「オレオレ」と「アクティブ」に疲弊する社会!? : パッシブよりアクティブ、他律より自律が求められる時代に刺さるうた:吉野弘詩集「生命は」「I was born」を読む!?

 先だって、山下津雅子さん(かんき出版)と渡辺清乃さんと打ち合わせをしていたときのことです。ふとしたことから、現代という時代を生きる人々が、日々の生活に追い立てられ、ついつい忘れてしまいがちな感覚がありますね、というお話になりました。

 僕は、ともすれば、現代社会を生きる人が、ともすれば忘れてしまう感覚として

「己は、他者に支えられて生かされている」

 という感覚があるよな、と思っています。
「他者に支えられて自己がある」という感覚。そして、ややメタフォリカルな物言いになってしまいますが「生きている」のではなく「生かされている」という感覚。
 自戒をこめて申し上げますが、これらは今を生きる人々にとって、忘れ去られがちな感覚なのではないかと思うのです。

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 一般に、世の中は、人々に徹底的に「アクティブさ」を求めます。
「パッシブよりはアクティブな方がいい」とされますし、「アクティブよりは、さらに前のめりなプロアクティブがよい」とされます。
 たとえば「アクティブラーニングなんてしょーもない。これからはパッシブラーニングだよね!」なんていう人を、僕は聴いたことがありません(笑)。

 また「他者に支えられる」よりは「自ら動き、自ら立つほうがよい」とされます。「他律よりは自律が望ましいもの」と評価されますね。「自律」というのは圧倒的なポジティブワードです。
 
 もちろん、自らの強い意志でどっしりと根をおろし、プロアクティブに物事や環境を探索することは、大切なことです。生きるためには、それは必要なこと。しかし、これがともすれば行きすぎてしまい、バランスを失うと

「オレが、オレが」を日々声高に主張し、他者を押しのけ
「アクティブ、プロアクティブ」に追い立てられる事態

 が発生します。

 そして、いつか自ら倒れてしまうか、人は他者を倒してしまうのです。
「オレオレ疲れ」と「アクティブ疲れ」が蓄積の果てに。

  ▼

 ここで大切なのは、「己は、他者に支えられて生かされている」という中に含まれる「自己を存立せしめる他者の存在」と「生かされている」という「受け身」の感覚です。

 人はオレオレとアクティブを常に駆動できるほど、強くはない。
 まことに、人は、フラジャイルです。
 だからこそ、あなたがおり、わたしがいる
 わたしたちは、他者を生かし、他者から生かされている

 僕は、どうやら、そういう「人間観」に深く共鳴するところがあります。
 その背景には、僕自身の自己イメージがあるのかもしれません。僕は自分が「弱い人間」であると思っているからです。意志もフラジャイル、体力もどちらかといえばフラジャイル!?
 そして、そんな人間観は、自己の学問、すなわち「人材開発研究」にもかなり色濃く反映されているような気がします。

 対して、人材開発の世界は、この真逆の人間観をよしとする傾向があります。そこにある人間観とは「積極的行動を常に為しうる強い自己・自我」です。
 もちろん、そういうのも大切なのはわかるけど、どうも、それは僕の描きたいものではないんだよなぁ・・・と思っています。他に誰か描く人がたくさんいそうで、敢えて、僕がやるべきことではないように感じるのです。

 フラジャイルな人間がいかに他者から生かされ、他者を生かしていくのか。

 究極には、おそらく、そこを描きたいのかなと思うのです。

 おそらく、そんなことを声高に自分が主張しても、「積極的行動を常に為しうる強い自己・自我」という支配的な人材開発の言説は、今日も、明日も、そしてあさっても、支配的でありすぎるでしょう。だからこそ、それとは真逆の人間観をもつ人材開発研究をなしたいなと思います。それが「永遠のカウンター」にしかならぬことを重々承知しつつ。

 まことに、人は、フラジャイルです。
 昨日の会議では、この話題に関連する詩人として、渡辺さんから「吉野弘さん」を教えてもらいました。

 吉野弘さんは、サラリーマンとして、詩人として生き、市井の人にもわかる平易な言葉で、人間の弱さや痛さを読んだ方です。「正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい」という「祝婚歌」などの詩は、よく結婚式でも朗読されますので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。

 いろいろウェブを検索してみますと、吉野さんの詩は、ここ数年、ブームになっておられるようですね。その要因のひとつには、「オレオレ」と「アクティブ」に疲弊した人々への救いがあるのかな、と感じました。

 下記の「生命は」「I was born」をどうぞご覧下さい。
 あなたは「オレオレ」と「アクティブ」に疲弊していませんか?

  ーーー

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい

花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命はその中に欠如を抱(いだ)き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

「生命は」吉野弘・詩集『風が吹くと』1977年より

 ▼

I was born
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青
い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやっ
てくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女
の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟
なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世
に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれ
る>ということが まさしく<受身>である訳を ふと
諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。

---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----

 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。
僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。そ
れを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとっ
てこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだか
ら。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬん
だそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくる
のかと そんな事がひどく気になった頃があってね----

 僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だと
いって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く
退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入
っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。と
ころが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっ
そりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目ま
ぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとま
で こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの
粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>という
と 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことが
あってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお
前を生み落としてすぐに死なれたのは----。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひ
とつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものが
あった。

----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいで
いた白い僕の肉体----

「I was born」吉野弘 吉野弘詩集

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追伸.
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投稿者 jun : 2015年1月31日 11:19


「僕の書斎」はただいま移動中!? :北へ南へ、東へ西へ!

 先日、ある方から、質問を受けました。

 中原さんは、いつも、どこで、文章を書いてるんですか?
 書斎ですか? それとも研究室ですか?
 よくそんなに書けますね。
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 面白い問いですね。
 答えを「1枚の写真」でご提供させていただきましょう(笑)。
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 こちらです。

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 おわかりいただけましたでしょうか。
 そう、「通勤電車」の中ですね。ひざにノートパソコンをのっけて、ガシガシと論文を書いています。写真の左側に、隣の人の靴がうつっているところが面白いでしょう(笑)。なかなか写真を撮るのも勇気がいりました。まわりの人ごめんなさい。

 自宅に書斎があるといいんですけど、、、我がにそんなものはありません。でも、たぶん、書斎があったとしても、小さなオコチャマが2名いる環境では、静かにものを書くことはできないと思います。執筆をはじめて数分もすれば、KENZOがオラオラとよってきます。TAKUZOが背中に乗ってきます。そういうものです。

 研究室を使えるといいんですけど、、、研究室ではずっと打ち合わせや面談が入っていて、論文を書く暇など1ミリもございません。研究室は、完全に人と出会う場になっています。あるいは、大学の事業、事務作業などをする場所です。猛烈な勢いでそれらをこなしているので、きっと、研究室での僕は、「おら、今、話しかけんじゃねーオーラ」がメラメラと出ていると思います(笑)。

 というわけで「通勤電車が僕の書斎」です。
 マイ書斎は、常に「動き続けている」、移動中です。北へ南へ、東へ西へ(笑)
 僕のすべての論文、本はすべてここで書かれています。

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 しかし、「通勤電車がマイ書斎」を恥じているわけではありません。むしろ、本当に落ち着くんです。いや、負け惜しみじゃなくて、本当に。

 通勤電車でものを書いていると、まわりでどんなことが起ころうと、隣の人が立とうと、くしゃみをしようと、僕は全く気になりません。
 目的地の大学近くにくるまで、完全にマイワールドです。月に1度は、乗り過ごすくらいです。

 というわけで、このブログも、通勤電車で書かれています。
 今日も一日頑張りましょう!

 明日は週末だね
 そして人生は続く!

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投稿者 jun : 2015年1月30日 06:29


【御協力・RT・シェア拡散お願い】「現場マネジャーの抱えるディレンマ」を絶賛募集中!:えーい、どないせーちゅうねん系悶絶ディレンマ、あなたの周りにございませんか?

【悶絶系ディレンマ絶賛募集中!】
 皆さんの抱えているディレンマをぜひ教えていただけませんか?

 のっけからお願いで恐縮なのですが、今日は、少しだけ、皆様にお願いがございます。実は、僕とヤフー株式会社執行役員の本間浩輔さんの共著で、光文社さんから新書を出す計画をしています。

 何の本か、と申しますと、

 「現場マネジャーの抱える、ひとにまつわるディレンマ」

 の本なのです。

 ディレンマとは「どっちを選んでも、メリットもデメリットもあるような2つの選択肢を前にして、それでも、どちらかを決めなければならない状況」ですね。ワンワードで述べるならば、「あっちがたてば、こっちがたたない」てこと? 「にっちも、さっちも、どうにも、こうにも、ブルドック?」古い?(笑い)

 先に述べましたように、おおよそ、組織の中のことで、人にまつわることには、様々な「ディレンマ」がつきまといます。かつて、ある学者は、マネジメントの本質を「ディレンマのやりくり」とかきました。組織の中の現場のマネジャーは、人にまつわることで、様々なディレンマを抱えているはずです。

 たとえば部下育成に関しては、「コーチングとティーチングのディレンマ」というのがございますね。
 ものの本を読むと「コーチング」が重要だと聞くけれど、部下に試してみたら、「自分のやりたいことばかり話して、職場の方を向かない」。とはいえ、「ティーチング的」に指示をしてみたら、こんどは「やらされ感」に苛まれ、どうもしっくりこない。

 えーい、どないせっちゅうねん!
 こんな経験、皆さんにはおありですか?

 たとえば、マネジャー自身のキャリアにまつわるものとしては「実務担当者とマネジャーのディレンマ」というものもございます。
 30歳を過ぎて、ひとかどの仕事を、きちんとこなせるようになってきたけれど、このまま実務担当者で居続けるのがよいのか? 実務担当者でいてもいいんだけど、年を重ねて今のままの成果が出せるかは不安。それともマネジャーへの昇進へのキャリアをとるのがよいのか。マネジャーになったら、人を管理しなければならないけど、自分は仕事は好きだけど、人は嫌い。

 えーい、どないせっちゅうねん!
 こんなとき、皆さんならどうなさいますか?

 たとえば、人事という観点でいえば、採用にまつわるものとして「新卒採用と中途採用のディレンマ」というのもございます。
 新卒をとって白紙から育成してコミットメントを高めるのが人事戦略としてベターなのか。でも、新卒を育成するのは大量のコストがかかる。それとも即戦力を期待して中途採用者を求めるのがよいのか?でも、もうすでに色がついている中途は、思ったよりも成果がでないこともある。

 えーい、どないせっちゅうねん!
 こんなとき、皆さんならどうなさいますか?

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 私たちの本では、こうした「人にまつわるディレンマ」「現場のマネジャーの抱えるディレンマ」を数多く取り上げ、それぞれに対して実務家ならどのように捉えるのか。アカデミックには、どのように考えるのかを論じていきたいと思っています。
 本を読んだ方が、一回、ディレンマの背後にひそむ問題を把握したうえで、最終的には、読後に「どちらに決めること」を支援させていただく本になったとしたら、とても嬉しいことです。

 私たちは、ディレンマを前に、行き当たりばったりで、適当に、どちらかにコミットすることは許されていません。とはいえ、ディレンマを前に立ち尽くすことも許されていません。そう、ディレンマは、必ず、いつかは「どちらかを選ばなくてはならない」のです。

 敢えて循環論的に述べるのであれば、わたしたちは、日々、下記のようなディレンママネージングモデルをくるくると動かさなくてはなりません。

 1.ディレンマへの出会い
 2.ディレンマの理解
 3.意志決定
 4.リフレクション

 本書が、多くの人々の抱えるディレンマに、なんらかの前向きな答えをだすお手伝いができたとしたらうれしいことです。

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 そこで、皆様に、もし可能でしたら、お願いがございます。わたしたち自身も、最近、ディレンマ収集を行っているのですが、著者だけでは少し思考に偏りがあり、限界があるように思います。

 そこで、皆様には、みなさまの周りにある、また皆様が経験したことのあるディレンマを、わたしたちにお寄せ頂けないでしょうか?

 お寄せいただいたディレンマは、すべてを本に載せることはできませんが、収集分類したうえで、本書のテーマにあうもの+共通なテーマだと思われるものを、本書、ないしは、このブログなど著者に関連する講演等で取り上げさせていただきたいと思っています。
 またお寄せ頂いたディレンマは、匿名で表示させていただき、また、、またクレジット表示はいたしません。恐れ入りますが、著作権等も放棄をお願いいたします。著作人格権の主張もどうか、お控えください。

 上記をご理解いただいたうえで、ぜひ、御協力いただけるという方は、どうか、皆さんのお近くにある「現場マネジャーの抱えるディレンマ」「人にまつわるディレンマ」をお寄せいただけますれば幸いです。

 形式は下記のフォームの該当箇所を埋めて頂けますと幸いです。

1.「   A    」と「    B     」のディレンマ
2.どんな出来事があったのか? どのように対応なさったのか?
3.氏名(任意:匿名でも可能)
4.メアド(任意:匿名でも可能)

 の入力をお願いいたします。
 フォームは下記となります!

【悶絶ディレンマ絶賛募集中!:2月17日まで】
現場マネジャーの抱えるディレンマをお寄せ下さい!

https://docs.google.com/forms/d/1noCTFwdMa0o0P9YJK_8YIOBHXbMI-LUnlMynK0SAVhw/viewform

 皆様の御協力どうかお待ちしております。皆様の抱えるディレンマに根ざした本、地に足がついた本をつくりたいと願っています。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月28日 12:40


サーベイフィードバックと対話による「教員研修」!? : 地方に広がる「若手教員の大量採用」にどうそなえるか?

「経験10年未満のメンバーが56%を超える専門職組織」で、誰もが通ったことのある「身近な組織」といったらなんでしょう?

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 答えは「学校」です。それも一部の都市部の小中学校。

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 昨日は、いわゆる「Y校」で、年に一度恒例の風物誌的イベント?に登壇させていただきました。

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 「Y校」とは横浜商業高校のこと(先日、この高校をY校とよぶことを知りました!)。風物誌的イベントとは、横浜全市の10年次の先生方と、副校長先生ら、約1000人が一同に会して行われる「人材育成フォーラム」です。
 年に一度の「人材育成フォーラム」は、「調査と研修をつなげることをめざした我々の研究活動」の重要な機会です。

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 この経緯は少し長くなります。

 僕は「学校教育現場の研究」は、今は全く行っていないのですが、4年前ちょっとした縁がきっかけで、横浜市教育委員会さまの教員育成プロジェクトにかかわらせていただくことになりました。先ほど述べましたように、一部の都市部のしかも小中学校は、団塊世代の退職+中堅教員の少なさにより、経験の浅い教員が、学校全体の50%を上回るような状況がここ数年続いています。

 少ない中堅・ベテラン教員で、いかに経験の浅い教員を支えていくか。
 今から5年前ほど前、このことに関心をお持ちになり、拙著「職場学習論」をお読み頂いた横浜市教育委員会の前田崇司さん(横浜市教育委員会事務局・北部学校教育事務所 指導主事室)が、研究室を訪れ、プロジェクトがスタートすることになりました。


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 プロジェクトは2段構えです。
 まず第一に、横浜市教育委員会の先生方、そして研究室の脇本さん(元・東大・特任助教)、教育学研究科・勝野先生の研究室の町支さんらと一緒に、

1.1年次、2年次、3年次、5年次、10年次の横浜市の先生方に対する質問紙調査

2.人材育成に熱心ないくつかの学校への訪問調査

 をさせていただきました。

 そのうえで、ここで出てきた数々のデータ、知見、事例をすべてミックスして、研修に仕立て上げ、同市の研修内容の一部(主に10年次研修の一部3時間)を僕たちで担わせて頂くことになりました。

 研修内容は、

 ミドル教員として、経験のあさい教員を支える学校づくりに、どのような貢献をしていただけるか?

 を考えていただくことですね。

 研修は「講義式」「座学」を極力廃し、「対話型」にしました。数字やデータは「対話のきっかけ」となるように提供させて頂きました。
 勘の良い方ならおわかりですが、これは企業・組織開発でいわれるところの、いわゆる「サーベイフィードバック」の考え方の一部を、教員研修に導入させていただいたことになります。

 このブログでは、これまでにも何回か、同市の教員研修の話題を書かせて頂いたことがあります。

数字を「お返し」し、物語を「紡ぐ」10年経験者研修
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/07/1011410_123510n500100010_10_10.html

「他人の育成」を手がけることで「自分の能力」を伸ばすこと
http://www.nakahara-lab.net/2014/01/post_2165.html

 メンバーの町支君もブログを書いているようなので、ここで紹介いたします。

教育委員会という「現場」:メンターチームプロジェクトから
http://ow.ly/I364h

 ここで最大のポイントは、ここでお返しする調査のデータが、他ならぬ、自分たちの学校の、自分たちの若手の先生方、ないしは、「自分たちのデータである」ということです。
 どこかの市に住む誰かが答えたものではない、まして、お役所が提供したデータではない。自分たちのデータだからこそ、当事者意識が生まれ、また自分の学校の様子を考えることができます。

 こうしたサーベイフィードバックは、これまでいくつかの企業研究で、僕は行ったことがありました。が、教員ではやったことがなかったので、試みてみることにしました。

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 夏の10年次研修では、サーベイをフィードバックしつつ、自分たちの学校の様子を振り返り、今後半年間に、ミドルリーダーとして学校づくりにどのような貢献をするかを決めます。
 先日、Y校で行われた「人材育成フォーラム」は、その発表の場であり、選抜された小学校・中学校・高校の先生が、それぞれの学校づくりの様子を1000人の方々に向けてお話しをしていただきました。
 ご発表いただく先生方には、プレゼンテーションをTED風にしていただくことをお願いしました(笑)。なぜTEDか?は、確たる理由も根拠もないのですが、何事も、遊び心です。やったことがないことにチャレンジしていただくのがよいでしょう?

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 ここに10年次の先生だけでなく、管理職の先生にもご参加頂いているのは、ミドルリーダーが動くための環境を、管理職の先生にも作って頂きたいと教委の方が考えているためだと思っています。

 人材育成フォーラムにかかわらせていただくのは、僕は、今年で4年目ですが、年々、先生方のご発表は、洗練されていっているように感じます。ご参加頂いた先生方、心より感謝いたします。

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 今日の話は、横浜市の話でしたが、

 若手教員の大量採用+支える中堅・ベテラン教員の減少

 は、これから地方中核都市にどんどんと「進行」することがわかっています。これまでは、大都市圏の限られた場所、「課題先進地」での問題であったものが、日本全国の問題になっていくのです。

 今後、僕自身は、教員研究を行っていくことはないですが、次世代の研究者である脇本さんや町支さんが、この問題を扱っていくそうです。春には、彼らが編著者(僕は監修のみ引き受けました)となった専門書も、北大路書房様から出版されます。編集者の奥野さんとのお仕事です。

 もちろん、企業と学校は「全く違う組織」であり、それを一緒くたにすると「暴挙」はできません。これは学校の内側も、外側の世界をも、垣間見たことのある自分だからこそ、絶対にそう思います。しかし、企業研究で培われた、「研究の方法論」は、時に学校研究にも役立てることができるのではないかと感じています。役立てる、と言えなくても、ヒントにすることはできるのではないでしょうか?

 教員研究を行っていく若い世代が、ぜひ、多くのチャレンジをしてくれることを願っています。最後になりますが、このフォーラムでは、横浜市教育委員会の田中磨理子さん、安冨江理さんに大変お世話になりました。心より感謝いたします。ありがとうございました。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月28日 06:55


「盛り上がったけど思考停止しているワークショップ」と「沈黙しているけどダバダーと深く学んでいるワークショップ」!?

 研修やワークショップなどを実施した際、その様子を「語りうる言葉」の問題について、ちょっと前になりますが、ある方と議論になりました。たしか、研修の効果測定での議論だったように記憶しています。こんなしょーもないことに対して、ぐだぐだと議論しているのは、僕のまわりくらいだけかもしれませんが(笑)、別に暇人なわけではありません。いたって真面目なのでございます(笑)。

  ▼

 研修やワークショップなどを実施したあとで、その様子を語りうる場合、もっともよく用いられる言葉というのは、

「めちゃめちゃ、盛り上がりましたよ」
「いまいち、盛り上がりにかけましたね」

 というものですね(笑)。いわゆる、ひとつの「盛り上がり度」です(笑)。

 人は何を見て、その研修やらワークショップやらを「盛り上がっている」と意味づけるのか、というRQ(リサーチクエスチョン)も、これまた味わい深いのですが、今は、それについては触れないようにしましょう。

  ▼

 もっとも興味深いのは、「盛り上がっている」という研修・ワークショップ状況の記述は、研修やワークショップの「プロセスを語る言葉」であって、「成果を保障していないという事実です。仮に、それらの成果を、受講生が「考えること」「行動を変えること」におくならば。

 たとえば、

「わーわーと盛り上がったけど、誰一人、問題については、まともに考えちゃいない」

 とか

「めちゃめちゃ盛り上がったけれど、ひとっこ一人、行動をかえていない場」

 というのは存在しうるということになります。

 反対に

「みな沈黙しているのに、しかしそれでいて個人の頭の中は、まったりとディープラーニングしている、ダバダーなワークショップ」

 とか(意味不明)

「盛り上がりは今ひとつかけるが、そこに参加している個人が、考え込み、行動を変えるきっかけになる場」

 いうのも存在するかもしれません。
 つまり、「ものを考える」「行動を変える」という軸は、「盛り上がる」という軸とは直交し、様々な可能性の象限をつくりうるということになります。
「盛り上がっているけど、成果はシオシオのパー」とか「盛り上がっていないけど、渋く成果を生み出している場」というのは存在し得ます。
 しかし、ややこしいのは、「盛り上がっている」というものが、もし学習者同士の相互作用の頻度であるならば、それは、第三者が外的に観察可能ですが、後者の「考えている」とか「行動を変える」というものは、その時点で外的に観察可能なことではありません。それは「個人の内部にある潜在的な要因」であるか、「未来にひらかれている要因」ですので、その時点での研修を語りうる言葉としては、やや不足があります。まぁ、帯に短し、たすきに流し、という状況なのかもしれませんね。

 ▼

 今日は「研修・ワークショップが盛り上がること」ついて書きました。もちろん「えぐるように盛り下がる」よりは「そこそこ盛り上がった」方がいいような気もしますけれども。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2015年1月27日 09:39


若手・見習いの「下積み・下働き生活」とは本当に妥当なのか?:「最近の若手が育たない!」と口にする前に一瞬考えてみたいこと!?

「昔は、"コテをもたせないという教育方法"だったんですね。とにかく、若い子には、"コテを持たせない"で、長いあいだ下働きをさせた。それが"教育"だったんです」

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 先だって、人事専門誌「人材教育」さんの取材で、文京区にある原田左官工業所さんを訪問させていただきました。「中原淳の学びは現場にあり!」という取材でのご訪問です。

原田左官工業所
http://www.haradasakan.co.jp/

 原田左官さんは、独自の職人教育で注目されている企業です。同社では、原田宗亮社長から、同社の人材育成について、貴重な話を伺い、また、同社の2名の職人さんたちに壁塗りトレーニングの実演とお話を伺うことができました。

kotewo_motaseru.png

 お忙しいところ貴重な時間をくださったみなさまに、この場を借りて御礼申し上げます。また、今回の仕事は、例のごとく、井上佐保子(学び続けるライターさん)と編集者の西川敦子さんとのお仕事です。お二人ともお疲れさまでした。

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「コテをもたせないという教育方法」の脱却。
 同社の人材開発の方針は、原田社長のお言葉を借りてワンワードで申し上げますと「コテを持たせない教育方法」から「コテを持たせる教育方法」に「変えた」ということです。

 かつて、左官職人さんたちの人材開発とは、他の職人の育成同様、職場に入った見習い職人が、実際に"コテをもって壁を塗らせる"というところに至るまで数年の時間をかけるものでした。

 左官の仕事をワンワードで述べますと、「コテを使って壁を塗ること」です。であるのに、「コテを持たせない教育方法」というのは、非常に奇妙に一瞬きこえるのですが、そうしたものが実際に一般的であったということです。
 若い見習い職人には、コテを持ち壁を塗らせる練習をするまえに「壁に塗る材料」を混ぜさせたり、道具の準備をさせたり、とにかく「コテをもたせず」数年過ごさせ、それでも、ついてくるなら、

「じゃあ、そろそろ、おまえ塗ってみるか?」

 ということになった。
 もちろん、それは全く不条理であったわけではなく、昔は「材料」があまり安定的で良質ではなかったため、左官の作業に占める「材料作り」の役割は、今よりも大切であった。だから、若手にそれを任せるのは、それなりの意味があったかもしれない。しかし、今は材料も安定し、以前よりも少ない苦労で材料はつくることができる。若手育成をめぐる状況は大きく変わってしまった。それなのに、見習いの育成システムとはあまり変化がないのだとしたら、そのあたりは問題かもしれない。
 このあたりは、別に職人教育だけでなくても、様々な仕事の現場において、今も存在していそうですね。

 ともかく、左官の業界では、そうした徒弟制を眼目とした職人教育が、従来一般的であったといいます。
 これに対して、原田左官さんでは、ビデオによるモデリング(模倣)を積極的に職人教育に取り入れます。
 まず、日本でもっとも尊敬されるといわれる左官職人の塗り壁の様子を、徹底的にビデオで学び、「模倣」させます。その上で、社屋の一部に設置されたトレーニングスペースで、若い職人にすぐにコテをもたせて、べニア1枚分の壁に土を塗る作業を繰り返しやらせます。1時間で20回安定して、壁を塗ることができるようになった頃に、このトレーニングは終了です。あとは、「現場での教育」に接続させます。

 もっとも興味深いのは、こうしたモデリングのプロセスで、若い見習い職人さんたちが、身につけているものが「壁を塗るスキル」ではない、ということです。正しくは「壁を塗るスキル」ももちろん身につけるんだろうけど、それが大切なのではない。

 原田さんの言葉を借りれば、モデリングで身につけるのは、

 「現場に入ったときに、職人から学び、模倣する目を身につける」

 だといいます。
 いくらコテを持たせて、トレーニングスペースで修行をさせても、やはり、壁塗りのもっとも大切なところは、「現場」にいかなければ学べない。
 しかし、従来のやり方で、いきなり現場に放り込んでも、若手は、様々にいる現場の職人の仕事のやり方に翻弄されてしまう。
 また「見て、学べ」とか「模倣して、学べ」といっても、「学ぶべき視点」や「模倣する視点」を若手はもっていない。だから、まず「学ぶための目」「模倣するための目」をトレーニングで養う、というのです。

 かくして、このようにして現場にいった若者にはどのように変化が生まれるか。原田さんによりますと、「粒が揃うようになる」そして「スピードが増す」のだといいます。
 従来は、勘のいい子は現場にいって、すぐに技を憶えられるが、そうじゃない子は10年たっても、あまり上達しなかった。それが、この方法を取り入れてからは、多くの見習い職人さんたちが、一定のクオリティで、安定的に仕事を覚えられるようになった。また、そこに至るまでのスピードも、非常に速くなったといいます。経営に与える影響は非常に大きいそうです。
 もちろんこの方法も万能ではありません。たとえば、早期にコテを持たせることによって、「一人前になった」かのような錯覚をもってしまい、それ以上、研鑽をつまない若手が生まれる可能性はゼロではない。しかし、メリットとデメリットを天秤にのせて合理的に考えた場合、メリットの方が大きいと思われます。

  ▼

 ふりかえって考えてみると、面白いことが2つあります。
 
 ひとつは、従来の徒弟制、職人教育で、たとえば、最近の若い者が育たないという場合、その教育方法は妥当なものでったのか、ということです。
「最近の若手が育たない」と述べるまえに、「育てるやり方」が妥当なものであったのか、ということを振り返る視点がぜひ必要です。特に「下積み生活での不条理な待遇」「下働き生活での破天荒な扱い」は、ともすれば、それを経て一人前になった人にとって、ロマンを感じやすく、自ら、それを無反省に再生産しやすい。
 要するに、

 「オレも、これで一人前になったんだから、オマエもこのやり方でOKだろ」
 
 となりやすいですし、

 最悪の場合には、
 
 「オレも、若い頃はヒドイ目にあわされたんだから、今度は、オマエも味わえ」

 となりやすいということです。
 このことは、先だって、僕のブログ記事でも問題にしました。

「背中」と「現場」と「ガンバリズム」に甘える国ニッポン!?:人材開発の未来を考える
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/01/post_2340.html

 もうひとつは、この原田さんの視点は、他の業界でも指摘されているということです。
 実は、このやり方は、まったく業種業界は違いますけれども、TBSさんにお邪魔したときに、アナウンサーの教育担当者の清水大輔アナウンサーがおっしゃっていたことに、非常に似ています。

 TBSのアナウンス教育でまず重視されていたのは、「目を養うこと」ではなく、「耳を養うこと」。左官さんの場合は「目」ということになるのでしょうけれど、アナウンサーの場合は、大切なのは「耳」ということになります。「耳を養うこと」ができなければ、自分の発声を、自らチェックしながら、さらに先に学ぶことができないからです。

自分の「耳」を養うのです!? : アナウンサーの「学びの現場」を取材させていただきました!
http://www.nakahara-lab.net/2014/05/post_2229.html

 左官とアナウンサー教育!全く業種、業界が違いながら、育成の考え方が非常に似ているのは、なかなか面白いですよね。

 以前に申し上げましたが、この連載「学びは現場にあり」は、ダイヤモンドさん×人材教育さんのコラボで「ダイヤモンドオンライン」で、近いうちに、その記事が無料公開されるそうです。どうぞお楽しみに。
 また、これらの過去の取材記事は、来年には、ダイヤモンドさんにて書籍化も予定されています。こちらは間杉俊彦さん、井上佐保子さんとのお仕事になりそうです。

 重ねて、どうぞお楽しみに!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月26日 08:51


激つめ上司による「つめミーティング」が誘発する「思考停止」!?:この世にはびこる精神主義・反知性主義の弊害

「つめミーティング」という言葉があるそうです。ここで「つめ」とは「詰めること」。ワンセンテンスでいうと「激上司から部下に対してなされるネガティブな詰問」のことをいいます。オーノー、勘弁して下さい、モーニングから(笑)

「つめミーティング」という「造語」には、「つめ」というワードに、さらに「ミーティング」という言葉がプラスされます。
 要するに、この言葉の含意するところは、「激つめ上司が部下にうまくいかなったことを詰め寄る、ビターでタフでメモリアルでワンダホーなミーティング」です(泣)。ひゃっほー。

 でも、胃が痛くなってきましたね、、、朝っぱらから。
 ごめんね(泣)

  ▼

「つめミーティング」で激つめ上司が用いる常套語のひとつは

「なぜ、できなかったの?」
 
 です。

 世の中の常識といいましょうか「学校的」には「なぜできなかったの?」という理由を問う問いかけには「なぜなら・・・だからです」という理由を述べるのが「正答」とされます、、、そう、ここが「学校」ならばね(泣)。

 しかし、あなたが「この世の酸いも甘いも裏も表もわかる」ようになってきた「賢明な社会人」ならば、ここで自分が上司に「できなかった理由を述べることが求められていること」ではないことを悟らなくてはなりません。

「失敗の理由はですね・・・環境要因と個人要因の2つの側面から考えられますね。」

 なんて理性的に言おうものなら、タコ殴りにあいそうです(笑)。
 
 また、

「チッチッチ、あのですねー。最近の認知科学の知見では、出来ない人は、自分ができないことの理由を語れないものなんですよ」

 なんてホザこうものなら、フルボッコにされそうです(泣)。
 (そんなやつはいないか!)

 激つめ上司による「つめミーティング」における「なぜ、できなかった?」のは、「理由」を聴いているのではありません。ここで求められているのは「できなかったことがすべて自分にあったことを無条件に認めること」。すなわち、「自分が原因の根源であること」を、直接部下の口から「言わせること」を目的にしています。

 こういう激詰め上司が受け入れるであろう、唯一の言葉は

「自分の行動が・・だったのでダメでした」

 これだけです。このワンセンテンスだけを「言わせたい」。

 そうすると、上司はおそらく「ここぞ」とばかりに、こう「畳みかけてくる」はずです(笑)。

「だよねぇ、そうだよね!
 わかってるよね!
 オマエがだめだったんだよねぇ
 もいちど言うけど、わかってるんだよね。
 でも、オマエがやらなかったんだよねぇ。
 だから、失敗したんだよね」

 非を認めたとたんに、急に「饒舌」になるのが「激つめ上司」の特徴です(笑)。ここ憶えとこーね、テストにでるぞー。蛍光ペンでぬっとけよー(笑)。

 次に、激詰め上司の口からでてくるのは、この「常套句」です。

「で、どうすんの?」

 この問いに対して上司が期待する答えは、このワンセンテンスだけです。

「絶対に、今度はやります。僕に、やらせてください!」
 
 これだけ。これだけを「言わせたい」。

 では、どうして、このワンセンテンスを部下の口から言わせれば、上司としては、ハッピーなのでしょうか。それは、先ほどのセンテンスを見ればわかります。先ほどのセンテンスに見るように、上司はもともと「やれなかったことの理由」すら部下に尋ねていません。

 原因すら問われていないのですから、「実現しなかった理由を改善しよう」とか「できるように作戦を立てよう」などという「理性的な反応」は1ミリも求められていません。求められているのは「絶対にやることの宣誓」「やらせて欲しいという意志の明示」です。

 要するに、こういう場合の激つめ上司は「言わせたい」だけなんです
 そして、上司はしばらく後で、こう「言いたい」だけなんです。

 「こないだ、オマエ、やるって言ったたよね。
  やらせてくださいって言ったのは、オマエだったよね」

 ▼

 しかし、ここで、激つめ上司による「つめミーティング」の「居心地の悪い雰囲気」を振り払い、聡明な私たちは「理性」と「知性」?を取り戻さなくてはなりません。私たちは、これからをしたたかに、しなやかに生きるのですから、居心地の悪さに留まってはいけません。

 このやりとりの一連のプロセスにおける、ややこしい言葉(無駄な言葉)を「戦略的にはしょり」(ほとんどどうでもいいことしか言ってませんので、簡単にオミットできます)、このミーティングの論理の要点を絞りに絞っていくと、結局、この会話の要点は、2センテンスだけです。

部下「だめだったのは、自分のせいです」(自己への原因帰属)
部下「絶対に今度はやってみせます」(宣誓)

 これだけ。
 このわずか2つのセンテンスを、部下に「言わせている」だけです。

 部下は、それしか言っていません。そして、このとき、部下は多くの場合、「思考停止」していることが多いものです。部下は「なぜだめだったのか」という理由を「考えること」はしていません。よもや「次はどうするか」という作戦を「考えること」は、1ミリも行っていません。つまり、問題も解決していなければ、作戦も立ててないのです。

 ワンワードでいえば、

 部下は「考えていません」

 詰め寄る上司が怖いがゆえに、原因帰属を自らになし、その場をやりすごすべく、熱意の宣誓を行っているだけです。要するに、「つめミーティングの文法」とは、「過剰な精神主義」であり、「反知性主義」なのです。

 ということは・・・「つめミーティング」のあとに、今後、訪れるであろう「未来」の状況は、火を見るより明らかです。つめミーティングの後、部下は仕事ができるようになるでしょうか。いかに事態を改善しうるでしょうか。

 短期的には、もしかするとラッキーがおとずれ、次だけは「数字」をあげられるかもしれません。しかし、部下が抱えている問題の根源を見いだせておらず、また何一つ解決策も考えていないのだから、中長期的には失敗を繰り返す可能性が高いということになります。だって、

 可哀想な部下は「学習していない」のだから。

 つまり、「やれなかったことができるようになること」にはならない可能性が高くなります。おそらく、長期的には。

 原因がわからなく、考えないのだから、やっぱりできません。
 作戦を考えず、戦略的に動かないのだから、やっぱりできないのです。

 つまり、つめミーティングは「反知性主義」であるばかりか、「非効率」です。
 だって、生産性あがんないんだから。
 
 そして、そんなとき、激つめ上司は、再度言うのです。

 「こないだ、オマエ、やるって言ったたよね。
  やらせてくださいって言ったのは、オマエだったよね
  で、なんでできなかったの?」

  (あとは、無限に繰り返し・・・無限に無限に繰り返し)
  
  ▼

 今日は、世の中にはびこる「つめミーティング」の文法が、いかに「反知性的」で、かつ「非効率」かを、やや「戯画的」かつ極端に書きました。「こんな上司いるかよ」とお感じの方もいるかもしれませんが、あえて極端に書いているので、お許しを。

 しかし、最近、とみにこの国において、このような「精神主義」が蔓延っていることを憂います。そのような精神主義は、グローバル化という時代には、そぐわないからです。グローバルな時代には、「文脈・社会背景を違う人に対して、きっちり筋を通して、理解をもとめて働くこと」ということが求められます。そういうの、うまくいくとは、思えないんですよね。
 ちなみに、こうした精神主義が、どこから生まれたのか、まことに興味深いですが、過剰な「精神主義」は「思考停止」を誘発するので注意が必要です。

 そういえば、数年前、まことにびっくりしたのですが、こうした「つめミーティング」を「リフレクション」と呼んでいる人がいて、僕は腰が砕けて、もう少しで「うん●」がダダ漏れになってしまいそうになってしまいました(笑)。寸止めできたからいいようなものの、このままいけば、社会的抹殺です(笑)。

 こうした「つめミーティング」が「リフレクション」でないことは、「部下が、何一つ考えておらず、思考停止していること」から明らかです。こうしたものを、聡明な我々は「リフレクション」と呼んではいけません。

 繰り返しになりますが、部下は「原因も解決策」も考えていないのです。その場をやり過ごす反応を返しているだけです。そうね、脊髄反射のように(笑)。

 嗚呼、世の中には「ノンリフレクティブなもの」があふれています。
 それらを「糾弾」することも一計ですが、あまり意味があるようにも思えません。
 ならば、茶化して、笑いにしつつ、みんなで愉しんで、さっさと「過去の遺物」にしましょう。

 そして人生は続く 

投稿者 jun : 2015年1月22日 22:19


Be experimental! (実験的であれ!): 課題を発見し、自らを名づけること - NPOカタリバの理事会で思ったこと!?

 昨夜は、理事をお引き受けしているNPO法人カタリバの定例理事会に参加しました。
 カタリバでは、3ヶ月に1度程度、理事会を定例でひらき、各事業分野の代表者が、事業の進捗報告をおこなっています。これらの報告に様々な助言を理事らが為すかたちで、数時間を過ごしています。

rijikai_agenda.png

 僕は、定例の理事会に参加するだけで、あまりお役に立ててない理事ですが(笑)、理事会では、とりわけ「学術的なアドバイス」「教育・学習というコンテキストからみた場合の事業の方向性に関するアドバイス」を行うことにしています。完全にボランティアの活動です。

 お役に立てているかどうかはわかりませんが、いまだ「首」を宣告されていないところをみると(!)、そのような関わり方でよいのかな、勝手ながらと思っています。

 以下、こんな「なんちゃって理事」の分際で、カタリバを語るのは、少し気が引けるのですが、「カタリバの理事会で思ったこと」について語ってみたいと思います。

 ▼

 カタリバの理事会に出ていると、個人的には、毎回、面白い事実にぶちあたります。
 それは、カタリバの内部・周辺で起こっている「問題」が、いわば「日本の、ここあそこの現場」が、数年後にぶちあたるであろう課題を「先取り」しているように感じるからです。「先取り力」だったら、きっとカタリバは負けません(笑)。

 これまでカタリバは、「高校性に対する斜め上の先輩からのキャリア支援:カタリバ事業」、女川・大槌における東北の復興支援事業「学習支援事業」、そして、最近では、文京区に中学生の秘密基地をつくる「b-lab」の運営を手がけています。

 カタリバは、行政と民間、そして、志をもつ個人の「スキマ」や「狭間」を常に動きながら、そこで、こぼれ落ちてしまう、しかし大切な課題を発見し、そこに対話を中核としたソリューションを展開していました。どんな課題でも手をつけるのではありません。おそらく、それが将来的に「みんなの課題」になるということ。そして、それらが自分たちのルーツに根ざすということが大切なところかと思います。
 さらりとワンセンテンスくらいで述べたこの文章の現実は、まことに厳しいものです。現場で働くそれぞれのスタッフの皆さんの、献身的努力に頭が下がります。

「王道中オブ王道オブ王道」?を生きている方には想像がつかないかもしれませんが、

 スキマほどワクワクするものはありません。

 しかし一方で、

 スキマは一般に苦しいものです

 なぜなら、スキマは、様々な領域の「際:キワ」、いわば「谷」であり、そこには一見解決が困難な課題が、手ぐすねをひいて舞っているからです。

  ▼

 これまで、カタリバは、よく「斜め横の関係」と「対話」を中核とした「場作り」の団体と言われてきました。今のカタリバの評価は、まずは、このサービスを良質なクオリティを保ったまま、安価に継続的に提供しえたことに起因するものと思います。これに関しては、かつて、こんな文章を書きました。

物語ること、学ぶこと、生きること : NPOカタリバの「人が動き、人が出会い、人が語る」事業
http://www.nakahara-lab.net/2013/10/_npo.html

 が、理事会に出ておりますと、最近、その定義は、本当に現在のカタリバを表明しているのだろうか、と思うことがあります。昨日の理事会でも、今村久美代表理事から、それについて組織内部で対話を続けていく意志が表明されました。

 誤解して頂きたくないのは「斜め横の関係」と「対話」は、カタリバのルーツであり、それはどんなに苦しくなっても、捨てるべきものでないことは言うまでもありません。
 しかし、一方で、この団体の現在の様子は、それより「一回り大きいサイクル」を生きているような気がします。実際、現在のカタリバでは、従来のカタリバ事業に加え、異なる様々な事業が展開され始めています。

 それは既述しましたとおり

 課題先進地に「飛び込むこと」
 やがて「みんなの課題」になる「課題」を「発見」し続けること
 対話と斜め横を活用した「良質の解決策」の提供すること
 
 のサイクルを地で回すことから生まれています。このサイクルがどんなに苦しく、生々しいものであるかを想像するとき、僕は現場の方々の苦労を思います。お疲れさまです。スタッフ部門の皆さんも、大変でしょう。コストとベネフィットのギリギリの線を飛びますので。本当にお疲れさまです。

 課題先進地に飛び込めば、本当に超えることができるのかという課題にまずはぶちあたります。しかし、本当の「闘い」はここからです。当初は想定していなかった課題、さらには事業運営がうまくいったからこそ出てくる課題が、次々と現場を襲いいます。

 この課題を前に、現場は、ときに困惑します。なぜなら、こうした課題には、まだ「名前がついていない」からです。必要になる人材像にも、いまだ「名前」はありません。未だ名前はついていないけれども、数年後には「みんなの課題=社会課題(Social issue)」になるような重大な問題が、剥き出しのまま、赤裸々に、時には猥雑に、自分たちの目の前に立ちはだかるからです。

 どんな課題でもぶち当たればいいっていうわけではありません。
 それは「みんなの課題」になるでしょうか?
 それは「カタリバのルーツ」に根ざしているでしょうか?
 そして
 それは「誰もやらないこと」でしょうか?
 もしカタリバがそれをやらなかったとしたら、どこの誰が困るでしょうか?
 
 メタフォリカルな言い方が許されるのなら、

 カタリバの前には「課題」は一揃いある
 しかし、その課題に、いまだ「名前」はついてない
 課題に名前を付けるのも、かつ、それらの解決策を模索するのも
 自分たちであるということになります。

 僕は、理事会に参加するだけの「なんちゃって理事」ですが、こうした課題に直面する彼らを応援したいと願いますし、そのことに希望を感じます。自分の専門性の中から、なるべくお役に立てるよう、助言をしていきたいと思います。

  ▼

 カタリバは、おそらく、これまでも、これからも課題と向き合っていくのでしょう。そんなカタリバに、僕からひとつだけ言葉をお贈りするのでしたら、
 
 実験的であれ!(Be experimental!)

 というひと言につきます。
「実験的」とは「フラスコをガスバーナーであぶって、ユラユラさせる」という意味ではなく、「社会的に意義が深くなると思われる課題」にぶち当たり、その課題を「名づけ」、「ソリューション」を考えていって欲しい、ということです。

 「誰かが名づけた課題」を「下請的」に解くのではない。
 自ら「社会課題」を発見し、自ら「名づけ」
 自ら「ソリューション」を提案すること

 そうしたサイクルに、自分たちで「名前」をつけて
 自分たちが「何者か」を常に対話し、
 自分たちに「名前」を付けていってほしいのです。

 興味深いことですが、理事会では、毎回、カタリバはなぜ存在するのか?というテーマが議題に出ます。存在意義を失えれば、組織として継続することを目指さない、という覚悟が、そこにはあるような気がします。
 実際、「語りの場」を他者に提供する自分たちが、自ら語りあうことができなくなったとしたら、この団体は、自己矛盾してしまうことになると思います。

 あなたは、わたしに「語りあおう」という
 そういうあなたはどうなんだ?
 あなたがた自身は「語り合っている」のか?

 理事の一人として、この団体が、実験的な存在のまま、かつ、対話の中で継続することを願い、かつ、応援しています。

 Be experimental!(実験的であれ!)
 Name the social issue!(社会課題を名づけること)
 and
 Name yourself!(自分たち自身に名前をつけること!)

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月22日 09:15


「レッスン100回、本番1回」:「基礎・基礎・基礎・基礎・挫折モデル」を乗り越えて

 ちょっと前のことになりますが、中野雄著「小澤征爾 覇者の法則」(文藝春秋)を読みました。

 僕は音楽に関しては、全くの「門外漢」なのですが、この本は小澤征爾さんの歩んでこられた足跡を辿ることができ、非常に面白く読むことができました。

 特に、小澤さんの師匠、齋藤秀雄さんと小澤さんの抜き差しならない個人レッスンは、おいそれと「師弟関係」と簡単に形容するのが憚られるほど、おそらく愛憎含まれるものであったのではないか、と推察します。

  ▼

 個人的に、本書の中でもう一点興味深かったのは

「レッスン100回、本番1回」

 というセンテンスでした。

 これは、誤解を恐れず書くならば、

「本番の舞台にあがって1回演奏することは、レッスンを100回やることと同じくらいの教育的意義がある」

 という意味ではないかと推察します。
 厳密には本番1回を可能ならしめるのは、日々の地味なレッスンでありますので、そう二分法的に考えるのもどうかと思うのですが、「本番」、そして「舞台にあがること」の意味を考える上では、とても象徴的なワンワードだなと思いました。

  ▼

 これに関連して、昨年末、東京大学教養学部の福山佑樹さんが中心になって、Holzman,L.(ルイス・ホルツマン)の書籍を読むという読書会がありました。福山さん、また参加なさっていた研究者の皆様には、お忙しい中、貴重な学びの時間をいただき、感謝しています。

 ホルツマンは、近年、舞台・パフォーマンスなどの概念を持ちながら、ヴィゴツキーを軽やかに解釈しおし(ある先生の言葉を借りれば、軽やかに誤読し!)、非常に魅力溢れる社会実践をなさっている方です。

 そこで話題になっていたのは、ホルツマンの理論が、「学習にまつわるあらゆる二元論」を相対化しようとしていることでした。

 ホルツマンが相対化しようとしていた二元論のひとつに、二元論の「王道オブの王道」!?の「情動と認知の二元論」というのがあります。

 一般に、研究の世界では、情動(感情)と認知は「別のもの」とされ、「別々」に研究されるか、あるいは、前者よりも後者の方が探究価値のあるものとされ、後者だけにスポットライトがあたっている側面があります。自戒をこめていいますが、研究者としての私自身にも、どうしても、そのような傾向があることを吐露しておきます。

 ホルツマンの理論は、「舞台」「パフォーマンス」という補助線を用いながら、「情動」と「認知」を分けたものと考えないところに特徴があります。ワンセンテンスで申し上げますと、情動と認知がともに影響し合いながら、人が発達する瞬間を「舞台の上のパフォーマンス」に求めるのです。その様子は「ステージラーニング(Stage learning)」ないしは「Learning on Stage」と形容できるのではないかと思います。

 そして、「ステージラーニング」は、理論の発想は、先の小澤さんを紹介する書籍に紹介してあった

「レッスン100回、本番1回」

 に近しいところもあるのではないかな、と感じていました。ま、軽やかな誤読?かもしれませんが(笑)。本番一回のもつ飛躍的成長の可能性を信じる。それを可能ならしめる機序として、舞台の上のパフォーマンスを持ち出す、という意味では、近しいベクトル上にあるものなのかなと思いました。

 しかし、ともすれば、よく巷で起こっていることは、舞台の前の日々の繰り返しのレッスンが、あまりに単調で、かつ、意義を感じられないものだけに「本番」に至る前に挫折してしまったりする事態です。

 基礎・基礎・基礎・基礎・基礎

 と基礎を積み重ねているあいだに、やる気が失せてしまい、本来ならば

 基礎・基礎・基礎・基礎・基礎・本番(飛躍的成長)

 といかなくてはならないのですが、

 基礎・基礎・基礎・基礎・基礎・挫折

 となってしまう事態ですね。嗚呼、これありえますね。「基礎・基礎・基礎・基礎・基礎・挫折モデル」です。僕のピアノがもしかすると、これかもしれない。「基礎・基礎・基礎・基礎・基礎・挫折・消失」・・・嗚呼。
 かくして、本番の舞台にのって、さ、パフォーマンスせなアカンぞ!と追い込まれ、周囲の期待と視線に支えられながら成し遂げられる飛躍的成長が毀損される事態が起こってしまいます。

 ▼

 音楽のみならず、ビジネスにおいても、基礎はやはり重要なことです。しかし、一方で「基礎」を積み重ねる先にあるもおの、人がパフォームする瞬間や、舞台をどのようにセットするか、がもうひとつ重要な視座になるのではないかと思っています。ま、軽やかな論理飛躍かもしれませんが(笑)。

 そして人生は続く

ーーー
追伸.
 先だって日本の人事部で講演させていただいた模様を、下記のような記事にしていただきました。日本の人事部の長谷波慶彦さん、林城社長にはお世話になっております。
 先日、TAKUZOがこの記事の、僕の写真を見て、「パパ。みんなの前で、何、歌ったの?」と言っておりました。
 あのぅ・・・歌ってるんじゃないんだけどね・・・。

日本の人事部
http://hr-conference.jp/report/r201411/201411-F.html

投稿者 jun : 2015年1月21日 06:43


「キャビンアテンダント」と「漁師」は似ている!?:「うちの職場は特殊だから」の背後をさぐる!?

 朝っぱらから、皆様に「質問」です。
 このリスト、「何」だと思われますか?

 救命救急センターの医師
 新幹線の車両清掃員
 飛行機のCA
 東京糸井重里事務所
 能楽師さん
 ベーカリー&カフェ
 美容室のトップスタイリスト
 漁港の漁師さん
 テーマパークのスタッフ
 保育園の保育士さん
 江戸切り子の職人さん
 落語家さん
 水族館の飼育員さん
 日本料理店の板前さん
 家政婦さん
 農園で自律をめざす人々
 現代美術館のキュレーター
 歯医者さん
 お寺の住職
 タクシーの運転手さん
 アウトドア専門会社のスタッフの皆さん
 羽田空港の高級管制官
 テレビ局のアナウンサー
 宇宙ステーションのフライトディレクター
 テーラーメードスーツの職人さん
 大学病院の看護師さん

  ・
  ・
  ・

 これは、僕が5年間連載させてもらっている人事専門誌「人材教育」の「学びは現場にあり」というコーナーで、僕が、過去に訪れた「仕事の現場」の一部です。
 ていうか、そんなもん、わかるわけねーよ(笑)。朝っぱらからごめんなさい。

 連載「学びは現場にあり」は、ふだんは、わたしたちが、あまり目にすることのない「他人の仕事の現場」を、小生がコロスケじゃなかった、ヨネスケ?風に「突撃隣の晩ご飯?」的に訪問させていただき、そこでどのような仕事がなされ、そこで必要なスキルや知識などが、どのように獲得されているのかを、明らかにする、という連載です。

 要するに、ワンセンテンスで申しますと

「他人の人材開発の現場を拝見させてください!」

 ということですね。他人の現場って興味深くないですか。僕は飽きないなぁ。毎回毎回、面白くって仕方がないです。楽しいぃぃぃぃ!(ふなっしー風にどうぞ!、笑)

IMG_2265.JPG

 この連載、一応、5年間も続いているところ?をみると(そろそろヤヴァイですか?)、読者の皆様に何が好評なのか、どうかわかりかねていますが?、ぜひ、ご要望がございましたら、編集部までドシドシと仰せ下さい。

 過去に取材をさせていただきました各仕事現場の皆様には、お忙しいところ貴重なお時間をいただき、この場を借りて心より御礼させていただきます。ありがとうございました。

  ▼

 この連載、もはや盟友?・井上佐保子さんと、歴代の編集者の方との「珍道中」によって、他人の現場を訪問させていただき、えっちらおっちら、あーだこーだいいながら、創られているのですが(笑)、先だって、現編集者の西川敦子さんから、過去28回分の連載記事をまとめておおくりいただきました。ありがとうございます。

 で、過去5年間の連載をざっと見てみるのですけれども、まぁまぁ、いろんなところに行かせて頂きました。改めて読んでみますと、面白いことがいくつかわかってきます。

 もっとも印象的な発見は、

「人材開発には、いくつかのパターンがある」

 ということです。まぁ、アタリマエのコンコンチキなのですが、いくつも、全く違う職場を横断して、その人材開発のあり方を比較検討してみると、

 「経験」によって人を育てようとする仕事現場
 「人」によって人を育てようとする仕事現場
 「演じるさせること」によって人を育てようとする仕事現場

 など、人材開発のあり方に、いくつかの「パターン」らしきものが見えてくるのです。

 表面的には、全く違う仕事、全く違う現場でも、

おや、某テーマパークの人材開発のやり方と、某日本料理の板前さんたちの人材開発は似ているぢゃないか!
(仕事や置かれている環境には違いがありますよ!誤解なきよう!)

 となったり、

ほほー、キャビンアテンダントの皆さん達と、漁港の漁師さんたちの人材開発は、似ているぢゃないか!
(仕事は全く違うのですよ。人材開発のやり方が似ているところがあるということです。誤解なきよう!)

 となったりするのです。当のご本人さんたちは、全く違うとお思いかもしれませんが、抽象化して、そのエッセンスを比較すると、かなり似通っているところが見えてきます。
 くどいようですが、全く違う職種であり、仕事です。しかし、そこで行われている「スキル形成のあり方」は、かなり似通っています。

 一方、まことに興味深いのは、そうした現場に伺いますと、当事者の皆さんの中には、

うちの仕事(組織)は「特殊」だから、参考になるかどうかはわかりませんよ

 とおっしゃる方が少なくないことです。
 一見「特殊」に見えるかもしれませんが、量を集めて、比較検討していくと、そこに一定の構造やパターンが見えてくる。非常に面白いことですね。

 僕は、「なんちゃって!」かもしれませんが、一応「研究者」なので(笑)、いわゆる一般的な仕事の現場で、実際に仕事をしたことはありません。そういう意味では、僕は「仕事」を知りません。
 しかし、僕は一方で、通常の方々よりも、圧倒的に多くの仕事現場を「見て」います。そういう自分の強みを活かして、そこにあらわれる一定の構造やパターンを、今後の仕事で、共同研究者(今回は井上さんと)言語化していきたいものです。それが僕の役割でしょう。

 ▼

「学びは現場にあり」は、ダイヤモンドさん×人材教育さんのコラボで「ダイヤモンドオンライン」で、近いうちに、その記事が無料公開されるそうです。こちらは、また公開されましたらお知らせさせていただきます。

ダイヤモンドオンライン 経営×人事
http://diamond.jp/list/sp-jinji

 また、この記事は、来年には、ダイヤモンドさんにて書籍化も予定されています。こちらは間杉俊彦さん、井上佐保子さんとのお仕事になりそうです。

 重ねて、どうぞお楽しみに!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月20日 05:52


「私の五感」を意識する!? : 横山稔「五感のデザインワークブックー感じるをカタチにする」を読んだ!

 ちょっと前のことになりますが、横山稔(著)「五感のデザインワークブックー感じるをカタチにする」を読みました。先だってより仕事をご一緒しているライターの渡辺清乃さんからのご紹介でした。貴重な情報をありがとうございます。

 この本には、私たちの五感のセンシティビティを高めるためのワークが、12個収録されています。これらのワークは、もちろん、一人で取り組むこともできますが、複数でやってみてもいいでしょう。本書の読後は、良質のワークショップに出たかのような印象を受けます。

1.過去の空間体験を思い出してみよう
2.身体を使って物を測ろう
3.空間とのファーストコンタクトを意識してみよう
4.指先の記憶を呼び覚ましてみよう
5.耳で空間のイメージを描いてみよう
6.音楽のリズムを感じるままに描いてみよう
7.読書でデザインの想像力を磨こう
8.香りから連想する色のイメージ空間へ
9.味と空間の関係を探ってみよう
10.相手に空間イメージを伝えてみよう
11.身体で記憶するデザインのカタチ
12.日々の気づきで感性の扉を開こう

 著者の方は、建築・インテリアデザインをご専門になさっている先生で、おそらくは、デザインという営為をなす前に、この手のワークをなすことが重要だというお考えをお持ちなのかな、と感じました。
 
 僕自身も、学生時代、あるいは米国留学時代、この手のワークショップに参加した経験を持ち合わせていました。
 また、かつて、牧村真帆さんらと一緒に、これに類する?ワークショップを企画・実施したことがありましたので、大変興味深く、またおもしろく読むことができました。

 以前に一度書いたことがありますが、一般的なオフィスワーカーは、圧倒的な「視覚優位生活」をしています。
 いわゆる「五感」とよばれるものの中で、ふだん、もっとも意識され、かつ使用され、おそらくは酷使しているのは、「視覚」であることが多いような気もします。少なくとも僕はそうです。

 いや、もちろん、触覚も、聴覚、嗅覚も、味覚も使っていますよ。しかし、それはオフィスでの通常の仕事では、あまり意識されることは少ないのではないでしょうか。
 むしろ、マウスポインターを見つめ、カラムをみつめ、計算・分析結果を見つめ、ドキュメントを見つめる。わたしたちは、そのような生活をしています。少なくとも僕はそうです。

 本書で提案されているようなワークは、建築・インテリアをデザインする方々以外にも、私たちのようなオフィスワーカーがふだん、「用いているものの、意識していないもの」を思い出させてくれる意味で、大変よい機会になるのではないかと思いました。

 そうやって、わたしたちは、自らに失われつつあるものを、自ら発見し、取り戻さなくてはならないのかもしれません。

 あなたは、最近
 触っていますか?
 耳を傾けていますか?
 匂いを感じていますか?
 そして、味わっていますか?

 わたしたちを「取り戻したい」ものです。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月19日 08:50


「背中」と「現場」と「ガンバリズム」に甘える国ニッポン!?:人材開発の未来を考える

 いつか書きたいと思っている本があります。
 現段階でも抱えている書籍が少なくない数?あり、また、一部に遅れさえでている僕が、こんなことを公衆の面前で「ほざく」のは、「てめー、ふざけんじゃねー的」ですが(泣)、でも、それでも書きたいんだから仕方がありません。

 その本のタイトルは、

「背中」と「現場」と「ガンバリズム」に甘える国ニッポン:人材開発の未来を考える

 です(笑)。
 たぶん、このタイトルじゃ企画になりませんね(泣)ごめんね。でも、言いたいことはそういうこと。

 ま、別に本じゃなくてもいいんだけど、1章、1節であってもいいんだけど(ひよってみた!)、どう考えても、この3つの規範が日本の人材開発を裏から暗に支えてきた「規範」であり、段々と、その存立基盤が怪しくなってきているものであるように、僕には思えます。
 それらは一度相対化され、新たな人材開発のあり方を模索する必要があるように僕には思えます。

 このモティーフは、昨年、ごくごく短期間ではありましたが、家族でアメリカに短期滞在したときに思いついたものでした。
 そこでの生活を通して、いつもは考えることのない我が国のことを考えてみたことが、そのきっかけです。

  ▼

 本でいいたいことは、シンプルです。

1.ニッポンの組織は、極めて同質性の高いメンバーが長期にわたって存在する集団であった。組織に入る頃には、学校教育またクラブ活動等において相対的に「高い教育」と「強固な社会化」が施されており、「基礎学力」と「学ぶ力」と「忍耐力」を獲得されていた。

2.そのような組織においては、敢えて「方法」や「やり方」を明示したりしなくても、「背中」を見て育て的なやり方で、物事が伝達され、学ばれると信じられる。そうした学びこそが「美談」として語られるメンタリティが共有されている。これを「背中信仰」とよぶ。

(仕事の中で大切なことは背中を通して学ばれることが存在することは認めつつも、その事実が、「明示的」に方法ややり方を伝達しなくてもよい、という命題を正当化することはできません)

3.2の規範と時に共振し、かつ、それを強固なものにするイズムが2つある。それは「大切なことはすべて現場にある」とする「現場浪漫主義」と、「熱意をもって、物事にあたり頑張りさえすれば、自ずと物事は好転する」という「ガンバリズム」である。

(仕事をするときに頑張ることが大切で有り、かつ、大切なことは現場で学ばれることは事実であるし、何ら否定されるものではない。しかし、それらの事実を重ねてみても、本来、仕事で必要になるスキルや知識を学ぶ環境を整備しなくてもよいと考えるのは論理飛躍を含む)

4.この3つ「背中信仰」「現場浪漫主義」「ガンバリズム」が共振したとき、「仕事で必要なスキルや知識は、現場に放り込んでおけば、勝手に背中を通して学ばれるはずであり、それができないのは個人が頑張らないからだ」という「ブラックな人材開発イデオロギー」が発動する。

5.「ブラックな人材開発イデオロギー」は、いわゆる「ブラックな組織」において、「自組織の人材開発の整備不全と怠慢」を「正当化」するロジックとして用いられる。
 つまり、「組織が、仕事で必要なスキルや知識を学ぶための制度や仕組みを全く整備しなかった」としても、それが「学ばれなかった」のは「個人の努力不足と責任」と原因帰属される。

(仕事で必要な知識を獲得するときに、個人の努力や責任が問われるのは、当然である。しかし、それが事実であつても、「どんなに個人が努力したとしても、こんな劣悪な環境で何か学べるかヴォケ的な労働環境」は存在する)

 もう15年にもわたって人材開発の研究をやっておりますと、「個々の人材開発の現場」を俯瞰して、この日本という国に共通するようなものが、朧気ながら見えてくるような気がします。
 もちろん、すべての現場にあてはまることではない。しかし、相対的に見て、そのような傾向があるということは言えるのではないかと思っています。

 ビジネス、医療、看護などなど、領域は違うとはいっても、様々な領域における人材開発を阻害するものが、この国の根幹に根付いているような気がします。言っちゃ悪いけど(笑)、自爆的だからあんまり言いたくないけど、大学だって、教育機関だって、このとおり! 背中と現場とガンバリズムに甘えてきたんじゃないでしょうか。

 しかし、それが、昨今で申し上げますと、あまり奏功しなくなりつつある。その存立基盤が失われている。さらに、悪いことには、いわゆる「ブラックな組織」において、その所業を正当化するロジックとして用いられているような気がするのです。しかし、強固に組織内部に染み付いたメンタリティだけに簡単にアンラーンするのは難しい。とはいえ、若い世代はみんな気づいている。じゃあ、どうする。「この慣習は終わらせなければならないこと」、ないしは、「このままだと「組織全体が終わってしまうこと」には気づいている人も少なくない。でも、なかなか変革するのは難しい。で、どうするよ、おい。
 こういうディレンマが、それぞれの組織の、ここ、あそこに存在するのではないのでしょうか?

 皆さんはどう思われますか?

 ▼

 今日は、自分が近いうちに書きたい本を話題にしながら、日本の組織の人材開発を裏側から規定する3つの規範について書きました。
 近いうちに、そのような規範を相対化する論文か文章を書きたいと思っていますが、いつ来るか・・・。

 まぁ、何とか頑張ります。
 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 ちなみに、現在進んでいる書籍企画は下記の通りです。

 まず、一般書は現在関わっているものは5冊あります。
 まず、近刊「人事よ、すすめ」は3月初旬の発刊です。慶應MCCのラーニングイノベーション論の授業をもとにした本で、松尾睦先生、金井壽宏先生、長岡健先生、難波克己先生、守島基博先生、久保田美紀さん、アキレス美知子さん、妹尾大先生、高尾隆さん、曽山哲人さんとの共著になります。僕は編著を担当しました。
 刊行に際しては、森旭彦さん、松浦李恵さん、大石サオリさん、首都大学東京の水越康介先生、一橋大学の松井剛先生、中央経済社の浜田匡さん、調恵介さん、保谷範子さんに多大なる教育をいただきました。

 また同じ3月には、脇本健弘・町支大祐(編著)「教師の学びを科学する」が公刊されるでしょう。こちらは僕は監修を行いました(1章だけ著)。北大路書房の奥野浩之さんには企画を引き受けてくださり、心より感謝しております。若い二人の処女作です。どうぞお楽しみに!

 他には、現在制作途中のものは「社会人3年目からの学びの教科書」(かんき出版)があります。こちらは渡辺清乃さん、かんき出版山下津雅子さんとのお仕事です。愉しみにしております。

新書では、ヤフー株式会社・本間浩輔さんとの共著を光文社さんから出させてもらうことになっています。古谷俊勝さんとのお仕事です。
 また「学びは現場にあり」の取材をもとにした書籍を共著で出版する予定もでてきています。間杉俊彦さん、井上佐保子さんとのお仕事になりそうです。愉しみにしています。

 研究書・専門書としては3冊あります。
「人材開発研究大全」「中小企業の人材開発」の2冊がともに、某学術出版社から2016年刊行の予定です。編集者Kさんとのお仕事です。
 前者「人材開発研究大全」は40人の執筆者(まだご依頼前です・・・)が書く1000ページ級のハンドブックになる予定です。
 後者「中小企業の人材開発」は保田江美さん・トーマツイノベーションさんとの仕事です。トーマツイノベーションの真﨑大輔さん、新谷健司さん、渡辺健太さん、鈴木義之さん、濵野智成さん、小暮勝也さん、伊藤由紀さん、五十嵐慎治さん、長谷川弘実さんはじめ、同社の社員の皆様には、心より感謝いたします。
 また研究室のOBの舘野さんが中心になり、研究室メンバーとともに「大学から仕事領域へのトランジション」に関する研究書も出す予定です。舘野さん、保田さん、高崎さん、吉村さん、田中さん、浜屋さんら、研究室メンバーとの仕事です。こちらも2016年には刊行したいですね。

 というわけで数えてみると、
 なんと8冊パラレル進行なりました(笑)。
 いずれも楽しみです。

投稿者 jun : 2015年1月16日 11:30


死とは「プロセス」であって「特定の瞬間」ではない!? : 今日がもし「人生最後の日」だとしたら!?

 死とは「長いプロセス」であって「特定の瞬間」ではない

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 1960年代以降、末期癌患者、数百人への終末期のインタビューを試み、「死」を捉えなおす科学的な研究をなしたエリザベス・キューブラーロスの「死ぬ瞬間」を読みました。

 医療業界やターミナルケアなどに携わる方にとっては、必読書のような本なのだそうですけれども、先日、ふとしたことで、遅ればせながら手にとるきっかけを得たのです。自分の浅学をまずは恥じます。

 医療業界に関して、僕は全くの「門外漢」ですし、またキューブラーロスに関しては、その後、彼女の業績を続けてみますと、様々な批判などがあることは承知しています。
 が、とはいえ、人間が、どのように「死」を受容していくか、そのプロセスについて、科学的にメスを入れたことは、やはり画期的なことなのではないかと思います。

 よく知られているように、最も有名なのはキューブラーロスの提案した氏の段階モデルです。
 曰く、死を受け入れることには「段階」があり、それは下記のようなプロセスをたどるのだそうです。

1.否認
 やがて死を迎えるということが、何かの間違いだと思う段階

2.怒り
 なぜ死を迎えるのが自分なのか、と憤りをみせる段階

3.取引
 何かにすがろうとする段階。何とか死なずにすむように、様々な物事に働きかける段階

4.抑うつ
 行為することを失い、ふさぎこむ段階

5.受容
 死ぬことを受け入れる段階。時にそこにささやかな希望を感じます。

 キューブラーロスの「科学」に対する批判は、この段階説の「妥当性」に関してですが、それに関して一理あると思うものの、多くの段階説とよばれは、いつもそこに例外が生じ、反例が出されますので、まーそういう批判はでてくるよね、と思います。

 全くの門外漢ながら、むしろ、キューブラーロスの業績は、「段階説」なのではなく、やはり冒頭に述べたように、「死をとらえなおす視座の転換」をなす研究をした、ということに尽きるのではないか、と僕は感じました。

 曰く、

 死とは「長いプロセス」であって「特定の瞬間」ではない

 換言すれば、英語書籍タイトル「On Death and Dying」にもあるように、

 死とは「Death(特定の瞬間)」ではなく「Dying(死にゆくプロセス)」なのである

 ということになります。

 死を「Dying(死にゆくプロセス)」と捉えなおすということは、個人的には、悪魔的な視座の転換と言えるのではないか、と思うのです。
 
 なぜなら、キューブラーロスの研究を一歩離れ、妄想力をたくましく論理飛躍することが許されるならば、わたしたちは、こう、思考をすすめることもできるからです。

 今、仮に、キューブラーロスの研究に用いられた「時間の縮尺」を長くしてみて下さい。キューブラーロスは、末期癌患者の終末期を研究の対象にしましたが、少し大きな視点で、そのプロセスを長く長くとってみると、こうもいえるのではないでしょうか。

 すなわち、

 健康である私たち自らも、実は、「Dying(死にゆく)プロセス」の中で、死という1点にむかって、毎日、進んでいる

 ことがわかります

 すなわち、朝っぱらから重々しくて恐縮ですが、
 
 わたしたち自身も、今まさにDyingしている

 と考えることもできるということです。
 果てしない誤読かもしれませんが、僕はこの本を読んだとき、まさにそのように感じました。

 私たちは、この世に生を受け、生まれたときから、今日も明日も「Dying」しています。何人たりとも受け入れざるをえない、それぞれの、ある1点に向かって、私たちは日々歩んでいます。昨日、あなたがたまたま出会った人も、明日、あなたが偶然出会う人も、皆、Dyingのプロセスにあり、その道中にたまたま縁があって、出会ったに過ぎません。

 生には限りがあることを眼前にして、わたしたちには何ができるのか、と思わず考えてしまいます。

 そういえば、Steve Jobsもこんなことを言っていました。

「毎日、今日が人生最後の日かもしれない、と考えるとすれば、いつか、必ずその考えが正しい日が来る」
 
「もし今日が、自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定は、私が本当にやりたいことだろうか? NOという答えが、もし幾日も続くのだとしたら、自分は、何かを変える必要がある」

 Jobsの用いる仮定法は、いつも悪魔的にパワフルです。

 今日も、明日もDyingのプロセスに私たちはある。それならば、願わくば、Learninfulで、Heartfulで、playfulなDyingであって欲しい。Dyingに至る長い長いプロセスにおいて、自分が何を為したか、ということは、本当に自分が死にゆくときの5段階に、もしかすると影響を与えることなのかもしれません。
 寝床でキューブラーロスの業績を斜め読みながら、そんな果てしない誤読をなし、今日、朝、目を覚ましました。

「もし今日が、自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定は、私が本当にやりたいことだろうか? NOという答えが、もし幾日も続くのだとしたら、自分は、何かを変える必要がある」


 そして人生は続く

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【Translation】

Death is not a "specific moment" but a "long process".

After the 1960's, Elisabeth Kübler-Ross, who is a famous psychiatrist and author of On Death and Dying, had a lot of interviews with several hundred terminal cancer patients in order to investigate what is the process of dying.

On Death and Dying is one of the must read books for anyone who is concerned about terminal medicine and care. Just the other day, I happened to find this book in the bookstore and read it.

I'm not a medical specialist and I don't know what kind of reviews her book has had. However, I think it is novel to inquire how terminal care patients accept their death scientifically. The most well-known theory that she proposed after investigating is "The five stage grief model".
This model shows that terminal care patients accept their death on a five phase process, as follows.

1.Denial
Patients cannot accept the fact that they will die. Sometimes they think that it is a mistake of the medical professionals and the examination.

2.Anger
Patients get angry with themselves, their family and medical people. They wonder why it is themselves who are dying, not others.

3.Bargaining
Patients try to negociate with medical people and God in order to avoid their death. For example, "If you save me, I will do anything for you".

4.Depression
Patients realize it is waste of time whatever they do. They get deeply depressed.

5.Acceptance
Patients accept their death. Sometimes they feel their death is hope. For example, "I may escape from the pain and go to a better place".

There have been a lot of critiques to the validity of Kübler-Ross's five stage model. Although these critiques are understandable, generally, "stage theories" usually have some exceptions. I think it is inevitable to find some patients who don't fit into the "Five stage grief model".

I think Kübler-Ross's scientific contribution is not "The five stage grief model". Her remarkable contribution is to redefine "Death". She regards "Death" as not "a specific moment" (the moment someone dies) but a "long process - the process in which someone accepts their death"

We'll all experience the process of dying.
Life goes on!

投稿者 jun : 2015年1月16日 06:50


矛盾だらけの就活を乗り切る!?:「ディレンマあふれる社会」へのトランジション

 かなり前のことになりますが、就職活動をしている学部学生の方とお会いしたとき、

 先生、就活は「矛盾」だらけだと思いませんか?

 と問いを投げかけられたことがあります。

 その方が就活に悩んでいそうな感じもしたこともあり、一寸、どう答えようか考えましたが、こういうときは、どストレートに自分の思うことを言った方がいいのかな、と思い

 そうだよなぁ
 就活は「矛盾」だらけだよなぁ・・・

 とつぶやいてしまいました。
 でも、そのあとに、僕の口からは、思わず、もうひと言が口からでてしまいました。

 でもね、、、
「矛盾」だらけではないものが、社会にあるのかなぁ・・・。

 自分が、これまで歩んできた道程を振り返りつつ。

  ▼

 例えば、その方が僕に語ってくれた内容はこうであった気がします。かなり前のことなので、うろ覚えですが、こんな感じ、かと。
 曰く、就活で出会う社会人の中には、時に、「矛盾したメッセージ」を意図せず、発しているというのです。

 例えば「うちの会社や業界を徹底的に勉強して学んでこい。そのうえで、うちの業界の問題点を指摘してみろ」というのもそのひとつ。
 就活生としては、就活では常套句になったその言葉を真に受けて、「徹底的に勉強してきました。問題点はこうですね」と述べたくなるところなのですが、それが必ずしも好意的に受け取られることはあまりないといいます。
 
 なぜなら就活で出会う社会人は、「徹底的に勉強してこい」と述べながら、反面、「心の奥底」で、実は、こう思っている人もいるからです

「学生の分際で、どんなに勉強しても、うちの会社や業界なんてわかるわけがない。そもそも現場にいない人間に問題点なんて指摘されたくないし、できるわけがない」

「うちの会社や業界を徹底的に勉強してこい」と言っているのにもかかわらず、一方で「(そもそも)わかるわけがない」「そもそも現場にいない人に問題点なんて指摘されたくない」と意識されているのが興味深いところです。

 だから、こういう場合、そういう人達の前で「勉強してきました!問題点はこうですね」なんて言ったとしても「勉強してきませんでした!」と言ったとしても、反応は「ネガティブ」であることの方が多いものです。要するに、学生は「完全なディレンマ状況」に立たされています。
 要するに、この矛盾した状況、ディレンマ状況を切り抜ける「合理的解答」はありません。じゃあ、どうするか。そこからが「社会を生き抜く力」なのかもしれません。求められていることは「ディレンマを解くこと」ではなく「ディレンマを乗り切ること」なのです。
 「自分が勉強してみたこと」をみせ、「問題点を指摘すること」をなしつつ、「わからないこと」の指摘を受け、「教えてもらうということを演じること」もそのひとつでしょう。
 皆さんだったら、どう切り抜けますか?

   ▼

 学校の世界と一般社会との端的な違いとは、ワンセンテンスで申しますと

 「矛盾」と「不条理」

 さにあると思います。前者は、「課題を出される枠」があらかじめ決まっており、しかも「答えがでる問題」が与えられます。しかし、後者は「課題の出題範囲がない」ばかりか、必ずしも与えられた問題に「合理的解」があるとは限りません。

 もちろん程度を超えた「矛盾」や「不条理」は、「既存の権力」を温存することにつながりますので、しっかりと相対化しなくてはなりません。しかし、これから社会に出て行く人に、それを求めても、あまり奏功するとは思えません。

 こうしたことに「矛盾だ!」「不条理だ!」と言いたい気持ちは、痛いほどよくわかります。また「ゼロディレンマの地平」を夢見たいという気持ちもよくわかります。
 しかし、新たな世界への新規参入者になしうるのは、「矛盾だらけの状況」「不条理にまみれた状況」「ディレンマにあふれる課題」を、まずは何とかかんとか「乗り切ること」です。
 そうした二つの世界間の移動こそが、「トランジション」だと思うのですが、いかがでしょうか。

 したたかに、しなやかに生きてください。
 そして人生は続く
 
 

投稿者 jun : 2015年1月15日 08:58


【ワークショップ参加者募集中!】焚き火を囲んで「組織開発」を学ぶ: 新たな「チームビルディング」と「オフサイト合宿」のすすめ

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【焚き火を囲んで組織開発を学ぶ:
 新たな「チームビルディング」と「オフサイト合宿」のすすめ】
 NAKAHARA-LAB.NET(中原淳研究室メルマガ)

 KEYWORD : 組織開発、ダイアローグ、リフレクション、
 チームビルディング、体験学習、焚き火、役員研修、オフサイト

 2月6日(金) 午後2時 ~ 午後8時30分まで
 江東区 東京スポーツ文化会館・若洲海浜公園
 チケット購入サイト : http://peatix.com/event/67373/
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このたび、2月6日(金曜日)に、経営学習研究所プロセスデザインラボの
イベントを、株式会社エバーブルーさまとともに、 開催させていただく
ことになりました。

今回のイベントのテーマは

【焚き火を囲んで組織開発を学ぶ:
 新たな「チームビルディング」と「オフサイト合宿」のすすめ】

です。わたくしが「焚き火好き」であることをご存じの皆様は、
嗚呼、やっちゃったか(笑)とお思いでしょうが、好きこそものの
上手なれ??は、違う、意味が(笑)日本焚火効果研究所も運営し、
焚き火を取り入れたコンサルと教育事業を行っている同社の丸山
琢真さん(焚火研究家)とともに、こんなイベントを企画させて頂きました。

今回のセッションで主に扱うのは、焚き火を使った組織開発です。
企業で起こりうる疑似課題をグループで解決して頂くワークや自炊を
通じた共体験効果と、焚き火を用いたリフレクティブなダイアローグを
組み合わせた「人間関係の良好化プロセス理論 / 組織活性化の方法論」を
体験から学んでいただきたいと想います。

自然と本音で語り合えたり仲間意識を高めることができる焚き火の
効果を利用した教育手法が実証されており、昨今、役員合宿や組織変革の
各種のミーティングなどで焚き火を取り入れることが増えています。
社内のコミュニケーションを改善したい企業の方は必見のイベントです!

しかし、焚き火というと、準備もそこそこ大変で、その効果も
やった人にしかわからないところ。ぜひ、これを機会に、焚き火が
ヒトの心理に与える深淵なる?世界、タキビストワールドに足を踏み
入れてみませんか。

お申し込みはこちらです。
→ お申し込みチケットサイト : http://peatix.com/event/67373/
(ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!)

どうぞ皆さま、お誘いあわせのうえ、お越しいただけますことを
願っております。

中原 淳

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■共催
一般社団法人 経営学習研究所
株式会社 エバーブルー / 日本焚火効果研究所

■日時
2015年2月6日(金)14:00~20:30  【集合時間: 13:45分】
(雨天でも屋内施設で類似スケジュールで決行します!)

■ 会場 / アクセス
東京スポーツ文化会館 13:45分 「剣道場」集合
http://www.ys-tokyobay.co.jp/access/
東京メトロ有楽町線・JR京葉線・りんかい線
『新木場駅』下車、徒歩5分

■対象  【限定35名まで】
・社内のコミュニケーションに課題を抱えている方
・企業にお勤めの 人事・人材開発に携わっている方
・理論に裏付けられた斬新で効果的な教育を探している方

■参加費
お一人様6000円を申し受けます (軽食+お酒・ドリンク等込み)
※ ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!

■参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所
の企画担当理事が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料
、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。
マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
2.野外でワークを行うため、服装や持ち物が汚れてしまう可能性がございます。
3.貴重品の管理は各自お願い致します。
4.本ワーク(火や鉈などを扱います)での事故等につきましては
,一切責任を負いかねます.保険等は各自でご加入下さい。

参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。
以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みサイト
よりチケットをご購入ください。

なお、応募が多い場合には、〆切前であっても、予告なく応募を
停止する可能性がございます。あしからずご了承下さい。
また繰り返しになりますが、このたび、いったんご購入後は返金は
できませんので、くれぐれもご注意ください!

■その他
※ 詳細情報ページ:経営学習研究所 http://mallweb.jp/
:日本焚火効果研究所 http://www.ever-blue.jp/jtel
※ 持ち物や詳細スケジュール等は参加者決定後に追ってご連絡いたします。
※ 少人数・準備大変・長時間のワークショップになってしまうことをご了承ください。

http://peatix.com/event/67373/
皆様とお会いできますこと愉しみにしております!
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投稿者 jun : 2015年1月14日 17:06


「今の気分はモヤモヤしています」という言葉の背後にあるもの!?:最相葉月「セラピスト」を読んだ!

 最相葉月(著)「セラピスト」(新潮社)を読みました。

 臨床心理・心理療法の世界は、全くの門外漢なので、そこに記述されている内容のディテールについての判断は、僕にはつきません。
 が、個人的には「爆発的」に面白かったし、また最相さんの仕事の丁寧さに、多くを学ぶことができました。僭越ながら、こんな仕事ができたらいいのに、と心から思った本です。

 本書で掲げられている内容は、ワンセンテンスで述べるならば、

「心の病い」のプロフェッショナル(セラピスト)とは、どのような仕事をなすのか? その仕事はどのように進行するか?

 ということです。

 一般には、「心の病」を治す「心理療法」は「密室」で行われ、かつ、そこで行われている治療自身も「守秘義務」という「高い壁」に阻まれ、一般の人がなかなか知るよしもありません。

 少なくとも僕自身は、全くの門外漢かつ経験もありませんので、この本を手にするまで、その内容をうかがい知ることはありませんでした。
 
 最相さんは、このリサーチクエスチョンをもとに、著者自身の治療体験をもとにしつつ、様々な専門家にインタビューを試みます。その中には、河合隼雄さん、中井久夫さん、木村晴子さんといった日本のカウンセリング業界を牽引する方々がいらっしゃいました。

 中井久夫さんの言葉は、敬愛する哲学者・鷲田清一先生の本にたまに引用されておりますので、たまに目にしておりましたが、ここでもまた出会えてびっくりです。

 最相さんのこのようなインタビューを可能にしたのは、著者自身がこの業界に広い人脈を有していること、自らの経験のもとに、努力に努力を重ねて綿密な調査をなさったこともあります。

 が、もうひとつは、最相さん自らが、大学院や教育機関に通いつめ、自分で臨床心理士の資格を取るほど熱心に勉学なさったことと無縁ではありません。この本が、そうした学びを経て活字になったことを思うと、読む側にも気合いが入ってきます。

 著者は、これらの経験を皮切りに、日本における心理療法の導入と発展の歴史、そこで治療者がぶち当たった壁を赤裸々に記述していきます。膨大な資料を読み込みつつ、軽やかに整理する。非常に興味深い仕事です。

 出版からすでに1年をたっておりますので、僕がここでおすすめするのは遅いような気がしますが、おすすめの一冊です。

  ▼

 本書の中で気になったところが、個人的には、もうひとつあります。
 それは、昨今のカウンセリング事情を紹介する本書後半のくだりで述べられている内容で、昨今の治療場面では

「もやもやしているという言い方が増えている」

 という指摘です。

 具体的には、下記のような記述がなされていました。
 
「最近多いのはもやもやしているという言い方です。怒りなのか、哀しみなのか、嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつくもない」
(同書より一部引用)

 これは、領域は違えど、僕自身、同じ思いを持ったことがあり、これまでずっとずっと引っかかっていたことのひとつでした。まさに我が意を得たり。見事に、これを表現なさっていたので、非常に驚きました

 僕は心理療法の専門家ではないので、ふだん自分が教育現場や研究の現場でお付き合いするのは、大学生・大学院生・ビジネスパーソンの方々が中心になります。

 そして、皆さんとのやりとりの中で、時折

 「なんか、もやもやしているんです」
 「今の気分はモヤモヤですね」

 のような表現がでてきたのが、いつだったか明確には憶えていないのですが、おそらく2009年頃だったような記憶があります。

 先ほど自分のブログの全コンテンツをサイト内検索してみますと(便利ですね!)、僕のブログに「もやもや」という、それまで僕が使わなかった表現がはじめて出てくるのが2010年ですので、おそらく、先ほど2009年頃にはじめて耳にしたと述べたのは、あながちズレてはいないと思います。

 個人的には、そのあたりから「もやもや」という表現を、よく聞くようになりました。
 この「もやもや」という言葉は、既述したとおり「中原の脳内辞書」にはなかった言葉だったので、最初耳にしたときは、

 「もやもやってどういうこと?」

 とかなり違和感を感じたことを憶えています。

 僕は臨床心理や心理療法の専門家ではないので、勝手きままに言い放ちますが、少し考えてみますと、この「もやもや」という言葉は、不思議な言葉です。「もやもや」という言葉は、

 「自己にどのような感情がわきおこっているか(感情の内容)」
  そして
 「その感情が、何に対してわきおこったのか(対象と理由)」

 を「言表」せずとも、自らに生じた違和感を説明したかのように感じられる言葉です。一見「ふわふわしているような言葉」に感じますが、一方で、「明確なネガティブな感情」が自己内に存在することを、他者に対して表現しています。おそらく前者の感情の内容に関する言表のなさを、本書では「感情の未分化」と呼称しているのかなと思いました。

 なぜかはわかりませんが、今から5年くらい前、そのような言葉をはじめて耳にしたとき、僕は「胸騒ぎ」を感じました。が、次第に使う人が多くなったので、すっかり今では慣れてしまいましたけど。

 僕は専門家ではないので、この言葉がなぜ生まれたのか。そして、その背後には、どのような心理的機制や社会背景が絡んでいるのかを論じることはできません。
 しかし、自分が、ビジネスパーソンや学生の方々とお話しするときに、「もやもや」という言葉を耳にするたびに感じていた、ちょっとした「ひっかかり」を扱って下さっていたので、非常に興味深く感じました。

「もやもや」という表現がなぜ生まれたのか?

 本書を通読し、僕は、このリサーチクエスチョンに出会いました。
 まさに

「わかること」とは「わからぬことが増えること」

 を地で行くような読書です。
 しかしながら、「もやもやがなぜ生まれたのか」について今度は僕が「もやもや」しましたので、今度、改めて専門家の方々に機会をみて、伺ってみたいと感じています。

 そして人生は続く

 --

追伸.
 本日、お昼頃、新たなラーニングイベントの公募が始まります。
 今度は、

 焚き火を囲んで「組織開発」を学ぶ:
 新たな「チームビルディング」と「オフサイト合宿」のすすめ

 です(笑)。

 昨今、新人研修や役員研修、事業部門事に行われるオフサイト合宿の中で行われることの多い「オフサイト合宿」や「チームビルディング」・・・このイベントでは、そうした「組織開発」のいったんを、焚き火をしながら学んでしまおうという企画です。なぜ焚き火か? それには深い理由があります。ぜひお楽しみに!

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 参加者募集は、例のごとく、中原研究室メルマガから行わせていただきます。

投稿者 jun : 2015年1月14日 05:41


「だっこ」じゃないよ「時間くれ!」(笑):対話の素材としてのサイボウズ・ワークスタイルムービー

 サイボウズさんが最近提供している、子育てに関するワークスタイルムービーというものがあります。相当、ソーシャルメディアで話題になったので、ご覧になったことのある方も、少なくないと想像します。

 ソーシャルメディア上では、そのムービーの是非、あるいは賛成意見・反対意見などが、これまでにも活発にだされていました。が、このブログでは、これに追従することは差し控えます。むしろ、このビデオに対する反応の違いーそこに感じる違和感、そして共感の程度が、「人によって違うということ」を「今後の変化の可能性」として捉えたいのです。

  ▼

 我が家の場合、これらのムービーを夫婦それぞれにみて、その後、なぜこのムービーが流行ったのか。そして、それらを見て、相互にどんなことを感じたのかを、それとなく会話していました。会話といっても、二人で円になってワークショップなどをしたわけではありません。あったら、怖いわ、笑。数分間、ひとこと、ふたこと、しゃべったくらいです。



 1作目「大丈夫」に関しては、二人とも非常に共感をもって見ることができました。
その程度は、きっと僕のほうが大きく、このムービーをきっかけに、長く封印していた「料理」に僕がチャレンジするきっかけを持ちました。

 2作目「パパにしかできないこと」は、僕はよいと思ったのですが、カミサンには、ちょっとイマイチな印象だったようです。その詳細は差し控えますが、

「わたしが求めているのは、だっこじゃない。時間をくれ(笑)」

 と言っているところをみると(笑)、落としどころが「カミサンのツボ」にははまらなかったようです。

 興味深いのは、こうしたビデオの感想を話し合っていると、お互いの「子育て」に対する考え方や感じ方に「違いがあること」、そして、子育てを円滑にしていく上で何を求めているのか、が「違うこと」がわかることです。

 人々の相互作用において「簡単にわかりあうこと」ではなく、「相互の違いや前提」をあぶりだすコミュニケーションにおいてを「対話」といいます。使い方によっては、このビデオはそうした「対話の素材」に用いることができるのかなぁ、と思いました。もしかすると開発チームの皆さんは、そうした対話を望んでいるのかもな、とも勝手に考えてみたり。
 一応、「対話」に関する本を書いたことのあるわたくしめとしては(!?)、そんなことを感じています。

 時間ね・・・
 何とかしていこう。
少しずつ増やしていこう。
 そして人生は続く



投稿者 jun : 2015年1月13日 07:05


新人研修のギャラリウォーク!? : 経営学習研究所sMALLラボ「新入社員研修 ちょっと早い前夜祭」(田中潤理事企画)参加者募集中!

 経営学習研究所・田中潤さんのラボ(sMALLラボ)が、内田洋行さまとのコラボレーションで、新企画のラーニングイベントを企画なさったそうです。

 各社の新入社員研修のウリとこだわりを交換しよう
 次工程であるOJTの視点から、新入社員研修を考えてみよう

 という内容で、各社の自社事例を共有する会のようです。

 第1部:日本中の新入社員研修を観賞しよう
 10社の新入社員研修〜ショートプレゼン

 第2部:OJTからみた新入社員研修
 株式会社博報堂 白井剛司(博報堂大学)

 と二部構成になっており、前半部分では、さしずめ新人研修のギャラリウォークになるのではないかと予想します。非常に興味深いことですね。

 申し込みは下記で行っています。どうぞふるってご参加いただければ幸いです。

経営学習研究所sMALLラボ「新入社員研修 ちょっと早い前夜祭」(2015/03/01)
http://mallweb.jp/?p=422

投稿者 jun : 2015年1月 9日 08:31


「よきフォロワー」とは「リーダーに服従する人」か、それとも「リーダーに噛みこんでいく人」か!?

 新年を迎え、大学院・中原ゼミもはじまりました。昨日は、研究室の伊勢坊綾さん(D1)の英語文献発表でした。内容は、リーダーシップ研究の専門雑誌「The leadership quarterly」の論文で、フォロワーシップに関する質的方法論を一部用いた実証論文でした。

Melissa K. Carsten , Mary Uhl-Bien , Bradley J. West , Jaime L. Patera , Rob McGregor (2010) "Exploring social constructions of followership: A qualitative study." The leadership quarterly 21(3), 543-563

 よく知られているように、1990年代は、リーダーシップ研究にとって大きな転換点を迎えた時代でした。リーダーシップを考える際に、「リーダーの行動や認知の側」からアプローチするのではなく、いわゆる「フォロワーの視点」から考察していこうという研究が、この時代に増えていくことになります。

 リーダーシップという「現象」を「フォロワーの認知や行動によって社会的に構成されたものである」と見なす研究群の増加です。もっとも知られているのは、Meindl et al (1985)、Meindl(1995)らの研究でしょう。

 ▼

 昨日の英語論文、Carsten et al(2010) は、「フォロワーシップ」という構成概念に対して、一般人が、どのようなスキーマ(イメージ)をもっているかに関する質的な実証論文論文でした。

 要するに、

 フォロワーと聞いて、
 あんたは、
 どういう人物像や役割を、
 頭に思い浮かべるかね?

 ということを探究したということですね。

 この論文では、31名の参加者から取得した質的データをコーディングして分類した結果、フォロワーのイメージには3つの種類があることがわかりました。1)パッシブフォロワー、2)アクティブフォロワー、3)プロアクティブフォロワーの3つです。

1.パッシブフォロワー(Passive Follower):
 消極的に服従をする人のようなイメージ
 命令をうけて従う人のようなイメージ
 39%、12名がこのようなフォロワー像をもっています

2.アクティブフォロワー(Active follower)
 リーダーに意見を求められたときに意見をするような人
 32%がこのようなフォロワーイメージをもっている

3.プロアクティブフォロワー(Proactive follower)
 リーダーにもフィードバックやアドバイスを提供する人
 リーダーの意志決定に積極的に関与し
 リーダーの認知や行動を変えていける人
 29%の人が、このようなフォロワーイメージをもっている

 要するに、島倉千代子さん的に?ワンワードでいうと
 
 人生いろいろ、フォロワーいろいろ

 ということです(笑)
 
 「よきフォロワーになれ!」といっても、そこで果たすべき役割や行動は、人によって喚起されるイメージが全く違うということですね。人によっては、「命令聞けばいいんでしょ」ということを強く思っている。人によっては「リーダーの意志決定にかみこんでいこう」と思っている。皆さんは、フォロワーシップに対して、ご自身でどのようなイメージをお持ちですか?
 
 あなたは
 パッシブ派?
 アクティブ派?
 それとも
 プロアクティブ派?

 ちなみに、これらのイメージは、組織レベルや産業構造などの、いわゆるコントロール要因には、影響を受けないことがわかっています。
 どこの組織にも、おおよそ、3割ずつ、異なったフォロワーイメージをもっている人がいるということになりますね。ということは、目線あわせが必要だと言うことですね。興味深いですね。

 ▼

 今回ご紹介した研究は、フォロワーの側にたつ人が、フォロワーという構成概念に対して、どのようなイメージをもっているかでした。
 これまでは、リーダーの側が、フォロワーに対してどのようなイメージをもっているか、という研究はあったかと思うのですが(Sy 2010などでしょうか)、そこに新たなアプローチをしたことがオリジナリティなのかと思います。

  ▼

 ちなみに、次週のゼミは、なんと、僕が研究発表をしなければならないとのことで、ここ1年くらい、今日の論文に関連して、個人で温めていた研究発表をしようと思っています。

 その研究というものが

 マネジャーの方々が
 リーダーシップやマネジメントという行為に対して
 もっている信念(ビリーフシステム)
 を明らかにしようとする探索的研究

 です。

 要するに

 マネジャーの方々が「リーダーシップ」やら「組織」に対してもっている「深い思い込み」と「リーダーシップ行動」に関係を実証的にさぐりたい

 というのが研究の骨子です。この研究では、リーダーシップが何か? マネジメントが何か?を研究側から提示して明らかにするのではなく、実際に現場にいるマネジャーの方々が、それに関連してどのようなビリーフをもっているかを明らかにしようとしています。たまたま今日の研究に少し似ているなと思いました。

 ここ数年、マネジャー研修やら、リーダーシップ研修を担当するようになり、いつも思っていることのひとつに、マネジャーの方々には、自分の経験によって形成された、様々な「深い思い込み」があることがわかってきました。
 この研究では、どういう「思い込み」をもっている人が、どのようなリーダーを行動をとり、どのような成果を残そうとしているのかを探究しようと思っています。

 これまでシコシコと暇を見つけては、論文をあさっていました。ひとりで追っかけている研究のため、なかなか進まないのですが、ようやく調査開始寸前の所まできたので、これを報告しようと思っています。
 この詳細については、またお話ししますが、今週、皆さんで読んだフォロワーのイメージ研究に似たところがあったので、大変助かりました。発表をしてくださった伊勢坊さんに心より感謝いたします。

(中原ゼミでは、いつのまにか!、指導教員も個人の研究発表をしなくてはならなくなっています! いつも偉そうに指導している、そういうオマエは研究しているのか?と大学院生が投げてくれている温かくも厳しいメッセージなのかなと思っていますし、実際、指導教員も研究報告をしなければならないので、個人の研究を前にすすめなくてはならず、よい機会なのかなと思っています)

 あっ、そろそろ、TAKUZOとKENZOを起こさなきゃ。
 そして人生は続く

追伸.
 組織科学の最新号第48巻2号の特集が「現場の学習」で、僕もひとつ論文を書いています。年末発刊されました。
「職場における学習」の探究という論文で、近年の職場の人材開発研究の知見をまとめたものです。もしよろしければ、ご笑覧ください。

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中原淳(2014)「職場における学習」の探究. 組織科学. Vol.48 No.2 pp28-37

 なお、編集者の松尾睦先生(北海道大学)・松本雄一先生(関西学院大学)には大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

投稿者 jun : 2015年1月 8日 06:43


身の毛もよだつほどの「むごい接客」はどこで「学ばれた」のか?

 先だって、あるレストランに、親戚一同出かけました。
 美味しいと評判のレストランだったので、とても愉しみに出かけたのですが、

 結論は、

「味はよかった。しかし、接客は身の毛もよだつほど惨かった」(号泣)。

 何が惨かったのかは、品が下がるので敢えて口にしませんが、ここ10年のうち「もっとも悪い」というレベルを通り越していました。「接客のレベルが、すごすぎて思わず笑えた」。いうてみれば、「惨い接客大賞」を受賞できるくらいのレベルでした(笑)。ここまでくると、笑えてしまうのが面白いところです。いや、本当に爆笑です(笑)。

 悔しいから(わけわからん?)、ひと言だけ言わせてもらうけど、

「ちゃんと、相手の目をみて、話を聴きなさい」(笑)。

「お客さんにはスマイルしてくださいね」とか「ホスピタリティって言葉を知ってますか?」とか、そういうレベルを僕は要求をしません。「僕の話をまともに聴いて下さい」、そのレベルでした(泣)。ここまでくると、笑えてきます、不思議です。

 しかし、仕事柄、こうした現場に出くわすと、俄然、とたんに楽しくなってきます。「惨い接客」のレベルを組織論的?に考えたくなってくるのです。ま、現実逃避(笑)と人はいうのかもしれません。

 まず、僕がもった仮説は

 惨い接客をしているのは、うちの家族を担当したA子ちゃんの個人的資質によるものである

 ということでした。つまり「接客の惨さは個人レベルである」ということになります。

 しかし、この仮説は、わずか0.1秒で棄却されます(泣)。
 下の階で食べていた(店の不理解のせいで、別れて座ることになった)親戚が、「下の階の接客もひどかった」とおっしゃっていたし、レジの接客も最悪だったので、それは少なくとも集団レベルで共有されていることが示唆されます。

 また「研修中」の名札をもった方の接客は、それほど惨いものではなかったので、「惨い接客」は、店に入ったあと「後天的に獲得されたもの」であることが示唆されます。
 ワンワードでいうと、このお店の職場風土で仕事をすることによって、「惨い接客」が学ばれてしまうということです。職場風土というものが、人材開発にもたらす影響は、かくのごとく甚大なものか、ふむふむと考え込んでしまいます。

 次に店をでたあと、スマホを取り出し、ネットで様々な情報を調べてみますと、このお店に関しては、「味はよいけれど、接客が惨いこと」が、随所で述べられております。
 それらの情報を「鵜呑み」にすることはできないにしても、レピュテーションのパターンが、ほぼそれらに収斂しているところを見ると、それは、他の店でも共有されているものと推察されます。

 ということで、「接客の惨さ」は集団レベルの問題ではなく、組織レベルの問題であることが、示唆されました(笑)。
 だって、遠距離の様々な場所で、同じような問題が指摘されるっていうのは、どう考えても、組織レベルの問題です。

 というわけで、僕は、ひどい目にあったにもかかわらず、満面の笑みで、店をでるのでした。もちろん「もう二度と行かない」し、様々に浮かんだ仮説を、調査で検証したくもないですが(笑)、なぜか「満足」した気分です。

 ま、いいか、いろいろ面白かったし、美味しかったし。

 僕の研究領域を学ばれると、このように、いかなる事態でも、それなりに愉しむことができるから、おすすめです。現実逃避なので、真に受けないように(笑)

 ふぅ・・・。
 そして人生は続く

 ---

追伸.
ただいまワークショップ参加者募集中です。新人研修シーズンまで、あと数ヶ月。企画を担当なさる方、講師を担当なさる方におすすめの内容です。1月26日、都内。残席わずかです。どうぞお早めにお申し込み下さい!

「ひと味違う新人研修」を創る:音楽座ミュージカル×経営学習研究所が贈る講師力パワーアップセッション
http://peatix.com/event/67369

投稿者 jun : 2015年1月 7日 07:00


【参加者募集】演劇の力で「ひと味違う新人研修」を創る: 音楽座ミュージカルが贈る講師力パワーアップセッション

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NAKAHARA-LAB.NET(中原淳研究室メルマガ)
【演劇の力で「ひと味違う新人研修」を創る:
 音楽座ミュージカルが贈る講師力パワーアップセッション】

KEYWORDS : 新人教育、音楽座ミュージカル、講師力パワーアップ
演劇、パフォーマンス、トレーニング

1月26日(月)午後4時30分-午後9時00分まで
株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS B1F
お申し込みチケット購入サイト : http://peatix.com/event/67369
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 みなさん、ご無沙汰しております、中原淳です。
 ラーニングイベントのご案内です。

 このたび、1月26日(月)に、経営学習研究所のシアター
モールイベントを内田洋行さまとともに、開催させていただくこと
になりました。

 今回のイベントのテーマは

【演劇の力で「ひと味違う新人教育」を創る:
 音楽座ミュージカルが贈る講師力パワーアップセッション】

 です。季節柄、そろそろタイムリーじゃありませんか(笑)

 今回のセッションには、音楽座ミュージカルの俳優・プロデューサー
の藤田将範さんら、同ミュージカルに所属の俳優さんらをお招きし、
演劇を用いた「ひと味違う新人研修づくりのネタ」を皆さまに
ご体験いただきながら学んでいけるセッションにしていきたいと
考えております。
 またそのプロセスを通じて、ご参加いただいたみなさまの講師力、
場を創る技術も、演劇のアプローチを通じて磨いていただく機会
としたいと思います。

 あと数ヶ月で「新人研修」が待っているという皆様。
 今年は、新たにどんなネタを仕込もうかとお考えの皆様。
新人研修前に、自分のスキルや技術を磨いておきたいと願っている
皆様。

 せっかくの機会ですので、ぜひこの機会をお役立ていただければ幸いです。
なお、くれぐれも動きやすい服装で、ご参加くださいね。
(床に座ることなどありそうなので、例えばスカートなどはやめた
方がいいかも・・・)

 お申し込みはこちらです。

お申し込みチケットサイト : http://peatix.com/event/67369
(ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!)

 どうぞみなさま、お誘いあわせのうえ、お越しいただけ
ますことを願っております。

 中原 淳

 ーーー

■共催
 一般社団法人 経営学習研究所
 音楽座ミュージカル
 内田洋行教育総合研究所

■日時
 2015年1月26日(月)午後4時30分 - 午後9時00分まで
 開場は午後4時15分から

■ 会場
 株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS B1F
 http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas.html

 JR・東京メトロ八丁堀駅または東京メトロ茅場町駅下車 徒歩5分
 近隣に内田洋行様の別ビルもありますのでお間違いのないよう
 にお願いいたします。

■参加費
 お一人様7000円を申し受けます
(ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!)

 限定65名まで、軽食+ビールなど、もちろん込み
 少人数・長時間のワークショップになってしまうことから費用が
 かさみますがどうかお許しください

■内容
・オーバービュー(午後4:30-午後4:45)
「演劇による「ひと味違う新人研修」づくり!?」
(中原淳)

・ワークショップ1(午後4:45-午後6:15)
 音楽座ミュージカル  藤田将範・渡辺修也ほか
概要
○なぜ演劇の要素が人を変えるのか
○新人研修ですぐに心を開かせるアイスブレイク
○体感型研修の成果を現場に定着させる方法
○演劇を活用したプログラムのご紹介

・ブレイク(午後6:15-午後6:30)

・ワークショップ2 pm6:30-7:30
 音楽座ミュージカル  藤田将範・渡辺修也ほか
概要
○インプロ手法を使ったワーク
○殻を破りあるべき姿を体現するワーク
○ミュージカルを活用したプログラム体感

・ネットワーキング・プチパーティ(午後7:30-午後8:00)

・リフレクション (午後8:00-午後8:45)

・ラップアップ (午後8:45-午後9:00)
(中原淳)

※タイムラインは変更になる可能性があります

■参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所
の企画担当理事が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料
、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。マスメディアによ
る取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.動きやすい服装でおこしください。床に座るなどの可能性が
あります。また会場にクロークはございませんので、どうか軽い
装備?でおこしください。

以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みサイト
よりチケットをご購入ください。
なお、応募が多い場合には、〆切前であっても、予告なく応募を
停止する可能性がございます。あしからずご了承下さい。
また繰り返しになりますが、このたび、いったんご購入後は返金は
できませんので、くれぐれもご注意ください!

■お申し込みWEBサイト
http://peatix.com/event/67369

皆様とお会いできますこと愉しみにしております!

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追伸.
 柴田あすかさんによる、当日のリフレクション・ビデオです(感謝です!)。藤田さんはじめ音楽座ミュージカルの皆様、みなさま、お疲れさまでした!

投稿者 jun : 2015年1月 6日 17:18


「そして禁止令」と「たのしかった禁止令」!? : TAKUZO、ブロガーになる!?

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 この冬休みから、TAKUZOが、毎日ブログを書き始めています。ブログといっても、「絵日記」のようなものです。毎日一枚の写真を自分で撮ったり、選んだりして、その下に数行の文章を書くだけ。簡単ブログです。

 かえるの子はかえる?
 ブロガーの子はブロガー?

 ていうか、オレ、ブロガー?(笑)
 いや、そういうわけじゃないんだけど。。。(笑)

 横に座って、文章づくりのプロセスを見ているのですが、なかなか面白い発見があります。
 うちの子どもだけなのかもしれませんが、文章をつくるときに「変な癖」らしきものがあります。

  ▼

 第一に、「そして」という接続詞で、何でもつなげようとする。
 たとえば、極端に書けばこういうことです。

 今日はおつかいにいきました。
 そして、買ったものは・・・です

 みたいな感じですね。

 大人の文章では「そして」はなるべく使わない
 
 と指導をしています。
「そして禁止令」をだしました(笑)。

  ▼

 第二に、すぐに「紋切り型の表現」を使おうとします。
 文章の最後がすぐに下記の3つになるのです。

 おいしかった
 たのしかった
 うれしかった

 これに対しては、我が家では

 おいしかった禁止令
 たのしかった禁止令
 うれしかった禁止令

 のお触れをだしました(笑)。
 大人の文章では「誰でも使う表現」は使わないんだよ、と指導をしています。

  ▼

 ブログはクローズで公開しており、親戚などにだけ閲覧可能にしています。
 たとえ親戚といえども、コメントなどをもらうのは嬉しいようで、毎日毎朝ブログを書くのが愉しみになっているようです。

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追伸.
ただいまワークショップ参加者募集中です。新人研修シーズンまで、あと数ヶ月。企画を担当なさる方、講師を担当なさる方におすすめの内容です。1月26日、都内。残席わずかです。どうぞお早めにお申し込み下さい!

「ひと味違う新人研修」を創る:音楽座ミュージカル×経営学習研究所が贈る講師力パワーアップセッション
http://peatix.com/event/67369

 さていつまで続きますやら
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月 6日 08:14


あなたは「仕事もできるしスキルもある人」それとも「仕事はできるけどスキルはない人」!?:鷲田清一著「哲学の使い方」(岩波新書)

 新書ライフ!?最終日。
 最終会は、哲学者・鷲田清一さんの「哲学の使い方」(岩波新書)です。

  

 この本をワンワードでいうと、「鷲田臨床哲学」を一般向けに総まとめしたような本。まだ「臨床哲学」に触れたことがない方にも、おすすめの一冊です。

  ▼

 最も印象的だったのは、アーティストの小山田徹さんの言葉を引用して、「スキルとは何か?」を論じている部分でした。

 スキルに関して曰く、

「スキルと呼ばれるものは、"隣の芝生"に行って発揮されなきゃ、実はだめなんじゃないか」

 つまり、「隣の芝生」ではなく、「自分の領域」で何かするのは「スキル」ではなく、「あたりまえの仕事」。それは「仕事人ならば、できてあたりまえ」。それを支えるものを「スキル」呼ぶのはいかがなものか、ということですね。
 そうではなく「違う言語に翻訳されて、それが活用されてこそ」スキルと呼んでもいいのでは、という問題提起は非常に興味深いものがあります。

「違う分野に出かけていって、アートで培った何かをそこに翻訳し、何かを創ることができて」はじめて、「スキルがある」とよべるのではないか、という議論は、非常に興味深く感じました。

 そう考えれば、

「仕事はできるけれど、スキルがない人」

 っていそうですよね(笑)。

「仕事もできなくて、スキルもない人」

 よりはマシだけれども(泣)。

  ▼

 他には、中野雄「小澤征爾 覇者の法則」(文藝春秋)、平木英人「慢性疼痛」などを読みましたが、ちょっと時間がないので、また今度ご紹介します。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月 5日 07:54


僕らは「話し方」を学んでこなかった!?

 新春恒例!?、新書読書が続いています。昨日は、ふだんはあまり読まない本を積極的に手にとることにしました。

  ▼

 1冊目、浅利慶太(著)劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」(文藝春秋)。

 前半部は、どんな人にでも愉しめる劇団四季の演劇・ミュージカルの発声法についての解説。「母音法」「呼吸法」「フレージング法」などが解説されています。これらは賛否両論あるのでしょうけれど、子どもに演劇を見せに行く我が家にとっては、四季のわかりやすさ、敷居の低さは歓迎するべきものであり、選択肢のひとつに常に入ります。

 発声法については、門外漢なので、その詳細はわかりません。が、一文、そうだよな、と思うところがありました。

 それは

 日本では、読み書き算は教えられているのに
「話し方」は、教えられていない

 といった類の冒頭部分の一節です。きちんとした声の出し方、発声の仕方は教えられていない。

 これは、息子TAKUZOの声の出し方に気になるところがあって、親として、いつも思っていたことでした。それはワンワードでいえば「聞き手にメッセージをお届けするという意識とスキル」の欠如です。

 とはいえ、教えていないのは親の責任であり、また僕には発声や話し方に関する知識がないので、時折注意するだけになっていましたが、それではいかんなと反省しました。

 後半は、浅利節が唸ります。劇団四季の発展の歴史と、新劇の批判です。

  ▼

 2冊目、愛場大介「Youtubeで食べていく:動画投稿という生き方」(光文社)です。

 恥ずかしながら、Youtubeの課金収入で生計を立てている人がいることは、ニュース等などでは知ってはいましたが、その詳細については知りませんでした。

 興味深かったのは、Youtubeで注目される映像制作のやり方と、通常の映像の文法は「違う」という中盤部の指摘です。

 たとえば、尺(映像の長さ)は90秒。冒頭部15秒までに「つかみ」を入れ、あとは徹底的に無駄をそぎ落とすカット編集を行うなど、Youtube動画と、通常の動画編集は、その映像文法が異なるそうです。

 こうしたことをいうと、一見、Youtube動画は、一般の動画よりも「低級」で、オーセンティックではないものだと位置づけられそうです。しかし、いつの時代も変わらない「映像文法」は存在しません。それはテクノロジーの変化、メディアや読者の変化によって、常に変わり続けています。こうした実践知が面白いですね。

  ▼

 今日の2冊は「表現系の新書」でした。

 図らずも?、どちらも、「新たな聴衆・テクノロジー・時代の変化に応じて勃興してきた表現メディア」に関する書籍で有り、旧メディアとの確執をその背後に抱えうる存在である、と思います。

 そして人生は続く

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追伸.
 昨日は、我が人生初の「たこ焼きづくり」をしました。なかなか奥が深いですね、面白い。へー、こうやって丸くなっていたんだ、、、なるほど。世の中には、まだまだ知らない世界がありますね(笑)。

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投稿者 jun : 2015年1月 3日 07:18


わしゃわしゃ「子ども」が群れる正月!? : 堤未果(著)「沈みゆく大国アメリカ」と立川志の春著「あなたのプレゼンにまくらはあるか」書評

 北国から内地!?に戻ってきました。
 カミサンの実家の奈良は、昨夜は「雪」。
 まさか内地に戻っても、吹雪に見舞われるとは思いませんでしたが、どこまでも「雪」は、背中をつけてくるようです(笑)。

 北海道から奈良までの道中は、結構、よい読書の時間でした。ふだんはあまり読むことのない新書の新刊をざざざと読んでいました。軽くて情報量も多いので、やはり旅には新書ですね。

 面白かったのは、下記の2冊です。簡単にだけ紹介します。

  ▼

 一冊目は、堤未果(著)「沈みゆく大国アメリカ」

 こちらは、ウォール街(経済・金融)と政治による米国医療支配のルポルタージュです。オバマケアの制度の杜撰さ、それによってもたらされた医療格差の実態が描かれています。一方では、世界一高度に発展した米国の医療。しかし、その恩恵にあずかれるのは、米国を支配する1%の限られた人々だけです。
 医療は全くの門外漢ですので、そこに描かれている内容が、どの程度、現場を反映しているのかわかりませんが、それがもし仮に事実だとしたら戦慄の内容です。
 犠牲・疲弊しているのは患者だけではありません。そこでは現場で働く医師も搾取されます。保険会社や保険制度に経済的基盤を支配された専門職がいかなる困難に苛まれるか。専門職受難の物語としても読めます。専門職の受難という問題は、最近、

 ▼

 2冊目は、立川志の春著「あなたのプレゼンにまくらはあるか」

 立川志の春さんという二つ目の若手落語家の方が、修行のプロセスを綴った書籍です。
 志の春さんはイェール大学を卒業した帰国子女で、三井物産を退社して、落語の世界に飛び込みました。

 こちらで興味深かったのは、師弟関係の中での学びについての記述です。
 志の春さんは、米国での教育経験が長かったこともあり、「自己主張する米国流文化」が相当身体化されていたそうですが、落語の世界に飛び込み、徒弟制度の中で学ぶためには、それらの過去を学習棄却(アンラーニング)する必要があったそうです。

 すなわち、落語における徒弟制度の学びにとって必要なものは、「かつての個人」をすべて消し去り、「落語家としての自己」を構築しなおすことにある、とのことでした。まことに興味深い内容です。

 ▼

 以上2冊の簡単書評でした。
 なぜか新春早々、アメリカもの続きでしたね(笑)。
 2つのアメリカ、どうでしょう?

 カミサンの実家は、3姉妹の家族、押さない子どもが、わしゃわしゃいて、右にわしゃわしゃ、左にわしゃわしゃ群れています。しばらく、僕もわしゃわしゃする日々が、続きます。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年1月 2日 07:23


自ら「コース」を創り、自ら滑る!? : 新年明けましておめでとうございます!

 謹賀新年、新年明けましておめでとうございます!
 2015年も、どうぞよろしく御願いいたします!

  ▼

 年末は、北海道の実家へ、家族とともに帰省をしておりました。今年の帰省をワンセンテンスで述べるならば、

 子どもとスキー場にいた!

 この一言に尽きるのではないかと思います(笑)。

 愚息TAKUZOを、近くのスキー場にあるスキー教室に入学させ、3日間のレッスンを受けさせました。その間、当然、親である僕も、付き添いでスキー場にいたわけで・・・。ですので、年末は、ほぼスキー場にいたことになります。
 おぉ、、、寒かったよ(泣)。すんばれたよぉ。

 ちなみに、今回TAKUZOをスキー教室に入れたのは、僕なりに、0.1秒くらい?!考えた結果でした。
 一言でいうと、「僕には、自分の子供は、教えられないな」と思ったのです。

 僕もスキーができないわけではないのですが(昔はバッジテストをガシガシ受けていました!)、今回は、TAKUZOがはじめて本格的にスキーに取り組むということもあり、指導は、やはりプロフェッショナルに任せることにしました。

 もちろん、僕も、やれといわれれば、指導できないわけではないのです。が、なまじっか指導をすると、あれこれとガミガミ言ってしまい、子どもが「スキー嫌い」になってしまうのではないかと思ったのです。スキーに関しては、僕には、自分の身体知を言葉にできない。だから、プロフェッショナルに指導を任せることにしました。

 というわけで、おかげさまで、TAKUZOは、3日間で大変上達しました。
 いまだに「ハの字直滑降」ですが、全く立つことすらできなかったのに、3日間で頂上から爆走できるようになったのは大きな進歩でした。
 3日間つきあってくださった、スキー教室の先生、スキー場に送迎してくれた両親(我が親)には大変感謝をしています。本当にありがとうございました。
 
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 TAKUZOのスキー教室の終わりを待ちながら、僕も、自ら10年ぶりくらいにスキーを愉しんでいました。

 今回出かけたスキー場は、今から30年前、僕がよく行っていたスキー場のひとつであり、そのコースは、よく知っているものでした。かつて、そのスキー教室にも、僕も通っていました。

 滑っていて、思わず、いろいろな場所で、懐かしさがこみ上げます。嗚呼、ここは、昔、あんな風に滑っていたな、、、とか、昔を思い出し。
 かつて通ったロッジは、以前よりは「小さくなった」気がしました。「あれ、昔は、ロッジはもっともっと広く感じたけどな」と思いました。
 不思議なものですね・・・30年という月日は。
 あっという間だよねぇ。。。しみじみ。

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 子どもの頃の僕は、とにかく、冬は、スキー場にいました。というかですね・・・「スキーぐらいしかやることがない」んです(笑)。冬の北海道で、車という足を持たない子どもにできる遊びといったら、当時は、スキーくらいでした。今はしらんけどね。子どもの頃の僕は、気の合う友達と、本当に朝から晩まで、スキー場で過ごしたような気がします。

 しかし、よくよく考えてみれば、僕は、

 スキー場にいて「スキー場」にはいなかった

 ような気もします。

 どういうことかと申しますと、スキー場が定めた「既定のコース」を一通り滑ったあとは、

「気の合う仲間たちと、自分たちでコースを創り、そこに名前をつけて、愉しんでいた」

 ということです。
 それも、そのほとんどが「林間コース」。
 林の中に勝手に入っていいのか、悪いのか、知りませんが、子どもの頃の僕たちは「林の中」にガシガシと分け入って、木々の間を滑り、ときには、穴に落ちたり、ジャンプしたりしながら、命からがら、下をめざしていました(笑)。
 僕たちは、そうして創った「けもの道のようなコース」を、自ら「名づけて」いました。観音さまの横を通るコースだから、「観音コース」。研究所?の横を通るコースだから「研究所コース」。
(よい子は決して真似をしないように!)

 中にはとんでもないコースもあって、反対側まで思い切りジャンプしなければ、池?みずたまり?みたいなところに落ちてしまう「池ポチャコース」。
 ま、ワニはいなかったけどね(笑)

ikepocha.png

「Uの字の谷」のようなところ滑り、勢いをつけて爆走し、上昇しなければ、U字の底から一生上がってこれない「蟻地獄コース」。
これは本当に地獄ですよ、上まであげれなかったら、二度と、シャバの光はおがめない。よくそんな場所あったな、、、林の中に。

arijigoku.png

 今から考えれば、とんでもないコースだと思います。本当はダメなんでしょうね。繰り返して申し上げますが、決してよい子は真似しないように。

 でも、こんな「型破りなスキー」の中で、僕は、大切なことを学んだ気もします。

 それは、

 自分のコースは、自分で創る
 創ったコースを、自ら名づける
 名づけたコースで、自ら愉しむ

 ということです。もしかすると、池ポチャになってしまうかもしれないし、U字谷の底でアリジゴクにはまっちゃうかもしれないけれど、それでも、自分のコースは自分で創る。 
 TAKUZOのスキー教室の終了を待ちながら、ほぼ30年ぶりに、その当時のことを思い出していました。
 さすがに僕も今年で40ですので「池ポチャコース」とか「蟻地獄コース」とかに無謀にも突撃してきたくないけどね(笑)
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 そういえば、高校の頃、ある女の子に、言われたひと言も、ついでに、思い出しました。

「あんたは、何をするときでも、いちいち、中原流(なかはらりゅう)を創ろうとするよね」

 彼女は、「いちいち中原流を創ろうとする」僕のことを、よほど「面倒くさい奴」と思ったんでしょうね(笑)。きっと、「イラッ」ときたと思います。
 ごめんね、面倒くさい奴で(笑)。
 でもね、今でも、そういうところは、1ミリも変わっていないかもしれない。
 そして、そういうのは、「林の中」で、時に池ポチャとか、アリジゴクとかにはまりながら、身をもって学んだことかもしれませんね。
 自分のコースは自分で創る!

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 2015年1月1日、僕は妻の実家に向かう飛行機の中にいます。
 今年も、様々な人々に愉しんでもらえる研究、現場の改善に貢献できる研究を為したいと願います。

 今年も、新たなコースを創り、名づけます。
 そして、中原流で爆走したいと願っています。
 みなさま、応援のほど、どうぞよろしく御願いいたします。


(こちらは、TAKUZOの3日間の練習成果です。一応、ハの字直滑降で、どんな坂でも降りられるようになりました。)

 2015年1月1日 中原 淳

投稿者 jun : 2015年1月 1日 00:00