実務家が必要としている「理論」とは何か?: 「実践」と「理論」のあいだの「死の谷」を超えて!?

 今日は金曜日。

「組織変革についての学習」の僕の「旅」も、今日でおしまい。「終着駅」が近づいてきました。
 本日夕方には、一週間「缶詰」(ほんとに缶詰・・・1歩も外にでていません)になっていた宿舎をあとにして、シャバ!?に出ます。久しぶりに家族とあうのがとても楽しみです。TAKUZO、KENZO、ママ、元気だったかい?

 まずは、この場を借りて、ここで出会った参加者の皆様、そして5日間、僕を導いてくださったディード博士、そして中村和彦先生ほかスタッフの皆様、そして時間をつくってくれたカミサンに、心より感謝いたします。ありがとうございました。充実した一週間でございました。

deat_and_jun.png

 ▼

 5日間の濃密すぎる合宿を終えるにあたり、セッション4日目あたりから、このセッション全体をふりかえり、僕は、ある一つのことを、夜な夜な考えていました。

 それは、組織変革に関する実践家と、自らの研究を実践に役立てたいと願っている研究者が集まった、この5日間のカンファレンスにおいて、講師の先生から伝達されていた「知識」や「概念」とは結局、「何」であったのか、についてです。

 ワンセンテンスでのべるならば、

 このセッションでは
 「何が教えられており」、
 「何が教えられていないか」
 について考えていました。

 これは、換言するならば、

 理論は実践にいかに役立てられるのか?
 実務と理論をつなぐものとは何か?
 そして、実務家にとって役に立つものとは何か?
 
 について考えていたことになります。

 僕は、ふだん、実務家の方々や大学院生に対して授業をしています。また「実践に自分の研究が役立てられること」を願う研究者の末席を汚すものでもあります。

 そのような小生ですので、やはりどんな内容や情報をインプットしても、

「自分だったら、この内容をどのように教えるだろう?」
「自分だったら、この内容を、どのように実務家に伝えるだろう?」

 という「目線ぬき」で、物事を考えることができません。
 自分だったら、このようなセッションで実務家に何を伝えるだろうか? 
 今回のセッションをふりかえりながら、そんなことを考えていました。

  ▼

 というわけで、いつもの「こ汚い絵?」ですが、僕が考えていた内容は、下記の図に記すとおりです。また例のごとく、こみいった絵で申し訳ありません。
 たぶん、これを見ても、さっぱり何のことだかわかんないと思うけど、下記に少しだけ論じてみましょう。

jissen_oshierareteirumono.png

 端的に述べるならば、

 このセッションで講師のディード先生から語れていたことの多くは、「キンキンにとがった理論」でもなく、「ベタベタドロドロの実務の経験」でも「なかった」ということです。

 つまり、図の上部にある「Science world:理論世界の抽象的な知識」でもなければ、「Real world:業務経験世界の現象どっぷりの知識」でも「ない」ものがこの授業では語られていました。少なくとも僕にはそう思えます。

 それでは語られていたのは何か、と申しますと、ちょうど「理論」と「経験」の中間にある「中程度の抽象性をもったもの」、そう「理論にインスパイアされた眼鏡(概念)」なのです。ポイントは「理論そのまま」ではなく「理論にインスパイアされた」というところです。実務家の方々によっては、それが「理論」に見えるかもしれません。しかし、アカデミアの目からみると、それは「理論そのもの」ではありません。だからといって、その価値が何ら毀損されることはありません。むしろ事態は逆なのです。

「理論にインスパイアされた眼鏡」は、実務家の方々が、おかけになると、Real Worldにある現象A、現象Bが、さらによく見えるのです。こうしたものを先生はお伝えになっておられたように、ぼくには思えました。

  ▼

 これは「実践か理論か?」「リゴラスな研究か、レリバントな実践か?」という、古くさすぎて、個人的には思わず、「プッ」と屁がもれてしまいそうな二分法的観点から物事を考えると、相当に面白いことです。

 先ほどの図にしめしましたとおり、一般にサイエンスとは、「具体の世界(Real world)」の「現象」をいくつも観察・分析したうえで、それらを抽象化して「理論」を生成します。

 おおよそ、「人にまうわる理論」というものは、「Real worldの人間の行動や振る舞、その原因と結末」のすべてを、網羅的かつ完全に説明しうることは、まずありません。それは、それらを「パーフェクト」に説明しうることはないにせよ、「一定の説明率」をもちつつ、現象を説明する、いわば「判断のリソース」のようなものです。

 そして、伝統的に「理論優勢の考え方」では、この抽象世界で用いられた「理論」を頭に叩き込むことが「実務家教育」だと考えられます。これは1960年代ー70年代に流行したような非常に古典的な考え方です。

 ワンセンテンスでいいますと、

 理論を頭に叩き込め
 そうすれば実務で役立つはずだから

 と考えるということです。

 それに対して、もう一方の「強固な考え方」が「実務家教育」には存在します。それは「実務優勢の考え方」で、先ほどの理論優勢の考え方とは逆です。最近は、この考え方の方が優勢なのかもしれません。
 この考え方は、理論化や抽象化を極端に嫌います。現象にどっぷりとつかり、その現象の中から内省をしつつ、学ぶことをよしとします。

 ワンセンテンスでいいますと、

 理論なんて役にたたねー
 経験を内省して現場で学べ
 そうすれば、実務で役立つから

 ということになります。

 ここで、賢明なわたしたちは、ここで前者の理論ドリブンの考え方が、「理論」に信頼を置きすぎていること。そして、後者の現場主義の考え方が、「現場の経験」に偏りすぎていることに気づかされます。それは、実務と理論のあいだに存在する、いわば「死の谷」のようなものです。
 これ、何とかならないの?

 僕の考えていることを、正しくいいましょう。
 たしかに、僕は、後者の「現場の経験」が大切なこと、パワフルなことは、そのとおりだと思うのです。さすがに「理論を叩き込めば実務で必ず役立つ」と信じられるほど、僕はナイーブではありません。それを信じるには、年齢と経験を重ねすぎました。

 そうではなく、現場の経験が役立つことは信じつつも、一方で、そこに理論世界の介入する余地はないものかと考えたくなるのです。この世でもっとも大切なことは、「OR」の思考に陥る前に「AND」を考えることです。にっちもさっちもいかないものを目にしたときは、2つを結びつけることを考えたいと僕は思います。
 実際、この問題は「実務と相対する高等教育機関」の存在意義の問題に直結していきます。だって、すべてが実務と現場で学ばれるのなら、教育機関の役割って何ですか?ということになるからです。

 理論は、いかにあるべきか?
 実務家には、何を伝えればよいのか。
 いったい、何が実務と理論をつなぐのか?

 今回のセッションでは、この問いに対する大きな気づきを、個人的にはいただいた気がします。

 それは抽象度としては中くらいのもの。理論に「忠実に基づいている」わけではないが、「丸ごとそのまま」ではない。
 むしろ、「理論にインスパイアされたくらいの抽象度をもった概念」が必要なのだ。
 それは、実務家が物事を見たり、経験から学び、内省するときに、「眼鏡」のような役割を果たすだろう。こうした「眼鏡」こそが圧倒的に不足しているのかもしれない、と僕は思いました。

 もちろん、「理論」も「経験」も、これまでどおり、学習にとって「大切なこと」は言うまでもありません。
 それも確かに必要なのですけれども、中空に浮いているのは、その中間にある眼鏡のような概念なのかな、と。考えてみれば、昨年11月のワークショップでユトレヒト大学のコルトハーヘン先生が伝えていたのも、そのようなものであったような気もいたします。考えてみれば、それは厳密な意味で「理論」ではありません。また、どっぷりそのままの経験でもありません。理論やデータに裏打ちされ、そこからインスパイアされた「眼鏡」なのです。

コルトハーヘン先生による「リフレクション学」スペシャルワークショップが終わった!:リフレクションという名の「詰問」「教え込み」「だらだらトーク」を超えて!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2296.html

  ▼

 今日は、セッションを振り返りながら、「サイエンスと実務」「経験と理論」の関係について考えました。このセッションを受講なさっていない皆様には、はてなんのことやら、とお思いでしょうが、それはどうかご寛恕ください。

 これで学習週間はおしまいです。
 来週から通常週間に戻ります。

 そして人生は続く

追伸.
 ディード先生によりますと、今、米国には組織開発を学ぶことのできる大学院は13個あるといいます。そのなかには、コーホートシステムという教育制度をとっているところがあるのだといいます。
 実務家を15名くらいの集団にしながら、その集団を組織開発の手法を用いながら形成しつつ、そこから学ぶのだそうです。これまた面白い教育システムですね。