「冬の森」から元気をもらう!?

 シャバで、ひーこらひーこら働いて、生気がなくなってきた頃に、森にでかけたくなります。

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 森にでかけるといっても、何か特別なことをするわけではありません。ただ、森を歩くだけです。

 そうすると、なぜかわかりませんが、元気になります。いろんなことを、とりとめもなく、考えながら歩きます。

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 特に近年は「森のようちえん」という「森の中での保育活動」子どもに参加させていただいております。山梨にあるKEEP自然学校で開催されているプログラムで、もう5年くらいになるでしょうか。自然学校のスタッフの皆様には大変お世話になっております。この場を借りて御礼いたします。

 森のようちえんでは、子どもと親を離して、それぞれごとに活動をします。子どもは、ひたすら森で遊ぶ(笑)。

一方、親の方のプログラムには、たいてい「森の散歩」が含まれております。
 僕の場合、たいてい「森の散歩」を選びます。のっしのっしと森を歩きながら、スタッフの方々のインタープリテーション(解説)に耳をかたむけ、森を歩きます。

 今回は、小西貴士さんのインタープリテーションのもと、冬の森を2時間ほど歩き、彼がデザインにかかわったという保育園の見学もさせていただきました。ありがとうございます。

 地域の人々、お父さん、お母さんを巻き込んで、つくったという手作りの保育園。そこには、入口に「人が集まる焚き火」スペースがありました。

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 暖炉のある保育室。

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 木のぬくもりにあふれた保育園でした。

 こちらはあまり詳しくお話をしませんが、興味のある方は、機会をみつけて見学できるとよいですね。こんな保育園が都会にもあったらなと一寸思いましたが、それは違いますね。こうした付加価値こそ、地方にしかできないことなのかもしれません。

 いずれにしても、興味深い保育園です。

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 ところで、冬の森とは「死の世界」です。
 葉っぱや実は、枯れてすべて落ちています。
 木々はところどころ割れ、折れています。
 それらは徹底した「乾燥」にさらされ、ふむと崩れたり、割れたりします。

 シャリッ、バキッ、メリメリ・・・
 冬の森を歩くことは、枯れた葉っぱや木々を、さらに細かくすることに荷担します。

 しかし、同時に、冬の森とは「やがてくる生の世界」でもあります。

 乾燥した実からは、次の世代をつくる「タネ」がおちます。一見、乾燥した木・葉っぱとしか思えないものたちは、すべて、次の世代の養分になっていきます。

 おそらく、森は、僕がうまれるずっと前から、このことを繰り返してきたのでしょう。僕のオヤジの世代、オヤジのオヤジの世代、オヤジのオヤジのオヤジの世代からずっと。

 清里の森には、樹齢350年くらいの木がひとつ残っています。「ぬしの木」といいます。この木を見ていると、いつも不思議な感覚に陥ります。

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 自分の人生がものすごく「ちっぽけ」に見えるのと同時に、だったら「短い人生、心ゆくまでやり切ろう」と思うのです。くよくよしても仕方がない。あと一歩、前に進もうと思うのです。
 どんだけやり切っても、前に進んでも、この「ぬしの木」の数分の1も自分には生きられない。ならば、もう一度、踏み出そうと思うのです。

 冬の森は「死の世界」でも、「やがてくる生の世界」でもありません。冬の森は「人を奮い立たせる森」でもあります。少々、疲れを感じたら、ぜひ冬の森へ!

 今週も頑張りましょう!
 そして人生はつづく

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投稿者 jun : 2015年11月30日 07:05


人材開発研究を「まるかじり」できる本!?

 東京大学出版会から刊行を予定している「人材開発研究大全」という本を暇をみつけては、しこしこと書いています。人材開発研究大全は「組織への参入」から「組織からの退出」に至るまで「人材開発研究の最前線」を網羅した本です。来年春あたりの刊行をめざしています。

 採用研究
 面談研究
 教育機関ー大学からのトランジション
 大学生のリーダーシップ教育
 就活からの学びと組織参入
 インターンシップと学習
 元留学生の日本企業へのトランジション

 組織社会化
 経験学習
 新人育成
 管理職育成
 研修転移
 ゲーミフィケーションによる研修開発
 OJT指導員研究
 リーダーシップ開発
 育児行動とリーダーシップ
 越境学習

 若手教師とメンタリング研究
 リフレクションと専門性発達
 学校の人材開発
 理念経営と学習
 中途採用者の育成研究
 女性管理職の育成
 降格人事の際のフィードバック
 看護師の熟達
 組織開発
 医療職の変容的学習
 地方公共団体職員の学習

   ・
   ・
   ・

 などのテーマにしたがい、30人ほどの先生方、大学院生等で、この本を書いています(心より感謝です。ご執筆、本当にありがとうございます)。コンセプトは、「人材開発研究をまるかじりできる本」です。
 僕の方は残りは編集。30編ほどのニュアンスを統一していくのは、たぶん、かるく「痺れる」と思います。たぶん終わったあとは確実に「廃人」でしょう。。。編集者の木村素明さんと長いタッグの日々がつづきます。

  ▼

 ともかく、この本は、お読みいただくかたに、

「あっ、こういう研究もありなんだ!」
「あっ、自分も、こういうの、自由にやってみたいな!」
「自分だったら、こんな風に工夫できるかもな!」

 と思っていただける本にしたいと考えています。人材開発を研究してみたいな、と「将来へのアクション」を喚起する本、モティベーションをあおってくる本?というのかな(笑)。
 どうぞお楽しみに!

 そして人生はつづく
 
 ーーー

追伸
先日数えてみたら、現在、ここ1年で僕が関係したり、抱えたり、書かなければならない書籍の数は、「人材開発研究大全」のほか、下記になりました。

 中小企業本・・・トーマツイノベーションさんとの共同研究成果を、中原・保田さんでまとめた本
 アクティブトランジション・・・舘野さんが中心になって大学院生と編んでいる本
 アクティブラーニング本・・・日本教育イノベーションセンターさんとの共同研究。山辺・木村・中原(編)の本。北大路さんから出版の予定
 アルバイトパート本・・・テンプHDさんとの共同研究成果をまとめた本。ダイヤモンド社さんより出版の予定
 ディレンマ本・・・ヤフー本間さんと中原の共著本
 40歳本・・・40歳からの学び直しの本:かんき出版の山下さん、渡辺さんとの本
 マンガでわかる育成本・・・JMAM久保田さん、井上さんとの本

 8冊・・・そりゃ、次から次へと原稿〆切がくるわけです。書いても書いても書いても書いても、終わらないぜ(笑)。
 (中には大幅に遅れてしまっているものもあり、まことに申し訳ございません)
 頑張ります。どうぞ引き続きよろしく御願いいたします。

投稿者 jun : 2015年11月27日 06:35


「店長の力量」はここでわかる!?:環境に顕在化する個人の資質!?

「店長のマネジメント力がどの程度あるかは、その店に入ったときの"臭い"でわかるんですよ」

 これは、ある外食産業におつとめの方が、僕にもらした印象深い一言です。昨日は大学院・中原ゼミでした。ゼミでは、それぞれのゼミメンバーの研究報告にくわえ、様々なことが議論されます。その中のひとつの話題に、先だって、ある外食産業の方が、おっしゃっていた、こんな一言を紹介しました。

 外食産業におつとめの方がおっしゃっていた先の一言は、やや抽象的な物言いをいたしますと、

 店長の個人的資質であるマネジメントの能力・スキルというものは、潜在的でなかなか目に見えないけれど、それは店舗という「環境」に顕在化する

 と考えうるということです。

 ちょうど先だっての院ゼミでは、

 個人の資質として還元されがちなものを描き出すときに、個人の資質をそのまま描くのではなく、周囲や環境から描き出すこともできるね

 ということが話題になっておりましたので、小生、ちょうどいいやと思い、これにゆるく関連した話題をだしました。

 すると、興味深いことに、社会人大学院生である研究室のゼミ生から、それ以外の事例もでてきました。

 運送業の場合、「支店長のマネジメント力」みたいなものは、「支店のトラック」とか「荷台の並び方」にでるっていわれますね

 あの子できるな、っていう看護師は、ワゴンの上が綺麗でとりやすいようになっています。ワゴンを見れば、何となくわかります。でも、いくら綺麗にしなさいっていっても、できない子はいつまでたってもできません。

 ある小学校の教室にお邪魔したとき、異なる先生がうけもつ2つの教室に入ったんですよ。お客であるわたしに子ども達が拍手をくれるのですが、その拍手の順番が違うんです。
 ひとつの教室では、子ども達が、わーっと最初にわたしに拍手をして、先生はそれをみている。もうひとつの教室では、先生が拍手をして、子どもがそれにシラーッと従っている。
 先生と子どもの関係とか、先生の力量が、何となく感じられるんですよね。

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   ・
   ・

 ICレコーダをもっていたわけではないので、一字一句そのままということではないですが、こんな話題が皆さんからでました。まことに興味深いですね。

「潜在的なもの」が「環境に顕在化」していると実感しうる事例は、これ以外にも、職種・業態によって、それぞれ、いろいろありそうです。

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 今日は、「個人の資質・能力」と「環境」のお話をしました。人材開発のような仕事をしておりますと、ふだん、わたしたちはものごとを個人に還元し、その「資質・能力」の多寡について議論してしまいがちですが、少し目をズラすこともできそうです。
 
 敢えて個人から目を離し、「個人の資質・能力」が顕在化するであろう「環境」「周囲」に目を向けてみると面白いことが見えてくるかもしれませんね。

 あなたの会社の人々の業務能力は、
       何に顕在化していますか?

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月26日 06:34


「従業員による採用」がうまくいくための条件!? : 「自分の友人」を紹介したくなる「職場」をいかにつくるか?

「採用って、究極、最後は、よい職場をつくれるか、つくれないかなんですよ」

   ▼

 今年から、中原研究室はテンプホールディングス株式会社さんと「アルバイト・パートの人材マネジメント」に関する共同研究を開始しています。

 このプロジェクトは、「未曾有の人手不足時代」に突入した現在、いかにアルバイト・パートの人材を新たに確保して、育成していくかを、実証的に研究するものです。

 共同研究は多段階に別れています。まず調査フェイズでは、1)求職者を対象にした調査、2)各企業の離職者に対する調査、3)各店舗の職場・マネジメントの実態を明らかにする調査をガシガシと実行していきます。
 そして、もし結果が良好であれば、調査フェイズを終えた来年は、様々な研修やツールなどを開発し、現場で利用・評価することを行わせていただく予定です。成果は、ダイヤモンド社さんより書籍として出版される予定です。ダイヤモンド社の小川さん、藤田さんとの仕事になる予定です。とても楽しみです。

 このプロジェクトには、その趣旨に賛同いただき、それぞれの業界の大手6社、のべ従業員規模30万人の企業のみなさまが参加して下さり、爆速で共同研究を進めております。
 日程はなかなかタイトで、本郷で開催される毎週のミーティングでは、実務を担当なさる小林さんと中原、田中さんで、なかなか熱い議論をして、調査をかたちづきっています。

 アルバイト・パート人材の研究は、これまで取り組んだことがなかったので、僕にとっては、学び多き時間です。
 まずは、業界大手6社の皆様、また、このプロジェクトにお誘いいただいたテンプグループのみなさまに心より感謝をいたします。

  ▼

 昨夜は、6社の主に採用担当者、人事責任者の方々が集まり、キックオフのミーティングがひらかれました。
 会では、プロジェクト代表の渋谷さん、中原からのショートプレゼンのあと、各社の取り組み事例を相互に発表していただきました。お忙しいところお集まりいただいた皆様に心より感謝をいたします。

 中には、ガチ競合の企業の担当者がテーブルの前にいるなかで、発表が行われます。しかし、あまりみなそのことは気になさらず、和やかに発表はつづきました。

 特に競争の激しい「採用・定着」の領域について、業界をあげて取り組んでいこう。よき採用活動をなすとともに、人が安心して働ける職場をつくろうという機運が高まっていることは、まことにうれしいことです。発表のあとには、質疑が耐えることなくつづき、刺激的な会は終了、懇親会になだれ込みました。

 あのガチ競合のA社とB社の人々が、テーブルをともにし、お酒をのみながら、相互に情報交換をおこない、今後の業界全体について議論をしている様子は、印象的でした。

 「この絵が、見たかった」

 僕は、このプロジェクトに関わらせて頂いてよかったなと思いました。
 今後がとても楽しみです。

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 個人的に、昨日の会でもっとも印象的だったのは、
 
「採用って、究極、最後は、よい職場をつくれるか、つくれないかなんですよ」

 という懇親会でのある方のご発言です。
 事例発表会の中でも、いくつかの企業は「外からなかなか人がとれない」ので、「従業員からの紹介による人材確保」をさらに拡充していく施策をとっておられるところもありました。

 企業によっては、「従業員からの紹介による人材確保」だけで、必要人員数・数万人のうち、60%を確保している企業もあるようです。この場合の採用コストは、媒体を使わないので「ほぼほぼゼロ」という試算も理論上はなりたちます。

 しかし、見かけ上は「採用コストゼロ」ですが、ここまで、「従業員からの紹介による人材確保」を機能させるためには、「店長の職場マネジメント力強化」「アルバイト・パート人材の育成」に相当の投資を行わなければなりません。組織文化を徹底的にケアしていかなければ、このような状況はつくれないので、採用コストが低いというのは、実は見かけの数字に成増。

 なぜなら、「従業員のコネクションによる採用」が奏功するためには、そもそも「紹介したくなる職場」「紹介したくなる仕事仲間」が存在していなければならないからです。

 「自分の大切な人」に紹介したい、と思える職場や仕事環境が、そもそも、各店舗に成立していなければ、誰も好きこのんで従業員は紹介などはしません。
 友人に紹介したら「てめー、話違うじゃん」と思われる職場や仕事環境しか容易できていない場合、「従業員による採用」はうまくいかないのです。

 ということは、いかにそうした職場をつくるかが問題になります。店長による「職場のマネジメント力」がさらに求められます。

 かくして、一見僕の専門外だった「採用」の問題は、「店長のマネジメント」「職場づくり」という僕の得意な領域に接続します。

 業界・業種によって異なるのだと思いますが、かくして、昨夜の6社の場合には、

「採用って、究極、最後は、よい職場をつくれるか、つくれないかなんですよ」


 ということになるのです。
 採用施策を徹底的にやりこんで、ツールもタイミングも厳選に厳選を重ねた結果、残るのは「半径5メートルの範囲」です。すなわち、人が働きやすい職場環境をいかにマネジメントによってつくりだすか、ということになります。

  ▼

 ひるがえって、帰りの道すがら、僕はひとつのことを考えていました。それは「採用」「育成・社会化」という「研究領域の分かれ方=研究区分」についてです。

 人材マネジメントの領域においては、実は「採用研究」と「育成・社会化」の研究群というのは、それぞれわかれて実施されています。前者は「recruitment研究」、後者は「socialization研究」ということになります。一般的には、研究者は、自分の領域を決めて、そこでのお作法に従いながら、それぞれの「城」を守ります。

 しかし、

「採用って、究極、最後は、よい職場をつくれるか、つくれないかなんですよ」

 ということが「現場のリアリティ」であり、それを何とかすることが「現場のニーズである以上、「ここまでが採用だよね、こっからは育成だよね」的なセクショナリズムは通用しません。

 現場にはいつも「課題」があります。
 現場には「研究領域の区分」があるわけではないのです。

 昨日のキックオフミーティングをふまえて、僕は、新たに自分の思いを強くしました。
 僕は、敢えて「城を持たない研究者」になりたいなと思いました。まぁ、もう、とっくのまに、なってるような気がしますが(笑)、敢えて「城」を持たない「浪人」でありたいなと思います。

 万が一、自分のあずかり知らないところで、「自分の城」ができかけたならば、それをたたき壊して、ブラブラと外にでたいのです。だって、城を持てば、守りたくなるだろうから。そして間違った角度で「課題」に取り組んでしまう可能性がゼロではなくなるから。

 またひとつのプロジェクトがはじまります。
 忙しい日々が続きます。

 そして人生はつづく

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「アルバイト・パート人材不足の社会課題」に共同研究で挑戦:のべ従業員数30万人以上・異業種6社が参画
http://www.tempstaff.co.jp/corporate/release/2015/20151022_6381.html
 

投稿者 jun : 2015年11月25日 06:19


「研究として成立すること」と「自分が研究したいこと」のせめぎ合い!?

「研究として成立すること」と「研究したいこと」は、似ているようでいて、微妙に異なります。

「研究として成立すること」というのは、いわば「研究になること=体裁をたもった研究としてまとめあげることができること」です。「研究になること」のために必要な要件は、ざっくりいえば、「オリジナリティ」と「適切な研究方法論」です。

 特に、重要なのは前者。
 オリジナリティとかくと、たいそう大げさなことのように聞こえますが、そんなことはありません。どんなに「プチ」でも「ミニ」でも「ちょろ」でもいいから、とりあえず、「これまで他人が誰一人としてやったことのないこと」を為せばよいということになります。

 そして問題はここからはじまります。
「これまで誰もやったことのないこと」というと、大きく分ければ、2つの可能性があります。ひとつは

「あまりに重箱の隅を突きまくっていて、そんなしょーもないこと、誰もやらんわ=おれもやりたくないわ」的な「誰もやっていない」

 と(泣)、

「おっと、こりゃ一本とられたね、その切り口は思いもつかなかったわ」的な「誰もやっていない」

 ですね。

 次回をこめて申し上げますが、悲しいかな、後者の「ものすごい切り口」など、なかなか生まれるわけではありませんので、多くの研究は前者に近いところでなされることが多くなります。

 もちろん、「後者の切り口」をみなめざしているのです。
 研究とは、これら「2つのオリジナリティ」の「せめぎ合い」です。現実を勘案し、どちらに近いところで、「落としどころ」を見つけることができるか。「ギリギリの攻防」がつづきます。

  ▼

 そして、問題は、さらに複雑になります。ここに第二軸目「研究したいこと」が加わることになるからです。

 多くの研究を志す人々は、「研究として成立するか、いなか」という軸を頭の片隅におきながら、それが「自分が研究したいことか、どうか」を考えます。いや、本当はその逆かもしれません。「研究したいこと、したくないこと」を先に考え、その後で「研究として成立するかいなか」を考えます。ともかく、ここには4象限の可能性が生じるのです。

 今、「研究として成立するか、いなか」を縦軸にとり、「研究にしたいかどうか」を「横軸」にとりましょう。そうすると、下記のような図が描けるはずです。

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1.研究として成立するし、自分もめちゃ研究したい
2.研究として成立するけど、自分としては研究したくない
3.研究として成立しないけど、自分としてはめちゃ研究したい
4.研究としては成立しないし、自分としても研究したくない

 まぁ、1は「理想の姿」、どちらもシオシオノパーの4は「論外」として、問題は2と3です。
「研究として成立するけど、自分としては研究したくない」と「研究として成立しないけど、自分としてはめちゃ研究したい」というものを、いかに対処するか、これが問題です。

 不肖・中原、個人的には、「研究として成立するけど、自分としては研究したくない」ものは、おそらく自分の指導学生には「やるな」と指導すると思います。あるいは、ぎりぎりまで粘って、「自分のやりたいこと」を見つけろ、というと思われます。

 理由は「モティベーションがもたないから」。だって、

 研究は谷あり、谷あり、谷あり、ごく希に山?あり

 なんです。そのプロセスはまことに厳しい。この厳しい道程を、「自分のやりたくないこと」をしょって駆け抜けるには、まことに荷が重すぎます。

 後者の「研究として成立しないけど、自分としてはめちゃ研究したい」をいかに研究として成立させるようにするか。これは、研究指導の醍醐味ですね。

「誰がみても研究としては成立するもの」は、ほっておいても「研究として成立する」のです。問題は、「いや、ちょっとこの合わせ技無理じゃない?」というようなリサーチクエスチョンで、「本人の思いがこもっているもの」を、いかに二人で研究に仕立てていくかです。もっとも楽しく苦しい(Hard fun)ところです。

 ▼

 今日は「研究として成立すること」と「研究したいこと」の微妙な関係を書きました。
 人が思いきり思考し、心ゆくまで探究できる期間は、そう長いわけではありません。僕はいつもそう思って仕事をしています。

 思いのある研究が、世の中に増えることを願います。
 「今、ここ」の瞬間は、思った以上に、短いかもしれません。
 心ゆくまで暴れなさいな(笑)。

 今週も頑張りましょう。
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月24日 06:44


「自分探し」というメタファが危険な3つの理由!? : 人生は「違和感」と「ピボットターン」である!?

 かなり前のことになりますが、ある若い学生さんと話していたとき、こんな一言をもらしました。

「先生、わたし、今、"自分探し中"なんです。何をしてよいかわからないし、何からはじめてよいかもわからない」

 なるほどね(笑)。

 まー、僕自身も今の職業につこうと思ったのは大学4年生の時、もしかしたら、「本当に仕事につけるんぢゃなかろうか」と「妄想 of 妄想」を感じたのは博士課程1年生の頃でしたら(笑)、大学1年生から、なかなかそれを探すのも難しいんじゃない、と思います。

 こういう問いに対しては、いつもでしたら、

「あわてない、あわてない、ひとやすみ、ひとやすみ」

 と「一休さん的」にかえすのですが、

「あっやばい、この世代には、一休さん、わかんないかも」

 と思ったことと(笑)、すこし思い詰めている顔色だったので、もう少しだけお話をすることにしました。

  ▼

 自分のやりたいことがわからない
 僕、「自分探し中」なんです

 こういう話をきくと、いつも思い出してしまう言葉があります。
 北九州市立大学の見舘先生から以前教えてもらったもので、役者の役所広司さんがどこかでおっしゃっていた言葉だそうです。

 自分探しって言いますけどね、
 見つかりませんよ。
 自分は「ここ」にいるんだから
 (役所広司)

 
 先ほどの学生さんは「自分探し中」と自己を表明なさっていましたが、それを伺った僕の感想も、まさに役所さんの気持ちそのもので、まったく共感できます。
 さらに思索を深めていくと、90年代に流行した「自分探し」というメタファは、少し危険だよな、とも思ってしまいます。

 「自分探し」というメタファは、

1.「現在の自分」とは「遠くかけはなれた場所」に、どこか「今の自分とは異なる自分」がいると考えてしまう点

2.「今の自分の周囲においてやらなければならないこと」と「理想の自分を探すこと」が乖離しているようなイメージを与えてしまう点

3.そして「探す」というメタファには「終わりはない」と感じさせてしまう点=すなわち、「永遠に自分探し中」となってしまう可能性がゼロではない点

 において、僕は大変危険だと思っています。
 僕はたぶん自分の子どもに「自分を探せ」とは死んでもいわないと思います。
 だって、おまえ、ここにいるぢゃんか(笑)。

 このメタファを過剰に信じてしまうと、「現在の自分」を放棄して、「今の自分」を探そうとするのではないでしょうか。
 あるいは、「今自分がやらなければならないこと」と「理想の自分を探すこと」が「別物」だと考えてしまうのではないでしょうか。

 僕はそうした状態を懸念します。
 そして、僕の持論はこれとは「まったく逆」です。

 ワンセンテンスで申し上げますが、

 自分を探してはいけません。
 あなたは「ここにいる」のです。
 そして
 今のあなたが「すべての起点」です。

「結局、今の自分なんだ・・・」

 このことから議論をはじめることは、一見、希望も夢もないように感じるかもしれません。しかし、ここがすべてへの前提です。すべての起点は「今の自分を受け入れること」です。そのうえで、さらに行動を為していきます。
 そして、ここからの行動を要約しているのが、僕の持論である「人生ピボットターン理論」と「人生は違和感理論」という2つの「なんちゃって理論」です。

 大学には、自分のやりたいことを見つけたい若者が、毎年はいってきます。いちおう、なんちゃって大学教員の小生も、そうした若者に相対することも少なくなく・・・・そんなとき、僕は「人生ピボットターン理論」と「人生は違和感理論」という「なんちゃって持論」を、ひそかにお伝えします。

「将来、何をしていいかわからないんですぅ」
「どんな仕事についていいか、わかんないですけんのー」

 といったような就職活動手前の学生さんが、今仮にいたとして、万が一人生最大の過ちを犯し(笑い)、「他人の話を聞けない星人」であるこの僕に(笑)、人生相談なんかをしはじめちゃったとして、もし僕が、彼/彼女に語りうることがあるのだとしたら、それはひと言。

 「人生の選択とはピボットターンです」(笑)。
 「やりたいことは"やったあとの違和感"から見つけなさい」(笑)

 そう告げるでしょう。

  ▼

 前者、「人生ピボットターン理論」とは、バスケットのピボットターンに由来します。「ピボットターン」とは「片方の足を「軸足」として動かさないで、もう片方の足でくるくると移動する、ちょっと奇妙なアレ」ですね。
 ピボット(Pivot)とは「軸」という意味ですので、ピボットターンは「軸足を使った旋回」ということになりますね。

 周知のように、バスケでは、いったん立ち止まると、「両方の足を動かしちゃう」と、バイオレーション(違反)になります。「両足」はいっぺんに動かせない。いったん動きをとめた選手は、必ず、「軸足」を決めて、「もう片方の足」で、くるくると回り出す。
 ほんでもって、パスして、次に動き出すのが一般的ですよね。つまり立ち止まったからには、「くるくる」がある。きっと、若い頃、皆さんもやったことあるでしょう。

 ほんでもって・・・第一の理論「人生はピボットターンである」という僕の言葉の真意、要するに言いたいことは「何か」と申しますと、2つです。

 まずひとつめ、それは「軸足」の大切さです。

「何か新しいことを発見したいと思うときには」には、まずは自分の「軸足」をどこに定めるかが大切なんだよ、ということです。軸足ですから、今の自分がたっている地平にしか、そのきっかけはありません。「軸足」は「今まで自分がやってきたことのなかしかない」ということです。

 あなたは「自分が、今までやってきた経験・培ってきたノウハウ」を「軸」にするしかない。とはいえ、「過去は変えられません」ので、あなたが「自分の過去」の中から、何かひとつを「軸」として「意味づけるしかない」ということです。

 まずは、大きく息をすって、地に足をつけてください。
 そして「軸足」を決めて下さい。
 あるいは
 「軸足」を意味づけて下さい。
 

 「軸足」は決めるしかありません。
 「後付意味づけ力」も大いに駆使して下さい。「軸足」だと信じて意味づけるものが「軸足」になります。軸足の根拠である「過去」は変えられません。でも、意味は自由に付与することができます。

 その上でさらに、大切なことは、「軸足ではない、もう片足の自由奔放さ」です。
 これがふたつめです。

 あなたがどんなに新しい領域に踏み出そうとした場合にでも、「軸になる足」だけは決して動かさず、逆に、自由になる反対側の足は、縦横矛盾に「くるり」「くるり」と動かす。

 ここで大変に重要なことがあります。
 それは、僕の第二の持論「人生は違和感理論」に関係します。
「人生は違和感理論」は「自由奔放な片足=軸足ではない足」をいかに動かすかということに関係します。

 「人生は違和感理論」とは、ワンセンテンスで申し上げますと、

 自分の「やりたいこと」がわかるヒントは、やってみて、違和感を感じてみなきゃわからない、ということです。
 人は「次の行動の指針」を決めるとき、「やる前に思っていたこと」と「やってみたあとに率直に感じたこと」のあいだの「ズレ」や「違和感」を感じることからしか判断はできない、ということです。

 やってみて、「あっ思っていたことと違うな」という違和感を感じれば、他のことにチャレンジすれば良い。やってみて、なんか悪くないなと思えば、そのままやりつづけてみればいい。つまりすべての判断の根拠は「違い」であり「違和感」なのです。

「自由奔放な片足」をおっかなびっくりある地点におろし、何かを実際にやってみる。そこで「やってみたあとに率直に感じたこと」が「自分の心の声」と近いなら、とりあえずは、そのままやりつづけてみる。
 もし、万が一、違いを感じてしまったのなら、また「自由奔放な足」を他の場所にうつし、自分のやりたいことに近くなるまで、トライしてみる。
 僕は、こうした行動の積み重ねでしか、人は、やりたいことがわからないし、意味づけられないんだろうな、と思います。とりあえずは、いつかは、必ず落ち着くことを信じて。実際のリアル社会では、泣いても、吠えても、「落ち着かざるをえないリミット」がやがておとずれます。

 もっとも避けたいのは「動きださないこと」です。
 動きださず、片足も動かさず、ただただ「考えてしまうこと」です。
 そう、立ち止まって「自分探しの夢想」をしてしまうことです。
 
 若い人に求められることは「自分を探す」なんていうメタファに酔うことではありません。

 まずは地に足をつけることです。
 そのうえで、自分の軸足を見つけることです。
 さらには、自由奔放な片足を、心ゆくまでまずは「何でもかんでも手あたり次第にやってみて」大いに「違和感」を感じなさいな(笑)。

 大丈夫、「違和感」を感じたくらいじゃ、人は、くたばりません。
「シオシオのパー」にはならないし、「手遅れ」にもならないから(笑)。

   ▼

 今日は「人生ピボットターン理論」と「人生違和感理論」を紹介しました(笑)これらはアカデミックでもなんでもない、単なる「僕の持論」なので、真に受けなくて結構です。でもね、気持ちはわかるよ。僕も、ずいぶん時間がかかったから。

 やりたいこと、見つけられるといいね。
 地に足をつけてな。
 動き出してみなよ。

 違和感、心ゆくまで、感じなさいな。
 大丈夫、世界はほんとに広いから。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月20日 06:27


組織開発ができる人に必要な4つのスキルとは何か?:組織開発ができる人をいかに育成できるのか?

 今期の大学院・中原ゼミでは、「対話型組織開発」の英語文献を大学院生・共同研究者の方々と読んでいます。

 組織開発については、このブログでも何度か書いておりますが、専門家に「便所スリッパ」で後頭部をひっぱたかれることを覚悟してスリーセンテンス?で申し上げますと、

1.人を集めてもテンデバラバラで、成果がだせない場合に、
2.あの手この手をつかって、
3.組織やチームを何とか「Work」させようとする働きかけ

 のことをいいます。

 さらにさらにキューキューと言葉をしぼり、組織開発をワンセンテンスで申し上げますと、

 組織開発とは「テンデバラバラの状態」から「組織として体をなしている状態」への「外的介入」による「移行」のこと

 をいいます。

 そして、組織開発には、さまざまな「手法=打ち手=やり方」がございます。「組織やチームを何とか「Work」させようとする働きかけ」といっても、「打ち手」や「やり方」はさまざまでしょう。この本のメインテーマである「対話型組織開発」は、そのうちのひとつです。

 対話型組織開発とは

「テンデバラバラの組織の当事者たちに、まず同じテーブルに集まって、組織のことをテーマにした対話を繰り返し行っていくことで、今までの組織のあり方をリフレクションしつつ、未来を議論し、決めてもらうこと」

 をいいます。

 一方、これはおまけですが、もうひとつの大きな流派?である「診断型組織開発」とは、

「質問紙調査やヒアリングなどの手法によって、外部の専門家が、現場を見える化して、そこで出てきた現実を、現場の人々に解釈・吟味してもらい、同じテーブルに全員つかせて、これからの組織のあり方を議論し、決めてもらうこと」

 のことをいいます。

 でも、僕自身は、この2つは哲学的な前提こそは違いこそすれ、実際に現象レベルではあまり変わらないなとも思っています。

 要するに、究極に、野蛮に、かつ、アンチアカデミックに申し上げますと、組織開発を現象レベルでとらえると、下記の3つのプロセスから成立します。

1.「組織の現実」を「見える化」すること
2.同じテーブルにメンバーに座らせ、せーので「組織の現実」を「提示すること」
3.「で、どうすんの?」と問いかけ、「組織のこれから」をメンバーに話し合わせること

 です。

 入試テストみたいに、もっと要約しろと言われるのならば(遠い過去なので忘れましたが、笑)

 組織開発とは

 組織の「見える化」と「立て直しの対話」

 ザッツオールです。

(厳密にいうと「組織の現実」ではなく「組織の現実と認識しうるもの」を提示するのですね。ここではややこしいので「組織の現実」と簡便的な記述にとどめます。この「組織の現実」をいかに定義し、どのような「手段」で把握できると考えるのかによって、組織開発の諸派が位置する哲学的前提が異なります。この部分だけで授業だったら、3コマ使います、笑。またいつか時間があったら話をいたします)

 これで、今日のお話しの予備知識は、だいたいOKですね。

  ▼

 大学院ゼミでは、中澤明子先生が、「対話型組織開発のコンサルタントにはどのようなスキルセットが必要か?」というStorch(2015)さんの論文を報告してくれました(ありがとうございます!)。

 Storch(2015)では、Pearce and pearch(2000)を参照しつつ、対話型組織開発のコンサルタントには、下記の4つのスキルが必要であると述べてありました(説明の部分は中原が捕捉します)。

1.戦略的なプロセスデザインのスキル
 テンデバラバラの参加者達に対話を行ってもらいながら、次第に、目的・成果・戦略にゆるやかに、その対話を組織しつつ、「全員が腹オチするような首尾一貫したストーリー」をつむいでいくスキルです。
 ただ対話をしてもらうだけじゃ困るのです。その対話はつねに戦略・目的を意識したものでなくてはなりません。しかし、戦略や目的志向性がある対話といっても、テンデバラバラじゃ困ります。全員がある程度納得する首尾一貫したストーリーがそこには必要になります。こうしたことを可能にするのが第一のスキルです。

2.イベントデザインのスキル
 対話型組織開発では、ワールドカフェやら、ほにゃららやら、定型的な対話手法も用いますが、それだけではありません。場合によっては、様々な手法を駆使し、皆の行動を制御し、コトをおこしていく必要があります。そのためにコンサルタントは、さまざまな対話の型やレパートリーを保持している必要があります。

「引き出し」がないコンサルタントは、自分がもっている数少ない「打ち手」を、さして「場にフィットしない手法」であるのにもかかわらず、むやみやたらに「適用」してしまうことになります。
 またコンサルタントの中には「ある特定の打ち手しか興味のない人」=ほにゃらら手法の信者みたいな感じでしょうか」もいて、そうした方の場合には、同じく、「その手法がさして場にフィットしない」のにもかかわらず、引き出しがないので「特定の打ち手」を適用します。そして、これでは困るのです。
 イベントデザインのスキルとは、場に適応的に、応答的に「コト=イベント」をつくりだしていくスキルです。そのためには、コンサルタント自らがさまざまな手法を常に学び続けなければなりません。

3.対話的なファシリテーションのスキル
 人々の発話や対話をうながすスキルです。組織開発とは、本当にガチにはじめると、人間の生々しく、どろどろした思いや不満が噴出します。「みんな仲良くおててつないでちーぱっぱ」ではすまないのが「組織開発」です。「綺麗な組織開発」というのはあまり想定できません。

 対話的なファシリテーションとは、そうした場をサバイブし、人々の発話や対話をうながす技術です。ここには、様々な発問技術がふくまれます。

 たとえば、「参加者の発言や問いをつないでいく介入:循環的質問」「参加者の超ネガティブな反応を、ポジティブに転換していくための問い:フレーミング技術」「意図的に会話に参加できるものとできぬものをつくりだし、客観的なフィードバックを提供すること:リフレクティングチーム」などがあります。

  ▼

 かくして、こうした3つのスキルを駆使して、コンサルタントは、とにかく「応答的」に場をつくっていくことが求められます。「応答的」とは参加者の振るまいや行動を「観察」し、次の行動や介入を「即興的」につくりだしていくことと解釈できるでしょう。

 そして、そのためには、4つめの「インワードスキル」とよばれるものも、組織開発コンサルタントに必要になります。

 4つめの「インワードスキル」とは、

1.自分の周囲に起こっていることを「観察」すること
2.1で得られた情報から、自分を律し、立て直すこと
3.場のもつ曖昧さや不確実性に耐え得ること

 をさします。わかりやすくいえば「メタ認知(自分の認知をメタな立場からモニタリングして、コントロールしていくこと)」に近いのかなと思います。

 自らをリフレクションしていくことは、コンサルタントのみならず、現代社会を生きるすべての人々に必須のスキルだとは思います。

 またでてきたでしょ、、、
 みんな言うでしょ?
 本当に大事なんですよ。

 ▼

 今日は大学院ゼミの英語文献購読の話をさせていただきました。僕は文献購読のご報告を受けながら、ここ数ヶ月に自分の周囲であった出来事を思い出していました。

 ここ数ヶ月のあいだに、僕は、複数の会社の経営・人事の担当の方から、下記のようなご相談を受けました。

「自社で、戦略的に組織開発ができる人材を養成し、各部門で展開したいと思っている。何かよい知惠はないだろうか? 自社にフィットした柔軟なODができる人をいかに育成することができるだろうか? 理論にピュアなODができる人というよりは、自社にフィットしたODを現場の人と一緒に考えて実践できる人は、どう育成したらいいんだろうか?」

 最初は、そんなこともあるんだなと思っていたのですが、複数の方から、そうした話を同時に伺うというのは、おそらく何かのシンクロニシティが、この時代に起こっているのかなとも思います。

 人事が「戦略・経営のパートナー」になろうとするとき、HRDにくわえ、OD的な観点から、さまざまな変革を現場にもたらす諸力を提供する原動力になるというのは、よく言われていることです。
 といいましょうか、僕の本心を申しますと、HRDとODを分ける思考すら、もっというと、CD(Career Development : CDといいます)とHRDとODをわける思考すら、僕には実際にピンときません。
 それらは、本来、「学ぶこと」を補助線にしながら、密接につながっているものだと思います。これに関しては、また別の機会に述べさせて頂きます。

 さて、ひるがえって、先の問いです。

 ODを実施していく人をいかに育成していくか?

 おそらく、間違いのないことは

「ODができる人は、座学だけでは育たない」

 ということです。

「ODができる人は、ODを経験し、次に自らODを為していくこと」からしか育成できないような気もします。もちろん、そのうえで必要ならば、座学もいるでしょう。

 しかし、この場合、「ただ漫然とODやりました」では、なかなかODを可能にしていくことはできません。何らかのスキルセットを同定し、それを基準として、自らを振り返っていく必要があるように思います。

 今日の英語文献は、そうした場合に参考になる話だなとも思いました。素晴らしい文献購読をありがとうございました。

 そして人生はつづく

 ーーー

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投稿者 jun : 2015年11月19日 06:21


あったら怖い「学習放棄する人材開発」「画一的なダイバーシティ」!?

 「人にまつわる仕事」というのは、「他人に投げたブーメランが、自分にかえってくる」という性質があります。
他人に投げつけた問いや主張が「再帰的」に自己にも当然のことながら適用されるということです。

 僕は、おりにふれて、ーたいていは自分の身辺で何かがおこったときーこのことをつくづく思います(笑)。

  ▼

 このブログでは、何度も何度もでてくる話題ですが、たとえば「人材開発」の仕事であれば、

 あなたは他人に「学べ」という
 そういうあなたはどうなんだ?
 あなたは「学んで」いるのか?

 あなたは他人に「変わり続けろ」という
 そういうあなたはどうなんだ?
 あなたは「変わり続けて」いるのか?

 ということになります。

 世の中には、自分が学び、変わる覚悟がないのに、他人に学べ、変われ、と主張する言説が、残念ながら存在します。

  ▼

 たとえば、ダイバーシティ(多様性による経営)の仕事ならば、

 あなたは「ダイバーシティ」が大切だという
 そういう、あなたはどうなんだ?
 あなたは「ダイバーシティ」の中で仕事をしているのか?
 その主張は「他者にひらかれて議論されている」のか?

 ということになるのでしょう。

「ダイバーシティが大切だ」という主張そのものが、「画一性」を呈することになったとしたら、それは自己矛盾です。

 ひるがえって「教える」ということであるならば、

 あなたは、わたしに「ちゃんと教えて考えさせろ」という
 そういう、あなたはどうなんだ?
 あなたの授業は、ちゃんと「教えられて」いるのか?

 ということになります。

 リーダーシップの場合ならば、

 あなたは、わたしに「ちゃんとリーダーシップを発揮せよ!」という
 そういう、あなたはどうなんだ?
 あなたの組織では、リーダーシップが生まれているのか?

 ということになるでしょう?

  ▼

 注意したいのは、この「再帰性」に耐えられないからといって、別に、同種の言説を生み出す主体になってはいけないというわけではありません。何をいうかは個人の自由です。

 リーダーシップを発揮できない人が、「リーダーシップを他者にもとめて」も
 ちゃんと教えられない人が、他人に「ちゃんと教えろ」といっても、
 自ら学べていない人が、他人に「学べ」と述べても、
 ダイバーシティを主張する人が、こちこちマインドセットでも、

 それは論理的には「許容」されます。また、繰り返しになりますが、それは個人の自由です。お好きにすればいい。

 しかし「それを言われる側の感情」としては、そうはいきません。「おまえが言うなよ」ということになります。

 要するにワンセンテンスで申し上げますと「説得力がない」ということです。以上。

  ▼

 このように、人にまつわる仕事は、いつも緊張感が漂います。そして、この「緊張感」が最近感じられないなと思ったら、そこには「惰性」が忍び寄っているのかもしれません。自戒をこめて。

 そして人生はつづく
 

投稿者 jun : 2015年11月18日 07:08


「ごくごく自然にフィードバックを行える組織」と「いくら研修しても1ミリも実行されない組織」!?

 先だって、研究室OBの関根さん、舘野さんが中心になって立ち上げた「フィードバック研究会」に参加させて頂きました。

 研究会には15名程度の参加者の方々にご参加いただき、中原もその参加者の一人でした。途中やむなく中座や遅刻がありましたが、一参加者として研究会の席に座れることは、僕にとってはうれしいことです。

 まずは、ご参加いただいた皆様、立ち上げてくださった関根さん、舘野さんに心より感謝いたします。貴重な学びの機会をありがとうございました。

  ▼

 フィードバックとは、研究分野ごとに、あるいは様々な学問的思潮に応じてさまざまな定義がございますが、さっくりと2つお要素にわけますと下記の2点から構成されます。

 1.パフォーマンスに対する結果の通知を行うこと
   (スパイシーメッセージング)

 2.パフォーマンスの立て直し、学び直しを支援すること
   (ラーニングサポート)

 世間的にはフィードバックと申しますと、1の要素が強いですね。世の中では「フィードバック」ときくと、期末の「評価面談」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

「あのさー、中原君ね、今期はさ、こうで、こうで、こうで、こうだったから、君、Cね(あべし)」

 みたいな(泣)。

 しかし、学問的には、フィードバックは「こうで、こうで、こうだったから今期はCね」的な「結果の通知」だけ「ではなく」、そこからの「立て直し」をふくむ概念です。

「Cね・・・で、どうする?」

 からフィードバックの後半ははじまり、立て直そうとする人々に「寄り添うこと」がフィードバックの本質です。だから、僕は、フィードバックは、もっと「学び直し」の側面が注目されてもいいと思っています。

 ま、そんなこんなもあり(意味不明接続ワード)、研究会では、行動主義、認知主義、さまざまな領域のフィードバックに関する論文をみなで読みました。

  ▼

 研究会で、僕は、Feedback seeking(フィードバック探索行動)に関する英語文献をよみ、報告させていただきました。

 フィードバック探索行動とは、

「フィードバックを自ら進んで他者に求めにいく行動」

 のことです。
 一般にフィードバックは「与える方」の視点から研究されることが多いのですが、僕の論文では「フィードバックを求めにいく視点」から研究がなされていました。

 うーん、もっとイメージをわきやすくすると、たとえば、何か自分が物事をなしとげたとき、「(その物事が)他の人からはどう見えているのかな?」と思うときはないでしょうか。で、こう聞きたくなるときはないですか?

「ねー、高橋さん、さっきの僕の発表、どう見えた?どう思う?」

 簡単にざっくりと申しますと、これも「フィードバック探索行動」といってよいものですね。

 そして、僕が読んだ論文では、フィードバック探索行動は、当人が所属している組織の文化の影響をかなり受けるんだよね、ということが主張されておりました。

 この世には、

「ねー、さっきの僕の発表、どう見えた?どう思う?」

 と聞くことがメンバー間で容易に行われる組織と、そうじゃない組織がある。
 こういうことがオフィシャルに実行される組織もあれば、インフォーマルに実行される組織もある、ということですね。

 これは感覚的に何となくわかりやすいなと思います。

 たとえば、「フィードバックって大事ですよね」といくら研修しても、これが1ミリも「定着」しない組織ってのも容易に想像できるのではないでしょうか。フィードバックという行為自体が、組織的に受け入れられない、みたいな。
 
 論文では、これを説明するために、フィードバック探索行動に関する「3つのコスト」が(説明のための中間項として)紹介されていました。フィードバックには「Effort cost」「Face cost」「Inference cost」という3つのコストが存在します。

1.Effort cost = そもそもフィードバックを探すコスト
 フィードバックは「何を言われるか」も重要ですが、「誰」から言われるかは大きくないですか。そもそもフィードバックをしてくれる人を得られるのか、得られないのか、ということがまず問題になります。

2.Face cost = フィードバックのために実際に他者と対面するコスト
 フィードバックには、やはり時間的コストがかかります。生身の二人以上の人間が相対し、それなりの時間をかけなければならないからです。こうしたコストをFace costとよびましょう。
 
3.Inference cost=得られたフィードバックを解釈し実行するコスト
 せっかく得られたフィードバックを解釈し、実行していくのは、それなりの負荷がかかります。大人の学びは「痛み」が伴うものです。得られたフィードバックを正しく受け止め、正しく実行していくプロセスのコストです。

 そして、こうしたコストを受け入れたりすることができるかどうかは、所属している組織文化の影響を受けます。

 たとえば、

 超官僚主義的で、超多忙な組織で、かつ、隣り合って仕事をしている人に1ミリも興味も関心もない組織では、フィードバックを探す気にはなれないでしょう?

 これはEffort costとFace costが高いことが、その障害になっている可能性があるということでしょうか。
 組織文化という得体のしれないものに「コストの中間項」を挟み込むことで、フィードバック探索行動への影響過程を説明しようとするところが、論文のオリジナリティだったのかな、とも思います。

 まことに面白いですね。

 皆さんの組織はいかがですか? 
 フィードバックのコスト、高いですか? それとも低いですか?

  ▼

 今日はフィードバック研究会について書きました。アカデミックな勉強会、研究会は、研究室の大学院やOBの皆さんが自主的に立ち上げてくださっています。本当に幸せなことです。僕は主に文献の選定などを行っています。

 次回は、おそらく1月から3月くらいにかけて、こちらを読もうと思います。

 テーマは、

「コーチングとリーダーシップ開発」

 です。また、皆さんと議論できることを心より楽しみにしております。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月17日 06:18


ドッチボール練習を通じた「メタ認知の訓練」!?:CUN課題を乗り越えろ!

 育ち盛りの男の子が2名もおりますと、週末の我が家は大変なものです。この状況、ワンセンテンスで申し上げますと、

 「やかましい! やかましい! やかましい!」

 三語連続のこの1文しか、僕の頭には思い浮かびません(笑)。
 まー、次からつぎへと、散らかし放題、遊び放題、阿鼻叫喚。こっちで叫び声が聞こえたと思ったら、こっちでは爆走してる。もちろん、親も彼らにつきあって「遊ぶ」のですけれども、さんざん、これでもかというほど「遊んだ」あとに、

 「ねー、今日、いつ遊ぶの?」

 と言われた日には、腰が砕けてウンチョスダダ漏れになりそうでした。
 最近の我が家の週末は、毎回、そんな感じです。ブレーキのないジェットコースターに乗っかったみたいで、気がつけば、月曜日の朝になっています(笑)

 ▼

 せんだっての週末、小生は、上の愚息TAKUZO担当でした。午後などは一緒に「ボール投げの練習」などをやっておりました。

 最近、TAKUZOの学校では「ドッチボール」が流行っているらしいのですが、ここにTAKUZOの悩みがありました。
 それは、TAKUZOのボールのスピードです。TAKUZOのボールは、どうにも「へなちょこ」で、蚊が2匹くらい止まってお茶菓子をつまんでそうな勢いだったのですね。またベクトルも「いつもあさって」であり、ボールはどこに飛んでいくかが予測不能状態に陥っていました。

 どうやら、これまで、何も考えずに、見よう見まねで、適当にボール投げをしてきたらしく、その結果が、「へなちょこ+あさって」ということになっていたようです。
 これらを向上させるというのが、この日の練習の目標でした。

  ▼

 まずは「なぜボールが遅いのか?」を考えます。
 議論のすえ、どうやら、主因は「ボールを身体でなげるのではなく、手で投げているからだ」とわかりました。ならば、どうやって身体をつかってなげるか。投げる前に足をあげて身体をねじる練習をしました。

 おつぎはベクトルです。これはTAKUZOの投球場面をビデオ撮影することを実施しました。すると、その原因が「ボールをなげる瞬間に、視線をボールの飛んでいる方向をむける」ことができていないことから発生していると、彼自身が気づきました。

 結局、自分自身で「わかったこと」しか、人は物事を変えられないのです。
 子どもですらそう。大人ならば、あに、いわんや。
 ボールを投げるときには、きちんと相手を見る練習をしました。
 
 練習のかいあって、当社比20%アップくらいまでは向上しました。まだまだ改善の余地はありますが、1時間の練習では、こんなものでしょう。

  ▼

 この練習のプロセスにおいて、僕は、ボール投げ以外に、ひとつのことを考えていました。

「遅かれ早かれ、僕は、いつか、この子の目の前から、姿を消すときがくる。そのときに、この子は、自分一人で、メタの立ち位置にたって、自分で問題を分析して、仮説をたて、練習することができるだろうか。何とか、その癖をつけさせなければ・・・。

なんてことはない、ドッチボールの練習だって経験学習だし、リフレクションだ。ドッチボールを練習するという、たかがそれだけのことからも、メタにたつ練習ができる。これからを生きる子たちには、もう一段上のことを学んで欲しい。それが「メタにたって考える癖」だ。」

 この後、TAKUZOとは

「相手がキャッチできない場所にボールを投げるためにはどうするか?」
「受け取ることが難しい場所とはどこか?」

 を考えました。

 ポワンとした子なので、なぜ、投げることをひたすらやらずに、「二人で考えるのか」がわかっているような、わかっていないような感じ(笑)です。が、親としては、ぜひ、そういうトレーニングを積んで欲しいなと思います。たかがボール投げの練習からでも。

  ▼

 CUN課題という言葉があります。

 CUNとは「Complex, Unfamiliar and Non routine Task」の略で、「複雑で慣れ親しんでない、ルーティン化されない課題」ということです。

 これからの現代社会を生きる人々にとって社会が要請してくる「問題解決」とは、まさにCUN課題へのタックルであり、挑戦です。そして、CUN課題にうまく対処するためには「メタにたつ癖」が必要です。なぜなら、

CUN課題とは「どこから手をつけてよいか、そのとっかかりさえ見えない課題」だからです。

 そんな課題に対処するためには、

1.わからない課題が生じても、びびらない、諦めない
2.「前向き」にまずはやってみる
3.やってみた結果をメタにたってリフレクションする
4.未来のやり方を考える
 
 ことが不可欠です。これは「メタにたつ癖があるかないか」と無縁ではありません。

 そして、重要なことは、CUN課題に対処する前には、まずは「Routine Task」において「メタにたつ癖」を獲得することです。いきなりCUN課題の課題解決はハードルは高いものです。まずは、簡単なRoutine Taskにおいても、メタにたつ訓練をしたいものです。

 たかがドッチボールですが、されどドッチボールなのです。
 TAKUZOと「ボール投げの練習」をしながら、僕は、そんなことを考えていました。

 今週も頑張りましょう!
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月16日 06:41


スーパー他責ピーポー「くれない族」にご用心!?

 せんだって、学内のある会議で議論していたとき「くれない族」という言葉があるのを、うかがいました。

「くれない族」とは「あの人は〜くれない」「課長は〜してくれない」と、様々なところで不平不満を「他者の行動」に向け、「くれない」「くれない」を連発する「スーパー他責ピーポー」のことをいうのだそうです。
「被害者意識満載のスーパー他責ピーポー」、それが「くれない族」です。なんで、こんなものが議論の対象にのぼるんだか(笑)。

 僕のあまり長くはない人生経験をもってみても、確かに、そういう人っているよね、と思います。うん、3万人くらいはいる(笑)。きっと(笑)。

  ▼

「くれない族」は「今起こっている不都合な現象」に対して、自分が及ぼしている影響力のことを1ミリも考慮せず、常に「傍観者」的視点から、周囲の行動のみを批判します。

 興味深いのは、ある事象に対する「自己の要因」は、くれない族の頭からは、都合良く、きれいさっぱり抜け落ちていることです。

 「くれない族」の態度は、おそらく、長らくの経験の蓄積から、「学習」されてしまったものだと認識しています。

  ▼

 対して、この世に「反くれない族的志向」というものが存在しうるのだとすれば、それは、

 周囲にどんな「面倒な事態」が起こったとしても、自分の行動や認知が、その事態に及ぼしている影響はゼロではないことを想像すること

 そして、

 もし自己が「面倒な事態」に少しでも影響していたのだとしたら、「面倒な事態の変革」に、何らかのかたちで貢献しようと思う「意志」をもつことだと思います。

「主体性」というのは、巷でよく使われる言葉ですが、僕は、そういう知的態度こそ、「主体性」とよぶのにふさわしいのではないかと思います。

  ▼

 僕個人の考えを述べれば、「主体性」とは、「自分の頭で考えること」でも「自分自身で動くこと」というレベルのものではありません。
「自分勝手に考えること」や「自分の意志で動くこと」は、要するに「How」の部分を規定している概念であり、それほど難しいものではありません。あるいは、いくらでも「ふり」ができると僕は思います。

 都合良く「自分で考えて動く」のだけれども、起こっている事態にはコミットせず、「くれない」「くれない」を連発するってことは容易に想像できます。僕は、そういう事態を「主体性」という用語で把握したくはありません。

 ここでもっとも重要なのは「動くこと」や「考えること」の「宛先」であり「到達点」です。
「何」に対して、あなたは考え、動くのか。そして「何」をめざすのか?という「What」がもっとも大切なことであるように思います。

 僕は「主体性」という言葉を「今、ここで起こっている事態」に、自らの身体を投企し、潔く動くことをよしとするか、否か、という「腹のくくり方」のことを指示するもの使いたいと思います。

 そして、トートロジカルになることを承知しつつ申し上げますが、こうした「主体性」は、主体生を行使する経験を通してしか獲得できません。

「今ここで起こっている事態」に対して、自らが影響力が存在しうることを想像すること

 その上で

「今ここで起こっている事態の変革」に対して、自らが為すべきレベルで貢献を行うこと

 こうしたスパイシーな経験を蓄積することでしか、こうした態度は身につかないのだと思います。
かくして、「主体性を獲得するためには、主体性を行使する場面が必要になる」という奇妙奇天烈な関係が成立します。

 ▼

 今日は「くれない族」と「主体性」について書きました。
 
 個人的な思いを綴ったので、そのあたりは差し引いてお読み頂ければと思いますが、願わくば、これからの時代を生きる若い人々には「主体性」を行使する経験を、なるべく早くからもっておいて欲しいと願います。

「くれない」「くれない」を連発していても、誰も「くれない」よ。
 
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月13日 06:30


マネジャーが「自分でやらなければならないもの」とは何か?:「自分しかできない」という思い込みを解く!?

 先だって、日本生産性本部さんとのプロジェクト「マネジメントディスカバリー」での打ち合わせ会議で、

「なぜマネジャーは、プレーヤーとマネジャーのバランスがとることに、つまづいてしまうのか?」

 ということが議論になりました。関係者のみなさま、お疲れ様です。

 駆け出し期のマネジャーが、「プレイング時間」を大目にとり、「マネジメント」にあまり注力しないことが、職場のマネジメント不全をまねき、結局「実務担当者」から「マネジャー」への「役割移行」につまづくことになってしまうことが少なくありません。
 その日の議論は、こうした認識にたち、いかにこれを防止するかということでした。

 この問いに関しては、

「いや、そもそもやることが多いから」
「いや、そもそも忙しすぎるから」
「ていうか、この量、無理だから」

 という「もっともな反応」が生まれることは了承しつつも、それらをいったんわきにおき、マネジャーの仕事時間の中で「本当にマネジャーがやらなければならないこと」と「本来はマネジャーがやらなくてもいいこと」を峻別する必要があるね、という話になりました。

 具体的に申しますと、要するに

「本当にマネジャーがやらなければならないこと」

 と下記の2つ

「本来はマネジャーがやるべきことではないのに、本人の中には、強固に、自分がやらなければならない、自分しかできる人がいないと思っているもの」

 や

「本来は、マネジャーがやるべきことではないのに、本人としては、自分が率先してやりたいと思っているもの」

 を整理するということであり、後者は率先して「他に任せる」ということです。
 そういう風に、任せられる仕事は他人に任せ、自らマネジメントにあてる時間をつくらなければ、おそらく、マネジャーは成果をだすことが難しくなってしまうのではないかと思うのです。

  ▼

 これに関しては、マネジャーの皆さんが集まる研修やワークショップで、自分のスケジュール帳をだしていただき「自分がやらなければならないもの」を書き出すワークをやると、大変興味深いことが起こります。
 まずは、見事に「自分がやらなければならないもの」が果てしなく列挙されます。

 しかし、ここで、

「ほんとに、ほんとうに、この中に、あるのは、自分がやらなければならないもの」だけですか?

 と問いかけると、うーんと唸ってしまわれる方がいらっしゃいます。

「そういわれてみれば、思い込んでいただけで、敢えて、自分がやらなくてもよい仕事もあるな」

 とか

「まだ、現場に未練があって、この仕事を手放してしまうのは寂しいんだよね」

 とか

「他の人に、この仕事だけは明け渡したくないと思っている仕事もあるんだよね」

 とか

「慣習的に、これまでマネジャーがやることになっていた仕事なんだけど、別にマネジャーじゃなくてもいけるわ」

 というものが含まれることが少なくありません。

 要するに、すべてではないにせよ「自分がやらなければならない」と思っているものの中には、「思い込み」や「密かな願望」が含まれるということです。まぁ、それらが仕事のモティベターになっていることも少なくないので、すべて明け渡すことも難しいのですが。

  ▼
 
 今日は、マネジャーの時間管理についてのお話になりました。「時間」とは、すべての人に平等に与えられた「リソース」であり、それをいかに使うかは、成果に影響を与える要因になります。

 モモではないですが、この世は「時間泥棒さん」が満ちあふれています。「時間泥棒さん」に時間を盗まれてしまうと、自分の人生を生きるのではなく、他人の人生を生きることになります。

 穏やかに、自分の時間を生きたいものです。
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月12日 06:33


質疑応答で「シーン」となっちゃう事態を「避ける」ためにはどうするか?:会場から質問がバシバシでてくる司会者の発問テクニックとは何か!?

 

 質疑応答の際の一コマ。

 よく講演やセミナーなどで、講演終了後、会場から質問を受け付けるものの、まったくお客さんから質問が出ず、会場が「シーン」としてしまう場面に出くわせます。嗚呼、厳しい。非常に気まずいシーンです。

 しかし、この状況がなぜ生まれているのかを冷静に考えると、実は、こうした事態を避けるためのいくつかのコツがあることに気づかされます。僕は、これまで数多くの登壇経験を踏まえて、いくつかのコツ(言われてみればしょーもないことです)を編み出してきました。今日はそのことを書かせていただきましょう。

 ▼

 たとえば100名もの人間が会場にいながら、質疑応答の際「シーン」としてしまうのはなぜか。この事態を分析していくと、まずは下記の3つの回答が考えられます。現象はいつだって論理的です。

1.質問を考える時間がなかった=事前準備ができなかった
 質問を突然投げかけられたため、そもそも質問を考えていなかった

2.よい質問が浮かばない
 どうも考えが言葉にならない
 
3.手をあげて発言するのがはずかしい
 会場に緊張感が漂っていて、アホな質問ができなそうな雰囲気が漂っている

 これら3つの状況に対する対処法で、僕がよくやる方法は下記です。

  ▼

 まず、「1.考える時間がなかった」を防止する方法としては、会の冒頭、講演開始前の自己紹介の後など、

「今日は、質疑応答の時間があります。講演者のAさんも皆さんとの質疑を楽しみにしていらっしゃいます。皆さんに質問をだしてもらいますから、必ず1人1個は考えて下さいね」

 と事前に「打ち込んでおく」ことです。事前に「打ち込み」のない質疑応答には、「シーン」がつきまといます。僕は、質疑応答を突然はじめることはありません。突然質問を求めることもありません。必ず「考えてもらう時間」「準備してもらう時間」をもうけます。

 ▼

 2番の「よい質問が浮かばない」への対処は、講演内容が難しいときなどによく起こりがちです。「モヤモヤ」しているんだけど、そのことが、「言葉」にならない。でも、この言葉にならない状況を手をあげてぶちまけるには勇気がいる。そうしたときに、この状況が生まれます。

 結局、「質問ができる」ということは、それなりに「わかっていること」が求められるのです。

 で、いきなり質疑にいくのが難しいという場合には、

「質疑応答の前に、会場内で、ペアになってペアトークをしましょう。お互いに、今、きいた話で印象深かったことを話し合ってみてください。また、同時に、どんな疑問がわいたかを話し合ってみましょう。1人1個は、質問を考えて下さいね」

 としたりします。ペアトークで、「言葉にならない考え」を無理矢理、言葉にしていただくのです。ペアトークの後は、質疑応答にうつれば、たいていは質問がでるものです。

 3「手をあげて発言するのがはずかしい」を防止する方法は、「なんか、アホな質問をしてしまったらどうしよう?」とみなが思っているときに生じます。このときに必要な対処は「質問のハードルをさげること」です。

 じゃあ、どうするか。
 自分でやるしかありません。
 これは司会者である自分が、

「あのー、すみません。じゃあ、まずは、僕から、少し基本的なことから伺ってもいいですか?あのー・・・についてはどうなんでしょ。少し基本的な質問からですが」

 という具合にして、「ハードルの低い質問」を講演者に自ら投げかけることです。そうすれば、質問のハードルがぐんと下がります。

 経験上、ここまでやれば、ほぼ100%、1つくらいの質問がでるものですが、本当に、ここまでやってもダメな場合はどうするか。

 それは少し荒技なのですが、

 「シーンとしている状態を自ら消去し、会場に、質問例を提示する」

 という高等テクがございます。「シーンとした状態」がさらに場を重苦しくしてしまうので、「自分がしゃべることで、シーンという状況を消す」のです。

 すなわち、

「質問どなたかいらっしゃいませんか?(3秒くらい沈黙)質問ねぇ、、、たとえば、僕ですとね、・・・・なんてどうなんだろう?みたいな疑問がわきましたね。たとえば・・・についてはどうなんでしょうね・・・そういう質問、皆さんもでてきていると思うのですが・・・」

 という具合に、自ら「シーンという沈黙」を消去し、質問例を投げかけていきますと、たいてい、手があがります。

「シーンという沈黙」はそれを破るのも勇気がいります。それを司会者自らが引き受け、さらには質問例までだしてしまう、ということですね。
 司会者は、そんな事態に対処するため、常に内容を精査し、自ら質問を考えておくことですね。司会者というものは、講演者の名前を呼んで、会場に拍手を促す存在ではない、と僕は思っています。司会者とは、会場に問いかけ、考えさせる状況をつくりだす人のことをいうのだと思います。

  ▼

 最近、僕は、講演にくわえて、司会などをさせていただくことも多くなってきました。今日は、僕自身が編み出した?「質疑応答を制御するためのテクニック」をかかせていただきました。

 このほかにも、いろいろテクニックがありそうですね。

 皆さんは、どんな風にして「シーン」に対処していますか?
 
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月11日 06:52


中小企業の「人材育成メカニズム」をさぐる!?

 「成果を出せる人材」が生みだされる中小企業にはどんな秘密があるのか?

 ここ数年取り組んできた研究に、トーマツイノベーション株式会社のみなさま、研究室の保田さんとの共同研究がございます。

 わたしたちの共同研究の問いは、

 中小企業で実施され、成果があがっている「若手育成」とはどのようなものか?
 中小企業で実施され、成果があがっている「中堅管理職」「右腕育成」とはどのようなものか?

 を探究することでした。
 この問いを探究するための調査は今年の春に実施され、4種類の質問票を組み合わせ、中小企業の人材開発に「立体的」にアプローチすることにいたしました。この調査には、中小企業350社、2,800人以上の方々にご参画頂きました。貴重なお時間をたまわりましたことを心より感謝いたします。ありがとうございました。

   ▼

 この調査報告の第一弾の成果報告といたしましては、せんだって品川で「第一回人材育成イノベーションフォーラム」という会が開催されました。こちらのフォーラムには、わたしたちの想定を大幅に上回る1000名以上の皆様からお申し込みをいただきました。ご参加いただいた皆様、心より感謝いたします。

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 この調査において、わたしたちが見出した結論は多岐にわたりますが、その骨子を、一般的にお伝えすると、


1.中小企業の人材開発も、大企業の人材開発と同様、その中心地は「職場における業務経験」である
 
 
2.中小企業の様々な諸制度(社内資格制度、OJT制度、社内勉強会制度)の存在は、若手・中間の能力評定値(他者評定)に影響は与えていないことが検証された

=制度は能力を規定しないことが検証された
=(ここからは推測)おそらく、ちゃんと運用できるだけの人的資源がない
 
 
3.中小企業の人材開発に社長が果たす役割は少なくない。が、社長のリーダーシップが若手・中堅の能力評定値・成果評定値(他者評定)に影響を与えることは実証できない。むしろ、「社長と中間管理職」のあいだの発達支援関係、「中間管理職と若手」の発達支援関係が重層的に機能すること=「屋根瓦式の人材育成」が実現できることの方が重要であることが示唆された。

=人材育成を支える社会的構造を「垂直的」に発展させる必要がある


4.中小企業の職場での人材開発は、大企業とは異なり、職場に「人材育成のネットワーク=上長・上位者・同僚同期がそれぞれ異なる役割を担って若手を育てること」を構成することは期待できない。また若手・中間の能力評定値(他者評定)に影響は与えない。

=(ここからは推測)大企業と異なり組織市民行動として人材育成を職場で担うリソースが少ないのではないだろうか


5.中小企業の職場での人材開発の中核概念は「業務経験を通じた学び」と「上長のサポート」である。そしてそのポイントは「鉄ははやいうちに打て」である。

5−1.若手は業務経験をいかに振り返るコツをつけるか。上位者はいかに若手に仕事を任せるかが重要である。

5−2.中間管理職は3年目以降に、社長の薫陶のもと、いかに「未開の仕事」に取り組むか、が重要である。特に「顧客からのハードな要求」をいかに「顧客からの学び」に転換しうることができるかが興味をひくところである。

5−3.次世代の経営幹部「右腕」の育成には、若い頃から、「自らスキルや能力をいかに伸ばすか」「そのために何を今なすべきか」を意識させ、仕事にあたらせるとよい。自らのスキルや能力を意識させることは「離職」にはつながらない。むしろ自社への組織コミットメントを高める効果をもつ


 他にもいろいろありますが、会の趣旨は「はじめて人材育成を科学的にアプローチすること」にふれる中小企業の経営者、経営陣が、知見を楽しく解釈することにあったため、主に報告はここまでとさせていただきました。この内容のより詳細な内容は、下記のプレスリリースにてご覧下さい。

中小企業の人材育成に関する調査研究の結果を発表(PDF)
http://www2.deloitte.com/content/dam/Deloitte/jp/Documents/about-deloitte/news-releases/jp-nr-nr20151109.pdf

 当日の報告会は、冒頭で同社の眞﨑大輔社長からパッションあふれるご挨拶があったあと、不肖・中原から研究報告をさせていただきました。こちらの分析・資料作成は、主に保田さん、同社の長谷川さん、渡辺さん、中原で作成させていただきました。本当にお疲れ様でした。

 その後は、若手育成、中間管理職育成、右腕育成という3つのトピック、3つの部屋にわかれて、ジグソーセッションをしました。それぞれの部屋には、数百名をこえる参加者の方々がおこしいただき、同社の平井裕介さん、高橋豊さん、田中敏志さんらが、それぞれのトピックに関する実践セッションを行って頂きました。

 その後は、事例セッションと称して、今回の調査でも自社の平均値が非常に高かかった2社、エイトレント株式会社の坂井さま、株式会社データープロセスサービスの藤田社長、大西さまに自社のお取り組み事例のご発表をいただきました。お忙しいところ貴重なお取り組み事例のご発表、本当にありがとうございました。

 最後は、数百名の参加者の方々全員で3名ずつグループをつくっていただき、対話を行いました。今日もっとも印象深かったことは何か。自社に明日からもっていけそうなアイデアは何かについて、数百名の方々が対話をくださっていました。

 これにて成果報告会は終了です。

  ▼

 ここ数年にわたる取り組みは、これでいったん終わったことになります。
 もちろん、僕と保田さんには専門書の執筆という課題がありますが、ここまでを終えてみて、いくつか思うことを下記に書いてみましょう。

 第一に「中小企業の人材育成のメカニズム」ということで今回の調査を実施させて頂きましたが、たしかに「中小企業の人材育成」は、大企業とは異なるところは少なくないものの、「原理・原則」は変わらないところもある、ということです。

 今回分析をするにあたっては、企業サイズ、創業タイプ(創業者系中小企業・二代目系中小企業・大企業子会社)、成熟企業度、新規事業の売り上げ比率など、ありとあらゆる様々な統制変数をもうけ、諸変数との関係を見ました。が、統計的な有意な関係を見いだせる項目は、非常に限定的でした。もちろん、異なるところがないわけではありません。しかし、こちらが想像しているほど、得意なパターンがあらわれるということはむしろ少なかったと思います。

 これは成果報告会でも申し上げましたが、わたしたちは「中小企業は大企業とは違う」という強固なフレームワークを持っています。もちろん、業務の状況や組織規範等は中小企業と大企業は異なりますが、こと「人材開発を為す」というその1点においては、原理・原則は、重なるところも少なくない、というのがわたしの認識です。

 また同様にわたしたちは「中小企業を十把一絡げに語ってはいけない」という強固な認識を持っています。もちろん「中小企業を十把一絡げに語ってはいけない」は重々承知しつつも、「うちは特殊だ!」「中小企業は、それぞればらばらで特殊だ」と考える「思考の枠組み」こそが、もしかすると「囚われ」なのかもしれないと思っています。

 このあたりを白黒はっきりつけるには、より詳細なデータ分析が必要です。今後は保田さんと専門書の執筆に入りますが、そちらでは、先ほどのような統制変数ごとのデータをすべてお示ししつつ、詳細な議論を展開できればと思っております。
 
 第二に、データ分析をさらにすすめる一方で、今回さまざまに取り上げた内容を、複数の企業で実践し、職場の変化を把握することが重要なのかなとも思います。

 人材開発の研究は「何かを明らかにする」だけでは不足である

 というのが僕の信念です。
「何かがわかった」あとに「いかに何を変えるか」。そこまでフォローできて人材開発の研究です。今後、機会をいただけるのであれば、志や熱意を同じくする企業様と、今後、もし変革の研究ができれば幸いに思っています。

 最後になりますが、調査に御協力いただいたみなさま、今回の成果報告会にご参加いただいた皆様、登壇いただいた平井さん、高橋さん、田中さん、坂井さん、藤田さん、大西さん、本当にありがとうございました。

 またプロジェクトをこれまでご一緒させて頂いた同社の眞﨑大輔社長、鈴木義之さん、川合真美さん、小林学さん、小暮勝也さん、井手真之介さん、池内祥隆さん、国崎晃司さん、渡辺健太さん、長谷川弘実さん、中原研究室の保田江美さんに心より感謝いたします。本当に先がみえない中すすめてきたプロジェクトでしたが、今はいったん走り終えて感無量です。皆様とだからこそ、走り抜けることができました。僕にとって、このプロジェクトそのものが「経験フロンティア」でした。

 ありがとうございました。
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月10日 06:03


今ひとつピンとこない「あの人の経験談」はなぜ生まれるのか?

 自分の「経験」を他人にうまく語るにはどうしたらいいんだろうか?

 たまにそんなことを考えることがあります。
 子育てをしていても、教壇にあがっていても、はたまた講演やワークショップをしていても、他人に自分の経験を語りつつ、諭したり、理解をうながしたり、説得したりする場面は、結構多いものです。

 しかし、悲しいかな、僕は、あまりそれが「上手な方」とは言えません。経験談を語ろうとするとき、いつも、自分にひそかに「負い目」を感じていることを正直に吐露しないわけにはいきません。

 また、伝わらないんじゃないだろうか?

 一瞬、そういう不安がよぎり、経験談を話しはじめてしまうのです。結果は火を見るより明らか。だって、自分が不安に思っていることを、他人にうまく伝えられることは、まずありません。結果として、どうにも「煮え切らない思い」が残ります。

 わかってもらえただろうか?

 経験談というとよく「自慢コーティングの経験談」とか、「おれすごいんだろ経験談」というのが話題になりますが、さすがに、そうした「新春大放談」状態に僕の語りが陥ることはあまりないと信じています。が、どうにも、スカッと伝わったと感じることがない。

 じゃあ、どうしてこういうことが起こるのかを考えてみたとき、そこにはこんな「メカニズム」が存在するのかな、とも思います。自己の語りを分析すると、まず、伝わらないのは、圧倒的に「言葉が少ないからだ」という仮説に立たざるを得ません。

 じゃあ、「言葉が少なすぎる状況」がなぜ生まれるかというと、

 自分の経験談には、その「話の前提」になる各種の情報が存在するのですが、それに対する描写が足りないとき、あるいは、それを「はしょる」とき

 あるいは

 自分の経験談の中には、「論理展開」があるのですが、その論理展開の一部をすっ飛ばすか、あるいは「はしょる」とき

 あるいは

 経験から得られた「教訓」が本来あるはずなのに、それをはしょって終わるとき。あるいは経験それ自体と教訓が、まだごったまぜになっていて、峻別して明瞭に語ることができないとき

 の3点が多い印象です。

 もし、これが「是」だとすると、経験談を語るときに必要なテクニカルな方法は、

1.まずは経験談の「前提」になる情報を整理する
2.経験談の「論理展開」を書き出してみる
3.経験とそれから得られた「教訓」をわけて書き出してみる

 なのかな、と思います。

 その上で、

他人の脳裏に「映像」を描写するくらいの感じで語ること

 なのかなと思うのですね。

 もっと先走っていうならば、

この経験談を聞かせて、他人に促したい行動が何かを意識して語ること

 なのかな、とも思います。

 そう、はしょらず、面倒くさがらずにさ・・・(笑)。
 ま、わかっているんだけどね・・・(笑)。
 でも、なんかできないんだよね。
 まさに、Knowing - Doing gapというやつでしょうか。

  ▼

 今日は「自分の経験」を他人に伝える方法について考えてみました。経験の語りは、子育てをふくめ、さまざまな学習の機会に求められることのように思います。

 一度・・・ちょいと地味ですが、こういうことをテーマに、ワークショップなんかをやってみたいなとも思っています。ま、そうすると、スピーチライティングのワークショップに結構近づいてくるのかな、、、。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月 9日 06:07


人前で話をするとき「あがらなくなる」ための3つのコツ!?

「中原さん、講演とかで舞台にあがっても、めっちゃ"フツー"にやりますよね。全然緊張していない。あがらないコツって、なんか、あるんですか?」

 つい先日、ある方から、こんな一言をいただきました。
 なるほど、「あがる」ね。なかなか難しい問題ですね。
 今日は、それについて書きましょう。

  ▼

 まず最初に、誤解をといておきますと、僕は「全然緊張していない」のではなく、また「あがらない」のでは「ない」ということです。

 それが証拠にー機会があったら、講演前・講演中にぜひ僕の背中を触って頂きたい(辞めた方がいいね、こ汚いから)ーのですが、「汗びっしょり」です、、、いや、気持ち悪いくらい。

 僕の場合、めちゃめちゃ緊張してくると、滝のように背中に汗が流れます。

「こりゃ、サウナか?」

 というぐらいに汗が流れるのです。
 ですので、講演終了後は、早々に「水風呂に入りたく」なります。その後は「すんません、おかみさん、ビール1本ね」という感じです。

 あと、講演前にトイレ付近での、僕との遭遇する確率は、かなり高いのではないでしょうか。なぜなら緊張しはじめると、僕の場合、

「講演中に、便意をもよおしたらどうしよう」

 という強迫観念にかられはじめるのです。ですから、事前には、無用に便所に行きます。実際は1ミリリットルもでないのですが・・・。

 ただ、こんな風に「緊張」もしますし、「あがり」ますが、それでは仕事になりません。
 僕も相当の場数を踏んでおりますので、その中で「あまり緊張していなく見えて、かつ、自信をもって話している風の演技」をすることはできるようになってきました。そう、演題にあがった後は、「あがらないように見える演技」をしているのです。

 「あがってもいい」んです。
 「あがっていない演技」ができさえすれば。

 とはいえ、「あがらない演技」をするのも、なかなか勇気がいります。だって、もともと「あがっている」のですから、そんな余裕はなかなかないわけです。

 じゃあ、その「あがらない演技」を成功させるために、僕がいつも心がけていることは何か。あがっていなく「見える」ためには、緊張していなく「見える」ためには、どうしているか。3つのポイントがあります。それを下記に書きましょう。

  ▼

1.お客さんを「仲間」にしちゃう
 ひとつめは「聞いて下さる方々と、事前に仲よくなっちゃう」ということです。

 講演などでは、よく開始時刻より30分くらい前から、お客さんが入ります。僕は講師控え室があまり好きではなく(準備をしてくださっている場合は感謝です!)、会場をウロウロして、お客さんと名刺交換や雑談をします。

 そうすると、なんか「お仲間」ができたような気がして、自然体に振る舞うことができる気がします。また、お客さんの知りたいことや、興味関心、様子がわかるので、その後の講演中での話し方も工夫することができます。

2.いつもどおりの言葉と、いつもどおりの道具
 ふたつめは、舞台の上では「いつもは使わない言葉を使わない」「いつもは使わないPCや道具は使わない」ということです。

 僕は講演では、極力、いつも自分が使っている言葉遣い、いつも慣れ親しんでいる僕なりのものの言い方、そうしたものを、そのまんまお届けするようにします。また、使っているPCや道具も、他人のものを借りることはしません。

 いつもどおりの物事が近くにあり、それに満たされていると、僕の場合は、自然体に振る舞えるような気がします。
 それがもし講演のときだけ、妙な丁寧語や敬語を使い出すと、僕は破滅できる自信があります。

3.ペアトークを入れる

 僕の講演を聴いて下さった方はおわかりと思いますが、僕は、たとえ一方向の講演をご依頼いただいた場合でも、60分話し続けることはありません。おそらく15分に一度くらい、お客さんお隣同士で、少し講演内容について自分が思うことを話し合っていただく時間ーペアトークの時間ーを3分ほど設けます。

 学びを深めるためには、内化(物事を頭に叩き込むこと)と外化(自分の考えをだすこと)のバランスが必要です。講演では一般的に「内化」の機会になりますが、ときに「外化」を行っておかなければ理解が深まりません。ですので、ペアトークは講演内容の理解をますためにやっております。

 が、実際は、このペアトークをしてくださっている5分間が、僕にとっては「自分を立て直す作戦タイム」です。進行が時間通りにいっているか、捕捉しておくことはないか。会場をまわり、お客さんの様子を観察しながら、そのことを考えています。
 ペアトークの時間をもうけると、自分的にもリラックスできますので、自然体に振る舞うことができるようになります。

 ▼

 駆け足になりましたが、今日は、舞台であがらないコツについて3点ほど書かせて頂きました。上記の3点は、あくまで僕のやり方であり、どの程度一般性があるかはわかりません。

 おそらく、もっとも重要なことは、それぞれの方々が、自分のスピーチの後、講演のあとをリフレクションしながら、上記3点のような「自分なりのマイメソッド」を自分自身で創り上げることなのではないかと思います。
 
 皆さんが、どういうやり方で、ステージフライト(あがり症)を克服なさっているか、シェアできると面白いかもしれませんね。たぶん、いろんな「マイメソッド」があるんだろうなぁ。。。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月 6日 06:34


心がキュンと切なくなるキャリア教育!? :「誰も来ない車座」と「誰も聞いていない講演」!?

「切ないんですよ・・・自分のまわりには、学生誰もこないんです。」

 最近、自分の母校に出かけた方が、こんなつぶやきをなさっていました。伺ってみると、母校の教員から、学生たちと車座になって、自由闊達に、キャリアについて話し合ってください、とお願いされたらしいのですが・・・。

 ふたをあけてみると、3名ほどよばれた社会人のうちで、学生が寄ってきたのは、某航空会社の車座だけ。その方の会社も、大変素晴らしい技術をお持ちで、超優良企業なのですが、学生が誰も1人か2人しか来ず。大変切ない思いをなさったそうです。

「せめて、順番に学生を回らせるとか、そういう配慮が欲しかったなと思います。あるいは、事前に企業のことを学んでいてほしかった」

 まぁ、多くの教育機関では、そんなことはないのでしょうが、「切ない」という思いをなさった経験のある方もいるんだろうな、と思いました。

   ▼

 関連して、最近、ある教育機関にお願いされて、学生たちの前で講演をしたという、ある企業の方が、こんなことをおっしゃっていました。

「切ないんですよ。僕は、就活と社会人に成り立ての頃の経験についてお話したのですが、どう考えても、学生には、"今日の講演会の主旨"がつたわっていないんです。中原先生は、よく、"研修は目的の打ち込み"で決まるっていうじゃないですか。その"打ち込み"がゼロなんですよ。だから、学生がキョトンとしていて、中には寝る奴もいるんです。そりゃ、そうですよね。突然、わけのわからないオヤジがきて、社会人経験を語るんですから」

 うーん、こちらもまことに「切ない」。経験上申し上げますが、「登壇するコンテキスト」ができあがっていない場で登壇し、話さなければならないほど苦痛なものはありません。こういう切ないシーンは、「丸投げ講演」でよく生まれます。

 多くの教育機関は日々ご尽力なさっているので、そんなことはないとは思うのですが、そういう「切ない経験」をお持ちの社会人もゼロではないようです。

  ▼

 もちろん、逆に素晴らしい経験をなさった方もいます。

「学生にあって、すごく元気になりました。最近、あまり成長の実感がもてず、落ち込んでいたんですが、彼らの前向きな姿勢を見ていると、自分もまだまだ頑張らなきゃなと思ったんです。縁がもらえれば、また学生にあいにいきたい」

「いや、最近の学生はめちゃ優秀だなと思いました。いや、先生、優秀だと思いません。真面目ですよ。自分が学生だった頃は、もっとできなかったよなと思いますね。いや、話をしていると、こちらも元気になりました」

 興味深いのは、どちらの方も、現場の先生からファーストコンタクトがあった時点で非常に好印象であった、と答えていることです。当日がどのように展開するか、明確なイメージがもてた。ここからは邪推になりますが、それ相応の準備と目的の打ち込みが明瞭であったのかもしれません。

 ▼

 鉄は早いうちから打て!

 ではないですが、ただでさえ不確実な時代においては、なるべく若いうちから「就業の意識」をもってもらうことは、僕は極めて大切なことだと考えています。しかし、学生と社会人は、へたをすれば「不幸な出会い」をしてしまう可能性があります。

 仕事柄、僕は両者を行き来することが多いのですが、

 学校と企業、学生と企業人の「よき出会い」が増えればいいのにな、と心から思っています。もうすでに現場の先生はご尽力なさっているとは思いますが、そういう出会いがさらに増えればよい。

 これは大げさなようですが、でも、たいしたことでもないんですよ。だって、「企業人」とはいいますが、ある学生の母親だったり、父親だったりすることもあるのですから。それに、忙しい業務の合間をぬったり休日をつぶしたりして、学校に出かけている時点で、多くの方は、

「子どもたちのために、何か貢献したい」

 という思いをもっているのですから。
 ちゃんと、あたり前に「出会えれば」、確実にお互いにとって「学べること」は多いと思います。「よき出会い」が増えることを心から願います。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月 5日 07:02


学術論文では用いられない「言葉」とは何か?


 年末が少しずつ近づいてきて、そろそろ、大学のキャンパス内に「緊張」が張り詰め始めるころです。学部では卒業論文、大学院では修士論文、博士論文の提出〆切日が、あと1か月から2か月の間にあるからです。

 今年度、中原研究室には、2名の修士論文執筆の大学院生がおりますが(浜屋さん、田中さん)、彼/彼女の言葉からも「修論が・・・」「修論の章立てが・・・」という言葉がでてくるようになってきました。論文執筆、まことにお疲れ様です。
 博論の方は期限はないものの、現在執筆中の方は2名いらっしゃるはずです。こちらの方も、お疲れ様です。

 ▼

 ところで論文執筆と申しますと、それは「一寸の隙間もなく論理というブロックをつみあげていく作業」に似ています。編み上げられた学術論文というのは「論理の連鎖から出来ているテクスト」です。論理に「一寸の飛躍」があっても、それは学術論文の体をなしません。だから、学術論文は、日常の文章と異なり、用法や語法が異なる場合が少なくありません。

 たとえば、日常の文章では頻繁に用いるものの、学術論文では、ほぼ100%登場しない言葉というものがあります。

「学術論文にほぼ100%登場しない言葉」とは、おそらく、下記の4つのような用語です。

 ちなみに
 余談であるが
 話をもとに戻すと
 繰り返しになるが

 これらの用語がなぜ登場しないかというと、これらの言葉は、

「論理に整合性がつかない場面で、無理矢理、論理をつなげるために用いられる言葉」

 だからです。

「ちなみに」とか「余談であるが」は、論理上、本来必要のないことに脱線し、話題を展開するときに用いられます。分野にもよりますが、そんな話題は学術論文には必要ありません。もしどうしても、必要ならば、脚注に落とすという手もあります。

「話をもとに戻すと」も「元に強制的に戻さなければならないような文章」を書いてもらっては困るのです。ひとつひとつブロックをつみあげて、「元にもどらくてもよい文章」を書いてもらう必要があります。

「繰り返しになるが」も、たいていの場合、必要ありません。学術論文の読み手は、専門の研究者です。一回言われれば論理は追えます。また、繰り返さなくてもわかるように書くことの方が大事でしょう。

 このように学術論文では、「一寸のすきもなく、論理につながりをつけていくこと」が求められますので、こういう接続の言葉を用いません。分野にもよるのでしょうが、「ちなみに」「余談であるが」「話をもとに戻すと」「繰り返しになるが」などが自分の論文で多用されているようなら、もう一度見直してみるのも手かもしれません。

「閑話休題」もぜったいに用いないからね・・・。

「閑話休題」

 ▼

 今日は季節柄、論文をネタに記事を書いてみました。僕も何度も経験がございますので、よくわかりますが、論文を書くというのは、なかなかに苦しい作業です。

 ですが、

 「終わった論文は、よい論文!」

 いつもゼミ生には言っているのですが、とにかくは「書き終えること」が大事でしょう。「ちなみ」に、言うまでもないことですが、執筆のプロセスでは下記に気をつけてください。過去に泣いている人を何人か見ています。

 セーブはこまめに!
 バックアップは2重に!
 印刷は早めに!
 提出は余裕をもち!
 インフルには注意!

 お忘れなくお願いしますね。
 どうか論文執筆の長旅を楽しんでください。

 大丈夫、終わらない旅はない。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月 4日 05:34


自分の行動を「メタ認知」するわたしを、「メタメタ認知」するわたし!?

 自分の行動や認知を、より上位(メタ)な立ち位置から観察し、コントロールしていくスキル。これは一般には「メタ認知」といわれます。

「メタ認知」の能力やスキルをいかに獲得するか、ということは、経営教育においても、その他の教育においても、「最大の課題」のひとつなのかなと思います。
 自分の行動や認知を、いかにして自律的にコントロールし、環境に適合した行動を自らとるかが、パフォーマンスの浮沈につながるからです。

  ▼

 おそらく、ひとつの可能性は、何らかの「鏡」のようなメディアを用いて、いったんは強制的に、ふだんは意識化しない自分の行動や認知を、「観察する経験」をもつことでしょう。
 これで、一段階「高み」の「上位の視点」から、「出来事レイヤー」で起こっている、行動や認知を「意識化」することができます。つまり「メタ認知」です。

 興味深いのは、メタ認知の育成には、さらにもう一段「メタ(上位)」にあがり、「自らメタ認知をなしている自己」を「観察」し、「自らのメタ認知のあり方そのものを「意識化」する必要があることです。
 これはいうてみれば、メタ認知をさらにメタに認知するのですから、下記のように「メタメタ認知」と呼べるのかもしれません。

 メタメタ認知(笑)
  ↓
 メタ認知
  ↓
 自分の行動・認知

 かくして、自らの上位に「認知機構」をおく試みは、無限遡及をつづけます。メタ認知、メタメタ認知、メタメタメタ認知(笑)。なんぼほど、メタメタすりゃえーねん。

  ▼

 ところで、このことにゆるーく関連して(ゆるーくですよ)、興味深い動画を教えて頂きました。せんだって開催されていた研究会にご参加頂いていたKさんが(感謝!)、レジュメの最後に紹介されていた動画です。面白い動画をご紹介いただきありがとうございます。

 それは俳優ハリソン・フォードが、自分の映画「インディジョーンズ」を見ている様子に関するものです。

 真偽のほどはわかりませんが、ハリソン・フォードは、自分の映画を決して後から見ない方らしいのですが、このときは、かつて自分が演じた映画を見ました。その様子が下記です。タイトルは、「映画インディージョンズを見ているハリソンフォード」。

 さらに興味深いには、この映像にはオチがあることです。それは「映画インディージョンズを見ているハリソンフォード」で終わるのではない、ということですね。オチの動画のタイトルは

「映画インディージョンズを見ているハリソンフォードを見ているハリソンフォード」

 自分の映画が見ている様子を、さらに見ている、という奇妙な映像がオマケについています。どちらかというと、こちらの方が面白い気がしますけど(笑)。

 ま、メタメタという感じですね(笑)。

 ▼

 今日は「メタ認知」といいましょうか「メタメタ認知」について書きました。
 わたしたちは、日々、出来事レイヤーのなかで奮闘しておりますので、つい油断してしまうと、アクション!アクション!アクション!の連鎖に入っていきます。

 もちろん成果をなすためにはアクションは欠かせないのですが、時には

 「メタに上がれ!」

 が重要なのかもしれません。

 あなたは、今週一週間、いかに過ごしますか?
 アクションの前に、メタにあがって考えてみてもよいかもしれませんよ。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年11月 2日 06:31