少し気になる「前のめりなポジティブ系コミュニケーション」:いつでも、誰とも、明るく、楽しく、面白く!?

 ちょっと前のことになりますが、ある学生さんと、印象に残るやりとりをしました。
 あるところで、はじめて出会った学生さんで、その方と僕は、共通の関心事があったものですから、そのことで、ゆるゆると話し込んでいました。10分間くらい時間がたった後でしたでしょうか、ひとしきり話したあとで、何かのタイミングで話題がずれて(たぶん将来かなんかの話題)、学生さんが、口にしたひと言が、とても印象的だったのです。

Aさん「わたしは、コミュニケーション、苦手ですから」
ぼく「えっ?」
Aさん「コミュニケーション能力、ない方ですから」
ぼく「そう?・・・2秒絶句・・・でも、あなたとぼく、今まで、ふつうに話してたじゃない」

 その学生さんとは、そこで話は終わりになったのですが、このやりとりが、それからの、僕は、気になって仕方がなくなってしまいました(細かくてすみません・・・でも、研究者というのは、こういうひと言がすごく気になって、いろいろ妄想してしまうものなのです・・・僕だけかもしれませんが)。

 僕が気になる「問い」とは、こういうことです。

 人が、第三者を「コミュニケーションができる」と判定しうるのは、どういうシーン(光景)が生じたときなのか?

 あるいは

 人が、第三者を「コミュニケーション能力がある」と判定しうるのは、どういうシーン(光景)を見たときなのか?

 ということです。

 先ほどの学生さんは、「ふつーに僕と、10分以上、ゆるゆると話していた」のにもかかわらず、自らを「コミュニケーションが苦手だ」「コミュニケーション能力がない」と意味づけていらっしゃいました。僕は、全くそんなことはないと思っていますが、この「ズレ」が興味深いな、と思ったのです。「ふつーにお話しができるにもかかわらず」、なぜ、「コミュニケーション能力がない」なのか。

 それからしばらく、これらの「へんちくりんな問い」を、仕事柄出会う、社会人(ビジネスパーソン)の方々にぶつけてみることにしました。

 人が、第三者を「コミュニケーションができる」と判定しうるのは、どういうシーンが生じたときなのか?

 人が、第三者を「コミュニケーション能力がある」と判定しうるのは、どういうシーンを見たときなのか?

 すると、興味深いですね。
 人が、第三者を「コミュニケーション能力が高い」と判定しうるのは、下記のようなシーンを見たときのようです。言葉をかえると、こういう人を、人は「コミュニケーションができる」と判定している。

「面白い話で、人を笑わせているシーン」
「知らない人であっても、近づいていって、やりとりできるシーン」
「明るく楽しい雰囲気を、いつも、かもしだしているシーン」

 いろいろな意見がありますが、だいたい、こんなイメージでしょうか。サンプルがそれほど多いわけではないので、一般性云々は、問題にしないでください。そんなに真面目な話じゃありません。単なるブログの記事(与太話)です。

 でも、なるほどな、と思いました。
 こうした光景が「コミュニケーション能力が高い」と判定しうるリソースならば、先ほどの学生さんと僕のやりとりで生じた「ズレ」は理解できます。もちろん、こうしたイメージが、いいとか、悪いとか、言っているわけではありません。ま、明るく、楽しいにこしたことはないわけですので、特に、それに関して言うことはありません。

 でも、僕に、すこしだけ「違和感」があるのだとしたら、これらのイメージの、どえらい「前のめりっぷり」「どポジティブぶり」です(笑)。
「いつでも、誰とも、明るく、楽しく、面白く」といったような「前のめりっぷり」「どポジティブぶり」は先ほど述べましたように、全く悪いことではないですが、それだけが「コミュニケーション」として語られたり、それだけが大事だよ、と語られると、「ほんの少しだけ、僕は、息苦しいな」と感じました。

 むしろ、上記のような「前のめりっぷり」「どポジティブぶり」もいいのですが、「人の話に耳を傾けられる」「相手が話しやすいようにうなづく」というような「パッシブさ」「ナチュラルさ」も、大切なことなのにな、と思うのです。
 言葉をかえるのなら「はじめて出会った人々が、ふつうに、ゆるゆると話すことができていた」のにもかかわらず、「コミュニケーション能力が低い」と意味づけざるを得ないのなら、この概念は、いったい何を指し示しているのか、僕には、わからなくなりました。

 ちなみに、先ほどの「前のめりなイメージ」をもってして、人が「コミュニケーション能力」を判定しうるのなら、僕自身は、「コミュニケーション能力はない」と判定されちゃうね、本気で思いました(笑)。僕は、「いつでも、誰とも、明るく、楽しく、面白く」はあきらかに無理。

 僕のお近くにいる方はご存じでしょうが、僕は、どちらかというと「人見知り」をしますし、特に女性とは目をあわせるのは苦手ですし(先日も、自意識過剰と怒られました。恥ずかしいのです)、ひそかに「根暗」です(笑)。おまけに、いつもはブツブツと小声。うちのカミサンの僕の最初のイメージは、「何言っているかわからない人」です。

 嗚呼。
 ひそかに、根暗で、すみません。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年6月28日 08:29


あなたの学生時代、最も「記憶に残る授業」は何ですか?

 高等教育機関(大学・短大・専門学校)で、あなたが受講した授業の中で、最も印象に残った、ないしは、記憶に残る授業を3つあげてください。それはどんな内容を扱った授業でしたか?

 もし、仮に、皆さんが、そのように問われたら、どんな授業をあげますか?
 それは、どんな内容・活動が扱われる授業でしたか?
 大学時代、皆さんには「記憶に残る授業」、ありますか?

 皆さんが、まだ若い頃のことです(笑)。
 下記の写真は、僕が「22歳」の頃(笑)
 思い出していただきたいのは、皆さんが、
 この写真の年齢の頃、受けた授業の話です(笑)。
 皆さんは、どんな学生時代を過ごしておられましたか?

nakaharajun_wakaikoro.png

  ▼

 僕の場合でしたら、最も印象的だった授業は、学部生の頃にとった「社会調査実習の授業」です。
 この授業では「社会調査を丸1年かけて構想し、自分たちで仮説をつくって、実際に質問紙をつくり、調査紙を配付・実施して、その知見を発表すること」を行いました。

 違う学科の授業でしたので、僕にとっては「必修」ではないのですが、でも、こちらの授業に参加させていただいたことで、とても得るものは多かったように思います。
 そこでは「仮説をたてることの難しさ」「方法論をもつことの大切さ」、そして「みんなで議論することの面白さ」、そして「分析するときに必要な根気と気合い」について学んだ?ような気がします。
 僕は、決して「出来の良い学生」ではありませんでした。しかし、今でも、そのときのことは、印象に残っています。そんな授業を、ありがとうございます。

  ▼

 印象深い2つめの授業は、夏の集中講義で実施された「からだとことばのワークショップ型の授業」でした。これが、また趣深かった。

 演劇をテーマにしたそのワークショップ型授業では、数日かけて、様々なワークに取り組みました。印象的だったのは、授業の中で行われた「自分の声を他者に届けるというワーク」です。以前、このワークについてはブログで書いたことがありますが、その様子は、こんな感じです。

 あなたが、仮に、この授業の参加者のひとりだとして、今、あなたの10メートル先に、別の3人の参加者が、あなたに「背」を向けて座っています。あなたは、その3人の参加者のうち「誰かひとり」を決めて、

 「ねぇ」

 と10メートル手前から声をかけなくてはなりません。その一人の「名前」を呼んでしまってはいけません。背を向けている一人に対して、あくまで「ねぇ、ねぇ」と呼びかける。

 背中から呼びかけられた3人は、そのとき考えます。「ねぇ」というあなたの呼び声を聞いて「もし自分が呼びかけられたな」と感じたら、手をあげる、というものです。

 このワーク、やってみると面白いもので、自分が呼びかけた人とは「違った人」が手をあげたりします。もっとも頻繁に起こるのは、いくら呼びかけても、誰も手をあげない、という事態です。つまり、「声」がなかなか届かない。焦れば焦るほど、声は空中をあてなく飛び交ってしまうのです。

 このワークには、あとにリフレクションも用意されていました。
 呼びかけられた3人に、「呼びかけられたときに、どのような気持ちがしたかを答えてもらう」というわけです。

「なんか、声がわたしの背中の前で、ストンと落ちた感じ」
「なんか、焦っていて、みんなを怒鳴っていた感じ」

 という具合に、呼びかけた本人に対してコメントがなされます。
 その上で、「呼びかける」とは何か、「声を届ける」とは何かを考えます。

 口をあけて声を出せば、声は発せられます。そのことと「他者に呼びかける」と「他者に声を届ける」は、何が違うのか・・・。「声を届ける」というメタファをもとに、「自己の他者に対するかかわりのあり方」を考えるのですね。

 今から考えてみても、相当、ディープな授業でした。
 これ以外にもたくさんのワークがあって、いくつかは憶えています。
「三四郎池をペアで散歩する」というワークもありました。まずは二人でペアになる。ひとりは目隠しをして、ひとりは目隠しされた人の手をとって、三四郎池のまわりの、でこぼこ道を誘導する。「支援するとは何か?」「他者とは何か?」「コミュニケーションするとはどういうことか?」を考えます。

 重ね重ね、ディープな授業です。
 そんな授業をしてくださった先生に、感謝します。

  ▼
 
 最後の授業、3番目に印象深かった授業は、「経験をコンピュータで表現して、展覧会をひらくという授業」です。

 この授業では、東大のキャンパスを東大生と美術大学生で散歩して、そこで見たもの / 聴いたもの / 感じたものを、コンピュータで抽象再現し、3Dのムービーにするという授業を受けました。

 もっとも興味深かったのは、リアルな経験を抽象的図形で表現したうえで、授業の一番最後に、食べ物や飲み物も少し用意しながら、展覧会をひらき、お客さんにきてもらう、という授業形式です。

 美術大学ではあたりまえなのかもしれませんが、「授業が授業に閉じていない」ということに、しかも、その最終アウトプットが展覧会であったことに、僕は、まずびっくりしました。
 重ね重ねで恐縮ですが、僕は、必ずしも、出来の良い学生ではありませんでした。おそらく、当時は、その意味もわからず、授業の最初から最後まで違和感を抱えていました。しかし、このときのことは、印象に残っています。素晴らしい時間をありがとうございました。

  ▼

 こうして3つの授業を並べてみますと、面白いことがわかってきます。

 ひとつめに興味深いのは、それらは全く異なる授業とはいえ、共通点もあることです。
 僕が興味をもったのは、知識を「勉強」する、頭の中にたたき込むというよりも、「実際に自分の頭で考えて、自分の手で、やってみること」が含まれていることです。そんな授業に、僕は魅了されました。

 ふたつめに興味深いのは、僕が選んだ3つの授業には、必ず「ともに学ぶ仲間との議論や活動」が含まれているということです。学習が、自己に完結していない。むしろ、他者との関係の中にある、という点が、興味深いことです。
  研究知見からいえば、これらの結果は、それなりにもっともなことであります。たとえば、Pascarella et at (1999)「How college affects student」では、2500編の論文のメタ分析のメタ分析を通して、大学生の学習効果は「学生が教師や学生とクラス内でどの程度相互作用しているか」によって決定されることを明らかにしています。この分野の泰斗、Astin(1993)は、20000人の学生に対する社会調査を通して、学業成績 / 満足度に影響を与えるのは「教員との相互作用」「学生同士の相互作用」であることを明らかにしています。まぁ、そういうことです。

 最後に面白いなと思うことは、これらの授業は、間違いなく、「今の僕」に少なくない影響を与えていると思われることです。

 ひとつめの授業のキーワードは「仮説 / 調査 / 探究 / 分析」。
 ふたつめの授業は「身体 / 他者 / 言葉 / ワークショップ / 支援」。
 みっつめの授業のキーワードは「表現 / 情報技術 / 展覧会」。

 これらのキーワードは、今、聴いても全く新鮮です。それから20年たった、「今の自分」でも興味を持ちそうなことが含まれているような気がします。
 いいえ、正しくは、こうした授業の果てに、「今の僕」が「つくられた」のでしょう。そういう授業の積み重ねの果てに、僕はいるのかもしれません。

 僕は、必ずしも出来のよい学生ではありませんでした。しかし、今、ひとりの大学教員として、大学で生きています。そして、ひとりの大学教員として「自分が影響を受けたような授業」を、ひとつでも多く実践したいものです。いまだ修行不足だとは思いますが、そういう授業ができるように、僕はなりたい。

 皆さんはいかがでしょうか?

 大学時代、皆さんが、もっとも印象に残った授業は何ですか? 
 それはどんな特徴をもつ、どんな内容の授業でしたか?
 そこにはどんな共通点がありますか?
 今の自分との連続性は、ありますか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年6月27日 07:00


「雲の上マネジメント」から「言霊マネジメント」へ:マネジャーと言葉

だって(今のマネジャーには)「武器」がないじゃないですか。武器といっても、「昇進」か「言葉」しかないんです。「昇進」でインセンティブを与えることもできるけど、今の時代、「昇進」は厳しい。会社も(数は)絞っているし、そうそう、「昇進」は使えない。「言葉」しかないんですよ。「言葉」でインセンティブを与える。それしか、残ってないんですよ。 (一部、データを修正)

  ▼

 先日、あるところで現場のマネジャーの方に、ヒアリングをさせていただきました。その際、印象に残った言葉が、上記の内容です。

 このマネジャーの方は「マネジメントの武器」というメタファで、究極的に「職場メンバーのモティベーション」は2つの要因によって左右される、とおっしゃっています。ひとつは「昇進」そして、もうひとつは「言葉」です。

 前者は具体的にいえば、報酬(給料)とか、ポジションで人を動かすこと。後者は、日々の声かけを積極的に行っていくことと考えられるでしょう。

 その上で、自分には、もう「打ち手=武器」は少ない、とおっしゃっています。特に「昇進」の武器は、今のご時世、なかなか使えない。また、前者が機能するのなら、それにこしたことはないけど、それだけでは難しい。だからこそ「言葉」でマネジメントを行う必要があるのだ、とおっしゃっているのです。
 日常の朝昼晩に、彼が、職場をまわり、部下に、なるべく声をかける。そんな地道な努力で、職場をマネジメントしていらっしゃいます。

 ▼

 一方、同じ会社の別の職場で伺ったお話は、それとは、「全く別世界」のことを語っておられて、また、興味深いものでした。
 そのマネジャーの方は、自分が入社した当時、つまりは25年前くらいの、職場のマネジャー(自分の上司)を振り返って、下記のように語ります。

 25年前のマネジャーなんていったら、「雲の上の存在」。部下とは、話はしませんな。よばれたら、そら、まて、直立不動ですわ。もう、えらいことですな。でも、今は、時代は変わりました。それじゃ、店が回らないし、成果でませんな。「雲の上」いたら、仕事にならんのです。(一部、データを修正)

 ここで印象深いのは「雲の上」というメタファと「直立不動で、話はしない」という事実です。それと、先ほどの世界を比較してみましょう。
 わずか25年間のあいだに「雲の上マネジメント」が、「言霊マネジメント」に変わったことになります。そこには「隔世の感」があります。

  ▼

 先だって、あるメディアのインタビューを受けた際、究極的に、これからのマネジメントに求められるものは何か、ということを質問されました。

 僕が、迷うことなくお答えしたのは「言葉へのリスペクト」という回答です。

 組織の目標をうまく咀嚼すること。雇用形態の異なる様々な人々のやる気を鼓舞すること。部下の仕事にフィードバックを行うこと。部下を内省させること。他部門や他の会社、最近では国籍の異なるコラボレータと交渉をすること。自部門に資源動員を行うために、ボスと交渉すること。

 そういうことを行っていかなければならないときにマネジャーの方々が「言葉をどれだけリスペクトしているかどうか」。自分の言葉の強さや重みに、どれだけセンシティビティをもっているかどうか。「言葉によって何かを動かすことを、どれだけ重視して、これまで実践してきたかどうか」。
 逆にいうと「背中をみてついてこい」「すべこべいわず黙ってやれ」という「非言語的な仕事観 / 職場観」から、いかに「脱出」できているかどうか。そういうノスタルジーあふれる「かつての仕事観 / 職場観」をいかに「相対化」できているかどうか。
 これからは、おそらく、そういうことが大切になってくるのだろうな、と思うのです。

 現代の職場のマネジメントには、言語能力がこれまで以上に必要になっている、といっても、それは、「飲み会で発揮される饒舌さ」ではありません。
 なぜなら、ノミュニケーションとは、「ごくごく限られた雇用形態にしか作用しないコミュニケーション・説得技法」なのです。高い言語能力といっても、そういうものを求められているわけではありません。

 むしろ「饒舌」でなくてもいいのかもしれません。
 しかし、様々な異なる背景をもつ人々と向き合い、聴くこと。ひとつひとつ言葉を選ぶこと。場合によっては、相手の言葉を引き出すこと。
 これからさらに求められていくのは、「雲の上からの言葉」ではなく「地に足のついた言葉」であるような気がします。

マネジャーに期待されてるのは「翻訳機」ですわ。現場には、いろんな人がいるんですわ。メッセージを、かんでふくめて、わかりやすく伝えるんです。わかりやすくです。問いかけ、時にはつめて、そそのかし、笑ったり、一緒に、感動したりして、現場を動かすんです。そういうこと、やってくれ、いうことです。
(一部、データを修正)

 現場の方々の言葉は、いつも含蓄にとんでいます。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年6月26日 06:57


号泣する身体、哀しみの中のピエロ:カンジヤママイムさん「おしゃべりなパントマイム」を見た!

 以前より、何度か、ワークショップや研究会などでご一緒させていただいたことのある、カンジヤママイムさん(藤倉健雄さん)の舞台が、先だって、上野・鈴本演芸場で開催され、家族で出かけてきました。

suzumoto_kanjiyama.png

カンジヤママイムさん Webpage
http://www.kanjiyama.com/

 藤倉さんは、パントマイムの芸人として鈴本演芸場に立たれる一方で、日本全国の学校で公演を行っています。本当に日本全国です。

学校公演実績
http://www.kanjiyama.com/programs/talkative/#oshaberi-06

 また、NHK教育「おかあさんといっしょ」などで、「パント」というコーナーの監修をなさるなど、テレビ、ラジオなどのメディアでもご活躍なさっています。

 藤倉さんが一風、興味深いのは、こうした芸能活動の他、教育研究者としての顔をお持ちのところです。藤倉さんは、ニューヨーク州立大学演劇学部修士課程を経て、ウィスコンシン大学演劇学部博士課程修了し、Ph.D (教育演劇学博士)を取得なさっています。
 その博士論文は、日本の教育演劇に関する博士論文が、アメリカ教育演劇協会より最優秀論文賞を受賞なさいました。現在は、玉川大学、東京学芸大学などで教壇にも立たれています。

 素晴らしいご経歴ですね。
 まことに興味深いです(笑)。

  ▼

 今回の舞台では、藤倉さん、そして、藤倉さんの弟子さんのお二人が、様々なパントマイムを演じてくれました。

 パントマイムというと、通常、「サイレント=無音」を想像してしまいますけれど、藤倉さんらのパントマイムは「おしゃべり」なパントマイム。軽妙なおしゃべりと、不思議な体の動きで、会場に「笑い」を巻き起こしていました。

 いくつかのパートでは、観客にパントマイムを「やって」もらいます。このあたり、非常に体験的、参加型だな、と思います。観客は、少しだけコツを教えてもらえますので、やってみるのですが、なかなか「食べている」パントマイムをするのは、難しいものです。
 しかし、これには、TAKUZOも、いたく気に入った様子で、数日たった今も、時折、パントマイムをやっています。

  ▼

 今回の舞台、個人的には、舞台の一番最後に藤倉さんが演じた「バイオリン弾き」のパントマイムが「刺さり」ました。

 病気の小さな子どもを育てながら、ストリートでバイオリンを弾くことで暮らしている、ある「バイオリン弾き」がいます。
 その日は、子どもが高熱だったのですが、生活のためには、子どもを自宅に残して、彼はストリートでバイオリンを弾かなくてはなりません。
 その日は、クリスマスでした。日銭をかせぎ、仕事を終えた彼は、お店にいって、子どもへのプレゼントに「道化師のマスク」を買いました。マスクをつけて、おどけてみせ、子どもを笑わせてあげたかったのです。
 しかし、家に帰った彼が見る者は、変わり果てた子どもの亡骸でした。「道化師(ピエロ)のマスク」をつけたまま、彼は、号泣します・・・。

 身体は号泣しているのにもかかわらず、しかし、顔のマスクは道化師のままで笑っている。亡骸になった子どもを、まだ笑わそうとしている。そのアンバランスさが、「深い哀しみ」を表現しているようでした。パントマイムとは、「笑い」を生み出すばかりではなく、哀しみを伝えることができるのだと、驚きました。

 もしかすると、見ていて、昔を思い出したのかもしれません。
 全くを境遇などは異なるのですが、自分の子どもがまだ小さかった頃、病気がちだった頃のこと。入院したときのこと。それでも、仕事に出かけざるをえなかったときのことを、ふと思い出してしまいました。そのときのやりきれなさ、切なさを。

学術論文を読んで涙が止まらなくなったときの話
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/06/post_1272.html

 ▼

 ともかく藤倉さん、素晴らしい舞台をありがとうございました。とても愉しむことができました。
 そして人生は続く。 

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追伸.

わが家が、家族全員でお世話になっている「学び続ける歯医者さん」、目黒「サウジ歯科」のFacebookページができたそうです。おめでとうございます(笑)。「サウジ歯科」は「サウジ」とありますが、「サウジアラビア」とは一ミリも関係ありません。先生は、日本人です。
佐氏先生は、いつも患者本位の治療を行っていただけます。歯をしっかりと治したい方、予防をふくめてトータルに安心安全の歯科治療を受けたい方には、ぜひ、おすすめです。大丈夫ですよ、保険、ちゃんと、ききます(笑)。保険診療ふくめて、患者本位の立場で、様々な相談にのってくれるとおもいます。

サウジ歯科 on Facebookページ
http://www.facebook.com/saujidentalclinic

投稿者 jun : 2013年6月25日 07:42


「これからを構想」する時に、「決して裏切ってはいけないもの」

「みんなが欲しがってるものをつくってちゃ、ダメなんだ。自分が欲しがっていることに、みんなが気づいてさえいないものをつくらないと」
(カニエ・ウェスト)

「音楽は"曲を売る"という縛りから、解放されたということなんだと思う」
(ウィル・アイアム)

 発売中のWIRED最新刊「これからの音楽:21世紀をサヴァイブするコンテンツビジネス」を読みました。「音楽」に関しても、「コンテンツビジネス」に関しても、全くの素人なので、僕は、その業界内の常識を知りませんが、小生お得意の「妄想力」を爆発!?させながら読むと、音楽業界の未来のみならず、いろいろなことが浮かんできて、とても興味深い特集でした。

korekara_no_ongaku.png

 特集では、「素人目線」で恐縮ですが、なぜ、既存のレーベル、既存の音楽ビジネスが「崩壊」の一途をたどり、そのあとにいかなるものが立ち上がろうとしているのかは、おおよそ理解することができました。

 ひと言で述べるならば、既存の勢力にとって「押し寄せたデジタルの波」とは「権利」でした。誤解を恐れずにいうならば「これまでの権利を守ること」、そのことだけが、「既存の勢力の関心事」であった。
 より話を具体的にしますと、その関心事は「ネット時代に自らの権利を脅かすものに対して、いかに法律的に、それを守るか」であり、「自らの権利を脅かすものに対して、いかに技術的かつシステム的に、それを守るか」であったということです。まぁ、やむなきところも感じます。それで「ごはんを食べてきた」のですから。

 しかし、その際、もっとも「裏切ってはいけないもの」を裏切ってしまった。自己の権利を守るために生じる、あらゆる「不便さ」「不都合」を「音楽を愛する顧客」に押しつけてしまった。
 本来ならば、自らの「権利」を守るために裏切ってはいけないものは、「音楽を愛する顧客」であったのにもかかわらず、それを「裏切ってしまった」。これが「決定打」だったんだろうな、と僕は感じました。

 そして、妄想力を豊かにして考えると、こうした事例は、音楽業界のみならず、枚挙に暇がないな、とも思いました。
 音楽業界のみならず、「これからを構想する」ときに「裏切ってはいけないもの」を「裏切って」しまう事例は、「ここ、あそこ」に生じているだろうな。振り返ってみれば、そういう事例は、多いだろうな、と。僕が知っているだけでも、いくつかは、あるぞ、と。

 業界には業界の事情があり、そこに生きていた人には言い分もあるだろう。外的環境の変化によって「これまで」が理由もなく瓦解していくことには、文句のひとつ、恨み節のひとつも、言いたくなるだろう。
 しかし、「これからを構想する」ときに、「これまで自己を存立ならしめてきたもの」を「裏切れば」、逆説的ですが、そこには先に「これから」はない。自戒を込めてですが、本当にそう思います。

  ・
  ・
  ・
 
 特集では、これから立ち上がってきている、様々なメディア、アーティストの試みを紹介しています。いくつかは知っていましたが、知らないサービスもあり、あとで試してみようと思っています。

 「もっとも時代の最先端をいく」と言われているのが、「音楽」の領域です。ここで起こっている出来事は、いつか、自分たちの「明日におこること」かもしれませんね。 

「便利なものが勝ち、思い上がりは負ける」
(イアン・ロジャース)

 そして人生は続く

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追伸1. 自己メモ

・VINE(ビデオ版:6秒のショートムービー作成サイト)
https://vine.co/

・SPOTIFY(音楽サービス)
https://www.spotify.com/int/

・PANDORA(音楽サービス:日本からでは利用できない)
http://www.pandora.com/restricted

・Music Unlimited(ソニーの音楽サービス:リコメンドエンジン)
http://www.sony.jp/music-unlimited/

・Yak Film(デジタル一眼+ダンスビデオ)
http://www.youtube.com/user/YAKfilms?feature=watch
この映像かっこいい

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追伸2.
 昨日、渋谷ふれあい植物センターでのホタル鑑賞会に家族で出かけていたら、たまたま帰り道、ZINEFESというのを、やっていました。
 ZINEとは、若手アーティスト(昨日は写真家)が自分でつくっている小冊子だそうです。ZINEFESは、そうした創作活動をなさっている人々が集まり、交流する会だそうです。

zinefes_shibuya.png

ZINEFES
http://zinefes.com/

 ここ数日で僕に起こっている出来事は、おそらく、同じコトです。ZINEも、先日金曜日のUSTも、音楽の話も、ひそかに、ゆるく関連しているように僕には感じます。「表現者とその表現公開手段(普及チャネル)」について考えさせられた週末でした。経験上、こういうシンクロニシティが起こるときっていうのは、何かが動いているときです。何かを感じます。

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追伸.
 今週から3週連続にわたり、雑誌「日経ビジネス」で藤原和博さんと中原の対談が掲載されます。「これからのキャリア × 人材育成(学習)」みたいな内容です。もしよろしければ、どうぞご笑覧ください。
 編集の中野目さん、秋山さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。

nikkei_shimbun_nakahara.png

投稿者 jun : 2013年6月24日 08:42


UST「研究と実践の関係2.0」無事終了しました!:スライドと録画ビデオはこちらです!

 本日午後7時からのUST「研究と実践2.0」無事終了しました。途中システムトラブルにいくつか見舞われ、10分以上、開始が遅くなり、またカメラが使えず、手持ちでWebカムで中継する、ということになりましたが、皆様の御協力もあり、何とか終了です。ご覧いただいた皆様、ありがとうございました。

 ▼

 今日のUSTは、映像等は少し乱れはありますものの、内容は個人的には非常に印象に残るものでした。下記にUSTの録画映像、そして、各人のパワーポイントのスライドを後悔させて頂きますので、どうかスライドをみながら、USTをご覧いただけるとよろしいかと思います。

 映像は前編と後編に分かれておりまして、前編に中原のイントロ、服部さんの研究。後半に舘野さんと中原のセッション、そして国保さんの研究が続きます。いずれも、「研究と実践の関係」を、様々な角度から考えているようなプレゼンテーションになります。どうかご笑覧下さい。

■前編


Video streaming by Ustream

前編へのリンク:http://ow.ly/mfSN9

<内容の概略とキーワード>

1.中原のイントロダクション
・実践現場をもつ研究
・開発ー普及モデル
・実験室研究の反省と生態学的妥当性 ・日常認知と状況論:現場の認知の解明
・アクションリサーチ
・デザイン実験と研究の大規模化

研究と実践のあいだ2.0 中原のイントロプレゼン from nakaharajun

 ー

2.服部さんの研究プレゼン
・経営学は役にたつか? なぜ使われないのか?
・Evidence-Based Management
・経営学知識の普及プロセス、その実証的探究
・普及の主要なチャネルは書籍・テレビ・新聞
・学術雑誌は普及チャネルにはなっていない
・経営学知識と組織内昇進

研究と実践2.0 服部さんのプレゼン from nakaharajun

■後編



Video streaming by Ustream

後編へのリンク:http://ow.ly/mfSS8

3.舘野さんのプレゼンテーション
・「実験室」から「現場」の研究へ
・質的な研究アプローチに対する注目
・エスノメソドロジー・フィールドワーク
・「分析」から「介入的な実践研究へ」
・デザイン研究(学習科学)
・アクション・リサーチ
・学会への対応
・「質的で、かつ、アクションリサーチ」が
 「現場に資する」研究なのか?

研究と実践2.0 舘野さんのプレゼン from nakaharajun

 ー

4.国保さんのプレゼン
・大学フューチャーセンターの試み
・実務と研究の溝? それとも実務家と研究者の溝?
・未来のための対話スペース「フューチャーセンター」
・"KOKULABO"コミュニティ

研究と実践2.0 国保さんのプレゼン from nakaharajun

 というわけで「研究と実践2.0」無事終了しました。繰り返しに成増が、ご覧いただいた皆様、ありがとうございました。ご出演いただいた服部さん、国保さん、舘野さん、ありがとうございました。また中継をお手伝いいただいた脇本さん、ありがとうございました!

 それではみなさまよい週末を! 

投稿者 jun : 2013年6月22日 00:32


「育てること」とは「待つこと」:誰かを待つか、誰かに待たれているか!?

 究極的にシンプルに述べるならば「育てること」とは「待つこと」です。

「できるかもしれないし、できないかもしれない、危なっかしい人」を対象にして、「少し高めの課題」を設定し、彼 / 彼女が試行錯誤しているプロセスを「待つこと」。

 待って、待って、待ちこがれて。
 まだか、まだか、と催促したくなることを押さえて、待つこと。
 こうすればいいじゃないか、と直接手をくだすことを待つこと。
 自分だったら、君の3分の1の時間でできる、と小言のひとつも言いたくなることを待つこと。
 待って、待って、待ちこがれて。
 それでも、まだ来ぬ反応に、待ちくたびれて。

   ▼

 もちろん、育てることは「待つ」だけでは可能になりません。育てるためには、フィードバックも必要だし、助言も重要。しかし、それ以前に、大切なことは「待つこと」であったりします。「待つこと」がなければ、適切なタイミングでフィードバックや助言をすることは難しいから。

 しかし、自戒をこめていいますが、私たちは、いざ「待つ立場」にたった場合、なかなか「待てない」。

 あなたが、もし、マネジャーならば、「今度だけは手や口を出さないようにしよう」と思う。しかし、待って、待って、待ちこがれて。業をにやして、ついつい、待てずに、口をだす。ついつい、チェック魔になってしまったり、先回りして解決してしまう。

 あなたが、もし教員ならば、「今日こそは、学生たちに自分の頭で考えさせよう」と思い、授業で「問いかけてみる」。しかし、問いを投げかけた、そのあとの数十秒の沈黙が、なかなか待てない。ついつい、ヒントを出してみたり、自分で答えを言ってしまったり。
 昨日も、これから教員をめざす学生に僕は言いました。「問いをなげかけたなら、待つ勇気を持とう」。しかし、自戒を込めて言いますが、待つことは難しい。

 あなたが、もし親の立場にいるならば、「今日こそは、子どもをが自分の力で問題をとくようにしよう」と思い立つ。しかし、待てどくらせど、答えはなかなかでてこない。あっちにふらふら、こっちにふらふら。待って、待って、待ちくたびれて。ついに、手をだし、声をだす。
 昨日も、僕は息子に言ってしまいました。「TAKUZO、早く、しなさい。こうやればできるでしょ」。頭ではわかっているけれど、なかなかできない。僕は弱い人間です。

 自戒を込めていいますが、「待つこと」、いいえ、「待たされること」には、わたしたちは、慣れていない。そして、待つことは、本当に難しい。

  ▼

 しかし、一寸、考えてみると、誰もが昔はノービス(初心者)であった。
 今は「誰かを待つことができない、わたしたち」も、昔は「誰かに待たれる存在」であった。わたしたちの一挙一動を、「待って、待って、待ちこがれて」いた人がいた。そういえば、少し前までは、今は「誰かを待っている」あなたも、「誰かに待たれる存在」であった。

 さらにもう一歩先を急ぐなら、人は「待っているか」「待たれているか」、そのどちらしかないことにも気づかされる。
「待たれること」の果てには「待つこと」があり、やがて老いれば、また人は「待たれる存在」になる。今は「待っている」あなたも、老いれば、やがては「待たれる存在」になる。

「今、なかなか待つことが、なかなか難しいわたしたちも、「待つこと - 待たれること」の連鎖の中にある」。そう、思ったら、ほんの少しだけ、ふっと気が楽になりませんか?

 それは、誰もがとおる道。
 やむをえぬこと、仕方がないこと。
 そう、歴史は繰り返すことなのだよ、と。
 僕は、そう自分に言い聞かせることにいたします。

 まぁ、それで割り切れるほど、待つことは簡単なことじゃないのだけれども(笑)。

 そして人生は続く。
 

投稿者 jun : 2013年6月21日 06:41


「身体からのメッセージ」を読み解く!?:学習者は何を考え、何を感じているのか?

 身体は、口ほどにものを言う
 人は、身体を通して、常にメッセージを発している
 
 仕事柄、僕は、ワークショップ、セミナーなどで、登壇したり、ファシリテーションをしたりすることが少なくないのですが、そのとき「見ている」もののひとつ、「参加者の方々の身体」です。
 話ながら、ときどき目をやり、身体の動き、構え、姿勢などに、目が自然と向かいます。

「身体を見る」といっても、

「あっ、ちょっと、この人、メタボ気味だな」
「ちょっと、ズボン、きつそうだな」

 とかそういうことではありません(笑)。

 たとえば、敢えてわかりやすく述べるならば、グループでディスカッションしているときに、多くのメンバーが「腕を組みながら」話をしているとします。これはわかりやすすぎ?

 一概には言えませんが、「腕を組む姿勢を自然に、みんながとっている」ということは、「胸襟を開いている」というよりも、やはり「自分を防衛したいという意識が働いている」と考えられる場合が多いように感じます。
 ま、ほんとのところなんて、わからないけど。経験上・・・だけどね。

 たとえば、前で自分がレクチャーをしているとします。
 本当に自分のしている話のベクトルが、参加者の方々に、本当に同期しているときというのは、「脚が動く」「頭が動く」とか「咳をする」とか、そういう動きが、おこらないような気がします。経験上・・・だけどね。

 逆に、話のベクトルがあってないな、というときには、身体は前傾気味、どちらかというと、うつむきがちになっていきます。咳も出てきますし、脚を組む方なんかもでてきやすい傾向があるように感じます。

 こういう現象ならば、それこそ「無限」に列挙することができますが、おそらく大切なことは、「それぞれの動作」が何を指し示しているか、ということに関する「個別の解釈」ではありません。

 おそらく大切なのは、

・学習者は本当に思っていることを、なかなか口にしない
・学習者の身体は、いろいろなメッセージを発している

 特に、僕が相手にするような「成人」 - 10年目くらいの実務担当者の方からマネジャー層とかが多いですかね - さすがに、考えていることや感じていることを、「じゃじゃもれ」状態で、すぐには口になさいません。

 しかし「身体」は、なかなか「ウソ」はつけないものです。その方々の身体的特徴、姿勢の特徴もあるので、全く一概には言えないのですが、そのときどきで、「身体は様々なメッセージを出している」ように感じます。

 僕の仕事にとって「見ること」は大切です。
 そして人生は続く

 ---

追伸.
 6/21(金)午後7時からのUST「研究 - 実践の関係2.0!?:僕ら(研究者)は、何を生み出したいか? 実務家の方々とどんな関係を築きたいのか?」ですが、国保祥子先生(静岡県立大学)にもご出演いただくことになりました(感謝です!)。

 国保先生は、「自分の研究室」を「実務家」の方々が集まる「フューチャーセンター」にして、そこに大学生を巻き込みながら、実践をなさっています。「実践と研究のあいだ」を考えるうえで、興味深いお話がうかがえそうです。

どうぞおたのしみに!

国保研究室:静岡県立大学経営情報学部 国保ゼミ公式blog
http://blog.kokulabo.com/

静岡県立大学国保ゼミフューチャーセンター
http://futurecenternews.jp/u-shizuoka-ken-kokubo-fc-78.html

当日のUST配信は下記からです
http://www.ustream.tv/channel/nakaharalab

投稿者 jun : 2013年6月20日 08:33


「みてみて!」:自分の発見をお裾分けする!?

 清里高原で保育を続けるかたわら、子どもたちの写真を撮り続けている、小西貴士さんから(以前、東大でも研究会をやりましたね)、小さな冊子(写真絵本)をご恵贈いただきました。この場を借りて感謝いたします。

mitemite_konishi.png

みてみて!
http://www.fukuinkan.co.jp/magadetails.php?goods_id=23057

小西貴士さんをお招きした研究会@東大・・・あれから、もう一年か・・・早すぎる
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/07/post_1864.html

小西さんのブログ
http://ameblo.jp/gorilla-tarou/

 本書「みてみて!」は、子どもたちが、面白いものを見つけたとき、つい言葉にしてしまう「みてみて!」という一瞬を、写真で綴ったものです。
 写真には、子どもの顔は明瞭には映っておりません。ほとんどの作品は、手と手に握られた様々なもののアップです。しかし、そこに握られた野草、虫などと、それらを大切につかむ手の様子から、子どもたちの「みてみて!」という言葉が聞こえてくるような気がします。そして、そんな時期が、僕にもあったな、と思うのです。

 子どもの頃、わたしたちは、面白いことを見つけると、誰かれ、かまわず、「みてみて!」を繰り返してきました。こんな面白いことがあったよ、と。ねぇ、「みてみて!」と。

 しかし、いつの日か、そんな「みてみて!」は失われていきます。

 「自分だけの秘密にことにしておこう」
 「黙っておいたほうが得かもしれない」
 「こんなこと、みんな知っていることかもしれない」
 「自慢していると思われたらどうしよう」

 そんな頭の中の検閲官が、大人に生まれた「みてみて!」を阻害します。

 また、そもそも、「そんじゃそこらのこと」では「みてみて!」と思えるような「感動」を覚えることも少なくなってきています。

 「なんだ、そんなことか、くだらない」
 「そんなこと、学校で習ったから知ってるよ」
 「そんなこと、誰でもわかってるよ」

 物事や世間を幅広く知るとは、そういうことなのかもしれません。
 かくして、大人は、子どもほど、無邪気に「みてみて!」を口にすることはありません。

 「みてみて!」と口にできる、発見のある日を過ごしたいものです。
 そして、「みてみて!」と言える、誰かと、ともにありたいものです。
 今日という日が、「発見をお裾分けできる日」でありますように。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年6月19日 06:56


6/21(金)UST配信決定!「研究 - 実践の関係2.0!?:僕ら(研究者)は、何を生み出したいか? 実務家の方々とどんな関係を築きたいのか?」

 今週の金曜日、(6/21) 午後7時 - 9時くらいまで、久しぶりにUSTすることになりました。実は、かなり前からそんな企画があったのですが、本日、打ち合わせを終え、正式にリリースということです。

 今回の話題は「実践現場・実践領域の存在する研究」の「王道」テーマです。ていうか、「鉄板テーマ」といってもいいかもしれない(笑)。

 今回のUSTでは、

「研究 - 実践の関係2.0!?:僕ら(研究者)は、何を生み出したいか? 実務家の方々とどんな関係を築きたいのか?」

 と題して、手に汗握る?トークをお送りいたします。

「そのものズバリ」の「直球テーマ」で、すみません(笑)。いやー、変化球苦手なもんで。
 でも、「大学とは何か?」「研究とは何か?」が揺れようとしている昨今だからこそ、このテーマで、お話がしたいのです。

  ▼

 今回のUSTには、横浜国立大学で経営学(組織マネジメント)を教えていらっしゃる服部泰宏先生、現在、東京大学大学総合教育研究センター特任研究員をつとめていらっしゃる中原研OBの舘野泰一さん、そして不肖・中原が、登場致します。

 企画者のひとりとして申し上げるのは、手前味噌アワー甚だしいのですが、今回のUSTは「見所」があります。

 服部さんも、舘野さんも、30代前半ということで、僕よりも、少し?(かなり?)年齢が若い、新進気鋭のガチ研究者です。ゼロ年代ならぬ、ポストゼロ年代。これからの若手研究者である、彼らが語る「研究 - 実践の関係2.0」というのは、興味深いところです。

 最近、様々なところで、「オヤヂ化」が進んでいる小生が、この二人にまじりあいながら、いろんな歴史を懐かしみつつ(笑)、時にチャチャいれしつつ、「研究と実践の関係」をトークいたします。
 ごめんなさい、どう考えても、僕、邪魔ですか(笑)?

 また、もうひとつの「見所」は、今回のトークが、実証研究に基づいているということです。
 この手の話題は、主に、「規範論的な立場」から語られる(要するに説教臭い)ことが多いのですが、今回のUSTでは、実証研究の知見に基づきながら、お話をする、というのも特徴的なところかもしれません。
 番組の中では、先日の組織学会で服部さんがご発表なさった研究知見に関するプレゼンテーションなどを、ご紹介させていただきます。服部さんが明らかにしたのは、学問の知識は誰によって、どのようなメディアを用いて消費されているのか。かつ、そこでおこる学びは、どのような特徴を持つか、ということです。

「実践的研究」や「研究に裏打ちされた実践」を志したい方には、興味深く、おきき頂けるのではないか、と思っています。

  ▼

 ところで企画者のひとりとしての「本音」をお話しすれば、この手の話で、「よくある光景」を繰り返したくありません。それは「自分が不在の"べき論"の応酬」です。

「ほにゃらら学は・・・・かくかくしかじかで・・・あるべきだ」
「研究者は・・・そもそも・・・あるべきだ」

 口角泡を飛び散らせながら、熱烈な議論を繰り広げるそんな光景を、私たちは、これまで、何度、目にしてきたことでしょうか。「・・・学は、・・・・の視点からすれば、・・・・であるべき」という規範論的議論、しかし、そうでいて、「みんな違って、みんないい」的な相対主義的議論(セクショナリズム)を、何度、耳にしてきたことでしょうか。

 そこには、一つ、足りないものが、あるのです。

 それは「わたし」です。

 意図的かどうかはわかりませんけれど、その手の議論に不足しがちなのは、「自分の存在であり、振る舞いであり、まなざし」です。

「ほにゃらら学は・・・べきだ」は語られるけど、「自分は・・・したいのか?」は語られることは少ない。
「研究者は・・・あるべきだ」は語られることは多いけど、「研究者である自分は・・・したいのか?」は語られることが少ない。だからこそ、「いつか、どこかの善意にあふれた誰かが解決してくれるかのように問題設定を行い、理想論が語られ、現実が省みられなくなる」傾向があるように感じるのは、僕だけでしょうか。

 かくして、わたしたちは、「わたしたちが・・・をしたいのか?」という「主語」のあるトークをしたいと思います。言いよどむこともあるかもしれませんし、言葉に詰まることもあるかもしれません。たぶん、こんがらかって、ワヤになるかもしれません。

 というわけで、今回の番組のテーマは、

「研究 - 実践の関係2.0!?:僕ら(研究者)は、何を生み出したいか? 実務家の方々とどんな関係を築きたいのか?」

 にしました。

 番組内で取り上げられるキーワードは

 「研究知見、産出、実践、実務、実務家、普及理論、ディフュージョン、開発モデル、理論、メディア、解釈モデル、デザイン研究、介入研究」

 などになるでしょうか。

 相当ニッチな放送になると思いますし、話題は全く万人受けはしないと思います。でも、それでも、もしご興味があうようでしたら、ぜひおたのしみいただければ幸いです。

UST配信はこちらから!
http://www.ustream.tv/channel/nakaharalab

投稿者 jun : 2013年6月18日 18:14


自宅で子どもに「タブレット情報端末」を使わせない理由

「あら、中原さん、意外に保守的なのね」と思われるかもしれませんが、僕は、6歳になる息子TAKUZOには、「タブレット情報端末」は、日常的に自宅で、使わせていません。

「全くのゼロか?」というと、そこまで厳密でもないのですが、「限りなくゼロ」といってもいいでしょう。

 同じタブレットでも、「ベニヤ板」なら、欲しいだけ渡します(笑)。でも、僕は、現段階では、子どもに、いわゆる「タブレット型の情報端末」を渡しません。
 なぜなら、現在のわが家の、我が子の状況、6歳児のTAKUZOだと、タブレットを利用させると、「メリットよりも、デメリットの方が多い」と、いくつかの試行を通して、経験的、かつ、合理的に判断した結果です。

 最初に断っておきますが、今日の話は、あくまで、我が子、そして、我が家の状況で、「親としての僕」が、現段階において判断した結果の話です。それ以上でも以下でもありません。
 もちろんですが、このことを、他の方におすすめすることも、かつ、一般化をめざすこともしません。あくまで「親としての僕は、今の自分の子どもには、タブレットは使わせない」というだけです。
 そのことをご承知置きのうえ、もしご興味があれば、下記をお読み下さい。

 ▼

 具体的な理由は「明瞭」です。
 6歳という現段階の学齢で、タブレットを渡すと、「うちの子ども」の場合は、

「メディア利用の仕方が"創造"よりも"安易な消費"にながれる」

「メディアを利用したことによる生活時間の全体的変化がポジティブなものより、ネガティブな方向に変化する」

 可能性が高いからです。
 いろいろ実験した結果、そう判断しました。

 中には、下記のようなことをおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。
 タブレット情報端末に、「学習によいアプリ」「教育用アプリ」を入れておけばいいのではないか?、と。
 しかし、現段階の我が子では、たとえ、そういうものが利用できたとしても、デメリットが生まれる可能性の方が大きい、と様々な試行の結果断言します。

 なぜなら、メディア利用とは、容易に、「親の想定の範囲」を超え「習慣化」し、いったん「惰性」を獲得すると、その「補正」には時間がかかるからです。


 タブレットに学習アプリを入れてもいいですよ。
    でもね、本当に子どもが見たいものはそれではありません
    気がつけば、Youtubeで、マンガを
    みているでしょう
    その刺激的な映像は、リコメンデーションにより
    無限に続きます

 どんなにタブレットにクリエィティブなアプリが
    はいっていてもいいですよ。
    でもね、6歳児が使いたいのは、それじゃありません。
    必要なものは、ぐぐって
    ポチって入手します
    どんなものでも、ネットにはある
    そのことを、今の小学生は知っています    

 どんなにタブレットの利用を時間で限ってもいいですよ。
    でもね、子どもがタブレットに向かって「静かに」
    していると、親もホッとするのです。
    家庭での会話は減り、タブレットに向かう
    時間が増えます、、、次第にね。
    いったんその習慣がつきますと、それを
    変化させることは容易ではありません。

 上記の僕の懸念は「TAKUZOの、今の年齢の場合は・・・あてはまる」というだけです。そして、僕は、「それはしょーがないよな」とも思います。少なくとも、僕が6歳ならば同じことをするでしょう。

 もちろん、クリエイティブな利用の仕方をなさっている他の子どもがいらっしゃることは、容易に想像できますので、すべてにあてはまるわけではありません。くどいようですが、今日の話は、僕の「わたしの教育論」です。

 さらにつっこんで申し上げますと、
 僕が主張したいことは「明確」です。

 親としての僕が気になるのは、

 ・「単体の学習アプリ」の
      教育効果ではありません

 ・「単体のクリエィティブアプリ」
      の利用結果ではありません

 単体で、どんなに教育効果が高く、クリエィティブな利用をされるソフトウェアやアプリがあったとしても、親としての僕が気にかかるのは、「そのこと」ではありません。
 逆にいうならば、もしそうした評価が行われているのだとしたら、その観点が、少し僕の関心とはズレています。

 つまり「単体の学習アプリの評価」をいくら聞かされても、あまりピンとこないのです。僕が、本当に知りたいし、気にかけたいことは、

・タブレットというメディアを利用することで、子どもの生活時間が「消費よりも創造に向かう」かどうか

・メディアを利用したことによる生活時間の全体的変化がポジティブなものより、ネガティブなものにつながる

 かどうかです。

 断っておきますが、タブレットであろうと、なかろうと、ネガティブな側面がないメディアは存在しません。また、消費と創造という2つの観点でいけば、完全に創造のみに用いられるメディアも、完全に消費だけに用いられるメディアも存在しません。

 僕が大切にしたいことは、メディア利用の全体を通して、

「ポジティブなアウトカムが、ネガティブよりも多いこと」
「消費よりも創造の方が多いこと」

 です。
 タブレット全体のメディア利用を通して、そのことが知りたい、なと思います。

 というわけで、残念ながら、我が子TAKUZOは、「ベニヤ板」は使えますが、「情報端末」は使わせてもらえません。もちろん、未来永劫というわけではありません。
 メディアとの自省的、かつ、節度をもった、つきあい方ができる学齢になれば、「ベニヤ板」に加えて「情報端末」を渡すことになるのだと思います。そのときがくることを、願っています。

 「TAKUZO、世界で最も大切なもののひとつは、
  "自分の時間"だよ。自分の時間を、他人に使わ
  れないようにしなくちゃね。
  他人の時間を生きちゃだめなんだよ
  自分の時間を生きてね」

 「TAKUZO、世界で一番怖い泥棒さんは、時間泥棒さん
  だよ。それは知らないうちに、自分の大切な
  時間を奪っていくよ
  他人の時間を生きちゃだめなんだよ
  自分の時間を生きてね」

 それが、自分の力と意思で、できるまで、もう少し待とうね。

 以上、わたしの教育論でした。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年6月18日 06:43


はじめて見ること / 見ることを失うこと:「視覚」と「記号」に支配された日常

「盲人は、視覚を失う最後の瞬間、一体、どんな光景を見たのだろうか」
「生まれてはじめて、海を見たら、人はどんな表情をするだろうか?」

 ちょっと前のことになりますが、原美術館で開催されている展覧会「ソフィ カル―最後のとき/最初のとき」にいってきました。

hara_bijyutsukan.png

原美術館
http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html

 ソフィ・カルさんは、フランスの女性現代美術家で、知覚、認識、アイデンティティといった、一見、具象物とは遠いところにあるものをモティーフとして、主に、写真、映像、言葉といったメディアを駆使して、様々な物語性のある作品をつくりつづけていらっしゃる方です。

Shooting : Photo & Movie Navigation Magazine(ソフィ・カル展)
http://shooting-mag.jp/news/exhibition/00500.html

 ソフィ・カルさんの作品を見ていると、見ているわたしたち自身が、「今、自分が見ていること」とは「何なのか?」を考えさせられます。
 同時に、彼女の諸処の作品は、"わたしたちの社会が「視覚支配社会」であること"を、問いかけているようでもあります。

 見ることとは、何か?
 それを失うとは何か?
 
  ▼

 考えてみますと、僕自身の生活は、とにかく「視覚」に依存しています。文献を読むのも、分析をするのも、視覚、視覚、視覚。とりわけ、視覚の中でも、文字・数字といった「記号」といったものに、囲まれていることに気づかされます。

 視覚、視覚、視覚、記号、記号、記号。
 自分の人生を取り巻いているものが、そういうものであったことなど、これまで一度も考えたことはありませんでした。

 もし、自分に「最後のとき」が訪れたしたら、自分が「最後に見る光景」は何だろうか、と想像しながら、「見ること」について、深く考えた、静かな美術館での1時間でした。

  ▼

 展覧会自体は、それほど大きなものではありませんが、自らの感覚について考える、静かな時間を過ごされたい方には、おすすめです。

 テラスカフェに腰掛けていると
 隣の展示室から
 「海のさざ波の音」が聞こえてきます。

 そして人生は続く

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追伸.
 わりと自分で気に入っている「セルフワーク」があります。ふだん何気なく通っている通勤路を利用します。
「今日一日は、徹底的に耳を澄まして通ってみる」「今日一日は、徹底的に見ることに集中して通ってみる」というのをやってみてください。
 そうすると、「いつも気づいていない音 / モノ」に毎回出会えるから不思議です。わたしたちは、見ているようで、見ていない。聴いているようで、聴いていない。いつもの通勤路の、また違った側面を発見できるかもしれませんよ。

投稿者 jun : 2013年6月17日 07:29


「コージーコーナー話題のゼリースキル」と「おれは死んだふりコンピテンシー」

 人材の言説、人材育成の業界では、今日も、新しい「コンピテンシー」やら「(なんとか)力」が生み出されています。「ほれ・・・これからは、ほにゃらら力」だとか、「やれ、これからは・・・スキルが必要だ」とか「それ、日本の成人には・・・コンピテンシーが足りない」だとか。
 毎日、生み出されているように感じるのは、僕だけかもしれませんが、管見に関する限り、世の中には、そうしたものが溢れているように感じます。

 小生、スキル論にも、コンピテンシー論にも、全くの「ど素人」なので、その真価・真偽、そして歴史的経緯は知りません。

 ですので、根本的には、そうした議論は横目に見ながら、本当に必要があればキャッチアップしようくらいの態度で接しているのですが、時に、華々しく提唱される「これからの・・・スキル論」「これから・・・コンピテンシー論」をきいておりますと、小生などは、たまに「目眩」を感じ、クラクラしてしまうときがあることを正直に告白せざるをえません。

 なかなか遅々としてすすみませんが、自分がヒアリングを積み重ねている、非常に生々しい、ビジネスの現場の悩みや課題、そして、それに対する各種のマネジメントとの世界との「ギャップ」に、どうも頭の中で整理がつかなくなり、非常に困惑してしまうのです。僕が耳にしている世界の方々も、同様に「これから」を見ていらっしゃいる「これからの方」です。しかし、同じ「これから」を見ていても、そこには目眩を覚えるほどのギャップがあるように感じます。

 たとえば、様々な雇用形態の方々が働く、あるマネジャーは、こんなことをおっしゃいます。この方は、月に一度「節目」に、職場でスイーツを振る舞っているのですが、こんなひと言をヒアリングの最後でもらしておられました。


 今日は暑かったから、アイスかな、とか。でもね、これも、サプライズがいるんですよ。毎月毎月やってたら、(スイーツ)が出てくるのがあたりまえになってますから。毎回、コージーコーナーのシュークリームでは、では、いけないんです。ゼリーの新商品とか、その季節にあわしたものとか、(みんなが職場で)話題になるものを選ぶのです。

 多様性あふれる方々が働き、必ずしも昇進・インセンティブだけではモティベーションを保てない場合、職場メンバーのモティベーションやコミュニケーションをうながし、成果をだしていく。
 このマネジメントの営為を、「第三者」は、「コージーコーナー話題のゼリースキル」と名付けるのでしょうか?

 たとえば、あるマネジャーは、職場をひきいるために、会社(本社から)のメッセージは、敢えて「スルー」するときがあると答えます。

 みんな、しんどく、忙しく働いてね。ようやく年度末乗り切った、と。数字達成したぞ、と。そしたら、4月1日になったら、やれ来年の、目標だせだの、なんやらかんやら、本部は、舌も乾かんうちから、やれやれやれやれ、行ってくるんです。そら、現場は、やらされ感漂いますがな(中略)やれ、やれ、やれ、って、これまでも、やってるがな、まだやれっちゅうんか。何をどないせいっちゅうねん。  そういうときは、つかの間であってもね、現場を読んで、現場立てな、あかんのです。おれは黙ったるぞ、と。本部が何をいうても、現場には、何も、指示しません。

 要するに、つかの間のあいだかもしれませんけれど、「死んだふり」を決め込むということですね。マニュアルには書いていないけれど、しかし、職場を率いていくためには、マネジャーにとって必要かもしれない機微。こうしたものを「おれは死んだふりコンピテンシー」と名付けるのでしょうか。

 閑話休題。

 今日も、また要領を得ない話になりました(笑)。別に、だからどうしてくれ、とか、だから、こうするべき、とか、僕は思いません(というより興味がない)。ただ、こういう議論を聞いておりますと、僕個人が、時に「目眩」を感じるときがありますよ、というだけの話です。

 ただし、ひとつだけ「間違いのないこと」があります。
 それは「これから・・・なんとか力」「これからのコンピテンシー」を「獲得」した人々が出会う、将来の職場とは、こういうリアリティにあふれる場所である可能性が高い、ということです。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年6月14日 09:29


60年代の西海岸・アカデミックムーブメントを妄想しつつ、眠りに落ちる

 皆さんは、寝る前に、なんか本を読んで寝ますか?
 早寝早起きの小生は、最近は、もう10時になったら寝床に入ってしまいます。そして、読み始めることが多いのが、カルロス・カスタネダの一連の著作です。最近、新訳がだされて、これを夜な夜な読むのが日課になっております。

    

 この著作、かつて1960年代-70年代には、「一大ブーム」になった作品です。
 お話は、UCLAで文化人類学をおさめたカルロス・カスタネダが、ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファンのところに弟子入りするところからはじまります。カスタネダは、ドン・ファンから世界に関する哲学的見方を授けてもらったり、呪術を使った意識変容を経験します。その生き生きとしたルポルタージュの様子は、社会学者・見田宗介がコミューン論の立場から著した「気流の鳴る音」、ドゥルーズ・ガタリの『千のプラトー』​などにも引用されていますので、ご存知の方は多いでしょう。

 僕の場合、興味関心は、「呪術」にはありません。。。さすがに。
 というよりも、ドン・ファンが提示する「もうひとつの世界の見方」というものが - その妄想チックな壮大さが - ちょうど、寝床にはいって、ウトウトしかけた小生にとってはちょうどよいのです。

 知者とは、学ぶという辛苦に真に従ってきたもののことなのだ
 つまり、焦りもせず、ためらいもせず
 できるかぎり深く力と知の秘密を探るもののことなのさ
 
 あー、ドン・ファン。学ぶってのは、辛苦に従うことなのかい。そうね、そんな見方もあるのね、インディアン的にはそうなんだね、まー、いいや・・・むにゃむにゃ、はい、おやすみ。

 という感じで、おそらく数ページ読んでは「おやすみのびた君」を繰り返している毎日です。これを「読書」と呼ぶかどうかは知りません。

 ▼

 今日は、僕の寝る前の「読書?」のこと - 誰にとっても一銭の得にもならないこと - を書きましたが、しかし、最近、思っていることは、おそらく、この時代の思想的思潮を - 60年代の西海岸で生まれた思想 - 、僕は、どこかで、ひそかに影響を受けているのだろうな、ということです。それが何かはわからないですし、それを言い当てるだけの、わたしに哲学的素養もないのですが、最近、そんなことをよく思います。自分が生まれる前のことなので、想像でしかないのですが。

 考えてみれば、学部時代からもっともよく読んでいたのは、見田宗介先生の一連の著作でした。見田先生は、カスタネダの著作を下敷きに著した「気流の鳴る音」を、その後の仕事の「モティーフ」になさっていたことは、同書の後書きに書かれているとおりです。

 恥ずかしながら、最近知ったのですが、カルロス・カスタネダの指導教員の一人には、エスノメソドロジーのハロルド・ガーフィンケルがいるそうです。学部時代にお世話になった指導教員の先生は、一時期、このガーフィンケルの著作、それに影響を受けた認知研究の論文を、ゼミの購読文献になさっていました(せりか、から出ていたガーフィンケルの本、絶版になっていたんですね)。
 言うまでもなく、1980年代 - 1990年代の学習・認知研究をリードしていたのは、西海岸の一連の研究者の研究です。何かありそうです。

 また「ウェブ・ソーシャル・アメリカ」という、テクノロジーと思想との関連を追った、これまた非常に興味深い本がありますが、この時代のヒッピーカルチャーが、現代のインターネットテクノロジーに与えた影響は少なくないといいます。インターネットは、「ヒッピー」ならぬ「ヒッキー時代?(大学に入って、すべての目標を失い、シオシオのパーの前期2年間を過ごしてしまった・・・後悔しとります)」の大学生の小生が、もっともハマったものでした。

  


 ▼

 そんなことをボーっと考えながら、昨日も、眠りに落ちました。
 いささかも思考は前に進んでいる気はしませんが、60年代・70年代という時代、とくに、その時代の西海岸では、どんな思想がおこっていたのかを、一度時間があるときにでも、探究してみたいな、と感じています。そんな時がくるといいなぁ。。。むにゃむにゃ

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年6月13日 06:42


「落語家になる」とは「生き方」を選ぶこと!? : 師匠 - 弟子の深すぎる関係

 先日、人事専門誌「人材教育」の小生の連載「学びは現場にあり!」で、落語家の柳家花緑(やなぎや・かろく)さんにインタビューさせて頂く機会を得ました。いつものことながら、この連載のインタビューは、同誌編集部の吉峰女史と、ライターの井上さん、そして小生の「珍道中!?」で、お贈りしています。

 今回は、お相手も、噺のプロフェッショナルの方ということで、少し緊張しておりましたが、そんな緊張は取り越し苦労。さすが相手はプロフェッショナルの方ですね。いつもと同じ時間で、おそらくいつもの3倍以上のお話をいただくことができました。「まるで、落語を聞いているか」のようなインタビューでした。この場を借りて花緑さんには御礼申し上げます。ありがとうございました。

  ▼

 花緑さんのお話は、どれも、非常に興味深いものでしたが、個人的に興味をもったことのひとつは、落語の伝承は「口伝」だというお話です。
 花緑さんによりますと、落語を憶えたての頃は、「師匠の落語」を完全にコピーすることから、落語が伝承される、ということでした。
 実際、10代の頃の若い頃の花緑さんは、小さん師匠の話し方を完全にコピーしており、しゃべり方も全く同じだったそうです。当時のインタビュービデオをご覧になると、ご自身が、師匠そのもののしゃべり方でインタビューに答えている様子が見られるそうです。

「これからーですねー
  わたくしもー祖父のようなー
   立派なー落語家にーなりたいと
         ー思っておりますー」

 10代なのに、年齢差が相当ある「師匠のしゃべり方」が、完全に「のりうつっている」というのが興味深いですね。

 もうひとつ興味深かったのは、師匠と弟子との関係は「先生と生徒」ではない、というお話しでした。
 それは、むしろ「親子・家族に近い関係である」と花緑さんはおっしゃっていました。
 そして「落語家になる」というのは、「落語という仕事をすること」ではなく、「落語家という生き方を選ぶ」とおっしゃっていたことが印象的でした。

 これら2点は、異なっていることを行っているようで、同じことを述べているような気がします。
 弟子による師匠からの学びとは「のりうつること」からはじまるということ。そして、それは「家族的な関係」、すなわち「長期にわたる生活」を通して実現されるものであること。そして、師匠と弟子の間でやりとりされているのは、「仕事」ではなく「生き方」であるという点です。

 ▼

 よく「人材育成の言説空間」では、ビジネスパーソンの熟達を表現する言葉として「守破離」などという言葉が語られます。しかし、このメタファを耳にするたびに、僕は、どうも違和感を感じてます。伝統芸能における「守破離」とは、いったい何か。それを一般のビジネスにメタファとして応用することは可能なのか。もう一度、捉え直してみるのもよいかもしれません。

 インタビューでは、このような「重厚な社会的関係」の中から様々なものを、模倣・内化し、熟達しはじめた花緑さんが、やがて青年期を迎え自己に目覚め、様々な心理的葛藤を経験していくプロセスが語られています。「のりうつる」までに同化したものと、自己の確立。そこでは、どのような葛藤が生まれるのでしょうか。

 続きはどうぞおたのしみに!
 最後に繰り返しになりますが、お忙しいところインタビューにお応え頂いた、柳屋花緑さんには、この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
 そして人生は続く!

投稿者 jun : 2013年6月12日 08:16


「ほぼ日:はたらきたい展」に行ってきた!:オレの船は、これから、どんどん小さくなっていく!

 渋谷・パルコ1 3Fで開催されている「ほぼ日がはたらくことを考える はたらきたい展」を見てきました。

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はたらきたい展
http://www.1101.com/parco2013/

 この展覧会は、糸井重里さん、ほぼ日の皆さんの仕事の「これまで」や、様々な企画を振り返りつつ、「楽しさと仕事」の関係をさぐります。
 この展示を見ていると、数年前、東京糸井重里事務所にインタビューでお邪魔したときのことを思い出しました。そのときに見た「おいしい生活」にも、また逢うことができました。おひさ。

 展示の最後の方では「ほぼ日」上にアーカイブされた「はたらく人達」の珠玉の言葉が99のカードになっています。これらの中で気に入ったものを集め、リングにいれて、自由に持って帰ることができるというものになっています。

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 出かけた日は、若い人を中心にとてもお客さんが多かったですが、とても愉しむことができました。小生、見かけはオッサンですが、マインドは10代ですので(痛い)、何とか、溶け込んでいた、と思います(泣)。

 ちなみに、僕がぐっときた言葉は、熊谷善之さん(漁師さん)の言葉です。震災から2年たち、ようやく完成した自分の船「第十七天王丸」を目の前に、熊谷さんはいいます。

「この船は、これから、どんどん小さくなっていく。自分の手足みたいに操れるようになったら、船は小さく感じるもんだ」

 しびれるね、かっこええ。
 熟達とそれにともなう感覚が感じ取れますね。

 おすすめの展覧会です。
 そして人生は続く。
 
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追伸.
 どうせ渋谷にまで脚をのばすのであれば、小生のような「多動系オッサン」としては、ワタリウムで開催されている「JR展」にも、ついつい、出かけたくなります。おらおらおら。
 そういえば、太古の昔、付き合っていた彼女に、「あなたと一緒にいると、まったく落ち着かない」といわれたことがありました。「落ち着くとは何かね? 不安定こそが安定。安定こそが不安定」と答えると、二人のあいだに言葉はなくなりました(泣)。市中引き回してごめん。

 閑話休題。こちらは、写真を用いたストリートアートプロジェクトを展開しているJRの個展。展覧会に参加すると、JRのインサイドアウトプロジェクトにも参加できます。自分の顔が、大きなポスターになるのは、圧巻。

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JR展 ワタリウム美術館
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html

投稿者 jun : 2013年6月11日 07:22


「ミーティングの前には、コーヒーを飲んで、語り合う」:スターバックスコーヒージャパンさんの組織文化、ミッションマネジメント

 先日、授業で受講生の皆さんと、目黒にあるスターバックスコーヒージャパンさんの本社を訪問させていただきました。
 いわゆるひとつの「ラーニングピクニック(Learning picnic)」ということで、人材開発を特に力をいれていらっしゃる企業をご訪問させていただき、皆でディスカッションをするという内容です。ピクニックとは言っていますが、内容はガチです。

 今回のピクニック!?は、スターバックスコーヒージャパンさんの人事本部のみなさま、都内3店舗の店長の皆様のご協力・ご厚意で実現しました。
 この場を借りて感謝いたしますとともに、心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。

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 今回のラーニングピクニックの内容は「理念経営とモティベーション」。講義では、スターバックスコーヒージャパンさんが行っているミッションマネジメントの現状と、人材育成、特にモティベーション(エンゲージメント)の関係をみなでディスカッションしました。
 当日は、都内3店舗で行われている、素晴らしい力量をお持ちの店長さんたちにもご登壇いただき、店舗で行われている人材教育の一部を受講生全員で体験させていただきました。非常に面白い時間でした。

 スターバックスさんから伺った話は、どれも非常に印象的なものでしたが(ここで書ける話も、書けない話も含めて)、個人的に興味深いな、と思ったのは、スターバックスさんでは、ミーティングの前には、必ずコーヒーを飲んで、それついて語り合う「Coffee tasting」をするという習慣でした。

starbacks_cofee.jpg

 このコーヒーの香りはなんだろう?
 このコーヒーにあうfood paringとは何だろう?

 というかたちで、ミーティングの前には、従業員の方々同士が、コーヒーについて語る時間をもつそうです。

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「コーヒーについて語ること」とは何か?

 誰もがすぐに想起するのは、そうした活動が、「コーヒーに関する専門知識」、ないしは、「商品に関する知識」を深めることに寄与するという仮説です。
 コーヒーについて従業員同士が語っていれば、コーヒーに関する知識の流通や獲得が、そのプロセスで起こっていても、何ら不思議はありません。
 また、常にコーヒーについて語ることがよしとされるのであれば、個々人がコーヒーに関する専門知識を常にブラッシュアップしようという動機もわくのかもしれません。

 しかし、別の角度からみて、一寸興味深いと感じるのは、おそらく、「ミーティング時に、コーヒーについて語ること」自体が、いわゆる「組織文化を強化すること」につながっているし、スターバックスコーヒージャパンさんが行っている、ミッションマネジメントの一貫としても解釈できそうなことです。あくまで仮説ですが、僕は、そんなことを考えていました。

 なぜなら、世界には、広く見渡しても、「ミーティングの前に、コーヒーのことについて従業員同士が語る組織」は、そう多いわけではありません。
 ということは、「コーヒーについて語る」という「特異性のある日常的実践」が、すなわち、「それを行う我が組織(ウチ)」と「それを行わない外部(ソト)」の「境界」を常に構築しつづけているとも解釈できます。

「組織の境界」、すなわち「ウチ」と「ソト」の「界面」を強化することは「ウチに作動する意味空間」を外部から峻別することにつながるでしょう。もし仮に「組織文化」を、「組織や従業員内部に存在する意味・言説空間」と考えるのであるならば、そういう地道な日常的実践の蓄積こそが、組織文化の形成に役立っているのだろうな、と感じていました。
 また、常に原点に立ち戻る、という意味もあるのかもしれませんね。自分たちの強みは、「この一杯のコーヒーなのだ」と。ミッションマネジメントにとって大切なことは、モティベーションや一体感の醸成という機能もそうなのですが、日々変化していく社会・競争環境の中で、拠り所にするものを決める、ということのようにも思います。ミーティングの前の一杯のコーヒーは、それを可能にしてくれるのかもしれません。

 もちろん、これは僕の想像の域を超えない、いわば「妄想」です。「コーヒーについて語ること」に関して、上記のような解釈は不適当かもしれませんし、もしかすると、まったくの「的外れ」かもしれません。
 しかし、「誰もがやろうとしないが、自分たちだけはやっている実践」を、「日常的」に繰り返していくことの果てには、「自分たちとは何か?」「ひいては、自分たちが所属している組織とは何か?」ということに関する問いがあぶり出されるような気がしていました。まことに興味深いことです。

 最後に繰り返しになりますが、人事本部 人材開発部の皆様、都内3店舗の店長の皆様、久保田美紀さん、吉田卓也さん、小林あゆ美さん、植木一朗さん、黒木雅奈さん、向後亜紀さん、木山康司さんには、心より感謝をいたします。本当にありがとうございました。受講生の皆様も、お疲れさまでした。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年6月10日 09:45


「惨いグループワーク」から学習されてしまうもの

「僕、グループワークが嫌いなんですよ。人と話をするのは嫌いじゃないです。でも、今まで、グループワークで面白いと思ったことがない。出しゃばる人はでてくるし、かみ合わないし、そのくせ、アウトプットになると、みんな腰引ける」

 先日、ある学生さんから、こんなお話を聞きました。ICレコーダをもっていたわけではないので、一字一句同じではありません。
 なるほど、これまで何度も「惨いグループワーク」を経験しつづけてきたせいで、「グループワーク」そのものの価値をネガティブに感じるようになったのですね。

 「人と人とがインタラクション(相互作用)をしながら学ぶということ」には必然的に「プロセスコンフリクト」が含まれます。いつもいつも「仲良しグループ・和気あいあい」というわけにはいかない。別の言い方をすれば、グループワークとは、時に「ぶつかりながら、何かを生み出す経験」でもあるのです。

 しかし、「度をこしたコンフリクト」、「過剰なぶつかりあい」は、あまりポジティブな結果をうみません。ぶつかりあいや、コンフリクトを、ポジティブかつ建設的なアウトプットに近づけるファシリテーションや介入が必要になります。

 もっとも避けたい事態は、「惨いグループワーク」における経験が繰り返された場合、「グループワークそのものの価値」をネガティブに学習してしまうことです。

 このことに関連して、大村はまさんは、こんな言葉を残していらっしゃいます。

話し合いは「悪い癖」がついてしまいますと、まず直すことは不可能です。話し合いに対する興味を失い、その重要性を軽蔑するようになってしまいます。話し合いなんて時間つぶしでつまらない。みんな聞いてもきいても黙っていて、何も言わない人がいるとか、愉しく話せないとか、話し合っても、結局は、自分で考えたのと同じだ。話し合いがなくても、結局自分自分でやればいいんだ、とそういうふうになってしまいます。 (大村はま)

「惨いグループワーク」によって、「グループワークの価値」をネガティブに学習してしまう事態だけは避けたいものです。逆に言うと、「グループワーク」をするということは、それなりの「腹をくくって」、やる必要があるということでしょうか。

 そして人生は続く

 

投稿者 jun : 2013年6月 7日 11:39


断片化・モザイク化するミドルの時間

 きっと今が夏学期の「ハイピーク」なのかもしれません。大学教員のみなさま、いかがでしょうか。僕は、何とかサバイブしています。はひー。

 かつて、ミンツバーグは、マネジャーに関する参与観察研究で、マネジャーの仕事時間が「断片化(Fragment)」していることを明らかにしましたが、今のわたしの時間は「ガラスの花瓶を36階のビルから落とした?」かのような、「コッパミジンコ」です。
 もっともっと忙しいビジネスパーソンの方々も多々いらっしゃるでしょうから、「コッパミジンコ」くらいで済んでいるのは、「ありがたき幸せ」なのかもしれません。「おれの時間は、ナノレベルにはじけてるぜ!」とおっしゃるミドルのみなさま、お疲れさまです。

 また、かつてマネジャー研究では「断片化した時間」には、全くレベルの異なる雑事が押し寄せることも明らかにしています。たとえば、前の10分では、5カ年のビジョンについて考えていたのに、次の10分では、部下の遅刻の謝罪を受けている、といった具合に。
 今の僕の時間も、「様々な異なるレベルの問い」がほぼ数分ごとに押し寄せます。その様相は、まさに「モザイク」「カオス」「ドロドロ血」?です。
 しかし、もっともっと、強烈な時間を過ごしていらっしゃるミドルの方々も多々いらっしゃるでしょうね。本当にお疲れさまです。

 しかしながら、こうした自分の時間の「断片化」っぷり、「モザイク」っぷりを、ある意味で、客観的に眺められるというのは、まだまだ大丈夫なのかもしれませんね。ま、こんなブログを書き続けているのは、暇人という烙印を押されても、仕方がないのかもしれません。

 それにしても、現在の大学教員の時間が、どのようになっているかは、また新たな研究領域として面白いようにも感じます。たぶん、人、世代、領域ごとによって全く異なるのでしょうけれども。おそらく、世代間のギャップ、大学間のギャップが相当あるような気がします。

 ま、ひとつずつ、ひとつずつね。
 そして人生は続く。
 
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 7月6日(土)開催予定のイベント

「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」 : 子どもの対話 vs 大人の対話  小学校教諭・菊池省三先生  プロファシリテータ・加藤雅則さん をお招きして
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/_vs.html

 ですが、本日、参加許諾メールをお送りさせて頂きました。申し込まれた方で、まだ通知を受け取っていないという方がいらっしゃいましたら、恐れ入りますが、下記のフォームから「お問い合わせ」をいただければと思います。

お問い合わせフォーム
http://ow.ly/lKIPc

 ご参加頂いた皆様に、愉しんで頂けるよう、舘野さんをはじめとして、関係者一同、さらに企画を練っていきたいと思っています。
 
 どうぞおたのしみに!

投稿者 jun : 2013年6月 6日 08:20


「変革」のポリティカルな利用:「つっこみどころ満載」風「言ったもん勝ち」的世界に忍びよる「改革者」

「カリキュラム」や「教育体系」というものは、括弧付きの「改革者」(つまりは、何かを変えたこと、それ自体をポリティカルにアピールしたい、改革者)にとって、非常に「都合がよい」ものです。
 つまり「今までやってきたこと」を「ちゃぶ台がえし」しやすく、かつ「何かを変えたこと」自体が、自身の手柄とされやすく、ポリティカルに利用しやすい性質をもっています。

 これにはいくつか理由がありますが、最大の理由は「評価の難しさ」と「効果の遅効性」にあります。つまり、「研修」や「教育」というものは、そもそも評価が難しくうえに、その効果を測定することは、そもそも難しい。またもし万が一効果があったとしても、それが表面に出てくるまでには、時間がかかる性質をもっています(遅効性)。

 この2つの要因が、重なるとどうなるか。
 第一の要因「効果測定が難しさ」は、別の言葉でいえば「つっこみどころ満載」ということです。一般に企業・組織で行う研修には、統制群を置くなどの実験計画を組むことはできません。このような条件下では、どんなにデータ採集を頑張ろうとも、きっちりした効果を明示的に示すことはできません。要するに、どんなに頑張ろうとも、そこで得られるロジックは「つっこみどころ満載」なのです。このことが、「既存のカリキュラムのあり方」に対する「有利な攻撃材料」を「改革者」に与えてしまう。つまり、これまでのすべてを容易に「ちゃぶ台」しやすい性質をもつ。

 しかも、都合がよいことに、「変えたこと」による悪影響がでるまで、時間がかかるので(遅効性)、もし「変えたこと」が「改悪」であったとしても、責任をとらなくてすむ。つまり、「変えたこと」それ自体が、「評価」されることになりやすい。

 要するに「言ったもん勝ち」なのです。
 文句を言えば、通りやすい。
 変えれば、手柄になりやすい。

 問題は、そのあと中長期に、どのような変化が、組織や現場に生まれてくるかです。しかし、いつだって、その時分には、「改革者」は、悠々自適に「退出」しているものです。

「カリキュラム」や「教育体系」を改革するときには、それなりの覚悟を決めなくてはならないのだ、と思います。もちろん、世の中に、本当に「変化させなければならないもの」はたくさんある。古い因習に囚われているもの、現場の足かせになっているものは、多々あるので、非常に判断は難しい。

 しかし、本来、中長期にわたって、本来、戦略的に考えなければならないものが、責任者の交代とともに、右や左から、左から右に、グラグラに揺らぎ、「ちゃぶ台返し」が繰り返されているという事態がもしあるのだとしたら、「変えたこと」がポリティカルに利用されている、という「証左」だと僕は思います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年6月 5日 06:34


大学のゼミの密かな愉しみ方「アカデミックイタコゲーム」 : 先生にのりうつって、コメントを予想する

 研究会やゼミにおけるアカデミックな研究報告や議論には、議論内容以外に、密かな愉しみ方があるように感じます。

 「てめー、議論に集中しろよ!」

 とおっしゃる御仁もいらっしゃるかもしれませんが、集中してんのよ、集中はしてんの。でも、それ以外の「プチ工夫」もあるよ、と言いたいわけです。
 この方法、何ら「一般的な愉しみ方」ではないし、万人受けしないやり方なので、「よい子はマネしない方がよい」とは思います。
 ただ、敢えて、知りたいという方のために、ここでお話しますと、なんと、簡単。

 ある研究発表に対して、先生や他の研究者が、どんなコメントをするのかを、ひとりで予想する

 という「一人あてっこゲーム」を愉しむというものです。ま、いうたら、アカデミックイタコを愉しむということです(笑)。アカデミックイタコゲーム?

  ▼

「けっ、そんなことかよ」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、「アカデミックイタコゲーム」は、これでも、なかなか奥が深く、面白いものです。
 僕は、大学院時代、研究会やゼミなどで、このゲームをひとり愉しんでいました。今でも、学生の発表を、複数の研究者と伺うときには、たまーに、このゲームをしているときもあります。

 で、あたったときには、

「あの研究者は、きっと、そういうと思ったよ。いやー予想通り、10ポイントゲット!」
「絶対にこう言うぞ、言うぞ、あっ、やっぱり言った、オレすげー。今までの得点が、さらに倍!」

 なんて、脳裏でつぶやいています(暗い?)。

 でも、このやり方は、自分でいうのも何ですが、あながち無意味なものとも思えません。

「先生や他の研究者のコメントを予想する」ためには、まず、研究報告の趣旨や構造を、確実に、読み解かなくてはなりません。つまり、じっくり聞かなければならない。
 その上で、その研究者が、どんな主張や思想的背景をもっているかを考え、どのような思考回路で、この話を聴き、何を弱み・強みと認識するかを考えなくてはなりません。
 そして、こういうことをしていると、次第に、その学問分野や研究方法論に独自の思考法を身につけていくことができるようにも感じます。もちろん、学問分野によるので、この方法が、どれだけ異なる分野に奏功するかはわかりません。
 しかし、一時的であっても、先生に「憑依(ひょうい):のりうつり」し、その思考回路をトレースするわけですから、そういうものがいずれ内化する可能性は、ゼロではないでしょう。アカデミックイタコ、こう聞くと、無意味じゃなく思えてきませんか?(真に受けないでね)

  ▼

 数年前でしたか、僕の指導学生の(OBですね、もう)舘野さんも、この方法をゼミ中にやっているそうで、

「僕は、ゼミで先生のコメントを予想しています」

 とおっしゃっていたのを聞いたときは、ひそかに、衝撃的でした。まことに血?じゃないけど、それらしきもの?は、争えないですね。
 それにしても、いつのまにか「憑依していた」はずなのに、「憑依される方」になってしまったとは! 

 まぁ、「憑依される方」としては、「ちみが、そう予想するなら、おれはこういうけどね、フフフ」と、予想をくつがえしたくなるところもありますね。でも、たぶん、いつもあてられてるんだろうな。といいますのは、舘野さんのコメントを聞いていると、僕の思考に、かなりそっくりなので。

 ともかく!
 ゼミや研究会を漫然と聞いていても、あまりよろしくないですね。もし、少しプチ・スリリングさを味わいたくなったら、ぜひ、あなたも、アカデミックイタコになって、先生に「のりうつって」みてください。

 そして人生は続く

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追伸.
ちなみに僕が学生時代(修業時代?)やっていたことのひとつに、「先生の文体を真似するゲーム」というのがあります。レポートをださなきゃならないとき、先生だったら、こんな文体で書くだろうな、ということで、先生にのりうつって、レポートなどを書いてみる(もちろんマネするのは文体ですよ)。そんなゲームをひとりで遊んでいました(クラい?)。(規範崩壊している、今となっては、あまり言われませんけれど、昔はよく、中原さんの文章は、ちょめちょめ先生にそっくりですね、と言われたことがあります。のりうつられた方の先生としては、不名誉ですね、すみません。)

ひたすら、最初は「ただ、やみくもに、のりうつる」。今、気づいたことですが(!)、僕は、そういうことを、かなり意識的にやる傾向があるようです。

実は、自分は、文章が本当に苦手で、本当に書けなかったのですが、大学に入った頃に、ひそかに下宿でヒッキーになりつつ遊んでいたのは「作家のりうつりゲーム」でした。

たとえば、中島敦さんとか、森鴎外さんとか、村上春樹さんとか、自分の好きな作家がもし短文を書いたとしたら、どんな風に書くかを予想して、短い文章を書いてみる、みたいな遊びを、当時、買ってもらったばかりのコンピュータでやっていたことを思い出しました。もちろん書いたものは、とても人に見せられるものではありませんけれど。

 意外に「憑依」「のりうつり」「アカデミックイタコ」というのは、イケる?
 ま、真に受けないで下さいね。

投稿者 jun : 2013年6月 4日 08:57


「大学生研究フォーラム2013」(8/17 @東大)の参加申し込みがはじまりました!:学生のうちに経験させたいこと―大学生の今、変わる企業

 毎年恒例の「大学生研究フォーラム2013」(8/17日 東大にて開催)の募集が開始されました。

img2013.jpg

 今年のテーマは「学生のうちに経験させたいこと―大学生の今、変わる企業」です。

 フォーラムは、まず、大学と企業の「今」を探ります。
 知っているようで、混沌としている「大学の今」としては

「大学生の学び、キャリア」(溝上慎一氏:京都大学)
「大学生のインターンシップ」佐藤博樹氏:東京大学)
「大学生の留学」(松尾泰樹氏:文部科学省)

 にお話をいただきます。
 一方「企業の今」としては、

「変わる採用」(田中潤氏:株式会社ぐるなび)
「変わる働き方・人材活用」(奈良崎修二氏:日産自動車株式会社)

 のお二人からお話をいただきます。
 その上で、大会テーマである「学生のうちに経験させたいこととは何か?」を参加者のみなさま、全員で考える機会を持ちたいと考えております。

 基調講演には「教育が日本をひらくグローバル世紀への提言」ということで、安西祐一郎氏(日本学術振興会 理事長)にご講演をたまわります。総括パネルディスカッションには、吉見俊哉氏(東京大学)、平田純一氏(立命館アジア太平洋大学)、笹倉和幸氏(早稲田大学大学院)のディスカッションも予定されています。

 ぜひおたのしみに!

 申し込みは、すでにはじまっています。無料です。先着順となりますので、どうかお早めに!
 翌日(18日)には高校の先生方を対象にした「高校教諭のためのシンポジウム 高校生のうちに身につけさせたいこと」も開催されます。こちらもどうぞご参加下さい。

■企画詳細・申し込みはこちらです!
http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/2013.html
 

投稿者 jun : 2013年6月 3日 08:00


日常に埋め込まれた「人をまとめ、人を動かすテクノロジー」!?:「日本型ちょめちょめ」を探して

 リーダーシップ(Leadership)
 チームビルディング(Team building)
 組織開発(Organizational Development)

 これらは誤解をおそれず、ディテールを無視して、ひと言ザクっとまとめれば、「人々をまとめ、動かすためのテクノロジー(言説)」です。
 組織論の教科書を見るまでもなく、これらのテクノロジーは、米国が中心になって発展してきました。その背景には、米国という国家が抱える社会的背景があるように感じます

「人々をまとめ、動かすテクノロジー」が発達するのは、逆説的にいえば、「ほおっておいても、人々がまとまり、動くことを期待できない社会的状況」が存在するからです。
 国家の成り立ち、そして、国家を構成する人々の考えが、多種多様で、モザイクのようで、テンデバラバラであればあるほど、その「あふれんばかりの多様性」をコントロールすることの社会的ニーズが高まります。

 かくして、「人を集めても、なかなか"組織"としてまとまらず、パフォーマンスをだすことができない社会状況」では、「組織をまとめるテクノロジー・アイデア」が、あえて言挙げされ、発達します。
 組織によっては、マネジャーになる前の、割合早い時期から、マネジメントの要諦として、これらのテクノロジーを、しっかり教えます。「人を動かすこと」「人をまとめること」を、きちんと教えるのです。それは、そうせざるをえない背景があることを見逃すわけにはいきません。

  ▼

 これに対して、日本ではどうか?

 細かいことをいうと、日本人とて非常に「多種多様」なのですが、ブログでは、その話はしません。一般的には、少なくとも米国ほどに、これまで日本の職場では、「人を集めても、なかなかまとまらない」ということが言説として流布することは、少なかったように思います。

 リーダーシップ、チームビルディング、ODといった諸機能が、日本の組織に存在しなかったか、というと、そうではないように思います。
 いいえ、むしろ、リーダーシップ、チームビルディング、ODといった、「バタ臭い概念」を使わずとも、それに類する機能は、組織・職場の日々の業務 / 組織・職場のコミュニケーションの中に、暗黙のうちに埋め込まれおり、それが敢えて顕在化することはなかったのです。

 敢えてノスタルジックに印象論でザックリ語りますが、日本の組織には、我が国に希有なものが、いろいろなかたちで発達しているのです。社内運動会があり、社内旅行があった。始業時は、朝礼があり、社是を唱和し、ラジオ体操からはじまる。社内ローンがあり、独身寮がある。
 新橋の赤提灯では、ビジネスパーソンが、会社を離れても、なぜか会社の話をしていた。そこには「会社は、いったい、何をしたいんですか?」という問いかけがあった。「みんなで頑張ったから、ここまでこれたよな、あともう少し頑張ろう」という会話があった。

 組織のどこに、どういう機能が何が埋め込まれているかは、その組織毎にさまざまなので、一概にはいえません。しかし、ここで、要するに言いたいことは、「組織・職場の日常」の中に、「リーダーシップ、チームビルディング、組織開発というテクノロジーでフィージブルになる効果」といったものが、埋め込まれていたのではないか、ということです。
 また、そうした諸機能が、日常の中に埋め込まれるものであったからこそ、日本では、マネジメントの要諦として、マネジャーにこれらのテクノロジーを、敢えて言挙げして、教えることは少なかったように思うのです。

  ▼

 しかし、時代は変わりつつあります。

 職場のダイバーシティが増し、様々な雇用形態、年齢、様々な国籍の方が働きはじめるようになる「現在の職場」では、これらのテクノロジーや考え方が必要になってくる局面は、おそらく増してくるのだと思います。しかし、問題は、それをどのように実現していくのか、ということです。

 先にノスタルジックに語った地平、その時分に、私たちは、もう後戻りすることはできません。
 とはいえ、一方で、わたしたちは「人を集めても、全くうまくまとまらないほど、多様である」わけでもありません。

 わたしたちには、わたしたちの「身の丈」、社会・文化的背景にあった「日本型りーだーしっぷ」「日本型ちーむびるでぃんぐ」「日本型おーでぃ」があるのだろうな、と思います。

 むしろ、ちょっと「なまって」、

 「りーだーすっぷ」
 「ちーむびるでんぐ」
 「おーでー」

 くらいがちょうどいいのかもしれません(笑)。
 なぜなまる必要があるか?
 うーん、明確な必要性か・・・むしろ、ないね(笑)。敢えていうなら、吉幾三的なニュアンスをだしたかっただけ。意味不明なので、真に受けないで下さい。

 迫り来るグローバル化の勢いの中でも、他国の概念をそのまま輸入することではなく、焦らず「日本型ちょめちょめ」ないしは「自社型ちょめちょめ」を模索することから逃げないことが、おそらく大切なのではないか、と思うのです。

  ▼

 昨日は、授業「ラーニングイノベーション論」に一橋大学の守島基博先生にご出講いただき、上記のような内容を含む、「日本型の人材マネジメント」についてご講義・議論させていただく機会を得ました。
 「日本型戦略人材マネジメント」についての先生の講義は、いつもながら、洞察と問いに富んでおられました守島先生にはお忙しいところご登壇いただき、心より感謝いたします。ありがとうございました。。僕個人は、昨日のご講義で、特に組織開発の項に興味をもち、上記のような感想を持ちました。

 そして人生は続く  

投稿者 jun : 2013年6月 1日 09:11