「学んだこと」が「現場で活かされるため」には何が必要か?:12の障害、5つの促進要因

 先だって募集させていただいたTransfer of Training研究会(事務局:中原研OB 関根さん)には、購読するものが英語文献であるというのにもかかわらず、すでに20名を越える方々からご応募をいただき、満員御礼、募集を停止いたしました。ご応募いただきましたみなさま、ありがとうございました。お逢いできますことを愉しみにしております。

研修の学習転移(Transfer of Training)に関する研究会(満員御礼!募集停止しています)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/01/transfer_of_training.html

 個人的に嬉しかったのは、20名の方々の中に、金融やITなど、一般の会社につとめる人事・人材開発の実務家の方々からも、何名かご応募をいただいていることです。今回のテーマが「実務そのもの的」な課題であることもあるのですが、勇気を持ってご応募いただいたみなさまを歓迎いたしますとともに、また当日、アカデミックさとプラクティカルさの混じり合う、実りある議論ができることを愉しみにしています。

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 今回のテーマは、「転移(Transfer)」というのは、この分野の鉄板テーマですね。改めていいますと、「経営と学習」の世界においては、「研修の中で学んだ知識やスキルを、仕事に役立てること、さらには、それらを持続することのこと」を「転移(Transfer)」といいます(Baldin and Ford 1988)。転移という現象は、一般に「仕事に役立てること(Generalization)」と「それらの効果を持続させること(Maintenance)」の二側面から語られます。

 誤解を避けるために申し上げますが、転移といっても、

 「よかったですね、リンパ節転移はないようです」

 の「転移」ではありません。あしからず、誤解なきよう。
 
 転移というものは、先ほども述べましたように、この分野の「鉄板テーマ」です。
 なぜなら、研修で学んだことが仕事に役立てられることは(正転移といいます)、研修のレゾンデートル(存在証明)にかかわることだからです。もし、学んだことが全く仕事に役立てられないのであれば(ゼロ転移ですな)、そもそも研修をする意味がありません。まして、研修の中で、本来学んではいけないものを、非意図的に学んでしまった場合(負転移)には、経営にとってマイナスになります。
 研修開発を実施する専門家に常に、転移のことを頭の中において、研修の実施とフォローアップにつとめる必要があります。

 ところで、転移と一口に言いますが、転移を実現することは実際は大変難しいことです。口にするのは簡単です。でも、それが「仕事に役立てられる」までには、死の谷をデスマーチするような?困難が存在します。
 これまで先行研究は、転移の障害となる要因を列挙してきました。例えば、Phillips and Phillips(2002) は、下記のようなリストを作成しています。

転移の障害となるもの
1.直属上司が、研修をそもそも支持していない
2.職場の雰囲気が、研修の意義を認めていない
3.学んだことを試す機会がない
4.学んだことを試す時間が無い
5.学んだスキルが、そもそも仕事にあてはまっていない
6.業務システム・プロセスが学んだことに合致していない
7.学んだことを試すための資源がない
8.業務の変化により、学んだことがもはやあてはまらない
9.今の職場にスキルが適切ではない
10.学んだことをためしてみる必要性がない
11.古い慣習を変えることができない
12.報酬システムが新たなスキルにあっていない

 こうしてリストを概観してみると、わたしたちは、転移の障害となる要因が、決して、研修「内部」にないことに気づかざるをえません。たとえば「直属上司が、研修をそもそも支持していない」「学んだことを試す機会がない」「業務システム・プロセスが学んだことに合致していない」などはすべて「職場の要因」です。すなわち、学んだことが実際に利用されるかどうかは、研修内部のみならず、研修の前後の要因にかなり多く依存しているのです(Cromwell 2004)。

 これを踏まえて、多くの先行研究は、転移を促進するモデルとして「研修を行う前」そして「研修中」さらには「研修後」の3要因をかかげていることが多いのです(Baldwin and Ford 1988)。かくして、研修開発を志すプロフェッショナルは、研修の内部要因ーたとえば、講義のうまさ・ファシリテーションのうまさーなどだけに注目するわけにはいきません、。むしろ、研修前後の要因に配慮を行う必要があるのです。
 先行研究によりますと、特に注目したいのは、次の5つの要因です。

研修の転移を促す要因(Burke and Hutchins 2008)
1.研修内容を試行することに関して、上司からのサポートと指示があること
2.研修から帰ってきた直後に、ただちに学んだことを試行する機会が得られること
3.研修内容をインタラクティブで学習者参加型にすること
4.学んだことを実践しているかについて追跡・評価すること
5.学習内容を仕事と近いものにすること

 研究会では、まず、転移のメタ分析研究をひととおり概観したうえで、上記のような「転移の規定因」となるような実証研究を、皆さんで読んで行ければと思っております。愉しみにしております。

 一人1つ英語文献を担当・要約して、発表することは、決して簡単なワークではありません。しかし、この分野も徐々に専門化(プロフェッショナル化)しています。実務担当者の方々がそのような一次情報にアクセスして、学べる環境が増えていくことを願っていますし、そのような場をつくっていきたいと考えています。

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追伸.
今日のような内容は、近刊「研修開発入門」(ダイヤモンド社:3月初旬発売)に執筆させて頂きました。どうぞおたのしみに!

投稿者 jun : 2014年1月31日 08:33


航空管制官のOJT:「誰かに訓練されている」か「誰かを訓練しているか」!?

 仕事柄、さまざまな業種の人材育成に関するお話を伺うことがあります。先だっては、航空管制官という仕事の人材開発に関するご相談を受けました。

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 航空関係ですと、これまで、C.A.(キャビンアテンダント)、パイロットなどのお仕事に関しては、伺ったことがあるのですが、航空管制官ははじめてのことでしたので、非常に興味深くお話をうかがいました。

(僕は航空業務には全くのドシロウトです。下記の文章はヒアリング結果から書いたものですので、間違いがあるかもしれません。どうかお許し下さい)

  ▼

 航空管制官は、言うまでもなく、航空機を安全に、秩序よく、効率的に誘導するお仕事(公務員)です。

 そのお仕事を達成するためには、語学の知識はもちろんのこと、高度な専門性が必要で、我が国では、専門の公務員試験に合格後、まずは航空保安大学校に入学し、そこで1年間基礎的な勉強を行います。

 航空管制官の仕事が興味深いのは、学校を出たあとでも、常に「仕事をすること」の中に「学ぶこと」「教えること」が埋め込まれていることです。

 配属は、日本全国の様々な空港など行われます。
 そして、そこでは、その地域に応じたことを、また長い期間かけて学びます。
 その仕組みは、いわゆるOJT。その地域で経験を積んだ訓練監督者に「後」にたってもらいながら、「航空管制(仕事)をしながら学ぶこと」になります。

 この実地の訓練期間は長い場合2年間になることもあります。
 2年間のあいだ、OJT指導員と経験の浅い航空管制官が、2人チームになって仕事をするということです。訓練監督者は、経験の浅い管制官の後で、モニターや一挙一動を注視します。
 そうして、その地域で必要なことを学び終えたら、今度は、今まで指導されていた側が(すべてではないですが)、今度はOJT指導員、すなわち、訓練監督者になります。

 しかし、これで終わりではありません。
 一度OJT指導員になった人でも、異動があれば、またその地域で学び直さなくてはなりません。すなわち、また最初から「経験の浅い航空管制官」として、OJT指導員とタッグを組んで、仕事をしながら、学びはじめます。ということは、年齢逆転もありえるということです。異動したばかりのミドル管制官と、まだまだ若い訓練監督者がチームになることもあるそうです。
 こうした異動は多くの場合、退職まで続きます。

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 航空管制官のOJTシステムでまことに興味深いのは、ここにあります。一般の組織では、OJT指導員になった人は、もう一度、逆戻りすることはありません。
 しかし、航空管制官の仕組みでは、たとえAという赴任地でOJT指導員であったとしても、B地域に移動すれば、またノービスとして学び直さなくてはならないことになります。

 すなわち航空管制官の仕事では、「誰かに訓練されているか」ないしは「誰かを訓練しているか」を繰り返していることになります。もう少し一般的にいいますと、航空管制官の仕事は「育てられるー育てる」の連鎖の中にあるということです。航空管制業務とOJTは、不即不離の関係にあるというところが興味深いところです。

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 上記のように、先だっては、非常に興味深いお話を伺うことができました。今度は、航空管制の仕事の現場にお邪魔することになっています。また、お話を伺いつつ、議論するのがとても楽しみです。

 そして人生は続く

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追伸1.
 飛行機が飛ぶことってスゴイことなんですね。ものすごく多くの方々が関わっているんだな、と思いました。飛行機が飛び立ち、ベルト着用サインが消えても、航空管制官の方々がずっと飛行機をモニタリングして、次々とリレーモニタリングしているのです。
 小生、ベルト着用サイン消えたら、ちょっと一杯やりはじめて、あとは爆睡してますよね。そんなときに、地上から誰かが働いているなんて、想像すらしなかった。ありがとうございます。

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追伸2.
「Just Do it!」

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投稿者 jun : 2014年1月30日 08:21


KENZOの寝顔を見ながら思ったこと

 先だって、次男KENZOと僕の、二人で過ごす時間がありました。「時間」といっても、1時間半くらいで、ママが外で用事の最中だけ、僕がKENZOを見ていただけなのですが(子育ての9割を任せてしまっています・・・すみません)、これが、なかなかアタフタしました。もちろん、今までにも数十分の単位なら、出歩いたことなどはありますが、少し長い時間でしたので、「何にも起こりませんように!」とこちらも、少し緊張していました。

 最初の数十分は、無事に「ねんね」をしており、こちらも、それならば、ということで原稿の校正をしていたのですが、そんな時間もつかの間。

 起床なさり!?、ぐずぐずをはじめられ!?、ミルクをやっても、抱いても、埒があきません、びぇーん、びぇーん、とお泣きになるばかり。
 原稿の校正なんぞは、一気にぶっ飛び、数十分の格闘がはじまりました(ちまちま仕事してんじゃーねー、というKENZOの叫びが聞こえそうです)。
 結局、泣きわめいていた原因は、頭の水疱瘡の痕あたりがかゆかったかのかな(今もって、理由はわかりません!)。頭をさすっていると、また少し寝始めました。

  ▼

「察しろよ、オヤジ!」という、ややふてぶてしい顔で僕を見つめ、しかし、それでいて、すやすやと寝始めているKENZOの顔を見ていると、なんだか不思議な気分になりました。

 まずは、

 人間は「圧倒的無力」から生まれるんだなぁ・・・

 というアタリマエのことを今さらながらに感じました。自分では何一つできない。他者に依存してしかいけない状態から、人は少しずつ成長していきます。

 文字にしてしまえば、アタリマエダのクラッカーなのですが、その「無力っぷりの程度」がすさまじく、しかし、ここに可愛いな、という愛情らしきものを感じさせるところが、すごい才能だなと感じました。

 一般にわたしたちは、さすがに、ここまで「他者依存の存在」ではありません。が、わたしたちが、どのようなプロセスをへて、この「無力」から自律しはじめたのか。そして、人が一人でいることをやめ、組織をつくり、物事をなしとげるのか。改めて、自分の研究が好きになりました。
 
 ふたつめ。
 
 子育ては「ロジック」じゃないよな

 というアタリマエなことを改めて認識しました。

 泣いている赤ちゃんに「めそめそ泣くんじゃない」といってみたり、ぐずぐずしている赤ちゃんに「どうしてなの?」と聞くことほど、意味のないことはありません。いや、本当に、ロジックや理屈じゃないから(泣)。言ってもしょーがないから(泣)。

 何とかしようと思って、何かができるわけじゃないし、試行錯誤の果てに結果としてたどり着いたものが、「本当の解」であったかすら、実際はわからないから。

 しかし、一方で、わたしたちは「ロジックの世界」を生きています。子育てをしていると、よく、この「ロジックの世界」と「非ロジックの相手」に挟まれてしまうことがあります。典型的には、電車に乗ってなかなか赤ちゃんが泣き止まない、という事態もそのひとつでしょう。僕には、その辛さがよくわかります。

 ロジックとしては、みんなに迷惑をかけちゃいけない、この事態を改善しなければならない、ということは、わたしたちにはよくわかるけれど(よほど非常識な人を除いて)、しかし、対処しなければならない事態は、「非ロジックの相手」です。
 結局、いろいろ試行錯誤をして、それでも、難しい場合はままあります。時には、解が見つかることもあります。しかし、解が見つからないことも、往々にしてあります。

 結局は、「非ロジックな相手」、そして「非ロジックに対処しつつ、ロジックと非ロジックに板挟みにあっている人」をどの程度、周囲が鷹揚に受け取ることができるかどうかなのかな、と思います。人は誰しも、生まれたばかりのときは、無力で、他者依存で、非ロジカルな存在だったのだから。それがめぐりめぐっているだけなのだから。僕自身は、この感覚を忘れたくない、と思いました。

 ▼

 KENZOは体重が6キロを超え、だんだんと(態度も!?)、でかくなってきました。
 この子も、いつかは、他者の依存から徐々に徐々に抜け出し、ロジックの世界に参入してくるのだと思います。非ロジックなKENZOを見ていると、はやくそういう日がくることを、僕は切に願います。
 しかし、同時に、一方で、こんな思いも持ってしまっていることも、また否めぬ事実です。

 そんなに急いで
 大人に、ならなくてもいいんだよ

 もう少し
 そのまんまでいいよ

 親とは、いいえ、僕とは全く「矛盾」した存在です。
 そして人生は続く

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もう、立ち上がりたいのかい?
まぁ、そう、焦りなさんな!(笑)

投稿者 jun : 2014年1月29日 07:07


研修の学習転移(Transfer of Training)に関する研究会を開催します!

2014/01/28 20:36 申し込み多数のため、募集を停止いたしました!企業の人材開発担当者の方々からも応募をいただきました。ありがとうございました! 当日愉しみにしております。心より感謝です!

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【研修評価・インパクト研究会:Transfer of Training研究会開催!】
 研究会のメンバーの募集です。もう残席は限定5名なので、もし「挑戦してみよう!」「飛び込んでみよう!」と思われる方がいらしたら、お急ぎ下さい。

 この研究会では、研修は組織にどのようなインパクトをもたらすのか? もたらすためには、どのような配慮や留意が必要なのか? 組織論の文献を読んで(学習論の文献ではありません!)、この問いを探究します! 
 人材育成は「現場の経験」といいますが、本当ですか? 研修にできることと、できないことはなんでしょうか? そんなことを考えます。

 英語で読むことは、はっきり言いましてシンドイです。2日にかけて文献購読して議論することも、シンドイです。Learning bar的な場ではありません(笑)。でも、そのシンドさを「Hard Fun!」だと感じることのできる方を募集させていただきます! 

 この研究会は、中原研OB関根さんが事務局をお引き受け頂きました(感謝!)。3月6日・7日です。下記の参加条件をお読みの上、参加ご希望の方は、関根さんまで御連絡を御願いします。

1)英語文献を担当し、日本語にて要約・レジュメを作成し、25分程度で報告できること
(英語文献は下記のリストを参照、その中から3本優先順番をきめて選んで下さい)

2)要約した文献を各自がプリントアウトし、後日、PDF等で共有できること

3)大学院レベルのアカデミックな議論に参加し、多くの研究のバックグラウンドのある参加者に貢献できること

4)事務局もボランティアで行われていることを理解し、場に貢献できること

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TT研究会:Transfer of Training Research Meeting
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「企業研修のTransfer(転移)に関する文献」を皆で読む会

 企業研修がどの程度現場の改善、パフォーマンス向上に役立ったのか、
 ということに関する研究会を下記の要領で開催します。

日時:2014年3月6日(木)10時~17時
      3月7日(金)10時~17時+懇親会(自由参加)

場所:東大中原研究室

人数:10~15名

参加予定(敬称略):中原、関根、田中、浜屋、

費用:無料

事務局:関根(中原研OB) 募集停止しました

連絡:参加者が確定した時点で、連絡用のMLを作成。

参加条件

1)英語文献を担当し、日本語にて要約・レジュメを作成し、25分程度で報告できること

2)要約した文献を各自がプリントアウトし、後日、PDF等で共有できること

3)大学院レベルのアカデミックな議論に参加し、多くの研究のバックグラウンドのある参加者に貢献できること

4)事務局もボランティアで行われていることを理解し、場に貢献できること

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今後の流れ:

 2月上旬 参加者の確定
 2月上旬 担当文献の選定(各自が担当したい文献候補3つを選び、事務局あて送信)
 2月中旬 担当文献の確定(事務局が皆さんの希望を踏まえて、えいや!で決定)
      各自で担当文献の読み込み+レジュメ作成
 3月6日、7日 研究会実施

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スケジュール案:

3月6日(木)9時45分~ 集合

      10時~ 中原先生によるイントロダクション+担当文献

      11時~ 各自の担当 一人45分程(レジュメ説明+意見交換)×2名

      12時30分~ 昼食(各自 近所のローソン等で購入)

      13時30分~ 各自の担当 × 2名

      15時~ 休憩

      15時15分~ 各自の担当 × 2名

      17時 終了

3月7日(金)10時~ 各自の担当 × 3名

      12時30分~ 昼食(各自 近所のローソン等で購入)

      13時30分~ 各自の担当 × 2名

      15時~ 休憩

      15時15分~ 各自の担当 × 2名

      17時 終了

      17時30分~ 懇親会@本郷の居酒屋

      20時~ 解散

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投稿者 jun : 2014年1月28日 07:42


「森のようちえん」で自然を愉しむ

 先週末は、清里高原・KEEP自然学校で開催された「森のようちえん」(正確にはアラムナイイベント・森のつどい)に、TAKUZOと二人で参加していました。次男KENZOは、生後1ヶ月ということもありますが、何より、水疱瘡にかかっていて、おうちでママとお留守番です。

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 幼児教育に関しては、まことに門外漢ですが、「森のようちえん」とは、「自然環境をそのまま利用した幼児教育や子育て活動」で、北欧で発祥したもののようです。
 日本においても、いまや、たくさんの「森のようちえん」が活動しておりますが、清里の「森のようちえん」は、その中でも、古くから活動を続けてきたようです。

 森のようちえんでは、最初に、自己紹介+イントロダクション。その後は親子別々にわかれて活動をいたします。子どもの方は、冬の森にテントをたてて、お菓子を食べたり、お話をしていたりしたいたようです。親の方は、森を散策したり、焚き火をしたり、ドラムカン風呂をわかしたりしていました。別々のゆったりとした時間が過ごせました。
 個人的には、最近したかった焚き火ができたので、大満足です。

 夜は、子どもが寝静まったあとで、親だけ部屋に集まって、わいわいと、子育てのこと、地域のことなどを語っていました。この時間は、まことに面白いもので、興味深い話がたくさん聞くことができます。

 先だっての夜は、清里の森のようちえんを古くから実践してきた写真家の篠木眞(しのき・まこと:子どもからはしのきーと呼ばれています)さんから、篠木さんの写真論を伺っていました。篠木さんは、子どもと遊びながら写真を撮るという撮影スタイルで、これまで多くの子ども達の遊んでいる様子をフレームにおさめてきました。

 彼の写真は「白黒」。なぜ篠木さんが白黒にこだわるのか。そして、そこに子どもを活き活きとおさめるために、どのような工夫をしているのか、非常に興味深いお話でした。篠木さんの写真は、書籍としてもでておりますので、ぜひご覧頂ければ幸いです。子どもの一瞬をつかむ、素晴らしい写真です。

 

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 森のようちえんは、あっという間に終わりました。帰り際、いつものようにゴリ(小西貴士さん)にTAKUZOは、サインをもらっていました。「またおいで!」と。水性サインペンで書いた、このサインがお風呂で消えたら「また逢える」そうですよ。
 
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 土日動きっぱなしでしたので、僕個人的には、ちょっと体力的にはしんどいところもあるのですが、森から元気をいただいたので、今日からまた頑張ろうと思います。

 帰りの新幹線では、TAKUZOは、爆睡していました。僕は校正原稿に赤を入れたりしながら(泣)、あっという間に新宿につきました。

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 そして人生は続く。
 

投稿者 jun : 2014年1月27日 07:44


「他人の育成」を手がけることで「自分の能力」を伸ばすこと

 現在、自分の研究の9割は「ビジネスの領域」に関するものですが、たった1つだけ「教育関連」をフィールドにした研究があります。
 それは3年にわたって横浜市教育委員会と東京大学中原研との間で行われた「初任者教員の熟達」に関する共同研究です。
 思い起こせば、3年前。志高いある教育委員会の先生、M先生が、僕の著書「職場学習論」をお読み頂き、研究室に訪れて下さったきっかけに、この研究は、はじまりました。

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 横浜市では、年間900名ー1000名をこえる初任教員が、学校現場で教鞭をとりはじめます。校種にもよりますが、団塊世代の大量退職のため、今、首都圏等では、若手教員の大量採用が続いています。初任教員の中には、就職を機に地方から横浜まで出てこられる若い方もいらっしゃいます。

 しかし、初任教員の熟達をめぐる状況は、年々過酷になっています。学校を支えるはずの中堅教員(ミドル)が各学校において圧倒的に少なく、現在、教育現場の中には若い教員と50代の教員に分断されている学校も少なくありません。教員の業務は多忙。さらには、保護者対応や困難を有する生徒への対応などで、なかなか初任教員の育成に手が回らない状況が増えているのです。

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 共同研究は、横浜市の教員を対象にした「調査研究」(全市の初任教員、2年次、5年次、10年次教員)と、その調査データを活用した「研修の実践」の2つに別れていました。

 調査のパートでは、中原研OBの脇本君、そして教育学研究科の町支君(2年目までは讃井君)が、分析を行ってくれました。

 そのうえで、横浜市のデータの分析からわかってきたこと、具体的には「どういう環境であれば初任教員が育つのか」を研修教材に埋め込み、現場の先生方にお返しすることをめざしていたのです。

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 横浜市は、チームメンタリングの制度を用いて、初任教員の育成に中堅教員がかかわりつつ、中堅教員の成長をもめざすという方針で研修が組まれています。
「上が下の面倒を見る」、そのことを通して「上も伸びる」という、このシステムを垣間見て、まっさきに思いつくのは、ドラッカーの言葉です。

「他人の育成を手がけない限り、自分の能力を伸ばすことはできない」
(Drucker 1973)

 「他人の育成」を手がけることは、それは「大変な側面」もあるのでしょうけれど、しかし、それは同時に「自分の能力を伸ばすこと」にもつながります。横浜市の教員研修は、この考え方が色濃くあるような気がしています。

 具体的には、10年次研修の中のコンテンツに、「初年次教員の育成」に関する内容があり、その必要性を学んだうえで、ファシリテーションなどの技術を学び、各学校において、それぞれの先生が「初年次教員の育成に資するような場をつくること」を求めています。

 10年次研修は毎年7月に実施されます。僕たちのチームも、この研修の一部を担当させてもらい、1回250名近くの先生方に数時間のワークショップを実施させて頂きました。「伝達型の研修」を拒否し、徹底的に「対話型研修」にこだわりました。様々なエクササイズを用いつつ、現場へのアクションを促す、いわゆるアクションラーニング型の研修を開発しました。

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 その上で、僕は研修の最後にこう申し上げました。

「この研修は、これでは終わりません。どうか、これまで以上に、各学校において、初年次の先生方の育成に資するような場をおつくりください。今度は、県立音楽堂でまたお逢いしましょう。そのときには、皆さんで、実践事例を持ち寄る会にしましょう。

 実際に10年次研修が終わるのは、年をあけて1月、すなわち昨日です。「県立音楽堂」という1000名規模のホールで、10年次の先生方500名と、現場の副校長先生500名を対象に、合同研修が行われました。
 横浜市の全校が事例発表をすることはできませんので、校種の異なる3校を選び、3校の10年次の先生に、実践事例に関するプレゼンテーションをしていただくことになっていました。

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 会は2時にスタートしました。

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 冒頭、僕は、夏の10年次研修の様子を密かに撮影していた4分もののリフレクションムービーを先生方にご覧頂き、研修の要点をおさらいしました。

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 夏の10年次研修は、もう数ヶ月の前のことです。
 まずは課題について思い出してもらう必要があります。

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 つぎに10年次の先生方のプレゼンテーションがはじまります。プレゼンに際しては、10年次の先生方に

1)スティーブン・ジョブスになったつもりで、パブリックスピーキングのようにプレゼンをして欲しい

2)立ち位置はスクリーンの横にして、ワイアレスリモコンを用いてプレゼンをしてほしい

3)プレゼン冒頭で「わたしのような若輩者が・・・」といったような謙遜をせず、自信を持ってプレゼンをして欲しい

 と御願いをしました(笑)。

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 10年次の先生方は、それぞれの校種にあった初任教員の育成実践をご紹介いただきました。ありがとうございました&お疲れさまでした。

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 10年次の先生方の出番が終われば、つぎは会場にご参加の1000名の皆さんの出番です。お近くの方3名程度のチームをつくってもらい、相互の学校の育成に関して、ゆるく対話をしていただきました。

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 最後は3名の10年次の先生方にくわえ、各校の副校長先生もはいっていただき、いわば「徹子の部屋」?風に僕とやりとりをしていきました。
 10年次のミドル教員の動きが学校運営にとって大切なことは言うまでもないですが(日本の組織にとっては、ミドルの役割が大きいと言われていますね)、学校内で様々な施策を立ち上げていくためには、管理職の理解やサポートが不可欠です。副校長先生には、10年次の先生方にどのようなサポートを行っていたのか、などについてお話いただきました。

 研修はこのあと岡田教育長のご講演となりましたが、僕のパートはここで終了です。
 
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 共同研究は3年の予定でしたので、今年度の試みで、一区切りを迎えるものと思います。今後は、脇本君や町支君ら、教師教育研究を志している若手の皆さんが、研究の成果を論文にしたり、書籍としてまとめていくようです。

 3年間この研究を行って思うのは、自分の強みである企業を対象にした「調査研究」また「ワークショップ型研修」といったものを教員研修の中に組み込めたことは、よかったのかな、と思っています。本当に微力であったとは思いますが、今はやり終えたことで、ホッとしています。
 そうした試みが、教師教育研究のどこに位置づくのかは、脇本君や町支君ら若手のご専門のみなさまにお任せしたいと思っています。

 最後になりますが、今回の試み、横浜市教育委員会の北村さん、木村さんらのサポートのおかげ、また脇本君、町支君の活躍のおかげで、何とか、終えることができました。ありがとうございました。心より感謝いたします。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月24日 10:11


ハイパーアクティブに発言していても、全然学べていない人 : 「沈黙する学習者」の存在

 大学院・中原ゼミは、テレビ会議を用いて、遠隔地から、様々な中原の共同研究者の方が参加してくれています(遠いときには九州から! 僕は中原ゼミを、「僕と研究上の接点をもつ人々の緩やかな共同体」と定義しています。ですので、いくつかの条件を設けつつも、共同研究者にはゼミを公開しています)。

 昨日の大学院ゼミでは、駒場キャンパス・教養学部特任助教の中澤明子さんが、「Problem based learning)で「黙っている学習者」は学んでいないのか?(Remedios, Clarke and Hawthorne(2008)」という英語文献を紹介してくれました。お疲れさまです!&ありがとうございます。

  ▼

 2000年以降、グループワークやら、アクティブラーニングやら、様々なインタラクティブな学習手法が広がるにつれて、「発言すること」が「自己目的化」する事態が生まれている、と本論文は警鐘をならします。

 つまり、グループワークで「発言すること」が「学んでいること」の指標として用いられ、手放しで「評価される」傾向があるのです。「発言をしない人」は(たとえ学んでいたとしても)「学んでいない人」というラヴェリングがなされる傾向がある、ということです。
 論文内では、発言していない人がどういう理由で発言せず、また、何を学んでいるのか、いないのかに関して、事例検討をしておりました。
 
 しかし、少し考えてみればわかることですが、「話すこと」と「学んでいること」は、実際は「別の事象」です。
 もし、わかりにくいようであれば、「発言すること/発言しないこと」「学んでいること/学んでいないこと」という二軸を縦軸、横軸にとり、4象限をつくってみればわかるのではないでしょうか。

 1.発言して、かつ、学んでいる人(エース級ですな)
 2.発言しても、学んでいない人
 3.発言せず、かつ、学んでいる人
 4.発言せず、かつ、学べてもいない人(トホホ)

 この整理を踏まえますと、悲しいかな2「発言しても、学んでいない人=くっちゃべってはいても、さっぱり学ばない人」もいるのです。反面、3のように「発言せず、かつ、学んでいる人=黙りこくっていても、学んでいる人」は存在します。しかし、「話すこと=学んでいる」という単純な認識は、この2象限の可能性を、時に捨象してしまいます。
 ひと言でいうと、「発言する人=学んでいる人」「発言しない人=学んでいない人」という場合しか考慮に入れない、ということです。それは「発言する人であっても、さっぱり学んでいない人」「発言していなくても、学んでいない人」を見逃してしまう可能性があるということです。

 一般に学習科学の知見では、伝統的に、「ふだんは黙りこくっているんだけど、時に、いいことをズバッという人の役割」を重視してきました。
 しかし、一般には「黙っている人」の評価は「逆」なのではないか、と思います。むしろ、ネガティブに評価されることの方が多いような気がしますが、いかがでしょうか。

 ▼

 今日は「発言すること」と「学ぶこと」の関係ついて述べました。
 今日の話のコンテキストは、グループワーク、アクティブラーニング、アクションラーニングなどであったつもりですが、今日の骨子は、妄想力を量子力学的に高めれば!?、その他の領域においても、考え得ることのように思います。特に、ハイパーアクティブ、ゴリゴリ前進が称揚される社会においては、「前のめりに発言すること」は求められ、価値をもちます。しかし、「前のめりに発言すること」は必ずしも「有能さ」の指標にはなりえません。

 たかが発言、されど発言
 皆さんはどう思いますか?

 おやおや、TAKUZOが起きてきました。
 おや、KENZOのお顔に「赤いポツ」が・・・。
 体調ワル夫ちゃんじゃきゃいいのですが・・・。
 ここで、ブログ執筆時間のリミット20分になりました。
 
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月23日 07:58


先行研究をたくさん読んでも、いいアイデアが浮かばないのはなぜか!?

 先だって、ある大学院生の方から、ご質問を受けました。曰く、

「先行研究をたくさん読んではいるのですが、研究のアイデアや仮説が思いつかないのです。どうしたらいいのでしょうか?」

 この方は、僕が折りにふれて、主に自分の指導大学院生に向けて書いている下記のような記事をお読み頂き、このようなご質問を寄せていただいたようです。ありがとうございます。

先行研究をまとめる5つのプロセス、陥りやすい3つの罠
http://www.nakahara-lab.net/blog/2011/10/post_1803.html

先行研究の探し方:レビュー論文には「過去への入口」と「軸」と「これからの課題」がある!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/10/post_2101.html

 思うに「研究のアイデアを思いつくこと」、要するに「ひらめき」は「神のみぞ知る的なところ」がありますので、どういう諸条件が存在すると「神が降臨するか」は僕にはわかりません。また分野の違いもあるので、一概には言えません。

 ただ、ほんの「ひと言」だけアドバイスをさせていただくとすると、

「先行研究をたくさん読むこと」は「誠によいこと」なのですが、「自分の頭」で「考えぬいて」いますか?

 ということになります。実は「先行研究をたくさん読むこと」には「落とし穴」があるのです。
 それは「先行研究をたくさん読むこと」が「自己目的化」していき、そうした作業に没頭するあまり「自分の頭で仮説を考えぬくこと」を、ついつい忘れてしまう、ということです。一生懸命やれば、やればやるほど、この「作業」が「知的なこと」に見えて、満足感を得てしまいがちなのです。おれ、勉強してんじゃん。

 先ほどの問いかけを、逆にすると、こうなります。

「先行研究をたくさん読むこと」に集中してしまい、そういうものを整理するような「作業」に気をとられていませんか?

 これは本当に、よくある誤解なのですが、「先行研究をたくさん読むこと」は「よいアイデアを思いつくこと」とイコールではないのです。むしろ、それは「よいアイデアを思いつくこと」の「土台」、その「前提条件」に近いのですね。要するに「たくさん読んであたりまえ」。それ以上でも、以下でもありません。

 思うに「先行研究をたくさん読むこと」は、「魚群探知機」に似ています。
 小生、最近、ルアー釣りにこっておりますので、こんなメタファになって恐縮ですが、実際、似ているように思うのだからしょうがありません(笑)。

 要するに、「先行研究をたくさん読むこと」は、

「あっ、ここらあたりに研究者が誰も手をつけてない"穴"がありそうだぞ。しめしめ、ここには魚が一杯泳いでいるではないか?」

 という「なんか、魚釣れそうじゃん、という海域をおおざっぱに探すこと」に似ているのです。やたらめったら、あたりかまわず、棹をたらすよりも、そうした場所を見つけた方が効率的でもあります。
 しかし、「広大な海域」をおおざっぱに探しあてたとしても、それだけでは、魚は釣れません。それは「ここらへんに、魚おりそうだっぺ」と知っただけの話です。
 魚を釣るためには、実際に棹をなげて、ルアーを海に投げ、試行錯誤しなくてならないのです。魚を釣るのは魚群探知機ではありません。研究者本人なのです。
 要するに、自分の頭で考え抜く。考え抜いたうえで「オレはこれがやってみたい!」と思い切って、ルアーを投げなければならない。でもね、簡単にいうけれど、これは辛いんです。だってね、寒いんだよ、冬の海は。手が凍えるんだよ。しかも、釣れるかどうかなんてわからない。そういう厳しさがあります。でも、それが「ひらめき」のきっかけになるんじゃないだろうかと僕は思います。

 ちなみに、希代の文化人類学者 梅棹忠夫は、今日のブログに関連する、こんな名言を残しています。

どこかで誰かが書いていたんだけど、「梅棹忠夫の言っていることは、単なる思いつきに過ぎない」って。それは、わたしに言わせたら、「思いつきこそ独創や。思いつきがないものは、要するに本の引用。ひとのまねということやないか//学問とは、ひとの本を読んで引用することだと思っている人が多い。(梅棹忠夫)

 ▼

 今日は「先行研究をたくさん読むこと」の落とし穴について書きました。誤解を避けるために申し上げますが「先行研究をたくさん読むこと」は、研究者にとって言うまでもなく必要なことです。
 しかし、それに没頭するあまりに、「自分で考えぬくこと」を放棄してしまっていたら、それは残念なことです。なかなかさじ加減が難しいですね、このあたり。

 誤解を恐れずに述べるのならば、

 研究は「先行研究」から生まれない
 自分で「考え抜くこと」から生まれる

 ということになるのでしょうか。
 結論だけ見れば、どうしようもないくらい、アタリマエだのクラッカー的ですね(笑)。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月22日 07:03


ミドルマネジャーのメタファ!?:板挟みとサンドイッチ

 誠にしょーもないことで、誰にとっても1円の価値も生まない話ですが、先だって、ある外国人の先生と話していて、個人的に面白いなと感じる出来事がありました。

  ▼

 僕らがゆるゆる雑談していた話題は「マネジャーになること」とはどういうことなのか、ということです。

「マネジャーになると、日本では、よく"ITABASAMI : 板挟み"っていう状況が生まれ、そういうメタファ的な表現が、その仕事を表すのに使われますよ」

 と僕が言いますと、その先生曰く

「いったい"何"が板と板の間に挟まれてるの?」
「は?」

 いきなり「あさって方向からの問い」に、思わず、言葉に窮してしまって、「板と板とのあいだに挟まれているのって、何なんでしょうね?」と僕が返します(笑)。だめだねぇ、ゆるゆるで。

 あー、これまで板挟みに挟まれているものの正体なんて、考えたこともなかったな。。。「板挟み」って確かにしんどい状況を示す「メタファ」なんだけど、「挟まれている」のは「何」なんでしょうね、、、フフフ、、、今度、暇なときに調べてみよう。

 答えに窮してしまった僕は、少し問いと回答をズラして、「板挟み」にこめられた状況を説明します。

it might mean someone is caught like in dilemma between demanding upper management and reluctant employees.
(板挟みって、きつい経営層となかなか言うことをきかないボトムの社員に挟まれちゃうみたいな感じじゃないですかね?)

 そうすると、その先生は、僕の国なら、その状況は、こういうかなといって、こういう表現を教えてくれました。

 I am like meat of sandwich.
 (サンドイッチの肉みたいなもんだよ)

 興味深いですね。
 同じ「ミドルマネジャーの状況」を形容する言葉が、日本だと「板挟み」で、外にでると「サンドイッチの肉」なんだもんね。
 ま、「サンドイッチの肉も」、パンとパンの間に挟まれて、しんどそうだけどね。結局、食べられちゃうし。

 他の国だったら、このニッチもサッチもいかない状況、なんて表現されるんでしょうね?

 ▼

 予告通り、今日の話に、オチはありません(笑)。予告通り、誰にとっても1円の得にもならないよ(笑)。

 でも、自分の研究を、同じ文化コンテキストを共有しない人に話すって、「時に」面白いですね。たいがいシンドイけど。些細なことにも「思わぬ発見」があって。ま、今日の場合だと、「そうか板挟みってサンドイッチ的状況なんだ」てなくらいで、しょーもないけどね。

 英語を話すのは、しんどいこともあるけど、こんな風に、思わずふっと笑っちゃうこともあるから、まー、ボチボチ、やっていこうと思います。あんまり得意じゃないんで、正直、シンドイですけど。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月21日 07:03


「ホワイト企業」の「ブラックな職場」!?

 昨今「ブラック企業」「ホワイト企業」というダイコトミー(二分法)的なコンセプトが人口に膾炙しています。
 経験の浅い若年層をこき使い、使い捨てにするなどのことは、「人材開発の専門家・研究者」として断じて許すことはできません。
 まことに微力ながら、ブラック企業の早期の根絶の試みに、御協力させていただきたいと思います。

  ▼

 しかし、敢えて申し上げるのだとするならば、「ブラック企業」「ホワイト企業」という「二分法的な企業分類」が果たして妥当なのかな、という思いを、専門家として、どうしても持ってしまうことも「否めぬ事実」です。
 
 といいますのは、僕が企業を対象に調査を行うときに、時に「職場ごと」「ラインごと」にデータを集計するようなことがあるのですが、

「同じ組織であっても、職場に応じて、具体的にはマネジャーの力量や資質によって、その職場はブラックにも、グレーにも、ホワイトにもなりえている」

 ような事実をよく見るからです。さすがに「組織ぐるみのブラックさ」ほどの惨さはありません。しかし、組織レベルの値と比べたときに、ある職場だけが異常に得点が低い、異常値を示すということは、ゼロではないのです。

 単純に調査データから現実はなかなか推し量ることはできませんが、「同じフロアにある職場なのに、こちらは天国、3メートル先は地獄」という状況が起きていることを、ついつい想像してしまいます。
 つまりは、職場ごと、マネジャーによって、職場メンバーの働き方が相当変わってくるということです。

 ここで妄想力を高めて、ひと言で申し上げますと、

「一見、ホワイト企業に見えても、ブラックな職場は存在する」

 ということになります。「ホワイト企業のブラック職場」ということですね(泣)。大学ですと「ホワイト大学のブラック研究室」ですか?(泣)

「一見、ホワイト企業に見えても、グレーな職場は存在する」というところまで閾値(しきいち)を下げたのだとしたら、もっと該当する職場は増えてくるでしょう。

 つまり、ブラック、ホワイト、ないしはグレーという分類は、「組織レベル」ではなく、「職場レベル(職場単位)」で認識可能であるということです。
 これを敷衍して考えるならば、ブラックマネジャー、ホワイトマネジャー、グレーマネジャーというメタファも存在しそうです。

 くどいようですが、組織ぐるみで「ブラックな人材活用」をする企業は、断じて許されることではないことは、言うまでもありません。それに加えて、私たちは「ホワイト企業のブラック職場」にも目配りが必要なようです。

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 今日は、「ブラック」「ホワイト」という分類が、組織レベルではなく、職場ごとに変わってくるよね、という話をしました。こういう話をいたしますと「何を今さら!考えてみれば、あたりまえ」のように感じますと、その分類が組織レベルで認識されることを「是」といたしますと、ともすれば見過ごされがちなのかもしれません。

 畢竟、職場とは「ブラックボックス(暗箱)」なのです。 
 中で何が行われているか、どのような力学や権力が作動しているか、そしてどんな出来事が起こっているかは、ともすれば、外から見えにくいものですし、介入も難しいものがあります。人事・経営といえども、職場の成果(プロダクト)はわかっていても、そこで何が起こっているか(プロセス)は、なかなか見えにくいものなのでしゃないでしょうか。

 本来昇進させてはいけない人をマネジャーにしたり、定点観測・観察・ヒアリングなどを行わず、職場をブラックボックスのままにしておいたり、またマネジメントの基礎ややってはいけないことをきちんと「教育訓練」する機会を省いていたりすると、職場の風土は荒れていく可能性が高くなっていきます。
 結局、クオリティチェックのない権力は、必ず腐敗する。プロセスモニタリングのない権力は、もれなく腐敗する、ということです。

「組織ぐるみのブラックさ」は言うまでもなく根絶するべきものですが、「職場レベルのブラックさ」も、個人的には、大きな問題であると感じています。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2014年1月20日 07:59


世の中も変わる、育児も変わる!?:浮き輪でプカプカ泳ぐKENZO

 次男KENZOが生まれて、早いものでもう1ヶ月以上が立ちました。
 すくすくと申しましょうか、のびのびと申しましょうか、とりあえず、ここまでは差し迫った問題なく、一応、元気にKENZOは育っています。むしろ「デカすぎる」くらい(笑)。

  ▼

 ところで、長男TAKUZOの育児から約7年ぶりに、この、「すさまじき育児ワールド!?」に帰ってきて思うのは(育児の9割を担っているのはカミサンで、僕はたいしたことはしていません!)、この世界も少しずつ変わってきているのだな、ということです。

 考えてみれば、アタリマエマエダのコンコンチキですが、育児の手法、常識というものも、少しずつ変化しているのです。その背景は、専門家ではないので、詳しいことは知りません。

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 たとえば、7年前。
 調乳の際、その温度は60度くらいとされていました(たぶん)。それが7年たった今では、「なんとかバクターサカなんちゃら菌?」が、この間に発見され、その菌がもう少し高い温度でなければ死なないとのことで、調乳の手法が変わっています。高温で沸騰させたお湯でつくったミルクを、飲める温度まで「冷やすべし」ということになっています。TAKUZOのときは、60度のミルクをどんぶらこ、どんぶらこと飲ませていましたが、KENZOはそうではないのです。

 他には、母子をつないでいた「へその緒跡!?」は当時は、毎日、消毒すべし、とのことだったのですが、今では別に必要ないもんね、ということになっていたりします。「あんだけ消毒していたのに、どうなのかな」と思いつつ、「必要ない」とのことですので、何もやっていません。

 そういえば、どうでもいいことですが、7年前にはなかったブツも開発されました。それは新生児がお風呂のときに使う「浮き輪」です。赤ちゃんは、この浮き輪を首にはめて、下記の写真のように泳ぎながら、プカプカとお風呂に入ることができるのでございます。浮き輪に「あご」をのっけて、足でキックして泳ぐのですな(笑)。
(泳いでいるときは、転倒すると大変危険なので、目を離すことはできません。ご注意を!)

pukapuka.png

 写真では、なかなか、わからないかもしれませんが、見た目は、かなりコミカルな動きで受けます。ムーンウォークみたい、マッパで、生まれたて早々(笑)。なんで、わし、泳がされてんねん!という叫びが聞こえてきそうです。
 おっと、今、見たら、浮き輪、AMAZONにもあったわ、カミサンがまた、僕のアカウントで、ポチしたそうです(泣)。ポチポチポチ。

 この浮き輪がイノベーションかどうかは知りませんが(!?)、その動きに、癒されるのは間違いありません。新生児の泣き声やリクエストに翻弄されつつ、そのコミカルな動きをお風呂で愉しみつつ、何とかかんとかカミサンと力を合わせて、生き残っている感じです。

 プカプカ。

  ▼

 いずれにしても、何が定説かは知らないし、専門家ではないので、その真偽もよく知りませんが、7年ぶりの新生児育児に従事しながら、その「変化」を感じています。

 変化するんだよ、7年もたてば。
 そして人生は続く。 


 ーーー

追伸.
乳幼児用浮き輪については、利用に際して、様々な注意点・留意点があるようです。Facebbok等でコメントくださったみなさま、心より感謝しております。どうか注意点・留意点をご参照いただけますようお願いいたします。

僕は、この浮き輪を使うときに、自分は一切他の作業・動作はしません。常に子どもを見続けています。何が起こるかはわかりませんので、どうかご注意を!

うきわ首リング(首浮き輪)の利用
http://www.swimava.jp/recommedbabypool.htm

首掛式の乳幼児用浮き輪を使用する際の注意について
http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20120727_1.html

投稿者 jun : 2014年1月16日 17:09


あなたの組織は「モチ型」ですか「オムスビ型」ですか!?

「うちの組織は、まとまっているよね」
「どうも、うちの職場のチームには和がないね」

 などと人が話すとき、そこには、「異なる2つの組織観」が透けて見えることがあります。「個と組織の関係」」をめぐる異なる2つの考え方とでもいうのでしょうか。

  ▼

 ひとつの考え方とは「モチ型組織」。
 これは「モチ」のメタファで表現されるとおり、この場合の個と組織の関係は、不可分、一体です。モチ型組織は、一粒一粒の「個」は融合して、ひとつの個体をなしているような組織です。
 パラパラと舌の上で崩れる?モチってのがあったら怖いですね。やっぱり、モチは、どっしりと、ぐにょーんとモチであるべきです(意味不明)。

 それに対して「オムスビ型組織」というものがあります。
 オムスビは、固まってはいるものの、一粒一粒の米は融合までには至ってはおりません。飯粒ひとつひとつは、くっきりとした輪郭をもち、融合せずに存立しています。しかし、それでいて、バラバラというわけではなく、ひとつのオムスビを「オラ、おにぎりだもんね」という感じで形成しています(笑)。

 ここまでくれば「あっ、あれか」と思った方もおられるかもしれまえんが、「モチ」と「オムスビ」という2つのメタファを用いて、共同体の存立の様式を描き出したのは、見田宗介先生のコミューン論「気流のなる音」です。
 今日のお話は、こちらを引用しつつ話題を切り出しました。かつて、見田宗介先生は、前者のモチ型組織(共同体)が「一体性」を存立原理としているのに対して、後者のオムスビ型俊樹は「多様性」を原理としていることを論じました。

 それからめぐる年月、約35年。
 昨今では、ダイバーシティやら、多様な人材の活用やら、グローバル社会の人事やらがまことしやかに喧伝され、その前に、わたしたちの組織観、個と組織の関係も揺れています。
 どういう状態を「理想」とするのかで、イメージが異なっています。古くて新しい問いが、いまだ残されています。

  ▼

 今日は2つの組織観、個と組織の関係をめぐる2つの異なる考え方の話をしました。
 オムスビとモチは非常に単純なタイポロジー(メタファ)ですが、自らのもつ組織観についてリフレクションする際には、役にたつのかもしれません。

 あなたの働く組織はモチ型ですか?
 オムスビ型ですか?
 それとも他のかたちですか?

 そして、あなたはどういう組織を「よし」としますか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月16日 08:06


「自分ごとだと人は育つ - 博報堂で実践している新入社員OJT」(博報堂大学編)が届いた!

 昨日、博報堂大学の白井さんからご著書「自分ごとだと人は育つ」をご恵贈いただきました。

 本書は、博報堂で実践している新入社員OJTのお話です。博報堂の考えるOJTのコンセプト、実践の様子をまとめた本です。この「OJT見直しプロジェクト」には、僕も外部からコンサルティングをさせていただいておりました。そのご縁もあって、今回、この本に「解説」を書かせて頂いております。

 博報堂大学の方々には1年間にわたる観察・議論の機会をいただき、まことに感謝しております。プロジェクトがスタートしたのは、今から3年前です。僕も、このプロジェクトからはたくさんのことを学ばせて頂きました。後述するように、OJT等の人材育成の仕組みを議論して、作り上げていくプロセスそのものが、そこに関わる人々にとって、学びであったということです。

 プロジェクトの途上で、白井剛司さん、田沼泰輔さんはじめ、博報堂大学の多くの方々と議論したこと、そして加藤さんにJoinしてもらい、その対話型研修を観察させていただいたこと、今も印象深く記憶に残っています。心より感謝しております。ありがとうございました。

 以下に僕の小論、「解説:人材開発部門発、新たなOJT創造の旅」を掲載させて頂きます。少し長くなりますが、本書の主張や特徴がご理解いただけると思います。どうぞ、ご高覧ください。

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解説「人材開発部門発、新たなOJT創造の旅」

 本書は、株式会社博報堂の人材開発部門(以下、博報堂大学)の方々が、「現在という時代」と「自らの会社の組織文化」の両者にフィットする「OJTの仕組み」を自ら考え、創造していくプロセスと、そこに埋め込まれた各種の人材育成のコンセプトを紹介する本である。

 ちょうど、今から3年前。経営学習論(人材育成の科学)を専門とする筆者は、博報堂大学の依頼を受け、外部のアドバイザーとして、このプロジェクトに参加した。具体的には、各種の研修を参与観察し助言を行ったり、人材開発部の方々との議論に参加して、微力ながらプロジェクトに貢献させていただいた。その後、博報堂大学の方々が、種々の議論を「目に見えるかたち」に昇華し、その成果物の一部として、本書が生まれた。博報堂大学の方々のこれまでの尽力と、そして、本書の誕生を、心より嬉しく思う。社会的意義の高いプロジェクトにお誘いいただいたことに、改めて、心より感謝する次第である。

  ▼

 日本企業の「お家芸」とまでいわれた職場における人材育成 - OJT(On the job training)。それが機能不全に瀕している、という認識が高まってきたのは、2000年代初頭であると記憶している。

 ちょうどその頃、バブルからのバックラッシュに苦しむ日本企業は、成果主義の導入、組織のフラット化、雇用の非正規化を進め、結果として、職場メンバーの多忙化、マネジャーのプレーヤー化を招く結果になった。

「外科的手術」に比喩される、それらの施策は、確かに、その時代には必要だったかもしれない。しかし、その「代償」のひとつ - 「職場の人材育成機能の低下」 - は、看過できない大きなものであった。

 多くの職場で、これまで自ずと機能していたOJTが問題視されるようになり、若年層の能力形成に陰りがみえはじめるまで、それほど、時間はかからなかった。お家芸だったはずの「OJT」が危機に瀕しているという認識が広まった。

  ▼

 冷静になって考えてみれば、OJTとは、それが奏功するまでに、いくつかの社会的諸条件を必要とする。諸条件を列挙すれば、枚挙に暇がないが、ここで代表的なものをあげるとすれば、以下の2つになる。

 第一には、若手 - 先輩社員の両者が、長期にわたって、時間を共有し、若手の直面する教育的瞬間に際して、先輩社員からフィードバックがなされることである。若手--職場メンバーの共有できる時間が多忙化によって減少したり、また育成に関与する職場メンバーが見いだせなかったりして、この条件が毀損されれば、人材育成が、遅かれ早かれ、機能不全に陥ることは明白である。近年の人材育成研究が明らかにするように、「人が成長をとげるためには、自分以外の他者とかかわり、フィードバックを受けること」が必須条件である。これを、「人材育成の職場軸」とよぶことにしよう。

 第二に、新人が背伸びをすれば何とか到達可能な「ひとかたまりの仕事(成長に資する、責任ある仕事)」が、適切に現場のマネジャーによって配分されることである。願わくば、全体像や職場の目標を咀嚼し、若手によく理解させたうえで、仕事を分与することが望ましい。実際に若手の細かいケアを行うJOBトレーナーとの連携も不可欠だ。

 本書でも既に述べられているとおり「背中を見て育て」という時代は、既に色褪せている。まして、断片化した仕事を、あれこれ、多方面から依頼され、こなしつづける。いつでも先輩社員の尻ぬぐいをさせられている。背伸びのない単純な「やらされ仕事」に長期間従事させられる。こうした環境下においての能力の開花は、実に難しい。能力形成を行うためには、たとえリスキーであっても、「できるかもしれないし、できないかもしれない新人」に、「ひとまとまりの成長をうながす仕事」を段階的に「任せていくこと」が、どうしても必要である。これは先の「人材育成の職場軸」と対応させるのであれば、「経験軸」とでも名付けることができるだろう。

  ▼

 とかく、人材育成とは、よく「畑仕事」のメタファに喩えられる。肥料も栄養分も与えず、下草の処理もせずに(=職場軸も経験軸も不足している状態=人材育成の機能不全状況)、たわわに果実を実らせる農作物(=人材)を放置していても、幸いなことか、不幸なことか、直ちに、枯れることはない。

 運がよければ、もしかすると、一度や二度ならば、果実(=成果)を実らせてくれることもあるかもしれない。だから、そこに甘えた場合、短期的には「人材育成をしないこと」が「有望な選択肢」のひとつになりうる。

 しかし、長期的には、様々なケアをしないかぎり、農作物は、果実を実らせ続けることは不可能である。枝が枯れたり、根が腐ったり、様々な問題がおそってくる。特に、年単位で人材を見つめるとき、何のケアもなされなかった人材は、やはり伸びない。

 断じて述べるが、「経験軸」も「職場軸」も機能していない組織で、人は成長することはない。仕事に熟達させ、組織に適応させるには、先輩からのフィードバック、マネジャーによる適切な目標咀嚼、業務経験がどうしても必要になるのである。

  ▼

 さて、ここまでを概観してみると、人材開発に興味をもつ私たちは、知らずのうちに「ひとつの重要な岐路」に立っていることに気づかされる。その「岐路」とは、人材育成にとって大切な二軸 - 「職場軸」と「経験軸」 - が、研修場面などのいわゆるフォーマルな学習機会として主に達成されるのではなく、いずれも「日々の仕事を行う仕事の現場」に位置することから生まれている。

 すなわち、業務をマネジャーからアレンジされる「経験軸」の表舞台になるのも「日常の仕事の現場」。メンターになるような先輩によるかかわりが存在するのも「現場」なのである。

 だとするならば、人材開発部門は、自社の人材育成を、現場の先輩社員やマネジャーにすべて丸投げし、任せておいてもよいだろうか、という問いが生まれてくる。これが「重要な岐路」だ。志と熱意を持たない人材開発部門にとっては、この問いは、自分たちの仕事が増やさないための「都合のよいロジック」としても機能しうる。

 しかし、近年の人材開発研究の諸知見は、もちろんのことながら、この「都合のよいロジック」を支持しない。むしろ、人材開発部門は、現場のマネジャー、現場の人材育成のセーフティネットになるような仕組みを構築する支援を行わなければならない、とされている。これからの企業が選ぶべき道は、そちらの道であることを推奨する。 

 なぜなら、先ほどのメタファで明確なとおり、仕事の現場で、とかく重視されがちな価値観とは「果実をただちに収穫すること」であるからである。これは利益を上げることが企業の責務である以上、否定されるべき類のものではない。どんなに人の問題に心を砕いたとしても、日常の仕事の現場では、それと拮抗する行動原理が駆動することはやむをえない。必要なのは、「定期的な軌道修正」であり、とかく「成果に傾きがちな意識の補正」を外部から為すことである。

 また、職場のマネジャーや経験ある既存メンバーは、「人材育成の原理や理論」を必ずしも把握しているわけではないし、教育的マインドをもって人に接することに得意なわけでもない。よって、人材育成を行うにあたっては、自らの被教育経験を再生産してしまいがちである。特に、そのマネジャーやメンバーが、「自分としては上位者に全く育てられた実感がない場合」あるいは「一匹狼的に自分ひとりで成長してきたと考えている場合」、事態はより深刻である。彼 / 彼女は、自分が受けてきた経験を、他者にもあてはめ、これを再生産してしまう可能性が高いからである。

 さらに、職場に人材育成の諸機能をすべて任せてしまうと、組織としては人材にバラツキ(分散)が非常に大きくなることも問題である。ひと言でいえば、育つ職場は人が育つが、そうでないところは、離職やメンタルの問題が噴出する。こういう事態が継続すれば、組織としては、体を為さなくなってしまう。

 よって、人材開発部門が、自らの専門性、知見をフルに動員して、人材育成の方針(ビジョン)を示し、必要に応じて職場のマネジャーやメンバーを巻き込み、その方針をご理解いただいたうえで、人材育成に従事してもらう環境をつくっていくことが大切になる。

  ▼

 本書は、このような社会的背景、問題関心を踏まえて読み込んでいくと、極めて実践力の高い示唆が得られる、人材育成の実務書であると思う。

 まず「自分ごと」として仕事やキャリアをとらえる、という、博報堂らしい「大きなビジョン」は、すべての人材施策の底流をなしている。その上で、従来のOJTが抱える問題を検討し(サークル型OJT)、時代にあったOJTのあり方として「サーチライト型成長モデル」を提案する。

 このコンセプトのもと、さらに提案されているのが「任せて・見る」「任せ・きる」といった「内製化された人材育成コンセプト」である。これらは、人材開発部門の方々が議論をつくしてつくりあげたものであるがゆえに、自社の置かれた外部環境と組織内の組織文化に根ざしたものであるし、「経験前の学習」を重視するという現代の若手世代の特徴に根ざしたものである。なにより、人材開発部門の方々が、自ら創造した物であるがゆえに、彼ら自身の中で、もっとも「腹に落ち」、しっくりくるものなのではないだろうか。

 畢竟、OJT等の人材育成の仕組みを議論して、作り上げていくプロセスこそが、そこに関係する人々の間に、学びを生み出すのである。かくして生まれた、人材開発部門の組織レベルの学びも、非常に興味深い。

 もちろん、当初は、その議論のプロセスは長く、果てしなく、出口のない迷路に迷い込んだかのようにも感じられたかもしれない。しかし、こうした「地道な努力」が実を結ぶことは、暗い話題が少なくない人材マネジメントの言説空間に、久しぶりに「光明」を見た思いがする。

「地に足のつかない、欧米から借りてきた"手法"」が輸入、流通、消費されがちな人材マネジメントの言説空間に、非常に新鮮なインパクトを与えているのではないだろうか。

  ▼

 本書を手に取る読者の皆さんは -本書の購入前にこのページを斜め読みしているあなたも含めて! - この本書に書かれている内容を、まずはご一読いただきたい。著者らの立場にたって、どういうプロセスで、本プロジェクトを実行していったのかを、ぜひ、追体験していただきたい。

 そして、そのうえで為すべき事は、本書のアイデアを、そのまま自社にあてはめることでは、断じて「ない」。

 むしろ、この書籍をネタに、自社のあり方を見直し、自社に最もフィットしたキーワードや仕組みを考え抜くことであり、自社の人材育成のキーマンたちと、本書をネタに、議論をつくすこと、であり、実際に、議論に方向性がでてきたら、思い切って実践してみることであり、そうして生まれた結果を振り返ることである。そうしたプロセスを、わたしたちは、「学び」とよぶ。

 若手や新人などの「第三者」に対して「学び」を促そうとするものは、自らもまた「学ぶ」必要がある。本書で紹介されているOJTの仕組みでは、OJT指導をする側とOJTを受ける側の「学びの連関」についても述べられている。また先ほど述べたように、人材開発部門の方々が、議論をつくし、施策を実行し、振り返りながら、「学び」を新人やOJTに関わる人々に提供しているのも、いわば「学びの連関」だ。

 かくのごとく、学びはいつも「メビウスの環」のように相互に連結しているものである。それを切り離して論じたり、実行することはできない。そんな「学びの連関」を、御社にも生み出してみませんか?

  ▼

 最後に、博報堂大学の試みがさらに展開し、同社のビジネスにポジティブなインパクトをもたらすこと、また、本書をお読み頂いた読者のみなさまが、自社と時代に最もフィットして、自らも「腹おち」できる人材育成プロジェクトを「実践」なさることを、心より願っている。

 資源が少ない我が国おいて、最も開発が難しく、しかし、それでいて、なかなか他の国が追従できない要因とは、つまるところ「人」であり、我々の能力が開花した先に発揮される「知性」である。

 私たちは、私たちの将来のために、
 人と知性を信じ、今、為すべきことをなそう。
 そうした志ある人と組織に、本書が届くことを願う。

 中原 淳
 東京大学准教授(経営学習論)


投稿者 jun : 2014年1月14日 14:46


「学んでから仕事する」のか「仕事の中で学ぶ」のか?:わたしはまだ「学習モード」ですから!?

 仕事柄多くのビジネスパーソンやマネジャーの方々からヒアリングさせていただく機会があります。先だっても、ある会社を訪問させて頂きました(感謝です)。
 そこでマネジャーさんとお話したとき、彼が、最近、イラッときた言葉のひとつに、ある若手の発した、この言葉があるとおっしゃっていました。この是非をここで問うことはしないのですが、興味深い言葉だったので、ここでもご紹介させていただきます。

 その言葉とは、

 わたしはまだ「学習モード」ですから、学んだあとで・・・をさせてください

 という若手の言葉です。
 この言葉を耳にしたあと、マネジャーの方は、少し時間をとって若手と話をした、とおっしゃっていました。

 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、要するに、この若手の方が発した言葉の趣旨は、

「(業務のコツ)学び終わったあとで、個々の仕事に取り組まさせてください」

 ということですね。新入社員として職場配属されたばかりの新人さんならば、こう言いたい気持ちはよくわかります。

 それに対して、このマネジャーさんが、思われたことは、こういうことです。

 「リアルな職場」では「法則を暗記して」、それをあてはめるように仕事はできない。つまり「学習されたもの」がまず先にあって、それをリアルな仕事場面に「適用」するような学び方をしようとしても、それは難しい。

 「学ぶため=学習モード」だけに、組織は、お金を支払ってはいない。
 むしろ、まずは「仕事」に取り組んで欲しい。その中でそのつど、そのつど、学び、自ら「法則」をつくりだしてほしい。「法則」はどこかにあるわけじゃない。自分でつくりだすものなのだ、と。
 すなわち、彼が言いたかったことは「仕事モード」か「学習モード」という2つの異なるモードが存在するのではなく、社会で働くとは「仕事=学習モード」なのだ、ということになります。

 ▼

 今日は世代の異なる両者(若手・マネジャー)が、「仕事」「学習」をどのように位置づけているかを、敢えて戯画的に書いてみました。

 皆さんは、これに関して、どんな感想をお持ちですか? そして、もし経験の浅い方が、こんな風に問われたら、皆さんでしたら、どのようにお答えになりますか?

 わたしはまだ「学習モード」ですから、学んだあとで・・・をさせてください

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月14日 11:19


あなたは「何」を失えば、あなたでは、なくなってしまいますか? : あなたの会社が、明日、なくなってしまったとしたら、世界の何が変わりますか?:個人と組織を揺さぶる問い

あなたは「何」を失えば、あなたでは、なくなってしまいますか?

 数年前になりますが、ある方とお話していたときに、投げかけられたこの問いが、今も印象深く残っています。

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 自分が何者かをつかむためには、
 自分が「何」であるかを考えるのではなく、
 自分が「何」を失えば、自分でなくなるかを考えるとよいかもしれませんよ
 
 ところで、中原さん
 中原さんが「何」を失えば、中原さんではなくなってしまうでしょうか?

 ---

 ダバダー
(ネス○フェ・ゴールドブレンドのBGMでどうぞ)
 うーん、何度きいても、なかなか味わい深い問いです。
 なんだろ、僕は何を失えば、僕ではなくなってしまうんだろう。
 もやもやもやもや。

  ▼

 かくして、

 あなたは「自分の何」を失えば、あなたではなくなってしまいますか?

 という問いは、なかなか面食らうものがあります。
 なぜなら、多くの人々は「自分が何者か」を時に考えることがありますが、「自分が何かを失い、自分ではなくなってしまう事態」を想定することの方がレアだからです。こうした鋭い問いは、現実ではない状況を仮に想定して、相手を「揺さぶること」ができます。

  ▼

「揺さぶる問い」で揺さぶられるのは個人だけではありません。組織だって、揺さぶられることがあります。揺さぶる問いは、時に、組織変革や組織開発のプロセスにおいても、用いられることがあります。

 よく知られていて、記憶に残っている例といえば、かつて某IT企業が、自組織のバリューを策定するときに行った全社規模でディスカッションでしょうか。

 たしか、そのときの問いのひとつに、

「もし仮に、我が社が明日なくなったとしたら、世界の何が変わるだろうか?」

 というものがあったように思います。これも「揺さぶる問い」の一種と考えていいでしょう。「我が社が明日なくなってしまうこと」は、おそらく、この場合は、あまり、皆にとって想定できないことです。ここでは「我が社が明日なくなる」という非現実の状況を仮定して、ふだんは考えない角度で、自社の貢献価値について考えています。
「もし世界が何も変わらない」のだとすれば、自社の社会に対する貢献価値(デリバラブル)は非常に乏しいものになります。もし世界が変わるのだとすれば、「世界の何が変わる」かを考えることで、自社の貢献価値について考えることができます。

  ▼

 今日は「揺さぶる問い」について書きました。
 それは非常にパワフルですが、やり過ぎは禁物です。だって、そうでしょう? 何度も何度も「何を失えば、どうなる?」「会社がなくなったとしたら、どうなる?」と聞かれていたら、こう答えたくなりませんか? 「失わねーよ」「なくならねーよ」(笑)。だから、多様はできません。

 また、それは、時に個人や組織に「鋭い刃」をつきつけるようなものなので、事前事後のケアも大切なことです。それをやったのだったら、個人が意味形成を行う機会、組織が合意をもてる機会を十分確保することが大切でしょう。

 ところで、最後に?、皆さんに問いのお裾分け。

あなたは「何」を失えば、あなたでは、なくなってしまいますか?
もし仮に、あなたの会社が、明日、なくなってしまったとしたら、世界の何が変わりますか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月10日 07:25


「創って、語って、振り返る系ワークショップ」を成功させる7つのコツ

 研修やワークショップで、もはや定番・鉄板・王道と言われている文法が「創って(T)、語って(K)、振り返る(F)」です。
 誰がもっとも最初にいいはじめたのかわからないのですが!?、この活動の流れは、いわゆる「TKFモデル!?」として、いまや、いろいろなところで応用されています。
 たとえば、何かを「振り返るとき」、すなわち研修やワークショップ内で、参加者に何かを「リフレクション」させるときに、それはよく用いられます。
 TKFモデルは、リフレクション(F)の前に、「表現(創る:T)」と「対話(他者に語る:K)」を行うことで、リフレクションをスムーズに、そして、深く行うためのモデルということになりますね。

 だって、突然、ファシリテータに、

 「・・・・を振り返って下さい」

 と言われても、なかなかできないでしょう。「振り返って下さい」と言われて、突然、「後ろを向いちゃったり」して(笑)。特に、振り返るものが、「仕事のあり方」「マネジメントのスタイル」「自分のキャリア」などの、いわゆる「かたちのないもの」である場合、それは、なかなかに難しくなります。

 ですので、そんなときには、まず、かたちのないものに「カタチ」を与える。つまり「創る=表現」する。そのうえで、そこでできた「かたち」を指示しながら、語ることを求めるのですね。
 「表現するもの」は任意なのではないでしょうか。イキイキチャートであろうが、LEGOであろうが、粘土であろうが、デジタルストーリーテリングであろうが、絵画であろうが。
 このモデルにおいて、それらは語るために存在し、振り返るために役立てられる、ということになるのでしょう。

  ▼

 ところで、この王道・鉄板の「創って(T)、語って(K)、振り返る(F)」モデルですが、参加者をうまく、この活動に導くには、どのようなインストラクションが重要でしょうか。下記では、それを簡潔に書いてみました。

ppp_workshop.jpg

(こちらは、先日、牧村さん、見木さんと開催したワークショップの写真です。小さな雑誌をつくりました。参加者のみなさま、ありがとうございました。なお、詳細は、下記の牧村さんのページに開催報告がございます)

Maho-lab 自分の「これまで」を振り返りリトルプレスをつくるワークショップ:PPP
http://maholab.net/?p=579

1.意義を理解させる
 要するに、「創って(T)、語って(K)、振り返る(F)」の意義を説明し、参加者の腹に落とすことです。
 これから行う活動が、表現の場合、特に、僕のように!?図工が苦手だった大人は、ちょっと面食らいます。創ることの意義がわからないですし、ヘタッピな自分の作品を公開することには躊躇いもあります。
 ですので、冒頭では、「創って(T)、語って(K)、振り返る(F)」の意義をしっかり説明する必要があります。特に、語ること、振り返ることの重要性をしっかりと伝えたうえで、「そのために」創ることが存在することを伝えることが大切でしょうか。「作品のうまい下手が問題ではないこと」も十分理解してもらいます。

2.孤独の時間を設ける
 創る前には、少し、自分一人になって構想する時間、考える時間を与えます。突然創れといわれても、面食らってしまう人もいます。メタファをつくらせたり、テーマを考えさせたり、キャッチコピーを考えさせたり、創造につながる副次的な活動を前にさせることもあります。

3.巧拙が出ないようにする
 「表現」の活動でもっとも大人が気にするのは、「こんな下手な作品つくっていいんだろうか」とか「わたしが一番下手なんじゃないだろうか?」ということです。つまり「作品のうまい下手」がもっとも気になるのです。これへの対処はいくつかあります。まず「巧拙」がでないように、素材で工夫する方法です。
 もっとも安易なのは、LEGOブロックなどの、あまり短い創作時間では、巧拙がでない素材を用いることです。ふたつめは、「これを使ってm何かをつくれば、ある程度の見栄えのものは、どんなに適当に組み合わせても、できちゃうよね」というオシャレ素材を用意することです。素材
がオシャレなので、適当に組み合わせても、あまり巧拙はでません。
 絵画のワークショップなどでは、あえて「利き手」以外の手で作品をつくらせるなどの工夫も行われます。右利きの人が左手でかけば、そりゃ、巧拙はでません。また、インプロや演劇などの身体活動も、巧拙がなかなかでません。

4.下手な例を自ら見せて安心させる
 キース・ジョンストンではないですが、大人は「萎縮した子ども」です。3のプロセスをふんでも、どうしても、巧拙が気になる人もいます。そんな場合は、ファシリテータ自らが、自分のもっとも下手くそな作品を公開します。要するに「こんなしょーもないものでもOKなのだ!」という作品をみせることで、バーをさげます。
 僕の場合、「これまで3万6千人くらいに、このワークショップをやってきましたが、出来なかった人は、誰もいません.大丈夫ですよ。図工2の僕も、こんな作品ですが、できましたから」といいます。

5.時間を制約とする
 あまり長い時間を表現にあてると、人ごとの差がだんだんと出てきます。また、表現にのれない人は、時間をもてあまし気味になります。よって、表現にあてる時間は「腹八分目」を心がけます。足りないな、と受講生に思わせるくらいが、経験的にはちょうどよいような気がします。

6.語る時間と振り返る時間を十分確保する
 もっとも大切なことは、これかもしれません。ともすれば、表現の時間というのは、長くなりがちです。そして、これが長くなる結果、最もメインの活動である「語る時間」「振り返る時間」が少なくなる傾向があります。
 本当は逆です。表現された作品を指示しながら、語る時間。振り返る時間を十分にとることが大切だと思います。経験的には、表現にあてた時間の3倍から4倍は、それらにあてます。

7.表現を愉しむ
 言うまでも無いことですが、もっとも大切なことは、ファシリテータ側も自ら表現を愉しむことではないか、と思います。そういう雰囲気をつくっていくことが大切です。いろいろなものが予想外、想定外に起こりますが、そういう出来事を愉しむマインドを持ちたいものです

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 以上、少し長くなりましたが、今日は「創って、語って、振り返る系ワークショップ」のコツについて、つらつらと書いてきました。もちろん、これ以外にも、いろいろあると思いますが、ぜひ、皆さんのお知恵をシェアして頂けると嬉しいです!

 さてもう時間、リミットです。
 KENZO、TAKUZO、ママも起きてきました。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月 9日 08:35


「人材育成」とは「年長者が若年者を育てること」ではない!?

 先日、あるビジネスパーソンと話していたときに、少し盛り上がった話がございました。それは「育てること」に関する連鎖についてのお話です。

 我々の話に曰く、

 若い人「だけ」がぐんぐん伸びて、3年目や中堅はさっぱり、という組織は、なかなか見ないんですよ。
 逆に、3年目や中堅は元気いいのに、若い人だけ、シオシオのパーっていう組織も、あまり経験したことはないですね。
 駄目なところは、全体をとおして芳しくない。逆に好転すれば、くるくる回り出すイメージですかね。

  ・
  ・ 
  ・
 この理由はいろいろと考えられそうですが、おそらくも最もありえそうなのは「育てること」の連鎖ということです。
 すなわち「育てる側」が自分よりも若年者を「育てること」で、さらに「育ち」、「今は育つ側」が「育てられること」で、近い将来、今度は「育てる側」に回るという循環が起きるということです。

 若い人は「育てられること」で、近い将来、3年目や中堅になってきたときに、育てる側に回ってくれる。逆に3年目や中堅は「育てること」で、自己の成長課題に気づき、また、その上のマネジャー層に必要な資質を身につけていく・・・つまり「育つ」。しばらくして、そうした人材がマネジャーになったら、職場のメンバー個々人の資質が伸びるように職場をつくっていく。

 あまりに牧歌的、かつ、理想的すぎるかもしれませんが、まー、いいじゃないの(笑)、朝っぱらからシビアな話してもね。でも、おそらく、よい組織では、このような連鎖が生まれうるのではないか、ということで盛り上がりました。

 そう考えてみますと「人材育成」とは「年長者が若年者を育てること」ではない、ということになります。
「人材育成」とは「年長者が"育てる"ことで"育ち"、やがて職場に"育てる風土"をつくり、若年者が"育つこと"で"育てられるようになること"の循環である」ということです。

  ▼

 今日は「育てること」の連鎖について書きました。
 僕に残された次の課題は、今は夢想にしかすぎないこの連鎖をどのように実証し、表現していくか、ということです。それは、また別の機会にでもお話しいたします。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年1月 8日 08:31


「Still water」から「Running water」へ:リフレクションのための時間!?

 先だって、PCのファイル整理をしていたら、かつての日記メモに(いわゆるネタ帳ですな。毎日ブログを書くために、ネタ帳につねにネタを書いているのです。街中で突然PCを広げている僕を見かけたら、それはネタ帳にネタを書いているときです、笑)、こんな言葉が書きつけてありました。おそらく、何かの本を読んでいたときに、書き付けたのでしょうが、肝心の書名がわからない(笑)。(Proverb)とありますので、たぶん、古い諺の一種なのでしょう。

We cannot see our reflection in running water.
It is only in still water that we can see.
(Proverb)

 意味は、だいたいこんな感じになるのでしょうか(ちょっと意訳)。

「流れゆく河の水に、自分の顔は映らない
 静かなる水面にこそ、映り込む」

 新年も明けて、そろそろ一週間ですが、Facebookなどを見ておりますと、多くの方々が「昨年」一度を振り返り、「今年」を構想しておられました。年末年始というのは、まことに慌ただしい時間なのですが、そういう意味では「Still water(静かな水面)」なのかもしれないな、と思います。「静かな水面」を目の前に、自分を映し、振り返る。そういう時間なのかもしれません。

 さぁ、「Running water」の時間がはじまります。
 あなたは「Still water」の時間を十分とれましたか。

 そして人生は続く

 

投稿者 jun : 2014年1月 7日 06:36


【ラーニングイベント参加者募集中】 「囲碁の世界観」に触れ今年の生き方を考える!?:新年早々、布石を打つ!?

 経営学習研究所は、新年も元気です。2014年最初のイベントは、島田徳子理事の企画するギャラリーMALL「囲碁の世界観に触れ今年の生き方を考える」です。参加をご検討のほど、どうぞよろしく御願いいたします! おたのしみに!

「囲碁の世界観に触れ今年の生き方を考える」参加申し込みフォーム
http://ow.ly/si0Md

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「囲碁の世界観に触れ今年の生き方を考える
―囲碁体験を通じて新年の序盤に布石を打つ― 」

2014年1月31日(金)18:00から21:00
内田洋行東京ユビキタス協創広場CANVAS地下1階 
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経営学習研究所 (Management Learning Laboratory : MALL)の
島田徳子です。
2014年1月31日(金)に、ギャラリーMALL企画として、
新しい年のはじまりに、「囲碁」をテーマに、
「人生・仕事・キャリア」を考えるイベントを行います。

■今回のテーマは、
「囲碁の世界観に触れ今年の生き方を考える
―囲碁体験を通じて新年の序盤に布石を打つ― 」
です。

みなさん、「囲碁」は、なさいますか?
仕事や普段の生活で、何気なく使っていることばの中に、
囲碁から来たことばが実はたくさんあることをご存じですか?
「一目おく」
「布石を打つ」
「序盤・中盤・終盤」
「結局」
「駄目」

わたしは、全くの素人なのですが、
内田洋行教育総合研究所様から会場面でのご協力をいただき、
公益財団法人日本棋院様、友人の囲碁観戦記者の内藤由起子さんの
全面的なバックアップをいただき、
このたびのイベントを開催できることとなりました。

「囲碁」は、4000年前に中国で発祥し、日本では6世紀ごろ伝わったと
言われています。
古くは、『源氏物語』や『枕草子』などにもとりあげられ、
約1千年前の宮中の女官たちが囲碁を楽しむ様子が描かれているそうです。

戦国時代には、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、
名だたる武将たちが囲碁を嗜好してきたことから、
「囲碁」には、戦略や柔軟な発想、決断が求められることがうかがえます。

囲碁は何も置かれていない基盤に石を置き、陣地を形作る「創造のゲーム」です。
発想力を鍛えるとともに、最終的な和解(Win-Winの関係)を目的とする
平和なゲームという一面もあり、一方的に勝とうと欲張ると破たんすることが
多く、相手の出方や先を読むことが大切なのだそうです。

最近では、多くの大学の単位科目として「囲碁」が組み込まれ、
ゲーム世代の大学生たちの人気科目となっているそうです。
大学生たちは、「正解」のない「囲碁」の世界で、
大局観やバランス感覚、論理的思考能力を養い、
様々な局面において自身で判断し決断する経験を積んでいるようです。

さて、今回のイベントは、
わたくしのようなこれまで囲碁と縁がなかった方も、
囲碁が大好きな方にも奮ってご参加いただきたいと思っています。

この会は、囲碁をプロフェッショナルに探究する場ではなく、
「囲碁の世界観に触れることで、1年の始まりに、
人生や仕事やキャリアについて考えてみる」ことを目的とします。

囲碁を打ちながら・・・
バータイムに・・・
ダイアローグの時間に・・・
たくさんの新しい出会いが生まれ、
楽しく豊かで、時にシリアスな対話の時間を過ごしていただけたら、
そんな想いで、理事・スタッフ一同、みなさまをお迎えしたいと思います。


■このたびご登壇いただく方は、
プロ棋士の、マイケル・レドモンド(Michael Redmond)
(公益財団法人日本棋院所属棋士九段)さんです。  
http://www.nihonkiin.or.jp/player/htm/ki000174.htm
レドモンド棋士は、1963年生まれ、
アメリカのカリフォルニア州出身の日本のプロ棋士の方です。

13歳のとき旅行で日本を訪れ、日本の棋士に指導を受けたことを
きっかけに、14歳で来日し囲碁のプロ修行を開始。
15歳で故大枝雄介九段に弟子入りし、17歳でプロ試験に合格。
1981年18歳より日本棋院初段、2000年には最高段位の九段に昇段。
2009年には、史上81人目の、棋士生活500勝を達成。
テレビ番組「NHK囲碁講座」の講師、アメリカ・ヨーロッパ
などでの囲碁普及指導でも活躍されています。

ご著書、『直観力 私が囲碁から学んだ 生きるということ』海竜社
では、囲碁との出会いや自らの成長について振り返っていらっしゃいます。

日本棋院と関西棋院に所属されている棋士の500人のうち、
海外生まれの棋士は80人程度いらっしゃるそうですが、
台湾中国韓国がほとんどで、欧米系はわずか数人だそうです。
その中で、レドモンド九段の多方面での活躍と存在感は、
圧倒的なNO.1とのことです。

レドモンド九段の日本語の上手さ、日本語の語彙の豊富さや
表現の豊かさは、海外生まれ棋士の80人の中でも指折りとのこと。

今回のイベントでは、レドモンド棋士による囲碁についての
お話に続き、参加者のみなさんには7(or 9)路盤を使った囲碁を体験
していただきます。

そして、その体験をふまえ、
レドモンド棋士の経験談をお聞きしながら、囲碁の豊かで深い
世界観に触れ、「人生・仕事・キャリア」について考える時間を
みなさまとともに過ごしたいと考えています。            

2014年、新しい年の幕開けに、
多様な参加者のみなさんと一緒に
囲碁の世界を覗きつつ、駄目を見極め、一目おかれる人を目指して、
新しい年が充実した一年となるよう、
布石を打っておきませんか?

■主催
経営学習研究所

■共催
公益財団法人日本棋院
内田洋行教育総合研究所

■日時
2014年1月31日(金)17:30開場 18:00開演 21:00終了

■募集
70名さま

■会場
株式会社内田洋行 
東京ユビキタス協創広場CANVAS地下1階
http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas.html

■参加費
お一人様5,000円を申し受けます
囲碁体験で使用する、7/9路盤(表裏)(非売品)のおみやげ付きです
※釣銭のないようご用意いただきますようお願いいたします
会場には、お飲物と軽食をご用意しております

■スケジュール(予定)
17:30 開場 18:00 開演
・18:00-18:10 オープニング (島田)
・18:10-18:25 
イントロダクション「囲碁との出会い」(レドモンド棋士)
・18:25-19:20
 第一部「みんなで囲碁を体験してみよう」(レドモンド棋士&日本棋院様)
 ルール説明(15分)
 対戦(40分)

<休憩> (25分)(バータイム & 軽食)

・19:45-20:35
第二部 「囲碁の世界観に触れ今年の生き方を考える」
「囲碁が教えてくれた人間の基本」(レドモンド棋士)(10分)
 Q&A タイム(20分)
・ダイアローグ(20分)
 「囲碁体験を通して、今年の自分の生き方と
   人材育成について考えてみる」

<休憩>(10分)
・20:45-21:00 ラップアップ&クロージング (島田)

■参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所
の企画担当理事が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料、
書籍等に許諾なく用いられる場合があります。マスメディアに
よる取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.欠席の際には、お手数でもその旨、
info@mallweb.jp(松浦)までご連絡下さい。
応募者多数の場合には、繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。

3.応募者多数の場合は、抽選とさせていただきます。
1月16日までにお申し込みをいただき、17日には抽選結果を
送信させていただきますので、ご了承ください。
応募者多数の場合は、1月16日以前にお申し込みを
締め切らせていただく場合があります。

以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込み
くださいますようお願いいたします。
それでは、皆様とお会いできますこと楽しみにしております!

参加申し込みフォーム
http://ow.ly/si0Md

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企画:経営学習研究所 理事 島田徳子
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投稿者 jun : 2014年1月 6日 08:18