人がいる。こんなにたくさんの教育学者を見るのは壮観ですね。

conferece.jpg

 以下、今回のAERAで僕がオモシロイなぁと思った発表をご紹介。

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■Self-directed learningと
  Contextualized tutoringを統合する

 うーん、これなんて説明したらいいだろうか。
 まず、Self-directed learningは「自分の責任で、自分の学びたいものを選択し、カリキュラムをつくり、成果をだしていくような学習」でしょうか。

 で、すぐに想像がつくように、こういう放任!?的な学習っていうのはあってもいいのですが、なかなか学習として成立しない場合が多い。教育学者なら、いわゆる「はい回る経験主義」とか、社会学者なら「反知性主義」とか批判する状態になってしまうと思うんです。そんなに甘いものじゃない、学習は。

 だから、Tutoring(指導)が必要だろう・・・ってことになりますね。で、どうせ、Tutoringするんだったら、それは学習の文脈や状況なされた方がいいよね・・・というわけで、このセッションになっているわけです。

 セッションは、コロラド大学のフィッシャーさん、スタンフォード大学のロイ・ピー、ノースウェスタン大学のコリンズさん、カーネギーメロン大学のケンさん、MITのレズニックさんなどが参加していました。

 MITのレズニックさんは、都市の子どもたちがコンピュータで何かを「つくる」ことを行う放課後クラブ「コンピュータクラブハウス」の話をしたり、「Logoによるアニメーションやゲームの開発環境:Scratch」などを紹介したりして、会場を沸かせていました。

コンピュータクラブハウス
http://www.computerclubhouse.org/

Scratch
http://llk.media.mit.edu/projects/scratch/ 

 レズニックさんは、ふだん、非常に優しいしゃべり方をするのですが、発表になると熱いですね。発表をはじめて見たので、とてもびっくりしました。

resnick.jpg
レズニックさん

computer.jpg
コンピュータクラブハウス

P1000158.jpg
スクラッチの画面

 あと個人的にすごいなぁと思ったのは、カーネギーメロン大学のケンさんの発表。いやぁ・・・いい意味で「執拗」ですよ。

LearnLab.org
http://www.learnlab.org/

 ピッツバーグ学派というのでしょうか・・・ピッツバーグ大学とカーネギーメロン大学は、「Intelligent Tutoring System(知的チュータリングシステム)」の開発では定評がありますよね。

 知的チュータリングシステムというのは、「学習者の回答状況をコンピュータが把握して、適切な指導を行うシステム」です。彼らは、ジョン=アンダーソンという人のACT-R理論という認知理論を下敷きにして、これを洗練しつづけているのですね。

 知的チュータリングシステムの研究というのは、1970年後半から1980年代にかけてとても盛んになったのですが、この時代からずっとそれを「シコシコ」と研究しつづけている。

 これがね、スゴイなぁと思った・・・。この「執拗さ」が。最近、僕はこういう研究者が好きなのです。
 で、そんだけ長い歴史があるわけだから、現在、このシステムはCognitive Tutorという名前で実用化されています。現在2000校が導入しているんだって。すげーな。

Cognitive Tutor
http://www.carnegielearning.com/

 上記のWebを見て下さい・・・Carnegie learningですからね。「東大式学習」ってことか。すげー。325000人も学んでいるのですね。

 ケンさんは、こうしたシステムの稼働状況に基づいて、いろいろなことを述べていました。
 なかでも、「あまり問題はこなせないけれど、学習者に自己説明を促す指導」と「たくさん問題を解かせつづける指導」では、どちらの方が転移がいいか、という実験は面白かった。

 自己説明っていうのは「学習者が自分の考えや操作について、自分で説明する学習方法」のこと。ほら、「わかっていても、説明出来ない」ってのがあるでしょう。でも、「説明できないならわかっていない」のですよね。

 自己説明研究が本格化したのは、Chiの研究からだと思うんですが(手元に資料がないので正確なことはわからん)、先行知見によると、自己説明の効果は、1)わかっている部分とわかっていない部分が明確になる、2)誤りや矛盾を発見出来る、なんてのがありますね。Chiさんの実験、自己説明の量と成績には、かなり強い正の相関があることもわかっている。

 で、ケンさんによると、

「自己説明を促す知的チュータリング」
   >「問題を解かせつづけるチュータリング」
 p<.01

 という結果がでたそうです。

 やっぱりね「自分で説明させる」というのは、よい学習リソースになるのですね。あのね、e-learningとか教材とかの作り込みでも、そういう「自己説明」のオポチュニティをなるべくつくるっていうのがいいのかもしれませんね。それにしても、自己説明をうながすチュータリングって、具体的にはどんな感じなんだろう・・・。話を聞きにいけばよかったね。

 ---

 このあと、ハーバード教育大学院の人がやっている「Game-based learning」のセッションにいったんだけどね・・・Multi-User Virtual Environmentを学習に使うという研究でしたけど。

ハーバードのゲーム研究
http://www.gse.harvard.edu/news/features/dede03012003.html

 「River city」「Quest Atlantis」といったMUVEがあるそうです。具体的なことや、学習の効果については、述べられていませんでしたので、よくわかりません。
 セッションでも述べられていたし、あとで話したMITの研究者がいってましたけど、「ゲームは15年周期で教育業界で流行する」そうです。でも、そこをネガティヴにとらえるのではなく、「古い皮袋にどういう新しさ(新たな学習の効果)を付加できるか」が問われるんでしょうね。

rivercity.jpg
River cityのデモ画面

 そして人生は続く・・・それにしても時差ボケなんとかならんかな・・・時差ぼけのワタクシメを応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月11日 02:33


大学院生向けの教科書

 ジェットラグに苦しんでいる。日中はアメリカ教育学会に参加。日本が朝になる午後6時あたりから、日本の仕事をする。寝る時間がめちゃくちゃになって、もう、何が何だかわからない。「今、眠いのはジェットラグのせい?」ってな感じである。昨日は夜3時に目が覚めた・・・それ以降一睡も出来ていない・・・地獄である。

 AERAでは、MIT留学時代に話したことのある、いろいろな方にあったけれども、先日、日本人では静岡大学の大島純先生にお逢いした。まさかお逢い出来るとは思っていなかったので、とてもラッキーだった。
 周知のとおり、大島先生は、学習科学(Learning sciences)の研究者として世界的にご活躍なさっている方である。

 大島先生とは、いろいろなお話をさせていただき大変勉強になった。が、その中でも、ひとつ印象に残ったことがあった。

 日本語で読むことのできる、学習科学の、大学院生向けの教科書みたいなものがないよねぇ・・・

 ということである。

 もちろん、放送大学の「学習科学とテクノロジ」「学習科学」、そして、北大路書房からでている「How people learn」は秀逸な本だと思う。ただ、より高度に、かつ体系的な知識を獲得するために、大学院生が読むような教科書が、そろそろ必要なのではないかという話になった。

   

 折しも、学習科学のハンドブックとして、「The cambridge handbook of learning science」が発刊される。こちらは前評判通り、かなりよい本になるとのことで、これをたたき台に何かできないか、ということで盛り上がった。

 前にアナウンスしたとおり、今年度、「学習科学の研究会」を東京大学で開催しようとしている。

魁○○塾 : 学習科学の研究会
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/03/post_131.html

 もちろん、これは僕だけの一存では決められないが、何らかのかたちでこちらと連携を果たし、学習科学の発展のために、何かできないかということを模索したいと思っている。

 やっぱり学会には参加するもんだよ・・・いろんなことがはじまるきっかけになるから。

 サンフランシスコは今日は激しい雨です・・・そちらはいかがでしょうか?応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月10日 10:33


ネットで教材をオープンにする運動

 大学などの高等教育機関がネットを使って教材をオープンにする動きは、「Open Educational Resources」プロジェクトとよばれることが多い。

 現在、世界にはどのくらいのOERが存在するのか・・・その代表的なものをカーネギー財団の飯吉先生の論文から紹介しよう(備忘録・・・自分にとっての研究メモにもなるし)。

飯吉透(2005) 教材と講義内容の公開による学びつづける教えのプロフェッショナルとしての大学教員と実践コミュニティの支援. 中大学教育研究 第5号 pp7-

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■OCW系

 まずもっとも代表的なものが、MIT OCW、およびその運動に共鳴した大学群によるOERである。

MIT OCW
http://ocw.mit.edu/index.html

日本OCW連絡協議会
http://www.jocw.jp/

China Open Resources for Education(CORE)
http://www.core.org.cn/cn/jpkc/index_en.html

ParisTech OpenCourseWare project
http://graduateschool.paristech.org/

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■SOFIA(Sharing of free intellectual assets)

 カリフォルニア州立大学のフットヒルカレッジが立ち上げた短大のOER。コミュニティカレッジ5校による教材公開。数は少ないモノの、ニーズの高い教科を選んで、インストラクショナルデザインがほどこされている。

SOFIA(Sharing of free intellectual assets)
http://sofia.fhda.edu/

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■カーネギーメロン大学Open Learning Initiatives

 次世代のオープンコースウェアと目されているもの。認知学習理論、インストラクショナルデザインの知見を反映した教材の公開。生物学、科学、経済学、物理学、統計学など7分野の教材を公開。

Open Learning Initiatives
http://www.cmu.edu/oli/

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■Connexions
 工学分野の最新の講義教材の不足という課題を克服するため、教材モジュールの交換を視野にいれた教材の共有サイト。大学、高等学校の教員によって、教材が公開されている。教材開発に関心のある教員、学生のオンラインコミュニティの支援も行われている。

Connexions
http://cnx.org/

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 もちろん、この他にも様々なOERが存在する。ヨーロッパ連合の実施しているARIADNEとか、カリフォルニア州立大学の実施するMERLOTであろうか。

ARIADNE
http://www.ariadne-eu.org/

MERLOT
http://www.merlot.org/Home.po

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 近年では、OERに非常に興味をもっているヒューレット財団が中心となって、「ネットで公開された教材」のポータルサイトを構築しようという動きもでているという。全世界規模のポータルサイトが、いよいよ誕生ですね。

 「教材のオープン化」の動きは、1990年代後半から2000年代初頭にかけて誕生し、もう5年ほどが経過しています・・・そろそろ節目を迎えるプロジェクトも多いですね。

 今後、どのような方向に向かっていくのか、目が離せない。

追伸.
教材のオープン化に関しては、様々な事が言われておりますけど、個々の大学がどのような戦略をもって、教材のオープン化に踏み切るかに関しては、大学によって、戦略が違います。これをおうと、よい研究になるのになぁと思いますけど。応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月 9日 20:12


大学職員、変革の時代

 現在、僕は、一日にだいたい400個くらいのブログを<見る>ようにしています。
 まずは朝起きて新聞を広げ、通読しますね・・・紅茶を飲みながら。それが終わって一息ついたら、コンピュータの前にすわりブログを読みはじめるわけです。これが僕の朝の日課になってからもう数年がたつでしょうか。

 もちろん、何もすべての内容を読むわけではありません。そこまで暇ちゃうで。見出しと出だしの数行を読んで、関係ないと思ったら、それ以上は読みません。

 僕のブログリストには、「この人は感度がよい人だ」と僕自身が判断した人のブログが登録されています(もちろんあくまで僕の独断と偏見)。
 登録されているのは教育関係のブログだけではありません。文学、経済、経営、心理、教育、医学、デザイン、工学、エログロ!?まで様々な領域の人たちのブログが登録されているんです。

 これらの人たちが日々見聞きしたこと、読んだ本、感銘を受けた言葉やニュースは、かなり僕自身にとっても、ムムムとうなることが多い。特に本はね・・・誰かが紹介している本でよさそうなものがあったら、すぐに発注します。

 日々忙殺されているので第一次情報になかなかあたれない分、ブログというフィルタを通して、情報を選別しているということになるのでしょうか。もちろん、詳細を知りたいと思ったときには、自分で一次情報に当たるようにしていますけど。

 ---

 最近、僕のブログリストにつづけて加わっているものに、大学職員の方々の書くブログがあります。彼らの書くブログは、とても感度がよく、大学のことに関するニュースだと、キャッチアップするのが最もはやいんですね。すごく参考になります。

 言いたいことを言いまくっている大学教員(ワタクシメも含む)のそれより、記事は正確で的確であるように思います。とても重宝しています。

 たとえば大学職員さんのブログには、下記のようなものがありますね。

僕の職場は大学キャンパス
http://blog.livedoor.jp/shiki01/

大学職員.NET
http://blog.university-staff.net/

 一昔前まで、大学職員と言えば、下記のような一部の職員のことが、たびたび問題になりました。もちろん、こういうのは一部の大学職員の事例ですが、少なくとも、大学職員のイメージは、そうよいものではなかったと思うのです(大学教員のイメージも悪いですけどね・・・)。

事務が事務の機能をはたさない
http://ameblo.jp/sphinx/entry-10011112581.html

 だけれど、法人化、少子化などいろいろな社会変革が重なって、最近は、職能の高度化・専門化が叫ばれるようになりました。
 たとえば、下記の大学の「DataWare house」は、とってもよい例ですね。こういう専門職員が求められているのですね、それぞれの部門で。

アメリカの大学事情
http://ameblo.jp/yanatake/entry-10010983532.html

 高度化・専門化が叫ばれる中で、感度の良い大学職員の方々は、インターネットを使って、様々なコミュニティをつくっておられるようです。僕も詳細は知りませんが、こんなようなものもあるようですね。

大学職員若手勉強会
http://banner.meganebu.com/~greenhorn-net/index.html

大学職員NETWORK
http://sns.university-staff.net/normal.php?p=login_do_login

 いずれにしても、これまで大学の中で閉じられていた人々の交流、学内でコンサマトリーに消費されていた情報、インターネットによって「つながり」はじめたということでしょうか。

 大学以外のあらゆる業界が過去10年に経験したのと同じように、この波に「乗れる人たち」と、「乗れない人たち」の間の格差、あるいは、「自分を高めようとする人たち」と、「定年まで平々凡々と生きていきたい」どんどん開いていくようになるのでしょうね。

 大学激変の時代と言われます。大学教員の世界、研究の様子もずいぶんと変わってきました。

 大学職員も変わるのでしょうか。・・・否、もう既に感度の良い人たちは、変わり続けているのですね。

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投稿者 jun : 2006年4月 9日 15:02


寿司屋に行きたい!

 最近、「寿司屋」に行くことが僕の楽しみなんです。

 寿司屋といっても、「まわり寿司」ではないし(僕の用語で回転寿司のこと)、作家池波正太郎先生が行かれるような「1回2万は覚悟!」みたいなお店ではもちろん、ありません。

池波先生がよく行かれた「寿司幸」
http://gourmet.yahoo.co.jp/gourmet/restaurant/Kanto/Tokyo/guide/0106/M0013000995.html

池波先生がよく行かれた「新富寿司」
http://www.ginza.jp/shintomi/

 カウンターがあり、気難しくない大将がいて、おいしいものを食べさせてくれる、しかし、(ここが一番難しい)リーゾナブルな寿司屋・・・そういうところに行きたいと思うんです。

 そういうところでは、セットで頼むのではなく、刺身、おつまみなどを食べたあと、最後に寿司をちょっとつまむ、という食べ方をします。
 お酒はやはり冷酒でしょうか・・・これを2合少々いただきます。これで、だいたい予算は7000円くらいになると嬉しいでしょうか。

 「なぜ、寿司屋がいいな」と思うようになったかというとですね・・・「旬のおいしいものを食べさせてくれるから」です。比喩的にいうと、「寿司屋で季節を知る」というのがいいなぁと思うようになりました。

 たとえば・・・冬はヤリイカ、ブリ、なまこ、ほうぼう、鯖。春は生ウニ、さくらえび。夏は穴子・・・そしてシンコ。秋はサンマ、カツオ、鮭・・・・。

 その食材が一番おいしい季節に、いただく。これが、最高の贅沢に思います。

 もうひとつの楽しみは、これらをいただくときに、大将に魚の話や、寿司をつくるプロセスをを聞くことです。これは本当にオモシロイ。

 大将の話といっても、「説教クサイ」のは嫌いです。そういうのは別の客にやってくれ。そういうことじゃなくて、「寿司をにぎること」に関する職人魂、プロフェッショナリティを語ってくれる人が好きです・・・もちろん、店に客がいなくなってから。

 失礼ながら、子どもの頃、寿司屋さんの仕事というのは、「お魚を仕入れて、あとは適当に包丁できって、ごはんの上にチョンチョンとのっけること」くらいだと思っていました。

 ところが当然ですが、これは違います。考えてみれば、これは本当に失礼な認識だよね・・・。

 寿司をにぎるには仕入れにいかなくてはなりません・・・朝の3時におきて、築地に買い出しにいく。これは真剣勝負ですし、どのくらい魚が必要かを読まなければならない。
 午前中、店に帰ってくると仕込み。これも本当に、気の遠くなるような時間がかかるそうです。で、ようやく店にたって寿司をにぎる。
 寿司をにぎる、という作業の背後には、途方もない時間や苦労があるのですね。

 我々は寿司屋で何気なく頼みますよね・・・「次、かんぴょうね」「ヅケまぐろ・・・お願い」「次は穴きゅう1本ちょうだい」「シンコをください」

 「かんぴょう」「ヅケ」「穴きゅう」「シンコ」・・・いずれも途方もない仕込みのあとに、ようやく食べられるお品なのですね。そういう苦労をききながら、旬の魚の寿司を食べるのが好きです。

 皆さんには行きつけの寿司屋がありますか?

 あー、なんだか、こういうことを書いていると、また寿司屋に行きたくなってきたねぇ。でも、ここはサンフランシスコだしねぇ・・・。どうせ、カリフォルニアロールしかないだろうし・・・。

 あと数日我慢かなぁ・・・1日1膳!?、1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月 8日 21:51


「大学教育の変革」を支援する

 学会初日です。今日は、カーネギー財団知識メディアラボの飯吉透(いいよし・とおる)先生にお会いしました。

kanegi.jpg

カーネギー財団知識メディアラボ
http://www.carnegiefoundation.org/programs/index.asp?key=38

飯吉透先生
http://www.carnegiefoundation.org/about/sub.asp?key=10&subkey=269

 飯吉先生は、かつて「NHKマルチメディア人体」などの教材を開発なさった方として非常に著名な方です。

NHKマルチメディア人体とは
http://beatiii.jp/seminar/010.html

 現在は、カーネギー教育財団の方で、「大学の変革を実行する人材 / 大学教育改善を行える人材の育成」などに関連する各種プロジェクトを実施なさっています。

 ---

 飯吉先生とは様々な事をお話ししましたが、非常に印象深かったことが2つあります。

 まず1つめは、「外部の機関が、大学の変革を支援するためには、どのような支援が適当なのか?」ということです。これに関して、カーネギー財団では、「サスティナビリティ」ということを重視したアプローチを採用して、様々な大学に対して支援を行っているのですね。

 ご存じのとおり、カーネギー財団は鉄鋼王カーネギーの莫大な資金を原資として、様々な教育機関、教育プロジェクトに支援を行っている非営利団体です。

 こう書いてしまうと、

「わーった、わーった、カーネギーは単に金を配っているってことだね?」

 と誤解されそうですが、それは違います。

 カーネギーは確かに1年間でかなりの額の経済的援助を行っているのですが、「単に金を配っている」わけではありません。

 彼らが非常に重視しているのは「サスティナビリティ(持続可能性)」ということなのです。要するに、「大学の変革が長く続くように、あるいは、教育改善の試みが持続していくための仕組み」をつくろうとしている。

 通常、教育機関を支援しようということになると「資金を配って終わりのファンド形式」をとりますね。要するに、「こんなことをやるよー」といってプロポーザルを大学などから募集して、審査をして、数千万単位のお金をつける。で、1千万円で○センチだぞ、なんていって、報告書を書かせる。報告書は、ファンドをだした団体のどこかのキャビネットに格納され、その後、目にしたものはいない・・・みたいな。要するに「丸投げドン支援モデル」です。

 ここに欠けているのは「サスティナビリティ」なのです。持続可能性がない。要するに「配ってしまって終わり」「短期間やって終わり」ということですね。

 じゃあ、カーネギーはどうするか?

 彼らは自前でCATSLという研修プログラムをもっています。ここでは、まぁ、いろいろなことをやっているのですが、特徴的なものに大学の経営者層を対象とした研修があります。日本でいうと、学部長以上、おそらく副学長、理事クラスを対象にした研修ということになるのでしょうか。

CATSL(Carnegie Academy for the Scholarship of Teaching and Learning)
http://www.carnegiefoundation.org/programs/index.asp?key=21

 全米の大学の経営者層の中から参加者を募集して、旅費・滞在費・研修費を丸抱えして大学変革に関する研修を実施しています。

 この研修では、

1)自分の教育活動を振り返って、まとめて、他者に公開するといった、いわゆる授業改善の方法を経験する

2)大学改革、大学教育改革のためのリーダーシップのあり方、俗にいえば「チェンジ・マネジメント」の方法を身につける

 などのことを実施します。
 
 通常、大学経営者層を対象にした研修というと(とはいっても日本ではなかなかないですが・・・)、真っ先に思いつくのは2)ですよね。でも、特徴的なのは1)にも取り組ませる。

 なぜ、この2セットに取り組ませるかというと、結局、自分の経営する大学にも「CATSL」のようなマインドのもったプログラムや研修の機会を作って欲しいからです。
 要するに「学内版CATSL」の制度をゆくゆくは参加者につくってほしい。言い換えるのであれば「CATSLを受講した大学経営者が、学内版CATSLをつくること」を期待してる。

 アメリカの大学経営者層というのは、任期中に何かプロジェクトをやることが求められます。大学経営者層には、大学経営者層の転職市場があって、「在任中にどのようなことを成し遂げたか?」によって、その後の転職先、給料もかわる。
 たとえば、ある地方の教育系大学の副学長をしていたとして、そこで業績をあげ注目されると、有名私立大学の副学長のポストが見えてくる。で、給料も「セーノーどん、ハラタイラさんは2倍」ってことになるわけです。

 要するに、カーネギーとしては、経営者層が在任中に「旗揚げ」する「自分のプロジェクト」に「学内版CATSLライクな試み」が取り入れられることを期待しているのですね。
 マクロに見ると、「旗揚げ」する「旗」のネタを提供しているということになるのでしょうか。大学経営者層に「個人のキャリアアップのための機会も提供」しているということです。

 あるところで、そうした試みに成功した場合、きっと転職先の大学でも同じ事に取り組みますよね。また元の大学では、いったん成功した試みは、そう簡単に辞めるということにはならない。
 そうやって、少しずつ「CATSLの試み=大学改革/大学教育改善の試み」が広まっていかせようとしているのです。
 最近の流行語でいうと、「エコシステム(ecosystem)」をつくりだそうとしているのです。
 
 ここが、僕は「さすがだなぁ」と思いまshた。

 「サスティナビリティのある教育変革」は、学習科学の最近のホットな研究潮流のひとつなのですが、その潮流をうまく、カーネギーの研修プログラムに取り入れている。
 また、何よりね、大学教員にインセンティヴがかかる仕組みにしていわゆる教育改善に取り組ませているところがさすがだと思います。

 「大学教員ならば教育改善に取り組むべきだ」とかいう精神論といいましょうか、根性論を廃して、テクニカリーにエコシステムをデザインしているところがいいなと思ってしまいました。こういうことは、誰でもできることではない。

 教育社会学が「当為を廃して事実を見る学問」であろうとするならば、教育工学は「当為を廃して現実をつくる学問」であると僕は思っています。先のCATSLの背後には、このような教育工学マインドが感じられました。

 もちろん、CATSLは米国の大学カルチャーの中ではじめて成功する、ひとつの支援モデルです。日本にそのまま当てはめるのは無理です。日本には日本の大学のカルチャーにあった支援モデルを考え出さなきゃならない。日本版のエコシステムをつくらなければならないのです。

 それが何か?
 皆さんはどう思われますか?

 ---

 本日印象に残ったことの2つめは、飯吉先生がおっしゃっていた下記の言葉です。

「米国の大学では、大学教育の変革に教育学部が関与しているかというと、そうでもない。どちらかというと、教育学部は、教育に<誇り>をもっていたり、そもそも教育は、というもっともな話をするので、大学は生かし切れない。しかし、一方で、教育学部には、教育に専門性をもつ人たちが集まっているのだから、当然、大学内部からは期待される。そこに皮肉がある。」

 先日、東京学芸大学の佐久間亜紀先生の論文「アメリカにおける教育系専門職大学院の現状と日本への示唆」を読んでいただけに、- もちろん直接論文と飯吉先生の指摘は関係ないのだけれども - 重ね合わせて考えてしまいました。「米国でふきあれる教育学部批判」には、教育学部出身者として、何だか複雑な気持ちになりました(今の政権、共和党政権だということもかなり関係しているので、フィルタをかけて聞く必要があると思います)。

佐久間亜紀「アメリカにおける教育系専門職大学院の現状と日本への示唆」
http://homepage3.nifty.com/sakumalabo/html/IDE.htm

 これについては、今後も、教育学部をめぐる米国の状況等をウォッチしていきたいと思っています。

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 それにしても、国際学会というのは、単に講演や研究発表を聞くためだけに行くのではないんですね。これに関して学習科学で著名なある先生が以前、こんなことをおっしゃっていました。

「国際学会にいったら、人にあって、最新の研究成果や、自分が今オモシロイと思っている研究を聞くことだよね。論文を読むよりも、はやくおおざっぱな学問の動向を知ることができるから。詳細に知る必要があったら、そのあとで論文を読めばいいのです」

 今日の飯吉先生とのミーティングでは、かなり多くの収穫がありました。

 自分が今年度から2年かけて取り組もうとしている研究が、それほどメインストリームの課題と離れていないこともわかったし、さらに、ある点を付けくわえればもっとよくなることがわかった。

 飯吉先生、貴重な時間をありがとうございました。

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投稿者 jun : 2006年4月 8日 13:15


アメリカ、教育学の層の厚さ

 下の電話帳のような本は、何だかわかりますか?

aera2.jpg

 これは、今、僕が参加しているAERA(American Educational Research Association : 全米教育学会)のプログラムです。

 ポイントはね、「プログラム」っていうところです。決して、「論文集:プロシーディングス」ではないのですよ。

 つまり、この数日に予定されている「セッション」の「タイトル」と「発表者名」をだけを書きつらねると、これだけの太さの「プログラム」になってしまうのです。ヘビーだね。

 ちなみに、AERAの場合、各人の発表の論文を集めた「論文集:プロシーディングス」はありません。プログラムだけでもこんなに厚くなってしまうのだから、論文集なんてつくったら、エライことだよね。誰も持てないぞ、そんなもん。筋肉を鍛える修行になっちゃう。

 プロシーディングスはないからね、論文が欲しければ発表を聞きに行って、その場に論文がおいてあれば、それをもらってくる。もしなければ、著者に直接問い合わせる必要があります。これはこれで、研究者同士のインタラクションが活性化されてよいと思っていますけど。

 それにしても、普通の教育系学会だったら、プログラムは、多くても30枚程度にしかならないと思うのです。それが、電話帳だからね・・・たまげるね。

 このことだけからも、いかに、アメリカの教育学会の層が厚いのか・・・これだけ見ただけでわかってしまいますね。

 発表は、「神経科学の教育応用」から、「デューイの教育思想」、「Educational Ledership」、そして「モバイルラーニング」「インストラクショナルデザイン」まで、本当に多岐にわたっています。
 日本だったら、社会学は社会学、心理学は心理学、工学は工学という風に、すべてアプローチによって学会がわかれて、なかなか一同に介する機会はないですね。そういう意味では、AERAは「教育学のEXPO」と言えるかもしれません、まさに。

 これから数時間かけて、明日からどのセッションに参加するかを決めたいと思っています。これだけでも、ひと苦労だよなぁ。

 でも、ここで結構発見があるんだよねぇ・・・「あー、あの人、こんなことを言い始めているのか」「こんな概念が流行ってきているのか」みたいなね・・・。

 Enjoyしますよ・・・時差ぼけだから、きっと夜は長いだろうし・・・応援1クリックをお願いします!

投稿者 jun : 2006年4月 7日 14:43


それってeラーニング?

 通常、インターネット上に「Webのコースウェア(教材)」があって、それを使って自学自習することが「eラーニング」だと考えられています。まぁ、いろんな定義があるけど、最大公約数は、そんなところでしょうか。

 パラパラとテキストをめくるように、Webを見ていき、最後にテストをするような感じのものが、一般に考えられているeラーニングのイメージなのでしょうか?

 でも、ラーニングって学習することですよね?、「e」は「インターネット」関係のサービスにつく接頭語でしょ?そうだとしたら、下記の活動は、「eラーニング」と呼んではいけないのでしょうか?

Wikipediaで調べものをするのは、eラーニング?

Googleで検索を行って、複数のWebページから、あることについてレポートをまとめたりするのは、eラーニング?

NASAのホームページにFLASHコンテンツがある。それで、火星について学ぶのはeラーニング?

NINTENDO DSの「えいご漬け」で学ぶのは、eラーニング?

国連世界食糧計画のつくったゲームソフト「FOOD FORCE」で、飢餓救済と食糧計画について学ぶのは、eラーニング?

 さてどうでしょうか?
 もちろん、これらの問いに答えなんてないですけど。

 いっそ全部ひっくるめて「eラーニング」にしちゃう? 白書の定義をあてはめて、全部「eラーニング」とは呼ばない? それとも、それぞれに別の名前つけて、類型化する?

 ---
 
 あんまり、「いわゆるeラーニング」にこだわっていると、いろんなものが、見えなくなっちゃうと思うんです。世の中に、いろいろなカタチで現れている現象、ツール、教材を、「学習」とは関係ないようなものと判断してしまう。

eigo.jpg

 「いわゆるeラーニング」が盛り上がろうが、廃れようが、学習は学習!!!

 eラーニングという言葉や概念は廃れることはあるかもしれません。ですが、この世に人間がいる限り、学習は廃れませんし、今日も明日も続きます。見つめるべきは、「学習」なのではないか・・・時差ぼけのアタマでそう思いました。

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投稿者 jun : 2006年4月 7日 04:51


絵門ゆう子さん逝く:がんとゆっくり日記

 朝日新聞 東京版で3年にわたり人気コラム「がんとゆっくり日記」を連載していた絵門ゆう子さんが、3日夜亡くなった、とのことである。

絵門ゆう子さんのホームページ
http://www.asunet.net/emon/

 絵門さんは、79年にNHKに入局し、NHKニュースワイドなどのキャスターを勤めたあと、2000年に乳がんの診断をうけ、全身転移。その後、治療のかたわら、各地で講演を行いつつ、朝日新聞に「がんとゆっくり日記」を連載していらっしゃった。

 患者の立場から、現代の医療や病とのつきあい方について、具体的な、そして心優しい提案を行っていた。

 「がん患者は死が近くて、かわいそう」というのではなく「病院だから何もできないというのは違う」「できる範囲で期待して欲しい」とい思いをいつももっていらっしゃったとのことである(朝日新聞4月6日朝刊30面より引用)。

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 我が家は朝食のあいだに、2人で朝刊にすべて目をとおす。この数年間、絵門さんのコラムを読むことが楽しみにしていただけに、非常に残念な想いがする。しかし、その想いは患者にも、そして医療関係者にも伝わっていたのではないだろうか。

 心よりご冥福をお祈り致します。

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投稿者 jun : 2006年4月 6日 07:04


交渉力をつけろ!

 生きていくためにやらざるを得ないことは、あまたあるけれど、その中でも、最もシビアで、それでいてスキルの獲得が難しいことのひとつに、交渉(negociation)がある。

 交渉の古典である「Getting to yes」によれば、交渉のポイントは下記のようにまとめられるのだという。

1.<立場>でなく<利害>に焦点を合せる
2.複数のオプションと可能性を与える
3.客観的基準を強調する
4.<人間>と<問題>を分離して、相手の立場にたつ

 以上4点、どれも重要だなぁと思いつつも、僕個人の感覚からいうと、最も重要なのは1であるような気がする。
 交渉の際、立場に焦点をあわせてしまうと、「立場が異なるのだから」、それ以上、話が進まない。「立場の衝突」とみなすと、すぐに短絡的な結論、自虐的な結論に至りやすいのである。それよりは、利害を調整するというスタンスにたって、話し合いを継続させる方が、お互いにとってメリットがある。

 しかし、これは自戒をこめていうけれど、世の中の交渉は、いかにこれとは全く逆の稚拙なものになってしまいがちなことか。

 問題と人間を分離出来ず、「あの人たちは~な問題を提起した人たちだ。だから○○な人たちに違いない・・・だから次も○○するに違いない」というイメージにからめとられる。オプションを1つしか提示せず、別のシナリオを考えない。立場の衝突をことさら招くような論法を使うなどの稚拙な交渉に、つい、僕らは絡め取られてしまう。そして、そういう場合に悲惨なのは、当の本人は、その誤りに全く気づいていないことである。

 交渉は面倒である。しかし、これができないと、オモシロイことができない場合もある。たかが交渉、されど交渉である。

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投稿者 jun : 2006年4月 5日 20:03


それでもアメリカをなぞるのでしょうか?

 先日のエントリー「おちおち病気になれない」には、皆さんからたくさんのコメント、メールなどをいただきました。ありがとうございました。

おちおち病気になれない
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/04/post_147.html

 寄せられた意見には様々なものがありましたが、

1.「小さな政府」「市場化」などをキーワードにした新保守主義の思想のもと、日本の医療や教育が急速に「アメリカ化」していること

2.「市場化」の弊害に苦しむアメリカの暗部 - それはマスメディアではなかなか語られないことであり、「アメリカのやること/なすこと」をすべてもちあげる一部の知識人には知られていないこと - を見ずして、アメリカをめざす動きが、とめようもない状況に陥っていること

 などに関する懸念が多く見受けられたように思います。

 アメリカは本当に大きな国です。ダイナミックで、先進的で、世間を「あっと言わせる」勢いのある国です。しかし、アメリカには、なかなか海外には伝えられない暗部があることも事実です。そして、「アメリカの○○は○○である」という一般化なかなかできない国でもあります。そのことは過去の日記でも書きました。

2004/02/12 アメリカの教育は
http://www.nakahara-lab.net/2004diary02.html

 こうした場合、「アメリカのよいところを学び、悪いところは他山の石とする」、というのが模範的回答なのかもしれません。しかし、今の僕には、そうした予定調和的な物言いがあまり信用出来なくなっているのも事実です。

 それでもアメリカをなぞるのでしょうか?
 我々は重大な岐路にいるのかもしれません。

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投稿者 jun : 2006年4月 5日 14:53


教育学のデパート

 明日からサンフランシスコに出張です。AERA(American Educational Research Association : アメリカ教育学会)に参加するためです。

AERA2006 Anual Meeting
http://www.aera.net/annualmeeting/?id=282

 AERAは、おそらく世界でもっとも大規模な教育学者の集まりということになるのでしょうか。世界中から約1万人の人たちが集まります。僕は、2年前のサンディゴ大会に参加したことがあるのですが、そのときはハイアットみたいな巨大ホテルを2つ貸し切って開催されました。

 AERAのすごいところは、その「懐の深さ」にあります。教育思想、教育史、教育経済学、教育社会学、教育心理学、教育工学・・・教育関連諸科学の研究者がみな一同に会するのですね。まさに「教育学のデパート」みたいな感じです。

 人生いろいろ、教育学もいろいろです。教育学にはいろいろなアプローチがありますね。で、普通はこれらは高度に分化していて、別々に学会が開かれます。だからアプローチの違う研究者と会うことはほとんどありません。

 ですが、AERAではそれができる。他のアプローチの研究者の話も、聞く機会があります。今からとても楽しみです。

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投稿者 jun : 2006年4月 5日 08:20


キャンパスでお花見

 山内研究室の方々、MEETの西森さん、望月さん、中原らで東大キャンパス内でお花見をしました。夜桜です・・・本当に綺麗だった。

yozakura.jpg

 都内の桜は、もうそろそろ散ってきていますね。たぶん、今日、明日あたりが限界なのかなと思います。そういう意味では、本当によい時期にお花見をすることができました。

 このお花見、山内研究室の三宅君、鈴木まりおさんの尽力で実現しました。場所をとったり、お総菜を買ってきたり、巻きずしをつくったり、お酒を買ってきたり・・・大変だったと思う。そういう影の働きとかね・・・言い出しっぺになって雰囲気をつくるのって、言うのは簡単だけど、なかなかできないことだと思います。

sakura.jpg

 おかげさまで本当に楽しい時間を過ごせました。本当にありがとうございました。この場を借りて感謝致します。

 来年もできるといいね(催促・・・笑)。

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投稿者 jun : 2006年4月 5日 00:14


詰め込み教育のこと

「耳の穴かっぽじって、よく聞きなさい。理屈なんてあとからついてくる。アタマの中に、先生の言うことを詰め込みなさい」

「詰め込み教育はダメなんです。そういう教育で人間性が失われ、いじめが増える、不登校が増える結果となるのですから」

「早期幼児教育ですよ。幼児のアタマは柔らかいのです。そのうちに全部丸暗記、詰め込んでおくべきなんです」

 世の中では、「詰め込み教育」という言葉を含む様々な教育言説が存在する。

 それにしても、この「詰め込み教育」という言葉は、僕にとっては本当にオモシロく感じられる。

 1)詰め込み教育という言葉の内実が議論されぬまま用いられていること、2)「詰め込み教育か、ゆとり教育か」みたいな感じで、「詰め込み vs アンチ詰め込み」が語られていることから、どうも奇異に感じられて仕方がない。

 教育工学や学習科学の観点からいえば、そうした問題の切り取られ方に欠けていることのひとつは「そもそも知識は詰め込めるのか? 詰め込めないのか」ということだと思う。

 「詰め込むべきか、詰め込まぬべきか」そして「詰め込めるのか、詰め込めないのか」・・・非常に似ているけれど、この2つの問いは根本的に異なっていることに注意が必要だ。

 詰め込み教育というものの実態がどのようなものであるか、そこが実は本当に議論する必要があるところなのだけれども(先にも述べた、ここが一番のポイントだったりする)、それが仮に「脱文脈化した知識や手続きを記憶し、その知識をもとに他の問題を解決することをめざすこと」だったすると、僕はこう言いたくなる。

「知識を詰め込むべきだという議論は、いったん脇においておいて、そもそも知識は、そんな風に詰め込むことができるのですか?」

 1980年代、90年代の認知科学、学習科学が明らかにした知見によると、その答えは必ずしも肯定的なものではなかったはずである。たとえ記憶ができたとしても、領域固有の問題があったりで、必ずしも他の領域に知識を活用することが難しかったことは記憶に新しい。

 そうだとすると、「詰め込めないものを、詰め込むべきだ」というのは、根性論や精神論の世界の話だと思ってしまう。

 ---

 雑誌では、今日も「詰め込みか、否か」という問いがたてられ、<教育評論家>が意見を戦わせている。今週号AERAには早期幼児教育の記事が掲載されていた。それによると、激烈きわまる受験大国、韓国では、「詰め込み教育からの揺り戻し」がきているのだという。

 またも振り子は、揺れるのか?
 ・・・無反省に、そして根拠レスに。

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投稿者 jun : 2006年4月 4日 10:53


寄附研究部門立ち上げ&辞令をもらった

 正式には新年度は4月1日からはじまっているのですが、今日が初日ですね。前々からこの日記では触れていますが、本日付けで、寄附研究部門が立ち上がりました。

 正式名称は、

 東京大学
 大学総合教育研究センター
 マイクロソフト先進教育環境 寄附研究部門

 です。

 この部門の客員教員として、西森年寿さんと望月俊男さんが助教授として着任いたしました。お二人とも「協調学習」がご専門です。お二人と同僚として研究出来ることが、僕はとても楽しみです。

 加えて、こちらはきわめて私事ですが、僕も4月1日付けで「助教授」を拝命いたしました。先ほど辞令をもらってきて、プロフィールを更新したところです。

プロフィール
http://www.nakahara-lab.net/profile.html

 これまでよりさらに教育、研究に「励みたい」と思います。
 今後ともご指導、ご鞭撻のほど、なにとぞ宜しくお願い致します。

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投稿者 jun : 2006年4月 3日 06:55


おちおち病気になれない:アメリカの医療費

 先日、あることから「アメリカの医療サービス」について調べていていました。完全に市場化されているアメリカの医療の事例をもとに、「市場化の果てには、どんな未来が待ち受けているのか」っていうことを考える、みたいな話なんですけど。

 で、こんな記事をみつけた。

毎日キャリアナビ
http://career.mycom.co.jp/job/backnumber/america/index.cfm?volume=40

>アメリカは医療費がばか高い。
>先日、歯医者さんで親しらずを
>抜く治療見積もりを見て、イス
>からずり落ちそうになった。
>その額なんと$1,200(約13万円)!

 親知らず抜いて13万円!・・・いやぁスゴイ。先日、うちのカミサンが親知らずを抜きましたが、2000円くらいだよ、2000円。65倍ですよ・・・。

 でもね、実は、アメリカの医療費が高いってことには、僕もちょっとした経験があるんです。
 2004年、僕がアメリカに滞在していた頃、ストレスだったんでしょうかね、今まで痛んだことすらなかった、「胃痛」をはじめて経験した。なにせ胃痛なんか経験したことないからさ、なんか怖くなって、現地の病院に行ったことがあるんです。

 病院といっても、なんていうのかな、大学の教官研究室みたいなところにいるドクターと面接するっていう感じで、おおよそ病院らしくないんです。

 看護婦さんはいないし、待合室もない。完全予約制で、個室でドクターと二人。カルテもあるんだか、ないんだかよくわからない感じ。

 ちなみに通院した病院は、ボストンの人なら誰でも知っている某有名私立○○大学医学部の付属病院。ドクターはそこの助教授ということで、あやしい感じではなかったと思う。

 まず予約された時間に、トントンと「教官研究室」をたずねます。で、そのあとはドクターにひたすら質問攻めにあいました。で、ひたすらそれに答えた。でも、いつまでたっても、基本的には対話だけなんですよね・・・やることが。
 診察らしいものといえば、聴診器をあてたことと、背中をポンポンと叩かれたことくらい。もちろん治療はなしよ。「寝てりゃ治る」みたいなノリです。えっ、それだけかい!と思わずつっこみたくなる。

 異国だったこともあり、さすがに不安になって「検査とかはしないんですか?」と聞いたら、その先生、急に機嫌が悪くなった。「なんか言いました?」ってな感じで、とにかく、不機嫌そう。

 だってさ、日本で「胃」が痛いということになれば、「だいたいはまず胃カメラをやる」というのが常道でしょ。同じ医療なんだから、そんなに変わらないだろよ。
 で、ちょっと聞いてみたかっただけだったんですよ。そしたら、なんて言ったと思う、そのドクター。驚愕の事実が告げられました。

「胃カメラね、胃カメラ希望ですか。じゃあ、やってもいいですけど、1500ドルくらいになります。よろしいですね? ちなみに保険はきかないです」

 オッサン、しゃーしゃーと抜かしたね、コラ!
 1500ドルといえば、アンタ、当時で16万円くらいですよ!ぶったまげました。
 だってさ、胃カメラを日本でやったら、保険がきいて5000円ちょっとくらいじゃないの?保険きかなくたって、2万円はいかないですよ。

 もちろん検査は断りました。
 だって、日本に帰ったって、オフシーズンだったら渡航費で10万しないよ。検査代が5000円だったらさ、日本に帰って検査受けた方が安いんだから・・・。

 でさぁ、そのとき、僕は思ったね。

「あー、この国では、命もカネで買うんだなぁ・・・おちおち病気になれんわ。」

 本当に心の底から、このことが実感出来たんです。僕はそのとき、本当に怖くなったよ。でも、今まで「アタリマエ」に思えてきた日本の医療制度ってのがスゴイことなんだってわかった。よくできているんだなぁと思いました。

 でさ、そのときの経験を大学のみんなに話したらさ、特別驚かないわけよ。あるアジアの女の子なんて、こう言ってた。

「お金持ちが長生きできるのは、わたしの国ではアタリマエだけど、日本じゃ違うの?」

 あっ、そうなの。皆さんのお国では、アタリマエなんだ、と。

 ---

 こうしたことは、留学したことのある人だったら、だいたい、同じような経験をもっているのではないかと思います。Webでざっと検索したら、たとえば下記のような記事をみつけました。

アメリカの医療費
http://www.urban.ne.jp/home/haruki3/america.html

ヘリに乗ってはいけない
http://www.tanteifile.com/diary/2004/01/10_01/index.html

盲腸で1万3000ドル
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/n_ame/ny.html

 おー、恐ろしい!
 本当に病気にはなれんぞ、これじゃ。マンハッタンで1日入院したら一泊20万から30万って・・・。そんだけとるなら、なんか、スゴイモンでてくるんだろうな。ものすごいスペクタコーを見せてくれるんだろうな、そんだけボッタくるんだから。

 実際、アメリカの個人破産の半数の原因は、医療費だそうです。

アメリカ:個人破産の半数は高額な医療費が原因
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2005/02/post_3.html

 実際、アメリカ人も困っているんでしょうね。

 この経験のあと、知り合いのお医者さんに聞いたところによると、アメリカの医療費高騰の背景には、医療訴訟と保険料の高騰の問題があると教えてくれました。それが結局、ぜんぶ、患者の負担にはねかえってるんだねー。

 あと、過剰な検査をすぐにやっちゃう日本の医療にも問題はあるんだよ、と教えてくれましたけど。そりゃ、そうだろうなぁ。

 ---

 その一方でさ、先日読んだ本には、こんなことが書いてありましたよ。

「お金さえあれば、素晴らしい医療が受けられる国、それがアメリカである。いまや、日本のお金持ちは、日本の医療を見限るようになる。アメリカの高度医療を進んで受けようと、渡米して治療する時代になるだろう」

 うーん、こう言われるとさ、よくわからなくなってくるよねぇ。

 僕は専門家ではないし、そもそも、日米で医療文化には差があるだろうし、広範な医療問題全般を、このエントリーで、データ抜きで論じることには無理があると思います。

 もちろん、サービスにはクオリティというものがあるので、「全員に等しく同じ医療を提供する」っていう理念がいかに現実的ではないということも、またそうするべきではない、ということもわかる。

 でも、とても月並みで、おおよそ研究者らしくない物言いなんだけどさ、行き過ぎるとコワイよねぇ。ホント、行き過ぎるとコワイ。それだけです。

 こういっちゃ、シロウト議論で恐縮なんですけど、「市場化と公共性のうまいバランスはないものか」と思ってしまいますね。今の日本の状況は、「国民皆保険の制度で平等を守りつつ、医者選びには市場主義をはたらかせる」という方向なのでしょうけど、そのあたりでぜひ、落としどころにして欲しいというのが、患者としての実感です。

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投稿者 jun : 2006年4月 2日 21:55


自腹でマンガを買うカミサン

 他人にとってはどうでもいいことだとは思うけど、うちのカミサンは絶対に自分でマンガを買おうとしない。自分の好きなマンガを人に買わせて、あとでゆっくりと読む。

「たまには、君が買ってよ」と言うと、「なんか、マンガを買うって、お金がもったいない気がするんだよね」と、しゃーしゃーと言ってのける。「じゃあ、読むなよ」というと、「なにさ、減るワケじゃあるまいし」と逆ギレする。

 アンタ、鬼嫁?

 この性格、幼い頃から培われたものらしい。カミサンは長女だが、自分の読むマンガを、幼い自分の2人の妹たちに買わせて、それで読んでいたとのことである。自分の方が、たくさん「おこづかい」をもらっているのに・・・。

 むごい・・・あまりにむごすぎる。
 ていうか、虐待?

 そういえば、昔、似たようなヤツがいたよなぁ。人の買った「週刊少年ジャンプ」を読みに、人のうちに遊びにきて、読み終わったら帰るヤツ。

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 結婚してはや5年・・・だが、この悪しき慣習、いつかは絶たなければならない。今こそ、天誅を!、今日こそは許さない、と僕は覚悟した。

 最近の僕のお気に入りのマンガに「医龍」っていうのがあるのだけれども、彼女と書店にいき、買う寸前までは、いつものように僕が払うような雰囲気にしておく。そして、買う土壇場になって、マンガをすべて押しつけ、素知らぬ顔して逃げる。

 「なんでわたしが・・・」と言葉につまっているけれど、レジうちは既に終わり、支払いが彼女に要求される。

 ダハハハハ。
 かくして、彼女は生まれてはじめて、自腹でマンガを買った。

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投稿者 jun : 2006年4月 2日 21:16


与謝野る

 いつものように朝食をとりながら朝日新聞を読んでいて、思わず笑ってしまった。中学生の造語の話。

 与謝野る
 ザビエる

 意味わかりますか?

 「与謝野る」は、「髪が乱れること」。「ねー、ちょっと与謝野ってるよ」という漢字で使われるらしい。「ザビエる」は、おそらく、「カッパハゲ」、いわゆる「アルシンド系」と予想しますが。

 「人名+る」「人名+ってる」は、昔からよく使われていますよね。それにしても、素朴で笑えた。

 他にはどんなのがあるのでしょうか?

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投稿者 jun : 2006年4月 2日 09:30


全学として取り組む「教育の情報化」

 東京大学トップページに、「UT OCW」「TODAI TV」へのリンクが掲載されました。今まで、「UT OCW」はあったのですが、「TODAI TV」はなかった。晴れて2個掲載です。

東京大学
http://www.u-tokyo.ac.jp/index_j.html

 「大学が全学体制で教育の情報化」に取り組んでいるかいなかは、大学のトップページを見ればわかります。そこに各プロジェクトへの個別のリンクがあれば全学。そうでないなら、全学体制ではないということです」

 と講演などで、僕は言い続けてきました。そんなこともあり、とても嬉しいです。
 みなさん、ぜひ、各大学のトップページをチェックしてみて下さい。みなさんの知っているプロジェクトへの個別リンクがそこにありますか?それで学内での位置がわかります。

 「なんだ、そんなことかしょーもない」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、東京大学は大きな組織です。いろんなことがあります。ここまでくるのに1年かかりました。なかなか大変なのです。

 具体的には、明日発表しますが、TREEプロジェクトもPHASE2に入ります。幸先のよいスタートが切れて本当によかったと思っています。

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投稿者 jun : 2006年4月 2日 08:40


コンテンツって言うな!

 先日、京都出張に行っていた際、ある人とこんな話をしていました。「コンテンツという言葉のもつ功罪」についてです。僕らの結論としては、「教育関係者はコンテンツって言うな!」の一言です。

 なぜそんなことを言うかっていうと、「コンテンツという言葉は、思考を停止させる」可能性を秘めているからです。

 たとえば、いわゆる「eラーニング」の業界で、よくこんな会話がなされるのを耳にします。

A「ここをクリックすれば、コンテンツがでてきます。コンテンツは、いつでも、どこでも見られることができます」
B「どんなコンテンツなんですか?」
A「経営学のコンテンツです」
B「そうですか」
(次の話題へ)

 上記のAとBの会話は成立しているのですが、僕としてはやや不満が残ります。こういうぼんやりとした会話だけで、教育のこと、学習のことが語られきってしまうことには抵抗感があります。

 こうした会話では、経営学を教えるための「何か」を開発したことはわかるのですが、その「何か」でどのようなことを教えるのか、学習目標は何か、どのような素材が準備されていて、どのような教えるための工夫がなされているのか、といったことが全くわからないのです。

 たとえば、「経営学のコンテンツ」というもので、実際は「文字がひたすら並んでいる」かもしれない。はたまた、「経営者へのインタビュー動画」かもしれない。それは初学者向けかもしれないし、大学院生向けかもしれない。

 そういったディテールが、すべて「コンテンツ」という言葉に回収されてしまう。「コンテンツ」という言葉の背後には、様々な学習の諸条件が存在しているのにもかかわらず、そういう条件がすべてふっとばされてしまう(実はここにはポリティクスも働いているよねぇ)。で、何となくわかった気になる。

 コンテンツという言葉を聞いた瞬間に、「あー、なるほど、コンテンツね」という感じで、安心してしまうんですね。もちろん、現代社会に生きる人は時間がないですから、コンテンツの詳細にまで、いつも気を払って生きていけない。でも、少なくともコンテンツを議論したりする場所、それが問題になる場所では、コンテンツという言葉でモノゴトを済ませてしまってはいけないのではないかと思います。

 そもそも、コンテンツという言葉の背後には、「Interoperability(相互運用性)」とか「Universal use」の思想が見え隠れしていますが、「いつでも、どこでも、どこでも、使えるようにコンテンツ」なんてそうそう存在しないんです。

 どんな学習者をターゲットにして、どんな場面で、いつ使われることを想定して、何を、どのように提示するか・・・すべてコンテンツが開発されるときには、そういう諸条件というか前提があるのだと思います。僕の言葉でいうならば、「Learning Designの5W1H」なんですけれども。で、コンテンツを売り買いする人たちは、コンテンツについて議論する人たちは、そういうものに敏感になる必要がある。

 少なくとも、「コンテンツという言葉を聞いて、あーそうですか」ってわかったような感じになってはいけないと思うのですね。

 とにかく、教育に関するリッチな会話、実のある議論をしたかったら、そして「ド○ュンコンテンツ」をひきたくなかったら、つまりは「ババ」をひきたくなかったら、「コンテンツ」という言葉を使うのをやめたほうがいいと思います。

 その場合、きっと多くを冗長に語らなければならなくなる。でも、その冗長さから、よりよい理解が生まれるはずです。

 コンテンツって言うな!

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投稿者 jun : 2006年4月 1日 08:45


ウーマンズアイランド、マキアージュ、CM曲

 先日、このblogでも話題にしたウーマンズアイランドで、何度も何度も執拗にかけられていた、マキアージュのCM曲が、ついに発売されるそうです。

ウーマンズアイランド
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/02/post_85.html

 先日書店をのぞいたら、林真理子の小説もでてるんだよねー。

 一粒で、何回、おいしさをねらうのかね。ひとつが売れれば、他も売れる。他も売れれば、また他も売れる。いわゆるシナジーですね。

 うまいねー、このビジネスモデルは。

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投稿者 jun : 2006年4月 1日 01:16


出口のない論法で叩きのめす

 先日、愛読書「読むクスリ」を読んでいたら、こんなことが書いてあった。

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たとえどんなに理屈として正しくても、出口のない論法で相手を追いつめてはいけません。

中略

逃げようのない叱り方をしてはいけません。その人を本当にだめにしてしまいます。どこかに逃げ道をのこしておいてやってはじめて、叱った効果がでるのです。

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 なるほど、これは深い。

 論理にまかせ、相手を「ぐー」の音も出ないほど叩きのめし、完璧に追いつめてしまうことは危険である。

 「出口のない論法」は、追いつめる側の人間のカタルシスには寄与するだろうが、「追いつめられる方」にとって、あとに残るのは嫌悪感情、そして復讐の念だけである。
 「追いつめられた憎悪の炎」は、忘れ去られることなく、めらめらと揺らめき続ける。確かに胸に手をあててみれば、僕自身も完璧に叩きのめされ、幼気なそのココロに、憎悪の炎がともった経験がないわけではない。鳥頭なので、すぐ消えるけど・・・。
 しかし、これでは「追いつめる方」にとっても、「追いつめられる側」にとっても、前向きなことは何一つない。

 「アタマがよい」とは「論理的である」ってことだけを意味しない。「アタマがよい人」とは、「適切な避難場所をつくってあげつつ、論理的に話せる人」のことをいう。

 それは本当に難しいことである。

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投稿者 jun : 2006年4月 1日 00:01