社会人大学院生が陥りがちな「オレオレ現場病」と「オレの経験至上主義症候群」!? : なぜ大学院にくると「カルチャーショック」を受けるのか?

 現場での長い業務経験を積んで、ある程度の年齢に達し、もういちど「学び舎」へ戻る人々のなかに、社会人大学院生がいらっしゃいます。

 社会人大学院生と言っても、キャリアアップをしたい方から、キャリアチェンジをしたい方まで、あるいは、そうした実利的な目的のない方まで、いろいろいらっしゃるので、ここで「一括り」にはできません。

 しかし、その中には、現場で培ったさまざまな経験を「棚卸し」したい、というニーズも少なからず存在しているように思います。
 自分の業務経験が、理論的にはどのように説明しうるのか。あるいは、概念的にはどのように昇華できるのか。そして、業務経験を抽象的にどのように説明しうるのか。そうした「棚卸し」を目的に大学院にいらっしゃる方が、いらっしゃいます。以下の話は研究分野にもよりますので、あくまで僕の研究分野での話に限ります。

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 そして、このようなケースにおいて、社会人大学院生が現場から「大学院」にきたばかりのとき、まま経験されるのが「カルチャーショック」です。

 大学院というのは、シャバ(現世)からわずか数メートルしか離れていなくても、あるいは、塀がなく地続きであっても、シャバとは少し違う雰囲気が漂っています。
 大学院は「概念と理論がとぐろを巻いている抽象的な世界」です。一般に、「個別性」「具体性」「現場的なもの」から、いっていの距離をとり、抽象的な原理や原則や発見を導くのが「科学的である」とされており、そこでは、そうした思考こそが価値を持ちます。

 そして、こうしたケースにおいて、社会人大学院生は「カルチャーショック」を経験しがちです。すべての方に起こるというわけではありません。
 今まで通用してきた自分の経験をいくら語っても、誰もピンとこない。今まで自分が慣れ親しんできた社内用語は通用しない。かわりに、理論や概念がとびかい、専門用語が目の前を流れていく。

 このカルチャーショックが重傷な場合、「大学院」や「大学院で学ぶこと」や「大学院で学んでいる人 / 教えている人」自体を「否定」してしまうという風に発展していきがちです。で、そうしたケースの場合、よくそうした「残念な社会人大学院生」が口にする言葉がこれです。もちろん、すべての方がそうなるわけではありません。ごくごく一部の重傷の方々が、こうなりがちです。

「理論なんて、現場では全く役に立たない」
「大学人は、現場を知らない」
「そんな抽象的なことは、現場では通用しない」

 要するに「現場で働いてきたわたしを、もっと大切に扱ってよ!」と言っているだけなのですが(笑)、こうした言葉を授業やゼミなどで投げつけるケースがあります。最悪のケースは、授業の中断、ゼミの関係崩壊にいたります。

 かつて、まだ僕が学生の頃にであった社会人大学院生の中にも、そのような攻撃行動を繰り返す方がいらっしゃいました。そのときに、先生は、一言、ゆっくりと、しかし、はっきりと力強く、こう指導なさっていました。

「あなたが今のまま、理論や概念を軽視する行動をとり続けるのなら、あなたも、ここにいる他の大学院生も、私自身も、お互いに学びあうことはできないと思います。もう一度、ここにあなたがいる意味をじっくり考えなさい

ちなみに、既存の理論が現場に役に立たないのなら、あなたがそれを創り出せばいいのです。他の人があなたの現場を知らないのなら、あなたにしかわからない言葉で、それを説明するのではなく、みんなにわかる言葉で、それを説明しなさい。大学院は、それを、あなた自身が為す場所です。

あなたの現場、そして経験は尊い。それは誰も否定しません。あなたが苦労して積み重ねたものを無駄にはしないでください。もう一度、自分がどうありたいかを考えて、明日、教室にくるかどうかを決めなさい」

 当時の僕は、なぜ、このような応酬の背後にある社会人大学院生ならではの思いをくみ取ることはできませんでしたが、先生が発した「お互いに学びあうことはできなくなる」とおっしゃった言葉を、妙に覚えています。

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 今日は社会人大学院生について書きました。ちなみに、こうした問題がうちの研究室で起こっているかどうか、というと、「中原研では皆無!まったくございません」ので、あしからず(笑)。

 といいますのは、中原研では、こうした問題が起こりうることを見通して、入試が終わり合格が決まった瞬間に、研究室でオリエンテーションをして、社会人大学院生が陥りがちな罠について、レクチャーをしているのです。
 組織行動論をご存じの方は、いわゆる「RJP(現実的職務予告:Realistic Job Preview)」という言葉を聞いたことがおありなのではないでしょうか。要するに「これから起こるであろう厳しいリアリティ」を先に伝えてしまい、「はいった直後のショック」を軽減するべく「事前にワクチン」を打っているのですね(笑)。だから、今日の話は、うちの研究室の話じゃありません。あくまで一般論です。

 それにしても、

 たかが理論、されど理論
 たかが現場、されど現場

 です。

 社会人が大学院で学ぶことには「痛み」が伴うことも少なくありません。
 そして、社会人が大学院にくるということは、授業料はらって、自ら「痛み」を得にくることなのです。うーん、「どM的!」

 そして人生はつづく

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■追伸.
 逆にいいますと、大学院が、現場から一定の距離があるのはアタリマエのことなのです。それがなく、現場と地続きなのであれば、大学院の存在意義:レゾンデートルが揺らぎます。現場と大学院が地続きならば、そもそも大学院は存在しなくてよい。このことと、研究知見が現場に還元されるかされないか、ということは一見同じでいて、全く異なる現象です。すなわち、どんなに抽象的な概念や理論であろうと、現場に還元しうるものは存在する、ということですね。ちょっと難しいかな。まぁ、いいや。またご説明差し上げます。)