博士論文とは「構造を書くこと」である!?

 中原研究室も開設5年。ようやく、研究室所属の大学院生も業績がそろい、ここ1年以内に博士論文を執筆できそうな人が、ボチボチ、でてくるようになりました。
 そうなれば、誠にめでたいことであり、指導教員として、気が引き締まることであります。

 博士論文というのは、指導学生と教員がタッグを組みながら、各種の段階の審査を通過していく「通過儀礼」のようなものです。「これから1年間は、忙しくなるべな」と思いながら、パンツのゴムをきつくしめなおしております。鬱血しない程度にさ。

  ▼

(下記は、あくまで中原の専門分野、状況による記述とお考え下さい。博士論文のあり方は学問分野によってもことなりますし、その作法は千差万別でしょう。下記は、あくまで、中原の指導方針であるとお考え下さい)

 ところで、博士論文を書いたことのある人ならおわかりだと思いますが、博士論文でもっとも難しいのは、「文章を書くこと」ではありません、、、たぶん。いや、それも難しいのよ。自分も、その執筆プロセスでは、何度か「悶絶憤死」しかけました。でもね、経験上、それ以上に難しいことがあります。

 博士論文でもっとも難しいのは「構造を書くこと」なのです。

 つまり、自分がこれまで行ってきた複数の研究を総括し、「ひとつの論文」としてまとめること、これがもっとも難しい。

 といいますのは、アカデミックの文章の鉄則は

「One paper, One research question, One conclusion」
 
 です。

 つまり、どんなに長い文章であっても、本であっても、ひとつの論文には、ひとつのResearch Question(リサーチクエスチョン)が提示され、Conclusion(ひとつの結論)がなくてはなりません。

 でも、一般に博士論文には、修士以降の複数の研究の知見(つまりは複数のRQと複数の結論)が収録されます。
 ということは、複数のRQと結論を「総括してくくりだすような」ような「より大きなメタなRQ」「より大きくメタな結論」が必要なのです。
 そして、この「大きなRQ」と「大きな結論」が、複数の「小さなRQ」と「小さな結論」ときちんと整合性を保ちながら、ほどよく調和し、マイルドでコクのある香りを漂わせていなければなりません。「ダバダー "違いのわかる男"はダバダー」という感じ(笑)。

 中原研では、修士一年生の頃から、ことあるごとにこの「構造」について下記のようなスライドを用いて、意識させながら、指導をしてきました。ちなみに、この図、よい指導方法かどうかは知りません、だって、まだ博士取得者がいないんだから(笑)これからなんだから(笑)。

 この図では、先ほどの話のとおり、博士論文をかけて追求する「大きなRQ」と「大きな結論」が複数の「小さなRQ」や「小さな結論」から構成されていることがおわかり頂けると思います。

 なお、この図では「小RQ」は2つになっていますが、学問分野や状況によっては、これが3つになっても、4つになっても問題はありません。また、この図は基本構造図であり、そこに変形が加えられてもかまいません。たとえば3章や4章が水平に併置されるのではなく、垂直に連続していても、問題はありません。
 しかし、いずれにしても、博士論文には、複数の「小さな研究」を「総括」してくくりだす「大RQ」と「大きな結論」がなくてはならないのは、変わりません。また、そこには「整合性のある論理構造」が必要なことは言うまでもありません。

hakaseronbun2.png

 でも、なぜ、この「構造図」をつかって修士一年から指導するかというと、修士論文を書いた時点で、4章で書けることがある程度決まってしまうからです。
 さらには、「博士論文のタイトル」は3章と4章を総括する概念 - 大学院生時代の研究を総括する内容 - となることが多いと思いますので、すなわち、修士のときの問題関心は、博士論文の内容や構造を暗黙のうちに「規定」してしまう内容となってしまうからです。

 修士の学生は、修士論文を書いているつもりかもしれませんが、それは見方をかえれば、違って見えるはずです。つまり、修士論文とは「博士論文の一部」「博士論文の構造」を知らず知らずのうちに書いているのです。修士のときの問題関心って、結構、長く尾を引くものよ、意外にね・・・・。
(修士と博士で分野や研究テーマを変えた場合には、これはあてはまらないです。また学問分野によっては、全く常識が異なるので、注意が必要です。あくまで中原の専門、状況に応じた話であるとお考え下さい)

 しつこくしつこく使っているので、大学院生の皆さんは、おそらく、「おい、またでてきたよ、いつもの構造の図が」と思っているかもしれないのですが。。。

  ▼

 ふりかえってみますと、
 
 修士論文は「はじめて文章を書く訓練」であるならば、博士論文は、「はじめて構造を書く訓練」であるといえるのかもしれません。

「足裏の飯粒」とか「ライセンス」とか、なんとか、いろいろ言われる博士論文ですが、その意味は大きいなと思います。だって、「構造が書けなきゃ」、大きな研究のプロポーザルは書けないし、ましてや研究書は書けないでしょ。一般的には、研究者としての経験を積めば積むほど、小さな研究をまとめるだけじゃなくて、「小さな研究をまとめて、大きな絵を描く(研究のビジョン)」が多くなりますからね。

 研究室の大学院生には、何とかこの通過儀礼を頑張って乗り越えていってほ欲しいねと思っているところです。大丈夫、終わらせよう。

 そして人生は続く


追伸.
 今日の話は、少し大上段にかまえたお話になりました。ごめんね、えらそうだったかな。すみません。「てめーみてーな若造ペーペー」が博士論文を語んじゃねー、と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、誠に、どうも、すみません。

 また、小生も今ではこうして冷静に語ることができますが、自分も執筆のあいだは、ほとんど「死にかけ人形」、ていうか、「意識を何度か失いかけたこと」を白状しておきます。辛いよね、苦しいよね・・・気持ちはわかるよ。

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■2012/11/28 Twitter

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投稿者 jun : 2012年11月29日 06:41


「プロフェッショナル」とは、そもそも、何か? : 「オレ様プロフェッショナル論」を読み解く豆知識!?

 仕事のプロフェッショナルになれ!
 組織で働いてもプロフェッショナルをめざせ!
 ジェネラリストになるな、プロフェッショナルをめざせ!
   ・
   ・
   ・
 最近の人材育成に関する言説空間には、「プロフェッショナル」という言葉が踊ります。何となくわかるようで、わからない、この「プロフェッショナル」という言葉なのですが、もともとは、どういう意味なのでしょうか。

 なかなか皮肉なもので、上記のような主張は、「プロフェッショナルをめざせ!」と声高にいっているのにもかかわらず、肝心の「プロフェッショナルとは何か?」に関する定義がないという特徴を?もっているように思います。で、何をめざしていいんだか、わかんない(笑)。

 時には、虫眼鏡を持ちながらシャーロック・ホームズのように、ロジックをたどっていくと(すみません、仕事柄、ロジックが気になるのです)、

「プロをめざせ=要するにオレのように仕事をしろ=ていうか、オレをめざせ=そしたら成功する(=失敗したらおまえの努力がたらん)」

 という議論もあるくらいなので、なかなか、注意が必要ですぜ、ワトソンくん。こういうのを、小生は「オレ様プロフェッショナル論」と読んでいます。

 ですので、今日は、一歩だけひいて、プロ≒プロフェッショナル≒専門職として、これを考えてみましょう(時間の許す限り・・・朝はまことに時間がない!)。要するに、お話しするのは、プロフェッショナルに関する「豆知識」です。たぶん、この豆知識があってもなくても事態は変わりませんが(笑)、プロフェッショナルとはそもそも何のことなのかを、一歩引いて知っておくのは、無駄ではないかもしれません。

  ▼

 プロフェッショナルは、いわゆる専門家論という学問分野において、探究されています。僕の研究分野とは異なるので詳細はわかりませんが、でも、横から覗いてみると、その学問分野においては、これまで星の数ほどの専門職の定義がなされてきました。

 それを細かく見ていくのもよいのですが、専門家に便所スリッパでカンチョーされるのを覚悟して(我が息子TAKUZOの得意技です・・・笑)、小生得意の「ザクッとひと言」でいいますと、だいたい、1)知識・教育、2)コミュニティ、3)倫理・公共、4)オートノミーの4つのタイポロジーによって、それは定義されています。

 要するに、

・どんな風に学び、どんな知識を有している人か?(知識・教育)
・どんなコミュニティに属している人か?(コミュニティ)
・どんな職業倫理をもち、パブリックミッションを果たそうとしているか?(倫理・公共)
・仕事にどれだけ自律性をもっているか(オートノミー)

 ですね。

 代表的なところでは、もっとも古典的なフレックスナーの6つの資質論が有名です。

 ・知的な職業であり、適切な選択と重大な責任をもった判断を行えること
 ・特定分野における高度な体系的知識を有し、かつ、長期間にわたる教育訓練をへていること
 ・体系的知識が現場で適用可能であり、実践的であること
 ・知識だけで対処できない場合には、獲得している技能で問題に対処可能であること
 ・専門家団体を有しており、資格認定などを行っていること
 ・公共への奉仕を行えること

 を満たす人をプロフェッショナルとよぶのですね。なんか、すごそう。

 これを簡略化したものとしては、エツィオーニ(1964)の定義

 ・職務遂行上活用できる知識体系を有すること
 ・専門職養成のための教育課程においての訓練を受けていること
 ・専門職団体が存在し、それに加入していること
 ・高い倫理綱領をもつこと

 とか

 スローカム(1966)の定義

 ・理論的基礎、知識的基礎をもつこと
 ・専門職団体が発達していること
 ・専門家としての価値観・倫理観をもつこと
 ・コミュニティに対する献身を旨とすること
 ・専門家としての自律性をもっていること

 などがあげられます。
 また、おおざっぱな話で恐縮ですが、だいたい定義の項目は、4から6の間だわ、だいたいね(ごめん)。

 上記の定義から、まー、なんとなくイメージはつかめますね。

 かっちりとした理論体系をもっていて、専門職団体が発達していて、自律的に自分で仕事を行い、そして、その仕事には公益性が存在する

 そういうものが、専門職だということですね。
 うーん、冒頭の巷に流布する「プロフェッショナル論」と、ちょっとイメージが違いますね。
 
 ところで、こんな風に、専門職を位置づける社会的属性を列挙していく研究のあり方を、属性論などという風によびますが、それとは、また一線を画するようなアプローチもあります。

 属性論に対応して、たとえば「プロセス論」と呼んでもよいのでしょうが、それは専門職の仕事のあり方から、専門職を位置づけようとするやり方です。そして、その主張は、属性論が一般的に、専門職に「かっちりとした知識ドメイン」を想定するのに対して、少し趣が異なっています。

 その代表格は、かつてMITで教鞭をとっていたドナルド=ショーンですね。
 かつて、ショーンは、 

 プロフェッショナルとは

 「自分が学んだことのない仕事」
 「教えられたことや教科書の枠には当てはまらない隙間の仕事」を行う人だ

 と言ってのけました。
 
 専門家の仕事を子細に観察すると、かつての理論が想定しているような「かっちりとした知識ドメイン」を現場・状況に適応するといったことが、あまり行われていない。例えば、ショーンが観察した眼科医の場合、患者の多くは教科書に載っていない問題を抱えているといいます。症例の80%は、自分が、これまで慣れ親しんだ治療や診療にあてはまらなかったそうです。

「自分が慣れ親しんでいない状況」「いまだ定義が定まっていない問題」と向き合い、自らの知識を駆使し、行為し、その中で考える

 ショーンは、そういう人をプロフェッショナルとして描き出します。
 そして、皮肉を込めて、こう言います。

「沼沢の多い低地の問題」では「技術的な解法」は否定される。皮肉なことに「高地での問題」は、それが「技術的にいかに興味深い」としても、個人や社会にとっては重要ではないという傾向があり、逆に人々の大きな関心を集める問題は「低地の沼沢地帯」に存在する /

実際に問題に当たる実践家は、ここで選択しなければならない。高地にとどまって、「厳密性をもった巧みなやり方」で、相対的に「重要ではない問題」をとくのか?それとも、重要な問題が存在する沼沢まで下がって、あまり「厳密ではない方法」で「問題」を解くのか?(Schon 1987)

 いやー、まことにアイロニカル。かっこいいね。
 ショーンが描き出したかった専門家とは、人々の多くが関心を集める「低地の沼沢地帯」を、ドロドロにはいつくばって、問題と対話しながら、それと格闘する人でした。

 ところで、あなたは、高地にいたいですか? それとも沼沢?
 僕は「高地に憧れつづける沼沢ドロドロ血」(意味不明)。

  ▼


 今日は、専門職について、思い出しながら、書いてみました。
 今日お話しした専門職のイメージは、たぶん、人口に膾炙する「プロフェッショナル」のイメージとは少し異なっているのでは、ないでしょうか。

 もしどこかで「プロフェッショナルをめざせ!」という議論にぶちあたったら、これを少し「拠り所」として、いったい何を主張しているのかを考えてみると、よいのかな、とも思います。高度な知識をもて、と言っているのか、はたまた倫理を持てといっているのか、それとも「沼沢」に生きろと言っているのか、それとも、組織とは独立したコミュニティを持て、といっているのか。
 オレ様プロフェッショナル論を読み解き、またまた、もはやジャングル化してトグロをまいている「人材育成・プロフェッショナル論」をかきわける、きっかけにはなるかもしれません。
 
 さ、ここで時間切れです。
 そろそろ、大学にも、人が来ますね。
 
 そして人生は続く。

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■2012/11/27 Twitter

  • 21:51  必要なのは「世直し」です。コップの中で、ちまちま、競いなさんな。コップの外にでて、それこそ、みんなで協力して戦わなアカンもんは、たくさんあります。キーワードは「世直し」です。
  • 12:33  東大本郷キャンパスにぜひおこしください! RT @tanakazoo こりゃ、みにいかなきゃ。RT @clione きれいです。まさにオザケン「いちょう並木のセレナーデ」の世界。RT 東大・銀杏並木の紅葉。黄色い絨毯。 http://t.co/FobolAd2  [in reply to tanakazoo]
  • 09:48  本郷キャンパス。銀杏並木の紅葉。黄色い絨毯だね。 http://t.co/FobolAd2
  • 08:26  今日は会議が七つか。。。生き残ろう。
  • 07:09  【ブログ更新】プレラーニングとポストラーニング:学ぶ前にやれること、学んだ後にできること: http://t.co/ZmgNNQSO
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投稿者 jun : 2012年11月28日 08:24


プレラーニングとポストラーニング:学ぶ前にやれること、学んだ後にできること

IMG_8996.JPG

「ラーニング・デザイン」にとって、ソーシャルメディアの登場は、それ自体のあり方に「質的変化」を、もたらしました。

 ひと言でいえば、その登場によって、学習機会の「事前(プレラーニングとよびましょう)」「事後(ポストラーニング)」を作り込む、すなわち、デザインすることが、誰でも比較的に容易に、かつ、費用をあまりかけず、可能になったことです。
 それらのおかげで、ラーニングそれ自体を、より充実させることが、理論的には可能になりつつあります。

(ちなみに、上の「にわとりとひよこ」の写真は、今日の話題に1ミリも関係ありません。週末に、TAKUZOがつくっていたものです)

  ▼

 例えば、プレラーニングとポストラーニングの具体的事例は下記のようなものでしょうか。

プレラーニング
・告知、動員、参加登録などが容易にできるようになった(事務コストを軽減し、ラーニングデザイン自体に労力をかけられる)
・事前に学習者の日常の様子を知ることができるようになった(どのような人が集合するかを知ることができる)
・事前にビデオ動画などをアップし、課題を提示できるようになった。これによって、予習が可能になった。さらに、目的意識や参加感を高めることが可能になった
・事前にコミュニティを形成し、自己紹介を行ったり、学習を行ったりすることができるようになった

ポストラーニング
・ラーニング中に用いた素材、ドキュメンテーション(実践記録)を共有することができるようになった
・事後の学習者の日常の変化を、ある程度は知ることができるようになった(評価の実現につながる可能性がある)
・形成したコミュニティをそのまま継続し、アラムナイ化することができるようになった
・必要な場合、フォローアップやリマインドを行えるようになった(評価の実現につながる可能性がある)。
・再結集が容易になった

 上記はすべてではないとは思いますが、3分間くらいで思いついたものを(!?)あげてみました(朝は時間がないのです)。
 これらプレラーニングと、ポストラーニングの機会出現によって、そのあいだに挟まれる「ラーニング」それ自体が、より充実したものになることが期待されます。もちろん、これらの機会の出現をもってしても、ラーニングそれ自体が、「ぺんぺん草もはえない焼き畑状態」!?になっちゃうことは「可能性としてはありえる」のだけれども、できれば前者をめざしたいよね、ということですね。

 考えてみれば、これまでは、ラーニングの機会に「来る前」の学習者、その場を「退出」した学習者に、それなりの頻度で、接触をはかることは、本当に手間のかかることでした。
 ネット技術を駆使したり、電話をかけたり、のろしをあげたり、伝書鳩を使ったりね(意味不明)。
 やろうと思えば、できるけど、ほんと、それやるんすか、という感じ。できないことではなかったけれど、手間がかかった。

 しかし、ここでは、ポイントは「誰でも」「比較的容易に」「費用をかけず」というところにあります。
「誰でも」それなりのことを学べば、ある程度のデザインがあたり、学習者同志がコミュニケーションを行い、それなりに見えるものを、容易に、費用をかけず、できるようになった、というところが興味深いところです。

##余談##
 思い切り思い出話になりますが、ちょっと思い出したので、書きます。今から15年くらい前、僕が、まだ学生の頃、あるセレモニーを、地球の反対側にある大学に中継するという大規模プロジェクトがありました。プロジェクトで求められたことは、それなりに安定的な画質・音質で、映像を送信すること。でも、当時は、なかなかそれが難しかった。プロジェクトは、困難を極め、デスマーチが鳴り響きました。ひとり倒れ、またひとり倒れ・・・。
 たしか、そのときは、シリコングラフィックス社のワークステーションを使って、中継車も借りてきて、衛星インターネット中継をしました。学生やら、プロやらがまじりあって、数週間かけて準備をしたことを憶えています。
 もしも、今だったら、たぶん、YoutubeでOK? あるいは、Skypeですか。ハナクソほじってる間に準備が終わります...オーノー 余談終わり

   ▼

 しかし、メリットはあるものの、同時に、学習の研究者・実践家の間には、「チャレンジングな課題」も生まれつつあります。

 まず、研究者側からいうと、かつては、上記のような要因をプチ工夫し、実践し、評価することで、「ひとつの研究」として成立しました。
 すなわち、単純にいうと、上記のような介入を施した場合(実験群)と、しなかった場合(統制群)の、学習者の行動変化・認知変化をおうことで、ひとつの研究として成立させようと思えば、できた。かなり「お手軽な研究」だけれども、実際、そういうパラダイムで実施される研究は少なくなかった。

 しかし、もう、これらの諸要因は、すでに「実践のフェイズ」に入っています。ということは、やってやれないこともないけど、「新規性」をだすのは、やや苦しい。
 できるならば、概念的には、プレラーニング・ポストラーニングの「次」をひねりだし、考案しなければならないように思います。もちろん、シコシコ「こんまい条件」を変えながら、既存のパラダイムで勝負することも不可能ではありませんが、できるのであれば、
 
 ポスト「プレラーニング」
   (ポストか? プレか? えーい、ややこしいわい)
 ポスト「ポストラーニング」
   (ポストをポストする? 意味不明)

 が期待されるところです。

  ▼
 
 実践家的な関心でいえば、デザインする対象が増えて、「やることが増えたこと」があげられるでしょう。

 今まででしたら、「ラーニング」の部分だけコントロールし、クオリティを担保できれば、OKであったのに、プレラーニングも、ポストラーニングも、ラーニングデザインの視野に入ってきつつある。実際にどこまで責任をもつかは別として、少なくとも、それが言挙げされたときに「レスポンシビリティ」をもつことは期待されるようになりつつある。

 つまり、プレラーニングから、ラーニング、そしてポストラーニングを一貫して上流から「デザイン」し、実施することができることが求められるようになってくる。

 先日、ある人事の方と話していたときに、こんなメタファがでたことを今、思い出しました。

「必要なのは「パーツ」じゃなくて「流れ」なのです。研修やワークショップがありますよ、という「パーツ」じゃない。事前のセレクション・意識づけ。研修・ワークショップ。そして事後のアフターフォローと評価。この「流れ」なのです」

 一字一句同じではないですが、たしか、「パーツと流れ」のメタファで語られていたことは、こんなことであったように思います。

 このことは「よいこと」のように聞こえますが、そこには困難が予想されます。
 まず、流れのそれぞれの構成要素について専門性や多種多様なスキルを持っていなくてはならない。これは最低条件です。その上で、膨大にあがるコスト・工数を下げなければならない。

 しかし、一度、「プレラーニング」「ポストラーニング」のことを知ってしまったクライアントは、その存在を無視できません。ということは、それらをいかにコストを下げつつ、クオリティを下げないで、実施できるかが、ポイントになってくるような気がします。

 これに関連して、先日、ある学生さんと一緒に、あるプロジェクトで、それこそ「プレラーニング」の準備をしていて、

「最近、やること増えたよなぁ・・・」

 とつぶやいていました。
 
 これは「プレラーニング」「ポストラーニング」と配慮しなければならないポイントが増えていること、に対する、いわゆる「ひとつのボヤキ」ですね。
 やることが増えているときに、それをどのように安定的なクオリティで出すことができるか「実務の智慧」が問われています。

 というわけで、今日は、プレラーニングとポストラーニングの話でした。TAKUZOとカミサンが起きてきたので、これにて、今日のお話は、終了です。
 さっ、大学行くよ。

 ---

追伸1.
 先日、同じ大学院生さんと話していたときに印象深かったことばのひとつに、こんな言葉もありました。

「最近、何をデザインしてるんだか、わからなくなりますよね」

 昔なら「教材をデザインする」「教授をデザインする」という風にデザインするべき対象はある程度決まっていた。でも、最近は、デザインするべき対象が無限に広がっている。このことは、以前、ブログで書いたこともあります。

UST番組「学びの場づくり、"勝手に"最先端はこれだ! コンテンツデザインからコミュニティデザインへ」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/01/167ust.html

追伸2.
 今日の話に直接は関係しないのですが、先日、あるクリエーター関係者の方と話していたときに、こんなことをおっしゃっていたのが印象的でした。

「アニメの値段が急激に下がっている。もうそれだけを納品して、食べていくのは難しくなりつつある。自分でクライアントとヒアリングを重ね、企画提案をして、絵も書いて、動かして、Webサイトもつくる。自分の仕事を上流にもっていかないと、食っていけない」

 コンピュータの普及で、少し勉強すれば、アマチュアでもアニメが作成できるようになった。最近は、国をこえての発注もあるし、納品もネット越しでできるようになった。さらにはメディア業界の業績不振の余波が、アニメの世界に押し寄せている。
「アニメをつくることが、アニメのプロの仕事ではなくなっている」という言葉が、とても印象的でした。

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■2012/11/26 Twitter

  • 21:24  文脈は大切かもしれません> RT @kenken919 引っかかっていたことが少しすっきりした RT あなたの会社の若手は、上司の自宅に住み込みで雑巾掛けしてますか?: 伝統芸能をメタファに人材育成を語るときに注意すべきこと http://t.co/SsxuRpKv  [in reply to kenken919]
  • 20:36  お読み頂き感謝です!RT @twitettaseattle 大変面白かったです RT あなたの会社では、上司の自宅で、部下は「住み込み」で「雑巾掛け」してますか?: 伝統芸能をメタファに企業人材育成を語るときに注意すべきこと:http://t.co/m0yWGEBX
  • 16:50  【ブログ更新】上司の自宅で、部下は「住み込み」で、「雑巾掛け」してますか?: 企業人材育成と伝統芸能 : http://t.co/jqPdLvKH
  • 15:47  井庭さん、おひさです。今日はしかも「三連休あけの月曜日グズグズデー」で、なかなか苦戦しました。RT @takashiiba おつかれさまです (^_^) RT 週明け小児科の刑、、、泣。  [in reply to takashiiba]
  • 13:35  先日、書店で、ふと、「スラムダンク」のコミック最終巻を手に取った。「バスケット(のマンガ)は、(当初)この世界では、タブーと言われていた」といった(ような)ことが、書いてあった。スラムダンクも「リスクをとった挑戦だったのだ」と思った。勇気をもらった。
  • 08:22  週明け小児科の刑、、、泣。
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投稿者 jun : 2012年11月27日 07:06


あなたの会社では、若手は、上司の自宅に「住み込み」で「雑巾掛け」してますか?: 伝統芸能をメタファに企業人材育成を語るときに注意すべきこと

「人材育成・人材開発の言説空間」の中で、メインストリームとは言わないまでも、時折、「引用」され、「消費」される話題に「伝統工芸・伝統芸能の人材育成システム」に関する話題があります。

 工芸、華道、舞踊・・・などなど、数百年の伝統を世代継承されてきたことにスポットライトがあたり、そこに存在する「人材育成の仕組み」が、紹介され、称揚されることも多々あります。

 そこには「いつも(見ている企業の人材育成)とは違ったものを見てみたい」という思いと、「企業で活用できる答えが、どこかにはあるのではないか」という思いが、うっすらと後景に広がっています。
 あるいは、「忍耐力が足らず、かつ、コミュニケーションがうまくとれないと考えている若年層」に対する「苛立ち」のようなものが、その背後にうっすら、透けて見えます。

(若年層が本当に「忍耐力がなく」かつ、「コミュニケーション下手」なのかは、わかりません。人材育成・人材開発の言説空間が、そう"意味づけをしていること"が、この背景にかかわる問題です)

  ▼

 伝統芸能・伝統工芸の人材育成システムから導き出される「教訓」は様々です。

「ほら、やっぱり、棟梁の背中を見て、人は育つんだ。言葉なんか必要はないんだ」
「仕事は頭で覚えるんじゃない。体で覚えるんだ」
「一人前になるためには、忍耐が必要なんだ」

 などが、すぐに思いつくところでしょうか。
 その特徴は「上位者と下位者の非対称な権力性」「反言語主義」「身体を通じた学び」などです。
 現在の企業では失われつつある、これらの要因に対して、ノスタルジーをおぼえつつ、魅惑のあるものとして想起し、確認するための言説として、これらが、引用され、消費されます。

 ▼

 最初に誤解を避けるために申し上げておきますが、伝統芸能・伝統工芸の人材育成システムにおける「上位者と下位者の非対称な権力性」「反言語主義」「身体を通じた学び」などといった諸要因が「悪い」と言っているわけでは、断じてありません。
 伝統芸能の人材育成システムとして、それら「最も理にかなっており」、その伝承すべき技能の特徴にあっており、「さすがは数百年をかけて洗練されてきたものだよな」と僕は思います。先日、能楽師の先生にヒアリングをさせていただきましたが、その言葉の奥に広がる伝統の深さには、感服いたしました。

 しかし、一方で、伝統芸能の世代継承システムが素晴らしいものであることを認めつつも、それが当該領域関係者の「思惑」を離れ、「第三者」によって、その「表面」がきりとられ、「言説」として手放しで称揚され、「企業内人材育成システムの再構築の範」とされることがあったとしたら、そのことには「慎重」になったほうがいいように思います。

  ▼

 といいますのは、あたりまえのことですが、人材育成システムが置かれている「コンテキスト」が、「現代の企業」と「伝統芸能」では、異なっていることの方が多いからです。

 伝統芸能の人材育成システムが「奏功」するコンテキストとは、一般には、「仕事のルールや内容がなかなか変わらないこと」「長期間にわたる育成資源が確保できること」「育成しなければならない人材がごくごく少数であること」です。

 実際に、

「仕事のルールや内容が数年おきに変わってしまう伝統芸能」
「ごくごく短期間で人材が育っちゃう伝統芸能」
「人材を数百人単位で大量育成できちゃう伝統芸能」

 というのは、寡聞にしてきいたことがありません。それらの命題は「伝統芸能であること」をいずれも否定する、オキシモロンであります。

 これらに対して、現代の企業が直面しているコンテキストとは「ルールの変更」が頻繁におこり、育成にかけられる時間は短期間で、かつ、人材も少数精鋭が時代の趨勢とはいえ、即戦力になる人を、どんな国籍であっても、ある一定人数は雇用しなければならないことが多いように思います。

 もし、皆さんが、企業にお勤めならば、ぜひ考えてみてください。

 あなたの職場の業務スタイルは、この10年で「不変」ですか?
 上司の自宅で、部下は住み込みで、雑巾掛けしてますか?
 あなたの会社では、知識伝承は一子相伝ですか? 

 おそらく、答えは「否」の方が多いでしょう。
 なのに、そのまま伝統芸能・伝統工芸の人材育成システムを「よし」とするのでしょうか? 本当にほんとうですか?

 思うに、つまり、コンテキストが違いすぎているのです。もしかすると同じ所もあるかもしれませんが、その重なりあう部分は、それほど多くない、というのが僕の印象です。
 ゆえに、アタリマエのことですが、伝統芸能の人材育成システムを「左」から「右」にズラしても、おそらく、なかなかフィットしてこないところがでてくるでしょう。

 ▼

「コンテキストが異なっているもの」を比較するときには、異なるコンテキストに属するもの要因」を直接に、単純に、比較しては、あまり成果は期待できません。

 異なるコンテキストにある物事は、「左」から「右」に、単純に移動することはできません。異なるコンテキストにあるものを、「参考」にするのならば、それをならしめているコンテキストを熟知した上で、それを行う必要があります。

 くどいようですが、伝統芸能・伝統工芸の人材育成システムが「ダメ」であると言っているわけでは、全くありません。
 それにロマンティシズムを感じるのは個人の自由ですが、それを手放しで称揚し、組織のシステムとして組み入れることは、生産的な結果を生まない可能性がある、と言っているのです。

 現代の企業の中には、その知見が、そのまま利用可能である場合もあるかもしれません。その場合は、今日のお話は、全くの取り越し苦労です。今すぐ、ただちに忘れてください。

 ただし、異なるコンテキストにある人材育成システムの諸特徴が、何の配慮もなく引用され、それが行きすぎてしまった場合・・・ともすれば、伝統芸能の人材育成システムにかかわる言説は、当該領域の関係者の思惑を離れ、企業人材育成においても「非対称な権力関係が大切」「長期間にわたる忍耐」が「大切」であるという「価値」を強化するための「レトリック」として機能するだけになってしまいます。

 昨今企業に入られた新入社員の方で、上司の自宅に「住み込み」で「雑巾掛け」している方は、あまりいないと思われます。わたしたちは、「今」を生きており、その状況は常に「特殊」です。自社の状況と時代背景にフィットした人材育成のあり方を模索する旅は、かくのごとく、続きます。

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追伸.
 ちなみに、ちょっと前のことになりますが、能楽師の方に「守破離」のご自身のイメージを伺ったことがあります。能楽師の方がおっしゃる、「守破離」は、もっと長期にわたるものでした。彼のスケールでは「守のプロセス」すら終わりはない。「離なんて一生で本当に来るのかなぁ」という言葉が印象的でした。

 これに対して、よくビジネスの文脈で語られる"守破離"は、"守"が一年目で仕事を覚えて、"破"が2年目、自分のやり方を工夫し、"離"で自分らしさを全開にし、同時に棚卸し・手離れを考える、というサイクルです。それは非常に短期間のサイクルです。

 このお話しからも、"守破離"として同じように語られているものがいかに異なっているか、おわかり頂けるかと思います。

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■2012/11/25 Twitter

  • 20:54  興味深いDVDです。狂言師、登竜門となるような舞台経験を通した学習と熟達。1) 狂言「三番叟」(舞台にたてる体をつくる)、2)「奈須与市語」(声をつくる)、3)釣狐(狂言師の卒業論文。狂言師に必要なすべての技術が含まれる)http://t.co/2ZP1RTTx
  • 15:43  なるほど、そうなのかもなぁ。RT @tomokiy 先日とある劇場の支配人が「表現したい人がたくさんいて、それを観たい人がぜんぜんいない時代」と言っていた。  [in reply to tomokiy]
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■2012/11/24 Twitter

  • 16:59  初Kindle。自分の著書を発見! へー、もうでてんだ。 http://t.co/ikq6oDlw
  • 13:06  子どもを連れてこられる、オシャレカフェ。お料理もおいしい。 (@ スペースジョイ 自由が丘 spacejoy) http://t.co/7FPypaIj
  • 07:34  ほほー興味深い>学校事務職員の役割を変える - 「学びの環境デザイナー」や「オープンスクールコーディネーター」:変わる学校事務職員 教員負担減へ見直し−−札幌・東白石中 /北海道(毎日.JP) http://t.co/RH23ModG
  • 07:09  笑。よかったですね!@snsmm: 今ipadが同じ症状でしたが、それ試したら復活。ありがとうございます!!RT おー!復活 RT @jpntake @sean_tokyo @saharu @ ホームボタン+電源を長押ししてもだめですか?
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■2012/11/23 Twitter

  • 22:20  こういうの、バルカン・サウンドっていうのね、いいね。クラブ+東欧+気持ち中東アジア?> http://t.co/AJGT2FLI : http://t.co/ML9CLjuK : http://t.co/Y18bnQ5O : http://t.co/mVr9Mwpv
  • 17:45  本当に「気絶」だったんだろうか・・・。雑に扱って、落としてごめんよ。しかも、便所の床だったよな RT iPhoneお亡くなり?
  • 17:44  おー!感動です、復活しました!何だったんだろう・・・ありがとうございました!RT @jpntake @sean_tokyo @saharu @ ホームボタン+電源を長押ししてもだめですか? @muzina_shanghai 気絶しているだけかも RT iPhoneお亡くなり?  [in reply to jpntake]
  • 17:20  iPhone、床に落とした。電源を入れても、呼びかけても、シェイクしても、うんともすんとも言わず、黒画面。これは「お亡くなり」になったということですか(泣)。もう、これを機会に携帯やめようかな。
  • 17:03  ダンボール製リカちゃん、ダボちゃん、泣ける>リカちゃん人形を段ボールで作ると泣けます(Daily Portal): http://t.co/9lJCSeNa
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■2012/11/22 Twitter

  • 21:21  新刊「プレイフルラーニング」のカバー印刷動画。ものすごい音をたてて、印刷機が回ります。ふだん、こういう場面は裏方で、一般の方々の目に触れません。でも、実際は、こうした多くの方々の仕事を通して、本が書店に並ぶんですね。心より感謝です。 http://t.co/s0n0j0aG
  • 11:54  【ブログ更新】「塩漬けキャリア」と「マネジャーとしての力量形成」: http://t.co/PsAUUI8j
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■2012/11/21 Twitter

  • 20:45  Toyful Meetup 2012のポスターが出来たそうです。作成いただいた三宅さん・岩田さん、心より感謝です。金井壽宏先生(@tkanai1954)にも2日間にわたりご参加いただけることになりました! 〆切間近です。とても楽しみです!http://t.co/z0seKjie
  • 15:47  駒場。メディアの最先端で働くプロの方々に多大なる協力を得ながら、学部1年生・2年生に、「メディアを使った表現」「コンテンツの生産・編集」を教えています。自分でカメラを回し、編集し、テキストをおこす。学部生の反応が、なかなか愉しいです。
  • 15:34  駒場・教養学部授業。
  • 12:29  大学院・中原ゼミ。「大学の初年次教育・取り組み」を、社会化資源理論からアプローチしても面白いね。いわゆる、ドメインずらしの術。#nakaharalab
  • 12:14  (3)社会化資源(新人が社会化・適応に成功するために必要な17の資源):8)人間関係構築、9)仕事資源、10)個人的なキャリア計画、11)研修、12)仕事の割り当て、13)情報、14)フィードバック、15)承認と感謝、16)フォローアップ、17)プログラム評価
  • 12:14  (2)社会化資源(新人が社会化・適応に成功するために必要な17の資源):1). 予期的社会化、2).公式オリエンテーション、3)能動性を発揮するよう勇気づける、4)公式援助、5)社会化イベント、6)社会化エージェント、7)上司による支援 #nakaharalab
  • 12:14  (1) 大学院・中原ゼミ。関根さん(@masahiro_sekine)の発表。Saks and Gruman(2012) 新人を船に乗り込ませる(On Boarding) : 社会化資源理論に着目して #nakaharalab
  • 11:19  大学院・中原ゼミ。今日の研究発表は、吉村さん、伊勢坊さんのM2コンビですね。吉村さんの研究テーマは、管理職のリーダーシップと学校改善:ソーシャルキャピタル論を媒介として。伊勢坊さんの研究テーマは、役員秘書職の経験学習と熟達に関する研究。
  • 07:04  (3)しかし、能楽師・長山さんの"守破離"のイメージは、もっと長期にわたるものでした。そのスケールでは「守」すら終わりはない。「離なんて一生で本当に来るのかなぁ」という言葉が印象的でした。熟達に要する時間について考えさせられました。
  • 07:02  (2)よくビジネスの文脈で語られる"守破離"は、"守"が一年目で仕事を覚えて、"破"が2年目、自分のやり方を工夫し、"離"で自分らしさを全開にし、同時に棚卸し・手離れを考える、というサイクルです。それは非常に短期間のサイクルです。
  • 07:02  (1)人事専門誌「人材教育」の取材で、能楽師の長山桂三さんを取材させていただきました。長山さん自身の熟達のお話を伺えて、非常に興味深い時間でした。印象的だったお話しのひとつが、"守破離"のイメージについてのお話しです。
  • 06:45  【ブログ更新】仕事を振ると「なぜですか?」と問われる : 「意味や理由」を求める若い世代!? に一瞬イラつく理由: http://t.co/JHpSt1E1
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■2012/11/20 Twitter

  • 21:03  ありがとうございます!TAKUZOに説明しておきます!RT @ossamuu 竹とんぼは羽を回転させることで、羽に揚力を起こしています。これが竹とんぼの重さより大きいと上昇し、小さくなると落ちてきます。(某航空系より) `RyotaSano RT 竹とんぼが飛ぶ理由  [in reply to ossamuu]
  • 18:58  TAKUZO「竹トンボはなぜ飛ぶの?」・・・それは文系の!? パパには即答は難しいな(笑)。。。たしか、揚力って関係あるんだっけ?
  • 08:47  【ブログ更新】TeachingからLearningの時代!? :「教えること」をもう一度見直す: http://t.co/8NWSskIg
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投稿者 jun : 2012年11月26日 16:41


「塩漬けキャリア」と「マネジャーとしての力量形成」

 ちょっと前のことになりますが、IT業界の経営者・経営陣の方々の前で、講演をする機会を得ました。

 この講演の中では、小生は「マネジャー / リーダーの育成」の最新研究知見、最新実践事例を、なるべくコンパクトにご紹介差し上げました。
 講演のあとには、ダイアローグの時間がとられ、そのあと、僕と参加者の皆さんで、対話型の質疑を行いました。

 質疑の最中で、多くの経営者・経営陣の方から、いただいた声はこれです。

「マネジャーが圧倒的に不足している。このままでは業務が立ちゆかなくなる」
「マネジャーとしての資質獲得が難しい。マネジャーの資質のないまま、昇進させざるをえない事例が増えている」

 その声はまことに強く、参加していたどの企業にも、共通するかのように感じました。

 僕は、IT業界の常識・業界には全く疎いので、下記に書くことは、その業界の事情を、忠実に踏まえたではないかもしれません。
 しかし、当日、よくよくお話しを伺っておりますと、そこには「IT業界ならではの事情」が横たわっている気がしました。

  ▼

 端的に申しますと、IT業界において、力量あるマネジャーが不足する最大の要因のひとつは、

 若手からミドルに至るまでの「キャリアパスの単調さ」

 ではないかと感じました。他にもたくさんの理由があるのでしょうが、先日のお話しからは、少なくとも、そのことを感じました。

 言葉を換えていえば、

「ひとつのシステム」の実務担当者として、キャリアが「塩漬け」にされ、マネジャーとして必要な経験を持ちにくい

 ということです。

 つまり、IT業界においては、異動に際して、「システムと人とのつながり」を常に考えなくてはならない。
 ともうしますのは、業務において「このシステムのことは、あいつにしかわからない」という「システム仕様の属人化」が進んでいた場合、「このシステムを止めては、クライアントに怒られる」「あいつを異動させようとすると、クライアントが口をだしてくる」というパターンが生まれがちなのだそうです。

 クライアントは必死です。「あうん」の呼吸で話ができる、いい担当者を捕まえた場合、それを離してなるものか、という思いが生じるのはやむを得ないことなのかもしれません。

 こうした場合、ラインのマネジャーも、面倒な事態になることを避けるため、人事がいくら異動希望を出しても、異動を拒んできます。

 その際に発せられる殺し文句は、これです

「あいつを異動させたら、システム止まりますよ? それでもいいんですね?

 異動させられる側も、システムが変われば、また新しいことをゼロから、たくさん学習しなければなりません。場合によっては、プログラミング言語すべての再学習ということも可能性はゼロではありません。

 そして、この思いが強くなればなるほど、クライアント - ラインマネジャー - 本人の3者のステークホルダーは、「システム」という媒介項を結節点にして「共犯関係」を結びます。
 かくして「キャリアの塩漬け」は「構造的」に生まれることになります。
 これを解く鍵は、個々のステークホルダーへの働きかけではありません。むしろ、システムを媒介としたステークホルダー間の関係に対して介入を行わなくてはなりません。

(もちろん、ひとつの仕事にどっぷりとかかわることは大切なことです。システムが止まらないために、日夜苦労くださっている方にとっては、利用者として、頭が下がります。今日の話は、中堅以降のキャリアの話。特にマネジャー育成という観点だけから語られていることをご理解ください)

  ▼

 マネジャー育成 / リーダー育成の最近の論文を読み解くと、過去の先行研究において共通しているのは、力量あるマネジャーとして成長するために必要なのは、

「マネジャーの役割が埋め込まれている、多種多様な経験を、キャリア早期から、段階的、かつ包括的に積むこと」

 です。

 ポイントは、「経験のヘテロ性」です。その中には、全社で取り組むような業務への従事経験、スタッフの立場からのプロジェクト参加など、なるべく「ヘテロな経験」を踏むことが、それにこしたことはありません。個々のヘテロな経験は、経験の連鎖の中で、時に、相乗作用を引き起こします。この相乗作用こそが、力量形成の鍵だと考えられます。
 こうした経験の連鎖の中には、将来マネジャーになった場合に、十全に発揮するスキルの発達機会が埋め込まれています。


 要するに、「マネジャーとしての熟達」は「塩漬けキャリア」とは対極の世界に開けているのです。どうにかして、「塩漬け」を解かなければ、話は前に進まないことが容易に予想されます。

 ▼

 でも、IT業界における事情は、最近になって少しずつ変わってきているともいいます。

 若手の中には、ひとつのシステムに「べったり」と取り組むことが「キャリア形成上のリスク」であるという認識が広まってきている、という言葉も聞かれました。

 あるひとつの「巨大システム」が未来永劫、ひとつの会社で更新され、開発され続けるのなら、ひとつのシステムにどっぷりと取り組むことが、将来の安定を手に入れる方法であります。しかし、昨今は、そのようなシステムは、徐々に、少なくなってきている。ある日突然システムが切り替えられることになったとしたら、「システムへの過剰な熟達と依存」はリスクでしかありません。
 多種多様な経験をもった方が、将来のリスクを軽減できることに気づく若者もでてきているといいます。

(このように専門性やスキルというものは、獲得すれば、必ずメリットを生み出すわけではありません。リチャード・セネットを引用するまでもないことですが、専門性やスキルを過剰に持っていることが、即、雇用不安を生み出すことにもなりうるのです)

 会社によっては、細かく細かく異動条件のKPIを定め、強制的な人事異動を確保しているところもあると思います。マネジャーとしての熟達をとげるための多種多様なプロジェクトへの参加経験を、きちんとモニタリングする企業も出てきている、といいます。

 もちろん、僕は、IT業界の専門家ではないので、こうした動きが、マスなのかマイノリティなのかはわかりません。くどいようですが、このことが、どの程度一般化可能かは、現段階では責任はもてません。
 でも、その業界にも、認識の変化が生まれてきている。そのことだけは、経営者・経営陣の方々との話の中から、ひしひしと伝わってきました。

 中原個人としては、ここ数年「一般的なミドルマネジャーの育成」 / 「グローバルに活躍できるマネジャーの育成」の研究をホソボソと続けています。
 ここに関する結果が、ここ1年以内に、少しずつリリースされていく予定です。研究知見を通じて、何らかのお役に立てればよいと考えています。

 そして人生は続く。

追伸.
 本務を優先するため、講演活動は、現在、なるべく月1回程度におさえていますので、お引き受けできないものがほとんどです。大変心苦しく思うのですが、なにとぞ、ご了承ください。また地方への出講は、共働き子育てをしているため、なるべく控えております。どうかご了承ください。

追伸2.
 本ができるまで、出版プロセスをあなたに。新刊「プレイフルラーニング」(上田信行×中原淳著、三省堂)のカバー印刷の様子です。ものすごい音をたてて、印刷機が回ります。ふだん、こういう場面は裏方で、一般の方々の目に触れません。でも、実際は、こうした多くの方々の仕事を通して、本が書店に並ぶんですね。心より感謝です。

新刊「プレイフルラーニング」、カバー印刷動画
http://www.facebook.com/photo.php?v=293577054093008

投稿者 jun : 2012年11月22日 11:50


【第三報】 Toyful Meetup 2012 :Toi(問い)とToy(遊)に満ちあふれた(Ful)場にいらっしゃいませんか?:12/8-9 奈良県・吉野 neomuseum!

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 Toyful Meetup 2012の【第三報】です。現在、残席わずかだそうです。もしご参加をご検討の方がいらしたら、ぜひおはやめにどうぞよろしくお願いします。上記は、三宅由莉さん・岩田花奈さんが作成頂いたToyful Meetup 2012のポスターです。期待がいやでも高まるPOPでロックンロール?なポスターですね!
 Toyful Meetup2012には、神戸大学の金井壽宏先生にも、2日間にわたってご参加頂けることになりました。心より感謝です。とても楽しみですね。

 近日中、参加希望者の方に「Invitation Letter」がおくられる予定です。その頃から、Facebookコミュニティも、盛んになることが予想されます。

Toyful Meetup 2012
http://www.facebook.com/ToyfulMeetup2012

 See you at neomuseum!

==================================================
Toyful Meetup2012
Toy(遊)とToi(良質の問い)に満ちあふれた2日間をつくりませんか?
2012/12/8-9 @ 奈良県・吉野 neomuseum
【参加申し込み中:第二報:残席40名】
==================================================

いざ吉野へ!
Toyful Meetups 2012at neomuseum
いまだ、誰もやらなかった次世代meetupが始まる!

  ▼

12月中旬、上田信行×中原淳(著)「プレイフルラーニング:
ワークショップの源泉と学びの未来」(三省堂)が刊行されます!
本書の出版に際して、鼎談にご参加頂いた金井壽宏先生(神戸大学)
からは、

「僕はもうゾクゾクしましたね。
 10年に一度くらいのインパクト!」

というお言葉をいただきました!
誠に嬉しいことです。ありがとうございます。

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「プレイフル・ラーニング」はこんな本?

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.128910993929342.28421.128858907267884&type=1

本書の出版を記念すべく、12月に、志ある方々の集まり
「Toyful Meetup(トイフル・ミートアップ)」を持ちたい
と思います。

この吉野で、学びについて、組織について、人について語って
語り合って、話して話し込んで、脳をdeepに活性化させましょう!

  ▼

Toyfulの「Toy」にこめられたイメージには2つの意味があります。
それは「問い(Toi : 探究)」+「遊(Toy : おもちゃ)」です。

わたしたちは、今回のToyful Meetup2012において、二つがダイナ
ミックに行き交い、シナジーを生み出すような場を、皆さんとともに
つくりだしたいと思います。

世の中には、「ひたすら活動を参加者に迫るワークショップ」は
たくさんあります。そういうものが必要になるときもあるでしょう。
一方で、「ひたすら参加者同志で問いかけるワークショップ」も
多々あります。それもいいことだと思います。

でも、わたしたちは、この「どちらも」とも違う場をつくりたいと
思っています。「問い」と「遊」が行き交い、時に複雑に混じり合い
つつ得られる知的興奮を、皆さんとともにつくりだしたいのです。

 ▼

Toyful Meetupは、「問い(Toi)」と「遊(Toy)」に満ちあふれた
(Ful)、ダイナミックで、インフォーマルな人々集まり(Meetup)を
めざします。

じっくりと話し、内省を深める。一方で、祝祭を愉しみ仲間と交歓する。
その二つがダイナミックに重なり合う地平を、わたしたちは皆さんとつく
りあげたいと思います。

この形式で、皆さんで探究したいテーマは「学び × これから」です。

 超・学び
 超・ワークショップ
 超・ファシリテーション
 超・ワールドカフェ
    ・
    ・
    ・
 この「超」の羅列をいつまで続けてもかまいませんが、既存のコンセプト
を超える何かを、皆さんとつくりだしましょう。

 今年も、相当に、実験的な「場」になると思います。
それが奏功するかどうかはわかりませんが、皆さんと愉しみながら、
「ともに場づくり」ができることを願っています。Hard funな2日間
をご一緒いただける方々のご参加を心よりお待ちしております。

「誰かにファシリテーションされるワークショップ」に受動的に参加
するのではない。自らがファシリテーションする場を、志ある人々と、
アジャイルに、みんなでつくりあげましょう。
そういうToyfulな場所を、12月8日、9日につくりましょう!

  ▼

なお、11月20日をめどに・・・参加申し込みを済まされた方から
Invitation Letterを事務局より、お贈りいたします。
そこには皆さんにお願いしたいToyful workが・・・。

Toyful Meetup2012に関しては、既にFacebookページが立ち上
がっています。Toyful workに迷った!?ときには、こちらを
どうか、どうぞご覧下さい。

Toyful Meetup 2012
http://www.facebook.com/ToyfulMeetup2012

皆様とお会いできますこと、愉しみにしております

               上田信行 × 中原淳(UN)

-----

■主催
 上田信行 × 中原淳(UN)

■スペシャルゲスト
 金井壽宏

■協賛
 girlsBand
 舘野泰一(tate-lab)
 曽和具之(infoguild)
 三宅由莉
 岩田花奈
 井上佐保子
 三省堂
 Undesign
 neomusuem

  
■日程
 2012年12月8日(土)- 12月9日(日)の2日間
※下記の時間は、現段階の予定です。当日の状況に応じて一部変更になる可能性がございます
12月8日「Toyful Meetup(問いに満ちあふれた日)」

pm1:00
 Welcome Reception by girlsBand
 参加者集合 @ 竹林院、奈良県吉野(宿泊地直接集合)
 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山2142 
 TEL:0746-32-8081 FAX:0746-32-8088

pm2:00
 Opening - What's and Why Toyful?
 MC : Playful Beauty(girlsBand)
 MC : Prof. Ueda and Nakahara(UN)

pm3:00
 Beyond Playful Learning
 MC : Undesign
 新刊「プレイフル・ラーニング」を素材としたセッションです

pm4:30
 Designig of Meetup 
 MC : UN, girlsBand
 12/9のMeetup Activityを皆さん全員でデザインします。
プロトタイピング - リファインを続けます!
 
pm7:00
 Toyful Dinner
 Entertainment, girlsBand

pm8:30 - Endless
 Toyful30(30min. Toyful presentation)
 MC : Yoshikazu Tateno and Jun Nakahara
 皆さまにお持ち頂いた「今、考えたい問い」を、それに興味のある
方々をまじえ、じっくりと考える場を持ちます。10名ほどのグループ
になり、「本当に追求したい問い」を受け、対話します。

 Toyful Bar, girlsBand
「問い」と「対話」に疲れたときには、Toyful Barにお越し下さい
きっとそこにも「問い」があるでしょう・・・。

 Toyful Bath
  
  ・
  ・
  ・
 Endless and Priceless...

12月9日「Toyful Meetup(知的遊びに満ちあふれた日)」

Am7:00 - 9:00
 Kinpusen-ji Asaza
 All member

Am10:30
 Cafe in neomuseum

AM10:30
 Toyful Meetup@ neomuseum
 All member

PM6:00
 End

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■参加費
¥20,000

宿泊費(竹林院・一泊二食)
ワークショップ費用
12月9日ランチ費用
新刊「プレイフル・ラーニング」(上田信行・中原淳著、三省堂)

以上の全てを含みます。こちらは当日、集金させていただきます。

-----

■参加方法
 参加は下記の参加条件をすべて「ご承諾」いただける方に限ります。
下記の参加条件をお読みの上で、参加に関する2つの作業をお願いい
たします。

【御願いしたいこと①:参加メールを事務局にお寄せください】
1. お名前(漢字)
2. オナマエ(カタカナ)
3. 所属
4. メールアドレス
5. 連絡がとれる電話番号
6. 最高の一言

の6つの情報を下記メールアドレスまでお寄せ下さい

a.ich042 [あっとまーく] gmail.com
(同志社女子大学 上田ゼミ girlsBand 市川綾子)

です。
12月5日までに電子メールにてお送りください。

募集人数に達した場合は、期日より前であっても募集を停止させて
頂く可能性がございますので、あしからず、ご了承ください。

その上で!もうひとつの参加申しこみをお忘れなく!

【御願いしたいこと②:竹林院に宿泊予約を各自で御願いします】
竹林院に「各自、電話などでで宿泊予約」を御願いします。
「上田さんのグループです」とお伝え下さい。宿泊に関しては、
事務局を通さず、各自で行って頂ければと思います。
竹林院は、吉野でもっとも伝統ある宿坊です。
洗面用具(歯ブラシ、タオル等)は各自お持ちください。
竹林院周辺にはコンビニ等ありませんのでご注意ください。

竹林院
奈良県吉野郡吉野町大字吉野山2142 
TEL:0746-32-8081 FAX:0746-32-8088
http://www.chikurin.co.jp/

 くれぐれも、このたびの参加申し込みにあたっては、2つのプロセス
があることにご注意ください。下記の参加条件をご承諾いただいたうえで、
上記2点を行って頂ければ、申し込みは完了です。
詳細をまたご連絡いたしますので、お待ちください。

 なお、キャンセルの場合も同じく2つのプロセスが必要になります。
まず主催者にご連絡をいただいたうえで、竹林院「にも」宿泊キャンセル
の旨を「各自」で行って下さい。なお、宿泊のキャンセルにあたっては、
時期により費用が発生する場合がございます。キャンセルにあたっては、
主催者は手続きをいたしませんので、各自、竹林院にお問い合わせのうえ、
事務手続き・振り込み等の手続きを行って下さい。

-----

■参加条件

1.本ワークショップは「ユーザー参加型」の形式で開催されます。
参加なさる方が、主体的に企画・作業をしていただく場面がございます。
参加に際しては、その点をご留意下さい。

2.本ワークショップの様子は、主催者 / 主催者の許諾する関係者によって、
予告及び許諾なく、写真・ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性が
あります。撮影した写真・動画は、主催者 / 関係者が関与するWebサイト
等で、広報手段、講演資料、書籍等に許諾なく用いる場合があります。
また、マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供することがあります。

3.本ワークショップの様子を撮影した写真・動画に関しましては、
公開後、編集依頼等には応じることが出来ませんので、ご了承ください。

4.宿泊申し込み、宿泊キャンセルに関しては、参加する個人が、竹林院に
対して各自直接電話で申し込んでください。キャンセルにつきましては、
お支払い方法なども、各自でのお問い合わせを、よろしくお願い申し上げます。
主催者は、当日の集金は代行いたしますが、申し込み・キャンセルには関与し
ませんので、あしからずご了承下さい!

 みなさまにお会い出来ますことを、とても楽しみにしております!
最高の2日間を作りましょう!

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投稿者 jun : 2012年11月22日 00:00


仕事を振ると「なぜですか?」と問われる : 「意味や理由」を求める若い世代!? にイラつく理由

 企業の人事関係の方とお会いしていると、頻繁に聞かれるボヤキ(最近、ボヤキばかりですね・・・すみません)がこれです。

「最近の新人は、口を開けば、"なんでですか?"。少し仕事を振ると、"これは、なぜやるんですか?"。"なんで?""なんで?""なんで?"の応酬で困ってしまいます。おまえは、"理由"や"意味"なんか知らなくていい、って思うのですが」

 これは、いわゆる「最近の若者・・・はダメになった論」ですので、あまり真に受けて考えるのもどうかと思うのですが、なかなか「興味深い論点」だと思われるので、少しだけ、ゆるゆる、ダラダラと考えてみましょう。

  ▼

 最初に断っておきますが、僕も、このボヤキには共感できるところはあります。僕も、ミドルキャリアに片足を突っ込んでいて、そういう話を聞いて、「そうだよな、」胸がすっとなる気持ちがわかる。
 けれども、敢えて、この「なんで?」に横たわる理由を考えてみると、ふだんは考えないことが見えてくる。それで、もう片方の気持ちも、共感できる。そういうアンビバレント(両義的)な思いを抱えつつ、今日は書きます。

 今日の問いは、なぜ、このような局面で、新人に"なんで?"と意味を問われて、上の人はイラつくのか、ということです。この問いには唯一絶対の「答え」はありません。皆さんもどうぞ、なぜかをお考え下さい。

 ▼

 まず容易に思いつくのは、「自分が新人のときには、"なんで?"と問いをもつことはなかった / 許されなかったのに・・・今の若い奴は問いをもつなど、許されん」という「職場の垂直的権力関係に関するノスタルジーです」。
 この思いには、「おれが体験したことを、次の世代も体験すべし」という「体育会的世代継承論」が裏打ちされています(笑)。

 おそらく、今は一人前になってしまった方も、「なんで?」と問いたくなる局面はあったのかもしれない。しかし、当時、職場の中の人間関係には、垂直的な権力関係が、今よりも強固であった。

 かつて、あるビジネスパーソンが口にしたひと言が忘れられません。

「課長が黒といえば黒。ただし、部長が白といえば白」
 
 そして、権力関係が強固であればあるほど、様々な自分の思いを口にだすことははばかられる。否、反面、権力関係が強固であるということは、「内部」にいれば「守ってくれる」。だから、敢えて、自分から「外部」に出ることはしない。

 また、同時に、その当時は「おれの背中を見て育て論」が職場では主流だった。誰も教えてくれなかった。いろいろなことの意味や理由を、口にだしたりしなかった。なおさら、自然と、「なんで?」と問うことはなかった。

 しかし、今は、変わってしまった。

 ハラスメントという各種のラヴェルが生まれ、人々の監視が強まっている。職場の権力関係も相当に変化している。
 信頼関係や尊敬(リスペクト)の念がたとえなかったとしても職場に色濃く残る権力関係やポジションだけで「職場を統治」できる時代は、もうすでに色褪せているのに、それをまだ上が引きずっている場合に、下の方には、あの言葉が、つい脳裏に思い浮かぶ。

「なんで・・・?」

まして「権力の内部で守られる意識」は、今はもうもてない。脳裏に浮かんだ言葉は、つい口にでてしまう。

「なんでですか?」

 そして、その言葉を上の人が聞いたとたん、昔を懐かしむ「ノスタルジー」と自分がどっぷりとかつて浸っていた「体育会系的世代継承論」があたまをもたげる。そして、イラッとくる。

 第一の理由はこんなところです。

   ▼

 第二に、「基礎基本の認知」に関する問題。
 仕事であっても、何であっても、そうなのですが、一般に「基礎基本が何たるか / 何であったかを、本当の意味で知ること / わかることができる」のは、「基礎基本がわかったあと」ではないか、と思います。
 つまり、自分が応用問題をいくつかとき、あっ、振り返ってみれば、「あれが基礎基本だったのね」ということで、「基礎基本の本質的な意味とありがたさ」がわかる。
 そのときまでは、たとえ「基礎基本が何か」は注入されていたとしても、なかなかそれが何たるかまではわかっていない。

 だから、先ほどの議論に重ね合わせますと、上の世代の人が、「基礎基本」も身につけていない新人に「基礎基本の意味」を問われても、

 それは応用問題ができるようになったらわかるよ

 と言いたくなる。というか、基礎基本の意味は、あとあと、わかってくるものであり、「今はとにかく、いいから、やれ」と言いたくなる。

 しかし、下の世代からすれば、こう見えている。

 この基礎基本を身につけたあと、どういう応用問題が解けるようになるんですか?

 「なんで?」にまつわる、世代間のギャップの二つめの説明は、こんなところでしょうか。ただし、この説明は、今に特有のものではありませんね。

  ▼

 第三に、「職場の中の組織市民行動の意義を新人に伝え切れていない」ということです。
 組織市民行動とは、ここでは「誰の仕事でもないけれど、職場のメンバーなら、いわば市民として自発的にひろってしまうようなコボレ玉的仕事」と考えましょう(ごめんなさい、正確な定義は専門書がたくさんあるので、そちらでどうぞ)。

 組織というのは、明確に記述し、組織メンバーに役割付与される仕事だけから構成されているわけではありません。そこには、かならずスキマがあり、よって、「誰の仕事でもない仕事=コボレ玉」が必ず発生します。そして、この「誰の仕事でもない仕事」を進んで担う人が「気のつくヤツ」「モティベーションの高いやつ」ということになり、新人としてはかわいがられます。

 しかし、問題はここからです。高い社会的規範や社会関係資本が保持されている職場においては、この組織市民行動をかってにメンバーが担います。ところが、職場の規範が崩壊し、これが失われていくと、そうした行動をとることが、「自然」ではなくなる。

 仕事に、「明確な役割意識」が生まれ、「ここからはわたしの仕事」「あそこからはあなたの仕事」という風に、「仕事役割のバルカナイゼーション」、いわゆる「線引き」が発生します。
 そうした職場において、社会化された新人においては、新たに仕事を振られた際、おそらく「なんで?」という声を発する可能性が高くなるのでしょうか。なんで、これを僕がやるんですか? これは僕の仕事ではないんじゃないですか? どうしたって、様々な疑問がわいてきて、つい、それを口にしてしまう。

 ただし、おそらくですが、そういう現象が新人に生まれた場合には、既存メンバーについても組織市民行動が失われている事態が想定されます。
「なんで?」という問いを発した場合、それが新人ならばスポットライトを浴びますが、既存メンバーの場合には、ハイライトされることはありません。そうした発言が生まれた場合、職場の組織市民行動の多寡を考えてみることも、ひとつかもしれません。

  ▼

 第4の理由。
 これが最も大きい要因だろな、と思うのですが、今の若い世代は、そもそも「キャリア不安」「雇用不安」が前提になっている時代を息抜き、会社に入ってきていることを忘れてはいけません。
 つまり、彼らは最初から「見通しのなさ」の中を疾走して、今に至っている。また、組織と自分との「心理的契約」は、かつてのものとは変わっている。彼らは、「組織は必ずしも、自分を完全には守ってはくれないこと」を前提に、組織に入ってきている。

 もちろん、「一生、この会社で働きたいですか?」と質問紙やサーベイで問われれば、つい「はい」と答えてしまう。しかし、それは「願望」であることを同時に知っている。「はい」をつけたとしても、「組織は必ずしも、自分を完全には守ってはくれないこと」は、若い頃から、身にしみて感じている。

 そういう時代を生き抜けば、当然、

「今、自分がやっている仕事が、何につながっているのか? それでどのような見通しが生まれるのか?」
「これはハシゴをはずされた仕事ではないのか?」
「おれだけがババひいてんじゃないのか?」

 ということに関心が向かないわけがありません。そもそも、不安であり、そもそも見通しがないのであり、そもそも心理的契約が揺らいでいるのだから、そうした思いをもつことが「自然」です。

 このことは裏返していえば、こうも言えます。

 過去、どんな仕事を振られても、「なんで?」と問うことがなかった時代というものが、もし仮にあるとするならば、「そんなことを問わなくても、答えが自明だったから」です。

「今、振られている仕事を、きちんとこなしていけば、おまえの数メートル先の、あの先輩みたいに、いつかはなれるよ」というかたちで、長期的にめざすべき目標も、ロールモデルも、明確で見通しがもてたし、それが組織と個人とのあいだで了解されていた(心理的契約)。
 だから、人は「意味」を問うことなんかしなかった。いや、その意味がなかった。なぜなら、答えは、自分のすぐ「隣」にあったからです。
 だからこそ、そこには世代間ギャップが存在する。

 上の世代からすれば、

「なんで、ここで、なんで?と聞かれるかわからない」

 下の世代からすれば、

「なんで、こんだけ不安な時代に、意味もわからず、仕事に打ち込めるかわからない」

   ・
   ・
   ・

 僕たちは今「見通しの持ちにくい時代」を生きています。そこは、頻繁に「ルールが変わる世界」であり、長期的な目標を保持することが難しい社会です。そんな中で、仕事をしていれば、 「なんでですか?」と、つい問いたくなる。その気持ちは、いわゆるロストジェネ世代の端っこにいる小生は、共感できます。

 このことは、上の世代の方だって、感じるところはあるのではないでしょうか。
 もし仮に、自分が40代になって、突然、突飛な部署へ異動したり、前例のない仕事をふられる。そのとき、組織からの「明確なメッセージング」はない。なぜこのような異動なのか、なぜ仕事なのか、本人も周囲も、意味も理由もわからない。

 そんなとき、長期にわたる自分の見通しがもてているのなら、わかりました、とだけ伝え仕事に迎えるのかもしれない。しかし、自らにキャリア不安、雇用不安などが強まっているならば、きっと、そうはならないはずです。

「なんでですか?」

 と意味を問いたくなりませんか? つまり、「なんで?」と問うことは、「合理性」のある行為であるということです。そして、そういう行為にかられるのは、若い世代だけではないはずです。自分が置かれている社会的立場によって、自分が置かれている心理状態によって、問いが生まれるか、生まれないかは容易に変わってきます。

  ▼

 以上、4つだけ、「なんで?にイラつく理由」を考えてみました。
 理由はこれだけではないと思いますし、僕の推測があたっているかどうかは、責任は持ちません(笑)。もちろん、若手といっても、いろんな若手もいますので、「トンデモな若手」もいるかもしれません。「トンデモななんで?」もあるんでしょう。

 たとえば考えられる別の理由として - 僕個人は、あまり了解していない理由ですが - 1)若い人の個人的資質が軟弱になってきた、堪え性がなくなったとか、2)自分の問いを大切にしすぎる教育のせいだ、とかいう理由もありえるのかもしれません。

(前者の理由は、そう言いたくなる理由はわかりますが、その世代を家庭で育てたのは、どの世代の方々でしょうか。後者の理由は論理矛盾です。自らの問題関心や興味関心を大切にし問題解決する教育のあり方を、一方で、さんざん称揚しておいて、つまりは「問い」をもつことを若い世代に求めておいて、片方では、問いをもつことを禁じるのは矛盾にほかなりません。)
 
 いずれにしても、

「なんで?」

 という若い世代のひと言の背景には、今の組織・職場をとりまく、様々な問題が隠されているのかもしれません。いずれも、皆さんで、様々な理由を考えてみると面白いのではないか、と思います。

 そして人生は続く
 
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■2012/11/20 Twitter

  • 21:03  ありがとうございます!TAKUZOに説明しておきます!RT @ossamuu 竹とんぼは羽を回転させることで、羽に揚力を起こしています。これが竹とんぼの重さより大きいと上昇し、小さくなると落ちてきます。(某航空系より) `RyotaSano RT 竹とんぼが飛ぶ理由  [in reply to ossamuu]
  • 18:58  TAKUZO「竹トンボはなぜ飛ぶの?」・・・それは文系の!? パパには即答は難しいな(笑)。。。たしか、揚力って関係あるんだっけ?
  • 08:47  【ブログ更新】TeachingからLearningの時代!? :「教えること」をもう一度見直す: http://t.co/8NWSskIg
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投稿者 jun : 2012年11月21日 06:37


TeachingからLearningの時代!? : 「教えること」をもう一度見直す

 最近、気になっていることのひとつに「教えること」があります。といいますのも、ちょっと前にお会いした方から、以下のような質問(というより、質問のようなボヤキ!?)を受けたからなのです。

「研修やセミナーなどで、知識を一方向的に、受講者に「教え」、受講者はそれを「聞く」ってのは、ダメなんですよね?」

 一字一句憶えていないのですが、おそらく、こんなような趣旨のご発言ではなかったと記憶しています。「ダメなんですよね?」か・・・深い。

 このひと言は「何気ないひと言」ですが、小生、個人的には「衝撃」を受けました。一方で、ある種の「デジャブ感覚」も持ったことを正直に吐露します。
 そして、ここには、いろいろなことを考えるヒントが隠されているような気がしました。少なくとも、僕にとっては、そういうひと言でした。

  ▼

 まず考えたいのは「教える」とは何か?ということです。
 おそらく、上記の文章では、「教える」とは「有能な講師が知識を一方向的に受講者に与えること」と考えられているようですが、さて「教える」とはそもそもなんでしょうか? 皆さんは、どう思われますか?

 次に、先ほどの文章では「講師が知識を一方向的に受講者に与え、受講者はそれを聞くことが、イコール、ダメなこと」と価値づけられていることです。これに関しては、皆さんのご認識はいかがでしょうか?

  ▼

 今日の日記では、(時間がないので・・・ごめんなさい、このあと会議が続くのです・・・)詳細を述べることはしませんが、僕にとって「教える」とはもう少し広い意味をもっている言葉であるということ(あくまで僕にとってです)、そして、「教えることはダメなんかじゃ全くない」ということを、敢えてチョロチョロと書かせていただこうと思います。

 まず前者に関して、かつて(もう今から7年前・・・)、自分がやっていたラーニングバー(Learning bar)の特徴を示すとき、僕は、敢えてこう書きました。これは僕にとって、自分がよいと思える学習のあり方を簡略に図式化したものであり、それはそのまま僕の「教えること」に近いイメージでもあります。

 1.聞く
 2.考える
 3.対話する
 4.気づく

 ここにはしっかりと「聞く」がまず入っています。
 そして、これに、もうひとつくらい加えた感じが、僕の「教える」のイメージに完璧に近づくようなものです。つまり、僕は「教えること」を「相手が理解し、動くこと」を教える、と考えます。

 1.聞く
 2.考える
 3.対話する
 4.気づく
    ↓
 5.理解する、動く

 そして、僕自身はこうした考えでありますので、「講師が知識を一方向的に受講者に与え、受講者はそれを聞くことが、イコール、ダメなこと」であるとは全く考えません。
「教えること」が必要か不必要か、と問われるならば、「必要」な局面の方が確率的に多いに決まっているし、そうやって、人は知識を継承してきたのだと思います。それが否定される根拠がわかりません。

 学習研究の観点からいえば「知識を伝達すること」の対極にある「経験から学ぶ」とはもっともパワフルなコンセプトですが、その効果があらわれるまでの時間は、もっとも長く、かつ、「状況依存」です。
 このことは拙著「経験学習論」に書きましたが、「経験とは受苦のこと」です。もちろん人間は「受苦を通し、試行錯誤することでしか、学べないこと」はたくさんあります。しかし、熟練度の低い人に「受苦」を与えても、つぶれるだけです。それは学習者の習熟度に依存します。

 それは、ともすれば「魅惑的なコンセプト」として、人々の目に。日本人のメンタリティである「現場礼賛主義」と共振し、「経験から学ぶこと」は「手放し」で、称揚されがちです。
 
 しかし、「状況依存」とは、「時と、人と、場合による」ということです。経営学習論で書きましたとおり、それは「賭け」のイメージなのです。そのことを手放しで「よし」とすることは「効率がもっとも悪いことを覚悟する」「経済合理性は悪いことには、腹をくくっている」ということです。

 これに対して「前もって言って教えられるようなこと(情報提供するだけで、相手がさほど苦労せず、先人の方に乗り、パフォーマンスをあげられること)」であり、かつ、「教えられる時間と能力」があるのならば、さっさと教えてしまった方が早い、僕は思います。特に、若いときには、きちんと教えられるべきことは、教えてしまった方がよいでしょう。

 もちろん「前もって言って教えられるようなこと=教えられてしまうような内容」だけで、受講者が、「物事の根本から理解すること」、「周囲や他者に影響を与えつつ動くこと」は難しいかもしれません。「経験からしか学べないこと」はたくさんあるのかもしれません。
 しかし、それは「必要十分」ではないかもしれないけれど「貴重なリソース」のひとつであります。「先人の肩の上に立ち、さらなる高みをめざすこと」の可能性があるのなら、ニノゴノいうまえに、それをしっかりとするべきだと思います。

「教えることを否定すること」は、とかくロマンティシズムを感じがちですけれども、それは「反知性主義」ともつながることなのではないでしょうか。

 この議論、今日のブログを見て、「学び」の研究者、それに長いあいだ関心のある実践者ならば、「歴史は繰り返す」と感じるでしょうね。
 古から、ずっと繰り返してきたのです、この議論は。
 そして、またもや、繰り返しているのです。

  ▼

 いずれにしても、最近、この「教えること」が気になっています。
 どうやら、「ファシリテーション」やら「対話」やらが大切にされすぎて「教えること」の意味が揺らぎ、さらには、「知識を伝えること」がないがしろになされているのではないだろうか、とも思うのです。

 最近、よくこんなスローガンを聞きます。

「Teaching からLearningの時代」

 なのだそうです。

 そのスローガンは、人々のもつ「被教育経験(あまりよろしい思い出として語られない傾向のある経験)」と共振し、時に「学び・学習に対するロマンティシズム」を喚起するのかもしれません。

 しかし、それらは二交代立でしょうか?
 いえ、そもそも、それらはそれぞれ何を指し示していますか?

「Teaching からLearningの時代」!?
「ホンマカイナ?」、と僕は疑問に思います。

 今日の日記は、そんな問題提起でした。
 詳細は、また後日させてください。

 ふぅ、間に合った。
 じゃ、会議に行ってきます。
 それでは今日も一日、お元気で!

(学びの研究者、この問題と実践的に長くつきあってきた方は、一見、「二交代立」に見える「学習のコンセプト」のどちらかに肩入れすることには、慎重になるものではないか、と思います。
ある特定の手法が万能で、「Catch all」的にすべての問題を解決する、とは思わないものですし、そういう議論には魅了されません。
いつも言っていることですが、一見、「二交代立図式」に見える二つのコンセプトのかかわりや、連関を考えるのが、「学びのデザイン」で発揮される知性であると僕は思います)

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■2012/11/18 Twitter

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■2012/11/17 Twitter

  • 20:52  「高さ」を追求することをあきらめ「低いもの」を「低い姿勢でわからせること」、、、教育・芸術だけの話ではないように感じます。
  • 20:50  (2)ところが、いままでの教育や授業や芸術教育は、どこでも「低い」姿勢でわからせようとしてきた。私はそのことに反対である。「低いもの」を「低い姿勢」でわからせようとするから、かえって「大衆化」することができない(斎藤喜博)
  • 20:50  (1)もともと、教育とか芸術とかは、「高さ」を追求するものである。「高さ」を追求しない限り、「大衆化」することもできない。「高さ」を追求することによってだけ、「大衆化」し、子どもや教師のものとすることができるものである(斎藤喜博)
  • 17:32  1分で分かる会田誠 : http://t.co/3OVLxueo http://t.co/xBUw7pBI http://t.co/xRrVc0Y7
  • 17:28  会田誠展「天才でごめんなさい」はじまりましたね。好き嫌いはあると思います。Risky, Crazy and Sexy。ぐらんぐらんに揺さぶられます。作品見ながら、何度か、ふいた。 http://t.co/Bh4QLiLG
  • 14:44  学会理事会。
  • 07:45  権利関係はどうなっているんだろう。元レコード会社が、プロモーション(別のセグメント開発)のために、再送信を認めているのか。替歌している方が、権利を買っているのか・・・(そりゃないかな)。いずれにしても、興味深いマーケティングだ。
  • 07:45  こちらは元歌です:カーリー・レイ・ジェプセン - Call Me Maybe http://t.co/oZ8I0Mnt
  • 07:44  こちらはRola版、東京が舞台:http://t.co/VJA6ZqKa
  • 07:44  昨日教えてもらいました。面白い。カーリー・レイ・ジェプセン「Call me baby」の替え歌:セサミストリート: Share It Maybe http://t.co/Ty2Zo4m3
  • 07:34  昨夜はなぜか、森光子さんが夢にでてきた・・・なぜだ?。寝る前に、テレビの追悼特集を見ていたせいかな。「役者は寂しくないとやっていけないもんね。幸せいっぱいじゃやれないの・・・」という言葉が印象的。なぜだ?
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■2012/11/16 Twitter

  • 23:05  やらなければならない仕事を「タスク」とみなし「こなす」こともできます。一方で、同じ仕事を行うに際し「挑戦的なプチコンセプト」をつくり「デザイン」することもできます。大切なことは「どう仕事をとらえるか」です
  • 20:21  自らが行った介入研究を、いかに評価するか。評価研究のパラダイムと諸問題をコンパクトにまとめた良著・入門書だと感じました。改めてよい勉強の機会になりました>安田 節之 (著) 「プログラム評価―対人・コミュニティ援助の質を高めるために」: http://t.co/fKYFNSFM
  • 17:16  カミサンと連絡とれた。ふぅ。
  • 17:13  なぬ、TAKUZO、ゲロ&発熱だと! 保育園よりTELあり。しかし、オラはいま、名古屋だよ。。。
  • 16:31  東へ。時速300キロで、保育園へ。お迎え、待ってろよ。たぶんギリギリ間に合うハズ。。。
  • 08:45  【ブログ更新】「大学生研究フォーラム2013」: 東京大学で2013年8月17日に開催します!:大学 / 大学生 / 企業の今を知る!? http://t.co/AAsXApgR
  • 08:14  「大学生研究フォーラム2013」が来年は東京にやってきます!来年の「大学生研究フォーラム」は、2013年8月17日(土)に東京大学 本郷キャンパス 伊藤謝恩ホールで開催します。当初9月4・5日でご案内をしておりましたが、上記の日程に変更いたしました。どうぞお楽しみに!
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投稿者 jun : 2012年11月20日 08:44


仕事を「こなす」、仕事を「デザイン」する、仕事の中で「プチ実験」する

 先日、ある大学で、近々開催されるイベントの最終打ち合わせをしていたとき、ある方がおっしゃった、ほんのひと言が、印象的でした。

 その方は、このイベントで汗を流す大学生たちに、「受付の仕事」を任せるとき、彼らに、こうおっしゃいました。

「受付をやるんじゃなくて、受付をデザインしてください」

 このワンセンテンスは、何気ないひと言で、おそらくおっしゃったご本人も意識にのぼっていないかもしれませんが、とても僕の印象に残っています。
 といいますのは、これに類することは、僕も常日頃から、若い方々に言っていることなのです。

「仕事」は「こなす」ことは避けよう。
 どんなに些細なことであっても「やらなければならない仕事」の中に、自分だけが知っている「プチ実験」をつくったほうがいいよ。
 ほんのささやかなことであっても「結果が見えないこと」を仕込もう。そして、結果を愉しもう。

「仕事をこなす」だけでは、能力やキャリアは伸びない。「結果が見えないこと」をつくってこそ、仕事上の成長がある。

 文字にしてみると、ものすごく説教臭くて恐縮で、「穴」があったら、ガシガシ掘って入って、こたつでも持ち込んで、みかんを食べたいくらいですが(笑)、いつの頃からか、こういうことを思うようになってきました。

 それは僕自身が、次第にミドルと言われるようになったからかもしれませんし、自分自身の研究 - 経営学習論の研究を積み重ねるに従って、「信念」のようなものとしてかたちづくられたものかもしれません。

 もちろん、すべての仕事に「プチ実験」ができるわけではないかもしれない。ほんとうに「ぺんぺん草もはえないような仕事」もあるかもしれない。

 でも、できることなら、ほんの少しでも、その余地を見つけようとしてほしい。「差」はわずかです。でも、こうしたことの些細な積み重ねが「その後の分かれ道」をつくる、と信じて。

  ▼

 先の話に引き戻してお話ししますと、学生さんたちが「受付」を「タスク」ととらえるならば、それを大過なくやりとげることが目的と成る。

 そうではなく、「受付」を「創造的な対象」ととらえるならば、そこには「コンセプト」が必要になり「自らデザインしうる」ものになる。

 大切なのは仕事をどのように「見なすか」ということです。そして、その際には、自分の仕事をつねに「上流」に位置づける努力が実は、大切なのではないか、と思うのです。

 もちろん、そこで思いつくことは、ささいなコンセプトかもしれないし、デザインしうる部分は、ほんのわずかかもしれない。

 でも、一瞬でもいいから「受付とは何か」を考え、「従来の受付にはない工夫」の余地とはなにかを考えることができるかもしれない。それは、先ほどの言葉を使うのなら、「結果が見えないこと」であり「プチ実験」ともいえるのです。

  ▼

 今日の話は、裏返して考えることもできます。

 もし万が一、あなたが人材育成や人材開発の担当者であったら、能力やキャリアを伸ばしたいと思う人に「仕事をデザインさせること」「仕事のなかでプチ実験をすること」を、いかに理解させ、いかに早い段階で「習慣化」させるか、ということです。

 現在の職場は多忙化しているし、とてもそんな余力はない、とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。様々な外的環境の厳しさは、よくよく重々承知しています。

 でも、おそらく、それしかないと思います。
 あとは「意志決定」の問題だけが残ります。

 そして人生は続く。

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■2012/11/16 Twitter

  • 23:05  やらなければならない仕事を「タスク」とみなし「こなす」こともできます。一方で、同じ仕事を行うに際し「挑戦的なプチコンセプト」をつくり「デザイン」することもできます。大切なことは「どう仕事をとらえるか」です
  • 20:21  自らが行った介入研究を、いかに評価するか。評価研究のパラダイムと諸問題をコンパクトにまとめた良著・入門書だと感じました。改めてよい勉強の機会になりました>安田 節之 (著) 「プログラム評価―対人・コミュニティ援助の質を高めるために」: http://t.co/fKYFNSFM
  • 17:16  カミサンと連絡とれた。ふぅ。
  • 17:13  なぬ、TAKUZO、ゲロ&発熱だと! 保育園よりTELあり。しかし、オラはいま、名古屋だよ。。。
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投稿者 jun : 2012年11月17日 13:37


「大学生研究フォーラム2013」 : 東京大学で2013年8月17日に開催します!

 先日、京都大学の溝上先生と中原と電通育英会の方々で、来年の「大学生研究フォーラム2013」の企画をしました。

 このフォーラムは、去年から京都大学高等教育研究開発推進センター・東京大学大学総合教育研究センター・公益財団法人電通育英会の三者共催で開催しているものです。もともと京都大学と電通育英会がはじめていたプロジェクトに、中原もジョインしました。

 今年のフォーラムの様子は下記で見ることができます。

大学生研究フォーラム2012

http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/2012.html

  ▼

「大学生研究フォーラム2013」の内容詳細は、まだ確たることはいえないのですが、個人的には、

「大学関係者と企業人事関係者が、お互いの"いま"を知り、話すことができる場になればいいな」

 と思っています。

「やれ、大学が悪い」
「やれ、企業が悪い」

 という風に建設的ではない「非難の応酬」をするのではなく、まずは、お互いの「今」を知るところから、会をはじめたいと思います。

 僕は「大学人」ではありますが、研究の性格上、「企業の方」にもよくお会いします。
「企業の方」とおあいしていて、たまに思うことは「大学生のいま / 大学のいま」の認識に少しズレがあるな、ということです。大学人と話していて、たまに思うことは「企業の今」を知らずに、企業の話をしているときもあるな、ということです。

 まずは、そこからはじめたいな、とも思うのです。
 
  ▼

 ちなみに、大学生研究フォーラム2013は、来年は東京で開催されます。2013年8月17日(土)に東京大学 本郷キャンパス 伊藤謝恩ホールで開催することになりました。

 当初9月4・5日でご案内をしておりましたが、上記の日程に変更いたしました。お騒がせいたしました。ちなみに18日は「高校の先生方を対象にしたフォーラム」も開催されます。こちらの方も、どうぞお越し頂ければ幸いです

 2013年、8月17日・18日
 東京大学でお会いしましょう!

 どうぞお楽しみに!

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■2012/11/15 Twitter

  • 22:43  Toyful Meetup 2012(12/8-9)、昨日から本格広報開始しましたが、既にお申し込みが定員半数に至る勢いです。お申し込みはお早めにお願いします! そろそろFacebook上では、次の仕掛けが動き出す?:http://t.co/1myZy2XA
  • 15:50  【ブログ記事】「学び」と「コスト」、この最もソリのあわないもの!? : http://t.co/GmmgoZBl
  • 12:58  応援!>みちのく仕事 東北のこども・地域福祉プロジェクト「リーダーの右腕派遣」説明会:東北被災地で様々な復興・未来づくりにリーダーたちの「右腕」として参画したい方向け:今村久美さん(@kumimamura)、伊藤あづささんなど登壇。http://t.co/AhtNeV0z
  • 11:38  はぁ、、また生活指導をせなあかんか。
  • 09:27  走った!、間に合った!面白い発表を楽しみにしていますRT @ikejiriryohei: 9:30から博士コロキウム。/ 教授陣に発表してきます。
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投稿者 jun : 2012年11月16日 08:41


「学び」と「コスト」 : ソリがあわず、意識にのぼらず、語られないもの

 学びには「コスト」がかかります
 そして
 学びを提供することにも「コスト」がかかります

  ・
  ・
  ・
   
「そんなことは、アタリマエダのクラッカーじゃ、ヴォケ」

 とか

「このクソ忙しいのに、今さらジロー感漂ってること言ってんじゃねー」

 というツッコミがくることは重々承知して、今日は、一寸、「学びとコスト」の問題について、ゆるく、ぬるく、ぷらぷらと考えてみましょう。そろそろ、お茶の時間にしましょ。

 しょっぱなから、今日のブログの結論から申しますと、こういうことです。

「学ぶ側」においても
「学びを提供する側」においても
「学びに付随するコスト」は
 意識にのぼりずらく、ときおり「度外視」される
 
  ▼

 まず「学ぶ側」の方から。

 たとえば、「学びとコスト」という問題に関して、「学び手」としてのわたしたちは、自分の長い長い「被教育経験」を振り返り、いつ頃から「自分の学び」に「お金がかかったなぁ」と感じたでしょうか。

 この問いに対する答えは、もちろん、人によって違うでしょうが、少なくない人が「社会人以降くらいから、敢えて自分が学ぼうとするとき、お金がかかるよな」と意識するのではないでしょうか。子どもの頃には、「身銭を切って学ぶこと」はあまりないので、「学びとお金が結びつかないこと」は、やむなきことかもしれません。それが本人にとってよいことか、よくないことかは別にして。

 特に、おそらく、人々のもつ信念のうち最も強固なのは「義務教育はお金がかからない」という思い込みです。
 でも、アタリマエのことですが、それにもコストがかかっており、年間で10兆円ほどのお金がかかっています。
 学校を建設し、教員の人件費を捻出し、教材・学習施設を維持する。将来の人材を育成し、社会秩序を維持する。これは、本当にコストがかかることなのです。でも、少なくない人は、それを「タダ:お金がかからないもの」だと思っている。

 たとえば、「大学教育」にしても、そうです。
 日本ですと、大学の授業料は「親がだす場合が多い」ので、「あまりお金がかかるよな」という感覚は薄いかもしれません。もちろん、この社会では「苦学」なさっている方がいらっしゃる(増加している)ことも、解決しなければならない問題になりつつありますが(学費が上がる一方、家計所得は低くなり、それでいて奨学金の伸びも限定的です)、一般には、まだまだ、その認識は低いのではないでしょうか。

 もちろん、大学教育は義務教育ほど、「学び手」としてのわたしたちに「無料だよね感」はないですが、実は、日々、お金がかかっています。

 たとえば、今から「単純計算の思考実験」をしてみましょう。
 大学教育にもお金がかかってるよね、ということを敢えて認識するための、「あくまで簡便な思考実験」です。

 たとえば、今、あなたが、国立大学に通っているとします。
 学生は、本当に単純計算で、出願、入学からはじまり4年間授業料をすべてあわせて、だいたい245万円(244万円)の費用がかかります。
 これも本当に単純計算ですが、卒業までの単位を120単位と考えた場合、1授業(2単位の取得)には40703円の費用がかかります。てことは、1授業は原則15講義ですので、一授業あたり2713円を支払っていることになります。
 仮に、あなたが国立大学生だとして、仮に今日3講義あったけど、それをブッチした。すると、8140円を捨てたことになります。ディズニーランド1回分+ちょっと気のきいたランチくらいの費用でしょうか。ドブボトンです、はい、それまでよ。

 これが私立大学になると、さらにヘビーな数字になります。
 文部科学省で公開されている平成21年の数字を見ますと、入学・出願・平均授業料・施設整備費の4年間の合計は、おおよそ443万円。すると、卒業までの単位を120単位と考えた場合、1授業(2単位の取得)には73833円の費用がかかります。てことは、1授業は原則15講義ですので、一授業あたり4922円です。1日3授業をブッチぎれば、14766円をすてる計算です。デートでディズニーランドにいって、やっぱり(笑)、きのきいたランチを食べるくらいでしょうか。ドブボトンです、はい、さいならー。

 くどいようですが、以上は、あくまで「思考実験」です。
「大学教育の家計負担」を「単位数」や「講義数」で除することに何の意味があるんだ、というツッコミは覚悟して、敢えて、やってみました。あと、「大学がディズニーランドと何、関係あんだ」というツッコミもうけるでしょうが、何も関係がありません。だから「思考実験」だってば。
 でも、こうしてみると、結構、費用がかかってるな、と感じませんか。

 一般に、わたしたちは、「学び手」として教室に座り、教師の話を聞くときには、あまり「コスト」のことは考えません。でも、ちょっと振り返ってみれば、学びにはちゃんと「コスト」がかかっている。でも、そのことをともすれば、わたしたちは、忘れてしまいがちです。

(ちなみに、これは、家計負担だけの数字です。実際には、国家GDPの3.5%程度が(先進国にしては少ないという批判が多々あります、高等教育全体に投資されています)さらに投入されています。なお、この投資は、国立大学だけではありません。私立大学は私学助成金というかたちで、国からの支援があります。そういう意味では、完全にプライベートセクターで運営されている大学は存在しません。大学とはそもそもパブリックなものなのです)

 ▼

 次に「学びを提供する側」の問題。

 学びを提供する側に、「学びとコスト」の問題が散見されるのは「革新的な学びの空間や学習機会」を作り上げる際です。これは、僕自身の研究領域がそれに近いので、この問題がハイライトされやすいのかもしれません。

 要するに、

「革新的な学習空間をつくりました! えっ、それに、いくらかかるんだって? もしかして、コストのことを、わたくしめに聞いてるんですか? チチチ、これだからシロウトは困るんだよ。

いいんです、いいんですってば、「革新的な学び」なんだから! 確かに人手はこれからかかりますけれども、革新的だし、学びとか、教育に関することだから、これでいいのです。野暮なこと、ききなさんな」

 というイメージです。
 で、そこにかかる「コスト」のことを度外視してしまう。

 加えて、この「コスト度外視」を、さらにさらに「後押し」する言説として機能するのが、

「ここは学習・教育を提供する場なのだから、人的リソースはみなでボランティアで何とかやりくりして、なんとか頑張りましょう」

 という「ボランティアリズム」と「ガンバリズム」です。

 この「ボランティアリズム」と「ガンバリズム」が、安定的に維持できている場合は問題は起こりません。
 しかしね、オクサン、人間ってのはね、時がたてば、いろいろ変化もするし、移動もあるし、意識もかわるんです。
 こうした変化は、人生、いろんな出来事が起こるんだから、ある意味、しょーがないことです。変化が生じれば、当初の志だって、ボランティアリズムだって、ガンバリズムだって、変わっていくのです。ともすれば、熱狂的に「革新的な学び」を支えていた人々が、ひとり、またひとりと消え去っていくのです。
 
 ひと言でいいますと、 

 「ボランティリズム」と「ガンバリズム」は、最初がピーク。
  いつかは「失われる運命」にある

 のです。

 ということは、「コストのことを度外視する」ということは、結局「サスティナビリティ(持続可能性)という問題を生み出す」ということです。だって、「ボランティアリズム」も「ガンバリズム」も駆動しない場所には、支え手がいなくなるんだから。
 かくして、いつかは、革新的な学習機会・学習空間を支える人々がいなくなり、その場は消え果てます。

 たとえば、このことにゆるく関連して、先日、こんな文献を読みました。
 かつて、ある場所に「革新的な教育を行う実験学校」がつくられたことがあります。その教育のあり方は、当時、大変に注目され、今もなお、多くの学習関係者を魅了していますが、その「革新的な教育」を支えていたのは、生徒140名に対して23人の教師と、大学院生クラスの10人のアシスタントであったということです。生徒140名に対して、教育のサプライサイドが33名。てことは、単純計算で、生徒ひとりに対して4.2人の支援者がいたことを意味します。
 ある意味、そもそも「ハイパーリッチな学習環境」ですね。「革新性」を支えていたものの正体のひとつは、ここにもあるような気がします。要するに、ものすごい人的リソース・コストをかけて、これが実現されていた。
 結局、この実験学校はのちに「閉校」になってしまうのですけれども、「学びとコスト」のことを考えるうえで、なかなか示唆的です。

(誤解を避けるために断言しておきますが、僕は、場合によっては、時にリソースをかけてでも、革新的な教育実験を行うことが大切だと思っていますし、この実験学校を大変評価しています。しかし、一方で、コストの問題を考えるとき、ここでの試みをそのまま水平展開しようとするなら、最初から無理があることがわかります)

 ▼

 「学ぶことにはコストがかかる」ということが、あまり人々の意識にのぼりずらい、あるいは、この問題を度外視してしまうのは、いくつか理由があるように感じます。例えば、下記のような要因は、容易に思いつくでしょう。

1.「学ぶこと」には「Invisible」である
 「明確なかたち」がなく、「目に見えない」。また、それは時間とともにフローして、ストックすることができない。よって、コストまで意識がのぼらない。

2.「学んだ結果/効果」は長期的にあらわれ、評価しにくい
 学んだことが短期的に何かの成果としてあらわれることもありますが、その結果は長期的にじわじわとでてくる場合が多い。こういうのを、「学習の遅効性」といいます。

3.教育や学習の世界に存在する「聖性」と「精神主義」の壁
 教育や学習は「聖性(清らかで、崇高なもの)」と見なされており、その場で、お金やコストの問題を語ること自体がタブーとされてきた。お金やコストがかかっても、「ボランティアリズム」と「ガンバリズム」で何とかできると信じられてきた。

 皆さんの近くにある「革新的な学習環境 / 革新的な学習機会」は、いかがですか?

  ▼

 今日のお話は、「学びとコスト」に関して、ゆるく、まとまりのない話をしました。今日の話をひと言で要約すれば「学ぶことにはコストが生じる」けど、なかなか、それは、意識されたり、語られないよね」ということです。むしろ、それがタブー視されることもあるわね、ということです。

 こういうことを、公の面前で、ブログで書くと、

 「あいつは、お金にうるさい」

 とすぐに言われることが予想されます(笑)。
 でもいいんです。この問題を敢えて「ひた隠し」にして、様々な「素晴らしい学習環境」、「有用な人材」が「スポイル」されてきた事例を、僕は、これまで3万6000件くらい見てきました(笑)。また、本当に「お金にうるさい」ジイサンは、世の中に腐るほどいます。それと比べると、僕なんか、ブログ記事書いてるだけです、おこちゃまです。たいしたことがありません。

 もちろん、先に述べましたように、学習は「一般的なプロダクト / 製品」とは「異なる特質」があります。それは「目に見えるものではなく、かつ、評価しにくく、遅効性がある」。
 だから、学習を「プロダクト」と同等なものと見なし、「コスト!コスト!」「オラオラ、金、金」とギチギチに管理することには無理があります。そんなもの、はなから論理破綻しているに決まっている。

 でも、だからといって、お金のこと、コストのことを、敢えて「全く見ないで」本当によいのでしょうか。「お金やコストのこと、おれ、知らんポーン」とケツをまくっていて、いいとは僕には思えません。
 
 意識はするんだけど、過剰に縛られないあり方・・・

「学ぶこと」に関して、「コストの問題」とちょうどよいつきあい方ができないものかねぇ・・・と思います。

 うーん、なかなか難しい問題ですね。
 煮え切らない終わりで、すみません。
 そして人生は続く。

 ---

■2012/11/14 Twitter

  • 23:11  「山ガール」ならぬ「動ガール(身の回りのものを撮影してインターネットに動画を投稿する人たち)」とは!>(NHK) http://t.co/0yoYg5zl
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  • 18:48  「教育の歴史」を一覧できる面白いサイト> History of Education : http://t.co/yYr4VewV
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  • 14:14  東大がギャップイヤー 新入生、休学し社会体験 13年度から(日経): http://t.co/GORokJzV
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投稿者 jun : 2012年11月15日 15:48


みちのく仕事 東北のこども・地域福祉プロジェクト「リーダーの右腕派遣」説明会

 昨年から、小生、NPO法人カタリバの理事を仰せつかっております。

NPO法人カタリバ
http://www.katariba.net/

 それがご縁で、下記のイベント「みちのく仕事 東北の「こども・地域福祉」プロジェクト 右腕派遣説明会開催」のご案内を受けました。
 本イベント、カタリバ代表理事の今村さんが、ご登壇なさることもあり、また知り合いのETICの山中さんからのご紹介ということもあり、下記の説明会を、中原も「応援」します。

 リーダーシップの理論の中には

「次世代のリーダーをつくることができるのは、リーダーだけ」
「リーダーが、リーダーを育てる」

 という考え方があります。
 東北被災地で様々な復興・未来づくりにリーダーたちの「右腕」として参画したい方、参加をご検討してみてはいかがでしょうか?

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みちのく仕事 東北の「こども・地域福祉」プロジェクト
右腕派遣説明会開催

11月25日(日)13:00~15:00 @ETIC.渋谷オフィス
http://www.etic.or.jp/recoveryleaders/migiudebosyu/
主催:NPO法人ETIC.震災復興リーダー支援プロジェクト
==================================================

「震災を乗り越えるということは、震災前に戻すということではなく、
発展的な意味で「変わる」ということだとしたら、子どもたち自身に、
この町に新しい産業を生み出せるような可能性と力を持たせたい」

コラボ・スクールの今村久美さんはこう話します。
今村さんは現在、住居倒壊率83%という壊滅的な打撃を受けた宮城県の
女川地域で、子どもの学習支援に取り組んでいます。

今村さんのように東北で新しいチャレンジに取り組む方々の周りには、
共に伴走する方、後方から支える方、地域外から入り込んだ若者や企業など、
様々な立場の方が関わっています。そしてそれぞれが、地域の未来を描き、
地域の新しいモデルを作っています。

今回ご紹介する「右腕派遣」のプロジェクトは、宮城県女川町・岩手県
大槌町で地域との関係性をつくりながら最先端の教育モデルづくりに取り
組んでいる、『コラボ・スクール』と、街づくり・起業・デザイン・ソーシ
ャルビジネスの専門家と協働して「自閉症/発達障害のある方の未来を創る」
ことを実現していこうと奮闘している『ぶれいん・ゆに~くす』のリーダーを
お招き致します。

説明会では、リーダーのみならず、様々な方から、様々な角度で、
どのような新しい教育のかたちを作っていくべきか、地域のしくみを考え、
継続的なプラットフォームとしていくべきかを考えていきます。

ETIC.では、こうした事業を共に創っていく方を募集しておりますので、
教育や福祉、こどもの観点での事業に関心がある方、これから東北での活動に
参画していきたい方などに、是非お越しいただければと思います。

ーーー

■開催概要

●日時:2012年11月25日(日) 13:00-15:00(開場:12:40)
●場所:NPO法人ETIC.5階 セミナールーム
http://www.etic.or.jp/etic/access.html
JR原宿駅表参道口より徒歩9分
JR渋谷駅ハチ公口より徒歩10分
●定員:40名(先着・事前予約制)
●参加費:無料
●対象:東北出身者、もしくは東北にご縁がある方(社会人・学生問わず)
現地で長期にわたり、「右腕」として関わりたいと検討されている方
教育や子ども、福祉分野で将来事業を起こしたい・関わりたい方
ビジネス経験を復興の最前線の現場で活かしたいと思っている方
●主催:NPO法人ETIC.

ーーー

■ プログラム概要(予定)

12:40 開場
13:00 オープニング・開催説明
13:20 募集プロジェクトのプレゼンテーション
放課後学校「コラボ・スクール」(女川町・大槌町)
スペシャル・ニーズを持つ方々(生き難さを抱える方々)の
  「未来創生」プロジェクト
14:30 質疑応答・アンケート記入
15:00 終了
※希望者がいれば、終了後に個別相談会を実施

※注意事項
プログラムは予告なく内容を変更することがございます。
あらかじめご了承下さい。

ーーー

■ ご紹介するプロジェクト(※現在、リーダーの「右腕」を募集中)

◆放課後学校「コラボ・スクール」(女川町・大槌町)
http://michinokushigoto.jp/archives/2349

「コラボ・スクール」女川向学館は、被災地の子どもたちの学ぶ『場』を
つくることをミッションに2011年7月4日から活動準備を開始、8月4日に
本開校しました。
女川向学館は、塾講師の先生方・有志の方々・ボランティアの方々・教育
委員会・校長会・学校・地域の学習塾の先生方・そして遠くから応援する
寄付者の方々などが、放課後の学校を舞台にしてみんなで協力してつくり
あげている、日本で初めてのコラボレーションスクールです。
放課後学校では学習指導に加え、子ども達が「大人になるのが楽しみだ!」
と思える機会づくりもはじまっています。

 2011年12月、岩手県の大槌町でも 大槌臨学舎が開校しました。
 現在、小中学生など約320名が、2か所の教室で放課後に学んでいます。

◆スペシャル・ニーズを持つ方々(生き難さを抱える方々)の
「未来創生」プロジェクト
http://michinokushigoto.jp/archives/2880

ぶれいん・ゆに~くすでは、これまでの自閉症/発達障害のある人たちが
生きやすい社会、ひいてはすべての人が生きやすい社会を実現していくこ
とを目的に、東日本大震災による困難な状況にある自閉症/発達障害のあ
るご本人とご家族への総合的な支援活動を行っています。

発災時より、アレルギーや身体障害などスペシャルニーズを持つ人たちの
地域での「居場所」としての機能を果たす必要性を強く感じています。
今後は、仙台市内にあるコミュニティカフェを使った様々な企画・Cafe
から誕生するオリジナルスウィーツを通じて、スペシャルニーズを持つ人
たちやその支援者、街の人たちが出会い、繋がり、新しい展開への拡がり
を生みだすべく、現在様々な仕掛けを考案中です。

ーーー

■ 当日登壇者

今村久美氏(特定非営利活動法人NPOカタリバ 代表理事)
岐阜県高山市生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。
大学在学時の2001年に、任意団体NPOカタリバを副代表の三箇山
(旧姓竹野) とともに立ち上げる。
2006年法人格を取得、当法人の代表理事に就任。
"生き抜く力"を備えた若年層に溢れる社会、"教育"を"学校"に丸投げ
してきた社会から脱却し、あらゆる社会の構成員が"教育"の担い手となる
社会を目指し、首都圏の高校での「カタリ場」の実施を中心に活動。
2011年3月11日の東日本大震災後、ハタチ基金の代表理事となり、
継続的な被災した子どもたちのための支援を始め、宮城県女川町を中心に、
活動を続けている。

伊藤あづさ氏(一般社団法人ぶれいん・ゆに~くす 代表理事)
臨床発達心理士/香りジェネラリスト
1981年から10年続いた「われら人間コンサート」の事務局次長を
スタートに 障害のある方と楽しく暮らすことの伴走が始まる。
障害者職業訓練校・障害者職業センターにおいて職業訓練・職業ア
ドバイスを行い、特にIT技術者養成を通して、訓練生の経済的自立
を目指す。
1995年から東北福祉大学感性福祉研究所/東北大学加齢医学研究所
において「香り」を媒介としたケアの研究・実践に8年間従事。
授かった子どもが 「広汎性発達障害(自閉症)」であったことが
縁で、保護者の立場として、2005年4月に施行された「発達障害者支
援法」の成立に尽力。 地域で「自閉症/発達障害」のご本人とご家族
に未来を創るために奔走中。

ーーー

■ お申込み

下記のURLの申込みフォームよりお申込ください。
 http://www.etic.or.jp/recoveryleaders/migiudebosyu/

ーーー

■ 当日お越しいただけない方へ

 ETIC.では、3ヶ月以上の期間、フルコミットで東北に入り、
 リーダーたちの「右腕」として参画したい方、
 もしくは具体的に検討されている方を対象に
 毎週、個別相談会を開催していますので、是非お越しください。

  日 時:2012年11月16日(金)20:00~21:00
      2012年11月20日(火)20:00~21:00
      2012年11月30日(金)20:00~21:00
  定 員:各回10名
  対 象:主に20代・30代の社会人・大学生
  参加費:無料
  場 所:NPO法人ETIC.セミナールーム
   http://www.etic.or.jp/etic/access.html

ーーー

■ お問い合わせ先
特定非営利活動法人 ETIC.(エティック)(担当:山中・渡部)
〒150-0041 東京都渋谷区神南1-5-7 APPLE OHMIビル4階
TEL:03-5784-2115/ FAX:03-5784-2116
E-mail: fukkou@etic.or.jp
Website: http://www.etic.or.jp/

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投稿者 jun : 2012年11月15日 12:49


新入社員がよく口にする言葉「わからないことがわからない」

 先日、ある業界で、数百名の新人さんたちを教育なさっている方が、研究室にお越しになり、こんなことをおっしゃっていました。

「新人たちがよく口にする言葉で、こちらもどうしていいかわからなくなるのは、"わからないことがわからない"です。何がわからないの、と聞いても、何がわからないのかがわからない」

 本当にご苦労様です。数百名の新人を社会化する、というのは、本当に大変なことだと思います。そして、この言葉、同じ境遇におられる方で、「うーん、あるある」と思われた方は多いのではないでしょうか。

 個人的には

 「わからないことがわからない」

 というワンワードが、とても印象的でした。
 本当に「新人さんたちにとって、新たに参入した世界は、真っ暗闇。右も左も、何がなんだかわからない」んだろうな、と。だからこそ「質問できない」し、「聞くこともできない」のでだろうな、と。

   ▼

 この状況に似た状況で、ふと思い出したのは、三宅なほみ先生がかつてなさっていた研究です。中原研D3の舘野さんが、下記に論文紹介をしてくれているので、そちらをご覧いただければと思います。

「わからない人は質問して下さい」という問いは本当に意味があるか?
http://www.tate-lab.net/mt/2009/11/post-143.html

 要するに

「わからないことを質問することができるようになるためには、わかる必要がある」

 ということですね。
 
 新人は、表面的な質問ならできるかもしれないけれども、難しく本質的な問いを発することができない。なぜなら「わからない」から。
 対して、玄人さんは本質的な質問ができる。なぜなら、わかっているから。
 つまり、「わからないことを聞いてわかるようになる」という質問は、「個人の理解状況」に依存している、ということになります。

 新人は、右も左もわからない状態にあるので、何を質問してよいかわからない。
 つまりは「わからないことがわからない」。すなわち、その状況を言語化して、問いのかたちにして、わからないことをわかるようにすることは、今の段階ではできない。

  ▼

 わからないことが、わからない。

 新人は、新たな組織にエントリーした瞬間、圧倒的な不確実性に支配されます。
 そこはどんな役割を担うことが期待され、何が評価されるのかすら、わからない。また組織の暗黙の規範も、行き交う人々がどのような仕事をしているかもわからない。つまり、彼/彼女には、質問を可能にする「軸」が全くありません。

 このような状況下でなしうることは、おそらく、「自ら動くこと」であり、「環境に対して働きかけること」でしょう。その中で、わずかに得られる「人々からのフィードバック」を頼りにしつつ、環境の不確実性を自ら減少させ、わからないことは聞く。そうこうしているうちに、「わからない」ことが「わかる」ようになり、さらに質問することなどができるようになっていく。
 新たに外部から組織に参入するときには、多かれ少なかれ、そのようなプロセスを得るのかな、と思います。

 わからないことが、わからない

 今は組織をよく知る立場にいる「あなた」も、以前、そのような状況を経験したことがあったのではないでしょうか? 皆さんは、どのように「わからないことが、わからない」状況を脱することができましたか?

 「わからないことがわからない」状況からの脱出ストーリー、数百通りあったら、面白いですね。 
 そして人生は続く

 ---

■2012/11/12 Twitter

  • 21:32  Toyful Meetup2012 12/8-9 奈良県吉野 参加者募集開始です。Toy(良質の問い)に満ちた(Ful)集まりになる予定です。新刊「プレイフルラーニング」の出版記念もかねて。ご興味あらばぜひご参加ください http://t.co/VhQ5be0c
  • 21:23  「社会で必要な能力」はいくらでも「思いつき」で、それらしいものを「つくることができる」ということです。「土壇場力」だろうが、「振り付け能力」だろうが、キャッチーなワードのあとに「能力」か「力」をつければ、いっちょあがりです。
  • 17:08  社会で生きていくために必要な力?:ドサクサ能力(ドサクサに紛れてシレっと案件を通す能力)、「あとから意味づけ力」(あたかも最初から決まっていたかのように意味づける能力)、「シンダフリ能力」(新たに仕事がふられないように死んだふりをする能力)
  • 16:55  ビデオ見ましたが、本当にすごい。嬉しいニュース>厚さが驚異の0.96mm!日本発の超薄型ディスプレイに世界が大興奮!! 海外の声「クソ最高だぜ日本!」: http://t.co/FNJ5EuUy
  • 15:24  駒崎さん、おっしゃるとおりです。研修の効果は、研修にくる前にある程度は決まっていますRT @Hiroki_Komazaki 社員研修等にも応用できる考え方ですね。 RT「学習効果」は「学び始める前」に既に決まっている!?: http://t.co/v5geJnaD
  • 10:02  【ブログ更新】「学習効果」は「学び始める前」に既に決まっている!?: http://t.co/v5geJnaD
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投稿者 jun : 2012年11月13日 06:31


「学習効果」は「学び始める前」に既に決まっている!?

「学習効果」は「学び始める前」に既に決まっている

 という文章を目にしたとしたら、少なくない人が、一瞬「おやっ」と思うはずです。
 一般には「学習効果=学んだ効果」とは、「教室・研修室・ワークショップなどで学んではじめて生まれるので、学習効果は、その場のクオリティがすべて」と考えられていますね。
 こうした認識に立ちますと、先ほどの文章「学び始める前に、すでに決まっている」とは、「おやおや、変だな」ということになります。

 しかし、近年の学習研究の世界では、「学び始める前」の重要性がよく指摘されるようになってきています。「あらかじめ既に決まっている量」が「すべて」ではないにせよ、「学ぶこと」がなされる前から、勝負はすでに決まっているのです。むしろ、「事前に決まってしまっている量」が、我々の想像以上に、相当多いことも指摘されている。アタリマエといえば、アタリマエなのですが、以前よりも、そこに対する認識が高まりつつある、ということですね。

 比喩的にいうと・・・

 教室・研修室に来る前に、勝負は、始まっている

 ということになります。

 具体的にいいますと、

「どのような社会的属性やニーズをもった個人が、学びの現場に、どのような目的意識をもって望むのか」
「どういう知識をもった個人が、どのようなモティベーションをもって、学びの現場に望むのか」

 といったような「学習者のレディネス」「学習者の社会的条件」によって、「学習効果が変わってしまう」ということです。
 もちろん事前に決定してしまうのは「すべて」ではありません。しかし、少なくない量が、事前に影響を与えてしまうというのです。

  ▼

 従来の学習研究は、こうした「学習者のレディネス」「学習者の社会的条件」といった、いわゆる「学びの初期条件(Initial setting)」については、あまり十分な検証がなされていませんでした。
 むしろ、それは「異ならない」ことを「前提」にして研究がなされる傾向がありました。いくつかの指標を用いて、学習者の統制を行い、後続する学習に影響を与える要因が「取り除かれたこと」ことを「前提」にして研究がなされました。

 しかし、緩やかにではありますが、こうした動向も変わりつつあります。メインストリームは知ったことではないですが、少なくとも僕の注目している研究は、ここへの配慮が見られるようになってきています。

 学習研究者が、街に出て、様々な実践的研究プロジェクトを主導するにつれ、あるいは、政策と連動した社会的プロジェクトに、学習研究者が参画しはじめるにつれ、また、学習のアカウンタビリティを示すことに対する世間のニーズがあがるにつれ、このことが、緩やかにですが、かわってきました。

 主に、学習研究者がリサーチのフィールドにするのは、都市のプロジェクトであることが多いと思います。そして、そこには、多様な社会背景をひきずり、「文化の衣」をまとった、多種多様な人々がいます。ハイモティベーターもいれば、ローモティベーターもいる。

 そうした人々に相対し、学びのあり方を考えるとき、「学びが起こる前」の条件について考慮に入れる必要が増してきたのだと思います。

 経営学習研究としてみれば、研修などのフォーマルな教委機会の学習効果が、いかに「インフォーマルな職場環境」に左右されるかが近年指摘されるようになってきています。

  ▼

 少し考えてみればわかることですが、上記のような項目のの中には、「変えようと思えば、変えられるもの」と「なかなか変えられないもの」があることに気づかされます。

 たとえば「学習者の目的意識を高める」とか「学習者のニーズを把握する」とかは、事前に、ある程度は行えることなのかもしれない。
 あるいは、「学習者の知識レベルを一定まで高めておく」とかに関しても、介入・統制できないことではない。たとえば、「反転授業(The Flipped Classroom)」などを用いることも、その一計かもしれません。
 一方、学習者の社会的属性や文化的背景といったものは、変えることはほぼ困難です。

 世の中には
 変えることができるもの
 そして
 変えることができないもの
 があります。

 そして概して
 変えることができないものは
 変えることができるものよりも
 根が深く、影響は大きいものです。

 しかし「変えることができないものの存在」を目にして、諦めてしまえば、それで「終わり」です。
 スラムダンク風にいえば

「諦めれば、そこで試合終了」

 です。

 手持ちのリソースを勘案し、何をして、何ができぬかを考えることが大切になります。

  ▼

 今日の話題に関連して、最近、僕は、よく思うことがあります。
 それはネットやスマホが、数多くの方々に利用頂けることによって、やろうと思えば、「学習者とのコミュニケーション」が、以前よりもきめ細かくできるようになってきたことです。
 つまり、学習のサプライサイドが、事前あるいは事後に、学習者とコミュニケーションをとり、学習効果を高めたり、持続させるべく働きかけることができるようになってきた、ということです。

「どのような社会的属性やニーズをもった個人が、学びの現場に、どのような目的意識をもって望むのか」
「どういう知識をもった個人が、どのようなモティベーションをもって、学びの現場に望むのか」
 
 このうち対処しうるものを実現するために、「学習者とのコミュニケーション戦略」を策定・実行し、事前にレディネスや初期期待を高めておく。
 事前に、学習者同士の関係をすでにつくっておいて、離脱を押さえる・・・などなど、やろうと思えば、いろいろ可能になることはあります。

 勝手気ままに、個人的な見解を無責任に述べますが、今後は、この分野が伸びていくように思います。

 学習者とどのようなコミュニケーションをとるのか
 学習者同士をいかに関係づけるのか?
 学習者の事前の目的意識やモティベーションをいかに高めるのか

 ここに実践的智慧を蓄積したプロジェクトが待たれます。

 ---

■2012/11/11 Twitter

  • 23:51  「プレイフル・ラーニング:ワークショップの源流と学びの未来」(上田信行・中原淳著、三省堂)に中原が執筆した「プロローグ」「エピローグ」を公開します。本の全貌がご理解いただけると思います。できますれば、「いいね!」を御願いします(ペコリ) http://t.co/1XZF16DW
  • 22:10  「プレイフル・ラーニング:ワークショップの源流と学びの未来」(上田信行・中原淳著)はこんな本!?。この30年の学習研究の歴史、ユーザー参加型ラーニングイベントの技やり方、金井壽宏(@tkanai1954)先生との鼎談も収録。http://t.co/vWZ0K9p5
  • 22:06  今年最後で強烈なイベント「Toyful Meetup 2012」が12/8-9奈良県吉野で開催されます。Toy(良質な問い)が満ちている会(Ful)になる予定です。Facebookページ完成、募集開始直前です。「いいね」よろしくです! http://t.co/ulpTLpeB
  • 21:44  タイムスリップ写真、面白い。同じカットで、同じポーズで、同じ人が、異年齢。やってみたいな> 「海外で話題の『タイムスリップ写真』がスゴい!(画像 32枚)」http://t.co/htjm8oNX
  • 19:13  仕事を「こなす」のは避けた方がいいね。どんなにささやかであっても、仕事のなかで「実験」をしよう。どんなときでも、こっそりと、自分だけが知っている「プチ実験」を! 「こなす仕事」で能力が伸びることは、あんまり、ないよ>中原研院生諸氏
  • 17:38  少し前になるのですが、ISSEY MIYAKEのデザイナー、宮前義之さん(@ymiyamae)の情熱大陸、ご覧になった方いらっしゃいますか? 完全に見逃しました・・・。興味津々。
  • 14:12  NPO法人 Fathering Japanのブース、盛り上がっていました。父親による、本の読み聞かせ。「よい父親」ではなく「笑顔の父親」を増やす、という組織のキャッチコピーがいいね。 http://t.co/VwBD7JuI
  • 13:26  北海道ではアイスはなかったですね。寒いから?さっき思い出したのですが、ポン菓子は、ドンと呼ばれていました。RT @oyasama20 私の田舎は、宮城県ですが、夏によくアイスクリーム売りのおじさんが来るのを楽しみにしていた事を覚えています RT ポン菓子おじさん
  • 13:03  ポン菓子製造機。このあと、爆発した。昔は、よくリヤカーひいたおじさんが、これを持って、どこからともなく住宅地に現れました。子どもがそこに群がってた。北海道だけ? http://t.co/yWLZGSIj
  • 12:39  ファーマーズキッズフェスタ参加中。各地の名産屋台、ワークショップなど。楽しい。 (@ 日比谷公園 w/ 6 others) [pic]: http://t.co/72BJoes8
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■2012/11/09 Twitter

  • 12:53  揺れますた? 研究室の本棚が揺れてるような・・・。小生の三半規管の乱れ?
  • 12:38  その解釈は、とってつけた感あるよねぇ。「とってつけ王子」って言われちゃうよ。
  • 12:11  入山先生、じっくり勉強させていただきます。感謝を込めてRT @akieiriyama ありがとうございます!ぜひご感想などおきかせください。RT 入山章栄 (著) 「世界の経営学者はいま何を考えているのか http://t.co/8GsaVJ37  [in reply to AkieIriyama]
  • 12:02  斜め読みさせていただきました。面白い。これからじっくり拝見させて頂きます>入山 章栄(@AkieIriyama) (著) 「世界の経営学者はいま何を考えているのか――知られざるビジネスの知のフロンティア」 http://t.co/RGpd2xAk
  • 09:40  【ブログ更新】学び手に、あなたの「声」は届いていますか?: http://t.co/9ylYnDDq
  • 06:34  なるほど、確かに> つまみは宅配、職場で一杯、広がる「オフィス宴会」:安い、途中参加しやすい、確実に1次会で終わる(日経)
  • 00:00  企業人材育成を「歴史的」にとらえると、少し違った見え方ができますね。「変わらない」ものなど、何一つない。そして、「永遠にゆるぎない」と思われているものが、実は、歴史に呼応して、そのつど、そのつど、歴史的つくられ、導入されたシステムであることがわかります。
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■2012/11/08 Twitter

  • 23:55  OJTが普及して、半世紀立ちました。半世紀前とは、産業のあり方も、企業の競争優位の源泉も、雇用システムも、変化しています。仕事経験が能力形成に果たす役割は大きいことは言うまでもありませんが、それでも、まだ、今までと同じ人材育成システムで、対応可能なのでしょうか。
  • 23:52  OJTが「絶対に揺るぎない普遍の教育システム」とは必ずしも言えません。「教育訓練としてのOJT」の基盤がつくられるのは戦後1940年代の企業内訓練定式化期。普及・制度化されるのは1960年代−70年代です。それは戦後の高度経済成長、工業化社会に呼応した教育システムとも言えます。
  • 17:14  体調絶不調。首・肩・腰・喉・すべてアウト、もうダメポ。でも、仕事終わらず、やってもやってもどんどんと積み上がる。久しぶりに追い込まれてるかも。すべて放りだしたい。弱音・弱気、恐縮です。
  • 15:32  「プレイフルラーニング : ワークショップの源流と学びの未来」、無事脱稿。僕の手を離れました。12月中旬刊行予定です!どうぞお楽しみに! http://t.co/ZScvcCZp
  • 08:59  僕も今朝、ひとつ書評を書きました。これも「業」です。RT @takaotakashi: 私も小さいときから読書感想文が苦手。そんな私が今、書評の原稿を書いているのはきっと業かなにかだと思います(^-^;)。 RT 読書感想文http://t.co/deRnVkeQ
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投稿者 jun : 2012年11月12日 09:58


学び手に、あなたの「声」は届いていますか?

 もう10年以上前になりますけれども、学部の時代に「からだと声」に関する演劇関連のワークショップを受講したことがあります。
 3日間くらいのワークショップで、たくさんのエクササイズから構成されていました。

 以前にも、このブログで書いた記憶もありますが、そのうち、もっとも印象に残っているのは、「声を届けるというワーク」でした。ワークはこんな感じで進みました(ビデオ撮影していたわけではないので、完全に再現できているわけではありません)。

  ▼

 今、あなたの10メートル前に、3人の参加者が、あなたには「背」を向けて座っています。
 あなたは、その3人の参加者のうち「誰かひとり」を決めて、

 「ねぇ」

 と、一人に向けて話しかけるのです。その一人の「名前」を呼んでしまってはいけません。背を向けている一人に対して、あくまで「ねぇ、ねぇ」と呼びかける。あなたに背を向けている3人のうち誰かひとりだけに「呼びかける」。

 背中から呼びかけられた3人は、そのとき考えます。「ねぇ」という呼び声を聞いて「もし自分が呼びかけられたな」と感じたら、手をあげる、というものです。

 ワークはたったこれだけ。
 シンプルなことは、よいことです。

  ▼

 このワーク、やってみると面白いもので、自分が呼びかけた人とは「違った人」が手をあげたりします。

「チミチミ、そこで、手あげないでよぉ。僕が呼びかけたのは、チミじゃないんだけどなぁ・・・」

 もっとも頻繁に起こるのは、いくら呼びかけても、誰も手をあげない、という事態です。
 つまり、「声」がなかなか届かない。
 こうなると、しまいにだんだんと焦ってきます。

「ねぇねぇ・・・・(沈黙)。ねぇねぇ・・・・(焦り)やべー」

 そのうち、だんだんと腹がたってきて(笑)、もう、ヤケクソ、ヤケのヤンパチ君になってきます。

「ねぇッねぇッ・・・・(沈黙)。ねぇったら、ねぇ。ねぇねぇねぇねぇ。オラオラオラオラ!! 何度も呼んでるんだろが、いい加減にせい!、このアホンダラ」

 という感じになってきます。ケツに火がついてます。もはや、ボーボー。
 そして、こうなると、もう「ドツボ」です。誰一人として手をあげない。つまり「声」は届かない。

 焦れば焦るほど、怒れば怒るほど、声は空中をあてなく飛び交ってしまうのです。

  ▼

 このワークには、あとにリフレクションもあります。
 呼びかけられた3人に、「呼びかけられたときに、どのような気持ちがしたかを答えてもらう」というわけです。

「なんか、声がわたしの背中の前で、ストンと落ちた感じ」

「なんか、焦っていて、みんなを怒鳴っていた感じ」

 という具合に、コメントがなされます。
 あぼーん。
 一生懸命数分間にわたって、呼びかけていただけに、結構、衝撃です。

 その上で、「呼びかける」とは何か、「声を届ける」とは何かを考えます。
 口をあけて声を出せば、声は発せられます。そのことと「他者に呼びかける」と「他者に声を届ける」は、何が違うのか・・・。「声を届ける」というメタファをもとに、「自己の他者に対するかかわりのあり方」を考えるのですね。

 シンプルなワークですが、なかなか、Deepなリフレクションに誘われます。

  ▼

 このワーク、印象深いことは印象深かったのですが、当時の僕は、そんなもんかいな、とどこかで思っていました。
 愉しかったけれど、すぐにリフレクションした内容と関連することが、僕の日常生活で起こったわけではありません。ですので、いつしか、このワークは忘却の彼方にいっていました。

 でも、今になって思い起こしてみると、このワーク、「学びを促すこと」にとって、とても本質的なことを扱っているようにも思えます。「声を届ける」というメタファをもとに「学びを促すこと」に関するリフレクションが喚起されます。

  ▼

 このことに関連して、先日、僕の授業をいろいろ見てくれている、ある方から面白い指摘を受けました。

「中原さんは、学部生に対して授業をしているときと、大学院生に対しているときと、社会人に対しているときでは、呼吸の方法、声の出し方、響き方が違う」

 とても面白いですね。思い当たるところがあるようで、ない、ないようである、ようなことですが(笑)、なかなか自分では「意識」しないことです。

 でも、ふと考えてみると、確実に「授業のやり方」は変えていることに気がつきます。
 もちろん、僕の声も、時に「中空」を「宛てなく」さまよっているかもしれません。願わくば、しっかりと学習者のところに「届く」とよいのですけれど、不肖中原、まだまだ修行中です。

  ▼

 僕が学部生に授業をするときには、「挑発し、誘う感じ」で声をだしているような気がします。人数が多いことがおおいので、ひとりひとりに声をかけようとは思っていません。
 むしろ、彼らの頭上に、「挑発の声」をなげかけているような感じが自分にはあります。その「挑発の声」が頭上で爆発し、ひとりひとりに届くかどうかはわかりません。

 学部生は、まだ学問の入り口にたったばかりです。
 彼らの常識や思い込みをまずは、揺さぶり、新たな世界に挑発し、誘おうという思いがあります。だから、エネルギーレベルは、もっとも高い状態で、学習者にいろいろな挑発をしかけている。そうすることで、何とか「届けよう」としている。

  ▼

 大学院生に対して授業をするときには、「自分の頭の中を見せる」感じで、少し「秘密を共有するようなかたち」で授業をしているつもりです。声は「あのさー、と話しかける感じ」というのでしょうか。

 彼らは学問のまっただ中にいる。学問の世界には「わからないこと」がたくさんある。僕も「わからないこと」、他の研究者も「わからないこと」を、そのまま届ける。

 だから、板書は、もっとも混沌としているはずです。エネルギーレベルは、低く、もっとも日常に近いです。手を抜いているという意味ではなく、もっとも日常に近いかたちで、同じ研究者として、ボソボソと「わからないね」と話をしている。

  ▼

 社会人に対して授業をするときは、ある一瞬までは、もっとも緊張する時間を過ごします。

「これから何をするのか」
「なぜこのことをする必要があるのか」
「どのように考え、どのように話すのか」

 という学ぶことの「位置づけ」と「ルール」をはっきり明瞭に、一人一人に向けて話します。一人でも疑問を持っているようなら、そのあとの学習をはじめないように、心がけます。

 必ず、何かを行う前には、ひとりひとりの顔を見て、「位置づけ」と「ルール」が届いているかを確認しようとします。

「これから・・・の目的で、・・・・のやり方で・・・の手続きでワークをはじめます。質問はありませんか?」

 と聞くことも、もっとも多いと思います。そして、この瞬間だけは、絶対に「ひるみ」ません。ここだけはしっかりしておく。この瞬間のエネルギーレベルは、マックス振り切れています。

 で、あとは、その場の状況にまかせます。ここから敢えて脱力します。むしろ、今度は「届ける」ではなく、社会人の声を「聞く」側に回ることに近いかもしれません。

 社会人は、すでに問題関心をもっている。なので、位置づけやルールさえ明瞭に届いていれば、あとは、自分でアドリブで授業を共同構成する主体になってくれる。

 逆にここが揺らぐと、授業への主体的参加は難しい。5年以上の経験と数多くの失敗を積み重ね、僕は、このことを、心から学びました。

  ▼

 今日のお話は、主観バリバリ火がボーボー?で、客観的にどうこうという話ではありません。

 怪しいな、眉唾だな、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
 たぶん、怪しいんでしょう(笑)。
 たぶん、眉唾ドロドロでしょう。

 人によっては、「音ってのはなー、1秒間にXメートル伝わるもんなんだ、届けるなんて、非科学的な!」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。
 ま、そういう目でみれば、非科学的なんでしょう(笑)。

 でも、しかし、おそらく「実践知」というものは、こういう曰く言い難い「メタファ」 - 例えば、声を届ける - によって構成されているような気もします。そして、このメタファが、実践家にリフレクションを迫ることもある。

 ▼

 以前ご紹介いたしました「学びの四面体モデル」ではないですけれども、学習者の性質(The nature of learners)に応じて、学びのあり方は変わりますし、当然のことながら「教授する側」や「ファシリテータ側」の「声の届け方」「発話の仕方」が変わる、というのは、たぶん、あることなのだと思います。

学びの四面体モデル:「他人に教える前」に考えておきたい4つの要素
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/08/post_1872.html

 昨日のお話ではないですけれど、私たちは、「教える」ということを、日常的に行っています。

「自分の武器」を持ち、「教えること」 : 海外で活躍するビジネスパーソンの語りから見えてくるもの
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/11/post_1895.html

「教えること」は何も学校だけでなされていることではなく、一般の企業においても、家庭においても、なされている人間的営為です

 そのとき、一歩立ち止まって、考えてみることもよいことかもしれません。

 あなたが話しかけている学び手は「誰」ですか?
 あなたの声は、相手に届いていますか?
 あなたは「誰」に声を届かせようとしていますか?

 少し立ち止まって、考えてみると、ふっと違ったものが見えてくる気もいたします。

 もし、自分の声が「中空」を漂い、「誰ひとりも手をあげてくれていないような感じ」がしたのなら、一歩立ち止まって、声を「届けること」に思いをはせても、無駄なことではないかもしれません。

 そして人生は続く
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■2012/11/08 Twitter

href="http://twitter.com/nakaharajun/statuses/266554442889973761">23:55  OJTが普及して、半世紀立ちました。半世紀前とは、産業のあり方も、企業の競争優位の源泉も、雇用システムも、変化しています。仕事経験が能力形成に果たす役割は大きいことは言うまでもありませんが、それでも、まだ、今までと同じ人材育成システムで、対応可能なのでしょうか。

  • 23:52  OJTが「絶対に揺るぎない普遍の教育システム」とは必ずしも言えません。「教育訓練としてのOJT」の基盤がつくられるのは戦後1940年代の企業内訓練定式化期。普及・制度化されるのは1960年代−70年代です。それは戦後の高度経済成長、工業化社会に呼応した教育システムとも言えます。

  • 17:14  体調絶不調。首・肩・腰・喉・すべてアウト、もうダメポ。でも、仕事終わらず、やってもやってもどんどんと積み上がる。久しぶりに追い込まれてるかも。すべて放りだしたい。弱音・弱気、恐縮です。

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  • 08:59  僕も今朝、ひとつ書評を書きました。これも「業」です。RT @takaotakashi: 私も小さいときから読書感想文が苦手。そんな私が今、書評の原稿を書いているのはきっと業かなにかだと思います(^-^;)。 RT 読書感想文http://t.co/deRnVkeQ


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    ■2012/11/07 Twitter

    • 22:03  複数の異なるコミュニティの「際(キワ)」に「いる人」は、何もせずに「そこにいられる」わけじゃないんです。「際(キワ)」に「居続けようとする努力」をしないと、その立ち位置は保てないんです。油断すると、すぐに、いろいろなものに、取り込まれちゃうよ。#nakaharalab
    • 15:43  (2)今年も20名の学生たちが、「東大発2013」の執筆にチャレンジしています。今月末から、キャンパスを出て、街に、インタビューに出向きます。今年のテーマは「働く×社会貢献」です。http://t.co/tixv9i60
    • 15:42  (1)去年の学生たちの作品は、今日まで9000件もダウンロードされたとのこと、びっくり。お読み頂いた皆様、感謝です!>「働く」をテーマにした東大学部生によるインタビュー集、電子書籍「東大発2012」をiTunes Uにて無償公開: http://t.co/UGujXNz2
    • 12:54  (4)組織側も、「新規参入してくる新人のネットワーク」をいかに管理するかが、課題になるだろう。やはり「ストラテジー」が必要。#nakaharalab
    • 12:52  (2)「新規参入者の社会化プロセス」においては、必ずしも「紐帯の接続」ばかりが起こるわけではない。社会化のプロセスにおいては、「紐帯を切断」することもおこりうる。そして、どの紐帯を切断・接合するかという戦略は、組織側でも、個人側でも、それぞれ持っている。#nakaharalab
    • 12:51  (1)「新規参入者の社会化プロセス」を、「ソーシャルネットワーク」の観点から捉える、というひとつの可能性は、「個人の周囲に広がるSNの経時的変化(接続/切断)」を反復測定することになる。論理的にはわかるが、フィージビリティ的には工夫が必要 #nakaharalab
    • 12:17  Done is better than perfect!(完璧をめざすより、終わらせろ!)。「終わった論文」が「よい論文」。バックアップは忘れずに!>大学院生諸氏 #nakaharalab
    • 11:38  大学院・中原ゼミ。参考になるかもしれません。修論では、先行研究の「羅列」を避けてください>「先行研究をまとめる5つのプロセス、陥りやすい3つの罠: http://t.co/SHDdheKv
    • 10:26  大学院・中原ゼミ(#nakaharalab)。今日の発表者は木村さん(D2)、関根さん(M2)。英語文献は吉村さん担当「組織社会化、組織参入時における社会関係資本」 http://t.co/gk8Dj36r #nakaharalab
    • 09:40  分析結果、変。あれ、シンタックス間違ったかな。。。おかしいなぁ。
    • 09:09  【ブログ更新】「自分の武器」を持ち、「教えること」 : 海外で活躍するビジネスパーソンの語りから見えてくるもの: http://t.co/mZzP7fnS
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    投稿者 jun : 2012年11月 9日 09:37


    「自分の武器」を持ち、「教えること」 : 海外で活躍するビジネスパーソンの語りから見えてくるもの

     製造業・流通小売業・ITなどの分野で、海外で活躍している日本人マネジャーの方々のヒアリングをホソボソと続けているのですが、その途上でよくビジネスパーソンの口からでてくる言葉に、「武器」という言葉と、「教える」という言葉があります。

     海外での現地人の部下を率いて、業績を達成するためには、何が必要だったか、そのエピソードを子細に聞いていくと、彼らの口からよくでてくる言葉が「武器」と「教える」なのです。
     海外でマネジメントを達成するためには「武器」と「教える」がなくてはならない、と口になさるのです。

      ▼

     すぐに、ここで「武器」とは明らかにメタファです。

     これは「自分が、仕事上のキャリアにおいて、一貫して取り組んできたことで、人並み以上に得意なこと」をさしています。ひと言でいうと、「専門性」とか「専門的業務経験」とかになるんでしょう。

     たとえば、生産管理なら生産管理、会計なら会計、広報なら広報。ジョブローテーションのある日本企業では、なかなか一貫してひとつの仕事だけに取り組むことは難しいのですが、それでも、自分のキャリアを見直したときに、人並み以上にできることで、こだわりのもてることがあるか、ないか - すなわち「武器をもっているかどうか」は、海外で仕事をする上で大切なことのように思います。

     もうひとつの「教える」とは、文字通り、「現地の部下に教える」です。じゃあ、何を「教える」のか。それは先ほどの「武器」ですね。

     「武器」を「教える」というのは、一見、変な気もしますけれども、要するにいいたいことは、「自分の得意なこと、専門性」を「コンテンツ」として現地の部下たちに提示し、それで「魅了」し、彼らを「一人前」にすることで、マネジメントするということです。

     現地の部下の立場からすると、「この人のもっている進んだ技術・ものの考え方を学びたい。この人についていけば、自分の能力が伸びると思うから、この人についていこうと思う」ということなんでしょう。決して「ポジション(役職)」についていくのではない。「この人がもたらしてくれる自分の能力・キャリア伸張への可能性についていく」ということになります。

     すなわち、海外では、「自分の武器を教えること」でマネジメントする側面が少なくない、ということです。もちろん、すべてがそれで解決するとは思いませんが、少なくとも僕の手持ちのデータからすると、そういう部分が、少なからずある。

      ▼

     そう考えると、なかなか興味深いことがいくつかわかってきます。

     まず第一に、あくまで業種・業態が限られているという制限がつきますが、「武器」という二つの概念を導入しますと「海外で活躍できる日本人の育成 - いわゆるグローバル人材育成」と、「国内での人材育成」がつながってくるのです。

     すなわち、「自分の武器」をもつためには、いくつかの業務経験を積みながら、自分の専門性やキャリアを「つくりだす」必要があります。
     また、業務経験を折りにふれて内省し、持論をまとめ、語り得るものとして保持しておく必要があります。
     これら2点は、国内の人材育成で指摘されることです。「グローバルだから」というわけではありません。「武器がない」、すなわち「国内の人材育成の機能不全」は、グローバルの問題にすぐに直結します。つまり、「国内の人材育成」の問題と、「グローバルな人材育成」の問題は、それぞれが独立している問題ではなく、結局は、つながっているということです。「グローバルな人材育成」だけを取り出して、それだけを「独立」して処方箋をつくるということは、なかなか難しいということです。
     さらにいうと、語学だけできてもダメな理由はここにあります。できるにこしたことはないですが、語学をもって「伝えるべきコンテンツ」が自らになければ、それをもってマネジメントを行うことは難しくなります。

       ▼

     第二に「教えること」ということは、何も学校・先生・教師だけに限られている「営為」なのではなく、これから「働く人」に必要になってくるスキルであるということです。

     とかく私たちは、「教えること」は誰にでもできることのように錯覚します。しかし、それは「錯覚」です。

     「教えること」は「伝えたい知識を口にすること」ではありません。「教えること」とは、「相手に情報を伝える」だけでなく、「相手に考えさせること」であり、「相手に変化をもたらすこと」であり、「相手を動かすこと」でもあるのです。しかも、相手の文化的背景やキャリアなどに配慮を行いながら、相手をしっかり見て、それを行う必要があります。

     想像してみればわかるように、それは決して容易なことではありません。特に言語も文化も違った人に、どのように伝え、考えさせ、動かすかは、一定以上の困難を想像します。

     第三に、これは大学関係者によくある認識のように思いますが、「グローバル人材育成=エリート教育=エリートの教育機関だけの問題」だという図式を、よく耳にします。
     たぶん、そういう認識の背景にあるのは、大学関係者の中に「グローバルに活躍するビジネスパーソン」の典型的イメージとして思い浮かぶものが、「地球をまたにかけ、英語の契約書をたずさえ、概念レベルの行動に複雑な交渉をするビジネスパーソンのイメージ」があるからのように、勝手気ままに邪推します。「24時間たたかえますか?」的なジャパニーズビジネスマンのイメージです。昔、そんなCMがありました。

     もちろん、上記の認識はある意味では正しいです。そういう方も少なくありません。
     そして、その指摘どおり、あたりまえのことですが、「日本国内のすべての労働者が、海外にいくわけではありません」。

     しかし、たとえば、日本企業が海外にビジネスを広げていくという場合には、国内で工場のオペレーションに精通し、そこに詳しい方、生産管理の経験を国内でつんだ方、流通の現場に詳しい方、システム開発の武器をもつ方などの、それぞれの「業務経験」がおそらく大切になってきます。
     そして、あたりまえのことですが、これらの仕事に国内で従事している方が、必ずしも全員「エリート教育機関」をへて職場に入ったわけではありません。

     すなわち、何が言いたいか、というと、おそらく「大学関係者の考えている範囲」をよりは、おそらく「一回り大きく」、日本人が海外にでて働く可能性は増えており、そのときには、国内の様々な職場で業務経験を積んだ個人が、「武器」と「教える」を携えて、海外で働く、ということです。

     少なくとも、やや短絡的な「グローバル人材育成=エリート教育=エリートの教育機関だけの問題」という図式は、やや見直す必要があるように思います。まぁ、そのことを、小生のようなペーペー大学人が、指摘したところで、「見識ある大学人」のみなさま、誰一人、歯牙にもかけないのですけれども(笑)。

      ▼

     「巷のグローバル人材育成関連の言説空間」は、いまもなお、まだ、踊っています。「グローバルに必要な個人的資質は、やれ、適応力だ、グローバルリーダーシップだ、異文化対応能力だ」といわれます。もちろん、それらも大切なことでしょう。
     しかし、そいういう「箇条書きできる概念」の内実が吟味されないまま、日々、異なった概念が生産され、消費されていくのが、この言説空間です。

     しかし、じっくりと経験者の語りに耳を傾け、彼らが「どのように現地の方々をマネジメントしていたか」を行動レベル、出来事レベル、経験レベルまでさかのぼり、子細に分析していくと、「箇条書きできる概念」ではとらえきれない、生々しいことがわかってきます。

     この研究はダイヤモンド社さんとの共同研究として取り組んでいます。定性的な評価を終え、定量的な分析が、これからしばらくはじまります。来年あたりには、いろいろなかたちで、アウトプットができるものと思っています。

    「海外で活躍できること」「海外でマネジメントを達成できること」が、マネジャーの個人的資質によるものなのか、マネジャーのキャリアや業務経験から派生するものなのか、はたまた現地の労働環境や組織レベルの要因によるものなのか、その寄与の程度を明らかにしていきたいと思います。

     そして人生は続く。 

     ---

    ■2012/11/07 Twitter

    • 23:18  (2)学会は幕張メッセでの開催、1700名の方々にご参加いただける予定があるとのことです。中原研では、現在、M1の看護士の保田さんが、新人看護士の研究をしています。どうかよろしくご指導下さい。2年後、お会いできますこと、愉しみにしております。
    • 23:18  (1)2年後の2014年・日本看護学教育学会 基調講演をお引き受けすることにしました。看護のことは全くのど素人ですが、メインテーマが「関連学問と共に発達する看護学教育」ということですので、僕でもお役に立てる可能性があるかな、と思い、お引き受けすることにいたしました。
    • 21:57  よく考えたら「とこちゃんはどこ」は、「ウォーリーをさがせ」とおんなじだよね。前者は1970年初版。後者は1987年出版。「とこちゃんはどこ」すごい。
    • 21:50  今日の寝かしつけ絵本は、「とこちゃんはどこ」です。30年前の自分が好きだった絵本です。なんか、不思議だね。自分が読んでもらった絵本を、自分の子どもに読む瞬間は。その間30年がたっているのに、一瞬のようにも感じます。お http://t.co/03Rz1VSj
    • 19:46  僕もその授業受けたいな RT @takaotakashi: 今学期の学部授業がスタート。「ワークショップの技法」には200人以上の学生が。でもワークショップ形式の授業のため選抜。学びたいと来てくれた学生を受け入れられないのは、本当に申し訳ない。
    • 19:45  高尾君、河渡ってるね。いいね。原稿楽しみにしています!@takaotakashi 比較発達社会史研究会が終わりました。私は吹奏楽教育に 近年の学習論、組織論の知見を接続するこころみについての小論を発表しました。来年には本になる予定です〜。
    • 19:42  Enjoy!@takaotakashi: 中原さんとの共著以来、数年ぶりに目前の原稿がない日々を過ごしていましたが、半年たって、また原稿を抱える日々が戻ってきました。小さいときから書くことが苦手なのですが、なんとか乗り切ろうと思います。
    • 19:34  いいね @YumiWagatsuma: 東京大学教養学部附属教養教育高度化機構 アクティブラーニング部門ニューズレター とてもわかりやすくActiveLearningについて学べると思います。 http://t.co/FkmuetA8
    • 19:13  大学ー大手町ー大学ー大手町。今日は移動が多いなぁ。
    • 17:20  舘野君がポスターに、笑 RT@tatthiy: ちょw RT @HiromochiKimura: 私も昨日思わず写真を @S_Hemmi04: まさかの東京学芸大学の生協前で http://t.co/wnmsBKKD
    • 12:09  読了。興味深く読めました。こんなに「仕事」や「職場」に関するマンガってあるんですね>梅崎修(2011)「仕事マンガ!」 http://t.co/A0iRUD1S
    • 10:43  【ブログ更新】読書感想文とは、いったい「何」で、どのように書いたらよいのか?: http://t.co/deRnVkeQ
    • 08:01  企業事例など多数>「ミドルマネジャーをめぐる現状課題と求められる対応」(経団連): http://t.co/O04KkxDK
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    投稿者 jun : 2012年11月 7日 09:02


    読書感想文とは、いったい「何」で、どのように書いたらよいのか?

     以前にも話題にしたことがあるような気がしますが、子ども時代の僕が、もっとも苦手だったもののひとつに「読書感想文」があります。その他にも、絵とか、鉄棒とか、たくさん苦手なものがあるのですけど、読書感想文は苦手だった。
     というか、そもそもを申しますと「作文」自体がめっぽう苦手で、その中でも、特に苦手だったのが「読書感想文」でした。不肖、中原、「暗い過去」です(笑)。書き出しの1文字すら書けないんだよ〜オーノー。

       ▼

     今から考えてみますと「読書感想文」というものが、そもそも「何」で、「何を期待されている文章」なのかが、そもそもわからなかったような気がします。オヤジやオフクロにきいても、「はてね?」という感じだった。
     国語教育は専門ではありませんので、今もわかっている自信は全くないのですけれども、当時は、今よりもさらにわからなかった(笑)。やっぱ、今もわかんないかな・・・(自信なし)。

    「オマエ、アホか、と・・・本を読んで、自分の思ったこと(感想)を書くのが、読書感想文で期待されていることだろ」

     と言われれば、全くそのとおり(笑)なのですけれども、それはトートロジー(同語反復)ですよね、ほとんど。だって「読書して感想を書くのが読書感想文だ」と言っているのですから。
     敢えて、皆さんに、ひとつの問いを提示させていただくとして、上記のようなトートロジーにならず、「読書感想文とは何か?」を、子どもにもわかるように説明するとしたら、皆さんでしたら、なんと説明できますか? これ、なかなか簡単なようでいて、答えるのが難しいな、と思いませんか。

     僕の場合は、読書感想文が「何たるか」もそうなんですが、特に、「なぜ、何のために、僕が読書した感想を書かなければならないのか」そもそも「誰に対して書かなければならないのか」がわかりませんでした。
     だから、僕の読書感想文は、いつもこんな感じでした。

    「アルプスの少女、ハイジ」を読んで

     ハイジは・・・を食べました。
     僕はおいしそうだなと思いました
     ペーターは、ハイジに・・・をしてあげました。
     僕はえらいと思いました
       ・
       ・
       ・
     そして、クララは立ちました。
     僕は感動しました。
     おしまい

     なかはらじゅん

      
     我ながら、ひどいね、暗い過去です(笑)。
     しかし、そんな読書感想文を繰り返し書いているうちに、僕は「文章を書くこと」から少しずつ離れていきました。そして、夏休みで宿題に読書感想文が出されるたびに「憂鬱」になりました。書けなくて、書けなくて、書き出し1文字すら書けなくて。しまいには、シビレを切らしたオカンがいうとおり、原稿用紙を埋めた記憶もあるような、ないような、あるような、ないような(笑)。

       ・
       ・
       ・

     今になって考えてみれば、これがもし仮に「自分が読んだ面白い本を友達におすすめする文章を書いてよ」と言われたら、少しはわかる気がすしますし、もうちょっと気楽にかけた気がするのです。まぁ、相変わらず苦手だったでしょうけれど、でも、「少しはまし」だった気もする。

     「おすすめ書籍紹介文」という場合には「面白いから読んでみて、とおすすめする」という「目的」と、「友達」という「宛先」があるからです。
    「宛先」の人の興味関心にあったかたちで、それにひきつけて、思わず手に取ってしまうように書くことができるのかもしれませんね。

     ▼

     この話は後日談があって、いつでしたか、かなり大人になってから、あるとき、「読書感想文が得意だったというある方」に、同じような話をしたら、こんな内容の趣旨のことを教えてもらいました。

     読書感想文? あのね、「評価される読書感想文」には、フォーマットがあるの。中原君、知らないの?

     読書感想文は、読書したことの感想を書いちゃ「だめ」なんだよ。あれは、「読書」をきっかけにした「経験文」なの。「自分の経験紹介と、その意味づけを先生に示す文章」なんだから。

     書き方はサンドイッチにすればいいの。

     はい、まず数行で、本の紹介をする。読書の部分はそれでいいの。その後は、ひたすら、その本の内容に「ゆるく関連した」自分の出来事や経験を、それを知らない先生に対して書く。それに対する自分なりの意味づけも忘れない。

     最後のオチは、本に戻る。自分の経験に関連した内容で、本に書いてある印象深い一節を引用して終わる。

     読書感想文は「読書の感想」なんか書いちゃだめなの。メインのコンテンツは、自分の経験紹介なんだから。

     ほほー。
     僕は、思わず「ハニワ顔」になりました。
     そんな「裏技」があったとは。。。
     さすがは「都会の学校出」は違うな、と。
     北海道では、そんな「裏技」は伝わってこなかったぞ、と。
     はやく教えてけれ、と。

     ま、それを知っていたからといって、当時の僕が、文章を書けた気は1ミリもしないけど(笑)やっぱ、ダメじゃん。
     
     もちろん、この方のおっしゃる読書感想文が、読書感想文なのか、どうなのか僕は知りませんし、また、このフォーマット?裏技が、教育上よいことなのか、悪いことかも判断できません。

     でも、「読書」という行為をきっかけに「先生の知らない、自分の経験」を「先生」に対してさりげなく書く」ということが読書感想文だというのなら、先ほどよりは「目的」や「宛先」は明確であるような気もします。それが国語教育の観点からどのように評価しえるかはまた別の問題として、何となくこの方のおっしゃるところ趣旨は理解できます。もちろん、その文章を、書きたいか、書きたくないかは、さらに別の問題ですけれども。
     
      ▼
     
     今日は、読書感想文について、「主観バリバリ」に書きました。全く専門分野ではないので、詳しい議論は知りません。かつ責任はもてません。トンチンカンなことを言っている可能性1000%ですが、どうかお許し下さい。
     もしかすると、当時、学校の先生は、読書感想文が何たるかについて、しっかり教えてくれたんだと思いますが、小生、物覚えが悪く、忘れてしまったのかもしれません。

     でも、いまだに、「読書感想文」という5文字には「トラウマ」があります。この5文字を目にするたびに、「ひょえー、くわばらくわばら」となってしまう。
     たとえば、万が一、ブログで「読書感想文を書いて」と言われたら、僕は、まだ書けないんじゃないだろうか、とも思います。

     思わず30年前に立ち返り・・・

     そして、クララは立ちました。
     僕は感動しました。
     
     と綴っちゃうような気がして、どうにも怖いですね。
     我が人生、どうにも進歩がないね、全く(笑)。

      ---

    ■2012/11/06 Twitter

    • 17:48  人はただ「特殊な諸項目」を学習するだけではない。その学習によって、「学習のしかた」を学習しているのだ(Bruner, J.)
    • 14:59  【ブログ更新】新人を素早く一人前にするために・・・変わるリクルーティング!? : 選択手段としての「オンライン学習コースウェア」: http://t.co/1UQtXYHs
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    投稿者 jun : 2012年11月 6日 10:36


    素早く若手を一人前にするために・・・変わるリクルーティング!? : 採用手段としての「オンライン学習コースウェア」

     先日、大学院・中原ゼミで、「社会化」に関するレビュー論文を読みました(木村充君 担当)。

     社会化(Socialization)には、いろいろな定義がありますが、ここでは「仕事に必要な"知識"や"スキル"を獲得し、仕事のメンバーと溶け込むこと」とお考えください。

     一番わかりやすい例をあげれば、どこの組織でも4月春頃に実施される「新人研修」を思い浮かべていただければいいでしょう。
     新人研修で行われるように、「仕事をしてもらうために必要なことを、きちんと教え、組織の人になってもらうこと」。これを、ここでは「社会化」と考えてください。

     ゼミでは、Ashforthさん(この方は、組織社会化の研究者としてもっとも引用される方のひとりですね)という方のお書きになった最新のレビュー論文を読みました。

     その文献曰く、

    「従来の組織では、社会化に長期間の時間をかけることができたが、現代のように、組織が頻繁に再編されたり、雇用が流動化される時代にあっては、社会化そのものが短期間化・迅速化する」

     とのことでした。

     文献では、この「迅速化した社会化」のありようを、「Swift Socialization(素早い社会化)」という概念で把握していました。

      ▼

     ここで少しこの「Swift」について考えてみましょう。

     少し考えればわかることですが、いくら社会化に「Swiftであること(素早さ)」が求められるといっても、それを「教育方法としての工夫の範疇」で行うには「限度」があることが、まず容易に予想できます。
     仮にたとえば、今まで5時間で教えていたことを、1時間に短縮することには、限度があるでしょう。5時間で教えていたものを1時間に短縮することは、教える範囲の限定か、ないしは、全般的な質的低下をもたらすことが容易に想像できます。どんなものでも一発でしとめる「シルバービュレット」がないように、この世の中には「魔法の教え方」があるわけではありません。

     ということは、「Swift Socializationが進行する」ということの果てには、いくつかの「可能性」が開かれます。ただし、ここでいう「可能性」とは、常にポジティブではないことに注意してください。

      ▼

     最も予想される、ひとつの「あまり好ましくない方向にひらかれた可能性」は、「仕事を細分化し、SwiftにSocializationできる範囲内の仕事しか一人にはまかせない」ということです。

     簡単にいうと「本当はひとりの人に5時間かけて教えるべき仕事を、5人分の仕事に細分化して、1人には1時間で教えるということです」です。これは - わたしは労働経済学は門外漢ですが - おそらく、「果てしない仕事の細分化」と「労働の非正規化」をもたらすような気がします。
     そして、この種の仕事には、「仕事を通じた成長」は、あまり期待できませんので、「仕事をする個人」にとっても、「望ましい未来」が開けているようには、あまり感じません。

     もうひとつの可能性は、

    「本当は5時間かかる社会化の時間のうち、4時間をすでに組織"外"で学習をしている人を採用するということ」

     ないしは

    「5時間を1時間で学ぶことのできる、強靱な自主学習能力をもつ人を採用すること」

     です。わかりやすくするために、敢えて極端に書いてますよ。「5時間のうち4時間を組織外で学ぶ」とか「5時間を1時間で学ぶ」というところの詳細については、つっこまないように。あくまで「思考実験」です。
     
     ここで行われていることは、要するに「社会化」プロセスにおける教育上の工夫には限界があるので「採用・選択」を工夫する、ということですね。少し人事の感のある方なら、「Swift Socialization」に影響を与える最も大きな因子は「誰を採用するか」「誰を選択するか」であることに気づかれるでしょう。

     もともと「筋の悪い人」を採用して、多大なコストをかけて社会化を行うよりは、「筋のいい人」を採用して、少ないコストで社会化を行った方がよいことになります。この意味では、社会化研究のスコープは、「採用・選択を科学する」ということにまで伸びていくものと思われます。

     そして、ここからが「問題」です。「誰を採用するか」「誰を選択するか」という問題は、ひとつのアポリアをわたしたちに投げかけます。

     ひと言でいうと、

    「どうやって見抜けるの?」

     要するに、

    「どのような資質をもった個人なのかを、実現可能性の高いかたちで、どのように見分けることができるのか?」

     という難問ですね。

     つまりは「1時間分しか組織内で教える必要がない、8割がた組織外で完成された個人」と「強靱な自主学習能力をもつ個人」をどのように見分けることが可能か?ということですね。
     これらは面接ではなかなか見抜くことは難しいことが容易に予想されますね。それでは、何によって、これを見抜くか・・・。

      ▼

    「想像力」というか、メンバー全員の(?)ないしは小生の(!?)「妄想力」が著しい激しい「中原ゼミ」では、先日、このことが「熱い議論」になりました。下記、それをお話ししますが、「学問的な裏付けがある話」ではないので、あまり真に受けないように。

     議論では、いろいろな意見がでましたが、もっとも可能性があると考えられたのは、「オンラインテストなどを実装し、学習履歴・進捗データを蓄積できる学習コースウェア」がひとつのありうる解だろうな、ということになりました。面接で「自己報告される言語データ」を用いるのではなく、日々の学習行動、テストへの反応などのデータを逐一記録して、そこから「Swift Socialization可能な個人を特定していく」ということです。
     さらにいうと、これが「英語を言語で行われるオープンエデュケ−ション」という理念のもとで公開されているなら、なお、よろしい。

     つまりこういうことです。
     すなわち

    「学習履歴・進捗データを蓄積できる学習コースウェアで、多くの人々が学び、テストを適宜受ける。そのときの学習データや評価データなどのビックデータ、もし逐一データベースに記録されていれば、上記の2点を判別する仕掛けをつくることができるかもしれない」

     ということですね。「英語を言語としたオープンエデュケーションなら、なおよろしい」というのは、「多くの学習者がそこに集まりやすい」からですね。また、「理念の美しさ」をもって、あとで述べますが、ビジネスモデルを「一見、見えなくできる」からであり、からです(それがオープンエデュケーションの理念やあり方を歪める可能性があることは承知して、このことを述べています)。

     しかし、こういう仕組みがあれば、もしかすると、こんなことが、できるかもしれない。
     大人数の大規模な学習データ・学習データをもつ企業が、企業の人事や経営に、学習データを分析し、適切な個人を特定して、人を採用したい企業に、その情報を売り渡せば、Swift Socializationが可能になるかもしれない。もちろん、個人に許諾をとる必要があります。しかし、逆にいうと、許諾を得てしまえば、その情報をいかようにも加工して、リクルーティングに役立てることができる。

     つまり、「外向き」には「誰もが平等に学ぶことのできるオープンエデュケーションの学習サイト」として位置づけ、マネタイズの部分は「BtoBにおけるリクルーティング支援」で実現する。
     こうしたことが、今後、今よりも一般的になるのではないか、ということでした。オープンエデュケーションを専門になさっているゼミメンバーによると、すでに一部の企業では、こうしたビジネスモデルを既に採用していたり、これに目をつけているところもあるとのことでした。

     もちろん、現段階では、こうしたサイトが「Work(きちんと動くかどうか)」はわかりません。上記は、何の検証も経ていない「夢物語(大ボラ)」です、
     この実現のためには、様々なアルゴリズムを構築する必要がありますし、何よりも、ある程度のマスの母集団が常に、そのサイトで学び続けることが必要になります。
     また、これによって、判別可能なのは、比較的狭い領域の知識で、体系化されているものだけです。すべての領域において、このモデルが有効である、というわけではないでしょう。
     また、ここでご紹介した案は、内部労働市場(企業内部でジョブローテーションを通じて熟達していく)が優勢な日本企業ではピンとこないのかもしれません。しかし、専門性やスキルを、そのつど企業外部の労働市場で調達するという、いわゆる「外部労働市場」が発達した国においては、日本以上に、このアイデアは「ピン」とくることのように思います。「面接」などの方法以外に、アプリカントの能力を正確に把握・測定する手段があり、短期的であれ「労働力」を調達できればOKという国であれば、ここで述べることは、さらに説得力があるように感じます。

     たとえば、「プログラミング」のような体系的知識が明示化され、さらには学習者のマスの母集団が確保されそうな領域などにおいては、こうした学習コースをつくり、多くの人々が学ぶ環境ができれば、上記のようなリクルーティング診断ができ(そう?)な気もしてきます(わたしはプログラミングも門外漢なので、妄想ベースですが・・・)。それは「短い時間の面接」よりも、さらに豊富な情報を採用担当者に提供できるのではないでしょうか。

    「外向き」には「学習コース」として「みせて」、その実際は「大人数の学習者の、日々の学習データ・行動データの蓄積から、リクルーティングに必要なデータを種収支、分析する」というところがビジネス的には、ミソかな、と思います。

      ▼

     しかし、もし仮に、さらに「妄想爆裂」で、こうしたことが可能になった場合、働く個人は、働く上で、また生きていく上で、どのような選択をすることができるでしょうか。

     まず真っ先に思いつくのは、「この学習コースで学び、よい成績をあげ、よいパフォーマンスを提示し、就職する」という「正攻法ともいえる選択肢」です。しかし、この選択肢で生きていくためには、常に、激しいグローバルレベルの競争環境に自ら身をおく覚悟が必要である気もします。

     自分の専門性が「体系化可能な学習コース」として学ぶことができ、「体系化した能力尺度」「明示的なスペック」として客観的に把握・測定可能であることは、そこには必然的に「競争」が生まれ、「市場」「価格競争」が生じる可能性がある、ということです。

     もうひとつの生き方は、自分の専門性を「体系化可能な学習コース」として学べなく、かつ、「客観的には把握不可能なもの」として、付加価値をつけ、伸ばしていくやりかたです。
     そうした領域は、大変「ニッチ」です。そこには「市場」が所与にあるわけではありません。ということは、最大の課題は、自分の顧客を見つけることです。必然的に、自分を自らマーケティングし、自ら「市場」をつくりだしていく努力が求められます。

     上記2つの生き方は、「妄想爆裂の思考実験」ですが、確実にいえることは、「どちらにしても、このような時代にあっては、努力は必要である」ということです。「どこでどのような努力をするか」を考えていくかがポイントになるのかもしれません。
     もちろん、どういう働き方をするか、どういう生き方をするかに「正解」はありません。

     自分が、どう動くかが問われているだけです。

      ▼

     今日は「Swift Socialization」の話題から、だいぶ、最後の方は話題を離れて、妄想力爆裂でお話しました。

     僕の専門とする「経営学習論(Managamenet Learning)」という学際的研究領域は、たったひとつの概念から、今後、世界がどのように変わるか、そのような世界にあって、「個人としていかに生きるか?」「組織に個人がいかに付き合うか?」ということが、最後に話題になることが多いような気がします。 
     もちろん、いつもは、もっと概念レベルの話をしたり、テクニカルな研究方法論についても議論するのですが、議論をしている最中、ふとした瞬間に、「自分がどう生きるか」が話題になってくることが少なくありません。

     この学問、「いまだ会社・組織で働いたことのない学部学生さんには一見とっつきにくいのですが、実は、「皆がこれから経験すること」自体がコンテンツなのです。だって、「企業に入って、ミドルとしての経験をつみ、様々な諸外国や諸法人に出向いたり、あるいは、経営者になる」。そういうプロセスそのものが研究対象なのですから。
     ですので、学部などで授業をするときに、僕は「経営学習論は、みんなが将来ぶちあがる課題を考える学問なんだよ」と繰り返し述べております。手前味噌で大変恐縮ですが、「研究的問い」が、このように「自分に突き刺さってくる」という意味で、面白い研究領域だと思っています。

     というわけで、今日は、Swift Socializationにからむ、ゼミの議論の話でした。
     そして人生は続く。

     ---

    ■2012/11/04 Twitter

    • 10:53  TAKUZOプール教室。鬼のいぬまにプレゼンづくり。
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    投稿者 jun : 2012年11月 5日 14:32


    子育てとは「さよならの連続」である : ディヴィッド・ギルモア著「父と息子のフィルム・クラブ」を読んだ!

    もう学校に行きたくない!

     愛するティーンエイジャーの息子に、もし、あなたが、こう言われたとしたら、あなたはなんと答えるだろうか。ディヴィッド・ギルモア著「父と息子のフィルム・クラブ」を読んだ。
     この本は、ジャーナリストでもあったギルモアが、学校に行かないと宣言した息子と、いくつかの約束をしたうえで、学校に行かせず、過ごした数年をつづった本。


     ギルモアが「学校に行かなくてもよい」ということで、息子にしめした条件は、下記の2つ。

    「ただし、条件がある。学校をやめても、おまえは働かなくてもいい。 / しかし、いいかい、麻薬は絶対に禁止だ。もし麻薬をやったら、この取引は破棄するぞ。」

     そして、もうひとつの条件は、


    「これから、週に3本、映画を一緒に見て欲しいんだよ。見る映画はわたしが選ぶ。それが、これからおまえがうける唯一の教育だ」

     かくして「父と息子のフィルムクラブ」がはじまった。

      ▼

    「同じ映画を見て、語る」ということは、単に「見ること」「語ること」だけに終わらない。映画を見て語れば、自分の内部にある価値観や感情が、意図しようとしまいとにかかわらず、外化される。

    「だれかに映画を推薦するのは、大きな危険をともなう行為である。ある意味で、それはだれかに手紙をしたためるとの同じく、自分の内面を露わにする行為なのだから。それは自分の思考法を示し、自分がどういうことに感動するかを示すわけだし、ときには、自分が世間にどう見られているかを示すことすらある」

     かくして、フィルムクラブは、父と息子の内面の語りの場となる。息子のみならず、ギルモア自身も、当時、仕事で行き詰まり、ケアを必要としていた。フィルムクラブは、どちらか片方のために存在していたわけではない。両者にとって必要な場であった。

     ギルモアがときに息子に行うアドバイスは、ときに刺激的である。

    「今、つきあっているボーイフレンドに、そういう仕打ちをする女性は、新しいボーイフレンドにも、そういう仕打ちをするだろう」

    「この宇宙には、不滅の原理ってやつが2つあってね / その一、馬鹿なヤツとつきあって、得することは何一つない。その二、未知らぬ人間が握手を求めて近寄ってきても、友人になりたがっているわけではない」

    「流血とともにはじまった恋は流血とともに終わるものなのさ」

       ・
       ・
       ・
     
     結局、年月は流れ、音もなく、そして突然に「フィルムクラブ」はおわる。息子ジェシーがフィルムクラブを「卒業」したのだ。どのように「卒業」したのかは、実際に本を手に取ってみて欲しい。

     個人的には、

    子育てとは「さよならの連続」である。まずオムツに別れを告げ、ついで、ベビー服に別れを告げ、そして最後には子ども自身に「別れを告げる」

     ということばが、印象的であった。

     微笑ましく、ハートフルでいて、どこか切ないお話であった。
     そして人生は続く。

     ---

    ■2012/11/02 Twitter

    • 19:35  RT @ezaguri: 二者択一でなく、双方が歩みよるスタンス?の追求でしか人事成果は出していけないんだろうな、と思いました→人は「育てる」のか、それとも、「人は勝手に育つ」のか!? http://t.co/JXIJpdqD
    • 18:10  保育園のお迎えチャリが、キツイ時期になってきました。手がかじかむ・・・。シバれるねぇ・・・ブルブル。
    • 15:32  【ブログ更新】人は「育てる」のか、それとも、「人は勝手に育つ」のか!?: http://t.co/cvOKElQo
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    投稿者 jun : 2012年11月 3日 08:08


    人は「育てる」のか、それとも、「人は勝手に育つ」のか!?

     人材マネジメント業界?、人材育成業界!?(そんな業界あるの?)でよく聞かれる、典型的、かつ、象徴的な「二分法(ダイコトミー)」は、これです。

     人は「育てる」のか、「育つ」のか?
     どっちなんだ、オラオラ?

     たぶん、今までこの10年で、僕は「3万6000回」くらい、この問いを耳にしてきました(笑)。
     居酒屋で、口角泡をとばして議論している様子も耳にしました。
     コンセプトをねりあげる会議で、これが議題として持ち出されることもありました。自分の経験を、涙ながらに語る人にも出会いました。
     人々を魅了してやまないのが、この「育てる or 育つ」のダイコトミーです。

     大人なのに「育てる」のか、「大人は勝手に育つ」のか?
     どっちなんだ、オラオラ?

       ▼

     もちろん、圧倒的に人々がロマンティシズムを感じるのは、「後者」です。ひとことでいえば、前者は「ぬるく」感じる(笑)。特に「遠い昔に熟達し終わった人」は、こういう二者択一の問いを聞くと、"大人になって、甘えてんじゃねー"と、つい言いたくなる。

    「大人なんだから、勝手に背中みて、育て、このタコ!」
    「勝手に自分で育つのが、大人というものでしょう」

     というわけです。

     話をもとに戻して、この問いに対して、みなさんなら、どのように答えますか? 人は「育てる」のか、「育つ」のでしょうか?

     僕の答えは、明確に決まっています。
     
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・

     それは「この問い自体がナンセンス」です(笑)。
     ズルイ!と言われるかもしれませんが、「提示された問い」に対して、つねに従順に答えをださなければならない法はありません。
     これは「愚問」です。
     「育てる」のか「育つ」のか、ふたつのうちのどちらかを答えるのではなくて、むしろ「これは愚問です」と答えなければならない。

     むしろ、この「二分法的な問い」に思考を絡め取られ、人材開発や人材マネジメントの方向性やを「あれか、それか」の「極」にふってはいけない、と思います。
    「星一徹のちゃぶ台がえし」?に近いかもしれませんが、これが僕の結論であり、近年の研究知見は、それを指示しています。

    chabudai_gaeshi.jpg

    (うまく描けませんでした・・・しかも描いている最中に、TAKUZOに「パパ何かいてるの」と、たずねられ、答えに窮してしまいました。自己嫌悪です。なにやってんだろ、オレ・・・)

      ▼

     例えば、近年、よく引用される「統合モデル」とよばれるモデルは、「組織側(外部)からの働きかけ」があってはじめて、社会化される人々の能動性が駆動すること」を明らかにしています。その上で「組織側からの働きかけ」と「人の能動的な学習」は交互作用(シナジーをうみだし)、学習を促進する、ということです。
     つまり、こういうことです。
    「育てる努力」があってこそ、「育つ」ということになりますね。

     一方で、全く逆から、すなわち「育つ側」の研究知見も見てみましょう。
     たとえば、経験からの学習パラダイムにのった実証研究では、「挑戦を発揮し、経験から学ぶこと(つまり、勝手に自分で育つこと)」を実現するには、当人がどのような職場にいるかに依存することを明らかにしています。

     すなわち、「組織側に十分な人のつながりがあり、セーフティネットがある場合、さらには挑戦したとしても、自分の存在自体がおびやかされない風土が確立している場」において、人は、「自ら育つ」のです。

     そして、「自らを育もうとする人」を目の前に、他者は「支援」を差しのばすことが明らかになっています、すなわち「自ら伸びようと思う人を、人は育てます」。
     育成機会は、常に均等に配分されているわけではありません。リソースも限られている中で、人は自らの育成資源(時間的資源)を、伸びようとする個人に配分します。というか、「自ら伸びようと思わない人」に支援を差し出すほど、暇な人はいません。

     要するに「育てる-育つ」は相補的な関係にあるのであって、いずれかを独立して考えることはできない、ということになります。
     だから、「問い自体がナンセンス」「どちらか一方の結論を得ることを目的に考えるだけ時間の無駄」ということになります。

      ▼

     以上、述べてきましたように、

     人は「育てる」のか、「育つ」のか?
     
     という問いは、問い自体がナンセンスだと僕は思います。

     特に、最悪の場合、後者の「人は勝手に育つ」という言説は有害ですらあります。後者が思慮なく支持される事態は「若い人 / 新規参入者への教育投資を抑制し、酷使する職場」を生み出しかねません。
     すなわち、最悪の場合、後者の「人は勝手に育つ」は「人材育成に対する投資を過度に抑制することを裏打ちする言説」として機能するのです。

     すなわち、

    「大人は勝手に育つものなんだから、投資はしなくてもいい。放置しててもできないのは、若い奴が悪い。たとえ、放置して、できなかった場合には、使い捨てにして、何が悪い」

     といった具合です。
     ブラックだね、、、全く笑えません。

      ▼

     一般に「育つ」という言葉の背景には、実は、もうひとつ「隠された次元」があります。

     それは、ビジネスパーソンが「育つ」という言葉を用いる場合、それは「(組織の戦略や目標に合致したかたちで)育つ」ということを前提にして議論していることです。
    「育つ」といっても「個人で勝手気ままに、あっちゃこっちゃ、育たれては困るわけ」です。「個人で勝手気ままに、あっちゃこっちゃ、育つこと」でよいならば、話は簡単なのかもしれませんが、それじゃ、困る。「組織目標や戦略」に適合して、育ってくれなきゃ、困る。「本人の伸びのベクトル」が、「組織の求めるベクトル」と一致して、はじめて「育つ」といわれるわけですね。

     もし、仮に、それを望むのであるならば・・・つまり「育つ」ということが、組織の目標や戦略に「合致した」方向で生起してほしいのであれば、還元すれば、人々の行動や認知を「組織望ましい方向」に秩序化したいのであれば、やはり「育てる努力(それを是正する努力)」を必要とする、ということになります。
     個体とコミュニケーションをとり、組織の目標や戦略を伝え、理解させ、場合によって、フィードバックをかける必要があります。要するに、「育てる」必要があるということですね。そして、はじめて「育つ」。逆にいうと「組織の目標や戦略」も「曖昧」で、理解させることにも「不得手」で、フィードバックもないような場所で、「育つ」も、くそも、へったくれもないということです。

     以上、「育つ - 育てる」の「二分法的問い」のお話しでした。

     結局、以前にも述べたような気がしますが、「ヒト」のかかわる世界において、何らかの「二分法」が提示されたら、特に用心が必要です。
     それは答えをだすまえに、一歩立ち止まって、考える必要があるように思います。

     「ORの発想」ではなく、「ANDの思考」

     とは、よく言われることばですが、特に「ヒトのかかわる世界」には、「二分法的問い」は、あまり有効であることはないようにも思います。

     これで今週はおしまいです。
     それでは、みなさん、素敵な週末を!

     --- 

    ■2012/11/03 Twitter

    • 18:23  TAKUZO、インフルエンザ予防接種1回目終了。小生も打ちました。子どもはあともう一回あるね。
    • 18:21  今、NHKでやってる「寝相アート」、かわいい。 http://t.co/j5LhUNwJ
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    追伸.
     たまたま筆ペンを手にしたので、ひとつ書いてみました。意味はあまりないんです(笑)。特に、今日の記事とは1ミリも関係ありません。

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    投稿者 jun : 2012年11月 2日 15:27


    シリアス・ファン(Serious Fan)な研修をめざして:「研修参加者の満足度」という指標を考える

     昨日のブログ記事には、たくさんの方からメールやメッセージをいただきました。昨日の話の要点は、「研修評価、イコール、研修参加者の満足度と短絡的に考えてしまうことは残念な結果を生み出しやすい」ということでしたが、みなさま、いかが思われたでしょうか。

     こう、僕が、敢えて述べた背景には、

    1)「研修参加者の満足度」が、研修評価指標の一指標であるにもかかわらず独り歩きし、その他の指標を探すことがあまり行われないこと

    2)研修が組織目標・戦略に合致して実施されるならば、ロジカルには、KPIの設定は、あくまで、それに類するものに設定されるべきであること

    3)「研修参加者の満足度」は、実際はクラスの内部で、操作しやすい側面をもっていること

     などに「危惧」を感じたからです。

     もちろんこういったかたらといって、僕は

    「研修参加者の満足度は必要ない」
    「研修では、参加者をひーひー言わせればいい」
    「講師・ファシリテーターは研修参加者の満足度なんて見なくて良い」

     ということを言いたいわけでは断じてありません。
     つまり「研修参加者の満足度」を過剰に退けたり、その必要性や利用可能性をおとしめているわけではありません。

     学習研究には「シリアス・ファン(Serious Fan)」「ハード・ファン(Hard fun)」という言葉があります。日本語にすれば「ガチ・真面目に、知的に愉しい!?」くらいになるのでしょうか? 「知的真剣勝負」と訳すこともできますが、まぁ、適訳はあとで、また考えるのだとして、せっかくコストをかけて研修実施するのだから(あらゆる学習にはコストが付随します)、こういう時間を過ごすことが、とても大切なことだと思います。
     もし、そういう時間をつくることができたのだとしたら、たとえ研修やワークショップの内容が「シリアス」で「ハード」であったとしても、人は充実感を感じ、満足を憶えるものなのではないか、と思います。

     ふりかえって考えてみると「シリアス・ファン(Serious Fan)」「ハード・ファン(Hard fun)」という言葉は、本来、オキシモロン(形容矛盾)です。なぜなら、「シリアス」や「ハード」という言葉と、「ファン」という言葉は、一見、反対語のようであり、「ひとつの言葉」として結びつかないように感じるからです。しかし、この「形容矛盾」にこそ、研修やワークショップがめざすべきものがあるような気が僕はしています。

      ▼

    「研修参加者の満足度」を思慮なく過剰に利用することの、もっとも憂慮すべき事態は、「研修参加者の満足度が下がること」を気にして、学習内容に「歪み」がでてくることではないか、と思います。

    1.研修参加者の満足度が下がることを恐れて、「本来、耳が痛くても言わなければならないこと」「本来、扱わなければならないこと」を避ける傾向が生まれる

    2.「研修参加者をモヤモヤさせる」よりは「すっきりさせた方」が研修参加者の満足度が「上がる」ので、「唯一絶対の答え=これだけやっておけばすべて成功する的な、もっともらしい命題」をポイントをしぼって教えてしまう。つまりは「考えさせない」。受動的に「答え」を受け入れる「入れ物」のように学習者を取り扱ってしまう

    3.研修提供側と研修参加者のあいだに、最悪の場合、「共犯関係」が成立する。提供側は「学習内容」とは関係ない「軽妙な笑い」をまぜたり、元気のよい爽快なファシリテーション」さえすれば、評価があがるので、ますますそうする。研修参加者は、「研修満足度」という指標をたてにとり、ますます学習から逃避する

     などでしょうか。

     きのうの繰り返しになりますが、「研修参加者の満足度」というものは、外的に、かつ、表面的に操作・介入するのがもっとも簡単な指標です。だって、おもしろ、おかしく、やればいいから(それもスキルのいることですが、笑)。

     つまり、「研修参加者の満足度」を過剰に重視した研修のあり方とは、教育のサプライサイドにとって、「もっとも都合のよい状況」をつくってしまうことになります。

    (ちなみに、もっというのならば、研修参加者の満足度は、研修を取り仕切る側(たとえば人事・人材開発側)にとっても都合がよい指標です。なぜなら、それは「教授」や「ファシリテーション」の工夫だけで、操作可能だからであり、それによって、研修を取り仕切る側の評価も確定してしまうからです。もし、仮に指標が、"組織目標や戦略に対する貢献に近い指標"であればあるほど、なかなか操作・介入を行うことが難しくなります。先ほどの文章にさらに加筆するのだとしたら、研修参加者の満足度とは「研修参加者 - 研修提供者 - 研修設定者の共犯関係」が成立させることにも寄与する指標ともなりえるのです)

     ▼

     先週、僕はブログで戦後を代表する国語教師の「大村はま」さんの言葉をいくつか、ご紹介しました。むろん、国語の授業と、組織の研修が同じ事はないですが、そのピリリとした言葉からは、今日のブログと昨日のブログで論じたことに近いものを感じます。

    "考えるということを本気でさせた人"が一番えらい!?:「優劣のかなたに - 遺された60のことば」を読んだ!
    http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/10/_-_60.html

    教室でわたしは生徒をかわいいと思ったことなどない。 / かわいいか、かわいくないか、それどころではない。力をつけることで、精一杯でした(大村はま)

    子どもに考えさせるということをした人が、いちばん教師としてすぐれている。できるようになったか、ならなかったかは、どっちでもよろしい。けれども、考えるということをさせた事実  - "考えなさいといった人"ではなくて、"考えるということを本気でさせた人"が一番えらい/(大村はま)

     学びの現場には、「力をつけること」がやはり大切だと思います。そして、それは、たとえ「挑戦を含む内容」であっても、しっかりと向き合い、自分の頭で考えることから可能になります。

     もちろん、この場合の「力」とは、企業・組織によって変わるとは思いますが、「研修参加者の満足度やご機嫌」を重視するあまり、本来、扱わなければならないことを避けてしまうのは、やはり本末転倒ではないか、と感じます。

     大村さんのことばは、私たちにピリリと刺さり、背中に緊張感が漂う一方で、優しさにも満ちています。

     ピリリとした優しさ

     なぜかはわかりませんが、学びの現場には、いつも、オキシモロン(形容矛盾)が、よく似合うような気がします。

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    ■2012/10/31 Twitter

    • 22:56  木村さんは、この「キャンディ」にどうお応えになりますか?>木村優菜さんの感想ブログ:「関わる」ことで「見る」こと「見える」もの: http://t.co/xlFoJ6R0
    • 22:53  あなたは『舞台にたつ人?』、それとも『舞台にたつ人の後で踊る人』?山根さん、準備はできたかい?>法政大学・山根賢一さんの感想ブログ「いつもと違う 東大での合同ワークショップ:法政大×慶應大×東大」: http://t.co/bi7b6qNm
    • 21:58  「蒼氓」、耳コピ完了。結構苦戦したわい。。。押さえにくい、指つる。
    • 21:17  懐かしいですね。昔を思い出しながら聞こう!RT @tatemiwa: その曲は私も好きです!なんか嬉しい。RT 最近出た山下達郎さんのベストアルバムを、ついついポチってもーた。「蒼氓」が好きです、1988年、小生は中学生。http://t.co/9AzO5riS
    • 21:10  「蒼氓」山下達郎(youtube) : http://t.co/k4rZ8Qz8
    • 21:05  最近出た山下達郎さんのベストアルバムを、ついついポチってもーた。「蒼氓」が好きです。この曲にはじめて出会ったのは「僕の中の少年」。1988年、小生は中学生。http://t.co/9AzO5riS
    • 19:18  若者離職率を初公表 業種別の離職率を公表、大きな開き。ライフライン産業では10%下回る。飲食サービス業などでは50%近くに上る : http://t.co/uaAcJOSS
    • 16:04  【ブログ更新】「研修評価=研修参加者の満足度!?」 : 人材開発研究における教育効果測定の進展: http://t.co/HMjUKLXb
    • 13:44  ようやくランチにありつけたわい。ふぅ。
    • 12:25  自分の専門性を「スペック」として「書き出せない」ように、自分のキャリアを築くといいんじゃないかなぁ。「スペックとして書き出せるもの」には、市場が生まれます。
    • 12:08  個人の組織への出入りが流動的・高頻度になれば、「迅速な社会化(swift socialization)」が求められる(Ashforth 2012)。「迅速な社会化」に最も影響を及ぼすのは「適切な新人募集と選択」だろう。「採用と選択」をスコープにいれた研究が増えるんだろうな。
    • 11:51  (2)クロックタイムとしては長く経ていても、適切なイベントタイムが「経験」されていない新人はきっと少なくないんでしょうね。つまり、組織で過ごしている時間は長いけれど、組織適応や学習につながるイベントが経験されていない個人。#nakaharalab
    • 11:50  (1)大学院・中原ゼミ。今日の英語文献(木村さん発表)は「社会化・学習研究における時間」の概念。時間には、1)線形に流れる「クロックタイム」と、2)過去の出来事・エピソードから構成される「イベントタイム」がある(Ancona, et al 2001)。#nakaharalab
    • 11:04  レビュー論文を書く第一段階は、「世の中にはたくさんの研究があるけれど、ほれ、こういう"軸"で整理してみると、綺麗に分かれるよ」という「キレ味のある軸」をみつけることです。経験的には「2軸4象限」を仮に設定してみると構造が見える場合もあります。#nakaharalab
    • 10:16  大学院・中原ゼミ(@nakaharalab)。外国人新入社員は、日本企業に、どのようなプロセスで適応するのか?博士課程・島田さんの研究発表。#nakaharalab
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    投稿者 jun : 2012年11月 1日 09:33