実務家が必要としている「理論」とは何か?: 「実践」と「理論」のあいだの「死の谷」を超えて!?

 今日は金曜日。

「組織変革についての学習」の僕の「旅」も、今日でおしまい。「終着駅」が近づいてきました。
 本日夕方には、一週間「缶詰」(ほんとに缶詰・・・1歩も外にでていません)になっていた宿舎をあとにして、シャバ!?に出ます。久しぶりに家族とあうのがとても楽しみです。TAKUZO、KENZO、ママ、元気だったかい?

 まずは、この場を借りて、ここで出会った参加者の皆様、そして5日間、僕を導いてくださったディード博士、そして中村和彦先生ほかスタッフの皆様、そして時間をつくってくれたカミサンに、心より感謝いたします。ありがとうございました。充実した一週間でございました。

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 ▼

 5日間の濃密すぎる合宿を終えるにあたり、セッション4日目あたりから、このセッション全体をふりかえり、僕は、ある一つのことを、夜な夜な考えていました。

 それは、組織変革に関する実践家と、自らの研究を実践に役立てたいと願っている研究者が集まった、この5日間のカンファレンスにおいて、講師の先生から伝達されていた「知識」や「概念」とは結局、「何」であったのか、についてです。

 ワンセンテンスでのべるならば、

 このセッションでは
 「何が教えられており」、
 「何が教えられていないか」
 について考えていました。

 これは、換言するならば、

 理論は実践にいかに役立てられるのか?
 実務と理論をつなぐものとは何か?
 そして、実務家にとって役に立つものとは何か?
 
 について考えていたことになります。

 僕は、ふだん、実務家の方々や大学院生に対して授業をしています。また「実践に自分の研究が役立てられること」を願う研究者の末席を汚すものでもあります。

 そのような小生ですので、やはりどんな内容や情報をインプットしても、

「自分だったら、この内容をどのように教えるだろう?」
「自分だったら、この内容を、どのように実務家に伝えるだろう?」

 という「目線ぬき」で、物事を考えることができません。
 自分だったら、このようなセッションで実務家に何を伝えるだろうか? 
 今回のセッションをふりかえりながら、そんなことを考えていました。

  ▼

 というわけで、いつもの「こ汚い絵?」ですが、僕が考えていた内容は、下記の図に記すとおりです。また例のごとく、こみいった絵で申し訳ありません。
 たぶん、これを見ても、さっぱり何のことだかわかんないと思うけど、下記に少しだけ論じてみましょう。

jissen_oshierareteirumono.png

 端的に述べるならば、

 このセッションで講師のディード先生から語れていたことの多くは、「キンキンにとがった理論」でもなく、「ベタベタドロドロの実務の経験」でも「なかった」ということです。

 つまり、図の上部にある「Science world:理論世界の抽象的な知識」でもなければ、「Real world:業務経験世界の現象どっぷりの知識」でも「ない」ものがこの授業では語られていました。少なくとも僕にはそう思えます。

 それでは語られていたのは何か、と申しますと、ちょうど「理論」と「経験」の中間にある「中程度の抽象性をもったもの」、そう「理論にインスパイアされた眼鏡(概念)」なのです。ポイントは「理論そのまま」ではなく「理論にインスパイアされた」というところです。実務家の方々によっては、それが「理論」に見えるかもしれません。しかし、アカデミアの目からみると、それは「理論そのもの」ではありません。だからといって、その価値が何ら毀損されることはありません。むしろ事態は逆なのです。

「理論にインスパイアされた眼鏡」は、実務家の方々が、おかけになると、Real Worldにある現象A、現象Bが、さらによく見えるのです。こうしたものを先生はお伝えになっておられたように、ぼくには思えました。

  ▼

 これは「実践か理論か?」「リゴラスな研究か、レリバントな実践か?」という、古くさすぎて、個人的には思わず、「プッ」と屁がもれてしまいそうな二分法的観点から物事を考えると、相当に面白いことです。

 先ほどの図にしめしましたとおり、一般にサイエンスとは、「具体の世界(Real world)」の「現象」をいくつも観察・分析したうえで、それらを抽象化して「理論」を生成します。

 おおよそ、「人にまうわる理論」というものは、「Real worldの人間の行動や振る舞、その原因と結末」のすべてを、網羅的かつ完全に説明しうることは、まずありません。それは、それらを「パーフェクト」に説明しうることはないにせよ、「一定の説明率」をもちつつ、現象を説明する、いわば「判断のリソース」のようなものです。

 そして、伝統的に「理論優勢の考え方」では、この抽象世界で用いられた「理論」を頭に叩き込むことが「実務家教育」だと考えられます。これは1960年代ー70年代に流行したような非常に古典的な考え方です。

 ワンセンテンスでいいますと、

 理論を頭に叩き込め
 そうすれば実務で役立つはずだから

 と考えるということです。

 それに対して、もう一方の「強固な考え方」が「実務家教育」には存在します。それは「実務優勢の考え方」で、先ほどの理論優勢の考え方とは逆です。最近は、この考え方の方が優勢なのかもしれません。
 この考え方は、理論化や抽象化を極端に嫌います。現象にどっぷりとつかり、その現象の中から内省をしつつ、学ぶことをよしとします。

 ワンセンテンスでいいますと、

 理論なんて役にたたねー
 経験を内省して現場で学べ
 そうすれば、実務で役立つから

 ということになります。

 ここで、賢明なわたしたちは、ここで前者の理論ドリブンの考え方が、「理論」に信頼を置きすぎていること。そして、後者の現場主義の考え方が、「現場の経験」に偏りすぎていることに気づかされます。それは、実務と理論のあいだに存在する、いわば「死の谷」のようなものです。
 これ、何とかならないの?

 僕の考えていることを、正しくいいましょう。
 たしかに、僕は、後者の「現場の経験」が大切なこと、パワフルなことは、そのとおりだと思うのです。さすがに「理論を叩き込めば実務で必ず役立つ」と信じられるほど、僕はナイーブではありません。それを信じるには、年齢と経験を重ねすぎました。

 そうではなく、現場の経験が役立つことは信じつつも、一方で、そこに理論世界の介入する余地はないものかと考えたくなるのです。この世でもっとも大切なことは、「OR」の思考に陥る前に「AND」を考えることです。にっちもさっちもいかないものを目にしたときは、2つを結びつけることを考えたいと僕は思います。
 実際、この問題は「実務と相対する高等教育機関」の存在意義の問題に直結していきます。だって、すべてが実務と現場で学ばれるのなら、教育機関の役割って何ですか?ということになるからです。

 理論は、いかにあるべきか?
 実務家には、何を伝えればよいのか。
 いったい、何が実務と理論をつなぐのか?

 今回のセッションでは、この問いに対する大きな気づきを、個人的にはいただいた気がします。

 それは抽象度としては中くらいのもの。理論に「忠実に基づいている」わけではないが、「丸ごとそのまま」ではない。
 むしろ、「理論にインスパイアされたくらいの抽象度をもった概念」が必要なのだ。
 それは、実務家が物事を見たり、経験から学び、内省するときに、「眼鏡」のような役割を果たすだろう。こうした「眼鏡」こそが圧倒的に不足しているのかもしれない、と僕は思いました。

 もちろん、「理論」も「経験」も、これまでどおり、学習にとって「大切なこと」は言うまでもありません。
 それも確かに必要なのですけれども、中空に浮いているのは、その中間にある眼鏡のような概念なのかな、と。考えてみれば、昨年11月のワークショップでユトレヒト大学のコルトハーヘン先生が伝えていたのも、そのようなものであったような気もいたします。考えてみれば、それは厳密な意味で「理論」ではありません。また、どっぷりそのままの経験でもありません。理論やデータに裏打ちされ、そこからインスパイアされた「眼鏡」なのです。

コルトハーヘン先生による「リフレクション学」スペシャルワークショップが終わった!:リフレクションという名の「詰問」「教え込み」「だらだらトーク」を超えて!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2296.html

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 今日は、セッションを振り返りながら、「サイエンスと実務」「経験と理論」の関係について考えました。このセッションを受講なさっていない皆様には、はてなんのことやら、とお思いでしょうが、それはどうかご寛恕ください。

 これで学習週間はおしまいです。
 来週から通常週間に戻ります。

 そして人生は続く

追伸.
 ディード先生によりますと、今、米国には組織開発を学ぶことのできる大学院は13個あるといいます。そのなかには、コーホートシステムという教育制度をとっているところがあるのだといいます。
 実務家を15名くらいの集団にしながら、その集団を組織開発の手法を用いながら形成しつつ、そこから学ぶのだそうです。これまた面白い教育システムですね。

投稿者 jun : 2015年2月26日 16:50


グローバル社会とは「説明社会」である!? : なぜ「大浴場」にバスタオルが浮かんでいるのか!?

 この数日、ホテル滞在をしています。そこで痛切に今までい以上に感じたことを1つだけ紹介します。それは、グローバル化社会とは何か、ということです。

 私見にて端的に述べるならば、

 グローバル社会とは「説明社会」です。

 それは「わたしたちにとっての常識」を「前提」とせず、ひとつひとつ、常識を共有しない異なる人々に、説明をしなければならない社会

 ということになります。

 別の言葉で申し上げますと、

 わたしたちは「あうんの呼吸で感じあうこと」「背中で語ること」「空気を読んで行動すること」から脱しなければならない

 ということです。そのことを、宿泊しているホテルの大浴場の湯船に散乱している「大きなバスタオル」を見ながら、痛切に感じました。

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 読者のみなさんの中には、大浴場の湯船に、なぜ「大きなバスタオル」が散乱しているか、不思議に思う方がいらっしゃるかもしれません。

 一般に「大きなバスタオル」は風呂からあがったあとで用いるものであり、しかも、湯船には普通つけません。しかし、それが「わたしたち」のもっている「常識」です。

 いま、僕の滞在しているホテルには、今、たくさんの外国人の方が宿泊しておられます。彼らには、そもそも、その「常識」は持ち合わせていません。

 ですので、部屋から2つのタオルを大浴場に持ち込み、小さなタオルと大きなタオルのうち、どちらをどのように使って良いか、わからないのです。
 結果が、大きなバスタオルを大浴場に持ち込み、湯船につけ、そのまま帰ってしまうことになります。
 誤解をさけるために申し上げますが、ここで、僕は外国人の方々のふるまいを責める気にはなれません。そりゃ、驚きはします。だけど、この状況ならしょうがないだろうな、と思います。

 もちろん、風呂場には、風呂場でやってはいけないことの、たくさんの掲示物や禁止事項が、たくさんの言語で書いてありました。でも、みなさんは、海外にいったとき、同様の掲示物が風呂場やプールにあったとして、そうした掲示物をご覧になるでしょうか。少なくとも僕は、たぶん、見ません。
 日本人はお客さんのうち2割くらいはいらっしゃいますので、その2割の日本人をみて観察学習することも不可能ではありません。ですが、観察といっても、裸の他人をジイッと中止することもなかなか難しく(笑)、観察学習から学べることには限界もあります。
 
 要するに「理解すること」、そのために「説明してもらうこと」が必要なのです。
 このホテルでは、ここを泊まる外国人の方々に「説明」していないのです。2種類のタオルが存在していること。それぞれがどのような目的で存在しているかについても説明していません。だから、そうした出来事がおこります。

 実際、同行しているアメリカ人の先生も、風呂場で僕に質問を投げかけてきました。

「じゅん、なぜ、タオルが2個あるんだ? 風呂には、どっちのタオルをもっていけばいい? 小さいのか? わかった、わかった。で、小さいタオルでは何をすればいい? 隠すだって、何を隠すんだ?(笑) 洗うときにも使える? そうか」

 隠す?(笑)

 誤解を恐れずに申し上げますと、わたしたちが生きる、これからの社会は、「あうんの呼吸」「背中で語る」「空気を読む」を「期待」していられる社会ではないように思います。

 つまり、わたしたちの常識を、ひとつひとつ、相手にわかりやすいようにかみ砕いて説明しなければならないのです。
 だから「説明社会」です。

  ▼

 今日は「大浴場」に「大きなバスタオル」が浮かんでいるという、わたしたちにとっての非常識から、グローバル社会とは何かを考えてみました。

 わたしたちにとっての「非常識」を、それを共有しない人々の個人的資質に原因帰属してしまえば、そこで「思考停止」です。僕はそれを知性的な態度とは思えません。

 おそらく必要なことは、いかにわたしたちの環境を変えていけるのか、ということのように思います。
 オリンピックに向けて、こうした出来事はさらに増えることが予想されます。わたしたちは、いかに説明をつくすことができるでしょうか。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年2月26日 08:10


「組織を変える」とは「ねちょねちょ小宇宙」の中でもがき続けること!?:「流れる水」と「燃え続ける火」を見つめながら!?

 専門家や学者を「簡単にやりこめる方法」というものを、皆さんはご存じでしょうか?

 別の言葉でいえば、

 その人が、「ある特定の領域」の専門家や学者であるかどうかを「簡単に見抜く方法」をご存じでしょうか?

 といってもよろしいかと思います。

 さて、何でしょうか?

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   ・
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   ・
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   ・
   ・

 それは「ある特定の領域」でもっとも重要だと思われる「概念」を素朴に問うことです。

 組織の専門家や学者を「困らせたい」あるいは「見抜きたい」と願うのであれば、こう問うてください

 「あのー、そもそも組織って何ですか?」

 あるいは、学習の専門家や学者を「やりこめたい」と願うのであれば、こう問うてください。

 「あのー、あなたのいう、そもそも学習ってなんですか?」

 そうすれば、その人が「真摯」な専門家や学者であれば、

 「うーん・・・いや、それは」

 と考え込むはずです。
 なぜなら、ある特定領域の、しかも、もっとも「中心的な概念」というのは、その定義からして論争があり、簡単に答えを出すことができないからです。真摯な人であれば、ここで、何と答えてよいのか、少しは悩むはずです。逆に、何の疑問も持たない人は、「どこかの誰かがつくった定義」で、唯一自分の知っている定義を述べるはずです。
 
「専門をもつ」ということは、そういうことです。
「専門をもつ」ということは、「わかること」が増えることであり、簡単に「答えられないこと」が増えることでもあります。

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 2日前から述べておりますように、今週の僕は「学習週間」のまっただ中におります。学んでいることは「組織変革」なのですが、結局、突き詰めて考えますと、

「組織とはどのように変わるのか?」

 という問いは、

「そもそも、組織をどのように見なすのか?」

 という、さらに深い問いと密接につながっていきます。結局、問われているのは、

「あなたは、そもそも、組織をどのように見たて、どのようなものとして見なすのですか?」

 ということです。
 昨日、学び、そして議論していたのは、2つの組織の伝統的な見方についてでした。下記にメモを示しますが、たぶん、これだけ見てもわかんないと思います(笑)。が、勇気をだして?、少しだけ下記に論じてみましょう。

soshikitoha_nanika2.png


 左の見方は「組織を1対1の因果関係が集まる束」のように見立てるモデルです。こちらを敢えて「シンプル1対1モデル」とよびましょう。

 この場合の組織観にたてば、「組織が変わる」ということは、ある介入を行う前と後で、組織の状態を「スナップショット的」に切り取り、「プレのスナップショット」をもって「診断」をしたうえで、「介入」を行い、「ポストのスナップショット」をもって評価することができます。
 介入者は、組織の「外」から客観的にそれらに取り組みます。簡単に申しますと、介入者は「ぬりかべ」のようなものに喩えられるかもしれません。
 これが伝統的で、しかもメインストリームの組織開発手法が前提にする組織観です。

 しかし、一方で別の組織観があります。
 それが「右の図」です。
 それは主に3つの意味で伝統的な組織観とは異なります。

 まず、第一のポイントは、組織を「組織を1対1の因果関係が集まる束」といったような安定的なものとみなさず、

「複雑な要素がねちょねちょに絡み合っていて、ときどき、外部から視認できるパターンを示すような、小宇宙みたいなもの」

 とみまします。「シンプル1対1モデル」ではなく、名づけて「ねちょねちょ小宇宙モデル」です。「ねちょねちょ小宇宙」の中には、時折、

 「あれっ、これ、見たことあるわいな!」

 というような「組織の病理」や「組織の癖」が「パターン」として現れる(Emergent)する場合があります。しかし、それは現れては消え、消えては現れていきます。

 第二のポイントは、先ほどが組織を切り取るときに、スライスの数が2つと少なかったのに対して、こちらでは、それが多くなります。

 プレ・ポストの単純な比較ではなく、そのつどそのつど「組織のなかのねちょねちょが、ねちょねちょ?していくプロセス」を、より多い捉えようとします。

 野中郁次郎先生の言葉に、

 「川」を見るな、「流れる水」として見ろ!
 「太陽」を見るな、「燃え続ける火」を見ろ!

 という言葉がございますが、まさに、ここで述べられていることは、そういうことです。

 第三のポイントは、それは組織に対して介入をする主体の位置です。前者のモデルの場合は、組織の「外」に客観的に存在し、観察する位置を保つことができましたが、後者のモデルにおいては、その位置は「内部」に存在しています。要するに、介入者は「組織のねちょねちょ」の中で、「流れる水」「燃え続ける火」をまさにとらえながら、

 1.今、組織はどのような状態にあるのか?
 (What?:組織の描写)

 2.それはどういう意味をもっているのか?
 (So what?:組織の中で起こっていることの意味づけ)

 3.これから何をなすのか?
 (Now what?:今後のアクション)

 を、そのつど、そのつど状況において判断しながら、決めてアクションをとり続けなければならないということになります。これが、複雑性を前提にした組織開発のあり方です。

 これは簡単にサラリと述べますが、「恐ろしいほど」シンドイことでもあります。
 第一にわたしたちは、このような因果関係に歓迎されない複雑さを可視化する概念的道具や方法論を持ち合わせていません。また第二に、自分も、また複雑の系の中の主体のひとつとして「巻き込まれて」います。
 後者の組織観は「述べること」は簡単ですが、「それを表明し、実践すること」は腹をくくる必要があります。

 ▼

 以上、やや戯画的に極端に「2つの組織観」を描き出しながら、ここまで学んだことをざっと論じてきました。
 
 結局、問われているのは

「組織に対して、どんな手法や打ち手をつかって介入するか?」

 ということよりも、

「そもそも組織を何とみなすのか? そして、組織にかかわるあなたは、どんな存在なのか?」

 ということが問われているとおわかり頂けるかと思います。

 僕の学習週間は、まだ、しつこく続きます。
 また、ひまを見つけて、「学びのお裾分け」をさせていただきます。

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 人材開発の「最先端」と「最新の知識」を、半期13回の講義で学びきる。今年も、僕の主宰するコース「ラーニングイノベーション論」が慶應丸の内シティキャンパスで開催されます。もしご興味があうようでしたら、参加をご検討いただければ幸いです。

ラーニングイノベーション論 2015
http://www.keiomcc.com/program/lin/

ラーニングイノベーション論 2015
(ご登壇いただく講師の先生方:心より感謝いたします)
松尾 睦先生(北海道大学大学院)
難波克己先生(玉川大学)
木村滋樹先生(ヤマト運輸株式会社)
守島基博先生(一橋大学)
服部泰宏先生(横浜国立大学)
金井壽宏先生(神戸大学)
島村公俊先生(ソフトバンクモバイル株式会社)
髙木晴夫先生(法政大学)
高尾隆先生(東京学芸大学)
中村和彦先生(南山大学)
吉田毅先生(ヤフー株式会社)
曽山哲人先生(株式会社サイバーエージェント)
中原 淳(東京大学)
 

投稿者 jun : 2015年2月25日 08:06


あなたの会社・組織には「改革ゾンビ」が、さまよっていませんか?

 今日も、会社の廊下には、夜な夜な、今にもクタばりそうな「改革ゾンビ」が足をひきずりながらうろついき、あてもなく彷徨っている。あなたの会社には、そんな「改革ゾンビ」が、彷徨っていませんか?

kaikaku_zonbie.png

   ・
   ・
   ・

 昨日申し上げましたとおり、今週の僕は「学習習慣」です。某所にて開催されている、海外から講師の先生を招いて開かれている「組織変革に関するワークショップ」に参加させて頂いております。

 会はまだ進行中であり、関係者・参加者の方々に、ご迷惑がかかってしまうといけないので、この場で詳細を申し上げることは差し控えます。
 が、会を主催してくださっている先生、そして事務局の方々には、この場を借りて、心より感謝いたします。ありがとうございました。

  ▼

 先にも述べましたとおり、この会において、みなが学ぶべきテーマは「組織変革」です。
 組織変革と言われると、なんか大それた気もしますが、そんなときは、デカルトよろしく「困難は分割」してみるとよいのではないかと思います。

 様々な議論があることは承知していますが、ざっくり言うと「組織」は結局「ヒト」から構成されておりますので、「組織が変わる」のは「ヒトが変わること」でもあります。
 なんてことはない、「組織が変わる」といっても、結局は「人がかわること」です。

 僕の専門とする人材開発(人的資源開発)が、「組織変革」を射程にいれはじめ、定義をすこしずつ変更していったのは1980年代くらいからだと自認しています。
 人材開発は、もともと「個人を対象にした試み(個人レベルの試み)」でしたが、その頃から急速に「組織レベルの取り組み」をふくむものに発展していきました。
(これは、近刊の日本労働研究雑誌に小論を執筆しておりますので、もし興味がおありでしたら、そちらをご覧頂きたく思います)

 ▼

 さて、ワークショップ初日の昨日は「組織変革をなすばあい、そもそも組織をどう見立てるか?」ということについて、朝から晩まで学びました。
 今回は、小生、英語で聴くことに集中していたため、夕方くらいには集中力を失い、「意識もうろう子ちゃん」でしたが、まぁ8割くらいは、何とか理解することができました。

 昨日のセッションで、その際でてきたのが、先ほど冒頭の「改革ゾンビ」という表現です。
 なかなか面白く、言い得て妙だな、と思って、ついつい講師の方に、あとでお話を伺いにいってしまいました。

 講師の方曰く、

 一般に、大きな組織には、いわば「ゾンビ」のように生きながらえている「組織改革の試み」がたくさんあるといいます。

 それは、ある時期に、エライ人の「ジャストアイデア」や「思いつき」によって生み出され(Someone hit upon idea!)ました。ゾンビには「生みの親」がございます(笑)。

 しかし、それは不幸なことに、権力者が失脚・交代したか、あるいは、なんらかの理由で、「全く陽の目」を見ませんでした(Essentially, dead)。
 しかし、改革というのは、いったん「大ナタ」を振り上げてしまうと、それを「どっこいしょ」と降ろすのは用意ではありません。

 たいていの場合、

「あのー、まったく申し訳ない、まことに勝手なことだとは承知しておるのですが、今回は、なにとぞ、生まれなかったことにしていただけないでしょうか?」

 と、ゾンビさまに「菓子折り」をおもちして、お願いしにいくことはできないのです、いったん生まれてしまったら(笑)。
 だって、ゾンビの生みの親の「いいだしっぺ」が「権力」をもっていることが多く、大義名分があって生まれてきている。さらに都合がわるいことに、「改革は奏功するまでに時間がかかること」のが常なので、明示的に「とどめ」をさすことはできない(泣)。

 よって、そうした「改革」は、実質は「死んでいる(dead)」のだけれども、いまだに形式上「生き残っており(Living)」、目標をすでに失い、夜な夜な当てもなく彷徨っている(Go nowhere)ことが多いのだといいます。
 これが「改革ゾンビ」!(笑)
 
 この表現を聞いたとき、「うまく喩えるな」と感心してしまいました。
 同時に、この国には、夜な夜な当てもなく彷徨う「改革ゾンビ」がたくさん生息しているな、とも思いました。 改革ゾンビって、こんな感じ?

 みなさんの会社には「改革ゾンビ」が、さまよっていませんか?
 改革ゾンビを見たことのあるひと、手をあげて!(笑)
 あくまで一般論としていいますが、大学には・・・結構、彷徨っているかも。。。(泣)

 ▼

 問題は、せっかく起こす改革を「改革ゾンビ」にせずに、実質的にも「Work(機能)させる」にはどうするか? ということです。
 
 多忙な日々を暮らすわたしたちは、その先の「こたえ」を思わず知りたくなるのですが、まだ初日なので、そこまでは至っておりません(笑)。これから数日間は、おそらく、このことを学ぶのだと思います。楽しみです。

 嗚呼、できるならば「改革ゾンビ」をこれ以上、生み出したくはないものです。ゾンビとして生きながらえるのではなく、自分の人生を全うして、生ききってほしい(笑)。問題は、そのために何ができるか、ですね。

 あなたの会社には「改革ゾンビ」が、夜な夜な、あてもなく彷徨っていませんか?
 
 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 人材開発の「最先端」と「最新の知識」を、半期13回の講義で学びきる。今年も、僕の主宰するコース「ラーニングイノベーション論」が慶應丸の内シティキャンパスで開催されます。

ラーニングイノベーション論 2015(慶應丸の内シティキャンパス)
http://www.keiomcc.com/program/lin/

 ラーニングイノベーション論は、過去6年続いてきた講座で、この13回で、人材開発の基礎基本をすべて学ぶことができます。いまや卒業生は200名以上。人によっては、九州や北陸・名古屋からも受講をしてくださってる方もいらっしゃいます。

 今年の「ラーニングイノベーション論」は、今年も内容を大幅に刷新し、5月からはじまることになりました。
 もしご興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、どうか受講をご検討いただけますようよろしくお願いいたします。募集はまだはじまったばかりなので残席がございますが、どうかお早めにご検討をお願いいたします。まずは話から聞いてみよう、ということでももちろん大丈夫です。どうぞよろしく御願いいたします。

ラーニングイノベーション論 2015
(ご登壇いただく講師の先生方:心より感謝いたします)
松尾 睦先生(北海道大学大学院)
難波克己先生(玉川大学)
木村滋樹先生(ヤマト運輸株式会社)
守島基博先生(一橋大学)
服部泰宏先生(横浜国立大学)
金井壽宏先生(神戸大学)
島村公俊先生(ソフトバンクモバイル株式会社)
髙木晴夫先生(法政大学)
高尾隆先生(東京学芸大学)
中村和彦先生(南山大学)
吉田毅先生(ヤフー株式会社)
曽山哲人先生(株式会社サイバーエージェント)
中原 淳(東京大学)

ラーニングイノベーション論 2015(慶應丸の内シティキャンパス)
http://www.keiomcc.com/program/lin/

投稿者 jun : 2015年2月24日 06:43


あなたは「継続学習のプロセス」を回していますか?

 好き嫌いはあるかもしれませんが、ドラッカーの言葉は、ときに今を生きるわたしたちに、ビビビと「刺さります」。僕が最も好きな言葉のひとつは、こちらです。

「知識労働者」たるものは、仕事の中に「継続学習のプロセス」を組み込んでおかなければならない

「明日を支配するもの」(Drucker, P. F.)

 自分が置かれている状況や市場の変化が早いときには特にでしょうけれれど、知識を扱う職種についている人は、常に、自分の所持している知識や思考プロセスを「最新のもの」にアップデートしておかなければなりません。
 そうした努力を辞めてしまった人を、「知識労働者」とはいいません。ドラッカーは、今から数十年も前に、このことを喝破していました。

 かくいう僕も、今週1週間は「自分の学習」のために使わせていただこうと思います。
 ただでさえクソ忙しいこの時期に、1週間も仕事をあけることは「後ろ髪」引かれる思いですが、今日の日は半年前から調整をしてきました。

 家庭ができ、子どもができて、本当に切実に思いますが、「学びの時間」を確保することは、本当に意識して行い、かつ家庭の理解もなければ実現しないことでもあります。特に、カミサンの理解には心より感謝をいたします。しっかり学んでこようと思っています。

 あなたは最近、「継続学習のプロセス」、回っていますか?
 そして人生は続く

追伸.
 そういえば(!)、3月24日に開催される「新たなラーニングバー的イベント」が参加募集を行っております。

【参加者募集・拡散大歓迎】異業種越境型「リーダーシップ研修」をいかにデザインするのか?:「丘の街」美瑛で展開する次世代型リーダー養成スクールの衝撃!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/02/post_2367.html

 リーダーシップ開発に興味をお持ちの方、地域振興・社会問題解決に興味をお持ちの方には、おすすめの内容です。どうぞお誘いあわせのうえ、お越し下さい。こちら「拡散大歓迎」です。どうぞよろしく御願いいたします。
 
 

投稿者 jun : 2015年2月23日 06:46


【参加者募集・拡散希望】異業種越境型「リーダーシップ研修」をいかにデザインするか!?:「丘の街」美瑛で展開する次世代型リーダー養成スクールの衝撃!?

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【異業種越境型「リーダーシップ研修」をいかにデザインするか?
「丘の街」美瑛で展開する次世代型リーダー養成スクールの衝撃】

 NAKAHARA-LAB.NET(中原淳研究室メルマガ)
 KEYWORD : 異業種 コラボレーション 地域課題解決
 リーダーシップ開発 人材育成 越境型
 
 3月24日(火曜日)午後6時00分-午後9時00分まで
 株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS 2F
 お申し込みチケット購入サイト : http://peatix.com/event/75028
==================================================

 このたび、3月24日(火曜日)に、経営学習研究所のシアター
モールイベントを内田洋行さまとともに、開催させていただくこと
になりました。

 今回のイベントのテーマは

【異業種越境型「リーダーシップ研修」をいかにデザインするか
「丘の街」美瑛で展開する次世代型リーダー養成スクールの衝撃】

 です。

 日本の人事部 HRアワードを受賞した異業種5社の
 次世代リーダーが集まる「リーダーシップ研修」のデザインと
 効果を、皆さんにご報告差し上げ、また、このことについて
 議論させていただく機会を持ちたいと思います。

HRアワード2014受賞
異業種社員チームによる「地域課題解決プロジェクト」

http://hr-award.jp/prize.html

 今回のセッションには、この研修の代表者のひとりであられる
 ヤフー株式会社の本間浩輔さん、池田潤さん、また、この研修を
裏方で支えたアサヒビール株式会社、株式会社インテリジェンス、
日本郵便株式会社の人事部のみなさま、美瑛町の職員の方々をお招き
いたします。

 現在、中堅層・リーダー層の底上げに興味をお持ちの人事部の
みなさま、地域課題解決に興味をおもちの行政担当者、NPO職員等の
みなさま、ぜひお誘いあわせの上、ご参加いただければ幸いです。

 お申し込みは下記のサイトからお願いいたします

お申し込みチケットサイト : http://peatix.com/event/75028
(ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!)

   ・
   ・
   ・

 なお同プロジェクトでは、2015年、この研修に参加したい企業を
募集しております。参加対象・参加条件は下記のとおりです。研修は
5月から始まります。これが最後のチャンスです。ご希望の方は、
下記をご覧のうえ、どうぞヤフー株式会社の池田さんまで御連絡を
お願いいたします。

■参加対象
・国内企業・官公庁にお勤めの方、各種団体に所属されている方
・リーダーまたはリーダー候補としてとして組織・社会を変える力を
 身につけたい方
・気力・体力が充実し、学習意欲を持って主体的に参加していただける方

■参加条件(参加企業の人事部門の方へ)
・人事部門より事務局担当者を1名アサインしていただきます。
・全6セッションのうち1回、主担当として企画運営していただきます。
  -人事部門長(または同クラス)の方による研修ファシリテート
 -自社トップ・または外部トップ人材による講義の企画
・活動に関わる共通経費をご負担いただきます。
・自社・自組織参加者および事務局担当者の交通費、宿泊費等
をご負担いただきます。

■連絡先(事務局)
ヤフー株式会社
ピープル・デベロップメント統括本部 人財開発本部
池田 潤(いけだ じゅん)
お問合せ先:jikeda(あっとまーく)yahoo-corp.jp

 どうぞみなさま、お誘いあわせのうえ、お越しいただけ
ますことを願っております。

 中原 淳

 ーーー

■共催
 一般社団法人 経営学習研究所
 内田洋行教育総合研究所

■協賛
 アサヒビール株式会社

■日時
 2015年3月24日(火)午後6時00分 - 午後9時00分まで
 開場は午後5時30分から

■ 会場
 株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS 2F
 http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas.html

 JR・東京メトロ八丁堀駅または東京メトロ茅場町駅下車 徒歩5分
 近隣に内田洋行様の別ビルもありますのでお間違いのないよう
 にお願いいたします。

■参加費
 お一人様4000円を申し受けます
(ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!)

■内容

・ウェルカムドリンク pm6:00-6:20

・オーバービュー   pm6:20-6:40
「美瑛を舞台にした地域課題解決プロジェクトの概要」(中原淳)

・セッション1  ヤフーの人材育成方針
         異業種連携プロジェクトが目指したもの
pm6:40-7:00(ヤフー株式会社 本間浩輔さま)
【概要】
「ヤフーの人材育成方針」
人事の仕組みを作っていくのは、人事部ではなく「職場」であり、
その主役は社員であるべき、という信念のもと、2012年からヤフー
の人事改革を推し進めています。「社員の才能と情熱を解き放つ」
をスローガンにて取り組むヤフーの人事に対する考え方を紹介します。

「異業種連携プロジェクトが目指したもの」
複数の企業と連携して「地域の活性化」と「リーダーシップ育成」
を実現するというユニークなCSVプロジェクトを実現した想いや
企業人材育成に対する課題意識についてお話します。

・セッション2  「異業種研修1年目の出来事」
pm7:00-7:30(ヤフー株式会社 池田潤さま)

【概要】
異業種研修の立ち上げから1期が終わるまで。2013年の秋、一枚の
企画書から始まったプロジェクトですが、その企画・開発プロセスや
運営する中で起こったこと、課題と来年度の企画について、ざっくばらん
に紹介します。

(BREAK : pm7:30-7:50)

・トークセッション  pm7:50-8:10
【ゲスト】 
 アサヒビール株式会社 三浦一郎さま、門永淳さま 
 株式会社インテリジェンス 美濃啓貴様さま、武井伸悟さま
 日本郵便株式会社 鶴田信夫さま、畑俊彰さま
 美瑛町 後藤秀俊さま 
【ファシリテータ】
 中原 淳

・ダイアローグ (pm8:10-8:40)
・ラップアップ (pm8:40-9:00)

※タイムラインは変更になる可能性があります

■参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所
の企画担当理事が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料
、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。マスメディアによ
る取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.会場にクロークはございませんので、どうか軽い装備?
でおこしください。

以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みサイト
よりチケットをご購入ください。
繰り返しになりますが、このたび、いったんご購入後は返金は
できませんので、くれぐれもご注意ください!

■お申し込みWEBサイト
http://peatix.com/event/75028

皆様とお会いできますこと愉しみにしております!

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投稿者 jun : 2015年2月20日 23:00


「仕事を任せるとき」の3つのポイント!? : 若手の目を一瞬で輝かせる「魔法の杖」は存在しない!?

 かなり前のことになりますが、ある人事部の方とお話していた際、興味深いことをおっしゃっていました。
 若手が会社を辞めるとき、捨て台詞のように残していく言葉で、(その会社で)最も多いのは、

「自分の存在意義が感じられないから辞める」

 なのだそうです。
 特に、最近は、その傾向が強まっているのだとか。皆さんの会社・組織ではいかがでしょうか?

   ▼

 わたしたちはここで深呼吸をしてあくまで理性的に問題をとらえなければなりません。
 まず深呼吸をして「会社はてめーの存在意義を確認する場じゃねー」と言いたくなる気持ちをぐっとぐっと押さえ(笑)、「人間とは意味を見いだせずに長くモティベーションを保つことは難しい」という社会科学の常識を「牛」のように反芻したとき、先ほどの命題も一理あることを、認めざるをえないのではないでしょうか。

 だとすると、ここに難問が生じます。
 もっとも難しいのは、「仕事を通じて、自分の存在意義をいかに確認するか」ということです。
 まさか「存在意義を感じなさい!」と命令しても、事態は好転することはあまり期待できません。
 また、会社の中には「存在意義を感じられるような仕事」ばかりが溢れているわけではありません。みんなが嫌がる仕事も、地味な仕事もたくさんあるのです。

  ▼

 僕の研究のなかで、これに関連する対処策としては、仕事を任せるときの「意味づけかた」がもっとも効果的であるような気がいたします。
(かなり前ですが,仕事の任せ方研究というのをデータをとってやったことがあります)

 ベタでドロドロで全く取り柄も工夫もない方法ですが、結局は、腹をくくって、そうした時間を若手ととる以外に方法は限られているようです。ワンセンテンスで申し上げますが、若手の目を一瞬で輝かせる「魔法の杖」は存在しません。人にまつわることは、結局、ぬるくてかったるい方法しか存在しないのです。

 つまり、その人に、ある仕事を任せるときが勝負のときです。仕事を「任せるとき」には、まずは背筋を伸ばして、意識を集中させる必要があります。

 そのうえで、当該の人にとって、わかりやすく、

1.「任せたい仕事は何か」?:
 仕事の前工程・後工程など、仕事の全体像を言葉にすること。仕事の手続きだけをいうのではなく、その仕事の広がりを説明すること

2.「なぜあなた」なのか?
 これを為すことがいかに自分の能力やスキルにとって意味があるのか?を言葉にすること

3.「なぜやる」のか?
 組織にとって、それをやることがどんな意味やメリットが生まれるか?目標とどのように関連があるか?

 に関して時間は短くとも長くてもよいので、「納得解」をつくってもらうしかないような気がいたします。100%満足を得ることはまず難しいものです。あくまで欲しいのは70%以上の「納得解」です。

  ▼

 特に難しいのは2です。
 先ほどもお話しましたとおり、組織の中には、「やりたい仕事」だけが存在するわけではありません。「みんながやりたい仕事」がある一方で、「みんながやりたくない仕事」もあります。
 他方「イノベィティブな仕事」中で「ルーティンどっぷりの仕事」も存在します。誰かが、それぞれを担わなくてはなりません。そして、人が組織で働くかぎり、みんながやりたくない仕事や地味な仕事をこなすことから、たいてい逃げられません。それが組織から給料をもらうということです。

 そうなると、容易に想像できる事態は、任せる仕事と本人がやりたいことの落差です。

 すなわち、

「自分がやりたい仕事」と「会社が今、その人にやってもらいたいと考える仕事」にギャップが生まれること

 がすぐに想定されます。

「オレとしては、こっちが適性だし、能力にあっていると思っている。でも、組織としては、違う方向を向け」

 と言われる。そういう事態が生まれます。そうなると、先ほどの2つめの条件「なぜあなたなのか条件」が毀損されます。

  ▼

 しかし、ここで、わたしたちが冷静に心にとめなければならないことは、「自分がやりたい仕事」と「会社が今、その人にやってもらいたいと考える仕事」がぴったり重なることというのは、ほぼ「希」に近いという単純な事実です。つまり、それが重ならないことをわたしたちは「現実」として受け入れなくてはなりません。

 だとするならば、結局は、何とかかんとか意味をやりくりして(Manage:マネージ)、「納得解」を作ってもらうほかはないのです。例えば、

「今は、この仕事をやってもらうけど、この仕事で培った経験は、今後、あなたのやりたいところに生きるから」

 とか

「この仕事をやりとげることは、会社の伸びていく方向にぴったりと重なっているので、今後のキャリアにもつながるから」

 という具合に、言って聞かせるしか方法はありません。

 マネジャーの動詞「マネージ(Manage)」の語源は、「やりくり」です。マネジャーに為しうることは「問題を鮮やかに解決すること」ではありません。まさに語源通り「問題をやりくり」していくことです。

 マネジャーとは「問題を解決する人」ではなく「やりくりする人」なのです。

  ▼

 今日は「存在意義を感じられないから辞める」ということを皮切りに、仕事を任せるときのことを書いてみました。これは本当に難問中の難問であり、多くの人々が、ここに違和感や困難を感じつつも仕事をしています。いや、これ、本当です。僕は15年近く、この研究を

 もし皆さんのなかで、これに悩んでいる方がいらっしゃったら、まず言えることは

「それはあなただけではありません」。

 そして、今ある状況をすてて、他の場所にいこうとも

「どこにいこうと、その問題は生まれます」。

 まずは、今ある場所で、事態が好転することを願っています。

 そして人生は続く
 よい週末をお過ごし下さい!

投稿者 jun : 2015年2月20日 07:02


ラーニングフルな旅館「湯河原温泉・料亭小宿ふかざわ」さんにお邪魔しました!

 先だって、雑誌「人材教育」の「学びは現場にあり」の取材で、湯河原温泉「料亭小宿ふかざわ」を訪問させていただきました。いつもの珍道中、井上さん、西川さんとのお仕事です。

 知る人ぞ知る、料亭小宿ふかざわさんは、ミシュランガイド東京・横浜・湘南の2012年・2013年に掲載されている著名な旅館でもあり、かつ、稼働率8割から9割を誇る湯河原駅から徒歩数分の立地にある旅館です。僕は新幹線を経由していったので1時間くらいでしょうか。

fukazawa.png

 ふかざわさんの魅力は、その理念にも掲げられているとおり、「人の学び舎でありたいと願う旅館」であるということだと思います。その心意気や理念は、従業員の方々、すべての顔と氏名を明示した下記のWebページからもうかがい知ることができるでしょう。

ふかざわの理念:想いを共感する 傍楽(はたらく)仲間たち
http://www.ryokan-fukazawa.co.jp/staff.html

 近年は、女将さん、深澤里奈子さんは、旅館業という「枠」を超えて活動をなさっています。旅館内にて映画の上映会をなしたり、レトリートのためのワークショップスペースをおつくりになったり、まさに「コトを起こしていく旅館」、「旅館業を超える旅館」をめざしていらっしゃいます。後者のスペースは、企業のオフサイト合宿や、役員研修などでも、利用ができるのではないでしょうか。湯河原の温泉でひとっ風呂あびて、そのあと、対話とはまことに贅沢なものです(今回僕は時間がなくて宿泊かなわずでした・・・トホホ)。

SOYOGI
http://www.annei.jp/soyogi.html

 けだし「学び」は「教育業界の専売特許」ではないし、まして「学校」に限ったものではありません。
 マネジメントであろうと、ビジネスであろうと、旅館業であろうと、何であろうと、それは、いつだって、すべてに開かれていますし、ここ最近とみに重要だと思われています。
 わたしたちは、変化の激しい、そして、まことに生きにくい時代を生きています。そのような時代にあっては「学びを教育業界の専売特許」とせず、より広い視野から捉えていくことが求められていると僕は思います。
 いずれにしても、ふかざわさんのようなラーニングフルな旅館(Learningfulな旅館:学びに満ちた旅館)が、日本全国に増えていくことを願います。そうしたら、人も地域も、もっと元気になるんじゃなかろうか、そう願いたいのです。

 最後になりますが、本日の取材をお引き受けくださった、ふかざわさんのスタッフのみなさま、女将さんの深澤さんはじめ、百崎さん、山口さん、鎌倉さんに心より感謝をいたします。本当にありがとうございました。

 ちなみに、今回、ふかざわさんは、仕事旅行社さんからのご紹介でご訪問させていただきました。仕事旅行社様には、心より感謝いたします。みなさま、重ねましてありがとうございました。

仕事旅行社
https://www.shigoto-ryokou.com/

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 ダイヤモンドオンラインで「ベテランの技術をいかに若手に伝えるか?」ということに関する特集記事が公開されています。

「背中を見て学べ」じゃ間に合わない!今ドキ若手育成:テーラー業界が直面した"高齢化ショック"
http://diamond.jp/articles/-/67028

 銀座テーラーさんというテーラーメードスーツの「仕事の現場」を訪問させていただいたときの記事です。どうぞご笑覧いただければ幸いです。

投稿者 jun : 2015年2月19日 07:00


わたしが「最も影響を受けた上司」は「少年マンガ」のような人だった!? : 若い頃に出会う上司は「ロールモデル」か「反面教師」か!?

 ランチどきに「ワンエクササイズ」です。
 お手すきのときにどうぞ!


【エクササイズ】
あなたが、これまで「最も影響を受けた上司」を1名思い浮かべて下さい。
受けた影響はポジティブな影響でも、ネガティブな影響でもかまいません。

その上司の方を「名詞1語」で「喩える」のだとすると、
どのような言葉があてはまりますか?
下記の文章に「       」にワンワードをいれて作文をしてみましょう。
続く文章には、その理由「        (だからだ・からだ)」もいれてみましょう!

わたしが、もっとも影響を受けた上司は「        」のような人だ
なぜなら「                」だからだ(からだ)


 さて、皆さんなら、どのように回答をなさいますか?

  ▼

 これは、最近、僕が実行したある調査の質問項目の1つです。
 この調査では

「管理職は、いかなる信念をもって仕事にあたっているのか? そうした仕事の信念は、いかなり経験をもとに形成されたのか?」

 を実証的追う研究です。いわゆる「実務担当者から管理職へのトランジション」をめぐる一連の、しかし遅々とした僕の研究のひとつです。

 で、先ほどの質問に対する答えを、今、朝の短い時間を寄せ集めて分析しているのですが(号泣)、なかなか、面白い結果がみてとれます。

 まず「最も影響を受けた上司」から受けた影響を「ポジティブな影響」と「ネガティブな影響」の2つにわけます。前者は「ロールモデル」にしたいような上司。後者は「反面教師」にしたい上司ですね。

 結果は「ポジティブな上司の方」から一部ご紹介すると、こんな感じです。


 わたしがもっとも影響を受けた上司は「少年マンガ」のような人だった
 「楽しさと厳しさの両面を教えてくれた」から

 わたしがもっとも影響を受けた上司は「整流器」のような人だった
  多様なメンバーをまとめて同じ方向を向かせたから

 わたしがもっとも影響を受けた上司は「ヤジロベエ」のような人だった
  仕事の歪みを感知してバランスを保つことが出来たから


 面白いですね。
 皆さん、詩人?ですね。

 次は「ネガティブな上司」の方はどうなっているでしょうか?


 わたしがもっとも影響を受けた上司は「瞬間湯沸かし器」のような人だった
  ちょっとしたことですぐに感情的になって部下に当たり散らしていたから

 わたしがもっとも影響を受けた上司は「学者」のような人だった
  夢ばかり見ていたから(小生、号泣)

 わたしがもっとも影響を受けた上司は「置物」のような人だった
  なんにもいわないから


 こちらはなかなか読んでいて泣けてきますね。
 たしかに、いるいる、という感じ。

 ちなみに、500人近くの現在管理職の皆さんが、自分の若い頃に「もっとも影響を受けた上司」とは出会った平均年齢は30歳です。70%の方が、22歳から36歳までの間に、そのような上司と「出会うこと」になります。
 ちなみに、最も影響を与えた上司に「ポジティブな上司」を思い浮かべる人は、40.7%。遺りの方、すなわち6割の方は、出会った上司をいわば「反面教師」として過ごしていらっしゃいます。面白いですね。

  ▼

 今日は「もっとも影響を受けた上司」について簡単なエクササイズをご紹介しました。
 皆さんも、ぜひ、差し支えのない範囲で、Twitter、Facebookなどで、「自分がもっとも影響を受けた上司」を教えて下さいね。

 ところで、
 この文章をお読みの「上司」の皆さんに、最後に一言!

 あなたは、今の自分の部下から、どのような言葉で「喩えられる」と思いますか?
 そして、
 あなた自身は、自らは、どのような言葉で「喩えられたい」と願っていますか?
 
 そこにズレはありますか?
 それとも同じですか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年2月18日 09:33


「残念なタイトル」で「おまえはもう死んでいる」!? : 情報爆発時代のコンテンツメイキングとは!?

 僕がブログを書いているときに、最も悩むことのひとつに「タイトルをいかにつけるか?」という問題があります。

「文章の内容」とか「ロジック」とか本質的なことについても「悩む」といえば「悩む」のですが、ことネットの場合、成功失敗の振れ幅が大きいのは、実は「内容」や「ロジック」ではありません。
 内容やロジックがちゃんとしていても、「タイトルがショボイ」とネット上では「読まれない」のです。ここは論文や書籍とは少し違ってくるところです。

 アタリマエダのコンコンチキですが(笑)、これだけ情報化した世界においては、あまたあるデジタルコンテンツの中から、人にどのように「選んでもらうか」が大切です。

 誰がつけたのかは知りませんが、現代は「情報爆発の時代」です。手のひらのスマートホンに、右から左へ、上から下にコンテンツのビットストリームが常に流れ続ける時代をわたしたちは生きています。

bitstream_nagareru.png

 人が「情報選択」にかける時間は、わずか0.1秒とか、そんなものでしょう。フェイスブックやTwitterなどのソーシャルメディアで流れてくる情報の中から、ビビビときて、クリックをする。内容やロジックまで検証して、クリックをしているのではありません。最初のタイトルなのです。

 情報が流れゆく時代にあっては、短期的には

「クリックされないもの」は「存在していない」

 のと等価になってしまいます。論文や書籍はかたちをもちますので異なりますが、特に、ネット上の情報は、そのような傾向が強くなります。

 よって、ブログ記事を表象するタイトルを「キャッチーに、しかも、わかりやすくつけるか、というのは「記事の存在」を決めることにもなりかねません。

 鮮度の大切なブログ記事にあっては、書いたそのときに読まれないと、意味をなさないこともありえます。かくして、僕は、素人ながら、タイトルづけに時間をかけます。とはいえ、子育て家庭なんで、朝はとにかく時間がなくて、たかだか5分くらいだけどね(笑)たかが5分、されど5分。

 ▼

 たとえば、昨日のブログ記事のタイトル

我が子に「コンピュータ」といかに「出会わせる」のか?:コンピュータは「創造の道具」か「消費のメディア」か?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/02/post_2363.html

 は、公開前のネタ帳(僕のブログにはマイネタ帳があるのです!)には、こんな記事として書かれていました。

子どもがコンピュータと向き合うことの意味:TAKUZOとScratchで遊んだこと

 さて、どっちがいいだろう?
 僕は前者かなと思ったんですよね。
 コンピュータを子どもにどのように触らせたらよいのか、悩んでいる親御さんは僕も含めて多いだろう。後者は、あくまでプライベートな内容で、しかも視座が少しぼんやりとしています。それに対して、前者は圧倒的に「親御さん」の立場を強調しています。
 ワンセンテンスで申し上げますと、読者を意識する、ということですね。かくして昨日のブログには前者のタイトルをつけました。成功かどうかは知りません。

  ▼

 2日前のブログの記事のタイトルは、完全に「確信犯的」なタイトルですね。2日前、僕は記事にこのようにつけました

成果を残せる新任マネジャーとは「受動的」である!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/02/post_2362.html

 これはもともとは、

見ること、聞くこと、理解すること:駆け出しマネジャーの発達課題

 というタイトルでした。

 さてどちらがいいでしょうか?
 後者でもよいかな、と僕は思ったのですが、「見ること」「聞くこと」「理解すること」と3つのワードが並ぶことが、ちょっと冗長すぎる気がしました。じゃあ、これらをどのように短縮するか?
 かくして、それらをロジック的には少し無理があるなとも躊躇したのですが「受動的」というワードでまとめました。成功かどうかは知りませんが。

 こんな感じで、ブログのタイトルを決めています。
「つり」にならない程度に品を保ちつつも、愉しみつつ、しかし、皆様に記事をお届けできるよう、朝っぱらからネーミングをうんうんと考えています。

  ▼

 今日はブログのタイトルをいかにつけるか、ということについて書いてみました。こんな感じで小生のブログは毎朝書かれています。
 ライティングについても、一度、みなさんにマイノウハウをお伝えする講座があれば面白いかな、なんて思いますが、ただでさえヤヴァすぎる仕事の量をさらに増やしそうなので、なかったことにしましょう(笑)。

 ちなみに、今日のブログの記事のタイトルづけは、まことに緊張しますね。

 だって、

「記事のタイトルのネーミングが大切だ」といっている記事そのもののタイトルがショボイと、論理矛盾ですね。

 その様相は、

「コピーライティングが命だ!」といっている書籍のタイトルやコピーそのものがダサダサだったら、終わっている

 のと同じです。
 
 そして人生は続く
 嗚呼、それにしても、このタイトルはないだろう・・・。
 ツッコミは甘んじて受けましょう。
 ごめん(泣)。

投稿者 jun : 2015年2月18日 06:44


我が子に「コンピュータ」といかに「出会わせる」のか?:コンピュータは「創造の道具」か「消費のメディア」か?

 ここ最近、TAKUZO(公立小学校2年生・8歳)と夜な夜なプログラミングをしています。 
 TAKUZOには、これまで一切、コンピュータ環境(PC、iPhone、iPadすべて禁止)に触れさせてこなかったのですが、そろそろ、「親と一緒にやるのなら」、自らをコントロールしながらできるかな、と、ここ数ヶ月思いはじめ、徐々に解禁することにしました。

PhotoFunia-1424124512.jpg

 まずはお世話になっている先生のはからいもあり(感謝です!)、タッチタイピングを練習しはじめ。次には、クローズなブログを運用し、親戚などに公開しはじめ。ようやくたどりついたのが、プログラミングです。
 もちろん、TAKUZOをコンピュータに触らせるといっても、「親と一緒に何かを創り出す」以外の触らせ方は、一切していません。あくまで、彼がコンピュータに触れるのは僕がいるときだけ。現在は、僕と一緒にやるときだけの限定的使用です。

  ▼

 プログラミングの開発環境には、MITで開発され、おそらく全世界でもっとも普及していると思われる「子ども向け開発環境」のScratchというWebアプリを使いました。

 開発者のミッチェル・レズニックさん(MITメディアラボ教授)には、これまで何回かお逢いしたこともあり、自分の子どもに体験させるのなら、これだろうと思っていました。
 昔は、ローカルのアプリをインストールする必要があったのが、今は、なんとWebアプリです。全くインストールが必要ないので、おすすめです。

 昨日は、Scratchの本を見ながら、にゃんこがハードルをとびこえるゲームを開発しておりました。

Scratch
https://scratch.mit.edu/

 ▼

 考えてみれば、僕自身がはじめてコンピュータにさわりはじめたのは、小学校2年生の頃です。

 決して「裕福」とはいえない家庭でしたが、ある日、技術者であったオヤジが、「清水の舞台」からバンジージャンプで飛び降りて(!? 飛び降りる覚悟ではないところに注意!マジで飛び降りた!)、コンピュータを買ってきました。
 たしか、NEC PC-8001 MK2というコンピュータであったと認識しています。おそらく高価なものだったのでしょう。少なくとも我が家では、相当な投資をして、これを購入したのだとおもいます。

「これからしばらくは、おかずは納豆のみだな」

 とオヤジとオフクロが話していたのを覚えています(笑)。

 僕は、オヤジに少しずついろいろなことを教えてもらいながら、少しずつコンピュータを覚えました。
 まったく上手とは言えませんでしたが、ベーシックという言語をちょっとだけかじって、やはり本を見ながら、プログラミングなどをしていました。

 その当時は、ちょうど、某社から家庭用ゲーム機がではじめた頃で、一般家庭に普及しはじめた頃でした。
 一方、僕の方は、当然のことながら家庭用ゲーム機は買ってもらえず(金がない!の一点張り!)。ゲームをするためには、難解な言語を打ち込まなければなりません。そのことに不平を言ったこともありますが、

 オヤジは一言。

「遊びたいなら、自分で創れ」

 でした。
 トホホ。

 ▼
 
 それから30年。

 今度は、親である自分が、自分の子どもに同じようなことをしていることに気づかされます(笑)。

 やはり

 「カエルの子はカエル」
 「嗚呼、歴史は繰り返す」
 
 です(笑)。

 でも、今は開発環境は格段に良くなり、当時では考えられなかったいろいろなことができるようになっています。
 キャラは激しく動くし、音楽も鳴らせるし、効果音もバシバシとなります。
 白黒画面で、漢字すら表示することのできなかった30年前と比べたら、そこにあるテクノロジーは「雲泥の差」です。

 でも、本質的には「何一つ変わっていないこと」もあります。それは「コンピュータと子どもの向き合い方」です。
 ワンワードで申し上げますと、「子どもがコンピュータをどのように使うか」には2つの「あり方」があるということです。そして、これは30年たっても全く変わっていません。

 TAKUZOには、コンピュータと人間の向き合い方には、2つの分かれ道があるんだよと教えています。今は、たぶんわかんなくて、「パパは、うるせーな」と思うかもしれないけど、頭の片隅に、すこしだけ覚えておいてほしいなと思っているのです。
 
 2つの分かれ道は、

 コンピュータに「自分の時間」を「奪われる」か
 コンピュータで「自分らしい時間」を「創り出す」か
 
 コンピュータで「何か」を「創造」する時間を過ごすか?
 コンピュータで「何か」を「消費」して時間を過ごすか?

 ということです。

 もっと簡単にいうと、

 コンピュータに「使われる」か
 自分がコンピュータを「使いこなす」か

 ということです。

 TAKUZO、
 世界で一番怖い泥棒さんは、
 お金を盗む泥棒さんじゃないよ
 一番怖いのは「時間泥棒」さんだよ。

 「時間泥棒さん」は知らないうちに、
 自分の大切な時間を奪っていくよ

 特にコンピュータは向き合い方を間違えると怖いよ。
 他人がコンピュータを通じて、自分の時間を
 奪いにくるよ。

 他人に「時間」を奪われちゃだめなんだよ。
 自分の時間をしっかり守ってね。

 嗚呼、こうしたことは、30年たっても、全く変わっていないかもしれないなと思います。
 そして、究極をいうと、僕はプログラミングやら、ブログ執筆やら、タッチタイピングなんて「二の次」で、本当はこうした、「人とコンピュータのつきあいかた」を、TAKUZOに教えたいのかもしれないな、と思います。
 親子で少しずつ、じっくりと、コンピュータにふれる中で、コンピュータとの向き合い方を見出していきたいと感じているのです。

 望むと望まないとにかかわらず、この世は、コンピュータにあふれています。きっと、この先、コンピュータはさらに増えることはあっても、減ることはないでしょう。わたしたちは、そうしたハイパーコンピューティング環境に生きることに成増。

 このような時代環境にあっては、それを一方向的に「忌避」しつづけることは、あまり「知性的な態度」とは言えません。反面、それにどっぷりとつかり、アディクション(中毒)になってしまうことも、同時に「知性的な態度」とはいえません。
 コンピュータとうまくつきあえずに社会に出ることは、武器をもたずドラクエをプレーするようなものです。しかし、コンピュータに支配されてしまう人生を過ごすことは、これまた惨いものです。

 このような時代にあっては、コンピュータときちんと向き合い、いかにつきあうかということを、教えておく必要があります。

 場合によっては、発達段階のある時期には、コンピュータから敢えて「遠ざけること」も必要だと僕は思います。しかし、頃合いをみはからって、少しずつ近づけていく必要があります。個々の技術やら、プログラミングやらは、さしあたって「二の次」です。教えたいのは、「コンピュータといかに向き合うか」ということ、この1点につきます。

 本当になかなか難しい問題ですが、、、試行錯誤していきたいと考えています。

 そして人生は続く

追伸.
 2年前にはこんな記事を書いています。当時は、全く、コンピュータに向かわせていない時期でした。この記事を読んでいると、ようやくここまできたという思いがします。今日の記事と2年前の記事は、表面的には逆の事をいっていますが、主義・主張はほとんど同じです。ちなみに、いまだにタブレットはTAKUZOには使わせていません。おそらく、いまだにタブレットを渡すと、うちの子どもの場合は、安易に「消費」にながれていきます。敢えて、かくして、まずはコンピュータから入った方がよさそうだと判断しました。

自宅で子どもに「タブレット情報端末」を使わせない理由
http://www.nakahara-lab.net/2013/06/post_2029.html

投稿者 jun : 2015年2月17日 07:11


成果を残せる新任マネジャーとは「受動的」である!?

 ここ最近の、駆け出しのマネジャーたちへの実証研究で、実務担当者からマネジャーへのトランジションプロセス(移行過程)が、少しだけまたわかってきました。

 初期の頃のマネジャーのパフォーマンスを規定する大きな要因として、僕の中では「確信」に近くなっていることがあります。

 駆け出したばかりの新任マネジャーたちの成果を規定する要因は、個人的要因でもなければ、部下の特性でもありません。それは、たったひとつの「行動特性」ではないかということです。それも、「前のめり・オラオラ的なアクティブな行動特性」というと、どちらかというと「受動的な行動特性」が規定することの方が多いものです。

 それは、彼らが「動き出す」まえに、

 「自分の職場をじっくり観察すること、見たり、聞いたりすること」

 ひいては、勢いあまって何かをはじめるまえに、

 「自分の職場をしっかりと理解すること」

 です。
 動く前に「見る」「聞く」、そして「理解すること」です。
 ここ最近の実証研究、そして週末に戻ってきたデータをみても、そのことがいえますので、なかば、おおむね検証できたと考えてもよいことなのでしょう。
 (じっくり見たり、聞いたりすることが受動的な行為かっていうと、ま、ビミョーだよね、と思いますが、学術論文ではないので、このブログ記事中では、そちらにカテゴリー化しておきます。じっくり見たり、聞くという一見受動的な行為が、積極的呈示によって可能になるという発見は、それこそ20世紀の社会科学の興味深い発見のひとつではないかなと思います)

 もちろん、マネジメントをはじめてしばらくたったあとは、「どのような競争戦略をとるか?」だの「どのような市場を攻めるか」だの、そういう高度な話が大切になってくるのでしょうけれど、とにもかくにも、自分の足下を理解することが大切であるということです。

 このことは、考えてみれば、至極、極めて、猛烈に「あたりまえのこと」なのですが、しかし、これができるかどうかは、個人間に非常に差が生じます。
 要するに、「現場を把握しようとする人はする」、「現場を把握しない人は全くしない」ということです。そして、後者の数も結構多いものです

 かくして、

 マネジャーになったばかりの人は、自分の職場を観察し、そこにうごめく様々な事情・人間関係・顧客の様子を考慮・理解せずに、勢いあまって「動き出して」しまうことが多い。

 という事態が生まれます。
 ワンワードでいえば「前のめり」。
 言葉を換えれば「焦りすぎ」なのかもしれませんね。昇進して、嬉しいのかもしれないね。

 そして、たいてい、その次にマネジャーが陥るのが、以前このブログでも論じたことのある「水平展開の罠」です。
「水平展開の罠」とは、駆け出しのマネジャーがついついとってしまいがちな職場を率いる戦略です。「水平展開の罠」とは「自分が実務担当者時代にとって成功した勝ちパターンを、そのまま部下・職場にもやらせようとして、成果が出ないこと」をいいます。
 詳細は下記のブログ記事をご覧下さい。

成果が出ない新任マネジャーが陥りやすい「思考の罠」:「オレが、勝ちパターンを教えてやるから、言うとおりにやればいいんだよ」はうまくいくか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/02/post_2352.html

 この戦略が奏功する条件は、せんだっての記事でも論じたように、

1)「成功パターンを踏襲させたい部下の能力・モティベーションが、マネジャー自分と同じであること」
2)「自分が実務担当者であった頃の外部環境(市場環境)と、今回、成功パターンを適用する外部環境(市場環境)は、同じであること」

 の2つなのですが、前のめりのマネジャーは、それらを観察して、確認していません。よって、ごくごく初期の段階で、つまづきを経験することになりがちなので、注意が必要です。

 なお、一連の結論は「駆け出し期」についていえることです。そっから先の要因は、全く異なることが予想されますので、早とちりなさらぬよう。ずっと「受動的」に「見続けて」いても、「聞き続けて」いても、環境は望ましい方向にかわりません。十分観察したあとは、やはり動き出すことです。
 マネジャーが成果を残すためには「受動的」であるべきときには「受動」を演じ、能動的に環境に働きかけなければならぬ時には、前のめりに積極的的行動を選択しなければならないようです。このスイッチングがうまくいくか、うまくいかぬか、というところが、次の課題になりそうです。

 ▼

 今日は駆け出しの新任マネジャーが陥りやすいプロセスについて、最近の研究結果を、ちょっとだけ論じてみました。実務家の方からみれば、僕の研究は「牛歩のような歩み」なので、まことに恐縮なのです。
 が、移行のプロセスが、細々とした研究で、だんだんとわかりかけてきています。これら一連の研究は、またどこかでおりをみてまとめたいと思います。

 素敵な一週間を!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年2月16日 06:46


頑張れ、マイ白血球!

 ふぅ。

 先だってより、TAKUZOがインフルです(泣)。
 次男KENZOとカミサンは、奥の部屋に隔離です。
 KENZOはまだ小さいので、インフルになると厄介です。

 というわけで、僕、昨日は、TAKUZOと一緒に寝ました。
 寂しい。
 どうしても一緒にいたいというので。
 あのー、できますれば、ひとりで寝ていただけますか
 と言いたいところなのですが、
 やむなく、、、。

 マスクをして離れて寝ていたのに、
 気がつくと、TAKUZOは僕のベッドにはいって、隣で寝ています。
 というわけで、
 5センチ隣に「ウィルス君」がいます(笑)。

 コホン、コホンと咳をして寝ている
 我が子の寝顔を見ながら、
 「きっと、今、オレ、ウィルスに冒されてるんだろうな」
 と思いました。
 頑張れ、おれの白血球。

 I have no choice、そんな日もある
 そして人生は続く

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投稿者 jun : 2015年2月14日 06:24


部下育成できない人、論理思考できない人、リーダーシップを発揮できない人が「管理職」に登用されている!?

 ここ数年、ずっと心の奥底にあって、時折、頭をもたげてくる「思い」があります。
 僕の周囲の近しい人には、時折、思わず、ボヤいてしまうことなので、もしかすると、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。

 それは「働く大人の学び」を研究し続け、一方で、様々な研修などで、ビジネスパーソンの方々とたくさん出会い、一緒の学びの時間を過ごし、ついつい、思ってしまうことのひとつです。

 それは、ワンセンテンスで申し上げますと、「管理職になる前に学んで欲しいこと」と「管理職に必要な能力要件」のアンマッチに関することです。

 具体的には、

 ロジカルシンキングを、管理職になってからはじめて学ぶってことが、たまに行われていますが、これは、少し「変」じゃないでしょうか? 変というか、少し「遅い」ように感じます。

 論理的に考えることができる人を、管理職に登用するのが筋なのに、なぜ、それを管理職になった後で、はじめて学ぶのでしょうか?
 ということは、管理職に登用されたときには、論理的に考えられないってことでしょうか?非論理的な管理職が、職場をマネジメントしているということでしょうか。ロジカルに考えていくと、このあたりがわからなくなります。

 また、同じことはコーチングについても、リーダーシップについても言えます。

 管理職になってから、コーチングをはじめて学ぶのは少し変ではないでしょうか?
 なぜなら、ふつう考えた場合、コーチングができる人ー部下育成ができる人を、管理職に登用するのではないでしょうか? 部下がすでにできていて、しばらくたって、コーチングを学ぶってことは、そもそも部下育成ができないってことでしょうか? だとしたら、学習機会はもっと早くにあるべきのような気がしますが。

 また、

 リーダーシップについての学習機会を管理職登用後にはじめてもつっていうのも、少し変ではないでしょうか? そもそも、リーダーシップの発揮した経験のある人を管理職にするのではないでしょうか? 

 もちろん、「大人は生涯学び続ける」のですから、管理職であろうと、管理職でなかろうと、いつになっても、ロジカルシンキングやら、コーチングやら、リーダーシップやらを学びなおすことは大いに結構です。
 余裕があるのであれば、そうした機会がふんだんにあることは、望ましいことでしょう。

 しかし、その順番を考えた場合、少し「変」な気がするのです。ワンワードでいえば「遅い」。
 僕の疑念は、

 管理職になる前に、管理職になって必要になるスキルを「前倒し」て学ばなければ、管理職になってすぐにパフォーマンスを発揮することはできないのではないでしょうか?

 ということです。

 ちなみに、これが「変じゃないか?」と気づいたのは、ある外国人と、管理職の育成システムについて話していたときでした。

 曰く、

日本では、管理職になる「前」にもっていなければならないスキルを、管理職になって「後」で学んでいるのは、何か、特別な理由があるのかい?

 僕には、ある外国の友人から発せられた、この問いに明確な答えをだすことはできませんでした。
 かくして、僕には「管理職に登用する資格」と「管理職に求められる能力・スキル」の関係がよくわからなくなっています。

  ▼

 今日は、管理職の能力用件と育成についてボヤキを書きました。
 くどいようですが、管理職になってからも、学び続けるのだとしたら、いつになっても、そのような機会がふんだんにあることは望ましいことのようにも思えます。

 しかし、本来、管理職登用の際には、ロジカルに考えられて、コーチングもできて、リーダーシップを発揮できる人が一定以上いるように、管理職登用前から、様々な育成体系・仕事の割り当てを行うべきだと僕は思います。育成を、もっともっと「前倒し」て行わなければ、管理職になってからパフォーマンスを発揮することは難しいような気がするのですが、いかがでしょうか。

 さらにもっと極端なことを言うならば、こうもいえます。それは、

 リーダーシップ、ロジカルシンキングといったような知的生産の技術は、もっと「前倒し」て学んだ方がいい。それらを体感する経験は、もっと前倒して得られた方がいい

 ということです。

 誤解を恐れずいうならば、管理職登用前どころか、教育機関、果てには高校生のときくらいまでさかのぼって、こうした経験を付けて欲しい、と思うくらいです。

 これだけ変化が激しく、しかも、仕事が高度化・複雑化している社会です。今の高校でできるかできないかは別として、それだけ「前倒し」ても「早すぎる」ということはないだろうな、というのが実感です。今の教育機関にリソースが不足しているのであれば、リソースをとってくる運動だろうとなんだろうと、微力ながらコミットする覚悟で、僕は、そのことを申し上げています。

 このことは、本当に「壮大な回り道」をして気づきました。
「働く大人の人材開発」を研究して、もう15年弱。それをひたすらひたすらにやり続けてきて、これからもひたすら追い続けるんでしょうけど、ようやく見えてきたものがあります。それは、この国の、高校ー大学ー仕事の現場のトランジションにまつわる、いくつもの「断絶」です。
 いいえ、「壮大な回り道」ではなかったのだと自分を言い聞かせています。「学校以外の世界」を垣間見たから、はじめて見えてきたのだと思います。若い世代が、今後いかなる仕事の現場で、苦闘することになるか。僕は、少しはわかりかけています。

 研究的には、ここ5年間は、「大学と社会のトランジション」を、研究室の研究テーマのひとつにすえてきました。
京都大学の溝上慎一さん、中原研・溝上研ら大学院生の皆さんとの共同研究をまとめた「活躍する組織人の探究」は、その第一弾でした。こちらの研究は、研究室OBの舘野さんが中心になって、第二弾の論文、書籍をまとめています。

 中原としては、このあたりの内容をさらに広め、さらに深め、今年の春から、「高校」をも研究のスコープに入れていきたいと考えています。

 2015年春、「高校ー大学ー社会のトランジション」まで視野にいれた、大規模研究プロジェクトが動き始めます。もちろん、企業の人材開発研究は、これまで以上に引き続きガシガシと続けています。
「高校生プロジェクト」の詳細は3月にプレスリリースをさせていただきます。

 どうぞお楽しみに!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年2月13日 06:28


他人の「行動」を変えようとしたときに起こる3つの反応!?:ファイト、フライト、フリーズ

 人材開発業界には「3F」とよばれる言葉があります。
 あのー「3F」っていっても「3階」じゃないですよ(笑)。
 さすがに「祝日あけ」とはいえ、ちょっとは「ボケ」ておりますけれども、そこまでではないですね。

「3F」とは
 
 Fight(ファイト)
 Flight(フライト)
 Freeze(フリーズ)

 の頭文字「F」をとったものです。

 要するに

 Fight(ファイト)=闘う
 Flight(フライト)=逃げる
 Freeze(フリーズ)=貝になる(固まっちゃう)

 ということですね。
 これは、「第三者が、ある個人・対象に対して外部から変革・変化を求めた場合」に、典型的に、その個人・対象にあらわれる反応のことです。もう少し砕いて申し上げますと、「赤の他人から、変われ!と言われたときに、人がとっちゃう反応のこと」を「3F」と形容しているのです。

 外部から「変わること」を求められ、追い詰められ「闘争モード」に入ってしまう。オラオラオラ、オレは変わりたくねーんだよ。ふざけんじゃねー。

 外部から「変革」を求められ、徹底的に「逃げること」を決め込んでしまう。逃げるが勝ちよ、スーパーロータリー(北海道人にしかたぶんわからない。正確には滑るが負けよ、スーパーロータリーですね)。

 外部から「このままじゃいけないよ」と言われても、全く聞く耳をもたずに「わたしは貝になりたい」と「固まって」しまう。

 ワンワードで、これら3つの現象の「共通点」をさぐるとすると、要するに

 「変わらない=変化ゼロです」

 ということです。
 闘って、逃げて、固まって、結局、内部は「変わらない」。

  ▼

 ここで知性的な私たちは、ひとつの究極の結論に気づかざるをえません。それは、

 他人を外部から無理矢理「変えること」は不可能であることの方が多い

 ということです。

 結局、

 人が「変わる」ときには、自分から「変わろう」とするときだけ

 ともいえるかもしれません。

 だとすれば、わたしたちが可能なのは、「自ら変わらなきゃならないかも」という内発的動機を「くすぐったり」、「マキをくべたり」、空気を送ることくらいです。
 火をつけようと思うのは「自分」。マッチをもつのは「自分」です。

 つまり、私たちは、

 他人を「変えること」はできませんが「変わろうとする人」を「支援」することならできます。

 少し望みがでてきました。

 しかし、ここに一縷の望みも存在します。それは、人間という生き物は、まことに「ソーシャルな生き物」であるという事実です。
 「超越的な自我」というものが存在し、他人には全く影響されず、「独立独歩、唯我独尊!」というのなら話は別ですが、事実は、その逆であることの方が多いものです。

 20世紀の人文社会科学の諸知見が明らかにしたように、わたしたちの知覚、行動、動機といったものは、近代という時代が想定したほど「個」「自我」によって支配されるものではありません。
 私たちの「見ているもの」「動き」、そして「やる気」などといった「わたしたちが所有していると考えられているもの」は、自らが所属する社会集団、周囲にいる他者の影響を受けます。
(なんちゃってではあるものの、小生、一応、大学教員のはしくれとしては、こういう一銭の役にもたたないことを、ぜひ、学生のみなさんには、学部時代に勉強していただきたいな、と思います。ぜひ、学んでいただきたいことのひとつは「そもそも、人をどのような存在として見るか」ということだったり、「そもそも言葉とは何か?」ということだったりすします。社会にでれば、多くの場合、こうした一銭の役にも立たないことは、学ぶ機会が限られます。もう一度、僕も、ゼロから学び直したいです)

 私たちは「自ら見ているつもり」でも、実際は、周囲の社会集団によって「見せられていること」が多々あります。
 同様に、「自ら動機をもって動いているつもり」でも、周囲の「ソーシャルなもの」に影響され、「自ら動いているつもり」になっていること」そして「自ら動いているつもり」になっていることが多々あるのです。

 ここに至って、知性を信じるわたしたちは、先ほどの結論を一部修正する自由が認められます。

 私たちは、他人を「変えること」はできませんが、人を「その気」にする「環境」をつくることはできます。
 それに加えて、先ほど述べましたように「変わろうとする人」を「支援」することができるのです。

 どうでしょうか?
 少しは望みがありそうですね

  ▼

 今日は3つのFの話から、

 第三者が「赤の他人」を変えることができるか?

 ということを考えてみました。

 一見、このような関心をもつ人々にとって、3つのFとは「絶望の詩」のように聞こえます。
 しかし、わたしたちの「個」などというものは、まことにフラジャイルでソーシャルなものです。無理矢理は変わりにくいのが他人であるけれど、その気にすることは可能だし、その気になった人を支援することなら可能です。
 この人間の弱さでもあり、柔軟性が、歴史をひもとけば、それが人類にとって「ポジティブな出来事」を生み出した反面、「悲惨な出来事」をも生み出したわけですが。

 あなたは他人を変えようとして、その相手からFight(ファイト)、Flight(フライト)Freeze(フリーズ)されていませんか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年2月12日 06:37


「学び上手さん」と「学び迷子さん」を分けるものは何か?:皆さんの「学びの物語」を教えていただけませんか?

 今、これから書こうとしている本のひとつに「社会人の学び方」に関する入門書があります。山下津雅子さん(かんき出版)、渡辺清乃さんとの仕事で、毎回、あーだこーだいいながら、企画を煮詰めています。

 この本のコンセプトは、ワンセンテンスで申し上げますと、

 あなたは「学び方」を知っていますか?
 Do you know how to learn?

 です。

 一般に「学び方」を知っている人は、どんなに環境が変化しても、学び直すことができますが(理念的には)、「学び方」をしらない人は、「過去に学んだ内容」が色褪せてしまえば、そこで行き詰まりを感じてしまいます。

 しかし、このように大切だと思われる「学び方」なのですが、「学校の正規科目」ではありませんし、「明示的」に教えてくれる場所はありません。そんなの教えてくれるわけないよねぇ。

 ということで、この本は、そんな状況に「何とかならんのかいな!」と立ち上がった入門書です。「学び方、これぞ、極まれり!」というものを「どかーん、ババーン、ちゅどーん」と提示するというよりは、学び方を読書一緒に考えることができたらな、と思います。そのうえで、本を編むのなら、ぜひ、「地に足のついた企画・内容」にしたいと考えています。

 そこで!!!
 またかよ、と「便所スリッパ」でカンチョーされそうですが、このブログをお読み頂ける参加して頂ける「参加型企画」を思いついちゃいました。

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 ズバリ、みなさまに「ご意見」や「事例」を伺わせて頂きたいのは、

 どうか、あなたの近くの「学び上手さん」と「学び迷子さん」を教えてくれませんか?

 ということです。

 周囲の他の方でなくても結構です。
 もし、あなた自身の「学びの物語」を教えて下さることができたとしたら、これ以上、うれしいことはありません。

 お忙しいところ、まことに恐縮ですが、下記のWebフォームから、どしどし?と(どしどしって、どんな状況でしょうね?)、お近くの事例をお寄せ頂けませんでしょうか。

学び上手さん・学び迷子さん:アンケートフォーム
https://docs.google.com/forms/d/1c-4ldRn19ORCCdpM4fKnXaezznFyRWXBBzIJCeGTo9k/viewform

  ▼

 先ほども述べましたように、世の中には、「学び方」を教えてくれる場所は、そう多くはありません。ゆえに、大人は試行錯誤しながら、学ぶことを試みています。

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 しかし、その試行錯誤ゆえに、世の中には、悲しいかな「学び上手さん」と「学び迷子さん」が生まれているような気がします。

「学び上手さん」とは、「学ぶことが自分のキャリアや仕事に活かせている人(状態)」のことをさします。
 はたから見ていて、「着実に前に進んでいるような感覚」、「あのひと、学んだことを活かしてるね!」と思えることが、仮に「学び上手さん」の特徴だとします。

 一方、「学び迷子さん」は、ほんの少し残念な状態です。
「あれっ、学んでるその内容、そもそも大丈夫?」というようなものを学んでいたり、「学ぶごとに不安や葛藤に苛まれていったり」するのが「学び迷子さん」だとします。「生涯迷子」を自称している小生に言われたくないと思うのですが、そんな「学び迷子さん」たちを応援したいというのが企画の趣旨です。今の社会において「学び上手さん」と「学び迷子さん」を分けるものは何か?を最終的には考えたいなと感じています。

「学び上手さん」も「学び迷子さん」も学術用語では1ミリもありませんので、定義はこのくらいにしておいてください。それは個人の属性なのか? それとも状態なのか、とかいう細かいツッコミはなし。

 要するに、「学ぶことでポジティブな効果が得られている(状態)」のが「学び上手さん」。「ちょっと残念な状況が生まれている(状態)」のが「学び迷子さん」だと軽く、ゆるく、とらえておきましょう。

 みなさまにどうかお願いしたいのは、

 お近くの「学び上手さん」や「学び迷子さん」にはどんな人がいるのか?

 ということをぜひ、教えて頂きたいということです。ご自身の事例でも結構です。「学び上手さん」や「学び迷子さん」の事例は匿名で結構ですので、どんな年齢の人で、どんなことを学び、その結果、状況が生まれているのかを、ぜひご教示いただけないでしょうか、というのがお願いの趣旨でございます。
 もし、あなたが学びをきっかけにポジティブな効果や出来事を経験なさったとしたら、そのことをぜひ差し支えのない範囲で教えて頂くことはできませんでしょうか?

 本を編むのなら、「みんなの問題」をしっかりと真正面から向き合える本にしたいと僕は願います。そのことで、問題のすべては解決しないと思いますが、せめてうーん、うーんと、その問題を一緒に考えさせて頂きたいと思うのです。

 お寄せいただいた事例は、すべてを本に載せることはできませんが、収集分類したうえで、本書のテーマにあうもの+共通なテーマだと思われるものを、本書、ないしは、このブログなど著者に関連する講演等で取り上げさせていただきたいと思っています。またお寄せ頂いた事例は、匿名で表示させていただき、また、またクレジット表示はいたしません。恐れ入りますが、著作権等も放棄をお願いいたします。著作人格権の主張もどうか、お控えください。このことをご了承いただける方に、どうか御協力のほどお願いいたします。

 というわけで、皆さんのお近くの「学び上手さん」と「学び迷子さん」?
 どうか教えてくださいますよう、お願いいたします!

学び上手さん・学び迷子さん:アンケートフォーム
https://docs.google.com/forms/d/1c-4ldRn19ORCCdpM4fKnXaezznFyRWXBBzIJCeGTo9k/viewform

 そして人生は続く 

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追伸.
 ダイヤモンド・ハーバードビジネスレビューの最新号「オフィスの生産性」に、「オフィス改革とはコミュニケーション改革である」という小論を掲載して頂きました。もう発売になったようです。こちらは「学び迷子さん」とか言っていません。真面目な小論です。編集等をご担当いただいた前澤さん、井上さんには大変お世話になりました。心より感謝をいたします。
 オフィス改革を成功させるための組織力学含めたステップを論じたつもりです。もしよろしければ、どうぞご笑覧いただけますよう、お願いいたします。

 

投稿者 jun : 2015年2月11日 06:28


家族のハッピー度を極大化する連立方程式!? : 持続可能な子育て生活の「納得解」を探して

 最近「寒い」ですね。シバレルねぇ、ぶるる(笑)。いわゆる「大寒」を超えたけれども、まだまだ厳しい寒さが続きます。小生、北海道出身ながら「寒さ」の方には滅法弱く(笑)、松任谷由実の「春よ来い」の鼻歌をフンフン歌いつつ、日々、過ごしているところです。

 とはいえ、「今年の春」は、我が家にとっては「特別な春」になりそうです。4月になれば、カミサンが仕事に復帰し、長男KENZOは引き続き小学校へ、次男KENZOが保育園にいくことがはじまるからです。二人の実家は、ともに遠方。都内に「頼れるジジババ」、イクジイ、イクバァはおりません。おまけにカミサンも僕も、なかなかの「ハードワーク」ときています。カミサンはメディアの仕事をしています。しごとのことはよく知りませんが、なかなかハードそうです。

 要するにワンワードでいうと、

「4月以降、共働き子育てを、いかに為していこうか」

 と今から思案しているところです。今、そのためのセーフティネット、心の準備が佳境に入っているということでしょうか。あまり小生、お役に立っていない気もしますが(笑)、まことに申し訳ございません。

  ▼

 アタリマエダのクラッカーですが、爆速で仕事をしながら、子どもを2名育てることは、なかなか大変なことです。中にはもっと過酷な環境で、たくさんの子どもを育てられている方もいらっしゃると思うので、そうした方には頭が下がります。

 うちの場合は、僕とカミサンと、いくつかのシンプルな取り決めをしました。

 それは、

1.仕事のやり方をゼロベースでみなおすこと
2.「今は諦めなければならないこと」を決めること
3.生活環境をゼロから見直すこと

 の3つです。これらを相互に行うことを約束しました。

 子どもを2人育てることには、喜びも大きい反面、それなりの負担や負荷がかかります。それを長期的に、かつ安定的に担うようにするには、「かけ声」や「気合い」や「でたとこ勝負」では乗り越えることはできません。

 まぁ、実際は「じゃあ、やーめた」と言えるわけがないものなので、いったん動き出せば、「ブレーキのないジェットコースターにのって爆走」するしかないのです。が、「ブレーキのないジェットコースターにのって爆走すること」がわかっていて、何も考えないで、それに乗り込むのは、やや自爆行為です。ま、結果は変わらないのかもしれないけど。ブレーキをはずす前にちょっとだけ知性を取り戻そうよ、ということで(笑)、せめてお祈りくらいしとこうよ、ということで、ちょっと考えてみました。

 既述いたしましたように、ひとつめ「1.仕事のやり方をゼロベースでみなおすこと」は、必要に応じて、仕事のやり方をゼロベースで見直す必要がある、ということです。できるところまで効率化し、優先順位をつけ、無駄をはぶく必要があります。これは小生は、来年度から徹底的に、例外なく行うつもりです。そうでなければ、家庭が回りません。

 しかし、おそらくそれだけでは限界がでてきます。
 ふたつめは、場合によっては、仕事の中で、少なくとも、今は諦めなければならないことがでてくることを「覚悟」することです。自分のキャリアにとっては必要なことでも、今、ここでは、それを優先できない状況が生まれうることに腹をくくることです。これは僕もカミサンも例外なく覚悟を決める必要があります。
「今はあきらめる」というのは、あまりポジティブな態度とは一般に思われないかもしれません。僕の中でも正直にいうと葛藤がないわけではありません。しかし、僕の感覚では、これは「必要なこと」だと思っています。
 もちろん「今はあきらめる」は「あきらめる」ではありません。それは「未来永劫あきらめること」を意味しないということです。

 みっつめは、これらを可能にするための生活環境を徹底的に整備することです。くどいようですが、日常生活は日々続きます。物理的に整備できる環境は、徹底的に整備することにします。

 これらに加え、中原家には、子育て・家庭生活の大原則として、「家族のハッピー度を極大化する」という原則があります。
 要するに、我が家では「子どもだけのハッピーを優先して、親がひーひーする」とか「親だけのハッピー度を優先して、子どもがひーひーいう」とか、そういう意志決定を行いません。これは長男が生まれたときから、常に頭の奥底においていることです。

家族みんなのハッピー度関数
http://www.nakahara-lab.net/2007/02/post_759.html

 我が家では、あくまで「家族のハッピー度を極大化すること」をめざします。もしかすると、この関数においては、家族構成メンバー個々人にとって「ベストな解」や「最善解」が得られない場合もあるかもしれません。しかし、みんなが満足できる「納得解」はどこかにあるはずです。いいえ、それを我が家のメンバーであるならば、その「納得解」を探さなくてはならないのです。

 先ほどの3条件に加えて、「家族のハッピー度を極大化すること」をめざすというのは、なかなか複雑ですね。あまりの込み入り具合に、「はぁ」とため息をつきたくなる衝動を抑える必要があります。それは難しい連立方程式をとくようなものですね。

 でもね、「ブレーキのないジェットコースター」は、もう目の前にあるのです。
 僕たちが乗り込み、走り出すことを、今か今かと、待ちわびて。

  ▼

 こうして考えてみると、4月以降の生活設計というのは、なかなかに大変なものです。先ほどの「複雑な連立方程式」は本当にとけるのかしら、「解けない連立方程式」なんじゃないかと思えてもきます。

 たしかに、この方程式、複雑です。しかし、必ず「答え」はある。
 いいえ、「答え」は、僕たち家族が、動きの中で、創り出さなくてはなりません。

 ごめんなさい、今日は思い切りプライベートな話題になりました。
 4月以降は、僕自身も、徹底的に仕事の仕方を見直します。極力、週末には仕事を入れないようにするか、ないしは精選します。ウィークデーも、極力はやく帰る日を戦略的につくりだそうと思っています。

 春よ来い!
 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2015年2月10日 06:42


「状況どっぷりでなされる非言語的若手育成」が奏功する条件!? : 「徒弟制ロマン」の先にあるもの!?

「今、自分のところに配属された若手の育成に悩んでいます」

 とおっしゃる方が、ちょっと前のことになりますが、研究室にお見えになり、対話の時間をもつことができました。最近、「自分の部下の若手が、自分の判断で動けないこと」に、モヤモヤを抱えておられるそうです。「もうそろそろ一人前になって、手離れしてくれないと困る」段階に入っているそうで、正直、どうしてよいかわからないとのことでした。
 もちろん、自分もその時々ごとに「指導」はしているのだけれども、どうも「自分の伝えたいことが伝わっていない気がする」とのこと。

 興味深かったのは、

「何をお伝えになりたいのですか?」

 と僕がおたずねしたときの、その方のお答えでした。ICレコーダを持っていたわけではないので、そのまま再現できているわけではないのですが、下記のようなことをおっしゃっていました。

 曰く

「身体でわかっていることを、言葉できないんですよね。そのシチュエーションがきて、その状況になったら、こうしたほうがいい、と言えるんだけど。それとは別のところでは無理。全体を網羅して、自分の伝えたいことを、言葉にまとめて話すのは難しいんです」

 なるほど、お気持ちはよくわかります。

 本当に大切なことは、その場の状況(in situ)にならないと伝わらないということ

 そして

 伝えたい内容は「身体でわかっていること」なので、言葉にすることは難しいということ

 まして

 全体を網羅して仕事を語るなんてことは、一度もやったことがないということ。

 おっしゃる気持ちは痛いほど、よくわかります。その場の状況に応じて、全人格的に指導を行うことが、いかにパワフルか。そして、その実態を言葉にすることが難しいことは、理解できました。

 しかし、一方で、その状況下では、もともとの問題である「部下の若手が、自分の判断で動けないこと」の解決をできるだけ速くなすことは、なかなか難しいだろうなとも思いました。

 なぜか?

 それはこのやり方だと、指導は「その場の状況でなされ」、かつ「言葉をあまり使わずなされる」ので、若手がその方の技を盗むためには、「長期にわたって、一緒に仕事をともになすこと」が条件になるからです。
 
 また、このやり方だと、「指導」は常に「ある状況が生起したとき」に「事後的」になされることになってしまいがちです。事前には何も聞かされていないので、何かをやらかしたあとで、それに関するフィードバックが上司からなされることになります。それはパワフルではあるけれど、やはり長い時間がかかります。また、この時間に耐えるだけのモティベーションが若手に存在しなくてはなりません。若手の方からすれば、「事前に全体像を教えて欲しい」と考えるはずです。

 職人などの徒弟制で、意欲ある若者が人生をなげうち、親方の家に住み込みで、生活をともになし、四六時中一緒にいて、親方の一挙手一投足を観察学習できる環境なら、それは奏功するかもしれません。しかし、それが不可能な状況では、それとは異なる指導のあり方を考えなくてはならないような気もします。

 その可能性のひとつは、

 なかなか、言葉には表現しにくいことを認めたうえで、
 一度、仕事の全体像を言葉にしてみること
 それを、仕事の状況とは離れた場面で、
 若手に説明し、対話すること。
 必要に応じて、言葉でフィードバックを与えること

 であるような気がします。
 かったるくて、面倒くさくて、気乗りはしないとは思うけど、やっぱり一度は、伝えたいものを整理して、言葉にしなければならないのかな、と考えていました。

  ▼

 今日は若手の育成の問題について書きました。くどいようですが「本当に大切なことは、状況に埋め込まれて、全人格的にしか伝わりえ得ない」というのは、なるほど、そのようにも思います。しかし「言葉による伝達の可能性」を疑う前に、いったんは、自分の仕事をできるところまで言葉にすること。それを共有して、対話をすることに時間をかけてみても、よいかもしれないなとも思います。

 最近、本当に心の底から思うのですが、この国の育成は「徒弟制」をモデルに語られすぎているような気がします。「徒弟制ロマン」っていうのかな。徒弟制的な育成を、手放しで望ましいものとして語ってしまうような雰囲気です。もちろん、それがパワフルであることは認めるのですが、それには奏功する諸条件がいくつか存在します。
 現在の会社・組織が、それにマッチした育成を可能にする環境であるのなら、それもよいのですが、僕のみるかぎり、そこには一定の限界もあるような気もしています。

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 ダイヤモンド・ハーバードビジネスレビューの最新号「オフィスの生産性」に、「オフィス改革とはコミュニケーション改革である」という小論を掲載して頂きました。

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 オフィス改革を成功させるための組織力学含めたステップを論じたつもりです。もしよろしければ、どうぞご笑覧いただけますよう、お願いいたします。編集等をご担当いただいた前澤さん、井上さんには大変お世話になりました。心より感謝をいたします。

 

投稿者 jun : 2015年2月 9日 06:59


「栓の抜けているバスタブ」で風呂に入って風邪をひく話!? : 知的生産におけるインプットとアウトプットの関係!?

 時折、自分自身、生きていることが「栓の抜けているバスタブで風呂に入っている」かのように感じることがあります。
 以前にもお話したことがあると思いますが、僕には、自分の生活が、下記のようなイメージされることがあるのです。

Doc-2014_02_10 6_38-page-1.png

 ごめんなさい、相変わらず、絵が下手です。さすが図工2(笑)。
 この「栓のない、このバスタブ」には、上から勢いよくお湯を注がなくては、「いい湯だな、あー、こりゃ、いい按配だわな」とはなりません。
 もし万が一「蛇口からの注水量<栓からの出水量」となってしまえば、すぐにお湯が下から「ジャジャモレ」して、最後はスッカラカンのカーラ、カラになってしまうからです。

 ここで喩えられている「注水量」とは、言うまでもなく「新たな情報・知識をインプットすること」です。そして「出水量」というのは「自分が行うアウトプット」です。

 この2つの量のバランスをとり、常に「注水量>出水量」の関係にしておくことがとても大切です。しかし、ともすれば「注水量<出水量」になってしまい、お湯がジャジャ漏れして、はっくしょーん、しばれるねぇ状態になってしまいがちです。

 僕だけかもしれませんが、研究をしていると、常に、このバランスのことを考えます。まことにありがたいことに、講演や出版など、様々なアウトプットの機会を賜るのですが、時にふと不安になるのです。

 バスタブにお湯はあるか?
 ちゃんと注水できているか?
 自分は、すっからかんのかーらからになっていないか?

 と。かつて、何のCMだったか忘れたのですが、

 いったい、僕らは何に乾いているんだろう?

 といったようなコピーがありました。特に話題になっていたCMではないとは思うのですが、どうも僕には、このコピーがずっと頭に残っていて、バスタブにお湯が少なくなったとき、いつも思うのです。

 僕は乾いていないか?
 今、自分は干からびていないか?

 と。

 ▼

 今日は知的生産におけるアウトプットとインプットの関係について書きました。こんなことを言っているくらいですから、きっと、最近、自分自身に、インプットの量が不足していることに危機感を感じている証左かなと思います。とはいえ、年度末は強烈に忙しい。何とか、この局面を乗り切り、少しじっくり論文や本にあたる時間をとりたいものです。

 あなたのバスタブに、お湯は残っていますか?
 僕は結構危ないです(泣)
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年2月 6日 07:29


【シェア・いいね・RT:拡散どうかお願いいたします】 「中小企業における人材育成の実態調査」:調査へのご協力のお願い

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 中小企業は、大企業とぜんぜん、違うよ
 中小企業には、中小企業独自の人の育て方があるよ
 大企業のことなんて、中小企業では通用しないよ

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 昨年より「中小企業の仕事の現場には、どのような人材育成のメカニズムが存在し、何が機能しているのか」を調べる共同研究が進行しています。上記のような一連の問いに対して、それが「正しい」か「正しくないか」の「答え」を出す研究です。

 以前ブログでお知らせしましたとおり、トーマツイノベーション株式会社さまとの共同研究で、中小企業を対象とした「職場における人材育成の実態を解明する研究」が昨年からスタートし、ようやく数ヶ月にわたる予備調査を終え、本調査の開始となりました。

 本調査に関しましては、多くの方々からメールなどでお問い合わせをいただきました。中には調査に協力いただけるという御連絡も賜り、とても幸せなことに思います。ありがとうございます。

 そこで、お言葉に甘え、この調査に御協力いただける方を、下記のように広く募集させて頂くことになりました。どうか、リンク先の応募文章をご一読いただき、この調査への御協力のほど、どうかよろしくお願いいたします。
 御協力頂きました方には、成果をまとめたレポートや、「あっと驚くタメゴロー的?成果報告会」にご招待させていただけます。

「中小企業における人材育成の実態調査」:調査へのご協力のお願い
http://www.ti.tohmatsu.co.jp/specially/npro/index.html

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 思えば、中小企業の人材開発の実態は、データも非常に限られており、これまで長くベールに包まれてきました。
 人材開発研究の多くは、従業員規模300名ー1000名をこえるような、いわゆる「大企業」を舞台として行われきた経緯があるからです。この国の企業のうち、9割以上は中小企業です。しかし、そこは人材開発研究の主要な舞台ではありませんでした。

 以前にも申し上げましたが、これにはいくつかの理由がございます。
 最大の理由のひとつは、大学・研究者との共同研究を回していく人材、リソースを社内に用意することが中小企業には難しかったことがありえます。

 もうひとつの課題は、そもそも研究に非常に手間がかかり、かつ、困難であったことがあげられます。
 問題のひとつは、中小企業は組織サイズが小さいため、データを取得することがそもそも難しいということがあげられます。N数を確保しようにも、そもそも組織が大きくありません。
 また、経営者要因など、いくつかの「変数」が大きな影響力をもっていることが予想され、実証的な研究を行うときに、組織サイズや、経営者の承継体制など、いくつかの場合にわけて考察をしなければならないことが予想されること、などです。

 かくして、いくつかの理由のため、我が国における「中小企業の職場における人材育成の実態解明」は、あまり進んでいませんでした。
 そして、これは僕にとって、長年取り組まなければならない、しかし、実務的にも、かつ研究的にも非常に困難な課題でした。

 しかし、このたびトーマツイノベーション様という共同研究パートナーを得られましたこと、また、自分自身も、十数年の研究の経験を積み、ようや く、中小企業の人材開発の実態に迫れるだけの準備ができたこと。
 またすでに昨年から実施してきた予備調査でも、非常に綺麗なデータを得ることができ、本調査に向かうだけの確信が持てました。

 かくして「中小企業における人材育成の実態調査」の本調査を実施させていただける運びとなりました。
 どうか、先にご紹介させていただきました「調査へのご協力のお願い」、もしご興味・ご関心がございましたら、ご検討いただけますよう、お願いいたします。「あっと驚くタメゴロー的?成果報告会」でお逢いできますこと愉しみにしております。
 
「中小企業における人材育成の実態調査」:調査へのご協力のお願い
http://www.ti.tohmatsu.co.jp/specially/npro/index.html

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 なお、本共同研究は、たくさんの方々のご尽力によって実施されております。
 プロジェクトメンバーは、トーマツイノベーション株式会社様側は、真﨑大輔社長はじめ、新谷健司さん、渡辺健太さん、鈴木義之さん、濵野智成さん、小暮勝也さん、伊藤由紀さん、五十嵐慎治さん、長谷川弘実さんです。どうもありがとうございます。アカデミクスからは、中原と保田江美さんが参加しています。この研究成果は、成果報告会でみなさまにご報告させていただくことに加え、

「中小企業の人材育成」というかたちで、研究専門書や各種論文にまとめさせていただける予定です。この調査が、中小企業の人材開発に関する社会的関心の高まりに少しでも寄与できたとしたら、これ以上、嬉しい事はありません。

 なお、最後になりますが、すでに実施した予備調査をはじめとして、今後、本調査をご一緒させて頂くトーマツイノベーション株式会社、現場で中小企業の方々と相対しプロジェクトに御協力頂ける同社社員の方々、そして、貴重な時間をこの調査に割いて頂ける回答企業の社員の方々には、この場を借りて、心より感謝いたします。引き続きどうぞよろしく御願いいたします。

 中小企業は、大企業とぜんぜん、違うよ
 中小企業には、中小企業独自の人の育て方があるよ
 大企業のことなんて、中小企業では通用しないよ

 これら一連の問いに対する答えが、半年後には明らかになります。
 どうかお楽しみに!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年2月 5日 05:14


「キラキラ社会人」の溢れる就活・採用場面を超えて:「残念な社会人」ワークショップ!?

 中原研究室の大学院学生有志と、いろいろな研究プロジェクトに取り組んでいます。

 そのひとつが、去年から取り組んでいる「大学ー企業のトランジションプロジェクト」です。編著「活躍する組織人の探究」(東京大学出版会)に続くトランジションプロジェクト第二段で、研究室OBの舘野さん、博士課程の木村さん、高崎さん、保田さん、吉村さん、修士課程の田中さん、浜屋さんらと、これまで取り組んできました。2年間かけて、ようやく論文や書籍を執筆する段に入ってきています。


(活躍する組織人の探究は「芝生本」と呼ばれています)

  ▼
 
 論文の方は、代表者の方が苦労なさって投稿し、こちらは今結果待ちの状態にありますが、今、もっとも問題になっているのは書籍の方です。
 いわゆる「調査報告書的」ではない、わたしたちにしかできないような「本」をつくれないかと画策しています。

 そこでわたしたちが思いついた案が、「わたしたちの調査結果の知見を生かしたワークショップレシピと実践報告を掲載した本」でした。

 おそらく、うちの研究室の強みは、「サーベイをしながら、実践もできる」という「二足のわらじ的な研究者(悪くいえば、どっちつかずのプラプラ研究者)」を自信をもって(勘違いしながら)もって養成することです(笑)。
 アカデミズムにおける伝統的問いである、

 あんたがめざすのはリガー(科学的厳密性)か、プラクティカルレリヴァンス(実践関連性)か?

 と問われれば、僕は、躊躇なく「そんなの、どっちもじゃん。愚問は頭を悪くするよ」と答えるでしょう(笑)。

 というわけで、今、書いている本は、

 大学から企業へのトランジションを扱った本で
 しかも
 ワークショップ実践+レシピをのっけたサーベイ本

 という本になりました。
 ていうか、先の文章では「今、書いている本」としましたが、実際には「1文字」も書いていないことは内緒です(笑)。いまだ、脳内執筆中。

 というわけで、今、大学院生の皆さんで、いろんな大学生向けのワークショップを考えては、実践し、あーだこーだ議論しているところです。
 ワークショップの開発というのは、まずコンセプトが必要です。今は、コンセプトをひねり出し、実践に落とし込み、数名を対象にした実験を行い、ブラッシュアップするということを繰り返しているのです。

  ▼

 昨日は、研究室の田中さんが、面白いアイデアをもってきてくれました。彼が対象にしているのは、企業への就職活動を終えた大学生に対するワークショップで、組織への適応を早めるものを考えておられます。

 田中さん、曰く、

 学生が「就活」で出会う社会人というのは、企業の中でも最もキラキラしており、かつ、エネルギッシュな人々である

 といいます。というか、正確にいいましょう。その方々の個人的資質がどうかはわかりませんが、採用・就活の局面では、否が応でも、「キラキラ」「エネルギッシュ」を演じなければならない局面が存在することは否定できないでしょう。
 そりゃ、採用場面の実務にたたれる方は、企業の顔・イメージを背負います。初期リクルータ研究が明らかにするように、リクルータの個人的イメージから、採用応募者は、その企業のイメージを推論し、応募を決めるのです。このような条件下では、どんよりとした人がアサインされること、ないしは、グダグダな自分しか演じられない人が、その職にアサインされることは希でしょう。
 
 研究室の浜屋さんによりますと、

「人は、若い頃には、自分より遠くて、ポジティブな人を探してロールモデルとする傾向があり、年をとると、自分に近くて反面教師となる人を反・ロールモデルにする傾向がある」

 という研究知見があるそうです。

 この知見を考えるなら、やはり採用場面には、自分より少しお兄さんで、彼らがロールモデルになりえるようなキラキラ男子・キラキラ女子がアサインされるということになるのでしょうか。あるいは、そうした役割演技が期待されることになります。

 しかし、実際、わたしたちが組織に参入後、出会う人々は必ずしもそうではありません。モティベーションも、能力も、ルックスも様々な人がいます。彼らは、敢えて「キラキラ」を演じることを、社会的に要請されてはいません。

 いいえ、組織参入後、就活のときに出会った、先のキラキラお兄さん・キラキラお姉さんですら、仕事に疲れているかもしれません。

 「つーか、やってられるか、このボケナス!」

 と居酒屋でぐだをまいていたり、

 「オレもツレーんだよ、やってらんねーんだよ!」

 と後輩に絡んでいるかもしれません。いえ、そこまでいかなくても(?)、人知れず、キラキラを演じることに後ろめたさや悩みを感じているかもしれないのです。
 つまり、採用・就活というのは「特別に仕立て上げられた舞台」なのです。それが必ずしも「組織のリアル」を反映しているわけではありません。

 組織のリアルは「キラキラした社会人」ばかりではなく「残念な社会人」や「残念な状態の社会人」も溢れています。
 正しく言えば、「キラキラした社会人にも終わりなき日常があり、日によっては、(少なくとも学生の目線からみれば)残念な状態で仕事に取り組んでいる場合も少なくないということです。

 ここで大切なことは、「残念な社会人」や「残念な状態」を糾弾することでは、断じてありません。
 自戒をこめていいますが、社会で仕事をしていれば、かなり「残念な状態」もあり、しかし、ごくごく希に、オケイジョナリーに(なんで英語?)「キラキラすること」もありうるかな、くらいが、「組織の中で働くということのリアル」ではないかと思います。

 そして、今はまだ経験が浅くキラキラしている学生ですら、少し時間がたてば、あっという間に「残念な社会人」になりうる可能性はゼロではありません。だから、ここではやや極端に「残念な社会人」と書きましたが、そう考えるならば、「残念な社会人とは、キラキラ社会人ではないフツーの社会人」と考えることもできます。

 こうした「組織のリアル」との出会い、それにともなう激しいリアリティショックは「特別に仕立て上げられた舞台としての採用・就活」を華々しく通り過ぎて来た人ほど、大きくなることが予想されます。だからこそ、残念な状態を事前に知り、しかし、真に受けるのではなく、「笑いとばさなければなりません」。

 田中さんが提案してくださったワークショップの詳細はここでは述べませんが、この「キラキラ」「残念」「ロールモデル」「反ロールモデル」ということをキーワードに、ワークショップを今後、浜屋さんと一緒に実践なさるそうです。楽しみですね。

 この本は、いまだ出版社が決まっていないので、出るかどうかすらわからないのですが、わたしたちとしては、ぜひ、ワークショップレシピ+サーベイ結果もご覧頂き、実践に役立てていただけたらなと考えています。大学などで実践できるよう、90分 / 100分くらいの枠でできるワークショップを考えているところです。

 そして人生は続く

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追伸.
「耳」を養うアナウンサーの学びの現場!? : TBSアナウンサー加藤シルビアさん、笹川友里さん、清水大輔さんにお話を聞く(ダイヤモンドオンライン:中原淳の学びは現場にあり!、本日公開されました!)。当時、取材をアレンジして頂いたTBSテレビ藤田さん、矢田さんには心より感謝致します。

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「耳」を養うアナウンサーの学びの現場!?
http://diamond.jp/articles/-/66194

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追伸.
 ただいま「現場マネジャーの抱えるディレンマ」を絶賛募集中!です。えーい、どないせーちゅうねん系悶絶ディレンマ、どうかお寄せください!

「現場マネジャーの抱えるディレンマ」を絶賛募集中!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/01/post_2347.html

投稿者 jun : 2015年2月 4日 06:56


成果が出ない新任マネジャーが陥りやすい「思考の罠」:「オレが、勝ちパターンを教えてやるから、言うとおりにやればいいんだよ」はうまくいくか?

「実務担当者」から「新任マネジャー」へのトランジション(役割移行)研究というものを、本当に細々と続けています。
 この研究は、拙著「駆け出しマネジャーの成長論」の続編ということになりますが、今月に「大きな山」があり、また一歩、研究が進むことになりそうです。なるべく早く研究知見をお届けできるよう、頑張ります。


 ▼

 これまでの研究において「実務担当者」から「新任マネジャー」への役割移行においては「新任マネジャーが陥りやすい、いくつかの罠」というのがわかってきています。そのさわりは、「駆け出しマネジャーの成長論」にも書かせて頂きましたが、今日は、それとは違うものを論じていきましょう。

 ここで「マネジャーの陥いりやすい罠」とは、新任マネジャーにとってみれば、一見「合理的(ラショナル)」に見えるのだけれども、ついついハマってしまう「思考の癖」とお考えください。そうしたものに囚われていくと、深みにどっぷりはまっていく事例が少なくないということです。

 「罠」のひとつは「水平展開の罠」です。
 「水平展開の罠」とは、「自分が実務担当者時代にとって成功した勝ちパターンを、そのまま部下・職場にもやらせようとして、成果が出ないこと」をいいます。この事例は、主に、営業組織を念頭においていただければ、幸いです。
 
 ワンセンテンスで述べるなら、

 オレが、勝ちパターンを教えてやるから、言うとおりにやればいいんだよ

 という感じですね。

 もちろん、この戦術でも、うまくいくこともあるでしょう。しかし、ヒアリングなどで語られるのは、その逆であることの方も少なくないのです。成功パターンを教えているのに成果がでない、という感じですね。

 さらに、この戦術は、マネジャー「自らの成功体験」に支えられておりますので、なかなか「客観視」することができません。成功体験に支えられているがゆえ、ラショナルにも感じますが、これが「罠」になることは少なくありません。

 それでは、なぜ水平展開戦術がうまくいかないこともあるのでそう。それは「水平展開戦術」が奏功するためには、最低でも2つの前提条件がそろっていなければならないからです。

 ひとつは「成功パターンを踏襲させたい部下の能力・モティベーションが、マネジャー自分と同じであるか?」ということです。
 マネジャーとしては、「成功するやり方」を教えるのだから、そのまま展開さえすればいけるはずだ、と考えたくなるものですが、たいがい、それはうまくいきません。なぜなら仕事を支える「部下の能力・モティベーション」が、自分のそれとは異なっているパターンもありえます。

 また職場には、様々な人がいます。部下が一様に、同じだけの能力・モティベーションをもっていさえすれば、職場として「面」をつくることが可能ですが、たいがいは、そうはいきません。
 人生いろいろ、能力いろいろ、そして、モティベーションいろいろなのです。かくして、同じ戦術を展開していても、「まだら」がでてくることになります。

「水平展開戦術」の、もうひとつの前提条件は、「自分が実務担当者であった頃の外部環境(市場環境)と、今回、成功パターンを適用する外部環境(市場環境)は、同じかどうか」ということです。これが同じであれば、成功の勝ちパターンは似ていることも考えられるので、適用が可能かもしれません。

 しかし、環境は常に移ろいゆくもの。
 自分がかつて成功した勝ちパターンが、必ずしも、適用できるとは限りません。

 かくして、新任マネジャーの水平展開戦術には「陰り」がみえはじめます。思ったように成果はあがりません。

 新任マネジャーは焦り始めます。その様子を戯画的に描き出すと、こんな感じです。

オレが勝ちパターンを教えてやるから、言うとおりにやればいいんだよ。おい、こら、言うとおりにやってるか? そこ、勝手に、カスタマイズしてんじゃねー。

勝ちパターン教えてやったろうが。本当に、熱意あるか? 熱意があるなら、成果がでるはずじゃねーか。

 かくしてデフレスパイラルに陥りだしたマネジャーを襲うのは、「熱意の罠」「恐怖政治の罠」です。ここについても、書いていきたいのですが、僕は、もう大学に行かなくてはならず、時間がないのですね。

 この話題は、また今度お話ししましょう。

 ▼

 今日は新任マネジャーが陥りやすい「水平展開の罠」について書きました。もし、あなたが「勝ちパターンを教えてやってるのに、なんで、できねーんだよ」とか「勝ちパターンを展開しているのに、いまいち、成果がでねーんだよ」と思っていたら、この2つの前提条件を探ってみられると、少しヒントがうまれるかもしれませんね。

 そして人生は続く

 ーーー

I have investigated what kind of experiences and troubles people tend to have when they are promoted from general staff to managers. I found that there are some pitfalls into which new managers tend to fall.

 ▼

One of the biggest pitfalls is that new managers tend to force their own way of working on their staff. Generally, new managers have achieved high performance before being promoted and have created their own way of working. They apply it to their work and they are promoted to manager. New managers tend to force their staff to work in the same way as they did in order to achieve high performance from his staff.
 
 In short, the manager says,

"I'll show you the best way.
 You just do it.
Otherwise, you cannot achieve the goal!"

New managers have a lot of confidence because they have been successful and they have been promoted. They have "strong successful experience". Of course, it occasionally works. But the most usual case is the opposite. I think that it usually fails even if their staff work like their manager.

Why is this strategy not successful?
I think that there is one pre-condition in order to have this strategy work.

The pre-condition is that their staff must have the same ability and motivation as the manager. New manager think their staff have only to apply their way of working. Generally, it does not work. The staff's ability and motivation is totally different from their manager's.

In our workplace, there are a lot of people with diverse social backgrounds. Their ability and motivation are different. So, even if their manager teaches successful methods to them, they cannot apply it to their work. Some people neglect it. Others don't have the ability to use it.

New managers wonder why their staff cannot achieve high performance even though they teach the best way to them.

"Why are they able to achieve the goal?
Why can't they work like me?"

 ▼

Today, I wrote about one of the pitfalls into which new managers tend to fall. New managers must check their staffs' ability and motivation before they assign jobs to them.

Life goes on...

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追伸.
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投稿者 jun : 2015年2月 3日 06:25


量的研究みたいな質的研究!?、質的研究みたいな量的研究!?

「質的研究」と「量的研究」という言葉があります。

 僕がその言葉をはじめて聞いたのは、大学の学部3年生の頃。当時は、僕の専門に近い人文社会科学・関連初学の中では、量的研究に対して質的研究が勃興してきたときでした。
(学問分野によって、このあたりの方法論の進展の歴史は相当異なると思います。下記のお話は、僕の分野でのことに限って話を進めます)

 当時はまだ書店にいっても、質的な研究方法論に関する専門書は、ごくごく限られていました。量的研究に対峙するかたちで「質的」という言葉がどちらかというと、新しく、また新鮮な響きをもって語られていたような気がします。

 量的研究がなかなか考慮できない「観察対象の文脈・意味」をすくい取る手法として、質的研究が注目されていました。また、質的研究は、量的手法とくらべて「臨床的・実践的」であるといラベリングがなされている傾向があるように思いました。
 当時は「量的研究 VS 質的研究」といったような、二つの手法を対立軸とみなしたシンポジウムやフォーラムも、ずいぶん、開かれていました。

 当時学部生であった僕は「研究者」になりたいと願い、いわゆる「入院(大学院入学)」を決意していたころでした(笑)。時代の空気なんでしょうか、学部時代の友人には、そのような方が多く、彼らと集まっては、いろんな文献をひたすら読んでいた頃でした。

 僕の専門分野に近いところでは、エスノグラフィーとか、エスノメソドロジーとか、そうした研究手法が注目されていた頃でした。ですので、そういう個別の研究方法論については、ある程度、承知していたつもりですが「そういうのを十把一絡げにまとめて、質的研究と呼ぶんだ」と知ったときの日のことは、わりと新鮮に憶えています。

「まー、まとめれば"質的"なんだろうけど、なんか、方法論の背景にある世界観とか目的が違うんじゃないかな」

 と少しだけ疑問に思っていたような気がします。
 でも「質的研究」という言葉はあっという間に市民権を得て、書店には「質的研究論」や「質的研究方法論」に対する書籍があふれていきました。

  ▼

 それから、はや20年弱。
 先だっての大学院・中原ゼミでは、「研究室のメンバーが、それぞれの研究領域で行われている質的研究の実証研究論文を持ち寄り、読む」ということをしました。海外のトップジャーナルから、日本の身近な論文誌まで、様々な質的研究の論文を読んでいきました。

 ゼミで読んだのは「質的研究とは・・・べきである」とか「質的研究の方法論には・・・の方法があり」とか、そういう質的研究論ではなく、また質的研究の方法論の議論に関する論文ではありません。
 
 むしろ、質的研究という方法論を用いて、何らかの対象の実態について迫り、その様子を明らかにした研究論文を国内外から選び、ゼミで読みました。

 半期がたちすでにゼミは終了したものの、この課題をやってみて、つくづく思ったことは、かつて20年前に、うっすらと自分が感じていた疑問に呼応することでした。

 ワンセンテンスで申し上げますと、

 「量的研究と質的研究」という「二分法」って意味あんのかな?

 ということです。
 
 と申しますのは、一見、質的研究に見えて、その後のデータ処理のやり方は、本来、質的研究ならば大切にしなければならない「文脈」を捨て、つまりは量的研究のようなデータ処理のやり方をしている質的研究があります(それが悪いというわけでは断じてありません)。

 それらは、誤解を恐れず、ワンワードでいえば

 「量的研究みたいな質的研究」

 です。
 たしかに質的といえば、質的なんだろうけど、データの処理の仕方は、かなり量的研究のデータ処理に近いよね、というものが存在します。
 もちろん、当然のことながら、文脈や現場での人々の意味づけにこだわった方法論ーザ・質的研究オブ質的研究「も」存在します。しかし、上記の「量的研究みたいな質的研究」と「質的研究オブ質的研究」を十把一絡げに「質的研究」とまとめるには、やや広すぎるような気もします。

 一方、最近は、量的研究においては、分析対象となる個体が所属している集団の文脈をある程度考慮できる方法も生まれてきました。
(もちろん、質的研究のそれほど量的研究で文脈を扱えるわけではありません。しかし、それが全く扱えないかというと、そうではないといえると思います)

 また、数字で定量的にものを語るものの、それらを調査対象者にかえして、実践を変革する手法も、僕の研究領域では行われるようになってきました。僕の研究分野では、量的研究で得られたデータを、対話の素材として、実践者と研究者が協議し、「臨床的・実践的」に現場の変革に役立てる、ということがおこなわはじめています。
(このあたりは学問分野によると思いますので、あくまで僕の専門に近い領域の話をします)

 要するに、何が言いたいかというと、

「量的研究みたいな質的研究」がある一方で「質的研究みたいな量的研究」がありうる

 ということです。
 
 というわけで、今回の大学院ゼミを終えて思うことは、少なくとも僕は「量的研究と質的研究」という二分法を安易に用いてはならんな、と思いました。
 その研究方法論の背景にある思想的基盤、ないしは、方法論の志向性を丁寧に見出していく必要があるように感じます。
 研究方法論に関して、中原研究室は、いわゆる「恥知らずの折衷主義」をこれからも、今後も貫いていきます。だからこそ、自分が用いる研究方法論の存立基盤を把握していくことは非常に大切なことのようのように、ゼミ内でも議論をしました。敢えてワンワードでいうならば、もう研究室内では「量的研究か、質的研究か?という二分法を禁止したい!」と思っているくらいです。

  ▼

 2014年度後期の中原ゼミは終わりました。
 今は、来年度のゼミで何を読もうかなと考えています。前々回までのゼミでは「量的研究」、前回のゼミでは「質的方法」にこだわったので、次回は「実践的とは何か?」「臨床的とは何か?」という課題にこだわってみようかなと思っているところです。ま、このあたりは、大学院生と相談しておいおい決めていこうと思います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年2月 2日 08:23


【速報】トマ・ピケティ教授の東大講義「21世紀の資本」、東大テレビにて無料公開!どうぞご覧下さい!

【速報】トマ・ピケティ教授の東大講義「21世紀の資本」が、東大テレビで無料公開されています。どうぞご覧下さい。日本語になっておりますので、ご安心を!

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(ついでに東大テレビFacebookページをぜひ応援をお願いします!)

 本プロジェクトを進めてくださった付属図書館のみなさま、吉見研究室のみなさま、石田研究室のみなさま、そして同僚の中澤先生、石原さん、大谷さん、松尾さんに心より感謝いたします。お疲れさまでした。

 みなさま、よい週末を!

投稿者 jun : 2015年2月 1日 06:56