これって"残業"だったの?:佐藤彰男著「テレワーク」(岩波新書)を読んだ
中原家でのある日の会話
中原「僕は、残業は一度もしたことないよ。うちの大学は裁量労働だし、大学教員には、残業という制度があんまり身近じゃないし」
カミサン「・・・アンタ、家に帰ってきても、夜遅くまでノートコンピュータの前で仕事してるじゃない。ノートコンピュータの電源落ちることがないじゃない。それって、立派な"残業"なんじゃないの?」
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中原「ごめん。確かに、そうだな・・・。でも、これって"残業"だったの? このことを"残業"っていうの?」
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佐藤彰男著「テレワーク」(岩波新書)を「自分の問題」として、読んだ。
テレワークとは「情報通信機器等を活用し時間や場所に制約されない働き方」のこと。
交通渋滞の緩和、環境問題の解決、少子高齢化への対応、子育て中の女性への社会進出など、懸案の社会課題を解決するひとつの答えとして、注目されているのだという。国も、様々な施策をもって、積極的にこれを後押ししようとしているようだ。
しかし、テレワークは同時に、様々な副作用を労働者にもたらしてしまう。
最大の課題だと思われるのが、「いつでもどこでも仕事ができる」がゆえに、「仕事とプライベートの差がなくなり」、本来「労働」として認められるべきものが、「見えなくなってしまう」ことにある。
プライベートな空間での仕事は、「自発的にやっているもの」として認知されやすい。本来、「どうしても持ち帰らなくてはならないほど、仕事量の負担が重く、やむをえずテレワークになっている」のにもかかわらず、「自発的にやっているもの」として認知され、「労働」だとは思われにくい。冒頭の僕の言葉「これって、残業ぅていうの?」は、まさにこのことを物語っている。
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「見えない労働」は、果てしなく続く。しかし、労働だとはなかなか見なされないから、残業代もでないし、労災も認められにくい。
かくして、最悪の条件が進行した場合、労働者のバーンアウトといった問題も引き起こしかねない。
本書を読んでいて、背筋が寒くなった。
もう一度、自分の仕事のやり方を考え直してみよう。
投稿者 jun : 2008年06月30日 14:01 | トラックバック
「学び」と「破壊」、時々「葛藤」
「学ぶこと」とは、自分につながる人々との関係を「壊すこと」でもあり、「葛藤を抱えること」でもあります。
「学ぶこと」を「みんな仲良しハッピーハッピーのような社会状況」の中で起こるものと捉えたりすると、「学ぶこと」の本質を、ひとつ見逃してしまうのではないでしょうか。
最近、僕は、このことが気になって仕方がありません。
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たとえば、メンタリング。
これはピアツーピア(上司 - 部下 / 先輩 - 部下)といった社会関係の中で営まれる「学び」の形態とも読みとることもできるかと思います。そして、これにも、「葛藤」が含まれます。
キャシー=クラムによると、メンタリングの進展とは下記のようなプロセスをとります。
●開始段階
・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる
●養成段階
・キャリア的機能(組織階層の上昇移動)
・心理社会的機能(アイデンティティの確保)
●分離段階
・構造的な役割関係や感情面での大きな変化
●再定義段階
・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる
・分離段階をへて関係性が終了するか、相当違った
性格をもつ、同僚関係への移行
ここで、僕が気になるのはやはり「分離段階」です。ここで、先輩 - 部下、上司 - 部下、いわゆるメンターとメンティの関係は、「緊張」状態に入ります。
それまでメンターに助けられ、キャリア的にも、心理的にも、ようやく自律をなしとげられたのにもかかわらず、その関係に「緊張」が走るのです。
「もう自分は自律しているのに、いろいろ、先輩ズラしてピーピー言われるのもな」
「結局、オレの能力があがってきたことが気にくわないんだろう。オレにとってかわられるのが怖いんだろう」
「もうあいつも一人前になったのに、今までと同じように自分の時間をこれ以上削るのもな」
「最近、あいつは生意気だな、まだまだヒヨッコのくせに・・・ここらで突き放すか」
といった役割変化や感情の変化が両者に生まれ、一時的に関係にひびがはいります。最悪の場合は、そこで関係が終わりということもないわけではありません。
もちろん、社会的関係がカタストロフィーにむかわず、うまく「再定義段階」に入れた場合、両者の役割関係がもう一度見直されます。それまでの垂直関係から、「同僚」といったような水平関係に移行できる場合があります。
しかし、既存のものに、一時的に「葛藤」が生まれ、「壊され」ることも、また事実です。このように学ぶことには、どうも「壊すこと」や「葛藤すること」といった状況がセットでおこるようです。
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ちなみに、「学習をコミュニティへの参加」と把握した正統的周辺参加の理論にも、人々の関係の「葛藤」が折り込まれています。
たとえば、今、新参者が、あるコミュニティに参入してくるとします。彼は、最初は、コミュニティの周辺で、一時的な仕事を観察したり、担ったりしていきます。
しかし、彼の「参加」が成功し、つまりは「コミュニティの周辺」から「中心方向」に対して、その活動が移行してくるにつれて、彼は、今まで見えなかったものがたくさん見えてくるようになります。
そして、さらに新参者のコミュニティの活動を担おうとするとき、それまで、そのコミュニティを牛耳っていた古参者との間に、「葛藤」が生じるのです。
場合によっては、古参者と新参者の立場の入れ替えといった事態も起こらないわけではありません。
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このように、学ぶことは「キレイゴト」ではありません。学ぶことには、既存の社会的関係に「葛藤」を感じたり、場合によっては「壊したり」、「再構築」するとといったことが必然的に含まれます。そして、だからこそ、学ぶことは「人間らしい」ことでもあるように思うのです。
人は学べば、「今まで見えなかったもの」が見える。「やりたかったこと」がわかりはじめる。しかし、あなたの目にうつりはじめた「新しい世界」は、周囲の人々が見る「それ」とは、決して同じではない。
抜き差しならない社会的状況の中で、当初は「曙光」すら見えず、「何か」を破壊したい衝動にかられ、葛藤に苦しむ。そして、その果てに「何か」をつかむ。その繰り返しが「学ぶ」ということなのかもしれないな、と思います。学ぶとは、すさまじいものだとは思いませんか。
そして、今一度、自分が「教える側」の立場において想像力をたくましくしてみると、「人の学びにつきあうのは、喜びを感じるものであると同時に、切ないものだなぁ」とも、しみじみ思うのです。
僕も、短い人生のあいだに、多くのことを学んできました。僕の学びを支えてくれた人との、葛藤や別離を繰り返しながら。僕を教え導いてくれた人々は、僕の成長する姿を見て、僕が苛立っている様子を見て、その一瞬、いったい「何」を感じていたのでしょうか。
「教えること」とは、そうした葛藤や別離を「いつかはくるもの」としてとらえ、むしろ「喜び」にかえて、生きていくことなのかもしれません。
投稿者 jun : 2008年06月27日 23:59 | トラックバック
記憶が「崩壊」気味です
「記憶」が崩壊気味です。
最近、僕がやらかした出来事。
●「サイフ」と「家の鍵」は消失
●「お気に入りの眼鏡」も消失
●アポがあって研究室に入ってきた院生さんに
「君、何しにきたの?」と言ってしまう
●海外出張の宿泊予約でミス!
二つの宿を同時に押さえてしまう
いわゆる「ダブルブッキング」?
●人のボールペンを持って帰って、
しゃーしゃーと使っていて、ややギレされる。
●論文指導にきた院生さんのアポをすっとばしてしまう
●鼻血がでた
まわりの人には、「またか」と諦められているのかも。
嫌がられているのかも。
本当に皆さんすみません。ご迷惑をおかけしています。
今日は激しく落ち込んでいます。
多忙の「忙」とは「心」を「亡ぼす」と書くのだなぁ。
そして人生は続く。
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追伸1.
今週から、土曜日・日曜日のブログの更新を止めることにしました。少しお休みします。平日はこれまでどおり、精進します。
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追伸2.
昨日は慶應丸の内キャンパスの講演終わりました。神戸大学の金井先生、慶應MCCの井草さん、城取さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。
投稿者 jun : 2008年06月27日 14:34 | トラックバック
ドラマ「CHANGE」と小児科医療
月曜日9時のドラマ「CHANGE」を密かに楽しみにみています。
毎夜、星を見ながら静かに暮らしていた小学校教師が、ひょんなことから父親の地盤をついで政界デビューすることに。
さらには、前総理の不祥事の影響で低下した支持率をあげるために、悪役官房長官に担ぎだされて、わずか1ヶ月で総理大臣になってしまう、という話です。
議員経験わずか1ヶ月の総理がつとめる政権は、当初は、官房長官がすべてを握っている「完全なる傀儡政権」。総理は、いわゆる「操り人形」。しかし、次第に「人形」は「意志」を持ち始めます。
バラマキ型の補正予算成立をめぐって官房長官と対立。小児科医療の充実のために300億を捻出しようとするのですが・・・。
総理大臣に木村拓哉さん、官房長官役に寺尾聰さん、総理大臣主席秘書官に深津絵理さんですね。寺尾聰さんの悪役っぷりが、なかなかいい味をだしています。
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ところで、僕がこのドラマに心惹かれる理由に、「小児科医療の充実」というテーマが掲げられていることがあります。
愚息TAKUZOはわずか3週間の入院でしたが、そこで見た「小児科医療の現場」は過酷という言葉では表現し尽くせない、すさまじい世界でした。
愚息TAKUZOが入院したのは、小児科入院病棟の他に、小児科救急機能もかねそろえた大規模な病院でした。その病院のお医者さんたちは、病棟と救急を兼務して、本当に朝早くから深夜に至るまで、仕事をしていらっしゃいました。本当に「いつ寝てるんですか?」というような感じです。「先生、大丈夫ですか?」と声をかけたことも、何度かあります。
今日が救急なら、明日は入院病棟勤務。でも、救急でも、入院病棟では、何が起こるかわかりません。
たとえば入院患者に突発的な症状がでると、朝でも夜でも、容赦なく携帯で呼び出され、患者さんの病状が落ち着くまで帰ることができません。しかも、その次の日は、朝早くから深夜まで救急が待っているのです。
こうした過酷な労働環境がどの程度、他の病院にもあてはまることなのかはわかりません。しかし、その現場は本当に「戦争」でした。お医者さんたちは「闘って」いました。
ドラマ「CHANGE」は、小児科医療は「金が動かない=票にむすびつかない」ので、予算がなかなか回されないものとして描かれています。それが本当のことなのかどうかは僕にはわかりません。
でも、あの過酷な、すさまじい世界で働くお医者さん、看護士の皆さんが、もう少し人間らしいスケジュールで働くことができればいいのにな、と思わずにはいられません。
ちなみに、TAKUZOの担当だった先生は、小児科医が全く足りていない四国の大学病院に異動なさいました。
投稿者 jun : 2008年06月26日 08:43 | トラックバック
職場の活性化!?
いやー、最近、うちの職場は元気がないって、上が言い出してね。やることになったんですよ、"職場活性化"研修。
職場のモティベーションがめちゃめちゃハイになりますよ、って話なんですよ、それ。
それがやってみると、面白いんですわ。1泊2日の研修だったんですけどね。研修中は、ゲームやら何やらで、やたら盛り上がって、確かにノリノリになりました。
雰囲気も気分も最高潮、明日から働くぞ!、やるぞー!って気分にみんながなりました。
でもね、問題はその後なんですよ。
次の日、職場に戻ったらね、面白いくらいに"静か"なんですよ。しーん。しーん。音もしない。誰もしゃべらない。
研修中はあれだけ盛り上がったのに、職場はしーん。
あれはいったい何だったのでしょうか?
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先日、研究室にいらっしゃった方が、こんなお話をしていました。ICレコーダをもっていたわけではないので、一字一句正確に記録していたわけではないですが、趣旨は上記のようなことでした。
もちろん、上記の出来事がどれだけ一般性があることかはわかりません。が、少なくともひとつの職場では、事実としておこったことのようです。
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「活性化」という概念が、最近、キーになっているそうです。
協力しあえない職場
何だかやる気を失っている人の多い職場
正確な調査データをもっていないので実態はよく知りませんが、いわゆる「雰囲気盛り下がりな職場」が増殖しているのだそうですね。
「活性化」という概念は、こうした職場を、「外部からの介入」によって元気にしよう、そこで働く人々にモティベーションを「つけて」もらおうということのようです。
民間教育企業につとめる方から、何人かにも、同じような話を聞きました。最近、企業訪問をすると、よくマネジメント層から、こんな台詞を耳にするそうです。
うちの職場を「活性化」してください!
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くどいようですが、先のようなエピソードがどれくらい一般性がある出来事なのか、僕にはわかりません。また本当に、日本全国の職場の雰囲気が「盛り下がり気味」なのかも、経年比較できるデータを手にしていないので、判断はできません。また「活性化」という名目で、どんな研修をなさっているのか、僕は網羅的に把握しているわけではありません。
よって下記に書くことは、上記の個別のエピソードに対する僕の感想であることを断っておきます。
その上で自分の印象を述べるとすると、いくつもの疑問がフツフツフツフツとわいてきます。「自分の研究室」を、仮に、ここでいう「職場」に見立てて、想像力を働かせて思考実験してみても、なんだか腑に落ちないのです。
以下、もっとも大きな疑問だけを4つだけ書きます。
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1.まず、仮に職場が「不活性」の状態だとして、活性化していない状況はなぜ生じたのでしょうか。その原因は探求されているのでしょうか。「不活性の状況」は、長期間かけて、組織メンバーに「学習された結果」なのではないのでしょうか。そうであるならば原因の「探求」は不可欠であるようにも思います。
もし、仮に原因の探求があった場合には、どのようにその原因に切り込んでいるのでしょうか。探求がなかったとしたら、対処療法的に「活性化施策」を施すことに、本当に意味があるのでしょうか?
2.職場を、短期間のうちに、しかも研修というスタイルで、活性化できるのでしょうか。もし仮にできるとするならば、その組織構成員は「何」に盛り上がり、「何」に興奮を感じたのでしょうか。
換言するならば、つまり、そのような「短期的介入」は、「何」に対して、どのようなかたちで、どのような原理・原則に基づいて、なされており、いつ、どのような効果がでることが想定されているのでしょうか。
そして、そこで見いだされた「介入の対象」である「何」は「不活性を生み出す元凶」に関係のあるものなのでしょうか。
3.職場の不活性の状況は、1)職場におけるマネジメントのあり方、2)仕事のやり方、3)職場がかかげる目標、4)職場での仕事の振られ方やサポート体制、5)職場における社会関係などと不可分なのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、不活性を依頼した側が、「不活性の原因である」という皮肉はおこらないのでしょうか。またこれら諸要素と不可分であった場合に、短期的介入の妥当性は何でしょうか?
4.活性化を行ったあとで、職場に戻って「しーん」となってしまう状況は、活性化を行う前よりも、さらに深刻な状況を巻き起こさないでしょうか。
それだけ盛り上がったあとでの「しーん」は、居心地のよいものなのでしょうか。よしんば、上記のような手法で、活性化に成功された場合には、何か違和感はないのでしょうか。「短期間のうちに活性化される職場って、一体何なんだろう」と。「そのようなことを依頼するマネジメント層って、何を僕たちに期待しているんだろう」と。
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要するに、一言でいうと、本当に「わからない」のです。不勉強で本当に申し訳ないのですけど、僕には上記のエピソードを理解することが、できませんでした。
でも、いろいろな方々に聞きますと、いろいろな場所で「活性化」「活性化」と叫ばれているようなのですし、多くの研修が実施されているそうなのですね。このあたりはどのように考えられているのか、ぜひ知りたいものです。
ちなみに、マネジメント層が、自分の職場を活性化したい理由は理解できなくもありません。
でも、もし僕が社員だとするならば、「僕は活性化なんかされたくない」、と思ってしまうのではないかと思います。
また、そのようなかたちで「活性化に成功した職場で仕事をすることに違和感を感じてしまう」ような気がします。
そして、問題の本質を見ようとせず、対話を通してそれを解決しようともせず、「短期的な介入」で、何とかやり過ごそうとすることに対して、疑問を感じてしまうかもしれません。
くどいようですが、上記は僕が耳にした個別のエピソードに対する感想です。あくまで想像上での話ですが。
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追伸.
本日のブログには、公開後数時間で、多くの方からメールをいただきました。何人かの方がおっしゃるには、もっともシンドイのは「無理してがんばってる職場」「研修後に無理して空回りしている会社」だそうです。たしかに「活性化」はしているのだけれども、個々人はかなり参っている。
僕はメンタルヘルス系が専門ではないので、これに関するコメントは差し控えます。しかし、「活性化」の問題は、いずれにしても、一筋縄でいける問題ではなさそうですね。
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追伸2.
明日の講演、来週のウィーンの学会準備、再来週の講演下調べ・・・死にかけ人形です。何で、引き受けるときに、負荷分散しなかったんだろう(泣)。
先日マッサージ屋さんにいったら、「このまま行くと、40には肩動かなくなるよ」と脅されました。
「お客さん、体から力が抜けない人ですね、いつも不要な力がはいっている。抜いてみて、ほら、そうじゃない。だからすーっと、力抜くんです」
体から力が抜けない人に、「力抜け」っていってもね。ポジティブじゃないひとに、ポジティブシンキングしろって言っているようなもんだよなー。そう言われてもね。
困ったな。
投稿者 jun : 2008年06月25日 13:20 | トラックバック
企業内外人材育成!?
昨日は都内某所で講演だった。質疑応答の時間、聴衆の方から下記のような質問をいただいた。
「社員が、社外で学ぶとか、自己学習することに関する先行研究って、多いのでしょうか?」
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実は、この質問、最近、僕が講演をするたびにいただくものである。この質問に対する僕の答えはこうだ。
企業「内」教育、企業「内」人材育成という言葉に代表されるように、「社外での学び」「社外での自己学習」は、企業人材育成の範疇に全く入っていないことはないにせよ、メインストリームではなかった。
当然、研究の方も、OJTやOFF-JTに関しては、先行研究が多いけれど、社外はあまり注目されてこなかったのではないか。
特に、「働く大人が、どのような場で、どのようなタイミングで、誰と一緒に学んでいるか」に関しては、そう研究の数が多いわけではないように思う。
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しかし、我々の調査でも、先日のリクルートWorksの濱中さんの講演でもわかるように、「結構、多くの働く大人が社外の勉強会や集まりに自主的に参加していること」がわかっている。
自己学習の話
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/05/post_1249.html
これだけ同じような質問が寄せられるところをみると、何か地殻変動が起きているのかもしれない。まぁ、このことはずっと前から思っていたのだけれど、企業「内」人材育成、企業「内」教育というコンセプトも、根本から見直さなければならないのかもしれないな、と思った。「企業内人材育成入門」という本を書いていて、こんなことを言うのは何だけど。でも、「企業内外人材育成」じゃ変だよね。
---
追伸.
今日の話題に関連するかどうかは、よくわからないけど、今日のポエム。茨木のり子さんは、僕の好きな詩人です。
自分の感受性くらい
茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
人のせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
投稿者 jun : 2008年06月24日 09:44 | トラックバック
アンテナを高くして生きるにはどうすればいいのか?
世の中の出来事や流れに関して敏感なアンテナをもつには、どうすればいいのでしょうか。
先日、ある学生さんから、こんな質問をいただいた。相変わらず、学生さんの質問というのは、容赦がない。恐ろしいほどダイレクトである。
うーむ。
この問いに答える資格が僕にあるのかどうかは知らぬ。また、この問いに学術的にコレクトな回答をひねりだすことは、時間の都合でできない。また、一見したところ、問い自体が多義的であるので、いくつもの答えがありうることが、容易に予想される。さらに、この問いに僕自身が答えてしまうのが、教育的にコレクトなのかどうかは判断できない。
しかし、くだんの学生さんは「うずうず」している。「何かやりたい、動きたい」と思ったときが、「やるとき」であり、「やらねばならぬとき」である。そこで、苦し紛れ(!?)にヒントを考えた。
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上記の問いに対するヒント。最も簡単で、実践できそうな方法ということになると、僕は、自分の経験上、「ネットを使うのがいいんじゃない」と答えたくなる。
この方針を仮に認めるとして、先の質問に、僕なりの回答をするとするならば、下記のとおりである。
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1.「この人、いいアンテナしてるなー」と思う人のブログを、まずは行き当たりばったり、ぷらぷらとネットで探して、チェック。
2.1で探した「いいアンテナを持っている人」が、リンクをはったり、トラックバックをかけたりしているブログを探して、チェック
3.1から2を何度か繰り返し、「みんなが、その人のことを、いいアンテナもっている人だなーと思っていそうな人」を探して、しばらくのあいだチェック。
4.1から3を定期的に行い、日々覗くブログを見直す
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要するに、一言でいうと、
「まず最初は、あなたのまわりに、アンテナの高い人を集めるといいんじゃないの」
ということである。
僕の経験からすれば、
「アンテナの高い人というのは、個人の資質や能力もさることながら、自分と同等以上のアンテナの高い人を、自分の周囲にもっている」
つまり、「アンテナの高さ」は個人の「属性・能力」もさることながら、その人の周囲の「社会的関係」に規定されているのではないか、と思う。
まずは、先の方法で「アンテナの高い人のフィルタを通した鮮度の高い情報」を確保するのがよいのではないか、と思う。
しかし、これで終わっては、「ネットの世界の物知り」「ネットの情報通」にはなれるが、「アンテナの高い人」にはなかなかなれない、と僕は思う。
僕の経験からすれば、
「アンテナの高い人というのは、いろいろな情報、いろいろな人々に接する中で、"自分の強み"を1点決めている。それと同時並行的か、その後で、アンテナを高くしたいと願う人々が集まる"場"をつくる。
そこに、情報を自らギブしつづけ、そこに集まる人の情報をもって、さらに自分のアンテナの高さを維持し、向上させようとしている」
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思うに、「自分」や「自分の強み」とは「どこかにある」ものではない。いろいろな情報、いろいろな他者に出会い、そういうものとの「対話」を通じて、「違い」を感じつつ、自らつくるものである、と僕は信じている。
「オレは、こんな風になりたいな」
「わたしは、こんな風には生きたくないな」
そうやって、"自分の強み"を、少しずつ作り出していく他はない。
自分の強みに合致した"場"はネットであっても、リアルであってもかまわない。最初は、大枠の方向性さえ間違っていなければ、自分の強みと具体的レベルで、完全に合致していなくてもかまわない。
本当のことをいうと、自分の強みは、"場"をつくり、運営していく中で、次第に見いだせるものなのかしれない。
もちろん、場の規模は、最初は、小さくても、大きくても別にたいした問題がない。
問題は、自分の決めた領域を探求したい、アンテナを高くしたいと願いつつ、フリーライドにならない人が、その中に何人含まれるか、ということである。
ポイントは「誰」が集まるか、ということである。「何人参加してくるか」ではない。自分が貢献しつつ、結果として、自分に他者が貢献してくれる"場"を、いかにもつか、ということである。そして、そのためには、自分自身の知識を常にアップデートし、自分が賢くなる必要がある。
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私見によれば、「アンテナの高さ」とは、「個人の属性や能力」もさることながら、その人と、その人につながる人々のあいだの関係によって達成される「集団的」で、かつ「分散的」な「知性」である。
思うに、
「あの人って、アンテナ高いねー」
という物言いは間違いではないが、どうも僕の認識とは異なっている。それは「アンテナの高さ」を「個人」に還元しすぎてしまっているような気がする。
「あの人って、アンテナ高そうな人が集まる場をもってるよね、あの人自身も、アンテナ高そうだけど」
が、どうも感覚に近い。
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ちなみに、1919年・・・まだインターネットの「イ」の時もないころ、このことを喝破していた一人の賢人がいた。
鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓碑には、下記の言葉が記されている、のだという。
「ここに、自分より賢い人々を、周囲に集める術を知っていた1人の人間が横たわる」
投稿者 jun : 2008年06月23日 09:08 | トラックバック
学術論文を読んで涙が止まらなくなったときの話
誰の役にも立たないと思うけど、今日は、僕が、「学術論文を読んで涙が止まらなくなったときの話」をしよう。
今から数ヶ月前、愚息TAKUZOは、数週間、病床にあった。きっかけは熱性痙攣であったが、予後があまりよくなく、点滴とチューブにつながれた、永遠とも感じられる「長い時間」を、彼は病院で過ごすことになった。
生まれて以来、常に一緒にいた親から引き離され、暗く、そして長い夜を、独り過ごす。もっとも辛かったのは、TAKUZO本人であることは間違いない。
しかし、僕たち親も、本当に心を痛めた。「一生分の心配」を、わずか数週間ですべて経験したような気分であった。
しかも、この間も、仕事は続いている。TAKUZOの入院後、僕たち家族の生活は一変したが、僕らの周りの世界は、何一つ変わっていない。仕事の同僚には多大なる迷惑をかけてしまったが、僕たちの仕事に「代替」はきかないものも多い。講演、ロケ・・・どんなに心が引き裂かれそうでも、自分たちがやるしかない仕事は、やるしかない。
僕の場合は壇上にたてば、カミサンの場合はスタジオの副調整室の卓にすわれば、もう、「親」の顔は捨てなければならない。講演講師として、ディレクターとして、僕らは「別の顔」を生きなければならない。
もう、どうにかなりそうだった。
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幸い、数週間でTAKUZOは退院した。しかし、退院後、不調の原因が掴めなかったこともあり、僕たち家族は、国立の大病院のセカンドオピニオン外来を訪れることにした。
磨き上げられた床、高い天井、専門のスタッフ。それまでいた病院とは全く違う雰囲気に、僕たちは圧倒された。
入院した病院が「臨床の最前線」であるのなら、こちらは「研究の最前線」であった。
そこで出会ったお医者さんは、僕の仕事が研究者であるとわかると、ある医学雑誌の論文引用情報をわたしてくれた。
「TAKUZO君の不調と予後については、この論文に書いてあることがあてはまるかもしれません。ぜひお読み下さい」
大学に戻り、僕は早速、医学部の図書館をおとずれた。めざす論文をさっさと見つけた。
いつも訪れている図書館とは、ちょっと雰囲気が違い、座りがわるいので、論文をコピーして、自分の研究室で読むことにした。
論文は、いわゆる「症例研究のメタ分析」であった。過去数年に、この病気にかかった子どもたち35名が、当時、どのような検査を経験し、その結果はどうであり、その後の予後がどうなったのか。国内外の症例をまとめた論文であった。
論文の最後には、検査結果がどのようなものであれば、予後がどうなるかに関しての、予測モデルが示されており、追加の検査として●●というものを行うべきだ、と結んであった。
論文には、大きな「表」がひとつ掲載されていた。35名の患者の子どもがリストになっているものであった。やや内容をはしょって簡単に書けば、下記のような表である。
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氏名 検査A 検査B 予後
A(男) - + 不良
B(女) - - 不良
C(女) + - 良好
D(男) - + 不良
E(女) + + 良好
F(男) - + 不良
G(男) + ー 良好
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・
・
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そして、忘れもしない、この「表」を目にしたときのことである。僕は、生まれてはじめて、「学術論文」を読んで泣いた。嗚咽が次から次へとあふれ出てきて、もう止まらなかった。しばらく机の上でうずくまった。
当初、自分でもなぜ涙が流れるのかはわからなかった。単に「表」を目にしただけなのに、なぜ嗚咽がもれるんだろう。一瞬の出来事に、僕自身が、理由をつかめずにいた。
しばらくして、自分自信を「客観的」に観察できるようになり、僕はようやく事情がわかってきた。なぜ、僕が、この表を目にして涙がとまらなくなったのか、その理由が。
それはわずか1pの表に、35人の子どもたちと、その子どもたちにつながる人々の「苦しみの物語」を一瞬にして感じたからである。
わずか1行で表現されているものの背後に、「患者の物語」、その物語を支配する無念さ、悔しさを感じたからである。
1行の末尾に記されている「不良」のという、わずか2文字の果てに、子どもと、彼を取り巻く人々が諦めざるをえなかった「夢」や「未来」を痛感したからである。
検査Aの結果は不良だったA君。おそらく検査Bの結果がでるまでは、A君はベッドに横たわっていただろう。そして、両親はどんなに不安な夜を過ごしたことだろう。
検査結果Bの結果は幸いよかった。一度は、両親、そして祖母祖父ふくめて安堵しただろう。しかし、それなのに、それにもかかわらず、後日、予後が「不良」であることを受け入れなければならない「無念」と「悔しさ」。
なぜ、自分だけがこんな思いをしなくてはならぬのか。そして、なぜ、我が子だけが、このような苦しみにあわねばならぬのか。
なぜ、オレの子どもなのか、なぜオレの家族なのか、そして、なぜオレなのか。
僕は、1行1行をじっくり読みながら、物語を想像した。A君とA君の家族、BちゃんとBちゃんの両親と祖母祖父、CちゃんとCちゃんの両親と兄弟・・・様々な人々が経験したであろうプロセスを「追体験」した。
そこには35人の物語があった。いや、35人につながる数百人の物語を見いだせた。論文の後半、予後の予測モデルや追加の検査の項を読む頃には、涙も枯れ果てた。
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こういう話をしたからといって、別に、「症例研究」がいけないとか、非人称的な記述形式がいけないとか、予測のモデルをたてるのがいけない、とか、そういうことを言いたいわけでは「断じて」ない。
こういう地道な研究の果てに、医療の「未来」はある。「これまでなら苦しんでいた子ども」を1人でも多くださないための工夫は、そういう研究の積み重なりの果てにあるのである。それは必要なことなのだし、これからも継続されなければならないことなのだ。
僕も研究者のはしくれとして、研究の重要性はよく理解しているし、分野は違うとはいえ、同じようなことをやっている人間のひとりである。
しかし、「研究者としての自分」を離れ、親として論文を目にしたとき、僕は、そこに全く違った世界を見た。そして、心の底から感じた。
人間を対象とした研究の「背後」には、ふだんはスポットライトを浴びることのない「人間の物語」が隠されている。
研究の目からすれば、「被験者A」「参加者A」でいいかもしれない。統計的有意な結果をだせる人数を被験者として確保し、仮説を検証したり、モデルをつくることが必要なのかもしれない。それは「研究者としての勝ち」「研究者として見たい光景」なのかもしれない。
しかし、そのことが重要であることは1ミリも否定しないが、おそらく、このことだけは忘れてはならない。研究者として自戒をこめて、そう思う。
被験者Aは、「固有の名前」をもっており、彼につながる人々とのあいだで、様々な物語をつむいで生きてきた、ということである。
そして、研究者が彼に対して行ったことの結果は、そういう物語の果てに理解される必要がある、ということである。
さらにいうならば、人にかかわる研究をするということは、そういう人の物語に触れたり、介入したりするということである。僕はそこに、ある種の「畏れ」らしきものを感じざるをえない。
「何を今更アタリマエを言うんじゃない」とお叱りを受けるかもしれないが、僕は、今回の出来事で、心の底から、そのことの意味がわかった。はじめて親の立場で、「35人の表」を目にしたときに。否、35人につながる人々の物語を感じたときに。
今まで概念的には、アタマの中ではわかっていたことだったけど、このときばかりは、心の底からわかった気がした。
---
幸いTAKUZOは、その後、すっかり元気になった。追加の検査も、異常なし。いまだ原因はよくわからないものの、今では、あのときのことがウソのように遊び回り、どろんこになっている。
僕たちは、何か、「悪い夢」を見ていたんだろうか?
あれはいったい何であったのか。
今では時々、そう思うこともある。
しかし、それが「夢」ではないことは僕が一番よく知っている。「学術論文を読んで号泣したこと」は、忘れようと思っても、忘れられるものではない。
そして、そこで僕が号泣した理由は、僕が研究者として生きていく限り、一生抱きしめていくことなのかもしれない。
---
追伸.
TAKUZOと新幹線を見に行く。入場券を買って、ホームへ。

大興奮で新幹線を見学。
前にでたいがあまり、柵の間に足を入れる。

やばい・・・足を差し込みすぎた!

で・・・・

足が抜けなくなる(笑)。
助けてー、きょえー。
投稿者 jun : 2008年06月22日 09:01 | トラックバック
ランディ=パウシュ教授(CMU)の「最後の授業」
膵臓癌で余命半年を宣告されたカーネギーメロン大学 ランディ・パウシュ教授の「最後の授業」をYoutubeで見た。
先日、Learning barに参加してくれた方から、その存在を教えてもらった(Nさんありがとうございます)。
2本目以降はこちら
http://jp.youtube.com/watch?v=yw_PKpaJbT0&feature=related
講義は、彼が自分の夢をどのように実現してきたのか、を率直な言葉で、しかも第一級のユーモアーをもって語っている。
夢の実現を通して、自分がどのように人々にサポートされ、また、自分が他者をどのようにサポートしたのか。
余命数ヶ月の彼が伝えたかったのは、そういう人々のつながりの中で「人を支えつつ、人に支えられながら生きること」の大切さでないか、と思う。
思うに、人生には「三種類の時間」しかない。
「あなたが誰かに支えられている時間」
「あなたが誰かを支えている時間」
「あなたが誰かを支えつつ、同時に、誰かを支えている時間」
人間は生まれてから死ぬまで、「支える」ということから無縁ではいられない。
ビデオの中の彼は、ウィットにあふれ、常にエネルギーに満ちている。しかし、そんな彼を目にしながら、頭の奥底には、「こんなに元気なのに、この先生は、もう長くはないのか・・・」という思いが、こみ上げてくる。何だか訳もなく切ない。
講義の中での彼のメッセージは決して奇をてらったものではない。
「レンガの壁があっても夢の実現をあきらめてはいけません」
「人の批判を聞くこと。評価グラフの形であれ、尊敬する人の言葉であれ、批判を素直に聞くことはむずかしいものです。批判は大切に役立ててほしい」
「間違いを正されるのは期待されている証拠です。誤りを指摘されない環境は自分のためにはなりません」
「文句をいわずに一生懸命やること」
誰もが「そうだよな」と思うことでありながら、なかなかそうすることが難しい。彼は、そうしたことを率直に語る。その率直さが胸をうつ。
ちなみに、この講義は、彼の3人の子どもに向けられている。
---
追伸.
7月6日(日)午後2時、六本木のアカデミーヒルズで上映会があるとのことであった。
最後の授業 上映会
http://www.randomhouse-kodansha.co.jp/last_lecture/index.html
投稿者 jun : 2008年06月21日 12:26 | トラックバック
Learning bar募集開始「高業績をだすプロジェクトマネジャーの育成を考える!」
=================================================
Learning bar@Todai 2008
高業績をだすプロジェクトマネジャーの育成を考える!
2008年7月11日(金曜日)午後6時 - 9時 東京大学
=================================================
2008年7月のLearning barは、常磐大学の伊東昌子先生、
株式会社 日立製作所 デザイン本部の山寺仁さんを講師に
お招きし、
「高業績を出せるプロジェクトマネジャーを育てる
にはどうするか?」
ということについて、皆さんでディスカッションを
深める機会を持ちたいと思います。
伊東先生と山寺さんは、認知科学の理論と方法論を
用いて「高い成果をだせるプロジェクトマネジャー」
の思考や行動には、どのような違いがあり、それがプ
ロジェクトマネジャーとその周辺に対し、何を物語る
かを明らかにする共同研究を進めてこられました。そ
の研究成果は、大きな反響を呼んでいます。
今回のLearning barでは、伊東先生、山寺さんに、
この共同研究についてご講演いただきたいと思ってい
ます。
またBarの後半では、伊東先生、山寺さんの話を受けて、
プロジェクトマネジャーの養成のために、今、現場では
どのような取り組みがなされているのかについて、グロ
ーバルナレッジネットワーク株式会社の戸部伸彦さんか
ら、いくつか事例紹介をいただきます。
参加をご希望の方は、下記の参加条件をお読みになり、
フォームに必要事項をご記入のうえ、6月27日までに
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまでご連絡
下さい。6月末日までに参加可否をお伝えいたします。
下記の要項を必ずご一読いただき、ご応募をお願いいた
します。
なお、最近、Learning barは満員御礼が続いており、
参加登録いただいても、すべての方々の御希望にはお応
えできない状況になっております。
主催者としては心苦しい限りですが、限られたスペー
スと人的リソースの中で運営し、かつ、参加者のバック
グラウンドの多様性を確保する必要がある関係上、すべ
ての方々のご要望にはお答えできません。
なにとぞお許しください。
企画担当:中原 淳(東京大学・准教授)
※Learning barは、NPO法人 Educe Technologiesが
主催、東京大学大学院学際情報学府 中原研究室が
共催する、実務家と研究者が集まる学術イベントです。
---
○主催
NPO法人 EDUCE TECHNOLOGIES
エデュース・テクノロジーズ
http://www.educetech.org/
EDUCE TECHNOLOGIESは、教育環境の構築に
関する調査、研究、コンサルティングを行う
非営利特定活動法人です。
企画担当
副代表理事 中原 淳
○共催
東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
- 大人の学びを科学する研究室 -
http://www.nakahara-lab.net/
○協力
グローバルナレッジネットワーク株式会社
http://www.globalknowledge.co.jp/
○日時
2008年7月11日(金曜日)
午後5時30分 開場
午後6時00分より午後9時頃まで実施
※時間が限られておりますので、定刻通り
に始めます。本郷キャンパスは意外に
広いです。くれぐれも、迷子になりませんよう
○内容(案)
□ウェルカムドリンク
(5時30分 - 6時00分)
・今回のLearning barでは、サンドイッチ
ソフトドリンク、ビール、ワイン等を
ご用意しています。
・非常に混み合うことが予想されますので、
なるべくはやくおこしください。
□イントロダクション
(6時00分-6時10分)
・中原 淳(東京大学)
□パート1
(6時10分 - 6時50分)
(35分講演+5分質疑)
・山寺仁さん(日立製作所) 10分
・伊東昌子先生(常磐大学) 25分
伊東先生と株式会社日立製作所は、認知科学の理論
と方法論を用いて「高い成果をだせるプロジェクト
マネジャー」の思考や行動には、どのような違いが
あるのかについて、共同研究を進めてこられました。
この共同研究の背景について、山寺さんにご紹介い
ただきます。
その後、伊東先生に、まず研究のフレームワークと
方法論、プロジェクトマネジャーの発揮する「知」
とは何か、についてご講演をいただきます。
--- bar time (10min.) ---
□パート2
(7時00分 - 7時40分)
(35分講演+5分質疑)
・伊東昌子先生(常磐大学)
引き続き、伊東先生に、実験結果と実践的インプリケ
ーションについてご報告いただきます。
その後、プロジェクトマネジャーの育成について、
何から取りかかればよいのかについてご提案をいただ
きます。
--- bar time (10min.) ---
□プロジェクトマネジャーの育成、事例紹介
(7時50分 - 8時05分)
(15分)
・戸部伸彦さん
(グローバルナレッジネットワーク株式会社)
□お近くの方とディスカッション
(8時05分 - 8時35分)
(30分)
□ケータイde質疑
(8時35分 - 8時55分まで)
(20分)
□ラップアップ
(8時55分 - 9時00分まで)
(5分)
・中原 淳(東京大学・准教授)
○場所
東京大学 工学部2号館 9F 93B
大学院情報学環 教室
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_04_03_j.html
地下鉄丸の内線本郷三丁目駅から徒歩15分程度
地下鉄南北線東大前駅から徒歩10分程度
○参加費
2000円(1名さま 一般・学生)
(講師招聘費用、講師謝金、飲み物、食べ物、
運営費等に支出いたします)
○食事
ソフトドリンク、ビール、ワインなどの飲み物、
および軽食をご準備いたします。
○参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。
1.本ワークショップの様子の写真、NPO Educe Technologies、
東京大学 中原研究室が関与するWebサイト等の広報手段、
講演資料、書籍等に用いられる場合があります。
2. 欠席の際には、お手数でもその旨、
saka-atsu [at mark] nifty.com までご連絡下さい。
人数多数のため、多数の方の参加をお断りしている
状況です。繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。
○どうやって参加するのか?
下記のフォームに必要事項をお書き入れの上、
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
6月27日までにお申し込み下さい
〆ココカラ=======================================
参加申し込みフォーム
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
6月27日までにお申し込み下さい
6月末日までに参加の可否をご連絡させていただきます
---
上記の参加条件を承諾し、参加を申し込みます。
氏名:( )
フリガナ:( )
所属:( )
メールアドレス:( )
業種:下記の11つの属性から、あなたに最も近いものを
ひとつお選びください
1.研究者
2.学生
3.民間教育会社勤務
4.民間コンサル会社勤務
5.事業会社勤務(人事・教育部門)
6.事業会社勤務(事業部門)
7.個人事業主(教育・コンサル)
8.経営者
9.初等・中等教育の学校勤務
10.公務員・公益法人等勤務
11.その他
もしあれば・・・一言コメント
( )
〆ココマデ=======================================
投稿者 jun : 2008年06月20日 14:46 | トラックバック
企業と儀礼
都内某所。あるファーストフードチェーンが、年に一度開催しているイベントに参加させていただく機会を得た。
各店舗ごとの精鋭 - 年齢は平均年齢20歳くらいだけど - が集まり、1)商品づくりのテクニック、2)劇、3)接客のテクニックを競争するイベントであった。
「競争」といっても、やらされ感が漂うようなドライなものではなく、皆、「感情」をあらわにし、負ければ涙を、勝っても涙をためるような、マジなものである。
会場は、ものすごい興奮のさなかにあった。勝敗が決定するたびに、会場の各所では、参加者同士抱擁しあう様子が見られた。
僕は、「どのような参加者たちが競争を勝ち抜いていけるのか」、そして、「いったい何が競われているか」について考えながら、会の進行を楽しんだ。久しぶりにエスノグラファーっぽい視点でものを見た。
観察を通して「イベントがもつ教育機能」について、非常に大きな示唆を得ることができた。非常によくデザインされているなぁ、と感心した。大変興味深い経験であった。
このような素敵なイベントに参加させていただく機会を与えてくれた某社の皆さん、そして、一橋大学の見舘先生に、この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。
投稿者 jun : 2008年06月20日 06:42 | トラックバック
COEO (Chief Organizational Effectiveness Officer)って聞いたことある?
CLO(Chief Learning Officer)ならぬ、COEO(Chief Organizational Effectiveness Officer)という役職名があるらしい。先日、一橋大学の守島先生のご講演資料を拝読していたら、そのようなことが記してあった。
※資料出所は、慶應丸の内シティキャンパス「人材開発アーキテクチャ論」です。金井壽宏先生が主任講師です。中原は、一回分を担当します。
人材開発アーキテクチャ論
http://www.keiomcc.com/program/hrd/
---
COEOは、いわゆる研修やOJTを中心とした「人材育成」を見るだけではなく、
1)組織文化マネジメント
2)スタッフの意識改革
3)組織学習の強化
4)組織メンバーのダイバーシティへの対応
5)職場のコミュニティ化
などなど、広く「組織における人間の成長や学習」に関係する様々なものを取り扱う役職だそうだ。これらの諸要素を、うまくマネジメントして、人間がよく働ける場や社会関係をデザインしていく、ということなんだろう。
この方向性は、ワークプレイスラーニングという概念にも、パフォーマンスコンサルティングという概念の主張とも合致しており、僕個人としては、とても共感できる。
人間は、研修室だけで学ぶわけではない。学びの場は職場にも広がっている。そして、働くことが、すなわち、学びでもある。学習や成長を、より広い文脈で捉えることが重要だと僕は思う。
---
以前にもアナウンスしたけれど、今年は10月31日(金) 午前10時~午後5時まで、東京大学・本郷キャンパス 安田講堂でワークプレイスラーニング2008というカンファレンスを実施する。今年のテーマは、ずばり「人材開発部の未来」だ。
カンファレンスまで、残り4ヶ月はある。
様々な情報を集約し、日本の状況を鑑みた上で、じっくり、主張を練り直したい。
(ちなみに、JMAM「人材教育」の次号、リクルートワークス研究所の「Works」の次号で、僕のオピニオンが掲載される予定です。よろしければ、ご意見お聞かせ下さい)
投稿者 jun : 2008年06月19日 08:39 | トラックバック
パッションとロジック
思うに、研究は「パッション」からはじまります。
世の中では、○○に実践されているけど、本来、それはおかしい。~のように考えれば、もっとよくなるはずだ。
巷では、こんな風に思われている常識があるけれど、どうもそれは違う。実態は~であるはずだ。
「パッション」という言葉がわかりにくければ、「怒り」といってもいい。「これはおかしい・・・このままにしてなるものか」という思いが、まずは必要ではないかと、僕は思います。
そうやって、自分が取り組む「問題」がわかったら、次に必要なのは「ロジック」です。
ロジックとは何か?
あくまで僕の専門分野で、ロジックを説明するのならば、それは「問題」「方法」「評価」「結果」を「1本の線(意味のつながり)で結ぶこと」です。
---
1.解決すべき「問題」は何か?
→その「問題」に着目する理由は何か?
2.その「問題」の解決のために
とりうる「方法・アプローチ」とは何か?
→なぜ、あまたある手法の中で
その「方法・アプローチ」を選ぶことが妥当と
言えるのか?
3.その「方法」や「アプローチ」を、どのような
手法や手続きで「評価」するのか?
→その手法や手続きが、なぜ妥当と言えるのか?
4.その「評価」結果から、結局、どんな結果がでるのか?
→解決すべき「問題」は解決したのか?
→その「問題」を解決した際に
どのような新たな問題空間が見えたのか?
---
ロジックが通っているとは、「問題」「方法・アプローチ」「評価」「結果」がすべて矛盾無くつながっている状態をさします。
別の言葉でいいましょう。
要するに「ロジックがたつ」とは、どんな角度から、自分の研究について、何を聞かれても、「学術的に理由を答えられる」ということです。
どんなことを聞かれても、「何となくやったのです」「思いつきを、ちょっとやってみたんですよね」と答えないですむということです。
さらに言うのなら、その分野の人だけでなく、異分野の人であっても、「誰にでもわかる言葉で、自分のやったことと、その理由を述べることができる」ということです。
---
ロジックがたつことは、研究をする上でもっとも重要なことです。
どんなに実践として素晴らしくても、
どんなに効果があっても、
どんなに人々が喜ぼうとも、
どんなに目が輝こうとも、
ロジックがたたないものは研究としては認められません。
実践としての価値はあっても、ロジックが立たなければ、研究としての価値は疑問符がついてしまいます。厳しいようですが研究の世界とは、そのようなものです。
それではロジックをたてるには、どうすればいいでしょうか。
よほどの人ではない限り、ロジックは自分一人ではたてることは難しいように思います。
かくのごとく偉そうなことをホザいている僕も、ツメの甘い人間です。
「ロジックがたった!、いっちょあがり!」
とフラダンスしていると、他人に「ブスッ」とカン●ョーされちゃうんですね。ツメが甘い・・・あべし。
けだし、洗練されたロジックをつくるには、どうしても「他者のまなざし」「他者のチェック」が必要であることが多いように思います。
他人の目は、自分が予測できない角度から、自分の予測できない事を指摘します。それがとても重要なのです。
だから、研究には「仲間」が必要なのですね!
---
今日は、「研究の世界」の事を書きました。あくまで僕の専門分野の話であり、また僕の信念です。何の一般性もないことを断っておきます。
ですが、実は・・・小さい声で本当のことをいうとね・・・これは「研究の世界」だけにあてはまることでしょうか? 研究の世界だけでなく、いわゆる実務の世界でも、企画をたてるとき、新しいことをはじめようとするときには、実は、同じようなことをやっていないでしょうか。
厳密さや緻密さは違っていても、実は、世の中のナレッジワーカーとは、基本的に「研究の世界」と同じことをやっているように思います。
たとえば某自動車会社。
企画書をつくるときには、上司や同僚から「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と、理由を何百回も問われます。企画はA3用紙1枚にまとめることになっています。ロジックがすっきりしていれば、A3一枚で、まとまるのです。
たとえば、某テレビ局。
企画は、どんなに長編の番組であっても、シリーズものでも、A4用紙1枚でまとめなければなりません。
「なぜ、この番組を今放映する必要があるのか」
「どういう社会的意義をもっているのか」
「絵として何が撮れるのか?」
が繰り返し問われます。「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」
結局、同じことなのですよ。そして、大学院で学ぶべきことは、結局、こういうことだと思います。
投稿者 jun : 2008年06月18日 10:34 | トラックバック
コミュニティの世代継承と消失のデザイン
昨日は、ある企業A社の経営企画の方が3名、研究室におこしになりました。A社では、社内に、社員たちが、仕事のこと、仕事外のこと含め、自由に「コミュニティ」をつくり、人を募り、活発に活動をしているとのこと。
この活動自体は、A社のかかげる組織変革プログラムの一部に位置づいているそうです。昨日はその全体像をディスカッションしました。大変インフォーマティヴな会でした。A社の皆様、ありがとうございました。
---
その中で大変興味深かったのは、「コミュニティの世代継承、消失、再誕生をいかにデザインするか」という話でした。
要するにこういうことです。
コミュニティ活動というのは、熱意と志のある社員が、最初に手をあげてはじまります。
最初の頃は、メンバー全体に、その「熱意」や「志」が共有されていますが、次第に、その活動が活発になるにつれ、それがうまくいかなくなってきます。
活動が活発になり、外部の人々に認知されるようになったり、場合によっては、社長などから「あそこのコミュニティの活動はすごい」と持ち上げられるようになってくると、さらに人が集まってきます。
これらの人々は、設立当初の熱意を共有できているわけではありません。コミュニティメンバーのもつ「熱意」や「志」に「層」が生まれる瞬間です。
さらに深刻な事態がおこります。コミュニティが外部にフィーチャーされればされるほど、そこには、必ず「フリーライダー(ただ乗り)」が生まれてきます。
本来、「熱意」や「志」を共有した人があつまる場がコミュニティであるにもかかわらず、「あそこに入ると、出世できそうだから」といった理由で、人が集まってきます。
コミュニティとは「誰でも参加できること」が条件になっていることが多いので、そうしたフリーライダーの「参加という名の非参加」を、なかなか拒むことができません。
しかし、そういう人はコミュニティで何をするわけではありません。だって、「コミュニティで何かをすること」ではなく「コミュニティにいること」が目的なんだから。
そうすると、コミュニティ内部に様々な「軋轢」が生まれてきます。コミュニティの中で「やる人」「やらない人」が生まれ、「やっている人にぶらさがる人」「やっている人を見ている人」がでてくる。
だんだんと、「熱意」や「志」も共有されなくなってきます。そもそも、後から入った人には、コミュニティ創立期の盛り上がりは、後追いしにくいものなのです。
さらに深刻なのはフリーライダーたちです。彼らは「熱意」も「志」もクソもヘッタクリもありません。
かくして、コミュニティの活動がだんだんとギクシャクしはじめます。そもそも「自分たちは、なぜ、集まっているのか」がわからなくなってくる。「なぜ、こんなに多くの人々をまとめることに時間をかけなくてはならないのか」という疑問がフツフツとでてきます。「コミュニティの死期」が、近づいた瞬間です。
ここで、コミュニティのリーダーとしては、いくつかの選択肢をとることができます。
1.コミュニティそのものの活動を辞めてしまう
2.創立当初のメンバーは抜けて新しいコミュニティをつくる
3.現在のメンバーの中で志のある人をもう一度選抜して、コミュニティをつくる
しかし、最も重要なことは、コミュニティの活動の停滞・終了を引き金に、せっかく集まった人々の社会的関係を崩壊させてはならない、ということです。そして、これが大変に難しい。
どの選択肢をとっても、ある程度、コミュニティメンバーには、感情の「しこり」が残りますね。この「しこり」をミニマムにおさえつつ、コミュニティの熱意や志を世代継承し、いかにその活動を続けていくか。非常に難しいマネジメントが求められます。
---
大変オモシロイなと思いました。
いわゆるCoP論やネットワーク論では、つながりをつくったり、コミュニティを創造することに、人々の関心があたります。
しかし、実は、コミュティを創造することは、熱意さえあれば、あとは「エイヤっ」であまり難しいことではないのかもしれません。
問題は世代を継承し、場合によっては人間関係にしこりを残さず、コミュニティに安らかな死を与えることなのです。
とても考えさせられました。
投稿者 jun : 2008年06月17日 06:41 | トラックバック
優れた知性とは・・・
今日のブログのエントリーをお読みになったTさんが、下記のような言葉を教えてくれました。
The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function.
「優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういうものだ。」
スコット・フィッツジェラルド(村上春樹訳)
深いですね。
「教育のことを考えるための知性」とは、まさにかくあるべし、と僕は思います。
投稿者 jun : 2008年06月16日 21:05 | トラックバック
物語は、かつ消え、かつ結びて
「物語」というキーワードが、企業人材育成の分野で、最近よく語られるようになってきました。人文科学におけるナラティブターンが、この分野にもようやく到達したのかもしれないな、と思いつつ、決してそんなことはないようです(笑)。
今、「物語」が注目されているのは、現場にはびこる「別の深刻な理由」を、何とか解決したいと考える人が増えているから、のようです。
「なんか、最近、うちの職場、バラバラなんだよなぁ」
この「認識」が「真実」かどうかはデータがないので判断は保留するとして、こういうことを感じる人が、年々増えているのだと聞きます。それに類する本も、多数出版されているそうですね。
現在の職場では、すでに社員の雇用形態は多様化しています。今後は、グローバル化の波にのって、日本で働く外国人はさらに増えるでしょう。また成果主義などの施策によって、同じ雇用形態の人々の中にも「格差」が生じています。かくして、職場の「バラバラ感」はどんどんと高まっているのかもしれません。
そして、この「バラバラ感」を何とか「つなぎとめるもの」「たばねるもの」として期待されているのが、「物語」であるわけです。だから「物語」と「つながりの回復」は、いつもセットで語られます。
異なる価値観をもつ人々を「つなぎとめる」ためには、誰もが納得し、合意し、コミットできるような「大きな物語」を共有する必要があります。
しかし、やっかいなことに、かつて日本企業を「鉄」のように束ねていた「大きな物語」は崩壊しています。じゃあ、どうするか。ここに、現代の「モデル無き模索」のはじまりがあります。
組織変革、組織開発、組織診断・・・様々な手法がしのぎを削っています。
---
ところで、圧倒的ポジティブに語られる「物語」や「つながり」は、常に組織にとってプラスをもたらすわけではありません。
それが行きすぎると、人々が疲弊したり、新しいアイデアが生まれなくなってしまったり、外部環境の変化に対応できなくなってしまうことも、これまた事実です。
たとえば、物語を周到に会社が操作し、人々を「労働」に駆り立てる場合・・・つまりは、組織文化が過剰にマネジメントされるといった事態に陥る場合、人々は仕事から離れられなくなってしまう可能性があります。
人によっては、バーンアウトしてしまう可能性もないわけではありません。
また、物語の支配力が強すぎる場合。過去の成功体験や失敗体験やしがらみに縛られて、何一つ新しいアイデアを生み出せなくなったり、組織が外部の環境変化に対応できない、といった事態も生まれる可能性があります。
物語によって「つながり」が強くなりすぎてしまった場合。それは人々の間に過度の依存を生み出します。合意をとるまでに時間がかかり、根回しなしでは、なかなかモノゴトが前に進まない状況も生まれるかもしれません。
結局のところ、「物語」も「つながり」も「諸刃の剣」なのです。「物語でCatch all(キャッチオール:問題はすべて解決)」を「決め込む」というのは、あまり「真摯な態度」ではありません。
もちろん、だからといって「物語はダメ」だと言いたいわけではありません。むしろ、僕が言いたいのはその「逆」です。
ネガテイブな側面がありつつも、そこで得られるメリットを勘案し、何をどこまで進めるかについて意思決定を行わなければならないのが「実務」です。予測可能なものを可能な限り、予測しつつ、よいさじ加減の意思決定を行うことしか、ないのだと思います。
(ちなみに、世の中の本当に大切なことは、ネガティブなことも、ポジティブなことも両方併せ持っているものです。研究者は、あるモノゴトにネガティブなことがあったから、すべてダメだと結論しがちですが、そういう思考では何一つ意思決定はできません)
---
もうひとつだけ思うことがあります。
今、必要なのは、本当に「大きな物語」なのでしょうか?
そして、それを「浸透」させることなのでしょうか?
新たに生まれた物語は、いつの日か、「因習」になります。また「つながり」は「しがらみ」に、いつかは必ず転化してしまいます。
むしろ、「新しい物語」が常に作られる一方で、「手垢のついた物語」が壊される。「新しいつながり」が生み出され、「過去のしがらみ」は断ち切られる。そういう「生々流転のプロセス」をつくりだすことが重要なのかもしれません。
もちろん上記は仮説にすぎないですし、実証できたわけでもありません。でも、何となくそう思うんです。
小生、まだ短い人生しか生きてはいませんが、これまでの経験を通して培った「持論」に下記があります。
本当に大事なものは、「動き」の中にある
投稿者 jun : 2008年06月16日 08:57 | トラックバック
赤ちゃんの「ハナミズ」をどうするか?:ハナ吸い器づくり奮闘記
赤ちゃんの「ハナミズ」というのは、なかなか親泣かせです。赤ちゃんは、「チーン」とかって、自分でハナかめないですから。ハナミズを親が取ってあげなくてはなりません。貯めておくと、風邪がなかなか治らない。
でも、この「取る」が問題なのです。
耳鼻科に行けば、「自動吸引器」でとってもらえますが、どこの耳鼻科も今は混んでいます。ヘタをうてば「2時間待ち」はザラなのですね。
ハナをズルズルズルと吸ってもらうだけに2時間・・・・。しかも2時間のあいだ、暴れるTAKUZOをかかえて。ハッキリ言って、終わった頃には心身ともに疲れ果てます。
で、自宅でできる「ハナ吸い器」として一般的に用いられているのは、下記のようなものです。
まずは「スポイト式」

こちらはスポイトのように「ハナ」を吸い取ります・・・というか、そのハズなのですが、なかなか実際はとれない・・・(泣)。
こちらは、親が口で吸いとるかたちのやつです。チューブの一方を子どもの鼻の穴に差し入れ、もう一方から親が空気を吸います。真ん中に「空気貯め」が取り付けられているので、ハナを直接吸わなくてもよいかたちになっています。

これは、一般に最も用いられていますが、「大問題」があります。それは、、、
・
・
・
・
・
・
「これでハナを吸うと、親が風邪をひく」
ということです(笑)。
我が家のような共働き家庭では、クリティカルな問題ですね。
おそらく、ハナを吸い取るときに、子どものハナの穴にたまっている空気から、ウィルスやら細菌やらを、一緒に吸い取ってしまうのではないかと思います。メカニズムはよくわからんが、統計的有意に、かなりの確率で、親も風邪をひくのです。
これまでは我が家も、後者のハナ吸い器を使っていました。
申し訳ないんだけど、僕は遠慮させていただいておりました。なんか「吸う」のが苦手なのです。吸ってる最中に、ゲ●でそうになってしまうのですね。
で、こんな情けないワタクシを横目に、カミサンが「ハナ吸い特攻隊長」を拝命しておりました。で、彼女が、いつも「吸っていた」。その結果、可哀想に、いつもカミサンはノドを痛めていたのです。
で、これではイカンと考え、抜本的な「改善」を試みることにしました。人間が「吸う」のではなく、機械が吸えばいいのだ、と思ったのです。
まず試したのは
・
・
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一般家庭で「吸う」といえば、こちら。

いわゆる、ひとつの「掃除機」ですね。
掃除機の先にサランラップとチューブで「細工」を施し、そこに、ハナ吸い器を取り付けました。

さっそくスイッチを入れると、強烈な吸引力です。早速、TAKUZOに試してみることに。すると・・・
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吸引力がいささか「強烈」すぎました。
ボボボボボボボボボボボッ
ボボボボボボボボボボボッ
ボボボボボボボボボボボッ
という音がします。確かにハナは恐ろしいほど取れるのですが、TAKUZO、かなり苦しそうで、暴れています。「やべー、脳みそまで吸ってもうたかも」と思って、10秒ほどで辞めました。
何すんねん、コラ!
TAKUZOは、終わったあと、しばらく、僕とは目をあわせようとしませんでした(笑)。「無言の抗議」です。
そこで、次に目をつけたのは、美顔器です。

僕はよく知らないのですが、女性が鼻のまわりの皮脂をとるのに、用いるもののようです。
耳鼻科で用いる吸引器が、60ヘクトパスカル。そして、こちらが50ヘクトパスカル。10ヘクトパスカル足りないのですが、まぁまぁ、それくらいなら許容範囲でしょう。
早速、美顔器の先にハナ吸い器を取り付けました。

吸引力も心地よい感じです。
で、こちらをTAKUZOに試してみると、、、
大成功です! 耳鼻科のようにはいきませんが、今まで使っていた「ハナ吸い器」と同じくらいまでは、ハナがとれました。
これで、TAKUZOの風邪はすぐに治るでしょうし、カミサンも、ノドを痛めることにないでしょう。そして、ワタクシは、「救世主」として、永久に家族史に名をとどめるのです。フフフ。
そして人生は続く。
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投稿者 jun : 2008年06月15日 08:14 | トラックバック
組織理念は広めることができるのか?:高津尚志さん Learning bar報告
昨夜は、6月のLearning bar。株式会社リクルート ワークス研究所 Works編集長の高津尚志さんをお招きして、
「組織が大切にしている価値観や理念といったものをどのように広めることができるのか?」
についてディスカッションを深めました。

今回もLearning barは満員御礼。教室は140人の参加者の方々で埋めつくされました。Learning barは参加者の多様性を配慮するため、参加者を9つのカテゴリーにわけて抽選を行い、さらに男女比を調整しています。今回、ご参加いただけなかった方、なにとぞご了承下さい。

高津さんのお話は3つのパートにわかれていました。
第一部はオーバービュー。ご著書「感じるマネジメント」を参考に、「デンソースピリットプロジェクト」の全貌を俯瞰していただきました。プレゼンテーションの中では、世界各国での活動の写真などもご紹介いただきました。
第二部は、「デンソースピリットプロジェクト」のコンセプトでもある「ものがたり」「対話」についてです。この二つのコンセプトは「デンソープロジェクト」が、よくある理念浸透プロジェクトとは全く異なっているポイントでもあります。
組織の構成メンバーが、自分の経験を語りつつ、納得感や一体感を感じながら、いかに価値観を共有していくか。そこには、「個人の物語」と「組織の物語」と「他者の物語」のすりあわせ、葛藤、緊張といったものが存在します。
第三部は非常に異色でした。このようなプロジェクトに関係なさった高津さん自身のパーソナルヒストリーです。自分の「しごと」を支えるものとは何なのか。そして、「大人の学び」とは何なのか、についてお話をいただきました。
高津さんのお話を受けて、産業能率大学教授の長岡健先生には「組織文化論」のショートレクチャーをいただきました。

企業文化、組織理念とは人為的に「操作可能」なものなのか?
長岡先生のご提示なさった問題は、非常に「本質的」であると思います。組織理念を考えたい人は、一度は、この問いに立ち返る必要があるのではないでしょうか。
その後は、恒例のペアディスカッションです。参加者がペアになって、下記の問いについてディスカッションします。
・あなたの組織理念は、みんなに共有されていますか?
・理念の共有を阻むものは何ですか?
・どうしたら理念の共有が可能になりますか?
・本当に組織理念は人為的に広めることが可能でしょうか?




その後は、ケータイdeフィードバックです。高津さん、長岡先生のご発表の間中、今回もケータイで質問を受け付けていました。48件のご質問を受け付けることができました。

その中で共通点の高いものについて、高津さんにお話を伺うことにしました。質問は下記のように、プラクティカルなものから、非常に答えるのが難しいものまで多岐にわたりました。
●理念は、インパクトがあるものの方がいいんですか?うちの会社の理念は、誰もが納得するようなありきたりのものなのですが。
●理念を語る以前に、現場の仕事が忙しく、休みもままならない状況の現場マネージャーに、理念に意識を向けてもらうにはどうしたら良いでしょうか?
●職場の掲げる理念に全く共感できず、また、浸透させかたの下手さに困っています。また、浸透されたら負けだと思うこともあります。ここは理念浸透されたフリをするのが正しいのでしょうか?
●理念とは結局、誰のためのものなのでしょうか。
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最後は中原がラップアップを述べました。ここの部分は、長岡先生と僕が今必死になって書いている「組織物語論(仮称)」の中から、いくつか知見をご紹介しました。
典型的な理念浸透モデルは、いわゆる「導管モデル」というコミュニケーションの見方があり(長岡 未公刊)、そもそも、そのコミュニケーションモデルを見直し、対話モデルを探求しなくてはいけないことなどを述べました。
本当は「組織物語と固着」の問題、「物語をめぐる組織と個人の葛藤」の問題などを述べたかったのですが、あえなく時間切れでした。こちらは、またの機会に!

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最後になりますが、高津さん、長岡先生、そしていつも本会の実施を陰ながらサポートしてくれている、東京大学大学院の院生諸氏、さらには議論に参加してくださった皆様に感謝いたします。
本当にお疲れ様でした。
そして、ありがとうございました。
投稿者 jun : 2008年06月14日 07:35 | トラックバック
ヴィジョン、ソリューション、データ
ひょんなことがきっかけで、今から6年前に実施していた「学習科学に関する研究会:SIGLES (Special Interest Group of Learning Science)」の資料を読み直しました。
SIGLESでは、中京大学の三宅なほみ先生にショートレクチャーをいただき、当時産声をあげたばかりの「学習科学」について、みんなで勉強し、ディスカッションしようという会でした。
メンバーは40名ほどでした。研究者、大学院生、現場の先生、民間教育企業の方々、テレビディレクターの方々。今日も、様々な領域で、「学習」に関係した仕事をなさっている方々が、参加していました。
読んでいた資料の中で、トロント大学のカール=ベライターさんの言葉が妙にひっかかりました。
ベライターは、ICLS2002(学習科学に関する国際会議)の閉会の挨拶で、下記のような趣旨のことを述べているのです。
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「学習研究者は、研究を通して、ヴィジョン、ソリューション、データを、社会に提出しなければならない。
学習とはこうあるべきなんだ、人間の学びとはかくあるべし、というビジョン。
日々、不確実さと混迷を深めていく世界の中で、このように学んでいけば人間は生き延びていける、という智慧、つまりはソリューション。
そして、人間の学びには、こんな隠れた側面があったのか、こんな結果は誰しも予想しなかったといったようなデータ。
ヴィジョン、ソリューション、データ、この3つが揃ってこそ、社会(Social movement)を、人間らしい方向に導くものがそろう。
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この言葉を聞いた当時の僕のノートには、「ヴィジョン」「ソリューション」「データ」という単語が繰り返し書いてありました。
ヴィジョン
ソリューション
データ
ヴィジョン
ソリューション
データ
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確かにこの3つのどれが欠けても、社会につながる説得力のある議論はできないようにも感じます。
たとえば、データなきヴィジョン、ソリューションなきビジョンは、単なる絵空事でしょう。
逆に、ヴィジョンなきソリューションは、「こんな問題が起こったから、こんな技術がでてきたから、こうやってみました」的な「モグラたたき研究のサイクル」につながってしまいます。
2002年のレジュメを見ていて、ちょっぴり「鬱」になりました。
この6年、僕は何をやってきたのだ?
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しかし、僕がどんなに嘆こうが、わめこうが、今日も、明日も、あさっても、教育という活動は続き、学習は繰り返されます。人は教えることをやめません。もちろん、学ぶことは続きます。
近い将来、この3つをセットにして、何かを述べたいです。
そして人生は続く。
投稿者 jun : 2008年06月13日 10:10 | トラックバック
大学を、"みんな"で変えることができるのか!?
「最近、大学からのコンサル依頼がやたら増えているんです。学生に満足してもらえる環境を、大学"全体"でつくっていくには、どうしたらいいのか。どうしたら、学生がさらに集まる大学を、"みんな"でつくっていけるのか・・・。
"教授"だけがやってもダメなんです。かといって、"事務職員"主導でもダメですね。場合によっては、"学生"にも入ってもらう。大学のステークホルダー"みんな"が関わって、"学生目線"で自分たちの教育環境を見直し、当事者意識をもって、"環境全体"を変えていかなければダメなんです。
最初は小さくてもいいのですが、次第に、改革の輪が広がるような場をつくらなくてはなりません。
それにしても、大学に、わたしたちのような外部コンサルタントが呼ばれる時代になったんですね・・・10年前には考えられなかったことです・・・」
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ある民間コンサルタントの方から、こんな話を聞いた。
少子化問題をひかえ、今、"学生の視点から教育環境の見直し"に入っている大学が多くなっている、そうだ。他にも何人か同じようなことをおっしゃっている人がいたので、おそらくは、こうした傾向があることは事実なのだろう。
大学、教育、見直し・・・・
こういう話を聞くと、よくFD(ファカルティディベロップメント)という言葉を思い出してしまうけれど、上記でコンサルタントの方が語ってくれている内容は、いわゆる典型的な「ザ・FD」とは、やや異なった趣があると思う。その違いは、下記の2点だ。
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1.主体の問題
「よくあるFD」は教授陣が「主体」となっているのに対して、上記では、大学を構成するメンバー - 様々なステークホルダー - が「主体」として位置づけられている。
2.対象の問題
変革の対象は、必ずしも「大学の授業」だけではない。「環境全体」と捉えられている。学生の学習環境は、必ずしも、授業だけから成立しているわけではない。様々なステークホルダーが管理している、学習要素を、できれば一貫した理念にしたがって、変革したいと考えている。
(※誤解を避けるために言っておきますが、教員による授業改善が悪いといっているのではありません。それは貴重かつ不可欠な取り組みだと思います。僕も、いまだ不完全な授業しかできないですが、その改善には真剣に取り組むことにします。)
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ともかく・・・大学全体の教育環境の見直しの試みは、すべて「水面下」で進行している。大学の経営活動の根幹にかかわることなので、ある程度、成果がでるまでは、なかなか表面化しない。
静かに、だが確実に。変わることを願う「志」ある大学は、変革の渦中に、今、ある。
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ちなみに、去年、東京大学でご講演いただいた神保啓子さんが、先日の高等教育学会で、名城大学の試みをご発表なさったそうだ。
東京大学でのご講演の様子
http://www.nakahara-lab.net/blog/2007/09/20_2.html
題して「コミュニティ・オブ・プラクティスを活かすFDマネジメントの方法論」。
「誰が、誰と連携して、大学としての"新たな教育価値"をつくりだしていけるのか」、そして、そ





