そろそろ抽選結果がでます!:次回のLearning bar「リーダーシップ開発論の最前線」

 次回Learning barのテーマは、

 リーダーシップ開発論の最前線:
 みんなで「リーダーシップ開発」を考える

 です。

次回のLearning bar
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/05/6learning_bar.html

 事務局長・坂本君からのご報告によりますと、今回も嬉しいことに、「満員御礼」です。日程変更の際は、ご迷惑をおかけしました。ありがたいことですね。

 今回、募集開始からわずか「2日間」で、400名を超える方々からのご応募をいただきました。今も尚、お申し込みが続いているようです。ありがとうございます。

 Learning barでは、独自の抽選方式により、抽選を行います。まず、皆さんの職種ごとに抽選を行い、かつ、男女比をなるべく5:5にする努力をします。
 今回の定員は200名ですので、この仕組みでいきますと、おそらく3倍程度の倍率になってしまいますね。心苦しい限りですが、なにとぞお許し下さい。

 「ビデオ中継」ということも考えたのですが、やはり、それでは、「場のもっている何か大切なもの(おおよそ、研究者の使う言葉ではないですが、そうとしか言いようがないので、それで、いいのです)」を失ってしまうような気がします。

  ▼

 昨日は、神戸大学大学院 経営学研究科の伊達さんと最終の打ち合わせをしました。

 伊達さんには、

1.リーダーシップ論とリーダーシップ開発論の過去の先行研究の流れをご紹介いただき

 かつ

2.マイクロソフト社の事例を解釈していただけるようです。

 その中で、ご自身の研究についてもお話いただけるそうですので、ぜひお楽しみに。

  ▼

 ところで、Learning barでは、通常、ご出講いただく方と、やりとりをしながら、内容を決めていきます。

 ご出講いただく方には、もしかすると、内心嫌がられているかもしれませんが(笑)、でも、僕の目には、皆さん、それを楽しんでおられるように映ります(笑)。

 たとえば、7月のLearning barの内容を決めるまでには3ヶ月かかっています。
「何を主張したいのか」「何を問いかけたいのか」「その主張や問いかけは、何が新しいのか」・・・対話の果てに、こうしたことを見いだしていくのです。

 ご出講いただく方には、

「逢うたびに、毎回、宿題がでてきて、どっちが依頼されたんだか、わからないよなー」

 と冗談交じりに言われました(笑)。本当に、すみません。

 前に述べましたが、この場を最も楽しんでおり、かつ、自分にとっての学びの場として活用しているのは、僕かもしれません。そして、きっとご登壇いただく方にも、そのプロセスを楽しんでいただけるはずだ、と僕は信じています。また、そのことが、きっとLearning barという「場(Bar?)」のクオリティを向上させることにも、つながると思うのです。

 ご出講いただく方とのやりとりは、僕にとっては大切にしたいものですね。

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 話が長くなり、かつ、それました。
 そろそろ、次回Learning barの抽選結果が出る模様です。

 本郷キャンパスで、お会いできますこと、楽しみにしております。
 See you soon!

投稿者 jun : 2009年5月29日 09:47


マネジャーがひとりで育成を担う!?

「マネジャーによる部下育成」というお題を与えられたとき、すぐに、私たちの脳裏に思い浮かぶのは、「現場でマネジャーが自ら、直接、部下を指導したり、アドバイスしたりする姿」です。

 いくらマネジャーがプレイング化し、その時間が断片化しようとも、マネジャーは直接部下の面倒を見なければならない。そういう論調が支配的ですね。そして、そういう論調に従って、「マネジャーを対象とした部下育成のための様々な施策(研修)」が、企画され、実施されることになります。

  ▼

 もちろん、マネジャーに「部下育成の責任があること」は、僕の認識に関する限り、否めぬ事実です。そして、本当に必要なときには、マネジャーが自ら直接部下に接し、指導したり、アドバイスをすることが求められるでしょう。

 しかし、「いつもいつも、マネジャーが直接、部下の面倒を見なくてはならないか」、それが義務であり、責務なのか、といわれると、僕は「そうではない」という意見(信念)を持っています。

 マネジャーが、直接、あれこれ部下の面倒を見るというよりも、むしろ、「部下が育つ人間関係を、職場にセッティングし、ナヴィゲートする役割」の方が大きいのではないかと思います。

 去年、僕と富士ゼロックス総合教育研究所、松尾先生と一緒にやった共同研究のデータを、昨夜、共分散構造分析にかけていました(次回の講義に備えて)。

 ざっくりとモデルをつくっただけなので、まだまだ綺麗な結果がでているわけではないのですが、いくつかわかってきたことがあります。
(これに関する重回帰分析を使った分析は、既に、"人材開発白書2009""企業と人材"の中で、富士ゼロックス総合教育研究所の坂本さん、西山さんらが行っており、その仮説を指摘なさっています)

 職場において個人が内省を行うポイントを左右しているのは、大きく分けて、「マネジャーのM機能(マゾなマネジャーではないですよ、、、ここではマネジャーが行う人間関係の調整とお考え下さい)」「職場の対話機能」「職場の互酬性規範」です。

 しかし、マネジャーの人間関係の調整が、直接、「職場における部下の内省」を高めているというわけではありません。それはどちらかというと弱い。
「職場の内省」に影響を与えているのは、「職場の対話機能」「職場の互酬性規範」ということになります。
 むしろ、「マネジャーの人間関係の調整」は「職場の対話機能」や「職場の互酬性規範」との関係が強いことがわかります。間接的に「職場の内省」に影響を与えているのですね。

 つまり、想像力をフルフルに働かせると(やや妄想気味)、こういう仮説がなりたちます。

 マネジャーは、職場の人間関係を調整しつつ、職場の対話機能や互酬性規範を高める。そういう職場の風土の中にいる部下の方が、内省が促され、成長する。

 さらに妄想力を高めると、下記のように言えるかもしれません。

 マネジャーが部下育成の責任を担うといっても、直接、部下を指導・アドバイスをしなくてもよい。部下が育つ環境、職場をセッティングし、そこに部下をナヴィゲートし、適宜、モニタリングしていればよい。

 まだまだ検証しなくてはならないことはたくさんあるのですが、どうも、こんなことも言える可能性があるんではないかな、と「妄想」しています。

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 どうして、こんなことを言うかというと、「マネジャーに、少しでも"楽"になっていただき、職場目標の達成のためにさらにやるべきことをやってほしい」と思うからです。

 マネジャー論に関する書籍は、本屋さんにいけば、たくさんあります。それらを見ていると、「マネジャーのやらなければならない仕事って無限だよな」と「ため息」が出てしまうのです。その仕事は増えることはあっても、減ることはない。

 近年では、コンプライアンスがさらに厳しくなっていますから、マネジャー自身が、その仕事いかんでは、訴えられる可能性もでてきました。
 コンプライアンスのみならず、さらに、今後も、職場では問題が生まれてくるでしょう。

 巷にあふれるマネジャー論では、職場でおこる問題は、すべてもれなく「マネジャーの仕事」とされています。で、その「対処の仕方」が説明してあります。思わず、「マネジャーとは問題を放り込むゴミ箱なのか」と思ってしまいそうになります。

 中には、根性論、精神論っぽいマネジャー論もあって、「気合いで乗り切れ」だの「朝5時に起きなさい」だの、読んでいて目眩がしそうになります。

 マネジャーに責任を押しつけると、みんな、「思考停止」し、「安心」するのです。あらゆる問題は「マネジャーの問題」であり、その解決を行うのがマネジャーである、というかたちになります。 その様子は、さしずめ、「マネジャーロマンス」「マネジャー落ち」と言ってもよいのかもしれません。

 中には、

「その問題って、本当に、課長の問題ですか?」

 と問い直したくなる問題もあります。

 なんだか熱くなってきました(笑)。でも、なんか自分に置きかえて考えてしまうのですね。
 大学教員と「マネジャー」を重ね合わせることには、どだい無理があることは承知しているのですが、どうも、僕は妄想力が豊かなせいで、「自分」だったらどうかな、と置き換えて考えてしまう。

 僕も「研究室」というものをもち、大学院生を指導しています。そして、僕自身も、まだまだプレーヤであり、走り続けています。組織の中では、様々にやることがあり、その役割に対する社会的圧力は増えることはあっても、減ることはありません。

 その立場からして、今のマネジャーの置かれている立場(マネジャーがやらなければならないとされていること)は、かなり「惨い」ものがあるように思います。
 このままいけば、マネジャーは「身体的に無理」と言わざるをえない状況に追い込まれるのではないか、と思うのです。

 あるいは、これからミドルにさしかかる若手が、「上司拒否。」とか「マネジャー?、悪い、パス。」と、マネジャーを忌避する傾向につなるのではないか、と思うのです(笑)。

  ▼

 僕は「マネジャーの仕事や役割を減らすべき」だと思います。もちろん、責任を放棄するべきだと言っているわけではありません。

「要諦」を押さえながらも、職場の他者に任せられるところは、積極的に「分かち合うこと」も重要なのではないか、と思います。

 比喩的に言うのであれば、

 マネジャー自身が育てるのではなく、
 人が育つ環境をマネジャーがつくる

 ということになるのかもしれないな、と思います。

 あるいは、

 部下育成とは、マネジャーによってセッティングされた職場のネットワークの中にある

 ということになるのかもしれません。

 このあたり、さらに考えてみたいと思います。

投稿者 jun : 2009年5月28日 12:22


Learningful work!?

「授業をする」「ゼミをする」- つまり、教育活動を行うということは、「自分で、自分のための学びをつくりだすことだ」、と最近思う。

 授業で扱っている書籍や論文の多くは、僕にとっては何度も読んだことのある論文である。これは僕にとって、「復習」の機会になる。

 授業の前には、一応、原典を少し読み直すから、たとえば「○○は、そういえば、こんなことも言っていたんだよなー」と思い出すことにつながる。
 たまに原典を読んでいると、以前読んだときには、発見すらできなかった事実を発見してしまうこともあるから不思議である。

 ゼミの文献は、一部は読んだことはあるけれど、中には読んだこともないものも含まれる。事前に(ほとんど前の日、、、下手すりゃ、直前)、一応、目を通しておく。

 中原研究室は、今年、「ネットワークと学習」ということをテーマに、主に「エゴセントリックネットワークのもたらす学習・成長・組織への影響」について文献を読み進めている。

 たまにはわからないことがあるけれど、研究室の大学院生と一緒に、新たな領域の論文を読んでいくのは、なかなか愉しい。
 ゼミで得たアイデアは、だいたい数年以内に、意外なところで、何らかのアウトプットにつながる(つながりそうになる!?)から不思議である。

 こうして考えてみると、いろいろなことがわかってくる。
 通常、「教育活動」は「研究活動」とは切り離されたものとして考えられているが、実は、それらは深くつながっている。

 教育と研究のバランスは大学教員の永遠の課題であるから、いろいろな意見をお持ちの方がいるとは思うが、少なくとも僕にとっては、僕の仕事のクオリティを左右するものとして、教育活動があるのは間違いのないことだ。

  ▼

 先日、もう少しで定年を迎える、ある先生がこんなことをおっしゃっていた。

「中原君の世代の大学教員は、僕の若い頃の3倍は忙しいと思う」

「はぁ・・・」と、ため息が出そうになるけれど、まぁ、仕方がない。確かに大学教員は、数々の大学改革の中で、多忙を極める職種になりつつあるのかもしれない。

 先日、某新聞では、「大学教員が1日に2時間しか研究に没頭できない」という記事が掲載されていた。

 それを見た、ある理系の先生のつぶやきが忘れられない。

「1日2時間もどっぷり研究に没頭できる時間がある教員って、最近、そんなにいないよなー。そういう人だから、このアンケートに回答できたのかもしれないよな・・・」

  ▼

 多忙化に抗しつつ、自分の「学び」を確保するための方法は、いくつしかない。最も有力な手段のひとつは、

「自分の学びの機会」を「自分の仕事のルーチン」の中に、いかに埋め込むことができるか

 ということである。僕の仕事の場合は、本を読むこと、論文を読むことが重要であるけれど、そればかりではない。
 自分の仕事のルーチン、やり方の中に、「振り返りの機会」をいかに埋め込むことができるのか、ということも、また重要なことであると思う。

 別の言葉でいうのならば、いかに「Workそれ自体を、Learningful workにできるのか」ということが問われるのかもしれない。

追伸.
 最近、「Learningful work」という言葉が気に入っている。 
「Learningful」というのは、たぶん「造語」である(笑)。こないだ辞書を引いても、のっていなかったから(笑)。

 仕事は仕事である以上、そこには厳しさも伴うし、辛いこと(Hardship)もある。でも、どうせやるのだったら、学びと洞察に満ちたLearningful workに従事したいと、僕は願う。

 でも、ここで注意しなければならないことがある。Learningful workはどこから来るのか?ということである。

 どこかの誰かが、Learningful workを与えてくれるのなら、それはそれで幸せではある。が、それを口を開けて待っていても、拉致があかないことも、また事実かも知れない。

 つまり、Learningful workは、自分自身の力で「つくりださなければならない」のかもしれない、とも思う。
 正確にいうのならば、「Workそれ自体をLearningful workにするのは自分なのかもしれない」とも思う。

 先日、あるところで知り合った学生さん - 内田洋平君が、こんなことをおっしゃっていたことを思い出す。

楽しい仕事があるのではなく
楽しもうとする人がいるだけである

楽しい仕事!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/04/post_1480.html

内田洋平さんのブログ
http://entrepreneur1986.seesaa.net/

 しかし、これを敷衍するならば、こうも言えるのかもしれない。

Learningful workが他人から与えられるわけではない。
WorkをLearningfulにしようとする人がいるだけである。

投稿者 jun : 2009年5月27日 09:13


外側に向けられたメッセージ

 最近、個人的に、グッときた言葉。

私は「メッセージ」が好きじゃありません。言葉が外に向かっていて、「自分自身」に向けられていないからです。

(谷川俊太郎)

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 特に、「この手の言葉」は、「教育の業界」に多いように思うのは気のせいでしょうか。敢えて自爆的に、かつ、自戒を込めて言いますけれども、「外に向けた言葉」が、決して、「内側」、つまりは自分には返らないことが多い。

 自分とは切り離された「外側」に向けた「メッセージ」や「提言」は溢れている。しかし、その「メッセージ」や「提言」は、決して自己には返らない。
 くどいようですが、自爆的に、かつ、自戒を込めて言いますが、自己のあり方を内省し、自己を問い直すことの機運に欠けている傾向があるように思うのは、僕だけでしょうか。

 前にも述べたかもしれませんが、「教育の言語」「学びの言語」「成長の言語」は、それを発するものが意図しようと、しまいと、「再帰性」をもっています。
 外に向けられた言語は、あたかも、ブーメランのように、自分にかえってくるのです。

 あなたは、大人に学べという
 あなたは、大人に成長せよという
 あなたは、大人に変容せよという
 あなたは、大人に対話せよ、という

 で、そういう「あなた」はどうなのだ?

 あなた自身は、学んでいるのか?
 あなた自身は、成長しようとしているのか?
 あなた自身は、変わろうとしているのか?
 そして、あなたは対話の中にいるのか?

 自分の外側という名の「中空」に放たれたメッセージが、行き場を失い、漂い、淀み、腐臭を発することのないように。
「教育」や「学び」について語ることとは、自分を問い直すことなのではないか、と思うのです。

投稿者 jun : 2009年5月26日 09:35


子リスは壁を乗り越えられるのか?

 先ほどのNHKニュースで紹介されていた。世界で爆発的なヒット数を得ているというYoutubeのショートクリップ。

 舞台は、カリフォルニア、UCLA。
 親子のリスがいる。

 親リスには、「課題」があった。
 それは、「子リスに壁を乗り越えさせること」。

 親リスはいとも簡単にそれをのぼる。
 しかし、身体の小さい子リスには、それができない。

 あまりの壁の高さに、圧倒される。
 挑戦することすら躊躇ってしまいそうになる。

 一人で「できない」ときには、「手助け」が必要だ。
 子リスの奮闘を見ていたキャンパスの住人たちが
 手助けをしはじめる。

 少しの「手助け」では、まだできない。
 挑戦は続く。

 子リスは、果たして、壁は乗り越えることができるのか?

  ・
  ・
  ・

 訳もなく、「温かい気持ち」になれる。
 Try to do・・・今週も。

投稿者 jun : 2009年5月25日 06:53


適切な!?背伸びの程度

 早朝、キャンパスにて。

 神戸大学の松尾睦先生と共同研究の議論。おおよそのロジック、分析の手法は決まった。あとは僕が「ある程度ひとりになれる時間」を見つけて執筆するだけである。
「だけ」と書いたけど、まだまだ、これからだな・・・トホホ困難がかなり予想される(泣)。

 今回の論文は、自分にとっても「節目」であると考えている。また、この論文を書くことでいろいろ勉強したことは、今後の研究を進める上で、大きな糧になるはずだ。

 なんとか書き上げたい。

  ▼

 午後、「ラーニングイノベーション論」の初回講義。
 今日のゲスト講師は、松尾先生である。

 今日は、松尾先生から、

「経験から学ぶ
    他者から学ぶ
      組織が変わる」

 というタイトルでご出講いただいた。

 個人的に興味深かったのは、個人の成長を後押しする「背伸びの経験」の「適切な背伸びの程度」が、実は、職種や会社によって違う、というご指摘である。

 適度な背伸びの程度は、ITプロジェクトマネジャーなら20%程度
、経営コンサルタントならば50%程度ではないか、ということであった。
 「適切な背伸びの程度」が職種によって異なるのは、職種ごとの成長モデルが異なっていることと無縁ではないと思われる。非常に面白いな、と思った。

 実際、受講生の皆さんに、

「あなた、あるいは、あなたの会社で、どの程度の背伸びが適切だと思いますか?」

 という質問を投げかけたところ、

 110%が数名、120%が30%程度、130%が25%程度、240%が数名、150%が数名という感じになった。面白いな、と思った。

 振り返って、研究者の場合はどうかを考えてみる。
 僕は研究者は、今ある能力の30%くらいの「背伸び」が重要なのではないか、と考えているが、どうだろうか。

 また同僚と議論してみたいと思う。

 ともかく、今日の初回講義は、参加者の皆さんの温かいご協力、そして、熱心な取り組みのおかげで、何とか終えることができた。井草さん、保谷さんの準備、野澤さんのサポートのおかげで、スムーズにワークショップも終えることができた。少しホッとしたし、嬉しかった。
 
 そして人生は続く。

追伸.
 最近、自分が今やっている研究が、実は、かつての研究と非常につながっているのだ、と実感することが多くなってきた。

「会社・組織」という全く違った領域に踏み込んだつもりなのに、だんだんと、その領域がわかってくるにつれて、自分の立ち位置、自分のやるべきことがわかってきたような気がしている。

 以上について、先日、インタビューを受けたので、もしよろしければご覧下さい。

インタビュー
http://www.mia.co.jp/special/2009/05/post-28.php

 佐々木さん、谷藤さんには大変御世話になりました。よい振り返りの機会をいただきました。ありがとうございました。

 やはり人生は続く。

投稿者 jun : 2009年5月22日 09:08


ほめられサロン

 先日、某開発会議でお会いしたYさんが、「ほめられサロン」というサイトを教えてくれた。

ほめられサロン
http://kakula.jp/homeSalon/

 このサイトは、「名前」「性別」「職種」を入力すると、読んでいて恥ずかしくなるような「褒め言葉」が、パソコンのスクリーン一杯に、これでもか、これでもか、とあふれてくる、というもの。

 早速、家に帰って試してみる。名前は「じゅん」、職種には「大学教員」は残念ながらなかったので、「自衛隊」を選ぶと・・・。

「じゅん、ドンピシャリ、命中だよ」
「じゅん、おまえ、未来の幕僚長だぞ!」

 と褒められる(笑)。
 そうか、命中か。
 でも、未来の「幕僚長」と言われてもねー。

「営業」を選ぶと・・・

「じゅん、トークがきれるね」

 と褒められる。

 スクリーンに矢継ぎ早にでてくるメッセージを読んでいると、それが、たとえ自動プログラムで生成されたものだと頭ではわかっていても、「恥ずかしく」なったり、「照れくさく」なるから不思議である。大人ってわからない。

  ▼

「このサイトがでてきた背景って、何なんですかね」とふと疑問をもらしたら、Kさんが

「大人って、ふだん、褒められることないじゃないですか。やってあたりまえ、できてあたりまえですよね」

 とおっしゃっていたのが印象的だった。

 確かになー、そうだよな。
 僕も、あまり褒められたことは最近ないかも。もちろん、僕の場合は、褒められることをあまりしていない、という説もある(笑)。

 褒められたいね、ほんと。

投稿者 jun : 2009年5月21日 09:23


Work Together! : 中原研究室で学びませんか? : 大学院入試説明会

 6月13日(土曜日)、今年も、東京大学大学院 学際情報学府の入試説明会が開催されます。東京大学大学院 学際情報学府は、情報をキーワードにした文理融合型の大学院。中原はここで大学院生の研究指導を行っています。

 一日で、本学大学院についてご理解いただけると思いますので、ご興味をお持ちの方は、ぜひお越しいただければとおもいます。

 中原研究室も、「学環・学府めぐり(研究室ごとのポスターセッション)」に出展します。会場には、僕を含め、研究室の学生もおりますので、気軽にお声掛けください。

東京大学大学院学際情報学府修士課程入試説明会
http://blog.iii.u-tokyo.ac.jp/iii/news/22_1.html

中原の研究指導をご希望の方へ
http://www.nakahara-lab.net/playlink.html

中原の教員紹介
http://www.nakahara-lab.net/cv/gradschool.pdf

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東京大学大学院 学際情報学府 修士課程 入試説明会

個別領域を越境し、情報をめぐる新たな「智慧の環」を
形づくりつつある情報学環。 

伝統的学問の深い素養をもとに、しなやかにしたたかに
学際的研究に取り組む「学びの府」である学際情報学府。

これらが密接に結びついてできあがった知の熱帯雨林
型コミュニティ!

本日はその全体像を教員、事務職員、現役院生、同窓
生らが一緒になって説明します。

アクチュアルな問題意識を持った大学生のみんな、実務
経験を見つめ直し、深く学んでみたいという社会人の方々。

ご来場いただきありがとうございます。
どうか有意義な一時をお過ごしください。

日時:2009年 6月13 日 (土) 13:00 ~ 17:00
会場:東京大学大学院情報学環・福武ホール(赤門横)
    福武ラーニングシア ター(B2F)
    アクセス方法は、以下をご参照下さい。
    http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/access.html

【開催概要】

0.12時30 分 開場
 □全体司会:大島まり・柳原 大

1.13時 ~ 13時30分
 ■智慧の環・学びの府
 □登壇者: 学環・学府長 石田 英敬+専攻長 佐倉 統
 □学府長、専攻長が学環・学府のあらましを説明します。

2.13時30分 ~ 13時50分
 ■学環・学府 いったいどんなところ?
 □ 社会情報学コース 石崎雅人
   文化・人間情報学コース 佐倉 統
   先端表現情報学コース 鈴木高宏
   総合分析情報学コース 坂村 健
 □各コースのアピール、どんな人に来てほしいかな
   どをコース長が語るビデオメッセージ。

3.13時50分 ~ 14時10分
 ■大学院生のプロフィール&就職・進学情報
 □(学務係ほか)
 □どんな学科や大学から学生が集まり、いかに学び、
   どこへ就職したり、進学しているか。
   データを使って説明します。
      休憩 15分

4. 14時25分 ~ 15時15 分
 ■鼎談:学環・学府を生きて!
 □登壇者:山口 泰,橋田朋子&岡本健志
 □OG/OB体験談、アドバイスを聞きます。

5.15時15分 ~ 15時45分
 ■2010(平成22)年度入試説明
 □登壇者:入試実施委員会+学務係
 □マジメに入試手続き説明!原則は募集要項
   をよく読んでください!

     - 休憩 15分 -

6. 16時 ~ 17時
 ■学環・学府めぐり
 □スタッフや院生とめぐり逢える知的バザール
  (教職員,現役大学院学生)

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追伸.
 今朝は小さな「覚悟」をした。TAKUZOに自分で着替えをさせることにしたのだ。
 昨日までは僕が5分ですましていたものを、TAKUZOに自分でやらせる。結局、30分近くかかった。でも、手助けを受けながらも、TAKUZOは、何とかひとりで、すべての着替えを行うことができた!

 首がなかなかでないし、ズボンは簡単にはあがらない。ぎこちない着替えの様子を見ていて、思った。
 きっと、僕にとっては「25分」の時間だけれど、TAKUZOにとっては違うんだろうな、と。
 どうも、この世には、2種類の「時間」があるみたいだ。「親の時間」と「子どもの時間」だ。

 自分で一通りの着替えができることがわかったとき、本当に些細なことではあるけれど、僕は、嬉しかった。自分も親として、ほんの少しだけ成長した気もした。

「子育て」、そして「任せること」とは、「忍耐」であり「覚悟」である。そして、それによる「手応え」が得られることは、「任せた人間」にとって「喜び」であり、「成長」であるかもしれない。

 頭ではわかっていたことだけど、実感できたような気もする。

投稿者 jun : 2009年5月20日 06:42


えっ、、、まさか、自分で靴も履けるの!?

 昨日、保育園で、考えさせられる出来事があった。
 保育園の先生が、「TAKUZO君は、今日、靴下を自分ではけましたよ」と教えてくれたのである。

「たかが靴下」と思うかもしれないけれど、僕は、びっくりしてしまって、思わず、「うそー」と声に出してしまった。
 なぜなら、僕は「靴下よりも難易度の低い靴すら、TAKUZOは、自分ではくことはできない」と思っていたからである。

「保育園では、靴下はけるんですか? まさか、靴とかも、自分ではいてますか?」

 保育園の先生に、おそるおそる聞いてみる。

「はい。手助けはたまに必要ですが、自分でやりますね」

 二度目の衝撃。

「食事とかはどうですか? 家では、途中で飽きて、自分で食べないのですけれど。保育園では、自分で食べますか?」

「途中でやめることはありませんね」

 三度目の衝撃。

   ・
   ・
   ・

 つまり、こういうことである。

 TAKUZOは「親の僕が、自分でできないと思っていたことは大方できる」のである。
 能力は既に備わっているのに、親があれよ、これよと「手助け」をしてしまうがために、「やらない」だけなのである。

 TAKUZOは決して「靴下が脱げない」のではない。
「靴下が脱げないという無能力さ」は、他ならぬ、TAKUZOと僕との関係において社会的に構築されていたということにある。

  ▼

 軽くショックだった。
 理由はいくつかある。

 ひとつには、自分の子どもの発達に関しては、親の自分はある程度、客観的に見ることができている、という自負があったこと。
 しかし、僕は、自分の子どもを見ているようで見ていなかったのかもしれない、と思った。

 二つめは、僕は、研究者として「熟達」「学習」といった問題に取り組み、ストレッチ(背伸び経験)やフィードバック(アドバイス)といった概念を、授業で扱っている。
 講演では、「人を育成するための"権限委譲 - 任せること"の重要性などを述べている。

 自分では、「任せることの重要性」は、頭ではわかっているはずなのに、それを子育てでも実践しようと思っていたはずなのに、僕には、それができなかった。

  ▼

 どうして、こうなってしまうのか。

 社会的な理由も、おそらくはある。我が家は「共働き家庭」である。これは理由にはならないとは思うけれど、きっと、この影響も大きい。

 ついつい、時間がなくなってしまったときなどに、

「えーい、何をチンタラしておるのじゃ、靴を貸せ、オレがはかしてやるわい、早く保育園いくぞー、こっちが会議に遅れるー」

 という風になってしまう。

 あと、もうひとつ。
 TAKUZOの様子を見ていて、明らかに「親に甘えてるよな」と思っていても、ついつい、「一日の大半を保育園で過ごしているのだから、家にいるときくらいは、親に甘えさせてあげたいな」と考えてしまうこともある。

 かくして、僕は、TAKUZOの行動を先読みしつつ、彼が本来やらなくてはならぬことを、やってしまっていたのかもしれない。そういう様子をTAKUZOは知っていて、「親はどうせやってくれるから、自分ではやらない」という選択肢をとっていたのかもしれない。

  ▼

 人間の成長にとって重要なことは、「自分の能力にプチプラスのある背伸びの経験をさせること」であり、「任せること」である。
 
 そんなことは、ヴィゴツキーを持ち出すまでもなく、エリクソンを持ち出すまでもなく、統計データを持ち出すまでもない。アタリマエのことであり、常識である。

 かつて松下幸之助は「任せて、任せず」という名言を残した。

 教育研究者として「口にすること」ではなく、一人の親として、それを「実践すること」の難しさに、直面している。

投稿者 jun : 2009年5月19日 06:11


自分の仕事のエンドロールを書く

 今度、あるところで実施するワークショップのアクティビティに、

 自分の仕事の"エンドロール"を書く

 というのを企画しました。

「映画」をメタファにして自分の仕事を振り返る、というワークショップになります。
  
  ▼

 このワークショップでは、あなたの仕事は、一本の「映画」です。映画は、複数の専門性をもった人々が、様々にかかわり、達成されるプロジェクトです。

 そもそも、今、あなたは、自ら、メガホンをもっているでしょうか? それとも、誰かのメガホンが振られることを待っていますか?

 あなたは、どんな「映像」を、「誰」に届けようとしているでしょうか?

 そして、誰が、その「映画づくり」に協力してくれているでしょうか。

 あなたの「映画」のエンドロールには、誰の名前がありますか?

  ▼

 「自分の仕事を振り返る」

 誰もが簡単に口にする言葉です。

 しかし、「振り返る」と言われても、いったい、何を、どのように振り返ってよいのやら。途方に暮れた経験は、多くの人々がもっているはずです。
 そして、多くの人々が特に苦手なのは、自分の仕事を影ながら支えてくれている「他者の支援」「他者とのかかわり」に気づくことです。これまで、マネジャー層向けに、様々な試みを行ってきましたが、そのことを痛感します。

 昔々の研究知見(僕の処女作ですね)を引っ張りだして恐縮ですが、「振り返ること」が可能になるためには、「舞台(場)」「ツール」「他者からの問いかけ」による支援が不可欠です。そして、これら3つの「しかけ」によって、自分の仕事の背後にいる「他者」に気づくことが、重要ではないか、と思っています。

 自分の「映画」のエンドロールを書く、というアクティビティ、自分の仕事を映画に喩える、というワークショップは、そのひとつの試みです。

  ▼

 あなたは、自ら、メガホンをもっていますか?
 あなたの「映画」のエンドロールには、誰の名前がありますか?

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追伸.
 新型インフルエンザの被害が拡大してきた。Learing bar、Workplace Learning 2009、そして日本教育工学会・・・。
 今年「も」、東京大学では、各種の学術イベントが開催される予定であるが、どのようなポリシーをもって運営するべきか、なかなか判断に悩まされる。
 状況に応じて柔軟に判断するしかないとは思うのだが・・・極めて「頭」が痛い問題である。

投稿者 jun : 2009年5月18日 08:17


事故、火事、死亡 : 新聞記者の熟達化

日、一緒にお仕事をしているAさんと雑談をしていた時、話が「新聞記者の熟達化」に及びました。
 Aさんは、かつて、某新聞社で記者をなさっていた御経験をお持ちの方です。

  ▼

「新人記者の仕事は、事故、火事、死亡、事故、火事、死亡という感じですよ。
 言うまでもなく、交通事故に関する記事、火事に関する記事、死亡記事のことです。新人の頃、特に1年目くらいまでは、この3つの記事を書くことが多いですね。

 でも、これには、ちゃんとした理由があるように思いますね。

 まず、事故、火事、死亡記事というのは、"固有名詞"と"数字"が多いのです。そして、それらは絶対に間違えてはいけない情報です。

 固有名詞と数字をきちんと聞き取る。そして、聞き取った情報の「裏」をとる。これが求められるのです。これは、事故・火事・死亡以外の記事でも、すべての新聞記者の仕事に共通するスキルですね。

 たとえば、死亡記事で、名前を間違ったら、大問題ですよね。それこそ、訂正記事を打たなくてはならなくなってしまいます。

 死亡記事の場合、多くの場合は、大企業の総務などから情報が入ってきますね。でも、必ず、遺族に直接連絡をとります。そして、喪主の人に電話口にでてもらって、故人の名前、死亡時刻、喪主の名前、葬儀の開催日時、場所をひとつひとつ確認します。間違いをふせぐ手段です。

 しかし、電話の相手は、急な不幸に見舞われている人です。そんな悲劇の中にある人に電話をかけて、挨拶をして、丁寧に聞き取りを行うのです。
 でも、新聞記者の仕事は、概して、「急な不幸に見舞われている人」を相手にすることが多いのです。
 ですので、死亡記事の確認作業の電話は、そのための基礎トレーニングなのかもしれません。

 交通事故や火事では、固有名詞や数字はやはり間違ってはいけませんが、文章のトレーニングになりますね。

 といいますのは、交通事故や火事の記事というのは、よほど心がけていないと、すぐに長くなってしまうのですね。これはやったことのある人なら、絶対にわかります。

 たとえば、今、仮に新人が「○○の方向からきた車と、○○の方から走ってきたトレーラーが・・・」という風な文章を書いたとしましょうか。文章、長いですよね。
 こういう記事を書いて、先輩やデスクのところに持って行くと、「出会い頭って書けばいいんじゃないの?」と一言で言われてしまう。長い表現を、いかに正確に、短くできるかがポイントなのです。

 あと、新聞記事というものは、「逆三角形」に書く、ということがよく言われます。つまり、大切なことはなるべく前の方に書く、ということです。逆にいうと、記事の後ろからどんどんと文章の長さを削れるように書くということです。

 新聞では、ひとつの記事にさけるスペースは限られていますし、大きなニュースなどが入ってくると、後ろから文章の長さを削らなければなりません。ですので、後ろにはいつ削ってもような情報を載せていくのです。

 僕が新聞社にいた頃は、1年目は、死亡・火事・事故をひたすら書いていました。1日に5件以上の記事を書いたこともあります。

 でも、不思議なもので、死亡・火事・事故の3つの記事を1年くらい書いていると、2年目以降は、どんな記事でも書けるようになっているのですね。

 ▼

 非常に面白いですね。
 ICレコーダをもっていたわけではないので、一字一句同じではないとは思いますが、Aさんのお話は、だいたいこのような趣旨の話であったと記憶しています。Aさん、貴重なお話、ありがとうございました。「仕事における学び(Learningful Work)」の話は、面白いですね。

 このように、新人の働く現場やそのプロセスを「子細」に見つめていくと、その仕事の中には、のちの仕事工程で必要になるスキルや知識が埋め込まれているものです。

 かつて、ジーン=レイヴとエティエンヌ=ウェンガーという研究者は、いくつかの仕事場を人類学的手法で観察し(エスノグラフィー)、その場での学びのプロセスを明らかにしました。

 彼らが参与観察した職場で、新人は、「全体像は見渡せるけれども、たとえ失敗しても、その失敗が全体には及ばないような仕事」から順に従事しつつ、熟達者になっていくことがわかりました。

 よい仕事場というものは、かくのごとく、新人に任せる仕事に、綿密なデザインや意図があるものです。そのデザインや意図は、必ずしも、その場に居合わせる人に気づかれているわけではありません。しかし、新人がそこでの活動に「参加」することによって、熟達していくことが可能になっています。

 あなたの会社で、「新人が育たない」ということばを聞いたら、まずは新人を責める前に、新人の仕事の現場、プロセスを分析してみるとよいと思います。

 今、新人に与えられている仕事で獲得されるスキルと、後工程で新人が必要とするスキルを比較してみることで、「なぜ新人がなぜ育たないのか」に関するヒントが得られるかもしれませんよ。

 たいがいの場合、「新人が育たない理由」の中には、システムの問題、仕事場にある「構造」の問題も数多く含まれていると思います。

投稿者 jun : 2009年5月16日 07:00


緊張屋、情報屋、熟慮屋 : あなたの周りには「どんな人」がいますか?

 いつも、自分に心がけていることがあります。

 自分が愉しく仕事ができるようになるために、「緊張屋」「情報屋」「熟慮屋」という3タイプの人たちと一緒に仕事がしたい。そういう人たちに、自分の「周囲」に居続けていただけるように、自分は何をなすべきなのか、と考えているのです。

  ▼

「緊張屋」は、時々、ハッとするような角度から、僕に、「言いにくいこと」をストレートに言ってくれる人です。

「このままいくと、"普通"になっちゃうけど、それでいいの?」

 緊張屋のメッセージは、常に耳が痛いです。
 でも、こういう「言いにくいことを言ってくれる人」は、非常に貴重な存在です。
 自分が、どんなに尖ったことを成し遂げようと心に決めていても、終わりなき日常の中で、最初の志やコンセプトは、丸まってくるものです。そういう気のゆるみを、緊張屋は決して見逃しません。

 緊張屋のメッセージ - 愛のある「差し込み」は、虚心坦懐に受け止めたいと思うのです。

  ▼

「情報屋」は、様々な領域を飛び回っている「吟遊詩人」のような存在です。それぞれの領域で、今、何が一番面白いのか、驚くほど、よく知っています。

「中原さんのやろうとしていることは、○○では、こういう言葉でやってるよ」
「最近、○○の世界では、○○って概念が流行ってるよね、これ、絶対にくるね」

 情報屋は、決して、ひとつのドメインに満足しません。そして、どこにも属しません。情報屋は、自分の中に複数の「目」をもっているのです。
 今、何が面白いのか。これから何が注目を浴びるのかを、様々な視点で見つめています。

 情報屋の持ってきてくれる情報は、いつも「気づき」をもたらしてくれます。

  ▼

「熟慮屋」は、いったん動き出したプロジェクトの中で、コツコツと、熟慮に熟慮を重ね、仕事をしてくれる人です。そして、その時々において、解決しなければならないことを分析し、僕や皆に、教えてくれる人です。

「実際やってみると、○○という問題と△△の問題がでてきたなぁ・・・これ、どうしようか。そもそも、この二つの問題を解決するためには、もともとのコンセプトを考え直さなくてはならないかもよ」

「熟慮屋」のメッセージは、「情報屋」のメッセージほど鮮烈なものではありません。しかし、熟慮の果てに発するものだけに、非常に深く、根源的なものがあります。

 面白いことを追求するだけで、仕事をなしとげることはできません。ひとつやるべきことを決めたら、熟慮し、やりぬくこと(Execute)。これが何よりも必要です。

  ▼

 このように「緊張屋」「情報屋」「熟慮屋」という3タイプの人たちと一緒に仕事がしたい、と願っています。それぞれのタイプの人々が持っている能力は、僕に欠けているものであることを、僕は重々承知しているからです。

 そして、彼らから得られたメリット以上のものを、願わくば、自分も彼らに対してもたらすことができれば、と願っています。

 おそらく、僕が得意なことは、それぞれから得られた情報を統合的し、コンセプトを決め、人を巻き込むことだと思います。無理無理名前をつけるのであるならば、「決断屋」あるいは「統合屋」「接続屋」ではないかな、と思います。

 大人の世界は、Give and Takeです。我々の仕事がサスティナブルであり、そして、我々の関係が安定的であるためには、そこに「互恵性」が存在していなければなりません。そして、お互いの役割や、お互いのあり方(Being)に対するリスペクトや感謝が存在していなければなりません。

 自嘲的に言っているわけではないのですが、僕は、自分一人の能力が取るに足らないものであることを知っています。僕には得意なことがある反面、自分に足りないものが、たくさんあることをよく知っています。

 でも、僕がすべてを「知っている」必要はありません。そして、すべてのことを「できる」必要もありません。それらを望んでも、実際問題、僕には「できません」。

 自分の仕事に必要な能力を、人々の「ネットワーク」として持つこと。
 そういうネットワークの中に、自分があること。それが重要なことだと思います。このことは、近著「ダイアローグ 対話する組織」でも述べました。

 くどいようですが、大人に必要な「知性」とは、「個人の頭の中」だけにあるものではありません。大人に必要な知性とは、ネットワークとしてデザインされるべきものなのです。

 必要な知性をネットワークをとしてデザインし、維持し、なすべきことを達成する。そして、それ以上に重要なことは、その都度、ネットワークのあり方を見直し、時には壊し、時には編み直す。

 くどいようですが、ネットワークとは、決して「静的」「固定的」なものではありません。静的かつ固定的なネットワークは、かえって「重さ」を生み出します。
 
 「不安定とは安定であり、安定とは不安定」です。
 常に移ろいゆく中にあるからこそ、平衡が保たれ、安定する。しかし、ネットワーク全体は緩やかに、世の中の流れに応じて変化する。
 
 かくいう状況は、生命学者の福岡伸一さんのいう「動的平衡」に似ています。そういうあり方が、ここにも見いだされなければなりません。

  ▼

 あなたが、自分の周囲に、「何屋」さんにいて欲しいと願いますか?
 今、現在、あなたの周りには、どんなタイプの人がいますか?

 あなた自身は、何屋さんですか?
 そして、彼らに何をもたらしていますか?

 そして、あなたと彼らの関係は、いかにあり、どのような方向に変わっていくのでしょうか?

---

「伝えた」はずなのに、伝わっていない。
「伝えた」はずなのに、相手の行動は変わらない。
「伝えた」はずなのに、組織も変わらない。

中原淳・長岡健著「ダイアローグ 対話する組織」発売中!

様々なブログに、読後の感想が掲載されています! ありがとうございます!

投稿者 jun : 2009年5月15日 08:53


常連さんから学ぶ:寿司屋の新人の熟達化

「寿司屋の新人は、みっちり基礎を仕込んだあとは、どういう常連のお客さんに、つけるかなんですよ。そこでいいお客さんに出会えた新人は伸びますね」

 いきつけの寿司屋のご主人が、こんなことを言っていた。
(小生、毎日寿司を食べてもOKなくらい、寿司屋好きです)

「常連のお客さんは、うちの店の味を、ある程度わかってくれている。そして、店が続いてほしいと思っている人が多い。

だから、人によりますけれど、新人を紹介して、"こいつよろしくお願いします"と挨拶すると、たいがい相手してくれる。

で、新人には頃合いを見て、常連に握らせるんです。すると、実に、的確なコメントをくれるんですね。おい、握りが甘いぞ、とかね。こないだよりはうまくなったな、とかなんて。

中原さんも、こないだ、シャリの酢の分量、ほんの少しだけ変えただけで、すぐにわかったじゃないですか。常連さんって、本当に、その店の味が舌に"ある"んですよ。

新人に親方のオレが言うと、カドが立っちゃうこともある。もちろん、人様に出せないものをだすときは、言うけど。でも、親方が、帳場で怒鳴っている寿司屋って、客としてはイヤなものなんだ。

あとね、よい仕事をしたときに、やっぱりお客さんに褒めてもらうのが、一番職人は嬉しいものですよね。

だから、寿司の場合、職人は常連さんに育ててもらうってのが、一番いいな、とオレは思うな。もちろん、常連さんには、その分のサービスを他に考えます。

もちろん、筋のいい常連さんにお店に来てもらえるってのは、オレ自身も、いい仕事をしなければならないってことなので、自分の仕事のあり方を考えなければならないです」

 ▼

 寿司屋の熟達のあるプロセスでは、「常連さん - 新人」の間の学習が、非常に重要なのかもしれませんね。

 こういう目で、寿司屋を見つめてみると、また、面白いですね。 嗚呼、なんか、また寿司をつまみたくなってきた。

投稿者 jun : 2009年5月14日 17:24


1曲で10曲分

 昨日は大学院ゼミ終了後、センターの歓送迎会へ。

 なぜか、うちのセンターの飲み会は、カラオケ付きのパーティルームが恒例です。いつも、かなり盛り上がる。

 昨日は、「雨上がりの夜空に」を歌いました。
 歌うというよりも「吠える」に近いね。

   ・
   ・
   ・
   ・
   ・

 で、、、朝から、ノド、めちゃめちゃ痛い。
 かなり声がガラガラです。
 
「雨上がり」は、通常の楽曲の10倍くらいダメージがあるようですね。
1曲で10曲分。すげー、ダメージだ。

 でも、すっきりしたわ。
 
 追悼、清志郎。
 そして、僕の人生は続く。

投稿者 jun : 2009年5月13日 10:06


【日程変更のお知らせ】6月Learning barは6月19日に変更になりました!

中原です。

本日朝より募集を開始した6月Learning barですが、主催者のやむをえない都合により、6月19日に開催になりました。既にお申し込みを終えられた方には、心よりお詫びいたします。既にお申し込みを終えられた方は、事務局からご連絡を差し上げます。今しばらくお待ち下さい。

申し込みをお考えの方は、下記をお読みの上、お申し込みいただけますよう、宜しくお願いいたします。

=================================================
Learning bar@Todai 次回開催のお知らせ
日程変更のお知らせ

リーダーシップ開発論の最前線:
みんなで「リーダーシップ開発」を考える

2009年6月19日(金曜日)午後6時 - 9時(5時45分開場)
東京大学 情報学環 福武ホール
=================================================

※主催者の都合で、日程が6月12日から6月19日に変更になりました。
既にお申し込みを終えられた方は、事務局から問い合わせがあります。
くれぐれもご注意下さい※

あなたの会社に必要なのは、リーダーですか?
       それとも、リーダーシップですか?

  ▼

 2009年6月のLearning barは、マイクロソフト株式会
社小林いづみさん、神戸大学大学院 伊達洋駆さんを講
師にお招きし、

「リーダーシップを開発するとは、いったい、何を
すればいいのか?」

「リーダーシップ開発の最前線では、どのような取り
組みがなされているのか・・・最新の研究知見はどこ
にあるのか?」

 について、皆さんでディスカッションを深める機会を
持ちたいと思います。

 Learning barは「聞く 聞く 聞く 帰る」の場では
ありません。「聞く 考える 対話する 気づく」を目的
とした「良質の問いかけにあふれる場」です。

 いつものように、先進的事例と最先端の理論をもとに、
皆さんとリーダーシップのことを考えたいと願います。

  ▼

 マイクロソフト株式会社の小林いづみさんは、People and
Organization Capability という部門で、同社のリーダーシ
ップ開発の先陣を切っておられます。

 マイクロソフト社は、いわずもがなのグローバル企業。
しかし、2000年代初頭、同社のリーダーシップ開発は、
それぞれローカルに任されていて、バラバラの状況でした。

 そのような状況に変革がもたらされるのが2005年。各国の
人材開発担当者が本社に集められ、グローバルに統合した
リーダーシップ開発のフレームワークをつくりはじめます。
 そこから、開発担当者たちの試行錯誤がはじまりました。

 現在、同社では「経験」に基づくリーダーシップ開発、「メン
タリング」など、様々な施策を積み重ねて、リーダーシップ
開発に取り組んでいます。

 当日は、

1)マイクロソフト社におけるリーダーシップ開発の歴史
2)グローバルに統合したリーダーシップ開発が生まれる
 までのプロセス
3)マイクロソフト社におけるリーダーシップ開発のコン
 セプト
4)マイクロソフト社におけるリーダーシップ開発の実際
5)マイクロソフト社におけるリーダーシップ開発のイン
 パクトと課題

 についてお話をいただく予定です。

  ▼

 神戸大学大学院の伊達洋駆さんは、新進気鋭の経営
学者です。伊達さんは、関西大学で教育学を学び、
現在は、神戸大学で、実務家と一緒に経営課題に取り
組む実践的な方法によって、人材育成の研究を行って
おられます。

 伊達さんには、

1)リーダーシップ開発をめぐる先行研究の概観
2)リーダーシップ開発の最先端の理論的・実践的動向

 についてご紹介いただく予定です。

  ▼

 参加をご希望の方は、下記の参加条件をお読みになり、
フォームに必要事項をご記入のうえ、5月30日までに
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまでご連絡
下さい。6月1日までに参加可否をお伝えいたします。
下記の要項を必ずご一読いただき、ご応募をお願いいた
します。

 なお、最近、Learning barは満員御礼が続いており、
参加登録いただいても、すべての方々の御希望にはお応
えできない状況になっております。

 今年から会場を変えて、何とかこれに対応しようとし
ていますが、限られたスペースと人的リソースの中で運
営し、かつ、参加者のバックグラウンドの多様性を確保
する必要がある関係上、すべての方々のご要望にはお答
えできません。

 主催者としては心苦しい限りですが、なにとぞお許し
ください。
 
       主催:中原 淳(東京大学・准教授)

※Learning barは、NPO法人 Educe Technologiesが
主催、東京大学大学院学際情報学府 中原研究室が
共催する、実務家と研究者が集まる学術イベントです。
 
 ---

○主催
 NPO法人 EDUCE TECHNOLOGIES
 エデュース・テクノロジーズ
 http://www.educetech.org/
 
 EDUCE TECHNOLOGIESは、教育環境の構築に
 関する調査、研究、コンサルティングを行う
 非営利特定活動法人です。
 
 企画担当
 副代表理事 中原 淳

 
○共催
 東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
 - 大人の学びを科学する研究室 -
 http://www.nakahara-lab.net/
 
 
○日時
 2009年6月19日(金曜日)
 午後5時45分 開場
 午後6時00分より午後9時頃まで実施
 
 ※時間が限られておりますので、定刻通り
  に始めます。本郷キャンパスは意外に
  広いです。くれぐれも、迷子になりませんよう
 
 
○内容(案)

 □ウェルカムドリンク
 (5時45分 - 6時00分)
  ・今回のLearning barでは、サンドイッチ
   ソフトドリンク、ビール、ワイン等を
   ご用意しています。
  ・非常に混み合うことが予想されますので、
   なるべくはやくおこしください。
 
 □イントロダクション
 (6時00分-6時10分)
   ・中原 淳(東京大学)
 
 □パート1 リーダーシップ開発現場の最前線
 (6時10分 - 6時45分)
 (30分講演+5分質疑)
  ・小林いづみさん(マイクロソフト株式会社)

  グローバルで統合されたリーダーシップ開発
  が生まれるプロセスから、各国の担当者で構
  成されるバーチャルチームがプロジェクトを
  動かしていく様子をお話しします。
  本プロジェクトは、各国の担当者にとっても
  よい学びの機会となりました。

 --- bar time (10min.) ---

 □パート2 リーダーシップ開発の現場
 (6時55分 - 7時30分)
 (30分講演+5分質疑)
  ・小林いづみさん(マイクロソフト株式会社)

  マイクロソフトにおけるリーダーシップ開発
  施策の実際をご覧いただき、現場の経験から
  学ぶ仕掛けづくりと今後の課題を考えていき
  ます。

 --- bar time (10min.) ---

 □パート3 リーダーシップ開発理論の最前線
  7時40分 - 8時10分)
 (30分)
  ・伊達洋駆さん(神戸大学大学院)

  これまでの先行研究から、リーダーシップの発揮
  は組織や集団の成果に必ずしも結び付かないことも
  わかっています。
  それにもかかわらず、リーダーシップはビジネス
  界でも学術界でも注目を集め続けてきました。
  この一見矛盾する二つの事実を手がかりに、当日は、
  リーダーシップ開発に関する理論と実践の可能性
  を具体的に探求します。
 
 □お近くの方とディスカッション
 (8時10分 - 8時40分)
 (30分)
 
 □質疑
 (8時40分 - 8時55分まで)
 (15分)

 □ラップアップ
 (8時55分 - 9時00分まで)
 (5分)
  ・中原 淳(東京大学・准教授)
 
 
○場所
 東京大学 情報学環 福武ホール
 地下2F 福武ラーニングシアター
 http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/access.html

 地下鉄丸の内線本郷三丁目駅から徒歩8分程度
 地下鉄南北線東大前駅から徒歩10分程度
 
 (赤門の横です)
  
  
○参加費
 4000円(1名さま 一般・学生)
 (講師招聘費用、講師謝金、飲み物、食べ物、
  運営費等に支出いたします)
 
 
○食事
 ソフトドリンク、ビール、ワインなどの飲み物、
 および軽食をご準備いたします。
 
 
○参加条件

 下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
 申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
 いるとみなします。

1.本ワークショップの様子の写真、NPO Educe
Technologies、東京大学 中原研究室が関与する
Webサイト等の広報手段、講演資料、書籍等に用
いられる場合があります。

2. 欠席の際には、お手数でもその旨、
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
ご連絡下さい。
人数多数のため、多数の方の参加をお断りしている
状況です。繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。

3.本イベントで剰余金が発生した場合は、東京大学
中原研究室および、NPO法人 Educe Technologiesが
企画する、組織人材育成・組織学習に関係するシン
ポジウム、研究会、ワークショップ等の非営利イベ
ント等の準備費用・運営費用、および研究開発費用に
充当します。

 
○どうやって参加するのか?
 
 下記のフォームに必要事項をお書き入れの上、
 sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
 5月30日までにお申し込み下さい


〆ココカラ=======================================

 参加申し込みフォーム
 sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
 5月30日までにお申し込み下さい
 
 6月1日までに参加の可否をご連絡させていただきます

 開催日時は2009年6月19日(金曜日)です

 ---

 2009年6月19日開催のLearning barに上記の参加条件
を承諾し、参加を申し込みます。

氏名:(            )
フリガナ:(          )
所属:(            )
メールアドレス:(       )
業種:下記の11つの属性から、あなたに最も近いものを
ひとつお選びください

 1.研究者
 2.学生
 3.民間教育会社勤務
 4.民間コンサル会社勤務
 5.事業会社勤務(人事・教育部門)
 6.事業会社勤務(事業部門)
 7.個人事業主(教育・コンサル)
 8.経営者
 9.初等・中等教育の学校勤務
 10.公務員・公益法人等勤務
 11.その他

もしあれば・・・一言コメント
(                )

〆ココマデ=======================================

投稿者 jun : 2009年5月12日 06:40


シブヤ大学に行ってきた!

 先日、「シブヤ大学:Shibuya University Network」を、研究室の大学院生数名と訪問させていただいた。

シブヤ大学
http://www.shibuya-univ.net/

 シブヤ大学は、「シブヤの街全体」をキャンパスに見立てたネットワーク型の仮想大学である。シブヤ大学には、特定の校舎がない。専任の教授も、研究室も、教室もない。

 くどいようだが、「シブヤの街がキャンパス」である。時には表参道、時には道玄坂のカフェ、時にはデザイン事務所・・・渋谷のあちらこちらで「授業」が行われる。

 遊ぶのが一番楽しい街は
 学ぶのがいちばん楽しい街になれる

 というコンセプトから、その雰囲気を感じていただけると思う。

 大学の開講は、毎月第三土曜日である。
 定員20名-200名の講座が、毎月10講座くらい立ち上がり、毎月500名から1000名の人々がそこに参加する。
 2006年の開学から、これまでにのべ11万人の受講者が、シブヤ大学で学んだことになるという。

 ここで学ぶ人は、20代から30代の人が約70%。職業は会社員が6割。男女別では、女性が6割に達するそうだ。比較的若い層が学生であることがわかる。

 ▼

 ヒアリングでは、学長の左京さん、川村さんに貴重なお時間をいただいて、様々なお話を伺うことができた。お二人のお話は、どれも示唆に富むものであったが、特に興味深かったことが、個人的には3点あった。

 ひとつめ。
 シブヤ大学は、昨年、「シブヤ大学のつくり方学科」というコースを開講した。シブヤ大学と同じように、NPO法人を立ち上げ、地域の教育リソースをもとに仮想大学をつくるためには、ある程度のノウハウが必要である。僕自身も、かつて、NPO法人の立ち上げで役所に行ったことがあるので、そのプロセスは想像することができる。

「シブヤ大学のつくり方学科」は、シブヤ大学はどのようにつくればいいのか、そのノウハウを共有するコースである。

シブヤ大学のつくり方学科
http://www.shibuya-univ.net/department/depart03.php

 このコースの開発は、シブヤ大学の運営スタッフの方々が、これを機会に、それまで暗黙知化、身体知化していたものを、形式知としてマニュアルにするところからはじまった。
 教育内容には、NPOの申請方法、授業カリキュラムの構築法、ファンドレイジングの方法など、非常に具体的である。ちなみに、シブヤ大学のファンドレイジングの約7割は、企業とのコラボレーション企画だそうだ。

「シブヤ大学のつくり方学科」をきっかけに、京都に「京都カラスマ大学」が誕生した。今後は、札幌、広島、名古屋、などなどにゾクゾクとシブヤ大学の姉妹校が誕生する予定だという。

「ノウハウばかりでなく、シブヤ大学のスピリットみたいなものをどのように伝えるかが、非常に難しいと思います。マニュアルも必要なのですけれど、バイブルも必要なのかなと思います」

 という言葉が印象的だった。

 この言葉には、Learning barという「場」を主宰している僕も、共感するところが多い。

 蓋し、

「神は、ディテールに、全体に、かつ、目に見えないものに宿る」

 学びの場の効果的なデザインは、「えっ」というような細かい部分の工夫であり、かつ、そうしたディテールを積み重ねたトータルな環境デザインである。
 そして、それ以上に、目に見えない雰囲気、コンセプト、ノリ、スピリットと呼ばれるものに、それは宿る。

 こう書いちゃうと、おおよそ「教育工学の研究者らしくない発言だ」と怒られちゃうかもしれないが、「実際、そうなんだ」から、怒っても仕方がない。

 上記のうち、形式知化できるものを可能な限り形式化し、暗黙知として共有するべきものは、そのための機会をつくればよい。それが、僕の教育工学(Designing Learning Environment)である。

  ▼

 印象的だったことふたつめ。

「コンテンツを用意するわけではない。すでに、そこにあるものを、"授業"というラベルをもって、お届けしている」

「シブヤ大学は、地域のリソースを活用した生涯学習として見なされることもありますが、街作りのためのインフラストラクチャーとして機能することを最近はめざしています」

 という川村さん、左京さんの言葉が印象的だった。

 そうなのである。多くの街には、既に、未だ発見されていない学習リソースが「ある」のである。それは"人"かもしれないし、その土地の"風土"かもしれない。他の土地の人から見れば、「ほほー」と思ってしまうようなアトラクティブな何か、が、きっとあると信じたい。

 問題は、僕らは、それらを「見てはいるけれど、気づいていないこと」にある。

 だとするならば、「シブヤ大学を実践する」ということは、「既にそこにある」 - つまりは、埋もれている地域のリソースを「発見」し、人々が集まるリソースとして、時には「編集」し、デリバーすること。それに集まる人々の関係を編み直すこと、である。
 そして、そこで発見された地域のリソースを、街作りの基本資源として活用し、街全体のあり方を問い直すことである。

 僕の言葉を使うならば、「シブヤ大学を実践すること」こそが「学習」ということであり、シブヤ大学という事業を運営する人々が「学習者」と言うことになる。

「あれはシブヤだからできるんじゃないですか?」

 と人は言うかもしれない。
 
 まさにその通りである。シブヤ大学のあり方は、シブヤという街に存在するリソースとそこにある社会的関係と切り離して考えることはできない。

 しかし、シブヤ大学のスピリットを継承した試みは、他の地域でも可能ではないか、と思う。
 それぞれの地域ごとに「未だ発見されていないリソース」を「発見」し、「編集」し、人々の関係を編み直す。それを行うには、運営する側が、「学ぶこと」が必要なのではないか、と僕は思う。


 最後になりますが、貴重なお時間をいただいた左京さん、川村さんには、感謝いたします。ありがとうございました。

 ---
追伸.
 シブヤ大学に来ている人々がいったい、どのような社会的属性をもった人々で、何を為すために、ここに来ているのか。それは既存の教育施設に来ている人と、どのように違っているのか。
 そして、実際何を得ているのか・・・いくつものリサーチクエスチョンが浮かんだ。
 学びのサードプレイス研究として、挑戦してみると非常に面白い知見が得られるのではないか、と思った。

投稿者 jun : 2009年5月12日 05:30


「わたしの経験」を超えること

 哲学者・中島義道さんの「対話のない社会」を読みました。中島氏によると、「対話」の特徴とは、下記のようにまとめることができるのだそうです。

  ▼

1.あくまで1対1の関係であること

2.人間関係が対等であること
  =対話が言葉以外の事柄(身分)によって縛ら
  れないこと

3.相手に一定のレッテルをはる態度をやめること
  =相手をただの個人としてみること

4.相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉その
  ものを問題にすること

5.自分の人生の実感や体験を消去してではなく、
  むしろそれらを引きずってかたり、聞き、判断
  すること
  =対話とは自分の人生を背負って語ること

6.いかなる相手の質問も疑問も禁じないこと

7.いかなる相手の質問に質問に対しても「答え
  よう」とすること

  =わからなくてもいいから、わかろうとすること

8.相手との対立を見ないようにするあるいは避けよ
  うとする態度を捨て、むしろ相手対立を積極的に
  見つけようとすること

9.相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、
  相手との些細な違いを大切にし、それを発展させ
  ること

10.社会通念や常識に収まることをさけ、常に「
   新しい了解」に向かっていくこと

11.自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対し
   て、つねに開かれてあること

12.それぞれの対話は独立であり、以前の対話でこ
   んなことを言っていたから、私とは同じ意見の
   はずだ、あるいは違う意見のはずだ、というよ
   うな先入観を捨てること

(同著より引用、一部改)

  ▼

 個人的には「対話とは自分の人生を背負って語ること」というメッセージが非常に印象的でした。これに関しては、「ダイアローグ 対話する組織」でも下記のように書いています。

  ・
  ・
  ・

 一方、自分の意見を述べるときには、なるべく「私は~思う」「私は~したい」「私は~の経験をした」という一人称の語りを重視するとよいでしょう。

 私たちは、よく大きな問題を議論する段になると、多くの人主語を「私」から「我々は」「一般的には」「業界的には」などにすり替えがちです。つまり、「私は」という一人称のスタイルで語らなくなるのです。

「そもそもこの商品の存在意義は何だ?」と聞かれると、「世の中の流れとしてはこうだ」「過去の経緯を踏まえるとこうだ」「社の方針としてはこうだ」といった評論家的な議論になります。これは「対話」とはいえません。

「私」を前面に出した一人称的発話のやりとりの中で、今まで気づかなかった新たな意味が生み出され、物事の理解が深まったり、新たな視点が生まれたり、気づきが生まれたりする。このような状態を「対話」(ダイアローグ)と呼ぶのです。

 ▼

 しかし、ここには10との間に、パラドクスが存在します。

「自分の人生や経験を背負って語る」一方で、対話の果てには「客観的な真理」を見る。一見、相反・矛盾するような要素を同時に実現するコミュニケーションスタイルが、対話なのかもしれません。
 つまりは、「自分の経験」を超えて、「新しい了解(意味)」「変わること」に自分が開かれていなければ、対話は成立しないのですね。

 「わたしの経験」が教条(ドグマ)化することだけは避けたいものです。以前にも述べましたが、ドグマ化した揺らぎのない「わたしの経験」は、皮肉なことに、「わたし」を超えて、導管モデルとして「わたしたち」に「伝達」されてしまいます。 そこで「新しい了解」や「変化」が生まれる可能性は、極めて低いと言わざるを得ません。

 中島さんの指摘は、そのことを思い出させてくれる一冊でした。

投稿者 jun : 2009年5月11日 08:28


マネジャーとは、どういう人なのか!?

 新装丁・新タイトルで発売されているハーバードビジネススクールのジョン=コッターの「ビジネスリーダー論(The general Manager)」を読みかえしていたら、こんなことが脚注部分に書いてありました。

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「マネジメントに関しては無数の文献がある。しかし、そのほとんどは、組織における管理のプロセスや手法に関するものであり、マネジャーはどのような人々か、彼らは何をしているのか、あるいは、なぜ彼らは他の人々よりも有能で成功しているのかについての考察ではない。

たとえば、マネジメントの典型的な教科書には、業務意志決定システム、販売と生産管理、コミュニケーションと情報システムの項はあるが、マネジャーそのものや行動や職務についての項はない。

マネジャーに焦点をあわせた文献の多くも、ほとんどが規範的なものであり、つまり、それは一般化された経験やひとつの理論から演繹的に導き出されたもので、刺激的・示唆的ではあるものの、その価値は疑わしい」

(脚注2より引用)

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 要するに、マネジメントの「プロセス」に関する研究はあるけれど、「マネジャーその人」に焦点をあてた実証的な研究 - マネジャーとはどういう人で、どういう行動をしているかに関する研究 - は、圧倒的に不足しているということです。
 成功したマネジャー、成功した経営者が、「規範」や「一般化された経験」を「私語り(わたしがたり)」する書籍はあっても、実証的な研究はあまりない、ということを、コッターさんは指摘しています。

  ▼

 僕は経営学者ではありませんので、それほど詳しいわけではありませんが(勉強不足ですみません)、マネジャーの実証的な研究ということになると、CEOの行動に焦点化したヘンリーミンツバーグの「マネジャーの仕事」、そして、事業統括管理者に注目したジョン=コッターの「The general Manager」、そして課長レベルの管理職に注目したローズマリー=スチュアートの「Managers and thier jobs」などがあるように思います。このことに関しては、本書の後書きに、金井壽宏先生がご紹介なさっています。

    

 しかし、問題は、これらの研究がすべて1960年代後半から1970年代にかけて生み出されたということであり、その時代の「マネジャーの行動」を扱っているということではないか、と思います。

 もちろん、それらの研究が「古典」であるからといって、いささかもその価値が失われるわけではありません。
 しかし、今の時代とその時代では、マネジャーのとる行動に、もしかしたら「差異」があるところも予想されます。
 今後、「今を生きるマネジャー」を対象にした実証研究が増えることが、個人的には、この領域の「課題」であると思いました。

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 ところで、企業人材育成の研究をはじめて以来、僕には、ずっと、わからないことがありました。
 それは、「マネジャーを育成したい」「マネジャーを養成したい」という社会的ニーズは高いものの、「どういう行動特性を要した人材を養成したいのか」のか、さっぱりわからなかったことです。
 それなのに、「マネジャー研修」とよばれるものは、世の中にたくさん存在しています。そういう状況が不思議でなりませんでした。

 言葉を換えましょう。

「あなたは、どういう人材のことを 
      マネジャーと呼んでいますか?」

 この問いに対して「課長のこと」とか「部長のこと」と答えをだすのは、トートロジーであり、答えになっていません。
 どういう行動をとり、どういう思考をもつ人のことを、「マネジャー」とよび、「育成したい」と願うのか。この問いに対する答えが、いつもぼんやりとしているのが気になっていました。

 もちろん、先進的な企業のいくつかは、自社のマネジャー像を実証的な調査に基づいて定義するところから、マネジャー研修を組み立てています。
 僕が訪問したいくつかの企業の人事部では、「これはプロの仕事だな」と思わせるような調査結果をお持ちのところもありました。

 しかし、そういう企業は、そう多いわけではありません。

  ▼

 教育の世界の常識で言えば、まず、教育内容の精選、および配列化を行う「前」に行われるべきことは、「どういう人材を育成したいのか」を問い続けることです。しかし、マネジャーに関しては、それがなかなか見えないように思います。

 しかし、朧気ながらですが、だんだんと事態が飲み込めてきたようにも思います。今回コッター読んで、その後、ミンツバーグを斜め読みしましたが、結局、まだまだ「わからないこと」が多かったのですね。
 そして、高度情報化社会、グローバル社会とよばれる「今を生きるマネジャー」が何をしているのか、何を考えているのか」に関する議論は、これからなのかもしれませんね。

  ▼

 あなたの会社にとって、

 マネジャーとは、どういう人のことをさしますか?

  そして

 マネジャーはどういう行動をしていますか?

 意外に、こういう「原初的な問い」から物事を考えてみると、思わぬ発見があるかもしれませんね。

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「伝えた」はずなのに、伝わっていない。
「伝えた」はずなのに、相手の行動は変わらない。
「伝えた」はずなのに、組織も変わらない。

中原淳・長岡健著「ダイアローグ 対話する組織」発売中!

様々なブログに、読後の感想が掲載されています! ありがとうございます!

投稿者 jun : 2009年5月 8日 07:12


プラレール博に行ってきた!

 起きるよー、パパ、起きるよー。

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 今朝もまた、TAKUZOに叩き起こされました・・・。
 早朝、午前5時30分に(泣)。

 一般に「子どもは朝が早い」といいますが、それにしても、5時30分とは、早すぎやしねーか、TAKUZO。思わず「オマエはジジイか」とつっこみを入れたくなります。

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 今日は「池袋」で開催されている「プラレール博」にTAKUZOを連れて行きました。
 プラレール博は、「プラレール」という名前の「おもちゃの電車」のイベントです。開催されると、1日に1万人の子ども・親子が押し寄せるという、とんでもないイベントです。

 今日は連休最終日。
「高速混んでるかもな」と思い、かなり前に家を出たのですが、まったくの取り越し苦労です。スイスイと首都高をぶっ飛ばして、あっという間に池袋につきました。

 プラレール博は10時から開場です。で、到着したのは8時30分(泣)。早すぎやしねーか、TAKUZO。

 でも、実は、これでいいのです。実は、このイベント、9時30分には開場することはわかっていました。去年でかけた様々な先達のブログ情報を総合すると、そういうことのようでした。

 先達のブログを読んでいて、もうひとつわかったことがあります。このイベントの「勝負」は、9時30分から、混雑を極め始める10時30分までなのです。
 この間に、いかに並ばず、アトラクションを愉しむかがポイントなのです。「戦略」が必要なのです。
 たかがプラレール、されどプラレール。

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 この日は、うちの家族が1番でした。早速入り口の真ん前に陣取ります。なんか恥ずかしいけど、ちょっと誇らしい(笑)。前の方に見えるでしょ、僕とTAKUZOが。

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 開場はやはり予測通り、9時30分。
 もちろん、去年出掛けた方のブログを読解・分析していたので、既に「アトラクションを回る順番」は決めてあります。アトラクションには、混むものと、そうでもないものがあるのですね。

 まずは、写真館に行って、その後、新幹線やトーマスの乗り物に乗ります。最後は、巨大ジオラマへ。
 Sweet peopleは、入り口付近にある「巨大ジオラマ」で足を止められてしまうはずです(笑)。ここは、見ているだけで圧巻だからね。東京タワーやら、金閣やら、日本の全国のジオラマがあります。しかし、How sweet、それではいけません(笑)。

prarail3.jpg

 巨大ジオラマにいくと、何人もの子どもが「へばりついて」いるのが見えました。TAKUZOも、何十分もそこで過ごしました。TAKUZOがどこにいるかわかりますか?

prarail5.jpg

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 10時30分には混んできました。我が家は11時には「撤収」しました。突然あらわれ、突然消える。我が家は、秘密部隊「SAT」のようなイベント攻略をめざしています。

 本当のことをいうと、最初は1万人が訪れるとカミサンから聞いて、「ホンマにいくんかいな」と思っていました。でも、結局、とても愉しいイベントでした。

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 嗚呼、明日からいよいよ「仕事」です。
 そして、僕は既に「憂鬱」です(笑)。

 何だかあっという間のゴールデンウィークでした。有馬での合宿から、軽井沢に出掛け、そして、プラレール。盛りだくさんの一週間だった気がします。

karuizawa2.jpg

 そして人生も続く。

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追伸.
 おまけ(笑)。
 軽井沢のトリックアートのミュージアムで撮影しました。
 携帯電話の待ち受け画面にでも、ご利用ください。

karuizawa4.jpg

投稿者 jun : 2009年5月 7日 07:56


中高年男性は対話下手!?:北川達夫×平田オリザ「ニッポンには対話がない」

 北川達夫×平田オリザ「ニッポンには対話がない」を読んだ。「学びとコミュニケーションの再生」という副題が、興味をそそった。

 特に「中高年の男性が対話ができない」「経験の絶対化は危ない」という指摘が印象的だった。

 長くなるが、下記に北川さんと平田さんの対談部分を記す。

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 相手が自分より立場が弱かったり、経験が少なかったりするような場合に、その宛の意見を押さえつけるような発言をしたり、意見をまったく聞かなかったりという、コミュニケーション能力の乏しさでいえば、日本では、いまの子どもよりも、中高年の男性たちに問題があると思いますね。

 彼らは、人の意見によって、他者と出会って、自分が変わると言うことを全く想定していませんから。

 今、大阪大学では鷲田さんを先頭に「哲学カフェ」というオープンな話し合いの場を企画してやっているんですが、そこでの40歳以上の男性、50代、60代と、そういう男性の態度がひどいんですね。

(中略)

 本当にダメなのが、中高年の男性たちです。これが一番対話下手。今流行している言葉でいうと、「上から目線」で「そんなことはないだろう」とか、「君は若いからわからないかもしれないが」と言ってしまう。若い人たちの意見を押さえつけるためだけの発言をするんです。

(中略)

 ちょっと単純化しすぎかもしれないですけど、そういう部分って、非常に大きいんですね。今の中高年の方というのも、その知識とか、経験の優位の中で意見が言えるんだって思ってしまっている。どうしても、自分の知識と経験というのは、絶対化しやすいので、「自分はこれだけの経験をしてきているんだから、その経験をしてきていないおまえにはわからん」という態度になってしまって。

 特に経験というのはやっかいですね。その人にとっては、まちがいなく事実であり、絶対的な真実と思いこみやすいですから。でも、自分の経験だけを意見の根拠にするのは危ないのです。

 その経験がすべてにあてはまるはずはないし、他人には、その人の経験を評価しようもない。だから「自分の経験では・・・」と得々と語る人はいますけれど、そういう人とでは議論が成り立たないのです。

(中略)

 経験も知識もない人間は社会でものを言ってはいけないという雰囲気になってしまう。

(同書 p59-60より引用)

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 中高年の男性の「対話下手」が一般化できるかどうかはさておき、僕が思ったことは下記の4点。

1.「経験がある人」から「経験のない人」へ経験が伝達されるのなら、そうしたコミュニケーションは「導管モデル」に基づくものであり、「対話的」ではない。

2.経験のリフレクションは他者との対話に開かれるべきである。つまりは協調学習として成立しなければ、経験の絶対化と過剰一般化が起こりやすい。(経験学習は協調学習的でなければならない)

3.経験から導き出された「Folk Theory(持論)」は決して固定的なものになってはいけない。それは常に他者と環境に開かれ、「ゆらぎ」を経験しなければならない。つまり「持論はいつまでたっても未完であるべき」

4.ゆえに「持論」は「棄論(Unlearn)」といつもセットであるべき。持論と棄論の「果てないあやとり」こそが、大人にとって、最も重要なことではないだろうか。

 詳細は、秋出版予定の著書「リフレクティブマネジャー」で述べます。
 明日からお休みにはいります。
 皆様、よい休日を!

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「伝えた」はずなのに、伝わっていない。
「伝えた」はずなのに、相手の行動は変わらない。
「伝えた」はずなのに、組織も変わらない。

中原淳・長岡健著「ダイアローグ 対話する組織」発売中!

様々なブログに、読後の感想が掲載されています! ありがとうございます!

投稿者 jun : 2009年5月 1日 21:43