KENZOの寝顔を見ながら思ったこと

 先だって、次男KENZOと僕の、二人で過ごす時間がありました。「時間」といっても、1時間半くらいで、ママが外で用事の最中だけ、僕がKENZOを見ていただけなのですが(子育ての9割を任せてしまっています・・・すみません)、これが、なかなかアタフタしました。もちろん、今までにも数十分の単位なら、出歩いたことなどはありますが、少し長い時間でしたので、「何にも起こりませんように!」とこちらも、少し緊張していました。

 最初の数十分は、無事に「ねんね」をしており、こちらも、それならば、ということで原稿の校正をしていたのですが、そんな時間もつかの間。

 起床なさり!?、ぐずぐずをはじめられ!?、ミルクをやっても、抱いても、埒があきません、びぇーん、びぇーん、とお泣きになるばかり。
 原稿の校正なんぞは、一気にぶっ飛び、数十分の格闘がはじまりました(ちまちま仕事してんじゃーねー、というKENZOの叫びが聞こえそうです)。
 結局、泣きわめいていた原因は、頭の水疱瘡の痕あたりがかゆかったかのかな(今もって、理由はわかりません!)。頭をさすっていると、また少し寝始めました。

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「察しろよ、オヤジ!」という、ややふてぶてしい顔で僕を見つめ、しかし、それでいて、すやすやと寝始めているKENZOの顔を見ていると、なんだか不思議な気分になりました。

 まずは、

 人間は「圧倒的無力」から生まれるんだなぁ・・・

 というアタリマエのことを今さらながらに感じました。自分では何一つできない。他者に依存してしかいけない状態から、人は少しずつ成長していきます。

 文字にしてしまえば、アタリマエダのクラッカーなのですが、その「無力っぷりの程度」がすさまじく、しかし、ここに可愛いな、という愛情らしきものを感じさせるところが、すごい才能だなと感じました。

 一般にわたしたちは、さすがに、ここまで「他者依存の存在」ではありません。が、わたしたちが、どのようなプロセスをへて、この「無力」から自律しはじめたのか。そして、人が一人でいることをやめ、組織をつくり、物事をなしとげるのか。改めて、自分の研究が好きになりました。
 
 ふたつめ。
 
 子育ては「ロジック」じゃないよな

 というアタリマエなことを改めて認識しました。

 泣いている赤ちゃんに「めそめそ泣くんじゃない」といってみたり、ぐずぐずしている赤ちゃんに「どうしてなの?」と聞くことほど、意味のないことはありません。いや、本当に、ロジックや理屈じゃないから(泣)。言ってもしょーがないから(泣)。

 何とかしようと思って、何かができるわけじゃないし、試行錯誤の果てに結果としてたどり着いたものが、「本当の解」であったかすら、実際はわからないから。

 しかし、一方で、わたしたちは「ロジックの世界」を生きています。子育てをしていると、よく、この「ロジックの世界」と「非ロジックの相手」に挟まれてしまうことがあります。典型的には、電車に乗ってなかなか赤ちゃんが泣き止まない、という事態もそのひとつでしょう。僕には、その辛さがよくわかります。

 ロジックとしては、みんなに迷惑をかけちゃいけない、この事態を改善しなければならない、ということは、わたしたちにはよくわかるけれど(よほど非常識な人を除いて)、しかし、対処しなければならない事態は、「非ロジックの相手」です。
 結局、いろいろ試行錯誤をして、それでも、難しい場合はままあります。時には、解が見つかることもあります。しかし、解が見つからないことも、往々にしてあります。

 結局は、「非ロジックな相手」、そして「非ロジックに対処しつつ、ロジックと非ロジックに板挟みにあっている人」をどの程度、周囲が鷹揚に受け取ることができるかどうかなのかな、と思います。人は誰しも、生まれたばかりのときは、無力で、他者依存で、非ロジカルな存在だったのだから。それがめぐりめぐっているだけなのだから。僕自身は、この感覚を忘れたくない、と思いました。

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 KENZOは体重が6キロを超え、だんだんと(態度も!?)、でかくなってきました。
 この子も、いつかは、他者の依存から徐々に徐々に抜け出し、ロジックの世界に参入してくるのだと思います。非ロジックなKENZOを見ていると、はやくそういう日がくることを、僕は切に願います。
 しかし、同時に、一方で、こんな思いも持ってしまっていることも、また否めぬ事実です。

 そんなに急いで
 大人に、ならなくてもいいんだよ

 もう少し
 そのまんまでいいよ

 親とは、いいえ、僕とは全く「矛盾」した存在です。
 そして人生は続く

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もう、立ち上がりたいのかい?
まぁ、そう、焦りなさんな!(笑)