「育てること」とは「待つこと」:誰かを待つか、誰かに待たれているか!?

 究極的にシンプルに述べるならば「育てること」とは「待つこと」です。

「できるかもしれないし、できないかもしれない、危なっかしい人」を対象にして、「少し高めの課題」を設定し、彼 / 彼女が試行錯誤しているプロセスを「待つこと」。

 待って、待って、待ちこがれて。
 まだか、まだか、と催促したくなることを押さえて、待つこと。
 こうすればいいじゃないか、と直接手をくだすことを待つこと。
 自分だったら、君の3分の1の時間でできる、と小言のひとつも言いたくなることを待つこと。
 待って、待って、待ちこがれて。
 それでも、まだ来ぬ反応に、待ちくたびれて。

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 もちろん、育てることは「待つ」だけでは可能になりません。育てるためには、フィードバックも必要だし、助言も重要。しかし、それ以前に、大切なことは「待つこと」であったりします。「待つこと」がなければ、適切なタイミングでフィードバックや助言をすることは難しいから。

 しかし、自戒をこめていいますが、私たちは、いざ「待つ立場」にたった場合、なかなか「待てない」。

 あなたが、もし、マネジャーならば、「今度だけは手や口を出さないようにしよう」と思う。しかし、待って、待って、待ちこがれて。業をにやして、ついつい、待てずに、口をだす。ついつい、チェック魔になってしまったり、先回りして解決してしまう。

 あなたが、もし教員ならば、「今日こそは、学生たちに自分の頭で考えさせよう」と思い、授業で「問いかけてみる」。しかし、問いを投げかけた、そのあとの数十秒の沈黙が、なかなか待てない。ついつい、ヒントを出してみたり、自分で答えを言ってしまったり。
 昨日も、これから教員をめざす学生に僕は言いました。「問いをなげかけたなら、待つ勇気を持とう」。しかし、自戒を込めて言いますが、待つことは難しい。

 あなたが、もし親の立場にいるならば、「今日こそは、子どもをが自分の力で問題をとくようにしよう」と思い立つ。しかし、待てどくらせど、答えはなかなかでてこない。あっちにふらふら、こっちにふらふら。待って、待って、待ちくたびれて。ついに、手をだし、声をだす。
 昨日も、僕は息子に言ってしまいました。「TAKUZO、早く、しなさい。こうやればできるでしょ」。頭ではわかっているけれど、なかなかできない。僕は弱い人間です。

 自戒を込めていいますが、「待つこと」、いいえ、「待たされること」には、わたしたちは、慣れていない。そして、待つことは、本当に難しい。

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 しかし、一寸、考えてみると、誰もが昔はノービス(初心者)であった。
 今は「誰かを待つことができない、わたしたち」も、昔は「誰かに待たれる存在」であった。わたしたちの一挙一動を、「待って、待って、待ちこがれて」いた人がいた。そういえば、少し前までは、今は「誰かを待っている」あなたも、「誰かに待たれる存在」であった。

 さらにもう一歩先を急ぐなら、人は「待っているか」「待たれているか」、そのどちらしかないことにも気づかされる。
「待たれること」の果てには「待つこと」があり、やがて老いれば、また人は「待たれる存在」になる。今は「待っている」あなたも、老いれば、やがては「待たれる存在」になる。

「今、なかなか待つことが、なかなか難しいわたしたちも、「待つこと - 待たれること」の連鎖の中にある」。そう、思ったら、ほんの少しだけ、ふっと気が楽になりませんか?

 それは、誰もがとおる道。
 やむをえぬこと、仕方がないこと。
 そう、歴史は繰り返すことなのだよ、と。
 僕は、そう自分に言い聞かせることにいたします。

 まぁ、それで割り切れるほど、待つことは簡単なことじゃないのだけれども(笑)。

 そして人生は続く。