Be experimental! (実験的であれ!): 課題を発見し、自らを名づけること - NPOカタリバの理事会で思ったこと!?

 昨夜は、理事をお引き受けしているNPO法人カタリバの定例理事会に参加しました。
 カタリバでは、3ヶ月に1度程度、理事会を定例でひらき、各事業分野の代表者が、事業の進捗報告をおこなっています。これらの報告に様々な助言を理事らが為すかたちで、数時間を過ごしています。

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 僕は、定例の理事会に参加するだけで、あまりお役に立ててない理事ですが(笑)、理事会では、とりわけ「学術的なアドバイス」「教育・学習というコンテキストからみた場合の事業の方向性に関するアドバイス」を行うことにしています。完全にボランティアの活動です。

 お役に立てているかどうかはわかりませんが、いまだ「首」を宣告されていないところをみると(!)、そのような関わり方でよいのかな、勝手ながらと思っています。

 以下、こんな「なんちゃって理事」の分際で、カタリバを語るのは、少し気が引けるのですが、「カタリバの理事会で思ったこと」について語ってみたいと思います。

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 カタリバの理事会に出ていると、個人的には、毎回、面白い事実にぶちあたります。
 それは、カタリバの内部・周辺で起こっている「問題」が、いわば「日本の、ここあそこの現場」が、数年後にぶちあたるであろう課題を「先取り」しているように感じるからです。「先取り力」だったら、きっとカタリバは負けません(笑)。

 これまでカタリバは、「高校性に対する斜め上の先輩からのキャリア支援:カタリバ事業」、女川・大槌における東北の復興支援事業「学習支援事業」、そして、最近では、文京区に中学生の秘密基地をつくる「b-lab」の運営を手がけています。

 カタリバは、行政と民間、そして、志をもつ個人の「スキマ」や「狭間」を常に動きながら、そこで、こぼれ落ちてしまう、しかし大切な課題を発見し、そこに対話を中核としたソリューションを展開していました。どんな課題でも手をつけるのではありません。おそらく、それが将来的に「みんなの課題」になるということ。そして、それらが自分たちのルーツに根ざすということが大切なところかと思います。
 さらりとワンセンテンスくらいで述べたこの文章の現実は、まことに厳しいものです。現場で働くそれぞれのスタッフの皆さんの、献身的努力に頭が下がります。

「王道中オブ王道オブ王道」?を生きている方には想像がつかないかもしれませんが、

 スキマほどワクワクするものはありません。

 しかし一方で、

 スキマは一般に苦しいものです

 なぜなら、スキマは、様々な領域の「際:キワ」、いわば「谷」であり、そこには一見解決が困難な課題が、手ぐすねをひいて舞っているからです。

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 これまで、カタリバは、よく「斜め横の関係」と「対話」を中核とした「場作り」の団体と言われてきました。今のカタリバの評価は、まずは、このサービスを良質なクオリティを保ったまま、安価に継続的に提供しえたことに起因するものと思います。これに関しては、かつて、こんな文章を書きました。

物語ること、学ぶこと、生きること : NPOカタリバの「人が動き、人が出会い、人が語る」事業
http://www.nakahara-lab.net/2013/10/_npo.html

 が、理事会に出ておりますと、最近、その定義は、本当に現在のカタリバを表明しているのだろうか、と思うことがあります。昨日の理事会でも、今村久美代表理事から、それについて組織内部で対話を続けていく意志が表明されました。

 誤解して頂きたくないのは「斜め横の関係」と「対話」は、カタリバのルーツであり、それはどんなに苦しくなっても、捨てるべきものでないことは言うまでもありません。
 しかし、一方で、この団体の現在の様子は、それより「一回り大きいサイクル」を生きているような気がします。実際、現在のカタリバでは、従来のカタリバ事業に加え、異なる様々な事業が展開され始めています。

 それは既述しましたとおり

 課題先進地に「飛び込むこと」
 やがて「みんなの課題」になる「課題」を「発見」し続けること
 対話と斜め横を活用した「良質の解決策」の提供すること
 
 のサイクルを地で回すことから生まれています。このサイクルがどんなに苦しく、生々しいものであるかを想像するとき、僕は現場の方々の苦労を思います。お疲れさまです。スタッフ部門の皆さんも、大変でしょう。コストとベネフィットのギリギリの線を飛びますので。本当にお疲れさまです。

 課題先進地に飛び込めば、本当に超えることができるのかという課題にまずはぶちあたります。しかし、本当の「闘い」はここからです。当初は想定していなかった課題、さらには事業運営がうまくいったからこそ出てくる課題が、次々と現場を襲いいます。

 この課題を前に、現場は、ときに困惑します。なぜなら、こうした課題には、まだ「名前がついていない」からです。必要になる人材像にも、いまだ「名前」はありません。未だ名前はついていないけれども、数年後には「みんなの課題=社会課題(Social issue)」になるような重大な問題が、剥き出しのまま、赤裸々に、時には猥雑に、自分たちの目の前に立ちはだかるからです。

 どんな課題でもぶち当たればいいっていうわけではありません。
 それは「みんなの課題」になるでしょうか?
 それは「カタリバのルーツ」に根ざしているでしょうか?
 そして
 それは「誰もやらないこと」でしょうか?
 もしカタリバがそれをやらなかったとしたら、どこの誰が困るでしょうか?
 
 メタフォリカルな言い方が許されるのなら、

 カタリバの前には「課題」は一揃いある
 しかし、その課題に、いまだ「名前」はついてない
 課題に名前を付けるのも、かつ、それらの解決策を模索するのも
 自分たちであるということになります。

 僕は、理事会に参加するだけの「なんちゃって理事」ですが、こうした課題に直面する彼らを応援したいと願いますし、そのことに希望を感じます。自分の専門性の中から、なるべくお役に立てるよう、助言をしていきたいと思います。

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 カタリバは、おそらく、これまでも、これからも課題と向き合っていくのでしょう。そんなカタリバに、僕からひとつだけ言葉をお贈りするのでしたら、
 
 実験的であれ!(Be experimental!)

 というひと言につきます。
「実験的」とは「フラスコをガスバーナーであぶって、ユラユラさせる」という意味ではなく、「社会的に意義が深くなると思われる課題」にぶち当たり、その課題を「名づけ」、「ソリューション」を考えていって欲しい、ということです。

 「誰かが名づけた課題」を「下請的」に解くのではない。
 自ら「社会課題」を発見し、自ら「名づけ」
 自ら「ソリューション」を提案すること

 そうしたサイクルに、自分たちで「名前」をつけて
 自分たちが「何者か」を常に対話し、
 自分たちに「名前」を付けていってほしいのです。

 興味深いことですが、理事会では、毎回、カタリバはなぜ存在するのか?というテーマが議題に出ます。存在意義を失えれば、組織として継続することを目指さない、という覚悟が、そこにはあるような気がします。
 実際、「語りの場」を他者に提供する自分たちが、自ら語りあうことができなくなったとしたら、この団体は、自己矛盾してしまうことになると思います。

 あなたは、わたしに「語りあおう」という
 そういうあなたはどうなんだ?
 あなたがた自身は「語り合っている」のか?

 理事の一人として、この団体が、実験的な存在のまま、かつ、対話の中で継続することを願い、かつ、応援しています。

 Be experimental!(実験的であれ!)
 Name the social issue!(社会課題を名づけること)
 and
 Name yourself!(自分たち自身に名前をつけること!)

 そして人生は続く