フィードバックとは「傷口に塩を塗り込むこと」ではない!?

 フィードバックとは、「ほらよ、と結果を通知すること」とか「傷口に塩を塗り込むこと」だと思っている方がいらっしゃるんですよね・・・
 
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 先だって、東京大学で、中原研OBの関根さん・舘野さんが中心になり、フィードバックに関する英語文献購読会が開催されました。購読会には15名程度の方々にもご参加いただき、大変盛り上がりました。
 主催してくださったみなさま、ご参加いただいたみなさまに、この場を借りて感謝をいたします。

 フィードバックとは、さまざまな定義がございますが、要するに、要素にわけますと下記の2点です。

 1.パフォーマンスに対する結果の通知を行うこと
   (スパイシーメッセージング)

 2.パフォーマンスの立て直し、学び直しを支援すること
   (ラーニングサポート)

 世の中的にはフィードバックと申しますと、1の要素、すなわち評価面談での「結果の通知」というイメージが強く、あまり2の側面には焦点があたりません。
 正しく言えば、フィードバックが何かという定義すら浸透せず、フィードバックの2要素のうち1が何となく行われている、というのが現状のようにも感じます。

 しかし、個人的には、重要なのは2の要素であり、むしろ研究の本丸はそちらの部分なのかなという気すらしてきます。

 といいますのは、今回もさまざまなレビュー論文、メタ分析露文を目を通しましたが、1のメッセージング「パフォーマンスに対する結果の通知を行うこと」に関しましては、

 どのようなメッセージングを行ったらよいかは、タスクや本人の習熟度など、状況による

 どのようなメッセージングを行ったらよいかに関しては、さまざまな結果がでており、決定的に支持する科学的証拠はない
 
 というのが定説なのかなと思います。

 フィードバック研究と申しますと、よく「否定的フィードバック」がよい、いやいや「肯定的フィードバック」がよい、という研究がなされるのですが、少なくとも今回読んだレビュー論文等では、決定的証拠と考えられるものはありません。両者それぞれを支持する膨大な論文が併置しているというのが現状です。
(一般的状況で安定した結論が得られないのなら、特定場面を想定してフィードバック研究をなすこともできます。これは研究会参加なさっていたMさんが提案していたことです。そのとおりだと感じました)

 ワンセンテンスで申し上げますと、

 否定的なフィードバックがよいのか
 肯定的なフィードバックがよいのかは
 時と場合による
 Thats' all

 です。

 このことは、田中聡さんを中心とした中原研の有志グループが某社の多大なる御協力で行わせていただいているデータでも支持する結論がでています。

 要するに、どんな言い方をしようが、パフォーマンスを通告するときは、ショックはショックなのです。

 昨日読んだ論文では(この論文は極めて引用回数の多いものです)、むしろ、

 Disるな
 ほめるな
 
 とすらありました(論文にdisるなとあったわけではありませんよ・・・)。
 なぜなら、そのようなフィードバックを行ってしまいますと、感情に焦点があわされ、タスクに注意資源が向かないからです。

 ここからは個人的な意見ですが、おそらくこのような現状下において為しうることは、あたかも「鏡」のように結果をそのまま忠実にかえす知的態度でしょう・・・時にスイートに、ときにスパイシーに。

 むしろ、わたしたちは、

 「魔法」のように効くフィードバックのかえしかたが、どこかにあるのではないか

 と考えるパラダイムから「抜け出さなくてはならない」のではないかとすら思います。
 先ほど述べましたが、僕は「学習」という観点から「企業・組織のひとにまつわる問題」を研究してますので、注目していきたいのは2です。

 要するに、
 
 いかに立て直すか?
 いかに学び直してもらうか?
 それに対して
 いかに伴走するのか?

 に焦点をあてるということです。

 そう考えるのならば、

 フィードバックとは「立て直すための対話」と考えられるのではないでしょうか。

 冒頭、

 フィードバックとは、「ほらよ、と結果を通知すること」とか「傷口に塩を塗り込むこと」だと思っている方がいらっしゃるんですよね・・・

 と書きましたが、これは、昨日の研究会で、ある方がもらした一言であり、同様の物言いを、僕もこれまで多くの方々からうかがってきました。

 おそらく、今後必要なことは、この支配的なこの見方をかえていくことでしょう。
 場合によってはフィードバックという言葉を再定義するか、ないしは、フィードバックという概念にかわる「何か」を自らつくりだすことが求められるのかもしれません。そう考えると、なんだか楽しくなってきました。

 最後になりますが、主催者のみなさま、ご参加いただいたみなさまに、この場を借りて感謝をいたします。ありがとうございました。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年10月30日 07:07


よい組織開発とは何か?:実践に対して、理論はいかに「役立つ」のか?

 大学院中原ゼミも、後期3週目にはいってきて、だんだんと盛り上がってきました(ハードになってきました、泣)。
 中原研究室は「泣く子も黙る爆速」です。研究発表やら、文献発表やら、かなりのハイピッチで進みますので、参加なさっている大学院生のみなさまは、毎週課題に追われることになるのかなと思います。まことにお疲れさまです。
 どうか、よいペースを維持して、最後まで、よい発表をしていたあきたいと思います。

  ▼

 ところで、昨日の院ゼミでは、「よい組織開発とは何か?」という議論が盛り上がりました。

 今年の院ゼミでは、社会的構成主義にもとづく組織開発の書籍(対話型組織開発)の英語専門書を輪読しているのですが、ここから、さまざまな議論が発展したのです。

 さて、議論はせんだっての問い

「よい組織開発とは何か?」

 という問いからはじまります。問題は、この問いに対する2つの視点からの回答は異なるのではないか、ということです。その2つ回答とは、「実践家の回答」と「研究者の回答」です。

 もし、この問いに対して、実践家の立場から回答をするのだとしたら、さまざまな答えは想定しうるものの

「そりゃ、もともと組織が抱えていた課題が解決する組織開発じゃないの」

 とお答えになる方が多いのではないかと思うのです。
 実務にとって、そもそも組織開発は、何らかの課題を解決するために実施するのであり、それが実行できたかどうかが重要でしょう。
 アタリマエダのクラッカーですが、実務的視点でみる場合、「よい組織開発とは何か?」という問いに対する答えは、目的志向的です。

 しかし、この本がというわけではないのですが、組織開発の専門書を読んでおりますと、ときに感じるのが、この問いに対して、研究者の一部は、全く異なる答えをだすような気がするのです。
 いいえ、正しくは、実務家として「コレクトな答え」を是認しつつも、心の奥底では、

「よい組織開発とは何か?」

 という問いに対して、

「そりゃ、理論的にピュアな組織開発でしょ」

「ほにゃらら理論に"もとづく"組織開発というのであれば、その理論どおりに実施され、結果も、期待できたものが得られる組織開発でしょ」

 と答える方が少なくない数がいらっしゃるような気がします。

 研究者の観点からすれば、「ほにゃらら理論に基づく組織開発」をいま仮になした場合、そこに実践の現場でたまたま生じたハプニングに対応するために実行した「雑味=即興的な対応で、かつ、理論的には説明がつかないもの」は、なるべくないほうが、よい組織開発にうつるような気がするのです。

 しかし、実践の現場では、「理論的にピュアであるかどうか」は二の次です。
 現場で、そのつどそのつど起こる課題やハプニングに対して、「異なる理論系の道具立てや概念」であっても、利用できるものは利用し、活用できるものは、活用するのが、「現場の知」というものです。
 そうすると、研究の観点からみた場合、実践に「雑味」がつくことになります。ある単一の理論系から、その実践のすべてを説明することは難しくなるのです。

 このことは、実は、組織開発だけにあてはまるわけではありません。すべからく、理論と実践、実践現場を抱える学問にとっては、共通の問題を抱えているような気がしますが、いかがでしょうか。大学院ゼミでは、このあたりのことについて議論になりました。

 ▼

 今日は、組織開発をネタにしつつも、本質的には「実践とは何か」「理論が役立つとは何か」ということについて書きました。あと3分すると、TAKUZOが起きてきて、宿題をみてあげなくてはならないので、そろそろやめます。

 ただ、最後に自分の意見を表明しますが、もし僕自身が、

「よい組織開発とは何か?」

 と問われたなら、

「そりゃ、課題が解決できる組織開発でしょ」

 と一ミリも迷わず答えると思います。

「理論的ピュア」であっても、現場の課題解決に資することのない組織開発というのがもしあったのだとしたら、そうしたものを僕は称揚する気にはなりません。
しかし、そのことは理論を軽視していることにはつながりません。
僕は、そのうえでこうも答える気がします。

理論を知ることは「基礎基本」や「型」を知ることだよ。それを知っているということは「先人の肩」、すなわち「先人の経験」のうえに立てるってことだよ。だから、理論を知っていれば、オオゴケする実践にはならないよ。

でも、理論は、実践の大成功(目をみはるような成果)を必ずしも保証しないよ。型に精通していても、オリンピックで勝てるわけじゃないでしょ。

 これが僕の「実践と理論」に対する立ち位置です。
 皆さんの立ち位置はいかがですか?

 そして人生はつづく

 ーーー

追伸.
 実践と理論のお話は、おりにふれて、話題にしているようですね。下記が関連記事です。

関連記事

実務家が必要としている「理論」とは何か?: 「実践」と「理論」のあいだの「死の谷」を超えて!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/02/post_2373.html

実践家の誤りを正す!?
http://www.nakahara-lab.net/2008/03/post_1176.html

研究者ー実務家との関係づくり: あんたが実践してやって見せてくれないか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakaharajun/20140704-00037064/

「研究」と「実践」の関係を考える場で起こりがちな3パターン:あるべき、オマエが悪い、情報交換
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakaharajun/20140701-00036914/

投稿者 jun : 2015年10月29日 06:44


「知的暴れん坊」と「知ることの功罪」!?

 知りすぎるくらいに、物事に精通していなければ、「専門性」を築けない

 一方で、

 何もかも知りすぎているがゆえに、革新的なアイデアがでない。すなわち「イノベーション」が生まれない

 知識社会を生き抜くとは、まことに難しいことだと思います。
 今日のお話しは「知りすぎること」には矛盾があるよ、というお話です。

   ▼

 前者に関しては、領域にもよりますけれども、専門性の中核をなすような知識やスキルが、高度化して、さらに知識の量も増えているからです。
 しかも、そのアップデートの速度ははやく、最先端に通じている状態を確保するだけでも、大変な労力です。

 「専門性」といわれるものを確保するということは、「学び続けること」に腹をくくることです。しかし、時代は、そうした高度な専門性を確実に人々に求めていくのではないかと思います。

  ▼

 しかし、一方で、それなのに、物事に精通し、専門性を確保できているだけでは、「継続的な収益」をあげつづけられないことも、また事実です。

 領域にもよりますが、時代は、イノベーションとよばれるものーすなわち、「これまでのゲームのルールを無化してしまうような革新的なアイデア」を人々にもとめます。

 「これまでのゲームのルールを無化する」とは、「これまで定石と考えられていたやり口」「かつては勝ちパターンと考えられてきたモデル」とは、いったん「距離」をおいて思考をすすめる知的態度です。

 これが先ほどの「高度な専門性」と矛盾しなければよいのですが、おうおうにして、これが矛盾する場合があります。これが「知りすぎること」の功罪です。

 何もかも知りすぎているがゆえに
   革新的な思考ができない
     イノベーションが生まれない

 その最大の理由は、

 「知りすぎている」からです。

 物事に精通し、「知りすぎ!」と言われるくらいになれば、さまざまな思考が「自動化」してきます。
 そして、さまざまな物事を「勝ちパターン」や「定石」、専門性に裏打ちされたパラダイムや方法論に、あてはめて考える傾向が強くなります。物事をしっているがゆえに、そうした高度な類推が可能になるのです。

 しかし、それは「これまでのゲームのルール」においての思考です。革新性とは、「これまでのゲームのルールの範疇」において物事を考えることではなく、それを十分諒解し、分析し尽くしたうえで、それをいったん「飛び抜けて」、「これまでのゲームのルール」に「ちゃぶ台がえし」をくらわし、新たにゲームのルール自体をつくりあげなければなりません。

 かくして

 時代は「知りすぎる」ほど専門性を高めることを人々に求め、一方で、革新的なアイデアを生み出すべく「知りすぎないこと」をもとめます。
 正確には、物事を相当程度知った上で、そこには安住せず、これまでのルールにちゃぶ台をひっくりかえすことをもとめます。

「知的専門家」であり、「知的暴れん坊」であれ!

 これが、今の時代の「最大の矛盾」のひとつではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 ちなみに、単なる「暴れん坊」じゃ困るんですよ。。。
 それ、単なる「無法者」。。。

 「知的」が頭につくのよ。
 「暴れん坊」じゃなくて、「知的暴れん坊」じゃなければダメなんです(笑)

 ▼

 今日は朝っぱらから濃いことを考えました。しかし、最近、いろいろな局面で「知りすぎること」の功罪を感じます。

 いろんなことの全体像がわかりかけてきたな、と思った頃
 周囲から、自分に、エキスパートのレッテルがはられはじめた頃
 物事が自動化しはじめ、最近、仕事をこなせるなと感じ始めた頃

 もしかしたら、あなたは「知りすぎて」きたのかもしれません
 自戒をこめて

 そして人生はつづく 

投稿者 jun : 2015年10月28日 06:31


さっぱり盛り上がらない「ディスカッション」の秘密!?:残念なファシリテーションに共通する「つまづき」とは何か?

 かなり前のことになりますが、都内某所で、経験の浅い方々に「ファシリテーション」を教える機会がありました。

 ファシリテーションとは、ワンワードで申し上げますと「ディスカッションの交通整理」のこと。
 複数人の人々が議論・討論する場面で、人々に意見をださせたり、要約したり、つなげたりしながら、円滑に、それらの相互作用が進行することねらいます。

 この日のテーマは、「ファシリテーションを教える」というものでしたが、ここで大切なことは、

 ファシリテーションは、ファシリテーションのなかでしか学べない

 ということにつきるのだと思います。

 この日は、複数人に実際の架空の会議を行いながら、ファシリテーションの役割を担ってもらい、場を促進してもらいました。その場面を、あとでふりかえりながら、適宜、僕からフィードバックするといったことをやってみました。

  ▼

 すると、興味深い事象が起こります。
 ファシリテーションの経験の浅い方がファシリテーションをすると、どんな「つまづき」がもっとも生じやすいのか。

 それは、

 「自分で問いを投げかけ、自分で答えをいってしまうこと」

 だということがわかりました(笑)。
 だから、議論できない、盛り上がらない。
 だって、自分だけ答えて、みんなが発言してないんだから(笑)

 本来、話さなきゃならないのは「みんな」だって言っているのに、ついつい、「自分で問いをつくりながら、それにみんなが答えるのではなく、自分で答えてしまう」のです。それでは、どうして、このように倒錯したことが、おこってしまうのでしょうか。

 よくよく観察していると、なかなか興味深い「落とし穴」が潜んでいることに気がつきました。

 それは「問いの作り方」にそもそも問題があるということです。
 一般にファシリテーションというと「ディスカッションの交通整理」ですので、意見をふるとか、つなげるといったことがイメージされやすく、つまづきは、そうした行為に関連すると考えがちではないかと思います。

 しかし、実際、経験の浅い方々のファシリテーションを観察していると、そういうところでつまづいている、ということはむしろ少ない。発話の構造をプチ分析してみると、むしろ、そうではないのです。

 というよりも、そもそも、

1.「問い」があまりにもオープンすぎることと
  かつ
2.「問いに答える人」がクローズ化(限定)されていること

 から、意見がでてこず、かつ、議論がつづかず、かつ、自分で答えを言ってしまうハメに陥るのです(泣)。
 
 たとえば、

 「職場のダイバーシティについて、中原さん、どうですか?」

 というのが、典型的な「落とし穴」です。
 まず、この問いは「オープンすぎる」のですね。

 いや、いきなり、職場のダイバーシティって言われても、何のことですかね?
 何答えたらいいんでしょ?
 どう?と聞かれても、どう?なんでしょ

 という感じで、数秒間の沈黙が続きます。
 
 興味深いのは、この問いはオープンに「どう?」と「何を答えてもよいかたち」になっているのですが、答える役割をふられているのは、「中原さん」だけです。つまり「答え手はクローズ化」されています。

 このように「問いがオープンなのに回答者にクローズに限定がかかっている」場合、中原さん以外の誰かが「助け船」をだしたくても、なかなか「助け船」がだせません。その結果は、長い沈黙です。経験の浅いファシリテータは「長い沈黙」にも耐えることは難しいものです。長い沈黙に押しつぶされそうになったファシリテータは、ついに、自分で答えをいうハメに陥ります。
 そして、経験の浅いファシリテータは、これを繰り返すことが多いのです。しかし、このことになかなか気づきません。
 
 本来ですと、問い自体をもう少し答えやすいセミオープンなものにしぼって、かつ、全員にオープンに問いかければよいのですが、気が動転して注意がそちらに向かないのです。

 たとえば、先ほどの問いならば、

「職場のダイバーシティの変化について、最近、みなさんのなかで、お感じになられること、印象にのこった出来事がもしおありになったら、出し合ってみましょう」

 というと、かなりハードルは下がるのではないでしょうか。
 他にも、いろんなよい問いはあるかと思いますが、イメージはこんな感じです。

  ▼

 今日はファシリテーションについて書きました。
 ファシリテーションは、リーダーをつとめる人にとっても、おそらくはフォロワーシップを発揮する人々にとっても、必須のスキルになってくるのだと思います。

 場が盛り上がらない
 議論がつづかない

 といった会議が、もしおありでしたら、ファシリテーションそのものよりも、問いについて振り返ってみられると興味深い発見があるかもしれませんよ。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年10月27日 06:20


瞑想さえすれば「次世代リーダー」が生まれるのか!?

「中原さん、最近は、瞑想で、成果のだせるリーダーが育てることができる、と言われているらしいんです。スティーブン・ジョブズも、ガンジーも、瞑想をこよなく愛していたらしいんですよ。あのグーグルが、人材開発に瞑想をとりいれた、とか」

  ▼

 ちょっと前のことになりますが、名刺交換をした方と立ち話をしていたときに伺った一言です。

 そのときは「へー、そうなんですか」と受け流しましたが、せんだって、ほぼ同じ文言を同じ日に2度繰り返して耳にしたので(なぜかいつもジョブズとガンジーとグーグル、笑)、「大丈夫かな」と思い、今日の話題にすることにしました。

  ▼

 これについての僕の意見は下記のとおりです。

 まず第一に確認しておきたいことは、

 成果を残したリーダーや、そうでないリーダーでも、個人が個人の時間を使って瞑想をすることは、まったく問題がありません。

 といいましょうか、それにとやかく文句をいう筋合いは、僕にはありません。

 とかく現代社会は多忙を極めます。そのような雑然とした社会で前のめりに生きる私たちが、神経を敢えて「いまここ」に集中させ、「あるがまま」を引き受け、静かな時間を過ごすことは、やはり心に安定をもたらすでしょうし、ストレスの低減にもなるでしょう。ストレス軽減(ストレスリダクション)としての瞑想については、すでに学術研究がなされ、効果が実証されています。かくいう僕も、瞑想をしたことが何度かあります。

 そのことをふまえたうえで、先の「瞑想をすればリーダーが育つ」には、3つの角度から「留意点」があるなと思っています。

 第一に、ジョブズやガンジーなどの「成果を残せたリーダーが瞑想の習慣をもっていたこと」と、「成果のだせるリーダーをこれから瞑想で育てること」は、一見、つながっているように見えますが、実は「別の次元」のことです。

 ジョブズやガンジーが瞑想していたのは、「個人の趣味」であって、「人を育てる」ためではありません。だから、瞑想をしていたジョブズやガンジーが「いること」をもって、瞑想をすればリーダーが育つと論理を辿っていくのは、やや安易に感じます。

 第二に、「瞑想をつかって成果のだせるリーダーを育てる」という文言ですが、ここに含まれうる「誇張」には、注意をしていく必要があります。

 この文言からは、「瞑想さえすれば、成果のでるリーダーがバシバシと生まれてくる」ような感じを受けますが、そこには若干の「誇張」が含まれうると思っています。

 といいますのは、もし仮に「瞑想」だけしていて「成果」がでるのならば、世の中のリーダーは、何もアクションをおこさず、みな、目をつぶって、自宅で瞑想をしていればいればいいのです。
 
 しかし、現実のリアルワールドは、そうではありません。

 リーダーにとって、とにもかくにも必要なのは、アクションと時々のリフレクションです。

 徹底的なアクション! アクション! アクション!
 そして、時々、リフレクションくらいでしょう。

 瞑想(メディテーション)は、アクションやリフレクションの合間に入るようなイメージで用いられるのかな、と思います。少なくとも「瞑想がリーダーの用件」というほどまでに、リーダー開発において、それが重視されるべきとは僕には思えません。

 すなわち何が申し上げたいのかというと、アクションとリフレクションと、メディテーションのバランスです。

 こんな学術研究があるわけではないですが、おそらく、リーダーにとって必要なのは、

 さしずめ

 アクションが9
 リフレクションとメディテーションで1

 くらいがよいところではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 最後に「瞑想で人を育てる」と申しますが、そもそも、組織として社員に「瞑想」を導入する前に、「社員に、組織が、瞑想を勧めざるををえない状態が生まれていること」については、どのように考えているのでしょうか。そのことを、一寸だけ考えたいものです。

 ワンセンテンスで申し上げますが、組織が、瞑想という非日常的な行為を、社員に求めなければならないのは、その組織で働く彼らの日常が、多忙でストレスフルで、それで人々が苦しんでいるから、とも考えられます。

 瞑想もよいのですが、多忙やストレスをうみだす「組織的な課題」を抜本的に改善していく努力とセットで、これが用いられるとなおよいと思います。瞑想を導入する前に、一寸だけ、「なぜ、組織として、それを導入せざるをえないのか?」について考えてみることが重要だと思いました。

 ▼

 今日は「瞑想」について書きました。
 僕が瞑想にであったのは、かなり前で、マサチューセッツ大学のストレスリダクション研究が効果をあげていることが、学術雑誌に載っていた頃です。これは専門外になりますので、多くを語りませんが、メンタルな問題に対する処方箋としても、2000年代以降、注目されているようです。

 ちなみに、そのときは、まさか、このように「一日に2度、瞑想のことをきく日」がくるとは思っていたなかったのですが、昨今のストレスチェック義務化のコンテキストも、このブームに影響を与えているのではないかと思います。

 誤解を避けるために申し上げますが、瞑想は、多忙極める現代人にとって、「あるがまま」を引き受け、心を静める効果をもちえると思っています。僕個人も、ときおり、それをするひとりです。リーダーがもっていたい習慣のひとつに、瞑想があってもよいのではないかと思います。

 しかし、それが安易にリーダー開発全般に接続されたり、誇張して導入されたりしますと、「瞑想だけすればリーダーが生まれる」という風になって、日本全国で瞑想しているリーダー候補生がいる、という図式になるので注意が必要かと思います。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年10月26日 06:20


「辞めたなら、またとってくればいい」から「育てるマネジメント、ともに働く職場」へ:アルバイト・パート人材の人出不足を解消せよ! のべ従業員数30万人以上・異業種6社共同調査プロジェクト!

「アルバイト・パート人材不足の社会課題」に共同研究で挑戦
 のべ従業員数30万人以上・異業種6社が参画

 昨日、テンプホールディングス株式会社さんから、のべ従業員数30万人以上・異業種6社が参画する調査共同研究「アルバイト・パートの戦力確保に向けた施策検討プロジェクト」がスタートするとのプレスリリースが出ました。

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「アルバイト・パート人材不足の社会課題」に共同研究で挑戦:のべ従業員数30万人以上・異業種6社が参画
http://www.tempstaff.co.jp/corporate/release/2015/20151022_6381.html

 この調査研究は、テンプグループと不肖・中原淳との共同研究であり、「2020年を見据え、アルバイト・パートの戦力確保」をめざして、実施されるものです。
 プロジェクトには、テンプホールディングス株式会社 渋谷和久さん、大澤則幸さん、テンプスタッフラーニング株式会社の岩崎真也さん、株式会社インテリジェンスHITO総合研究所小林祐児さん、研究室から中原、田中聡さんが参加します。
 まずは、このような機会をいただきましたことを、渋谷さんをはじめとして、テンプグループのみなさまに、心より感謝をいたします。ありがとうございました。

 ▼

 ご存じのとおり、首都圏は、圧倒的な「人手不足」に陥っています。

 せんだって、厚生労働省が発表した「平成27年8月労働経済動向調査 パートタイム労働者過不足判断」では、すべての産業で、アルバイト・パートの雇用状況に対し「人手不足感を感じている」結果となりました。特に「宿泊業,飲食サービス業」での人手不足は顕著です。

 最近は、コンビニや飲食などでも、シニアの方々などが働く様子も見られるようになってきました。ある方がおっしゃっていましたが、せんだって訪れた東京駅の某ファーストフード店では、カウンターにたっておられた店員さんのすべてが外国籍の方々であったそうです。
 このように、あの手この手をつくして、様々な採用をおこなっていますが、それでも人手は足りていません。反面、いったん入社しても、離職率も低いわけではありません。かくして、圧倒的な人手不足が進行します。人手不足は、いまや「経営課題」として前景化しています。人手が足りないがゆえに、出店ができないという事態が生まれています。

 さらに、これに拍車をかけるであろうことは「東京オリンピック」です。
 東京オリンピックが開催される2020年に向けては、サービス業や飲食業を中心にアルバイト・パート人材の大幅な需要増加が見込まれています。「人口減少」もあいまって、現在の人手不足感は益々深刻になっていく可能性が高いと思われます。

 こうした中で誕生したのが、このプロジェクトです。
 わたしたちは、「人手不足」の解消には、2つのアプローチが大切であろうと考えました。

1.採用条件の改善や採用手法の高度化といった「入口対策」をおこなうこと
2.店舗のマネジメント行動、職場環境を見える化・改善し、「早期離職の防止=出口対策」を行うこと

 これまで僕の研究室では、多数の企業と共同研究を行いながら、管理職の管理行動・職場環境に関する 実践的な調査研究を行ってきました。このたびのプロジェクトでは、各店舗に「育てるマネジメント」と「ともに働ける職場」を創出することをめざし、様々な 調査を実施します。
 現在進行しているのは、1)採用手段に関する調査、2)離職理由に関する調査です(11月実査)。これに3)各店舗のマネジメント・職場環境に関する調査が進行します(年明け実査)。コンテキストが異なる異業種6社のみなさまが働く職場が舞台です。膨大な作業量・分析量・すりあわせの量です。これを恐ろしいスピードで進めてくださっている現場のみなさんに心より感謝いたします。お疲れ様です。

 青臭い言い方になることを覚悟していいますが、

 「辞めたなら、またとってくればいい」

 という状況がもしあるのだとしたら、それを早期に脱し、

 「育てるマネジメント」と「ともに働ける職場」

 を職場に確立していくことが重要だと思います。今回ご参画いただいた志ある異業種6社の方々が「辞めたなら、またとってくればいい」と思われているわけでは決してありません。こうした機運が、もし業界全体にあるのだとしたら、それを変革していく取り組みの一助になればいいなと思っております。
 そのためには、現在の管理職の管理行動・職場環境を「見える化」し、フィードバックをしていくことが求められると思います。
 踏み込んで述べるならば、この取り組みを重ねていけば、のべ30万人の人々がはたらく職場の職場環境の改善につながります。「人手不足」というコンテキストを利用して、「職場環境」を改善していくことができるのではないかと考えています。

 のべ30万人以上の人々が働く企業が企業の壁を乗りこえ連携して、人手不足問題という社会課題に挑戦する研究プロジェクトを実施するのは、世界でも類がないことであり、「日本初」と言ってよいと思います。
 テンプホールディングスさんとの共同研究によって生まれた本プロジェクトが、少子高齢化の進む我が国の社会問題解決に資することを願っています。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年10月23日 05:42


「仕事人としての将来」を考えると、本当に会社を辞めてしまうのか?

 1) 仕事人として、将来、何を目標にするのか?
  そのために逆算して
 2) 今いま、何をやっているのか?

 問いにしてみれば、非常にシンプルなことなのですが、現在、トーマツイノベーションさん × 中原研有志で進めさせて頂いている「中小企業の人材開発研究」において、非常に重要になってくる問いのひとつです。
 若い頃から、これらについてじっくりと考えてさせてことが、組織にとって有力な人材を確保するキーなのではないかと思っています。

  ▼

 まず、1)の「仕事人として、将来、何を目標にするのか?」のポイントは、「組織人」ではなく、「仕事人」であるということです。その組織における職位やポジションなどは、いったん脇において、

仕事人として、どのようなスキル・専門性・能力を伸ばしていくのか?

 と考えるのがポイントです。

 2)の設問は、1)から逆算した今の生き方です。
 この問いでチェックしたいのは、どのようなスキル・専門性・能力を伸ばすのか、どの方向に進むのかという、いわばビジョンめいた問いものではなく、足下のこと。

 で、今、そのために、何やってんの?
 やらなきゃならないことを先延ばししてんじゃないの?

 ということが問いの眼目ですね。

 いったん、目線をあげて(将来へ)
 目線をさげる(足下へ)

 この「目線のあげさげ」ができるかどうかが、ポイントなのかなと思います。大切なことは、この2つが両方必要であるということです。
 目線をあげてばっかりいると、道ばたのウンコを踏んでしまいそうですし、目線をさげてばかりいつづけると、電柱におでこを打ち付けてしまいそうです。両方大切、目線の上げ下げ。

   ▼

 ところで、これら「青臭いとも感じられる問い=目線のあげさげの問い」は、従来の中小企業の人材開発においては、あまり語られてこなかったことのように思います。その理由は、いくつもあるとは思うのですが、代表的な理由は、下記の2つでしょう。

 ただでさえ、クソ忙しいのに、将来のことなんか、考えてられっかよ。
 将来のこと考えさせたら、辞めちゃうかもしれないじゃん。

 組織のことをいったん脇において、仕事のことなんか考えさせたら、
 下手すりゃ、寝た子をおこして、辞めちゃうかもしれないじゃん。

 2つの考えに共通しているのは、

 「今、目の前のことだけに目線をさげて働かせること」
 「行動させることに注力し、意味を考えさせない」

 という経営側の態度です。

 企業によっては、経営も厳しいところもございますし、メンバーも限られていますので、気持ちはわからないでもないです。

 将来とか意味とかを考えさせると、寝た子を起こしちゃって、辞めちゃうかもしれない

 と考える。

 でも、僕の感覚からすると、

 将来に見通しがきかなくなったり、意味がわからなくなった「方」が、辞めちゃうんじゃないの

 と思ってしまうのですが、いかがでしょうか。

 また、今に「耽溺」し、目線を下げて暮らすことだけで、将来に有力な人材が得られるのかな、ということに疑問があります。そこには、やや矛盾があるような気もするのです。

 ワンセンテンスで申し上げますが、

 人間のモティベーションは、「視界のきかないこと」に長く耐えられるほど、強いものではありません

 だって、あなた自身がそうでしょう?

  ▼

 中小企業の人材開発研究は、いったん11月に成果発表がなされますが、分析がまだまだ残されています。ですので、今日の話も、ほぼボヤキ。仮説めいた話になってしまい、まことに恐縮です。今後、腰をすえて取り組んでいきたいと考えています。

 世の中は、わからないことだらけだね
 だから面白いね

 そして人生はつづく

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■関連記事
上司の仕事は「30度」をつくること!? : 「組織の矢印」と「部下の矢印」をすり合わせる!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/10/30_5.html

「たかが意味、されど意味の時代」・・・会社・組織で起こっている問題の「ねっこ」は何か!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2011/02/post_1769.html

部下の仕事を「組織の戦略」に紐付ける方法!? : 定例職場ミーティングのアジェンダを工夫する!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2303.html

投稿者 jun : 2015年10月22日 06:37


「30年後の未来」には、何がどこまで実現していたか?:本日は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の未来の日!?

 2015年10月21日 
 朝っぱらから問いで恐縮なのですが、みなさん、今日がどのような日であるか、ご存じですか?

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 ヒントはこちらです!

IMG_6305.jpg

 ピンときた方もいらっしゃるかとは思いますが、 今日は、映画「バックトゥザフューチャー2」で、主人公マーティが、恋人ジェニファーとともに、天才博士ドクに連れられ、タイムマシンのデロリアンに乗って、やってきた未来の日、その日です。彼らは、1985年から30年後の未来にワークしてきたのでした。
 先ほどの写真は、タイムマシン・デロリアンの飛行時間設定場面です。覚えていらっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。詳しくは週末、ビデオレンタル屋?になどいって、映画を見て頂きたいと思います。

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 さて興味深いのは、この映画がつくられた1980年代に描かれている30年後の未来の様子です。そこには30年後の未来が描かれているのですが、一部は実現しており、一部は実現していません。

 たとえば「大画面の薄型テレビ」と「ビデオ電話」「タブレット型コンピュータ」などが登場しますが、これらは、おそらく実現済ですね。「ホログラフィックディスプレイ」は、プロジェクションマッピングと解釈すれば、かなり近いものもあるようなないような気もしますが、ちょっと無理だったかな。


 完全に実現できていないと思われるのは、「自動靴ひも調整機能付きスニーカー」と「ホバーボード」でしょうか。これは、ちょっと、無理だったね(笑)。

  ▼

 実は、この映画、せんだって家族でたまたま借りてきて見ていたものでした。
 カミサンと愚息TAKUZOが映画を見ていて、

「あれっ、この未来の日って、来週じゃん!」

 と叫んだことが、今日の記事を書いたきっかけです。30年後に設定したはずの未来が、「来週」ってのは、シュールだよね。

 映画が公開されたのは1989年、僕は14歳の頃でした。
 まさか、当時の僕は、この映画を、家族で見ているところは予想していませんでしたし、それでブログを書いていることも、まったく想定外でした(笑)。

 早いもので、あれから30年。
 もしタイムマシンがあったら、いちど、30年前の自分にあってみたい気もします。

「あんたは、30年たっても、あんまり成長してないよ。
 これから、何してったらいいか、わかんねーって言ってるよ。
 だから、今、自分がわかんなくても大丈夫。」

 そして人生はつづく 

投稿者 jun : 2015年10月21日 06:06


「誰も意見をいわない会議」はなぜ生まれるのか?:リーダーの「何気ない一言」と「学習された無気力」!?

 会議が活性化しない
 会議で意見がでない

 このような悩みを抱えているリーダーや管理職の方々は、全世界に360万人くらい?いらっしゃいます。

 その中には、

「うちのメンバーは無気力だ」
「うちの職場のメンバーは、モティベーションが低い」

 と結論づけて、「会議で意見がでない原因」をメンバーの問題として帰属してしまう方もいらっしゃいます。
 もちろん、そのようなことが原因になることも多いのかもしれませんが、一寸たちどまって考えてみたいことは「意見がでないことの真因はリーダーその人にある」という可能性です。

 このことを考えるとき、以前、かかわらせて頂いたある職場を思い出します。その職場では、管理職であるAさんが、やはり「会議で意見がでないこと」に悩んでおり、また同時に「意見が出ないこと」をメンバーの個人的資質として原因帰属していらっしゃいました。

「うちのメンバーは、会議で発言しない。主体性がまったく足りない」

 しかし、Aさんの部下たちに話を伺うと、それとは異なる現実が浮かび上がります。ICレコーダを持っていたわけではないので、一言一句同じというわけではありませんが、部下たちがもっている不平不満は、下記のとおりです。

「だってAさん、会議で、私たちが何か言うと「ていうかさー」てすぐに言うじゃないですか?」

「Aさん、「絶対、答えはもってる」じゃないですか。会議で何かわたしたちが発言すると、すぐに「いい線いってるじゃん」ていいますよね。答えをもってるなら、Aさんが最初からやればいいじゃないですか?」

「Aさん、すぐに、「要するにさ」っていって、自分の意見を通しますよね。Aさんの「要するに」は、「要するに」じゃないんですよ。全部、意見捨ててるじゃないですか」

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 要するに、メンバーは、リーダーの管理職の何気ない一言の蓄積をとおして「無気力」を学習していたのです。いにしえの研究で、心理学者マーティン・セリグマンが明らかにしたのは、学習性無気力という新たな学習対象の次元でした。
 人は、どんなに努力をしても反応が得られないとき、何をやっても浮かばれないとき、やってもやらなくても結果が同じとき、「無気力」を学習してしまいます。そして、いったん学習された無気力は、解除するために恐ろしいほどの労力がかかるものです。

 日々繰り返される「ていうかさ」「いい線いってるじゃん」「要するに」の果てに生まれた地平は、

「どうせ、わたしたちが何を言っても、意味がない」
「わたしたちは会議でどんな発言をしても、すでに答えはでている」
「会議での発言はポーズであり、リーダーは、すでに結論を決めている」

 ということです。かくして、意見のでない会議は生まれていたのですね。

   ▼

 さて、今日は、「会議でメンバーが発言しないこと」について書きました。
 この問題について個人的な信念を書かせていくのだとしたら、

 会議で意見がでる環境をつくるのは、リーダーの責任

 ということになります。
 しかし、どうやら、この世には、繰り返される無意味な会議のやりとりの果てに、「無気力を学習」してしまった方々が、少なくないようにも思います。

 あなたの会議は、意見がでますか?
 あなたの何気ない一言が、メンバーのやる気を阻害していませんか?
 あなたのメンバーは、無気力を学習していませんか?

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年10月20日 06:35


時代にあわないものを「明るくただちに捨てる会議」:「新たな物事を生み出すこと」と「捨てること」

 先だって、慶應丸の内シティキャンパスで実施している授業「ラーニングイノベーション論」に、サイバーエージェントの曽山哲人さんにおこしいただき、皆で、ディスカッションする機会を得ました。
 曽山さんには、お忙しい中、毎年のように本講座にご登壇いただき、まことに嬉しいことです。心より感謝いたします。ありがとうございました。

曽山哲人さんのブログ
http://ameblo.jp/dekitan/

 授業で、曽山さんには、同社では、いかにして新たな新規事業が生まれるのかについて、こってりとレクチャーをいただきました。同社では、近年、人事施策の観点から、この仕組みをフレームワーク化なさっており、同日は、このフレームワークについての議論となりました。まことに興味深いものです。

   ▼

 曽山さんのお話は、どれも興味深いものでしたが、個人的に印象深かったのは「新たなものを生み出すこと」とは対照的な活動である「捨てること」に関する同社の取り組み「捨てる会議」です。

 サイバーエージェントさんでは、同社において、

1.過去にはうまくいっていたが、今は機能しないもの
2.決めたときにはよいと思ったが、効果がなかったもの

 に関して、役員などがあつまり「捨てる会議」というものを実施しているとのことです。
 先だって行われた「捨てる会議」では、70案ほど出た「捨てるもの」に対して、約30案が「本当に捨てられた」というから、まことに興味深いものです。捨てる会議のプロシージャは、下記のとおり。

1.役員をリーダーに6名のチームを組み、チームで捨てる案を提案する
2.社長が、0点・1点・2点・3点で採点し、1点以上はすべて捨てる
3.採点の時には、会場の意見を聞いたり、会場全体でディスカッションをすることもある
4.また他のチームで異議があれば「反論プレート」をかかげて、提案チームへ質問や反論をする

 そのリストに関しては、同社の藤田社長が下記のようにリストにあげられておりました。

「捨てる会議」で捨てたもの
http://ameblo.jp/shibuya/entry-12037994877.html

 ここでまず興味深いのは「捨てる会議」というネーミングと、そこに込められている含意です。「捨てる」といいますと、何か暗い感じ、ネガティブな感じをもつことが多いですが、同社の「捨てる会議」というネーミングには「明るく捨てる」という含意が込められているような気がします。

 じめじめと、陰鬱に、かつ不満たらたらに「捨てる」のではなく、「明るく捨てる」!
 それも
 ただちに「捨てる」!

 また、もうひとつ興味深いのは、上記の藤田社長のブログに「破壊と再生」というキーワードがあるように、単に「捨てる」のではなく、その後には、「それに替わる新たなもの」を創造しようという意図がおありになることです。
 
 実際、「捨てる会議」の中には、かつての同社における新規事業コンテストである「ジギョつく」も含まれていましたが、これに関しては「実施に至る事業をほとんど出せておらず、一度廃止し、実効性の高い代替案をゼロベースで考え直す」としています。そして、実際、1か月には、「ジギョつく」にかわる代替の施策が考えられたというから、まことに興味深いものです。

 「捨てる会議」は、単純に「捨てる」のではなく「再創造する会議」なのですね。

  ▼

 さて、組織学習論においては、組織に「澱」のようにたまったものーすなわち、「かつてはWorkしていたが、今は時代や環境変化にあって機能していないもの」を、組織レベルで捨て去ること、新たなものに代替することを「Unlearning(アンラーニング)」といいます。

 そして「Unlearning」は、その言葉を口に出すのはかんたんですが、実施するのは、一般にはそれなりの苦労と痛みをともないます。
 なぜなら、組織レベルのUnlearningには、捨て去ろうとするものにたいてい「人が張り付いて」おり、捨て去ることは、その人の仕事や既得権益を奪うことになりがちだからです。ですので、組織学習論の欧米の論者の中には、Unlearningをイコール「人を入れ替える=人を替える」と考える傾向が強いと思います。

 同社の試み「捨てる会議」は、社長・役員らが率先して「明るく、即決の、アンラーニング」を実施しようとしているのかな、と感じました。しかし、もちろん「人を入れ替える」のではなく、施策を捨てます。このあたりが非常に興味深いところです。

 ひるがえって、世の中には、「澱がたまりまくって身動き取れなくなっているような組織」や「既得権益にまみれて何が正論なんだかわからなくなっている組織」がゼロではないとは思います。あくまで一般論ですが、どこぞの高等教育機関などは、その典型でしょう。
 が、そうしたところこそ、「捨てる会議」が実施されるとよいのにな、と個人的には思います。ま、それをやる勇気がないから、そうなっているのでしょうけれども。

 またここまでの話題は、組織レベルの話ですが、「捨てる会議」は、個人レベルにも、これは言えることなのかもしれません。あるいは、家族の中でやってみても面白いかもね。家族のなかで、もはや慣習や因習になっているが、なかなかやめられないものを、敢えて「捨てる」。

 新たなものをはじめることは、時代にあわないものを捨て去ること
 生み出すこととは、捨てること

 今、あなたの組織は、何を捨て、何を生み出しますか?
 そして
 あなたは、何を捨て、何を生み出したいですか?

 そして人生はつづく

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■関連記事

アンラーニングとは何か?:「染み付いちゃったもの」をいかに変えるか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/05/post_2417.html

あなたの「勝ちパターン」は「寿命」がきていませんか?:痛みを伴う「勝ちパターン」のアンラーニング!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/05/post_2417.html

投稿者 jun : 2015年10月16日 06:05


この世には「やりっぱなしの組織調査」があふれている!?:現場に1ミリの変革も生み出さない「残念な組織開発」

 冬学期の大学院・中原ゼミでは、組織開発の文献を読んでいます。「Dialogic Organization Development(対話型組織開発)」という本で、Busheさん(ブッシュさん)と Marshak(マーシャクさん)の編集してます。冒頭には、Edgar H. Schein(エドガーシャインさん)が序文を寄せています。

 組織開発については、このブログでも何度か書いておりますが(下の参考記事をご覧下さい)、専門家に「便所スリッパ」で「カンチョー」されることを覚悟してワンセンテンスで申し上げますと、

 人を集めてもテンデバラバラで、まとまりがもてず、成果がだせない場合に、
 あの手この手をつかって、組織やチームを何とか「Work」させようとする働きかけ

 のことをいいます。

 「人が集まっだけのテンデンバラバラ状態」から
   1.目標をちゃんとにぎり
   2.忌憚のないやりとりができるようにして
   3.お互いに配慮しながら動き出せること
 すなわち「組織として体をなしている状態」への移行

 こそが、組織開発の眼目です。そのために、実践者は「あの手、この手」を使います。
 その手法、含意はめちゃくちゃ広く、また人材開発とも重なり合っていますので、ここでは専門的な議論をしません。下記に、中原のプチ小論がございますので、HRDとODの違いについては、下記をご覧下さいませ。プチだかんね、プチ。

日本労働研究雑誌
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2015/04/index.html

 この本では、組織開発を「診断型の組織開発」と「対話型の組織開発」にわけて、両者のその哲学的前提、理論、実践を述べています。診断型の組織開発と、対話型の組織開発の違いに関しては、ダブルカンチョーを覚悟して下記に申し上げますと、

 診断型組織開発とは、

「質問紙調査やヒアリングなどの手法によって、外部の専門家が、現場を見える化して、そこで出てきた現実を、現場の人々に解釈・吟味してもらい、同じテーブルに全員つかせて、これからの組織のあり方を議論し、決めてもらうこと」

 です。

 一方、対話型組織開発とは

「テンデバラバラの組織の当事者たちに、まず同じテーブルに集まって、組織のことをテーマにした対話を繰り返し行っていくことで、今までの組織のあり方をリフレクションしつつ、未来を議論し、決めてもらうこと」

 です。

 ところで、先日の大学院ゼミでは、いわゆる診断型の組織開発についての議論になりました。何が議論になったかと申しますと、
 
 この世には、「やりっぱなしの組織調査」があふれている

 いいかえれば

 「現場に1ミリの変革も生み出さない残念な組織開発」にあふれている

 ということですね。

 たとえば、この世では、少なくない組織で、従業員調査(ES調査)や、職場診断調査などが多大なるコストをかけて、実施されています。これらは、その後の使われ方によっては、診断型の組織開発の手段として用いることができます。

 しかし、実際は、調査は為されるだけで、かえらない場合もある。
 また、結果は返しているものの、きちんと改善計画にまで落とし込めない場合もある。
 本来変わらなければならない現場を率いるリーダーやマネジャーにも、結果が示されるだけで、そのまま無視されることも少なくないようです。

 その背景には、

 大の大人なんだから、スパイシーな結果を示せば、気づくだろうよ
 気づけば、反省するだろう
 反省すれば、変わるだろう

 という悪魔の三段論法が存在しているような気が致します。

 しかし、実際の現実はそうなりません。

 大の大人だからこそ、スパイシーな結果を示しても、他人のせいにしたり
 たとえ気づいても、気づかなかったふりをする
 一瞬反省したとしても、すぐに忘れる

 のです。

 せっかく多大なるコストを支払って、さまざまな調査をしているのに、残念なことです。せっかくやるのであれば、ぜひ、現場の改善やアクションにつなげていきたいものですね。

 そう考えますと、

 現場での調査は「いかに調査自体をなすか」よりも
    「いかにフィードバックするか」を考えることの方が重要なのかもしれません

 大学院ゼミで大学院生達と議論をしつつ、僕はそんなことを考えていました。「Dialogic Organization Development」は、まだまだこれから章がつづきます。なかなか楽しみであります。

 そして人生はつづく


■参考文献

4つの異なる「組織開発」:人を集めても、なかなか"組織"としてまとまらない社会に生まれたもの
http://www.nakahara-lab.net/blog/2011/06/post_1786.html

組織開発(Organizational Development)を下支えする理論と価値観
http://www.nakahara-lab.net/2013/10/organizational_development.html

組織開発・人材開発の専門知識をどこで学ぶのか?
http://www.nakahara-lab.net/2014/02/post_2179.html

対話型組織開発「アプリシエイシブ・インクワイアリー」とは「逆N字型」の実践である!? : 過去から未来、そして「エグイゾーン」へ!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/12/_case_western_reserve_universi.html

「組織を変える」とは「ねちょねちょ小宇宙」の中でもがき続けること!?:「流れる水」と「燃え続ける火」を見つめながら!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/02/

投稿者 jun : 2015年10月15日 07:04


仕事をふるときに、上司が、部下に投げかけられる3つの言葉!?

 先日、某社の人事Iさん、Sさんと、新たに開発しているマネジャー研修の打ち合わせの最中のことです(いつも、お打ち合わせをありがとうございます)。上長が仕事を仕事にふるときに、よく言われるひとことって何でしょうね?という話になりました。その際、話題になったのが下記の3つのセンテンスです。

 1.なぜ、やる必要あるんですか?(仕事の目的)

 2.やるのはいいですけど
   それ以外はどうなるんですか?(業務量調整)
 
 3.あの人はやっていないのに、なんで私なんですか?(本人のスキル・能力との紐付け)

 まことに面白いですね。
 現場感が漂いまくっているこれらのセンテンスに、まずは、僕はゾクゾクしてしまいます(笑)

  ▼

 まず「1.なぜ、やる必要あるんですか?」は、新しくふる仕事に取り組む「目的」や「意味」を部下は聴いています。

 つべこべ言わずやれー
 意味や目的で、飯が食えるか!

 と言いたくなるのは気持ちはわからないではないですが、人は、言われたとおりのまま、意味がさして感じられない仕事に取り組めるほど、我慢強くはありません。

 大人がやりたくないことに出会ったときに、もれなく起こるのは、

 1.やったことにするか
 2.やるはやるけど、適当にやるか
 3.忘れられるのを待つか(いなす・スルーする)

 この3つのうちどれかです(笑)。個人的には、僕なら、この3つから選びますね。
 だから、目的をきちんと共有するのはとても大切です。

「2.やるのはいいですけど、それ以外はどうなるんですか?」は、サラリーマンなのだから、ふられた仕事はやるけれど、これまで自分が取り組んできた仕事や業務量は、どうしてくれるんですか? わたし、もう今でも「パツンパツン」ですけど、みたいな感じですね。

 どうでもいいですが、「パツンパツン」というこのセンテンスが僕は好きです。おそらく、社会人語なんでしょうね。だって、大学とか、高校とかで聞かないよ(笑)。人はいつからパツンパツンと言うのでしょうね。大いなる謎です。

 閑話休題。
 
 パツンパツン状況で、部下が聞いているのは、要するに、これまでの仕事をどのように調整して、新しい仕事に取り組むのかですね。ここに新たな意味づけが必要になります。

 最後に、「3.あの人はやっていないのに、なんで私なんですか?」は、仕事の振り方に偏りがある職場などでよく出てくるセリフであるような気がします。

 ふられた仕事はやりますし、業務量は何とかあきの時間をみつけてやれますけど、でも、他にもやれる人はいるんじゃないでしょうか? だって、あの人、暇じゃない??みたいな(笑)なぜ、他ならぬわたしがやらなければならないのかを、教えてください、ということですね。

 おそらく、この部分は、本人が伸ばしたいスキル、能力、キャリアとの関わり合いを述べるところであると思います。

 ▼

 さて以上、今日は、仕事をふるときに部下面談で散見される3つのセンテンスのお話をしました。これらの課題に共通しているのは、上長と部下の面談時の「センスメイキング(意味づけ≒やや現場語で話すと、腹おとし)」ということになるのだと思います。学問的には、1980年代から、構築主義の影響を受けた一部の研究者によって、この概念が提出されました。
 皆さんの会社では、いかがでしょうか? 業種・業態が違えば、もしかしたら、この3センテンスは全くでてこない、という方もいらっしゃるでしょうね。また、4センテンス、5センテンスあるんじゃない?という方もいらっしゃるでしょうね?

 でも、上長同士が集まるときに、よく言われるひと言をだしあってみると、意外に共通点がでてくるような気もします。

 そして人生はつづく

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■関連記事

部下の仕事を「組織の戦略」に紐付ける方法!? : 定例職場ミーティングのアジェンダを工夫する!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2303.html

「たかが意味、されど意味の時代」・・・会社・組織で起こっている問題の「ねっこ」は何か!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2011/02/post_1769.html

投稿者 jun : 2015年10月14日 06:22


頑張ってるんだけど伝わらない「残念なプレゼンテーション」に共通する3つの症状!?

 頑張ってはいるんだけど、聴衆には「伝わっていない」・・・そんな「残念なプレゼンテーション」をする人が、陥りがちなデフレスパイラル状況というものがございます。今日は自戒をこめて、そんな話題をいたしましょう。経験的には、下記の3つの症状が見られたら、注意が必要です。

 1.あれも、これも病
 2.観察できない病
 3.沈黙が怖い病

 経験的にはこの3つがすべて発動すると、もれなく、頑張ってはいるんだけど聴衆にはイマイチ、ピンとこない「残念なプレゼンテーション」になってしまいます。

 まず「1.あれも、これも病」は、「プレゼンの内容・スライドの枚数を精選することができず、とにかく、自分の手持ちのコンテンツをあるだけぶち込んでプレゼンをしてしまうこと」です。

「精選」をすることができないのは、聴衆がどのような知識や経験をもっているのかわからないか、見ていないので、どの程度の内容を話してよいかわからないことから生じます。兵法ではないですが、プレゼンの鉄則は「相手を知ること」です。

 なぜなら、プレゼンは「相手を説得すること」「相手の腹におとすこと」「相手の行動や考えを変えること」だからです。相手がいなければ、そもそもプレゼンは成立しません。
 相手を知らずにプレゼンを為すことは「関係者各位にラブレターを書くようなもの」だという名言があるくらいです(誰の名言かは忘れました・・・ごめんなさい)。

 詰め込み病は深刻な場合、さらに状態が悪化していきます。
 どの程度の枚数をこめれば、どの程度の時間がかかるか、「見通し」が持てないと、この症状はさらに悪化します。見通しがないのだから、何枚スライドを増やしても「いける」と思ってしまうのです。

 これにさらに「善意」が加われば、もれなく「あれも、これも、入れとかなきゃ病のステージ3」です。
 つまり、「正確に伝えるためには、あの角度からも、この角度からも、徹底的に正確な情報を与えなければならない」という「善意」が発動すると、さらに「よかれと思って」詰め込みます。
 最悪の場合には、さらに症状は悪化します。「あれも、これも、盛り込みすぎている」から、時間がたりなくなります。時間が足りなくなるから、さらに早口になります。聴衆は、さらにドンビキしていきます。これがステージ4でしょう。

 言うまでも無いことですが、プレゼンの構成でもっとも必要なのは「引き算の美学」であり、「シンプルさ」の追求です。大切なのは、「何を喋るのか?」ではありません。むしろ「どこまで喋らないか?」を考えたいものです。

 かつて、スティーブンジョブズは、アップルユニバーシティで、ピカソの「雄牛」という絵を使って、シンプルさの大切さを教えたと伺っています(真偽のほどは僕はわかりません)。
 ピカソの「雄牛」は、ピカソ自身が追求したキュビズムの手法に基づきながら、複雑な絵を徐々にシンプルにしていき、牛という形状が認識可能なのは、どこまで線をなくした場合かを探究した絵だそうです。

 シンプルであること
 引き算の美学

 わたしたちは、こうしたものを、この絵から学ぶことができるような気がします。
 
Appleの極秘社内教育プログラムではピカソの絵やGoogle製品を使用
http://gigazine.net/news/20140812-apple-university/

 ▼

「2.観察できない病」は、プレゼンの最中に、相手の顔や様子を観察することができない症状です。

 人は面白いもので、興味がある話のときは顔があがってきます。興味がなくなったり、一定時間わからない状態が進むと、とたんに「スマホいじり」がはじまります。教壇・演壇からみていれば一目瞭然なのですが、あいにくやっている方は、バレないと思い込んでいるようです。

 あのね、全部、見えてるよ。
 ちなみに、経験上、何とか「長」とか、「リーダー」とか「先生」とふだん呼ばれる方々に、その傾向が強いように感じるのは気のせいでしょうか。

 プレゼンをどんなに作り込んでも、カーテンが開いてしまえば、わからないところ、不明なところ、とんでいるロジックがでてきます。そんなとき大切なのは、聴衆を「観察」することです。ちょっとでも異変に気づいたら、捕捉をしたり、発問をしたりすることができます。

 聴衆を観察することができなければ、あとは「ひとりで爆走するのみ」です。
 聴衆はおいてけぼりになります。

  ▼

「3.間と沈黙が怖い病」は、誰もしゃべらずにシーンとしている時間が怖くて怖くてしょうがない症状です。プレゼンには本来「句読点」が必要で、敢えて何もしゃべらない時間、じっくりと聴衆に考えてもらう時間が、必要になります。ですが、この症状に罹患している方は、これが怖い。だから、沈黙と間を恐れて、しゃべくりまくることになります。しゃべくりまくるから、当然伝わりません。

 ちなみに、この病の上級編には「発問して、自分で答えをいっちゃう病」というものもあります。聴衆に「みなさんはどのように思いますか?」と発問したはいいものの、そのあとにつづく「沈黙」や「間」が耐えられなくて、思わず「答えは・・・ですね」とただちに言ってしまう病気です。自分で答えを言っちゃうなら、問いをなげかけなきゃいいのにね(笑)

 プレゼンでは、沈黙を恐れてはいけません。
 文章に「、」と「。」が必要なように、間と沈黙が必要なのです。

 ▼

 今日は「残念なプレゼンテーション」に共通する3つの特徴について書かせて頂きました。自戒をこめての内容でしたが、いかがでしたでしょうか。

 あなたのプレゼンは、あれもこれもになっていませんか?
 あなたはプレゼン中、何をみていますか?
 そして、あなたのプレゼンには「句読点」はありますか?

 そして人生はつづく

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■関連記事

もれなく「廃人」になれるラップアッププレゼンテーション!? : 聴衆にフィットしたプレゼンをいかにつくるか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/07/post_2455.html

往生際の悪い!?プレゼンテーション
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/05/post_2231.html

TEDスタイルプレゼンテーション、さらにその「先」へ : 「演出された一方向」を超えて
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/05/ted.html

投稿者 jun : 2015年10月 9日 06:16


201X年の近未来ーあなたはどのくらい先まで「見通し」をもって働いていますか?

 どんなに曖昧でもいいから「見通し」をもちなさい
 そして、「見通し」にむかって
 今できることを「実行」し、働きなさい

 こうしたことが巷でよく喧伝されるのは、わたしたち自身が「見通しが不明瞭な社会」、すなわち不確実・不安定・曖昧な社会を、生きている証左でしょう。

 先行きが明瞭であるならば、敢えて意図的に「見通すこと」をしなくても、おのずと「見えてくる」ものがある。しかし、今の社会は、見通そうと敢えて思わなければ「視界不明瞭」である。だから、目をひんむいて(笑)、見通さなくてはならない。もちろん、見通せていたと思っていたものが、変わってしまうこともあるけれど、見通すことを放棄してはいけない。

 要するに、この種の言説が述べていることは、こういうことなのだと思います。

 さて、それでは、話はここからなのですが、皆さんは、将来を見通そうと思って、どのくらいの未来までなら、何となく見通せますでしょうか?

 たとえば、自分が働いているイメージならば、何年後くらいまでなら、「まー、こんな感じで働いているんじゃない」という「なんとなくの像」を得ることができますでしょうか? 未来のことなんだから、正確でなくても、曖昧でもいいんです。「まー、こんな感じじゃない」と肩肘をはらず述べられるのは、何年くらい先でしょうか?

  ▼

 先だって、共同研究でご一緒しているトーマツイノベーション様とのプロジェクトで関係者の皆さんと議論をしていたのですが(感謝!)、このことが話題になりました。

トーマツイノベーション株式会社
http://www.ti.tohmatsu.co.jp/index.html

 その際、同社の田中敏志さんがおっしゃっていたことが非常に印象に残っています。

 田中さん曰く

研修の自己紹介のエクササイズなどで、今から10年前ーすなわち2005年にどのような仕事をしていたかを1分間で交換しあいましょう、というと、参加者の皆さんは無理なくできます。過去のことなので、それは無理ないですね。今度は、2025年ーすなわち10年後の未来の仕事を予想してお互いにしゃべってみましょう、というと、悲鳴があがります。全く想像すらつかないので、会話が1分間ももたないのです。最後に2018年ー3年後というと、今度は何とかかんとか、ストーリーをつくることができるようです。

 ICレコーダを持っていたわけではないので、まったく忠実に起こしてあるというわけではないですが、要するに、こうしたご主旨の御発言であったと記憶しています。まことに興味深いことですね(面白い話をありがとうございます!)。

 10年後は無理だけど、3年後くらいは何とか、という感じなのでしょうか。
 なるほどですね。
 
 皆さんはいかがですか?

  ▼

 さて、この問題、、、僕の認識もそれに近いものがありますね。
 ま、3年後くらいまでは、どこで何をしていて、何が目標かは常に考えているかな。
 でも、3年後以上は、逆にいうと敢えて考えないようにしているかな、ともいえるような気がするのです。

 たとえば、僕は自分の子どもなどに「3年後くらいを見通して生きて欲しい」と願うけれど、それ以上は願わない。逆に「僕は、5年後とか10年後とかを見通せてるよ!パパ」なんて言われた日には「大丈夫かなこいつ」と思ってしまいます。「人生いろいろ途中であるから、まー、うまいぐあいにドリフトしていこうぜ」と言ってしまいそうな気がします。

 皆さんでしたらいかがでしょうか?
 答えがない問いなので、どうか愉しんでかんがえてみていただければと思います。

 201X年の皆さんは、どこで、いったい何をしていますか?
 
 そして人生はつづく

  ーーー

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僕が高校生に知って欲しいと思った7つのこと
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投稿者 jun : 2015年10月 8日 06:27


社会人大学院生が陥りがちな「オレオレ現場病」と「オレの経験至上主義症候群」!? : なぜ大学院にくると「カルチャーショック」を受けるのか?

 現場での長い業務経験を積んで、ある程度の年齢に達し、もういちど「学び舎」へ戻る人々のなかに、社会人大学院生がいらっしゃいます。

 社会人大学院生と言っても、キャリアアップをしたい方から、キャリアチェンジをしたい方まで、あるいは、そうした実利的な目的のない方まで、いろいろいらっしゃるので、ここで「一括り」にはできません。

 しかし、その中には、現場で培ったさまざまな経験を「棚卸し」したい、というニーズも少なからず存在しているように思います。
 自分の業務経験が、理論的にはどのように説明しうるのか。あるいは、概念的にはどのように昇華できるのか。そして、業務経験を抽象的にどのように説明しうるのか。そうした「棚卸し」を目的に大学院にいらっしゃる方が、いらっしゃいます。以下の話は研究分野にもよりますので、あくまで僕の研究分野での話に限ります。

  ▼

 そして、このようなケースにおいて、社会人大学院生が現場から「大学院」にきたばかりのとき、まま経験されるのが「カルチャーショック」です。

 大学院というのは、シャバ(現世)からわずか数メートルしか離れていなくても、あるいは、塀がなく地続きであっても、シャバとは少し違う雰囲気が漂っています。
 大学院は「概念と理論がとぐろを巻いている抽象的な世界」です。一般に、「個別性」「具体性」「現場的なもの」から、いっていの距離をとり、抽象的な原理や原則や発見を導くのが「科学的である」とされており、そこでは、そうした思考こそが価値を持ちます。

 そして、こうしたケースにおいて、社会人大学院生は「カルチャーショック」を経験しがちです。すべての方に起こるというわけではありません。
 今まで通用してきた自分の経験をいくら語っても、誰もピンとこない。今まで自分が慣れ親しんできた社内用語は通用しない。かわりに、理論や概念がとびかい、専門用語が目の前を流れていく。

 このカルチャーショックが重傷な場合、「大学院」や「大学院で学ぶこと」や「大学院で学んでいる人 / 教えている人」自体を「否定」してしまうという風に発展していきがちです。で、そうしたケースの場合、よくそうした「残念な社会人大学院生」が口にする言葉がこれです。もちろん、すべての方がそうなるわけではありません。ごくごく一部の重傷の方々が、こうなりがちです。

「理論なんて、現場では全く役に立たない」
「大学人は、現場を知らない」
「そんな抽象的なことは、現場では通用しない」

 要するに「現場で働いてきたわたしを、もっと大切に扱ってよ!」と言っているだけなのですが(笑)、こうした言葉を授業やゼミなどで投げつけるケースがあります。最悪のケースは、授業の中断、ゼミの関係崩壊にいたります。

 かつて、まだ僕が学生の頃にであった社会人大学院生の中にも、そのような攻撃行動を繰り返す方がいらっしゃいました。そのときに、先生は、一言、ゆっくりと、しかし、はっきりと力強く、こう指導なさっていました。

「あなたが今のまま、理論や概念を軽視する行動をとり続けるのなら、あなたも、ここにいる他の大学院生も、私自身も、お互いに学びあうことはできないと思います。もう一度、ここにあなたがいる意味をじっくり考えなさい

ちなみに、既存の理論が現場に役に立たないのなら、あなたがそれを創り出せばいいのです。他の人があなたの現場を知らないのなら、あなたにしかわからない言葉で、それを説明するのではなく、みんなにわかる言葉で、それを説明しなさい。大学院は、それを、あなた自身が為す場所です。

あなたの現場、そして経験は尊い。それは誰も否定しません。あなたが苦労して積み重ねたものを無駄にはしないでください。もう一度、自分がどうありたいかを考えて、明日、教室にくるかどうかを決めなさい」

 当時の僕は、なぜ、このような応酬の背後にある社会人大学院生ならではの思いをくみ取ることはできませんでしたが、先生が発した「お互いに学びあうことはできなくなる」とおっしゃった言葉を、妙に覚えています。

 ▼

 今日は社会人大学院生について書きました。ちなみに、こうした問題がうちの研究室で起こっているかどうか、というと、「中原研では皆無!まったくございません」ので、あしからず(笑)。

 といいますのは、中原研では、こうした問題が起こりうることを見通して、入試が終わり合格が決まった瞬間に、研究室でオリエンテーションをして、社会人大学院生が陥りがちな罠について、レクチャーをしているのです。
 組織行動論をご存じの方は、いわゆる「RJP(現実的職務予告:Realistic Job Preview)」という言葉を聞いたことがおありなのではないでしょうか。要するに「これから起こるであろう厳しいリアリティ」を先に伝えてしまい、「はいった直後のショック」を軽減するべく「事前にワクチン」を打っているのですね(笑)。だから、今日の話は、うちの研究室の話じゃありません。あくまで一般論です。

 それにしても、

 たかが理論、されど理論
 たかが現場、されど現場

 です。

 社会人が大学院で学ぶことには「痛み」が伴うことも少なくありません。
 そして、社会人が大学院にくるということは、授業料はらって、自ら「痛み」を得にくることなのです。うーん、「どM的!」

 そして人生はつづく

 ーーー

■関連記事

社会人が大学院で学ぶということ:「身につける系の学び」と「整理・再定義・解体系の学び」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/03/post_1974.html

【完結編】「残念な研究計画書」の書くための5つのポイント!?:研究しない、絞れていない、調べない、主張しない、そもそも出来ない研究計画書
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/post_2004.html

社会人大学院生が抱えがちな悩み:自分の問題関心・業務経験×研究として成立させること
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/04/post_1986.html

先行研究の探し方:レビュー論文には「過去への入口」と「軸」と「これからの課題」がある!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/10/post_2101.html

 ーーー

■追伸.
 逆にいいますと、大学院が、現場から一定の距離があるのはアタリマエのことなのです。それがなく、現場と地続きなのであれば、大学院の存在意義:レゾンデートルが揺らぎます。現場と大学院が地続きならば、そもそも大学院は存在しなくてよい。このことと、研究知見が現場に還元されるかされないか、ということは一見同じでいて、全く異なる現象です。すなわち、どんなに抽象的な概念や理論であろうと、現場に還元しうるものは存在する、ということですね。ちょっと難しいかな。まぁ、いいや。またご説明差し上げます。)

投稿者 jun : 2015年10月 7日 05:58


ネガティブワード化する「キャリア」という言葉!?:あなたの会社では「キャリア」という言葉のイメージは「ポジティブ」ですか?「ネガティブ」ですか?

 「キャリア」という言葉、うちの会社のなかでは、完全に「ネガティブワード」なんですよね。

 先だって、ある方とお話していたさい、こんな話になりました。
 学術的には、キャリアとは「個人の人生全般にわたる、仕事に関連した諸経験および活動についての一連の態度・行動の知覚のこと(Hall 1976)」。これは、いくらなんでもややこしいので、いつも僕は「仕事人生の意味づけ」と申し上げておりますが、この定義自体に「ネガティブさ」は、ほとんど感じられないですよね。

 というわけで、その一瞬まで僕の中には1ミリも「キャリア=ネガティブワード」のイメージはありませんでした。でも、うちの会社では「ネガティブワード」だとおっしゃるので、「ほほー」と思い、話を伺ってみることにしました(貴重なお時間を感謝です)。

 すると要するに、キャリアにまつわるネガティブイメージは、

1.社員が、キャリアを「意識しちゃう」と、辞めちゃいそうな気がする
(社員がキャリアを意識させられると、会社に辞めさせられそうな気がする)

2.キャリアという言葉を使う社員は「意識高い系」に見えちゃう
(わたしは、今は、ここにいるけど、実際はあなたたちと違うんだよ感が漂う)
 
3.キャリアと聞くと「儲からない」イメージがある
(仕事人生の意味をいくら考えても、利益はあがらない)

 の3点くらいから生まれているのだそうな。
 くどいようですが、僕の中には1ミリも「キャリア=ネガティブワード」のイメージはなかったので、かなり動揺して、「広い世の中、そういうこともあるのか」と思っていましたけれど。
(僕は、キャリア開発が専門ではないので、専門的な業界の中ではすでに述べられていたことなのかもしれません。でしたらすみません)

 まず1の「社員が、キャリアを意識しちゃうと、辞めちゃいそうな気がする」に関しては、僕の考えはむしろ逆で、「今やっている仕事の意味がわかんなくなっちゃう方が、辞めちゃいそうじゃない」と思いました。「何やってるかわからないまま、今あるものだけにモクモクと取り組めるほど、人は忍耐力はないのでは」と。でも、実際は逆なんですかね・・・「寝た子を起こすな的なイメージ」なのかな。

「社員がキャリアを意識させられると、会社に辞めさせられそうな気がする」というのは、そういう退出マネジメントの前後には、「キャリア研修」とかって名前をつけた研修がなされることが多いのかも。だから、人は潜在的に、その名前をきくと、ビクッときてしまうのかもしれませんね。

 2「キャリアという言葉を使う社員は意識高い系に見えちゃう」はよくわかんないけど、きっと、1に呼応しているのかな。キャリアという言葉を使われると、それまで一緒の仲間だと思っていたあの人が、急に別組織でも働く可能性を有している、風に思えてしまうのでしょうか。すなわち、「組織=おらが村」的なものとしてとらえており、それを「裏切るイメージ」があるのでしょうか。

 もしそうなのだとしたら気持ちはわかるけど、まぁ、そうはいってもねと思うところがある。「おらが村」が「一生安泰」「一生安全」なら大丈夫なんでしょうけど、今の時代、そう言い切れる組織は、そう多くはないんじゃないかと思ってしまいます。

 3「キャリアと聞くと、儲からないイメージがある」はたしかに「仕事人生の意味をいくら考えても、直接、売り上げがあがるわけではない」と考えるとそうなのかもしれませんが、たとえば仕事人生の意味づけを行うことによって、離職が減るとか、生産性があがるという考え方もできるのかな、と思います。
つ まり、Financial Outcome(売り上げなどの経済的成果)だけでなく、HR outcome(人材マネジメント上の成果)も視野にいれれば、全く成果があがらない、というわけではないような・・・。

 いやーー。それにしてもこの組織だけかもしれませんが、

 キャリアという言葉が「ネガティブワード化」している

 という指摘は、とても驚きました。

 まぁ、僕はキャリアの専門家ではないので「キャリア」という言葉を使うか使わないかはどちらもでもよいのですが、折りに触れて「仕事人生の意味づけ」はやはりできたほうがよいのではないのかな、と思います。おそらく、その重要性についてあまり疑義は向けられないんじゃないだろうか。
 また、キャリアのイメージが変質化しているのがもし「是」ならば、大切なことが、うまくエンドユーザーまで伝わっていない、という可能性もなきにしもあらずです。キャリアという言葉と、その考え方の、再定義を行っていくことが求められるのかな、とも勝手ながら思います。

 でも、逆に、あまりにも過剰に、キャリアという言葉が「ネガティブワード化」してしまっているのなら、その言葉をあえてつかわなくとも、意図を隠して、別の言葉をつくり、大切なことを知ってもらうというのも一計なのかなと思いました。つまり、人材マネジメント側は「キャリア」という考え方や理論を学ぶけれど、その言葉をそのまま現場では使わない、ということです。

 あなたの会社では、キャリアのイメージは、ポジティブですか? ネガティブですか?
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年10月 6日 06:36


「誰も学べていない」のに「教えた!」というのなら!?

「教えること」や「学ぶこと」は、「売ること」と「買うこと」に似ている。「誰も学んでいない」のに「わたしは教えた!」と言うのなら、「誰も買っていない」のに「売った!」というのと同じだ。

(Dewey, J. 1910 How we think, p29)

 僕の好きな言葉です。
 アメリカのプラグマティスト、ジョン・デューイの「How we think」という絶版の本に、その言葉はあります。
(この本、かつて翻訳があったのですが、こちらも絶版。デューイの本の中で、この本こそ、翻訳がでるといいのですけれども)

 自戒をこめて申し上げますが、「学べる努力」をさしてしてもいないのに、「教えた!」とうそぶいてしまうことが、いかに多いことか。「学べていないこと」を「学ぶ側の責任」にしてしまうことのいかに多いことか。
 
 「商品が売れない場合」、いっぱんに、売り主は「お客さん」を責めません。どのように売るか、どのように買ってもらうかに知惠をしぼります。お客さんの好みが変わってしまって、ものがうれない場合、お客さんを責める店主はいません。その環境変化を察知して、戦略をたてる。シンプルな話です。

 伝統的な価値観からすれば、学びを商売に喩えるとは何事か、ということになるのかもしれません。
 ま、実際、いちゃもんつけようと思えば、つっこみどころ満載なメタファです。お時間のある方は、ぜひどうぞ。

 他人はどうあれ、僕は、この言葉が好きです。
 もう100年も前に、本質を見抜かれている気がする。
 そして、耳にするたび、自分が「刺される」気がするから。
 この、「どM感」がたまりません。

 そして人生はつづく

 「教えること」や「学ぶこと」は、「売ること」と「買うこと」に似ている。「誰も学んでいない」のに「わたしは教えた!」と言うのなら、「誰も買っていない」のに「売った!」というのと同じだ。
(Dewey, J. 1910 How we think, p29)


投稿者 jun : 2015年10月 4日 06:47


上司の仕事は「30度」をつくること!? : 「組織の矢印」と「部下の矢印」をすり合わせる!?

「組織としてやらなければならないこと」と「部下本人がやりたいこと」ーこれが重なると本当によいのですが、実際、それがぴったり重なることは非常に「希」です。というよりも、それが「重なること」を思うのは「夢想」かもしれない、と思うほどです。

 ここで必要になってくるのが、上司の「目標咀嚼行動」です。
 目標咀嚼行動というのは、要するに、「組織としてやらなければならないこと」を部下本人につたえ、本人と話し合うことで「組織としてやらなければならないこと」というベクトルと「部下本人がやりたいこと」というベクトルーすなわち2つのベクトルの角度を、少しずつすこしずつ、小さくしていくことのように思います。
 仕事の方向性への「理解をうながす」「説得する」「腹におとす」といえば、そうもいえるのでしょう。専門用語風にいえば「センスメイキング(意味形成)」ということになるのではないかと思います。

 このことを、図示してみると下図のようになります。
 今、仮に「組織のベクトル」と「部下のベクトル」というものがあるのだとします。最初1では、2つのベクトルは120度くらいの角度で、開きがある。まぁ、要するに部下の方向性は「あさって方向」に向いている。

JotNot_2015-10-02-page-1.jpg

 それを2では、上司の目標咀嚼行動によって、45度くらいにまで調整しています。ふぅ。
 そして、ここは何とかふんばって、膝詰めで話しあい、3では30度くらいにしている。ふぅ。

 そして、ここで問題になってくるのは、この2つの拮抗するベクトルの角度を何度くらいにするまで努力するべきか、ということでしょう。「目標咀嚼」や「センスメイキング」といえば、聞こえはよいのですが、要するに時間がかかる。 ぴったり重なることはないにせよ、何度くらいまで角度を小さくするまでコストをかければよいのかは、人によって、持論が違うんだろうな、と思うのです。

 これに関しては、先だって、トーマツイノベーションさんとの共同研究の打ち合わせで、その実験をしてみました。「思い切り仕事だけをぶんなげた場合」と「目標咀嚼をした場合」で、どのくらい時間がかわるのか。同社の渡辺健太さん、長谷川弘実さんが即興劇でつくったスクリプトを2条件間で比較してみると、だいたい目標咀嚼をした場合の方が、1.3倍くらいでした。この時間を長いとみるか、短いとみるか。
(このところよくお逢いしている、あれっ、そうだ、今日もお逢いするけど、同社の渡辺さんと長谷川さんの上司ー部下の即興劇コントは、ぜひ、多くの人々に見て頂きたいですね。あー、いるいる、という感じで、まことに見事です)

 さて、皆さんなら、何度くらいまでもっていきますか?

 ちなみに、現在、本間浩輔さんと書かせて頂いている本で(編集は樋口さん、構成は秋山さん、感謝です!)、これについても議論が進みました。その場の議論では、

 「上司の仕事は、30度をつくること」

 というのが大勢の意見でした。まぁ、そんなもんだよね、と僕も思います。
 個人がやりたい仕事と組織がめざす方向は、重なるわけはない。でも、45度じゃ広すぎる。10度ー20度まで角度を小さくするまでは時間がかけられない。30度くらいかなぁ。

 皆さんでしたら、この問題をどうとらえますか?
 何度にするまで部下への目標咀嚼をしますか?
 それには、どの程度、時間をかけますか?

  ▼

 今日は、角度・ベクトルというメタファを用いながら、上司の管理行動を考えてみました。まぁ、メタファはメタファであり、それ以上でも以下でもないのですが、こうして喩えてみると、一見とっつきにくい、上司の管理行動が見えてくるような気も致します。

 そして人生はつづく


投稿者 jun : 2015年10月 2日 05:41


「事例くれくれ君」にご用心!?:先行事例をいくら聴いても、前に進まない「残念な思考」!?

「事例くれくれ君」という、愛すべき、しかし、ちょっと残念な人々が全世界に300万人ほどいらっしゃいます。

 ここでは、さしずめ、「事例くれくれ君」を「過去の他人の実践事例をやたらと知りたがるのだけれども、どの実践事例を見ても聴いても不満を述べるだけで、前に進もうとしない人々」と定義しましょう。

 あなたのまわりにも、事例くれくれ君、いらっしゃいますか?

  ▼

 全世界に300万人いる「事例くれくれ君」は、「実践」をともなう現場にあらわれます。おおよそ、人事や教育などの「実践」を含む領域の場合、「先行事例」というものが非常に重宝されるからです。
 
 たとえば、あなたの会社が、人材開発施策を立て直したい、評価制度を立て直したい、としましょう。
 その場合、ついつい気になるのが、「過去に、他の組織が、似たような事柄にチャレンジしていないかどうか」です。

 かくして、

 「事例は、なんかないんですか?」
 「いい事例がありませんか?」
 
 という言葉が口に出ます。
 人事・人材開発の世界は、まさにそうしたニーズの宝庫でしょうし、おそらくは教育の世界もそうでしょう。

 しかし困るのは、ここからです。
 何かしらの「過去の先行事例」を参考にして、しかし、一方で、自社の状況を見極めて、考え抜き、なんらかの施策をたてて、実行してくれれば何の問題もありません。「過去の先行事例を参考にすること」が悪いことでは1ミリもありません。また、「過去の先行事例を参考にする人」は事例くれくれ君ではありません。

 「事例くれくれ君」の困ったところは、どんな事例を見ても不満足でアリ、かつ、前に進もうとしないことにあるのです。

 たとえば事例くれくれ君が、あまりに「事例くれくれ」おっしゃるので、「思わず自分も動き出してくれるような素晴らしい事例(ベスト事例)」を紹介したとします。しかし、

「そりゃ、A社だからできたんだ。うちの会社ではできないよ」

 とおっしゃいます。

 じゃ、それならばと「少し頑張れば手が届くようなプチ背伸び系事例(ベターな事例)」を紹介しても、

「何か、殻を破ってない気がするんだよね。うちの会社は、もう少し背伸びのある施策じゃなきゃ、通らないよ」

 とおっしゃいます。

 続けて、

「さっきから成功事例ばっかり紹介してくれてるんだけど、失敗事例はないの?」

 とおっしゃるので、じゃあ、それならばと「思わず目をつぶりたくなるような派手ゴケ事例(失敗事例)」を紹介すると、

「あちゃぱー、これは担当者がイケてなかったんだよね。甘いなー、脇が甘いよ。うちでは起こらないな」

 とおっしゃいます。

 要するに、

「どんな事例を示しても不満足」です(笑)。

 そして

 どんな事例を示しても、前に進みません(笑)

 なぜか?

 それは、事例くれくれ君が「事例から学び、物事を創り出す技術やマインド」を持ち合わせていないからです。

 かつ、どこかで

「事例をそっくりそのままコピペできるもの」

 と思い込んでいる節があるからです。

  ▼

 一般に「実践」とは、「同じ場所」「同じ対象」「同じタイミング」というものは存在しません。実践とは、オンゴーイングで変化し、変わりゆくコンテキストの中で立ち上げられる「アクション」です。ワンワードで申し上げますと、実践とは「生もの」なのです。

 ですので、他社や過去の事例は「参考」にはなるのだけれども、それはそっくりそのままコピペして、自分の組織に当てはめることは、ほとんどの場合できません。実践とは、そのまんま「コピペ」できないのです、、、「生もの」なのでね。

 よって「他者の事例」を参考にはしつつも、自分の組織との「違い」や「共通点」を考え、まずは「自分の頭で考えること」が求められます。その上で、自社にもっともフィットした「アクション」をかたちづくることが求められます。

 しかし、事例くれくれ君は、それをしません。
 「事例」を「そのまま丸ごと」、あるコンテキストから、違うコンテキストに、あたかもモノを動かすようにみなしている節があります。そして、実践事例と自社との違い見つけては、不満を述べます。事例を見て、自分の頭で考え抜き、リスクをとって、前に進もうとしません。

 事例を「コピペ」するものと見なさないこと
 事例を前に「思考停止」せぬこと
 事例を見て、考え、創り出すこと

 それができない限り、ベスト事例をきこうが、ベター事例をきこうが、失敗事例を聴こうが、不満がもれるだけです。かくして、事例くれくれ君は、前にはすすまないのです。
 
 ▼

 今日は「事例」のあり方について考えてみました。

 くどいようですが、実践とは「生もの」です。ですので、過去の実践たる「事例」は、参考にはできるものの、そのまま「コピペ」はできません。自らの頭で考え抜くこと。リスクをとって、物事をつくりあげること。新たな実践の地平は、そのような人々の眼前に広がります。

 そして人生はつづく

 ーーー

追伸.
 本日10月1日、小生、40歳になりました。多くの皆さんにとっては、本日は「期初」でしょうか?まことにおつかれさまです。
 30代のこの10年は、ただただ「走り抜いた気」がします。気がつけば、周囲の風景が変わり、生活も変わっていました。しかし、今日から40代と言われても、1ミリも実感がわきません。こんなんでいいのでしょうか(笑)。

 ここまで書いて、少し気になったので、10年前の同日の日記を見てみました。30代に突入した日は、どんなことを書いていたのかな?と。すると、こんなことが書いてありました。2005年10月1日の日記。

  ーーー

 思えば、恥の多い20代を過ごしてきました。「ブレーキのないジェットコースターに、コカコーラを片手にもって、シートベルトなし」で乗っているような、ハラハラドキドキの時間でもありました。

 男、中原、三十路に入りました。

 とはいえ、いやーどうにもまったく実感はありません。ここでもう少しかっこのよいことを言えるとよいのですが、どうにも僕には30代になったということがわからない。

  ーーー

 まーま、驚いたね。10年前と全く同じ事を言っているよ(笑)全く成長してないね・・・(泣)。トホホ。

 というわけで、今日からも「恥の多い40代」を過ごしそうな予感です。
 たぶん、走り抜けるんだと思う。
 何が出てくるか、誰と出会い、何を生み出すか。

 この10年、また、楽しみです。
 

投稿者 jun : 2015年10月 1日 06:09