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それって何が新しいの?:組織と言葉

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 組織には、その組織ならではの「特徴的な語り方」というのがある。組織構成員がよく使う「フレーズ」といってもいいかもしれない。

 ここで突然、問題.
 下記の語り方は、どの企業の人がよく使うものでしょうか?

 「それって何が新しいの?」

 「オマエは何がしたいの?」

 「なぜ?」

 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・

 答え
 「それって何が新しいの?」=ソニー
 「オマエは何がしたいの?」=リクルート
 「なぜ?」=トヨタ

 だそうです。先日、ある方から教えてもらいました。

 たとえば新しく企画書を書いて上司に提案したとき、ソニーであれば「それって何が新しいの?」と聞かれる。リクルートであれば「で、オマエは何がしたいの?」と問われる。トヨタであれば、「なぜ?」を5回つきつけられる。

「問われていること」に本質的な差はないのだけれども、それぞれ微妙に「言い回し」が違い、そのあとに「考えなければならないこと」「やらなければならないこと」が違う。この微妙な違いが、大きな差となる。

 これは仮説でしかないけれど、組織における頻出フレーズは、「人材育成」と密接な関連をもっていると思われる。「その会社らしい人」を育てることに、一役買っているのではないか、と。

 誰が、どのような言語を、どのような場面で頻繁に利用するか、という観点から、組織文化と人材育成に切り込んでいくことはできないか、と昨日思いついた。

 ある「言い回し」にこだわって、その「言い回し」が使われる文脈を調べていくと、オモシロイことがわかるのではないか。「人を育てること」の様々な局面で、そのような「言い回し」がどのような機能を果たしているか、を調べることはできないか。できれば、一定期間参与観察をして、エスノグラフィーを書けるといい。

 オモシロイ研究、思いついたんですけど、どうでしょうか?

 「それって何が新しいの?」

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投稿者 jun : 2007年08月31日 08:23 | トラックバック


まだ半分か

「The Cambridge Handbook」というのは、「マルチメディア」「思考と推論」「熟達」「学習科学」の4分冊だったのですね。きょう、同僚に教えてもらいました。後者2冊は読みましたが、前者2冊は知らなかった。早速注文しました。

  

  

 これだけまとめて重要論文が読めるシリーズというのも、なかなかなさそうですね。後期の大学院ゼミでは「熟達」を読みます。

投稿者 jun : 2007年08月30日 18:33 | トラックバック


大学院入試&安田講堂の下見

 大学院入試の真っ最中です。本郷に拉致監禁。入試は受験する方も大変ですが、やる方も大変です。非常に気を遣います。入試委員の先生方にはアタマが下がります。

 入試面接の合間に、安田講堂の下見にいってきました。ワークプレイスラーニング2007の下見です。内部の施設は予想以上に立派でした。

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 先日、リノベーションをかけたそうです。僕は、久しぶりに(5年ぶり?)内部に入りました。今まで2度入ったことがあります。1度目は卒業式、2度目はシンポジウムでした。なかなかここに入る機会はないのですよね。

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 現在、ワークプレイスラーニング2007の参加希望者は、550名くらいです。そろそろ締め切りが近くなってきました。どうぞ、おはやめにお申し込みください。
 9月7日、安田講堂でお会いできますこと楽しみにしております。

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投稿者 jun : 2007年08月30日 11:00 | トラックバック


ファカルティ・ディヴェロップメント2.0 ワークショップ

 下記、再掲です。ファカルティ・ディヴェロップメントのワークショップを9月21日東京大学で開催します。ファカルティディベロップメントに関しては、大学院に続き、学部の義務化が検討されています。要するに、「どの大学でも他人事ではなくなる」ということです。

 ファカルティディヴェロップメントは、従来のいわゆる「授業改善」を中核にすえたものでよいのでしょうか?それとも新しいカタチがあるのでしょうか? このワークショップでは、「望ましいファカルティディヴェロップメントとはどのようなかたちでなされるべきか?」を考えます。

 ぜひお越しください。

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(下記再掲)

 最近、ファカルティディヴェロップメント(FD)が注目を浴びていますね。大学学部、大学院での義務化の動きが急速に進んでいます。東京大学でも、今年から、俗称「FD部会」という全学組織をつくって、これに対応しようとしています。

 ところで、皆さん、「素人丸出しな質問」で恐縮なんですけど、

「FDって、そもそも何なのでしょうか?」
   ・
   ・
   ・
   ・
 「話をふっておいて、オマエがケツまくるんじゃない」と言われそうですが、ごめんなさい。本当に僕自身がわからなくなってきているのです。

 今年に入ってから、仕事の都合で僕もいろいろ勉強したり、レクチャを受けたりしているのです。が、正直にいいますと、僕には、これがだんだんとわからなくなってきました。

 一般には、FDというのは「個々の教員が、自分の授業をカイゼンする試み」だと理解されています。シラバスをつくったり、評価を実施したり、授業を撮影するなどして、とにかくPDCAのサイクルをまわし、「授業をカイゼンする不断の活動」だと理解されている。

 しかし、そのフィージビリティを考えた場合、それを「教室に限定される活動」として把握し、実施体制をつくることは、組織的、かつ、戦略的にコレクトなのだろうか、と思ってしまうのです。「素人考え」で恐縮なのですが、いくつか、それには理由があります。

 まず、FDを教室に限定された営みだと把握した場合、よいことか悪いことかは別として、多くの大学教員の目には、それは「新たな負荷」とうつるでしょう。「それでもやるんだかんね」と言うのでしたら、それでもいいのですが、困難と形骸化は容易に予想されます。

 また、それが教室に限定された営みだとするならば、そこで対象になるのは、「教員個人」です。でも、ここを教員個人の力量にまかせてしまってよいのだろうか、と思ってしまいます。

 また、さらにいうならば、そこに事務職員は関与しません。だって、教室は教員の専決事項だから。つまり、大学教員- 大学事務職員という二分法を受け入れることになる。

 でもね、教育は多くの場合、膨大な事務的ロジスティクスの制約を受けているのです。教育が変わるためには、大学のロジスティクスも変わる必要があります。

 どうも、僕には、そのあたりがひっかかるのです。先ほど「FDが教員個人の授業カイゼンだと把握することは、組織的、かつ、戦略的にコレクトなのか」と問うたのは、そのためです。

 むしろ、より大きな概念で把握し、大学教員も、事務職員も、多くの大学関係者が参加できる「場」として、把握することが重要なのではないか、と思うのです。

 簡単にいいますと、

「これからみんなで集まって、大学にとってよいことを、知恵をしぼって、ひとつずつ考えてやってきましょうや。そのひとつに教育もありますよね。」

 的な場であり、企てですね。

 で、こんなことを考えているときに、我が意を得たりと思う考え方にであったのですね。以前から知己のあった神保啓子さんが、FDを、実践共同体として把握する、ということをおっしゃっていたのです。

 ほんで、このたび、9月21日(金)、名城大学の神保啓子さんに無理をお願いして、「コミュニティ・オブ・プラクティスとしてのファカルティ・ディベロップメントの取り組み」というワークショップを開催させていただくことになりました。

 ふるってご参加いただければ幸いです。


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ファカルティ・ディベロップメント2.0ワークショップ

「コミュニティ・オブ・プラクティスとしての
 ファカルティ・ディベロップメントの取り組み」

2007年9月21日(金)午後6時から 東京大学

=================================================

 このたび9月21日、名城大学の神保啓子さんを
 お招きして

 「ファカルティディヴェロップメント2.0」

 というワークショップを開催いたします。

 神保さんには、エティエンヌ=ウェンガーの提唱
した「実践共同体」の概念をコアにした「ファカルティ
・ディベロップメント」の取り組みをご紹介いただきます。

 最近、ファカルティ・ディベロップメントの学部、
大学院での導入が、教育行政において検討されており、
関係者の注目を集めています。

 本ワークショップでは、一般の、いわゆる「授業のカイゼン」
を主としたFDとはひと味違った、「教育価値の共創を
めざす新しいFD」をご紹介いたします。

 ふるってご参加いただければ幸いです。

 なお、今回のワークショップは人数を40名に限らせて
 いただきます。

 今後のFDに関して建設的な意見交換の場となりますので、
 FDに関する経験や興味がある方のご参加を期待します。

 また人数が多数の場合は、抽選になる場合があります。
 その場合は、大学関係者を優先させていただきます。
 その際は、9月14日までに結果をお知らせさせていただきます。

 応募は下記のフォームをe-mailでお送りください。
 Looking foward to seeing you !

    企画担当:中原 淳
         Educe Technologies・副代表理事
         東京大学・准教授

 ---

○主催
 NPO法人 EDUCE TECHNOLOGIES
 http://www.educetech.org/
 
 EDUCE TECHNOLOGIESは、教育環境の構築に
 関する調査、研究、コンサルティングを行う
 非営利特定活動法人です。
 
 副代表理事 中原 淳


○共催
 東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
http://www.nakahara-lab.net/
 
 
○日時
 2007年9月21日(金曜日)
 午後6時00分より午後9時00分まで
 
 ※時間が限られておりますので、定刻通り
  に始めます。本郷キャンパスは意外に
  広いです。くれぐれも、迷子になりませんよう。
 
 
○場所
 東京大学 工学部2号館 9F 92B
 大学院情報学環 教室
 http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_04_03_j.html

 ※地下鉄丸ノ内線からは徒歩で20分はかかります
 本郷キャンパスは広いので、お早めにお越し下さい。 
 
 
○食事
 サンドイッチ等の簡単な食事と飲み物をこちらで
 準備いたします。
 
 
○内容(案)

 □開場
 (5時30分)

 □Learning barのご紹介と企画趣旨
 (6時-6時15分)
  ・中原 淳(東京大学)

 □ワークショップ開始(休憩15分を含む)
  1.コミュニティ・オブ・プラクティスを
    FDに適用する意味

  2.事例紹介とワークショップ
   コミュニティ・オブ・プラクティスをFD
   に適用している導入事例に基づき、
   FDマネジメントの視点で紹介

  3.コミュニティ・オブ・プラクティスFD
    の可能性と課題
  

 □ラップアップ
 (8時30分 - 8時45分)
  ・中原 淳(東京大学)

 
○参加費
 2000円(一般・学生)
 (講師謝金、食事代、飲み物代、資料代等に
  支出いたします)

 
○参加者
 参加をご希望の方は下記のフォームをご利用のうえ、
 sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpの
 メールアドレスまで、お申し込みをお願いします。
 
 人数が多数の場合は、抽選になる場合がございます。
 その際は、9月14日までに結果をお知らせいたします。

○参加条件
 1.本ワークショップの様子の写真、NPO Educe
Technologies、東京大学 中原研究室が関与するWeb
サイト等の広報手段、講演資料等に用いられる場合が
 あります。参加にあたっては、この条件を許諾いただ
 ける方に限ります。

 2.申し込みはしていたけれど、参加が難しくなった
場合は、sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
 連絡をください。このところ、非常に参加希望者が多く
なっており多くの方のお申し出をお断りしているような
 状況が発生しています。
 一人でも多くの方に席をお譲りしたいと思います。

〆ココカラ=======================================
 参加申し込みフォーム
 sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
 9月7日までにお申し込み下さい
 
 人数が多数の場合は、抽選になる場合があります。
 その場合は、大学関係者を優先させていただきます。
 9月14日までに結果をお知らせさせていただきます。

 上記参加条件のもと、申し込みます。

氏名:
フリガナ:
所属:
メールアドレス:
FDとのかかわり:
(                       )

〆ココマデ=======================================

投稿者 jun : 2007年08月29日 07:39 | トラックバック


映画「シッコ(SICKO)」 を見た!:薬指と中指、どっちをつけときますか?

 仕事中に事故で指を2本切断された大工。健康保険を持っていない彼に医師は聞く。

「薬指をくっつけるのは140万円。中指ならば720万円・・・」

 お金のない大工は薬指だけ接合することを選んだ・・・。

 50代の夫婦。数十年夫婦でまじめに働いたものの、晩年、夫は心臓発作、妻が癌を患った。彼らの入っているのは、保険料が安いかわりに、クオリティが低い保険。莫大な自己負担額のために自己破産。娘夫婦の地下室に引っ越すことを余儀なくされる。

 急患で救急車に乗る前にでさえ、保険会社への<事前申請>が必要である。<事前申請>がなくては、保険金が下りず、数十万の医療費を自己負担することになる。<事前申請>はいつ行えばよいのか? 救急車に乗る前? それとも急病で倒れる前?

 あるカナダ人が、バケーション中のハワイで倒れた。入院後、請求された金額は7200万円。

 病院に入院していても、保険がなく支払い能力のない人たちは、タクシーに乗せられ、ひそかに病院から追い出される。行き着く先は、貧民街のど真ん中。検査着のままタクシーから引きずり下ろされる。「お大事に」

 ---

 アメリカの医療制度を糾弾するマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「シッコ(SICKO)」を見た。

シッコ(SICKO)
http://sicko.gyao.jp/

「ボウリング・フォー・コロンバイン」では「銃社会」に、「911」では「ブッシュ大統領とイラク戦争」にかみついたマイケル・ムーアーの最新作。

「アメリカの医療制度は、ビョーキ(SICKO)だ、イカれてる!」

 と吼える。

 よく知られているように、アメリカには「国民皆保険制度」はない。個人はそれぞれ自分の責任で民間保険会社の保険に加入することになっている。この結果、アメリカ国民の6人に1人は無保険で、毎年1万8000人が治療を受けられずに死んでいく。

 しかし、「シッコ」が告発するのは、「無保険者」の問題ではない。「ちゃんと民間保険に入って、高額な掛け金を払っていたのに、病気になって支払いの段になったら、保険会社に難癖をつけられ支払いを拒否される人が、後をたたないこと」である。

 つまり、こういうことだ。
 保険会社は民間営利企業である。民間企業であるということは、彼らの至上命題は利潤を上げることである。そのためにはどうするか?答えは簡単。患者に支払う保険金はなるべく少額に抑えればよい。

 アメリカでは、医者は、必ず患者に処置を行う前に、保険会社に連絡をして、「その治療をやって、保険料の請求が認められるか、どうか」を判断してもらわなくてはいけない。保険会社はこのシステムを利用する。

 あの手この手を使って、いやいや、難癖をつけて、保険請求を退けるのだ。

「その治療は実験的である(experimental)」
「その治療は、医学的に不必要である(medically unnecessary)」

 保険会社に雇用された医師たちが、これらの判断を下す。彼らには一律でノルマが科せられており、患者の保険請求を却下すればするほど、ボーナスがもらえる仕組みになっている。

 Deny! Deny! Deny!

 かくして患者のもとには、「否認状」が送られる。

 中には、本来必要な処置ですら、保険請求を認めない場合もある。現場の医師の判断は無視され、保険会社がすべてを決める。

 医師がガンだというのに、「患者の年齢でガンはありえない」として保険請求を却下したりする事例もある。
 骨髄移植で命が救われるかもしれない重病の夫。骨髄のドナーが見つかったと大喜びしていたのもつかのま、保険会社は保険料の支払いを拒否。なかなかお金が支払われないままに、夫は死んでしまう。

 こうした悲劇があとを立たない。

 ---

 僕は医療の専門家ではない。故に、この映画で取り扱われている内容に、どの程度バイアスがかかっているかは知らない。もちろん、お笑い映画ドキュメンタリストのマイケル・ムーアーのこと。彼の「突撃アポなし取材」で提示される<事実>をすべて信じるほど、僕はナイーブではない。

 しかし、この映画は、医療が「市場化」したときに起こるであろう「最悪のシナリオ」を、見事に描ききってくれる。それは「金のある人はよい医療が受けられる、金のない人は医療が受けられない」というレヴェルのものではない。

 <待ったなしの医療の現場>が、プロフェッショナルである<医者>が、そして力を持たない<弱い患者>が、民間保険会社に「隷属」せざるを得ない社会である。

 保険を民間営利企業にまかせることは、<医療>を民間に任せることとほぼ同義である。医療費が、個人の支払い余力を超えるような高額になっている場合には、保険会社がすべてを牛耳ることになる。ここが「すべての問題のはじまり」である。

 民間保険会社は、自分たちに都合のよい法律を通すため、ロビー活動を行う。政治家は多額の献金を受け取る。中には、保険業界のトップに天下って、年収2億円を受け取る強者もいるというから驚きだ。かくして、医療の現場は変わらない。苦しむのは、いつも「弱い立場にある患者」である。

 現在、日本でも「医療構造改革」が進んでいる。日本のそれは、アメリカのそれとは少し性格を異にする。しかし、その根底には、アメリカと同じ「市場原理の導入」という発想がある。しかも、生命保険の不払い問題が表面化するなど、日本の保険会社も、様々な問題を孕んでいる。危険がないわけではない。

 「シッコ」が描く医療現場の姿は、他人事ではない。明日は我が身。
 数十年後、高額医療費で家を手放さざるを得なくなるなるのは、私たちかもしれない。

投稿者 jun : 2007年08月28日 07:00 | トラックバック


弁護士でも就職難?

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 朝日新聞によると、今年度の「司法修習生の一部が就職難に陥っている」らしい。

司法修習生、就職先未定が100人超す
http://www.asahi.com/national/update/0826/TKY200708260131.html

 新司法試験の影響で、これまで年間500名程度であった司法試験合格者が年々増加。昨年度は1500名が就職活動を行っている。悲劇的なのは、今年はさらに1000人増え、2010年には3000人になるらしい。就職難はさらに深刻になることが予想される。

 もちろん、こうした事態が起こることは、法曹界は最初から「わかっていた」。2007年問題として認識されていたそうだ。「一部の弁護士が路頭に迷うことをわかっていても、やった」のだから、当然、「それでも、変えたいsomething」があったのだろう。そのあたりは、専門ではないので、よくわからない。

 それにしても、興味深いのは、この後、どういう事態が起こるのだろうか?、ということである。これは「資格効用とその影響」という意味で、教育学的な「問い」でもある。

 僕は「占い師」でもないし、そのスジの「専門家」でもないので、無責任にシロウト考えを述べると、予想できるシナリオはいくつかある。

 1)資格を「もつこと」の価値が相対的に下がる
 2)一時的な就職難が発生する

 3)今まで弁護士が体験してこなかった雇用形態が出現する
 4)弁護士の職務が広げ、仕事をつくるようになる

 5)弁護士間での序列や待遇の格差が高まる
 6)大手ファームが形成される
 7)弁護士業界内部の競争が激化する

 8)過去にどの「事件」をあつかったのか、という
  「業績」が能力表示の指標として用いられるようになる

 まず、1)はそのままである。マーティン=トロウではないけれど、量的拡充は質的変化をもたらす。弁護士資格が「無意味化」することはありえない。が、その価値は相対的に下がるのではないだろうか。その結果、2)で指摘したように、一時的にではあるが、就職難が発生することもありうる。

 しかし、需給曲線ではないけれど、その資格の価値下落も「一定のポイント」でとまるのではないだろうか。どんなに価値が相対的に下落しようとも、広い世の中、「この値段なら、買う人」が、誰かはいるからである。弁護士資格の場合、「資格とかけて"足の裏のご飯粒"ととく・・・・その心は? 取らないと気になるが、取っても食えない」というような状況にはならないのではないかと思う。

 そうすると、3)今まで弁護士が弁護士が体験してこなかった雇用形態で働く弁護士というのがでてくるのではないか、と思う。さらには、4)「食う」ために、弁護士資格をフルに利用して、これまで弁護士がしてこなかった「仕事」にまで、手を伸ばす可能性が高いのではないだろうか。
 この状況は、就職氷河期の「大学生の就職」と似ている。それまでの大学生ならば就職しなかったような業種に、様々な雇用形態で、就職する学生が増えてくる。

 たとえば、司法書士、行政書士などの法律関連の職務は、すべて弁護士資格で業務が遂行できるらしい。弁護士の量的拡充は、「関連する職種」「関連する資格」のサバイバルに影響を与える可能性がきわめて高い。

 次に、容易に予想されるのは、5)弁護士間での序列や待遇の格差が高まることである。

 要するに「フェラーリをのりまわす弁護士」と「サラリーマン弁護士」という二つの弁護士がでてくるのではないだろうか。長期的には二極分化も進むような気がする。そのような中で、資本の集中もすすみ、6)大手ファームのような大資本が形成される。

 7)弁護士業界内部の競争は、どんどん激化していく。より「上のステータス」をめざして、弁護士が大競争を演じる場面というのがでてきそうである。弁護士の「競争」は、「過去にどういう案件をあつかったか」「どのような弁護士事務所にいたか」で決まるような気がする。

 もちろん、これらの大変革の主人公は、「新制度の弁護士」である。法曹界には、一時的に「旧制度の弁護士」「新制度の弁護士」という2つのラベルが流通し、前者は後者を「価値の低い資格」として差別化する傾向が強まるのではないだろうか。大競争時代にあって、みんな「食っていかなければならない」のだから、そのくらいはする。

 新制度の「移行」は、旧制度の弁護士がマジョリティではなくなり、新制度の弁護士が日弁連の要職につくまで完成しない。「変革」とは、そのくらい時間がかかるものではないか、と思う。

 以上、これからのシナリオを勝手に「大放談」した。どのようにそれが進展するかはわからない。

 しかし、ひとつだけ勘弁してほしいことは、どこぞの国のように、「食うために、無意味な訴訟を増やすこと」だけである。法曹界でもない、一市民の僕としては、それだけが気になる。

「オレが太ったのは、マクド●ルドのせいだ」とか、「夫のキスの味がマズイので、訴える」的なしょーもない訴訟は、勘弁してほしい。聞いてるだけで疲れる。

「お客さん、いい訴訟話があるんですよ、あの会社を訴えませんか?」

 と弁護士が「営業」して歩く国だけにはなって欲しくない。

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投稿者 jun : 2007年08月27日 08:50 | トラックバック


オープンエデュケーション(Open Education)の未来

 昨日土曜日、東京大学で、「オープンエデュケーションが切り開く未来」というシンポジウムが開かれました(というか僕は司会者だった!)。東京大学大学院情報学環 ベネッセ先端教育技術学講座の主催のシンポジウムになります。

東京大学大学院情報学環 ベネッセ先端教育技術学講座
BEAT
http://www.beatiii.jp/

 オープンエデュケーション(Open Education)とは、一言でいうと、

「インターネットを使って、教材を無償で公開すること」

 の総称、そういう運動の総称のことです。公開の主体は、主に「大学などの高等教育機関」が多いですね。

 「ははーん、あれね、大学が自分のところの講義を無償公開するやつね、聞いたことあるもんね」

 と思う方も多いのではないでしょうか。

 2001年、アメリカ・マサチューセッツ工科大学がMIT Open Course Ware(オープンコースウェア)とよばれるサイトを開設し、MITの全授業を公開すると世界中に宣言しました。

MIT Open Course Ware
http://ocw.mit.edu/

 それから7年。「オープンコースウェア運動」に関しては、グローバルに展開し、全世界で150の大学が参加するコンソーシアムに発展しました。

 東京大学も2005年より、この運動に賛同し、UT Open Course Wareを開設、「東大でしか聞けない講義の公開」をスローガンに、少しずつではありますけれど、講義の公開をすすめています。

UT Open Course Ware
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/

学術俯瞰講義 2005「物質の科学」
(小柴昌俊先生、小宮山宏総長の講義があります)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/ut-lecture-series/science-of-matter-2005/movies.html

学術俯瞰講義 2006「学問と人間」
(佐伯胖先生、上野千鶴子先生の講義があります)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/ut-lecture-series/academics-and-humans-2006/movies.html

学術俯瞰講義 2007「社会から見たサステナビリティ」
(緒方貞子先生の講義があります)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/ut-lecture-series/sustainability-2007/movies.html

 MITがはじめた「オープンコースウェアの運動」。しかし、すべての大学がそれに賛同したわけではありません。いくつかの大学は、教材を無償公開する際に、MITのスタイルとは違ったかたちで、それを進めようとした。

 「オープンソース」と同じビジネスモデルを採用し、出版と連動したかたちで教材の無償公開をすすめようとしている、ライス大学のConnexions、教材を「生の素材」として単に公開するのではなく、インタラクティヴな教材として仕立てて公開しようとしているカーネギーメロン大学の試み。

 全世界では、いまや30ほどのアプローチがあると言われています。そうしたアプローチを十把一絡げに、エイヤッとひっくるめて、オープンエデュケーションというのですね。

 ---

 今日のシンポジウムでは、2008年1月に「Opening up education」という本をMITプレスより上梓なさる予定の飯吉透先生(カーネギー財団)、クマー・ヴィージェー博士(マサチューセッツ工科大学)をお招きして、オープンエデュケーションの最新の動向についてご講演いただきました。「Opening up education」では、37のオープンエデュケーションの主催者たちが、自分のところの取り組みとその教育学的背景について論じているそうです。飯吉先生とクマー先生の講演は、「教材の無償公開」の米国最新事例がよくわかる、とてもinformativeなものでした。

 講演のあとは、山内先生のラップアップをはさみ、恒例のフロアディスカッションへ。お近くの方々でグループをつくり、20分間のディスカッションをして、質問や感想などを出してもらいました。

「質問」「感想」に関しては、予想どおり非常にたくさん寄せられました。「オープンエデュケーションへの問い」は「パンドラの箱」のようなものです。そこをいったん開けてしまえば、次から次へと問いがでてくる。

 下記は、飯吉先生、クーマー先生、山内先生に寄せられた質問の一部を抜き出したものです。問いの多くは、かなり深い。

●オープンエデュケーションの「目的」を一言でいうと何でしょうか? なぜそれがなされるべきなのでしょうか? 「社会知識基盤の整備」でしょうか? それとも「公教育の不信を背景にした教育の代替」でしょうか? 「教育の民営化」なのでしょうか? それとも「大学の宣伝」でしょうか? 

●大学がコンテンツをつくらなくても、いまや、様々な人々がWeb2.0的ツールを使って、コンテンツをつくり、公開しています。そのような中で、「大学」がコンテンツをつくり公開する意味はどこにあるのでしょうか? クオリティが違うのでしょうか? それとも、オーソリティがあるのでしょうか?

●教育/学習用に仕立てられた、いわゆる「教材」は本当に使いやすいのでしょうか? 学校放送では、視聴者に「長い番組を提供するべき」か「短い素材を提供するべき」かという議論がつねにあります。敢えて「教材」を提供するのではなく、「生の素材」を提供するだけでよいのではないでしょうか。あとの利用は、ユーザーにゆだねるべきではないでしょうか?

●「生の素材」を提供すること以上に、「教材」としてコンテンツを仕立てるにはコストがかかります。なぜ、これをなぜ大学が負担しなくてはならないのか? その理由は何でしょうか?

●大学がオープンエデュケーションを推進する理由としては、「広報的価値」以外に何がありますでしょうか?

●オープンエデュケーションを「長続き」させるためには、推進者の「燃えるような情熱」だけではなく、「ビジネスモデル」が必要でしょう。大学や民間企業がどのようなかたちでビジネスモデルを構築することができるでしょうか。

●オープンエデュケーションはボランティアでいいのでしょうか? 提供されるコンテンツにコマーシャルを入れるなどのことは検討されるべきではないでしょうか?

●オープンエデュケーションのターゲットユーザーは「誰」なのでしょうか? 誰が、どのような文脈で、どのように利用しているのでしょうか?

●全員が「自分が得たいもの」をわかっているわけでありません。オープンコンテンツは、自分が得たいものがわかっている人とわかっていない人の格差を広げるのではないでしょうか?

●オープンエデュケーションは「格差」の問題の解決と位置づけられることも多います。しかし、それはテクノロジーを用いてなされるので、テクノロジー格差がもろに反映してしまいます。ゆえに、オープンエデュケーションは「格差の縮小」をめざしながら、「格差を拡大」してしまうというのではないでしょうか。

●オープンエデュケーションで公開されるコンテンツの著作権は誰に所属するのでしょうか?

 会場では、これらの問いに対して、3名のプレゼンターの方々が意見を述べました。この「やりとり」は非常に本質的で大変オモシロかった。

 ---

 ・・・今回のオープンエデュケーションのシンポジウム、僕は、司会者として聞いていて、いろんなことをぼんやりと考えていました。

 まず第一に思ったのは、なぜオープンエデュケーションに対して、これだけの深い質問が集まったのかなぁということです。おもうに、これには、いくつかの理由があると思うんですね。

 一番大きな理由としては、オープンエデュケーションに対して投げかけられた「問い」が、はからずも「大学一般に関係する大きな問い」を投射してしまうからでしょう。

 つまり、

オープンエデュケーションの目的とは「何」で
「どのような人」に対して
「どのようなコンテンツ」を
「どのように提供する」か

 という問いについて「解」を用意するためには、

・社会の中で「大学」とはどのようなものであり、
・「誰」が知識を享受されるべき人間であり、
・大学教員や関係者はどのような役割をもっているか?

 という、より大きな問いに考えざるを得なくなってしまうのですね。そこをすっ飛ばして、オープンエデュケーションだけを議論することって、なかなか難しい。

 さらにいうならば、「思弁的な問いの逆投射」がおこるだけですまないんですね。

「大学とは何か」
「大学教員や関係者はどのような役割をもつか」

 という問いは、「大学関係者のサバイバル」に密接に関係してしまう。

 寄せられた意見の中にも

「わたしは、これからもコンテンツを売って生きていけるのでしょうか?」
「大学教員として、これからどのように生きていけばいいのでしょうか」

 という意見が寄せられていました。

 ---

 いずれにしても、オープンエデュケーションが本格的に離陸するためには、会場から出された上記のような本質的な問いに、何らかの「解」を出す必要があるのでしょう。

 でも、この問いは、「アポリア(難問)」どころの騒ぎではない「アポリア」です。非常に慎重に、様々な角度から、冷静になって考える必要がありそうですね。

 思うに、そのためには2つの議論が「同時」に必要だと思うのです。「教育的価値に関する議論」と「経済的、経営的側面からの検討」ですね。

 前者の議論を主導するのは、21世紀に大学が担うべき役割は何か、という歴史学的かつ哲学的アプローチ、かつ、実際に、デザイン、開発、評価してみたらこうなったという工学的アプローチ、人間に与える影響はこうであった、という心理学的アプローチでしょう。

 後者の議論は、「もしそれを実施したら、どのような投資効果が得られ、逸失損益は何か」という経済学的アプローチ、そして永続的に事業を継続するためには、どのようなビジネスモデルが必要か、という経営学的アプローチから構成されるように思います。できれば、後者を相対化できる言説であった方がいい。

 必要なのは、これらのアプローチのオーケストレーションであるように思います。

 ---

 ともかく、オープンエデュケーションの潮流は、今後も急速な勢いで進行していくような気がします、何となく。大学の思惑とか、大学関係者のサバイバルの成否とは無関係に、そうならざるを得ないんではないかな、と思います。だって、教育素材を無償公開する主体は、必ずしも高等教育機関ではなくて、個人でもいいわけです。
 大学がやろうと、やるまいと、「教育の素材」はネットに今よりもっとあふれるようになる。

 僕は占い師ではないので、その先の未来は、僕には読めません。でも、ひとつ読めることがあるのだとしたら、オープンエデュケーションの潮流の中で、最終的に問われていることは、

「あなたは、どんな社会をのぞみますか?
 その中で教育には何ができますか?」

 ということですね。
 この問いが、我々に突きつけられていることだけは、間違いないような気がします。そして、教育学が社会的合意をつくるための議論の下地を提供しなくてはいけないことだけは、確かなことであるように感じました。

 慣れない司会、疲れました。

 週末はゆっくり休みます・・・・といいたいところだけど、これからTAKUをプールに連れて行きます。それでは。

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 結構、パパが多かったぞ。

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投稿者 jun : 2007年08月25日 21:37 | トラックバック


ソウル大の年俸は海外の大学の半分!?を読んだ

 下記の記事を興味深く読んだ。

頭脳流出:ソウル大の年俸は海外の大学の半分!?(上)
http://www.chosunonline.com/article/20070823000051

頭脳流出:ソウル大の年俸は海外の大学の半分!?(下)
http://www.chosunonline.com/article/20070823000052

 要するに、

1.ソウル大学の教員の給与は、海外他大学と比較すると半分
2.しかし、授業外の雑務は海外他大学と比べて多い

 ということである。

 ノースウェスタン大学では、「研究以外の業務といえば月に一度の教授会議だけで、それも必ず参加しなければならないものではなかった」のに対して、ソウル大学では「械航空工学部だけでも施設担当委員会、教務担当委員会、科目調整委員会などさまざまな小グループがあり、教授たちはそれらの行政的な仕事も引き受けなければならない」のだという。

 このような中、研究者の中では、ソウル大学を敬遠する動きが広まっているのだという。
 先にソウル大学工学部が7人の新任教授を採用しようとした際には、「志願した25人全員が基準に達しなかったため採用を先送り」せざるをえなかった。記事では、「ソウル大学からの頭脳流出」を懸念している。

 ---

 日本の大学業界では、韓国ほどの危機感はささやかれていない。だけれども、「雑務の多さ」は非常に似ていると思った。もちろん、これは大学教員だけに当てはまることではなくて、初等中等教育に関しても全く同じである。

 学歴による仕事の専門化・役割分化が進んでいる欧米とは異なり、日本やアジアの教育業界には、そのような傾向は薄い。それが「研究外業務の多さ」に如実にあらわれている。

 ちなみに、日本の大学教員の給与に関しては、「大学教員 給与」でググるといろいろでてくる。

投稿者 jun : 2007年08月25日 08:03 | トラックバック


教育学の混迷

 「教育学の混迷」と題された論文を読んだ。

広田照幸(2007) 教育学の混迷. 思想. 2007年第3号. 岩波書店, 東京

 偶然だが、昨日夕食を共にしたある他領域の先生からも、上記と同じような指摘を受けた。

 「外から見た教育学」と「教育学内部で生成される論理」との乖離について、考えなければならないときにきているのかもしれない。

投稿者 jun : 2007年08月24日 12:32 | トラックバック


結婚と「性格の不一致」

 昨日、ある人の講演ビデオを見ていて、こんな話があった。

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 離婚の原因としてよくあげられるものに、「性格の不一致」というのがある。だから、多くの人は、結婚を考える際に「性格の一致する理想の人」を探そうとする。

 でも、よく考えてみると、人間は皆、最初から「性格は不一致」である。誰一人として「性格が一致」する人なんていない。

 そうであるならば、結婚でもっとも重視しなければならないことは、「性格が一致した理想の相手」を探すことではない。

 むしろ、「性格の不一致さ」をいかにやり過ごし、いかに関係を持続させうるか、が問題である。つまり、結婚生活で重要なのは、「性格が不一致なこと」をマネージする「プロセス」である。

 ---

 ほほー、なるほど。

 帰ってきて、カミサンにこの話を教えてあげたら、彼女も納得していた。彼女は、僕の「だらしなさ」 - 食べ物をこぼすとか、引き出しを閉めない、とかいう生活上のだらしなさ - 常日頃から辟易としているので、それを牽制してみた。

「わたしも、もう少し口に出さないようにしなきゃ、とは常日頃から思っているんだけどね。そこまで、まだまだ人間ができてないわ」

 カミサンが「人として完成する日」を心待ちにしている(笑)。

 今日の朝食も、パンクズをこぼした。
 ごめん。

投稿者 jun : 2007年08月24日 09:17 | トラックバック


目標値実証主義

 先日、ある研究会にでて、久しぶりにこのような語り方を聞いた。

「理想の学習とは個別学習にある。教材をシステマティックに設計すれば、そうした理想を実現できる。共同学習はノイズが多く、理想の学習が成立するならば必要ない」

 これに関しては、佐伯胖先生(青山学院大学)が、UT Open Course Wareで公開されている講義の中で、1960年代の教授工学黎明期、プログラム学習について振り返っている。

佐伯先生・UT OCWの学術俯瞰講義
rtsp://real1.itc.u-tokyo.ac.jp/UTOCW/06/gakujutsufukan_saeki01_3.rmvb

 45年たっても、目標値実証主義は、何一つ変わっていない。もちろん、それ自体が悪いわけではない。

 が、個別学習を「理想型」におき、其れ以外の学習 - たとえば協調学習を「ノイズの多いもの」とみなす見方は、とても承伏できない。1960年以降の学習研究の知見は何だったのだろうか、と思う。

 深い溜息がでる。

投稿者 jun : 2007年08月23日 19:00 | トラックバック


eラーニングの利用経験率は18.6%

 Gooリサーチの調査によると、eラーニングの利用経験率は18.6%だそうです。高いと見るか、低いと見るか・・・。

gooリサーチ
http://research.goo.ne.jp/Result/000538/

投稿者 jun : 2007年08月23日 15:08 | トラックバック


子どもの頃にやりすぎたこと、やれなかったこと

 子どもの頃禁止されたことは、大人になって、やりたくて仕方なくなる。逆に、子ども時代に過剰にやりすぎたことは、大人になると、見向きにしたくなくなる。どうも、人間、そういうものらしい。

 たとえば、僕の場合。

 僕は「丼」が嫌いである。「味」が嫌いなのではない。「丼」というスタイルで、ごはんの上におかずが乗せられるのが、どうしても苦手なのである。

 これは、子ども時代に、「丼」スタイルで食事を食べ過ぎたせいである。共働きであった我が家では、母親が仕事で家をあけると、「丼」が用意されることが多かった。用意も楽だし、後片付けも簡単だからだ。

 逆に、子どもの頃抑制されていたものが、「爆発」している例もある。その好例が「試食」だろう。

 今の僕には、デパチカなどの「試食コーナー」を素通りすることは難しい。なぜだか知らないけれど、試食を見ると血がさわぎ、どうしても、食べたくなってしまう。

 逆に試食は、子どもの頃に禁止されていたことだった。

「食べさせてない子みたいだから、絶対にやっちゃダメ」

 と、僕の親は、きつく我が子に言い聞かせていた。

 ---

 こうした例は、他の人からもよく聞く。

 ある人は、小さい頃、牛乳を飲み過ぎた。「背が伸びるから」という理由で、毎日、浴びるほど牛乳を飲ませられたそうである。結果、今は、全く乳製品をうけつけないカラダになってしまった。

 ある人は、小さい頃に、「コーラ」を決して飲ませてもらえなかった。今は「爆発」。水がわりにコーラを飲むような、いわゆる「コークジャンキー」である。

 ある人は、小さい頃、テレビゲームを親から厳しく禁止された。大人になった今は、休みの日は、朝から晩までゲームをやってもあきない、という。

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 人生において、「行動の総量」は、決まっているのかもしれない。子どもの頃にやりすぎれば、大人になってできなくなる。逆に、子どもの頃に全くやらなければ、大人になってから取り戻そうとする。

 要はバランスである。

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追伸.
 TAKUは急に「つかまりだち」ができるようになった。

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投稿者 jun : 2007年08月23日 07:44 | トラックバック


遠距離恋愛支援システム

 お茶ノ水大学の大学院生の方が、「遠距離恋愛支援システム」というのを開発したらしい。昨日、ある研究者の方から教えてもらった。同システムCHI2007の査読付きポスターで佳作(Honorable Mention)を受賞したとのこと。

CHI2007受賞
http://www.ocha.ac.jp/topics/h190523_01.html

ビデオ
http://www.zukan.tv/2007/01/18/hitomi-tsujita/

 ・・・オモシロイですね。どういう風にシステムの評価をするんだろう。非常に興味深いです。

 ・・・それにしても、遠距離恋愛は「Lovers Separated by Distance」っていうんですね。これに類する名詞はないんだろうか。ふとした疑問。

投稿者 jun : 2007年08月22日 17:22 | トラックバック


どの子どもに注目するか?

 ある研究ミーティングで、教師研究を志す大学院生さんが、こんなことを教えてくれた。学校教育現場で後輩の指導にあたっているベテランの先生がそう言っていた、とのこと。

初任者は出来る子、問題行動のある子に注意が行き、残りの子どもが見えない。しかし、ベテランは、彼らに振り回されずに、残りの子どもたちを見取り、生かす余裕が生まれ、実際にそういう手だてを考えることができる。

 もちろん、上記の命題はまだ検証されていない仮説であるが、 「教師は熟達するにしたがって、注目する生徒が変わる」というのは、非常にオモシロいと思った。

 あなたが先生なら考えてみてください。
 あなたは、授業の際、どの子どもの言動に注目していますか?

投稿者 jun : 2007年08月22日 07:30 | トラックバック


できるといいな、と思うもの

 某省の方々が、ある案件で来研、ディスカッションを行った。

 僕の主張は2つ。
 非常にシンプルである。

 ひとつめ。
 組織人材育成 / 組織学習のプロフェッショナルを大学院レベルの教育で養成するべきである。

 その大学院では、「組織」と「学習」、「経営」と「教育」という2つの領域を越境する「総合的な知」を伝えてほしい。

 下記のような海外大学院のように、教育だけでもなく、経営だけでもない。はたまた、インストラクショナルデザインの専門家を養成する大学院でもない。そうした大学院を、何とか日本につくることはできないだろうか。

コロンビア大学
Teachers College, Adult Learning and Leadership
http://www.tc.columbia.edu/academic/o&ldept/adulted/

Case western reserve university
MS in Positive Organizational Development and Change
http://weatherhead.case.edu/masters.cfm

ランカスター大学
http://www.lums.lancs.ac.uk/Postgraduate/hrd/

ペンシルバニアステート
http://www.ed.psu.edu/wfed/default.asp

ジョージア大学
Workforce Education, Leadership, & Social Foundations
http://www.coe.uga.edu/welsf/

University of Illinois at Urbana-Champaign
College of Education, Department of Human Resource Education
http://www.hre.uiuc.edu/

University of Minnesota
Department of Work and Human Resource Education
http://www.education.umn.edu/WHRE/

Ohio state university
Workforce Development and Education
http://ehe.osu.edu/paes/wde/default.htm

 ふたつめ。
 アカデミクスと実務家が集まるような、ASTDライクな規模の「人材育成コミュニティ」を、何とか産官学で共同してつくることができないだろうか。

ASTD
http://www.astd.org/

 個人的には、この2つをつくるためなら、僕は可能な限りの協力を惜しまない。日本の組織で働く人々は、今よりもっと「元気」になれる、と思う。

投稿者 jun : 2007年08月22日 07:13 | トラックバック


○○社らしい仕事のやり方を、いかに「伝える」か?

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 昨日は、仕事復帰1日目。

 先週の休みのせいか、アタマの回転が遅く、なかなか言葉が出てこないように感じた。今日から本格的に忙しい日々が続く。リハビリする時間はないけれど、何とかはやく本調子に戻したい。

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 昨日は、ある大手広告会社にインタビュー調査にでかけた。この会社では、2年前から、いわゆる「OJT」の制度改革に乗り出し、新入社員の早期育成をめざしている。

 新入社員に対して、

「社員に暗黙知として共有されている、○○社らしい仕事のやり方を、どのように伝えるか?」

 が、挑戦するテーマになっていた。

「暗黙知化された○○社らしい仕事のやり方」というのは、要するに、その「組織成員に共有される価値や行動規範」=「企業文化」のようなものである。

 外の人から見て、

「あー、あの人の仕事って、○○社らしいよね」

 と言ってもらえるような「何か(something)」を、新入社員に限られた日数で伝え、共有してほしい。そのためには、何をどうすればいいのか?

 もちろん、人事部だけでこの難題を解決することはできない。そのためには、各事業部の協力を得る組織内スキームをいかにつくりだすか。

 まず容易に予想できるのは、ここで伝えたい内容は、descriptive(記述的)ではない。descriptiveではないということは、システマティックに「伝達」することが最も難しい内容ということになる。少なくとも、インストラクショナルデザインで合理的に教授設計を行うような事象ではない。

 その会社では、「人と人のつながりの回復」を主軸にした、様々な施策や社内キャンペーンをうち、この課題に挑戦しようとしているのだが・・・。

 さすがは広告会社だけあって、キャンペーンでは、様々なグッズや映像などがつくられていた。クリエイティヴの質の高さは、さすがだと思った。これらは、社内各所に設置してある「液晶テレビ」で、毎日放映されるのだという。

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 今年に入ってから、これまで、たくさんの会社にお邪魔している。

 どの会社も、日夜「現場の学びの再創造」に取り組んでおられるが、つくづく思い知らされるのは、そこで伝えたい内容がことごとくdescriptive(記述可能)ではないことである。
 もちろん、descriptiveな内容もないことはないのだが、それ自体は、あまり問題にはなっていないような気がしている。

 今、本当に伝えたい重要なことは、descriptiveなものではない方が多い。それをいかに伝えるか・・・。

 このあたりのデザインは、本当に難しい。
 そこに一定のパターンを見いだせるとよいのだけれども・・・
 かくして、「僕の会社行脚」は続く。

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投稿者 jun : 2007年08月21日 07:35 | トラックバック


お盆が終われば、夏はおしまい!?

「お盆が終われば、夏はおしまい」

 故郷・北海道では、よくこんなことが経験的に言われている。北海道の短い夏は、7月末から8月お盆頃まで。それが過ぎると、急に、朝晩が肌寒くなる。年によっては、朝晩に長袖を着て歩くことも珍しくない。

 史上例を見ない猛暑であった今年に、これがすっかり当てはまるかどうかはわからない。でも、おそらく、多かれ少なかれ、そんなものではないかと予想する。

 今年も、お盆休みが終わった。

 メーカーなど夏休みの長い業界は、本格的に今日から稼働開始であろう。首都圏の今日の予想最高気温は34度。こちらは「お盆が過ぎれば、夏はおしまい」とはいかないようである。

「お盆が終われば、大学は動きだす」

 実は8月上旬からお盆過ぎまで、大学は閑散としている。大学教員の多くは、この時期を海外出張や、自分の書籍執筆などにあてるため、急激に大学に人はいなくなる。
 今年もお盆が終わった。ようやく、少しずつだけど、大学に人が戻ってくる。

 お盆明けの僕のスケジュールは、全く「隙間」はない。

 まず、各種研究プロジェクトの会議が連続する。また、大学院入試の書類審査、口頭試問があるので、2週間近く大学に拘束される。

 イベントも目白押しだ。今週末には、公開研究会。3日には学会、7日には東大安田講堂シンポジウムと続く。ちなみに8日から10日までは「ゼミのお勉強旅行」。

 ちなみに20日には立教大学大学院での授業がはじまるので準備。22日からは、また学会。おそらく、ホッと一息つけるのは24日の週だろう。

 とにかく、何とか「穴をあけないように」生き残ろう。
 長い夏休みのあと、今日は、少し朝から「憂鬱」である。

投稿者 jun : 2007年08月20日 07:50 | トラックバック


「オール」がない

 先日、義妹が、いわゆる「オール」の飲み会をやって、朝帰りしてきた。

 夜を徹して話をして、酒も相当量を飲んだはずなのに、元気、元気。少し寝て、次の夜には、また「別の飲み会」に出かけていった。あっぱれ、その「元気さ」には、恐れ入った。若いとは、かくいうものなのか。

 かつては、僕も、「オール」をしたことがある。学生時分には、盆と正月の限られた期間しか帰省せぬというのに、まともに実家で夕食をとったことがない。気の置けない旧友たちと、夜を徹して、遊んで、飲み歩いていた。

 しかし、ここ5年~6年くらいは、そのような経験は全くない。いくつか理由はある。

 まず第一に、悲しきかな「カラダ」がついていかない。おそらく、今、オールで飲み会などやったなら、次の日は「廃人」だろう。アタマは痛いし、胃のむかつきに苦しむ。夕方近くまで、無為に過ごすことになることは目に見えている。

 社会人を長くやっていると、そういう「飲み方」を本能的に避ける。無意識のうちに、いわゆる「守り」に入る。

 第二の理由が家族であろう。この年になってくると、お互いに家庭をもっている人たちも多い。オヤジがベロンベロンになって帰宅する様子は、カミサンにとっても、子どもにとっても、はなはだ迷惑である。

 第三に、これが本質的な理由かな、とも思うのだが、「オール」で語り合うほど話題が、年々少なくなっているような気がする。お互いの近況を話し、いくつかの馬鹿話と、いつもの昔話をしたら、おおかた満足してしまう。

 かつての僕らには、お互いの人生で重なるべき部分が多かった。また、僕らは「無知なるがゆえのべき論」の世界に生きていた。だから言い合いにもなったし、夜を徹して話すこともできた。

 今は、もう別々の人生を歩いていて、そのような「重なり」が少ない。そして、多少なりとも世の中の片鱗を知ってしまった。「そうはいっても、しょうがないよね」というモノイイを覚えてしまった。そんな僕らには、数時間を共有するくらいが、お互いにちょうどよい、のかもしれない。

 話は「する」ものよ。「ある」ものじゃないわ

 そう書いたのは、岸田國士である。もしかすると、「するべき話」の少なさ、レパートリーの少なさが、最大の問題かもしれない。
 
 こんなわけで、最近の僕は「オールがない」。
 オールをしていた頃を懐かしむ一方、なぜだか、少し切ない。

投稿者 jun : 2007年08月19日 08:08 | トラックバック


「世界」と「傷」

 最近、息子の「世界」はさらに広がっている。

「おすわり」ができるようになり、これまでより、ちょっぴり高い位置から、ものを見渡すことができるようになった。「ハイハイ」を覚え、これまでより、より広い空間を行き来できるようになった。

 水平方向にも、垂直方向にも、彼の「世界」は日に日に広がっている。

 しかし、「世界が広がること」は、「傷を負うこと」でもある。ゴロンとひっくりがえってはアタマをうち、足を伸ばしては膝をすりむく。先日などは、リモコンをとろうとして、顔を強く打って血を流した。

 子どもに「生傷」はたえない。
 親がいくら心を砕いて、一挙一動を見守っていても、子どもの動作を完璧に把握することはできない。否、そうするべきでもない。涙を流すときもあれば、時に血を流すこともある。

 ---

「男の子は、そんなことで泣くな、腕もげたら泣け」
「そんなもん、ツバつけとけば治る」

 これは、僕が子どもの頃、よく周りの大人たちに言われた言葉だ。「腕がもげるまで泣かせてもらえない」のは、さすが北海道、豪快極まりない。

 しかし、僕も同じ言葉を「息子」にかける。

「腕もげたら泣け、ツバつけときゃ治る」

 子どもの頃、自分にも生傷がたえなかった。僕が負ったたくさんの生傷を、これから、TAKUもイヤというほど経験するのだろう。親としてはいたたまれない気持ちになる。できることなら、防いであげたい。しかし、それはできない。やむなきことなのだ。

 ---

 TAKU。
 世界が広がれば、君はもっと「傷」を負う。

 今は「擦り傷」くらいですむかもしれない。しかし、「世界」は君に優しく、そして厳しい。近い将来には「擦り傷」ではすまない「深傷」を負うかもしれない。それは「心の傷」かもしれない。

「世界が広がること」は「傷を負うこと」である。
 いつしか君は、予測不可能かつ不条理な「方向」から、予測不可能かつ不条理な「悪意」を、必ず受ける。その「悪意」で傷を負うことも覚悟をしなくてはいけない。

 イタイのイタイのトンデイケー
 TAKUのアタマをさすりながら、僕は、つぶやく。

 TAKU。
 それでも「世界」は愉快で楽しい。
 深傷を負うことを怖れ、自分の「世界」を小さくするほど、馬鹿げたことはない。

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投稿者 jun : 2007年08月18日 08:14 | トラックバック


父親が・・・

 今日の名言。

The most important thing a father can do for his children is to love their mother.
(父親が子どもたちのためにできることで一番重要なことは、子どもたちの母親を愛することである)

神学者 セオドア・ヘスバーグ

 ほほー。

投稿者 jun : 2007年08月17日 20:01 | トラックバック


「除却」にならない人生を:坪井信行著「100億円はゴミ同然」

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 100億円を「ゴミのようなサイズ」と感じたり、「ゴミ」と言ってしまったりすることが、ある局面では実際におこります。

(下記書籍より引用)

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 100億円を「ゴミ」と感じる男たちが働く場所が、トレーディングの世界です。そこでは、日々、「途方もない巨額のマネー」が国境をへだてて、飛び交っている。

 一日の取引額は、2004年現在で225兆円に達しているようです。昨今のネット取引やヘッジファンドの拡大によって、今ではさらに多くのマネーが世界を行き来していると言われます。

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 坪井信行著「100億円はゴミ同然」を読みました。証券取引の世界で活躍する専門職「アナリスト」がどのような生活をしているのか、その仕事の実態を、軽い筆致で述べた本です。

「アナリスト」は、企業情報を調べ、実際に企業のIR担当者や経営者にインタビューを行い、集めた膨大なデータをもとに、企業の将来予想に関するレポートを書く仕事に従事しています。要するに、専門的知識と膨大な情報から、証券取引に関する「アドバイス」を提供するのが、その仕事です。

 この本が教えてくれる、アナリストの世界はオモシロイものでした。証券取引から「最も遠いところ」にいる僕には、「へー、そういう世界もあるんかねー」という感じ。

 アナリストの仕事の実態とはあんまり関係ないんだけど、ひとつ興味深いことが書かれていたので、ここで紹介。

 ---

 アウトプット過多が続くと、アナリストの蓄積してきた知識やノウハウといったものは減少・劣化していきます。これを揶揄して、「アナリストの減価償却」ということもあります。

 減価償却というのは、企業の固定資産を費用化する処理のことです。工場の生産設備などの固定資産は、使うことで徐々に劣化していきます。簡単にいえば、時間の経過によって古くなり、使ったことで摩耗していくわけです。

(省略)

 アナリストの場合は、カタチのあるものではありませんが、ノウハウや知識といったものも、放っておけば時間の経過とともに陳腐化していきます。

 その価値の減少する感覚が減価償却に似ているということでしょう。行き着くところは廃棄処分ということになります。会計的にいうと、除却(企業の資産から取り除くこと)といいます。これは、人としてちょっと悲しい感じがしまいます。

 たとえ話だとはいえ、減価償却されて最後は除却というのは、あまりに悲惨な人生ですが、常に自覚をもって対処していないと本当になってしまいます。

 ---

 なるほど、そうだよねぇ・・・。

 でも、これはアナリストだけに言えることではなくて、「ナレッジワーカー」、最近流行の言い方をすれば、「クリエイティブクラス」と呼ばれる人ならば、すべて当てはまるのではないかな、と思います。

 仕事をすれば、自分のもっていた知識、ノウハウ、スキルが消費される。で、仕事をバリバリするにしたがって、どんどん自分がバカになっていく感覚というのでしょうか・・・しばらくして、ふと立ち止まった瞬間に、「このままじゃ、ヤバイ」と思う。

 こういう人たちは、自分を「バージョンアップ」するリフレッシュの機会、リフレクションの機会を、デイリーなオペレーションの中に確保することが必要なんでしょうね。

 
「そんなことわかっているよ、でも、忙しくて、忙しくて、そもそも、そんなことをしている暇がない!」

 とおっしゃる方がいそうです。

 でも、申し訳ないけど、ナレッジワーカー、クリエィティブクラスであるならば、それが「実力」なのではないか、と思います。

 本当に優秀なアナリスト、本当に優秀なクリエイティヴクラスの人たちは、どんなに忙しくても、リフレッシュの機会、リフレクションの機会を確保するような仕事の仕方をするのではないでしょうか。

 リフレッシュの機会、リフレクションの機会を、いかに確保するか、それも「実力のうち」ということです。

 ---

 経験学習理論で有名なコルブは、経験学習のサイクルとして、「業務」「経験」「反省」「概念化」の4つをあげています。要するに、「業務をへて、多様な経験をして、時には仕事をはなれて、いったん振り返り、仕事の中から教訓を自らつむぎだす」ということです。

 僕は、この4つの中で一番重要なのは「反省」だと思うんですね。なぜか? 

「業務」は、求めなくても勝手に増えるでしょう。「業務」があれば「経験」もすることになる。でも、一番ありがちなのは、「多忙」を理由に「反省」がなかなか確保できない。「反省」ができなければ「抽象化」はありえない。だから、キーになるのは「反省」だと思うのです。

 なんでもそうなんですが、「活動」には「反省」がセットに存在しなければあまりよろしくないのですね。「活動」をしたら、「いったんそこから離れて、自分の活動の意味を問う機会」をもうけた方がよいでしょう。

 このことは、波多野先生もかつて指摘していました。適応的熟達をはたすためには、「いったん現場を離れて振り返る」ことが重要だ、と。

 ---

 減価償却して、除却にならない人生を歩みたいものです。
 それはあまりに悲しすぎる。

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投稿者 jun : 2007年08月17日 08:10 | トラックバック


責任とるから大いにやってこい!

 昼下がり、オジサン向け雑誌をパラパラとめくっていたら、「男の会話術」という特集が組まれていた。

 その中に「給湯室の中の真実:OLはここを見ている」という座談会の記事があった。「理想の上司のあり方」をさがす座談会であった。面白かったので、紹介する。

 座談会に参加した女性たちの弁によると、上司に言われてもっとも嬉しかった一言は、

「失敗したらオレが責任をとるから、大いにやってこい」

 なのだそうだ。

 「大いにやってこい」といっても、いわゆる「丸投げドン de ハルマゲドン」ではない。仕事を「丸投げ」して、部下を「炎上」させてはいけない。

 キチンとしたタイミングで「仕事をまかせ」、適切に「責任」をとる、ということである。これは言うのは簡単だけど、実行は非常に難しい。

 逆に、最悪の上司とは、

「いつも焦っていて余裕のない人」

 なのだそうだ。

「質問したいことがあっても聞けない雰囲気があり、何のために上が存在しているのかわからない」というのが、評価が低い理由らしい。要するに「頼りがい」というのがポイントなのだろう。

 その記事にもあったけれど、「関係がこじれる原因は、必ず会話の運び方に問題がある」ものである。上司部下関係は、永遠の課題でありながら、その成否はミクロな相互行為にありそうだ。しかし、これは難しい。

 内田樹氏が言うように、

 我々はいつも、言い過ぎるか、あるいは、いい足りないか、のどちらかである

 ミクロな相互行為に王道はない。

 ひとつだけ間違いないことがあるとするならば、

 あなたの言動は、いつも、もれなく、必ず、部下に見られている!

 ということなのかもしれない。

投稿者 jun : 2007年08月16日 18:44 | トラックバック


シングルモルトが好きである

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 シングルモルトが好きである。
 そして、今日もシングルモルトである。

 1杯目。

 アイラ島で生まれた「アードベック1975年」を注文する。ピート香が強烈で、スモーキーな一杯。トワイスアップスタイルで、少しずつ胃に運ぶ。

 1975年は僕が生まれた年。

「このウィスキーも、自分と同じ時間を過ごしてきたのだ」

 と思うと、意味もなく親近感がわく。
 
 
 2杯目。

 マッカラン18年。ハチミツ、メープルシロップ、シェリーの香りのするトロトロとした感じ。こちらは、チェイサーを口に含みながら、ストレートで。
 
 このマッカランが樽詰めされた頃、僕は、まだ中学生。

 「自分が何になるのか」
 「自分は何をしたいのか」
 「自分には何ができるのか」

 重要なことは、何一つわからなかった。それなのに、はやく大人になりたくてなりたくて仕方がなかった。大人には、それらが「わかっている」と思っていた。
 
 
 3杯目。

 最後は「山崎12年」。どんなにミーハーと言われようと、僕は、このウィスキーが好きである。

 丸みのある甘さ、癖のなさ、ちょうどよいスモーキーフレーバー。これ以上バランスのとれたウィスキーはなかなかない。トワイスアップスタイルでゆっくりと。

 12年前といえば、僕は学部3年。ちょうど、この頃、僕は「将来、絶対に研究者になるのだ」と決心した。

「絶対になる」と言っても、もちろん「口」で言っているだけである。しかし、誰かに宣言することで、僕は、自分を奮い立てようとしていたのかもしれない。
 
 
 4杯目。
 もうそろそろ辞めておこう。「もう一杯」と思ったときが、「切り上げ時」である。「これ以上、年齢の若いウィスキー」は、そう多いわけではないし。

 僕が「研究」を志してから樽詰めされたウィスキーは、まだ「円熟の時」を迎えていない。それは、今の僕がそうであるように。
 シェリー樽の中で、まろやかになり、いつか、どこかの誰かに愉しんでもらえる日を、待っている。

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投稿者 jun : 2007年08月16日 07:22 | トラックバック


学校は、世間の一番「うしろ」をついていくもんだ&日本かぶりもの愛好会

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 何をあらわす数字か、ご存じであろうか?

 実は、これは小学校から高校まで、あなたが「教室」で過ごした時間の総合計である。佐藤学先生がよく引用なさる数字なので、ご存じの方も多いかもしれない。

 12000時間という途方もない長い時間を、あなたは、「教室」で過ごしている。
 先生から板書の説明を聞き、生徒同士で話し合い、手をあげ、問題にとりくみ、教科書をそらんじる。そんな時間の総合計が12000である。

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 12000時間の中で、僕には、いろいろな思い出がある。中には、忘れられない授業もいくつかある。

 一番鮮烈に覚えているのは、高校のときにやった「ポカリスエットをつくる授業」である。その先生はとてもユニークな先生で、たしか、「浸透圧」の概念を教えるために、ポカリスエットをつくる、という実験をやった。

 他には、小学校のときに、みんなで大きな川で泳いだことなど。危険すぎて、今では考えられないことだが、当時はそういう授業が結構あった。あれで、よく何も問題が起こらなかったものだ、と今から考えると、こちらが冷や冷やする。

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 忘れられない授業の他に、忘れられない言葉というのも存在する。こんなとき、多くの人は「感動をよびおこすような先生の言葉」を紹介するのかもしれないが、僕の場合、一風変わっている。

 先生がふとしたときに漏らした「本音」、のいくつかが、僕にとっての「忘れられない言葉」である。

 大げさなことをいえば、その言葉のいくつかが、僕に「教育とは不思議だ」「学校とは何なのだ」という感覚を呼び起こし、今の自分をかたちづくる、ほんのすこしのきっかけになっていたかもしれない、と思うこともある。
 
 僕の忘れられない言葉はこれだ。

 学校は、世間の一番「うしろ」をついていくもんだ

 クラシック以外の音楽を授業で聞くなんて、学校ではありえない

 前者は英語の先生が、ふと授業中にもらした言葉。後者は音楽の先生。いずれも、「学校とは何か」を考えさせる、非常によいきっかけになると思う(ちなみに僕は学部の専門の授業中突然、それまで忘れかけていたこれらの言葉を思い出した! 今まさに学んでいる内容が、これらの言葉に見事に表現されていることに驚いた!)。

 この言葉は、ほとんどつぶやきに近かった。本当にきっと当時の学生の誰一人として覚えちゃいないと思うけど、僕にとっては、忘れらない言葉である。

 教育とは不思議だ
 そして、いまだに、僕は「学校とは何か」がわからない。

 あなたが教室で過ごした12000時間
 忘れられない思い出は何ですか?
 
 
 
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追伸.
 また「かぶりもの」である。ちなみに、今回の「かぶりもの」は「自前」ではない。全国には、「かぶりもの」をこよなく愛する親がたくさんいるのである。「日本かぶりもの愛好会」という全国組織では、会員相互のネットワーキングの機会がもうけられている。URLはGoogleの検索窓に「日本かぶりもの愛好会」で...(゚∀゚)アヒャヒャ。

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投稿者 jun : 2007年08月15日 08:13 | トラックバック


残暑お見舞い

 残暑お見舞い申し上げます。

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中原スイカ より

投稿者 jun : 2007年08月14日 15:16 | トラックバック


サマースクール

 アメリカの大学にあって、日本の大学にはないもの・・・

 先日もこのような書き出しで、記事を書いたような気がする。引き続き書き足さなければならないことがあるのだとすれば、そのひとつに「サマースクール」があるのではないだろうか。

 サマースクール(サマープログラムともいう、要するに夏期講義)? 何? 日本の大学にだって、集中講義があるではないか?

 と訝る方がいらっしゃるかもしれない。

 確かに、日本の大学にも集中講義はある。しかし、アメリカの大学のそれ(少なくとも、僕が留学していたボストン近郊の大学)、と日本の大学のそれは、ちょっと性格が異なっているような気がする。

 ひとつに、サマースクールは有料である。日本の集中講義が、原則、通常授業の「集中版」と位置づけられ、「無料」であるのとは対照的である。

 ボストン近郊の大学につとめる知り合いの先生によれば、大学にとってサマースクールは「Cash cow(金のなる木)」であるらしい。

 講義によっては、結構な金をとる。かつて僕が参加したプログラミングの実習は1週間で8万円、カミサンが参加したCM制作のプログラムは、7万円であった。

 また、サマースクールは、その大学の学生ばかりか、外部の人々、社会人、留学生も受けることができる。

 大学の学生、あるいは、その大学に入学する学生にとっては、「単位」が付与される。たとえば大学院生にとっては、9月入学前に、必要単位をここで大量にゲットしておくこともできる。

 外部の学生に対しては、履修証(サーティフィケーション)が交付される。ここも日本の大学のそれと違うところだろう。日本の集中講義は、原則的に外部に公開されていないのではないだろうか。

 履修証プログラムについては、専門的なことはよく知らない。しかし、ある大学の先生がこんなことを言っていたことを思い出す。

 アメリカの大学で履修証プログラムが広まったのは、そうねぇ、1990年代かねー。履修証は、社会人をひきつけるもっとも簡単な方法だからね。

 夏・・・7月に入ると、キャンパスには、通常期とは異なる学生が集まり始める。集中講義はいくつかのタームに分かれていることが多い。8月末まで、それは続く。

 かくして、キャンパスには「講義」が途絶えることがない。
 サマースクールは今日も続く。

投稿者 jun : 2007年08月14日 07:57 | トラックバック