ルンバとは「お掃除をしてくれるロボット」ではない!:我が家で存在感を増す「るんちゃん」のこと

 我が家のメンバーに、それが加わったのは、わずか2週間くらい前のことです。おこしになったのは、いわゆる「お掃除ロボット」である「ルンバ」です。

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 我が家は「典型的な共働き・子育て家庭」。しかも、夫と息子は「靴下ぽいぽい・シャツ出し人間・引き出し閉めない男」ですので(かたじけない)、カミサンにはいつも苦労をかけています(本当に申し訳ない・・・いや、誠に申し訳ない)。

 ある朝、カミサンが「ルンバを買いたい」と申しますので、小生「それはナイスアイデアだね!」と二つ返事で、買いに行きました。

「いや、本当にグレートな思いつきだよ」

 お察しの通り「断ると、災いが、小生に降りかかりそうだ」という予感が、即時判断を可能にしたリソースであったことは言うまでもありません。

 ルンバは、なかなか「健気」です。
 我が家に人がいない昼間に、ウィンウィンと我が家中を走り回り、お掃除をしてくれます。本当によくできていて、感心してしまいます。もしルンバが動くところを見たことがない方は、下のVをどうぞ。

 もっとも、床に落ちている「紐」などは「苦手」なようで、時折、紐にからまって動けなくなって「遭難」している「ルンバ」を、救助隊が「救助」に出かけることもあります。

「大丈夫ですかぁ? 意識はありますか?」

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 よく言われることですけれども、ルンバを用いるためには、事前に「家主」が、床に落ちている様々なものをひろったり、整理したり、それなりの整理をしなくてはなりません。つまり、ルンバを用いるためには、家主も動かなくてはならない。それなりの「準備」が必要なのです。

  ▼

 小生、ルンバを使いはじめて、まだ二週間の新参者、すなわち「ルンバ界のもっとも最下層にいる人間」ですが、つくづく思うことがあります。

 それは、

 ルンバとは「お掃除をしてくれるロボット」ではない!

 ということです。

 なぜなら、先ほど述べましたように、ルンバを動かすために、家主は、いろいろと家中を「整理」しなくてはならないからです。つまり、家主も、それなりに「掃除」や「整理」をしているということになります。もちろん「お掃除をしてくれる」のですけれども、その認識にとどまっていると、「本当のルンバ?」を見つめたことにはなりません。
 
 つまり、

 ルンバは「家主」に「掃除をさせるロボットでもある」

 ということです。

 ここで、わたしたちは、二つの認識を重ね合わせる必要があります。ルンバを単純に「お掃除をしてくれるロボット」と把握するという錯誤を犯すことなく、それと同時に、それが「お掃除をさせるロボット」であることを認めなくはなりません。

 この二つの命題をあわせますと、下記のようになります。

 ルンバとは「家主とコラボして、"お掃除"をなしとげるロボット」である
 
 つまり単独でお掃除をするロボットではなくて、そもそも「コラボレーション」のはてに「掃除」を共同達成するロボットなのです。もちろん、この認識にたったところで、「一銭の得にもならない」「腹は一ミリもふくれないこと」は言うまでもありません。

 つくづく思うのは、もし、ルンバの設計者が、最初から「このこと」を念頭において設計していたとしたら、すごいな、と思います。
 おそらくは、「単独で動くこと」を想定したけれども、結局は、ユーザーを巻き込んでお掃除を達成するロボット」になってしまった、ということだとは思いますが。

 というわけで、我が家のルンバ、いえいえ、もはや我が家の一員である「るんちゃん」は今日も元気です。TAKUZOによって命名され、かつ、カミサンによって「おめめ」などもつけられて、ますます存在感を増しつつあります。「ボケた顔」して、なかなか「侮れないヤツ」です。我が家の「勢力分布図」が変わりそうで、小生は、戦々恐々としております。

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 はい、時間です、残り2分、アップ完了。
 カミサンとTAKUZOを起こします。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月31日 06:58


「コピペできないもの」をつくりだせ!:スポーツクラブの経営を見ていて、感じたこと

 僕がふだんからよく考えていることのひとつに「コピペ可能性」というものがあります。敢えて難しくいえば「模倣可能性」なんでしょうけど、それだと学者っぽいので、あくまで「コピペ可能性」(笑)。それらが同義かどうかは、僕は知りません。

「コピペ可能性」とは、要するに、「ある対象物」がクリックひとつのような簡単な動作で「コピペできるもの(模倣)」なのか「コピペできないもの」なのかを考える、ということです。
 
 世界にはいろんなものがありますよね。それらを「コピペ可能性」というレンズを通してみると、世の中は、なかなか面白く見えてくることが、ごくごくたまにあります。
 こんなことを考えていても、将来が開けるとは1ミリも思いませんが、皆さん、暇だったら、やってみてください。

  ▼

 例えば、最近ですと、僕が、コピペ可能性のレンズをもって、しめしめと観察しているのが、家の近くのスポーツクラブです。

 家の近くにスポーツクラブ(フィットネスジム)が複数あって(4つくらいはある?)、訳あって、家族が違うスポーツクラブに通っている我が家では、当然のことながら、それぞれの「経営戦略の違い」を目の当たりにします。

 当然のことながら、僕は「スポーツクラブ経営」は本当に門外漢なので知りませんし、たぶん、将来的にもそれにかかわることや専門とすることはないと思いますので、以下は、無責任に言い放ちます。

 ハタから見ていて面白いな、と思うのは、スポーツクラブにとって、最大のウリであるはずの「施設・マシンの新しさ」は、ごくごく短い時期には、「競争優位」につながりますが、長期的に見れば、それがともすれば「足かせ」になりえる、ということです。

 つまり、建てたばかりや、改装したばかりのスポーツクラブでは、「施設・マシンが新しい」ので、それを「目当て」にしたお客さんが、たくさん集まってきます。

 しかし、数年たって、周囲のスポーツクラブが改装したり、あるいは、新規で新たなスポーツクラブが立ち上がったりしますと、当然のことながら「後にできたジムの方」が、施設もマシンも魅力的で「新しい」のです。
 テレビが大きかったり、iPhoneを接続できたり、ランニングしながら人生相談ができたりする(笑)

 ある時期まで集客に貢献し「競争優位」を導いていたはずの「資産」が、年をへると、今度は他店との比較対象になり、ひいては「足かせ」になりかねない。
 もちろん、頻繁に改装を行えれば、それにこしたことはないのですが、改装時はお客さんに迷惑をかけますし、また、そんなにコストをかけられません。

 かくして競争は激化します。値下げ合戦がはじまり、既存顧客の獲得競争がはじまります。
 これでもか、これでもか、という風に、毎月毎月、新たなキャンペーンが組まれます。

「いつもキャンペーンやってませんか? キャンペーンじゃない時はあるんですかいの?」

 と聞き返したくなるような状況が生まれます。地域内大競争時代のはじまりです。お客さんは右往左往します。

  ▼

 そうした数多くの取り組みの中で、僕が最近興味深く、「星ひゅうまのねぇちゃん」のように、密かに見ているのは、スポーツクラブMの行っている取り組み(戦略)です。

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(全く似てない・・・すんません、おかしいな、こんなハズじゃ。。。えっ、こんな絵、描ける時間あるんだったら、暇だろって? いや、暇じゃないんですけどね・・・今日のブログ、字ばっかりでしょう。どうしても、ワンポイントを描きたくて、つい)

 Mでは、数年前から、徹底的にスポーツクラブに通っている人を、クラブ内「コミュニティ」、クラブ内「イベント」に誘い込み、「アトム化している個」を結びつけ、「クラブ員同志のつながり」を発達させようとしている(ように見えます)。

 若手は若手同志の、ちょっと婚活はいったコミュニティ。
 最大の顧客であるシニア層には、男女ごと、あるいは男女混合の、様々な目的に応じたコミュニティ。
 ちょっとイケてるオヤジたちは、ヒップホップを踊るコミュニティ(小生は一度、ヒップホップにチャレンジして、腰がモゲるかと思いました)。
 ヨガをやっている綺麗なおねえさんたちは、綺麗とエコをめざすコミュニティ。

 勉強会やら、山登り会やら、ダンスイベントやら、ありとあらゆる、各種様々なイベントを通して「人のつながり」を構築しようとしている(ように見えます)。

 ハタから見ていて、勝手に意味づけして恐縮なのですけれども、Mを見ていると、スポーツクラブとは

「スポーツのための施設提供を行う場所」

 というだけでなく、

「スポーツをネタにした人のつながりがある場所」

 という風に、事業定義を変えているようにも見えます。

 たぶん、ねらっているのは、勝手気ままに横から想像するに、こういうことだと思うのです。
 こうしたところで、いったん、人のつながりができてしまえば、それはなかなか解除されにくい。退化までには、それなりの時間がかかる(人も年をとりますので、つながりとて、永久ではありません)。その間、顧客を引き留めておける、と。

 だって、「新しい施設・マシンができたからといって、自分だけ一抜けて、コミュニティを飛び出す人」はなかなかいないわけです。ゼロとはいわんが、何にもしないよりは、少なくなることが予想されるでしょう。
 また、「なんか、最近、ジム辞めようと思って」という途中離脱も、ある程度は抑止できる。「あの人たちとのつながりが消えちゃうから、やっぱり、まだ続けよう」と考えるのではないか、と思います。ゼロになるとは言いませんが。

 また、最大の特徴は、「人のつながり」が、「ふんとこ、どっこいしょ」という具合に、簡単には「模倣されにくいこと」なのでしゃないでしょうか。
 つまり「コピペされにくい」ことですね。こっちにコミュニティができたからといって、あっちに、CTRL+C と CTRL + Vで、そのまま移動させたり、複製するということはできません。つまり、それは比較的長期にわたる「経営資源」になる。これが今日のテーマであり、まことに興味深いことです。

 もちろん、一口に、「コミュニティ・つながりをつくる」といいますけれど、そのための努力は、大変なものなのだろうな、と推察します。
 土曜日・日曜日に、ジジババ30人連れて山を登る、ということは、誰かが、それを連れて行かなければならないわけですから(笑)。そら、えらいことやで。

 もちろん、今日の話の真偽のほど、また、それが業界にとって新しいのかどうかは知りません。だって、ハタで見ているだけだから(笑)。

 ▼

 今日は、スポーツクラブのお話になりました。競争激化するスポクラ業界において、競争優位を導くものとは何なのか。それを勝手気ままに横からのぞいて「コピペ可能性」というレンズを用いてみると、「人のつながりをつくる」ということも、そのひとつなのかな、ということがわかってきました。

 今日はスポーツクラブの話でしたけど、このことは、何もスポクラ業界だけでなく、いろんなところで考え得ることなのかな、とも思います。

 例えば、個人の生き方やキャリア選択を考える上でも、「コピペできないもの」「コピペできるもの」という視点をもってすると、興味深いことがわかってくるかもしれません。このことはまた詳しく論じたいですが、僕に残された時間は、あと4分です(カミサンとTAKUZOをおこさなくてはなりません・・・)

「コピペが簡単にできる時代」ほど、「コピペできないもの」が意味を持つ ---

 そういう時代を私たちは、生きています。

 そして、「コピペ可能性」のレンズを使って、世の中を見つめてみると、これまでは何の気なしに見えていたものが、実は「スマートにデザインされていたもの」であることも、ままあるから面白いものです。

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 スポーツクラブには、小生、よく行きます。お恥ずかしい話なのですけれども、「腰痛は痛い」は、「肩こりはこってる」は、「腕があがらない」は、「肩胛骨は言うこときいてくれない」は、小生、ひそかに、ボロボロなのです。何とか、運動して、コリをほぐす。地道にやってます。
 ちなみに、この「アンヘルシーな小生の身体」を生み出している原因は「仕事で使うパソコン」です。どうしても、体がゆがみ、コリがうまれ、コチコチになってしまいます。
 誰か「ヘルシーなパソコン」を開発して下さい。どうか、御願いします。絶対、僕、買うよ。

投稿者 jun : 2013年1月30日 06:57


罵倒されて「目を輝かせる人」はいない!? (罵倒 - なにくそ - きらきらはありえない!?):「発憤させる」というロジックで行使される「象徴的暴力」

 かなり前から何度となく言っていることですが、僕は「発憤(はっぷん)」という言葉が、どうも好きではありません。今日のネタは、全く個人的なことですが、「個人のブログ」なので、お許し下さい(笑)。皆さん、お忙しいでしょうから、真に受けないで(笑)

「発憤」とは、辞書によりますと「気持ちをふるい起こすこと」とあります。もちろん、この意味自体に、小生、ことさら「好き嫌い」があるわけではありません。どっちでもいいよ、別に。

 しかし、「発憤」の「巷における具体的な利用例」に話がうつってくると、話は別です。どっちでもよくない、全くよくない。
 僕は「発憤させるというロジックのもとに行われる人々の行為」があまり好きではありません。
 その用語に、あまり「知性を感じないこと」も、その理由のひとつなのですけれども、何より「効率的」ではないように思います。

  ▼

 発憤という言葉のもとに、現場で、どのようなことが行われるかというと、たとえば、こういうことです。

「上の人が下の人に対して、下の人が反発心を憶えるような"相当厳しいダメだし"を行い、下の人が、"なにくそ"と反発心を憶えることで、モティベーションがあがり、物事に積極的に向き合うようになる」

 というようなイメージでしょうか。

 ま、簡単にいうと(笑)、

 反発を憶えるような強烈なダメ出しで、
 目を輝かせるようになった!
 前とは見違えるように物事に取り組むようになった!
 なにくそ! きらきら!

 ということでしょうか。

 ワンセンテンスでいえば

 罵倒 - なにくそ - きらきら!(笑)

 単純化しすぎかもしれませんが、あと10分しか、僕には時間がないので、お許し下さい(もう10分すれば、カミサンとTAKUZOが起きてきます)。
 
  ▼

 確かに「強烈なダメ出し」も時には必要なこともあるでしょう。
 もちろん、「人格否定につながりかねないダメ出し」は差し控えることが必要でしょうが、とはいえ、この世の中では「どんなに厳しいことでも、言わなければならないことは言わなくてはならない局面」は、確かに存在しそうです。

 ただし、それが行きすぎ「反発心を喚起するような強烈なダメ出し」につながると、話はどうか。
 特に発憤が想定する「ロジック」である「反発心を喚起するような強烈なダメ出しで、目を輝かせることにつながる」というセンテンスになりますと、確率論的に、これが奏功する可能性がどうでしょうか。
 僕は、必ずしも、そうはいえないことの方が多いような気がするのです。

 といいますのも、僕は、40年弱生きてきて、自分自身、

「罵倒されて、目をきらきらと輝かせたこと」など一度もありません。

 単純に相手に対する「怒り」が、フツフツ、メラメラとわいただけ(笑)。「いつか、コ○すリスト」に、罵倒した相手の名前を書き加えただけです。そして、丑三つ時に、そのリストと釘をもって、神社にでかけただけ(笑)。すみません「根暗」で(笑)。

 また、僕は、40年弱生きてきて、

「罵倒されて、目をきらきらと輝かせる人」など、一度も見たことがありません。本当に見たことがないんです、そういう光景を。そもそもね、一般人の口から「なにくそ!」という言葉すら、聞いたことがありません。
(なにくそ!という言葉を口にするのは、アニメ業界の人と、教育業界の人くらいなんじゃないでしょうか)

 ダメ出しを行う方と、行われる方に、長期にわたるよほどの強固な信頼関係があれば、そういう事例がないわけではないのかもしれませんし、ケースバイケースなのでしょうけど、実際には、「そうならない局面」の方が圧倒的に多いのではないか、と思います。もちろん、うまくいくケースもあるんだろう。でも、確率的には、奏功する確率は高くないと言えるような気がするのです。

 つまり「発憤させよう」として「発憤しない」。
 ありゃりゃ?

 むしろ、

 反発心を憶えるような強烈なダメ出しによって、心が折れてしまう
 強烈なダメ出しによって、やる気を失ってしまう
 強烈なダメ出しによって、反発心だけをもつ・・・メラメラ

 ことの方が多いような気がしますが、いかがでしょうか。

  ▼

 つまり、僕が、発憤の「何が嫌か」と申しますと、「発憤を喚起するようなやり方」は、それほど、「効率がよくない」と思うのです。もちろん、うまくいくことも、ないわけではないのかもしれない。しかし、それは確率的には高くなく、むしろ「逆効果」になることの方が多いような気がします。

 しかし、一般に「発憤させる方」はそうは考えない。激昂していますから(笑)、感情高まってますから、おらおら。
 その場合、ともすれば「反発心を憶えるような強烈なダメ出し」を行ってさえすれば、「発憤して相手の目が輝く」と思ってしまう。しかし、それで可能になるのは、たいがいは、「激昂している自分の感情のカタルシス(浄化)」だけ。そういうことが多いのです。だから、効率がよくない。

  ▼

 これも、まことに「一般論」ですが、たいがい、上の人が下の人を指摘する場合、「指摘した内容」には間違いはないことの方が多いものです(それさえ間違っているのなら、もう論外)。つまり、下の人が「まぁ、それを言われたら、そのとおりです」ということです。

 問題は、その「指摘の仕方」です。その「指摘の仕方」によって、下の人は、反発したり、傷ついたり、しょぼくれたり、してしまいます。

 ここで、大切なことは、上の人が「指摘した内容」に下の人は反発したり、傷ついたりしているわけではない、ということです。
 むしろ、それよりは「指摘するやり方」が問題であることの方が、圧倒的に多い気がします。

  ▼

 さらにいうならば、この「発憤が想定しているロジック」は、行きすぎれば、「反発心」どころか、「人格否定につながりかねないような強烈なダメ出し」すら、「正当化」してしまう可能性をもっています。だって、下の人が、それに抗すれば、上の人が、つい口にしたくなる言葉はこうでしょう。

「だって、(オレがダメだしてんのは、)オマエのためだろうが?」

 このような認識のもとで、つまりは「反発心を喚起する」というロジックをもとに、「下の人のモティベーションをあげよう」と思ったのだから「何をしてもいい」と上の人が考え、どんな行為でも許されることになることを危惧します。

 つまりね、「発憤のロジック」は一見「教育的」なのです。
 しかし、そのロジックの背後に蠢く「根拠レスな権力性」や「根拠レスな暴力性」を、時にそれは「正当化」してしまう可能性を有しています。
「発憤させるためだった」ということで、どんな"教育的"行為も許されるのだとしたら、それは間違っています。僕は、そういう「象徴的暴力」には嫌悪感を感じます。

 こんなわけで、どうでもいいことかもしれませんが、
 僕は「発憤」が嫌いです。

 少なくとも、僕を、「発憤」させないでください(笑)。
 僕、それで、全く「発憤」しませんし、目もキラキラさせませんから(笑)。
 いやー、中には、そういう性癖をもっている人もいるかもしれないけど、
 僕は違うから(笑)

 だってね、これはさ、ここまで言葉を積み重ねなくてもさ、
 すごくシンプルなことですよ。

 もし仮にあなたが、「罵倒して他人を発憤させたい」と思ったとしたら
 ぜひ、逆の立場になって考えて下さい。
 そういう、あなたは反対に
 「第三者から罵倒されて発憤させられること」を望みますか?

 静かに言おう、ちゃんとね(笑)。
 自戒をこめて。

 ---

追伸.
「成功した人」は、時に自己をふりかえり、「過去の発憤の経験」を「美談」として語ることがあります。つまり、「あのとき、あのひとに反発心を憶えて、発憤して頑張ったから、いまの成功がある」というストーリーを悪意なく語りやすいということです。要するに、圧倒的少数の「成功した人」は、「発憤のストーリー」の「ストーリーテラー」になりがちです。

しかし、僕自身は、この「発憤のストーリー」を、少し「割り引いて」考える必要があると思います。

 第一の理由。
 それは「発憤のストーリー」が、「メディア論」的に「わかりやすい」説明でありすぎるから。当の本人に、「悪意」がなかったとしても、読者を魅了するストーリーとして、事実がねじまげられて語られる可能性がゼロではないように思います。

 第二の理由。
 それは、「発憤によって挫折し成功につながらなかった人」の方が、確率的には多いのにもかかわらず、そちらには、そもすれば、焦点があたらないからです。
 確率論的にごくごく少数の事例を過剰一般化してしまう可能性があるからです。つまり、「ごくごく少数の成功者」の語りにしか注意が向いていないという意味で、その認識は「錯誤」をおかしています。
 もし、こういう錯誤に興味のある方は、Gilovoch, T.の古典的名著「人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか」をお読み下さい。

 世の中が注目するのは、いつも「圧倒的な成功者」です。かくして、「発憤のストーリー」は美談として流通し、発憤させる行為が正当化されることになります。もちろん、それらの「発憤のストーリー」がすべて無意味であるとか、すべて錯誤だとは決していいません。中には、本当にそういう場合もあるのでしょう。
 でも、僕は、上記の2つの理由から、その主張は割り引いて考えるくらいがちょうど良い、と思っています。

投稿者 jun : 2013年1月29日 06:36


「中途慣れした組織」と「中途慣れした個人」:中途採用がはらむ課題に、いかに社会は向き合うのか?

「中途慣れ(ちゅうとなれ)」という言葉があります。
 一般には、「中途採用を受け入れる会社・組織の側」に対して使われる言葉ですね。

 実際の働く現場では、

「あの会社は、出入りが激しく、中途慣れしている」
「うちの会社は、中途採用者がいないので、全く中途慣れしてないよね」

 という風に使われます。
 この概念、そもそも中途であろうがなかろうが、「Job(戦略からブレークダウンされ、個人に割り当てられた仕事)をこなせるかどうか」を主要な問題関心として採用が行われ、雇用流動性の高い海外における研究で(もちろん、海外といってもいろいろありますし、雇用流動性は企業規模によって海外でも異なります)、頻出する概念ではありません。
(例えば、海外の組織社会化研究においては、Newcomerという言葉が頻出しますが、これは、経験があろうがなかろうが、その組織にとってNewcomer(新規参入者)であって、日本の概念でいう「新卒」とは意味が異なります。国が違えば、研究のコンテキストが全くことなることには、注意が必要です)

 そもそも「中途採用」にあたる言葉すら、なかなか見あたらないですし、もし仮にあったとしても、一般的な言葉ではないのではないでしょうか。
 中途採用は、明らかに新卒一括採用を中心とした採用を行い、強固な内部労働市場を発達させてきた日本の、特に中堅・大企業において意味をなす概念です(日本においてすら、中途採用の多寡は企業規模によって異なります)。

 ともかく・・・。
 
一般に、雇用流動性が高く、中途採用者を大量に受け入れ、また多くの既存メンバーが退出している企業は、中途採用者の組織再社会化(組織適応)を支援するためのツールキット、情報インフラ、オリエンテーションなどの各種の「オンボーディング(Onboarding)」イベントが充実しています。
 また、中途採用者を受け入れる職場のメンバー、マネジャーの方も、「中途採用者の特質」をよく知っており、何をフィードバックして、何をリスペクトしなければならないかに関するノウハウをもっています。

 程度の差こそありますが、こうした会社では、場合によっては、入社後、すぐに中途採用者が仕事をできる環境がそなわっているところも少なくありません。
 つまり、会社組織自体が「中途慣れ」しています。

 反面、中途採用者がなかなか入ってこない会社、別の言葉でいえば、新卒一括採用した社員が「はえぬき」で、上昇移動をしていくことが支配的な会社では、このような環境の充実は、なかなか見込めないことの方が多いのではないでしょうか。

 会社の各種の人事施策・福利厚生施策が、そもそも「はえぬき」を前提に設計されており、中途採用者を想定していないこともあります。また情報インフラや、ツールキット、オリエンテーションなども整備されていないこともあります。
 メールアドレスをもらおうと思ったら、それがもらえるまでに1週間かかって仕事にならなかった、という経験も、かつて聞きました。
 加えて、職場のメンバーやマネジャー自身も、中途採用を扱ったことがないので、フィードバックの仕方に、ややぎこちないところがでてきます。つまり、こうした会社では、組織全体で「中途慣れ」していないのです。

  ▼

 以上述べてきたように「中途慣れ」という言葉は、一般的には、「中途採用を受け入れる会社・組織の側が、いかに中途採用者受け入れの経験を有しているか」を形容する言葉として用いられます。
 が、僕の研究と経験では「中途採用で入社してくる人」にとっても、この言葉は用いることができるのではないか、と思います。

 つまり「中途採用ということの全体像や、そこで生じうる問題、そして、それをいかに乗り切り、サバイブするか」についての智慧みたいなものを知っている人と、それを知らないがいるのではないか、と思うのです。

 もっとも深刻だと思われるのは、「学習棄却」の問題です。このことは、拙著「経営学習論」で論じました。

 中途採用者の場合、「既存の職場での職務経験で培った知識・技能・信念」のうち、「現在の新たな職場では使えないもの」が、どうしても、生じてきます。その場合、「何」を捨てて、「何」をそのままにし、何を新たに学び直すか。こうしたことが、自然と、あまりストレスを感じずにできる人と、そうでない人がいるように思います。

 特に後者の場合、自分としては、過去の職場で学んだことは、「ポータビリティ(持ち運び可能)」で、普遍的に(ユニヴァーサルに)、どの職場や組織で行われる業務でも、利用することができるはずだと考えているのに、あちらの組織では通用しても、こちらの組織では通用しない。
 思っている以上に、自分の培った知識が、企業特殊のスキルや技能であって、ポータブルではない、ということに気づかされる一瞬ですね(僕個人の研究的信念でいえば、ポータブルな知識・技能とは確かに存在するとは思いますが、その知識・技能は、業務上は"さして重要ではないもの"に限られると思います。"業務の中で本当に大切もの"は、状況に埋め込まれて学ばれますし、企業特殊であり、なかなか他のコンテキストでは、かつてのように奏功しないのではないかと思います)。

 その場合には、学習棄却(Unlearn : すでに学んでしまったことで、現在は通用しない考えを捨てて)、学び直す(Relearn)必要があるのですが、それが、「中途慣れしていていない人」にとっては、なかなかうまくはいきません。そうしたサイクルにはいることが、あたりまえのことだとは思えないのです。

 捨てるべきものに固執する
 捨ててはいけないものを捨てる
 捨てることや学び直すことに勇気がもてない

 一般に、「既存の職場」で手腕を発揮した人で、かつ、前職と現職の差が近い人ほど、いったん、この問題が深刻化すると、とても厄介です。そこには仕事のプライド、本人のアイデンティティの問題が深く絡んでくるからです。
 「これまでの手腕」が、組織をまたげば、場合によって「足かせ」にしかならないことも、ままあるのです。
 場合によっては、周囲に、様々な不安や不満を打ち明けることができず、また助言も受けられず、元気を失っていくパターンもゼロではありません。

 一方、「中途慣れしている個人」は、そこで起こる様々な心理的葛藤や混乱を横目にみつつ、そのサイクルをまわし、なんとかかんとか、日々の業務をマネージング(やりくり)することができます。もちろん、時には「痛み」もともないます。そういう個人は、多くは、自分の周囲に人的ネットワークを持ちます。適切な支援者や助言者、そしてキーマンなどを見つけ、彼らとのインタラクションを通じて、組織に溶け込み、自己の再構築を行います。
 個人にとっての「中途慣れ」という問題は、かくのごとき問題です。

  ▼

 このように、中途採用者の採用・組織適応を考えていくときに、二つの視点、すなわち「中途採用者を受け入れる側の中途慣れ」の問題と「中途採用される側の中途慣れ」の問題を考えていくことが大切だと思います。
 特に、今後、新卒一括採用を前提にしない人材マネジメントを組織として推進していく場合には、組織全体を「中途慣れ」の状態に変革していくこと、それも戦略的かつ体系的に、それを行っていくことが求められます。

 事態は民間企業ばかりだけとは限りません。
 近年は、様々な領域でも、中途採用者の問題が起こっていると聞きます。
 たとえば、学校教育では、かつて民間企業で働いていた人が教員として働く事例がでてきています。
 また、看護の現場では、圧倒的な「売り手有利の労働市場」を背景にして、一般の事務職・総合職をやめ看護師になる方が増えてきているといいます。

「民間企業 - 民間企業間の移動」でも「中途慣れ」の問題は深刻になりがちですが、このように「民間企業 - パブリックセクター間の移動」ということになりますと、さらに、事態は難しいことが予想されます。
 多かれすくなかれ、程度の差こそはあれ、今後の日本社会では、「中途慣れ」の問題が、いろいろな局面、いろいろな組織の問題として、いろいろな個人のあいだで、出てくるものと思います。 
わたしたちは、この「中途慣れ」の問題と、しばらくのあいだ、付き合っていく必要があるようにも思います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月28日 14:50


僕もあなたもディレンマ・マネージング! : 「教師」と「マネジャー」と「親業」を結びつける接点

 相当に古い研究なのですけれども、かつて、マグダレン・ランパートという研究者は、「教える」という仕事を「ディレンマ・マネージング(Dilemma Managing : 板挟み状態のやりくり)」と捉えました。

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「教える」という活動は、複数の学習者に同時に向き合う行為です。
 複数の学習者から、様々なリクエストが同時によせられ、講師・教師は、直面した様々なレベルの、多種多様な種類の問題で、かつ、時に、「こっちをたてれば、あっちが立たない問題(トレードオフの課題)」を、そのつど、そのつど、インプロヴィゼーショナル(即興性)に解決していくことが求められます。

 この問題解決の1)同時性、2)多様性、3)トレードオフ特性こそが、人前で教えることの「特質」であり、「宿命」です。

 ま、ひと言でいえば、

「いっぺんに、バラバラと、言うんじゃねー。オレっちは、一人しかいないんじゃ、ヴォケ!」

 という感じですね(笑)・・・気持ちはわかるでしょう。
 にっちも、さっちも、どうにもブルドッグ的状況ですね(笑・・・意味不明)

ブルドッグ
http://www.youtube.com/watch?v=mkRve4QM81s

 しかしね、くどいようですが、この状況を日常的に抱えることが、この仕事の特質であり、宿命なのです。

  ▼

 具体的には、早朝で頭が回ってないせいか、ちょっと違うかもしれないけど(笑)、例えばこういうことです。

 あなたが、今、1島6人のグループ × 5島、計30人の研修をファシリテーションしている。
 30人の中のうち2人は、何をやっても、どんな声がけをしても、どんなに心をつくしても、「まるでやる気がない」。椅子に、ふんぞりかえって、ハナクソほじりながら、「オレ・やる気ないもんね・オーラ(OYO)」をしゅーしゅーとだしている。怖いね、OYO(笑)。

 ところが、30人のうち10人は、超やる気満々で、あなたにさらに上の知的レベルの講義を求め、目を輝かせている。キラキラ。

 残りの18名は、やる気はあるんだけど、ひとつ上の知的レベルの講義を求めているというよりは、研修に参加したみんながもっと話せる機会をもつことを求めており、あなたが話すことよりは、自分たちが、久しぶりに駄弁ることを求めている。もっとマッタリしようぜ!ハクナマタタ!

 さ、そこでディレンマ・マネージング!
 この状況で何をどうするか?

  ▼

 たとえば、別の状況。

 今、あなたは30人の学習者に対して、講義をしている。
 そこで、一人の学習者が手をあげました。

「ここについて、原理がわかりません。どういうことか、もっと詳細な説明をしてください」

 この問いに対して、原理やメカニズムにさかのぼって、詳細な説明をすることは可能といえば可能であるとします。しかし、質問者は特にレベルの高い学習者。もし、彼1人に対して、深い説明を行えば、残りの29名は、おそらく「おいてきぼり」になります。むしろ、29名のことを考えるならば、ここはいったん「原理やメカニズム」はほおっておいて、「パターン」として記憶するほうがいいように思う。ただし、この1名をここで切り捨てれば、彼は大きくモティベーションダウンしてしまうことは容易に予想できる。

 じゃあ、どうするか。どっちをとるか?
 即興的に、どう反応するか?
 これが、ディレンマ・マネージング

 ここで述べたように、ありとあらゆる、様々なレベルの、様々なリクエストに対して、同時期に直面し、即興的な対応を求められることこそが、「ディレンママネージング」です。

 あっちをとれば、こっちがたたない。
 こっちをとれば、あっちが沈む。

 みんな30名を救えれば救えるにこしたことはないことは、誰しもわかる。でも、多様性、同時期のコーピングを求められるときには、苦渋の選択を即興的にとらなくてはならないときもある。じゃあ、そういうとき、どうするか?

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 ちなみに、ディレンママネージングは、「マネージング」というくらいですから、経営学におけるマネジャー研究においても、かつてから、繰り返し述べられていたことです。

 古典的な研究ですと、ヘンリー・ミンツバーグの「マネジャーの仕事」、さらには、最近でいいますと、リンダ・ヒルの一連の研究などです。

 そもそも、マネジメントという仕事自体が、「矛盾」と「逆説」のかたまりのようなものであり、これを「完全に解消」することはできず、そのつどそのつどの「納得するしかない意思決定」を行うことしかできないのです。
 その意味では、マネジャーと教師は、ある部分は、似ている部分があります。どちらも「ディレンマ」を即興的にマネージングし、時にストレスを抱えやすい。だから、仕事自体が「リラクタント」に感じられる場合もある。

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 このブログをお読みの方は、おそらく企業組織でマネジャーを経験なさっている方や、あるいは、学習・教育の業界で働いている方、現場で教員をなさっている方も多いと思うのですが、皆さんは、最近、どのようなディレンマを抱え、それをどのようにマネージング(やりくり)しましたか?

 それを概念化することができたとしたら、それこそが、ディレンママネージングの「実践知」であるような気がします。

 ちなみに、幼い子どもを複数抱える母親や、父親も、まさにディレンママネージングゲームの渦中にいますけどね(笑)。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月27日 08:04


プロフェッショナルをめざす「志ある歯医者さん」たちの「学びの場」:歯科医師の力量向上の現場をたずねて

「志ある歯医者さん」たちが、自らの技能・専門性を高めるための教育コースを、高等教育機関以外の「民間の場」につくる。
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 過去30年にわたり、1500名以上の歯医者さんを、自らが主宰する研修会で育成してきた藤本順平先生に、先日お会いし、お話しを伺う機会を得ました。

 僕は歯学にも、歯学教育にも全くの門外漢なのですが、非常に感銘を受けましたし、藤本先生のパッション、クラフトマンシップ、ジェントルマンさ、プロフェッショナルとしての誇りの高さに、衝撃を受けました。藤本先生、藤本歯科医院の皆様に派、貴重な時間をいただき、この場を借りて心より感謝しております。

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 藤本先生が主宰する「歯医者さんたちの学びの場」は、「藤本研修会」といいます。

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 藤本研修会では、米国式歯学教育の「専門歯科医」を要請するコースを現在、4コース展開しており、1つのコースに平均で20名程度の歯医者さんたちが学んでいるそうです。藤本先生自身も月に1度教壇にあがられ、講義をなさっております。この講義、僕も見学させて頂きました。

藤本研修会
http://www.fujimoto-dental.com/kensyukai/

 藤本先生は、日本の歯学部を卒業後、大学院で博士号を取得。留学のためのお金をつくるため、実家の歯科医院で働きながら、家族をともない、清水の舞台から飛び降りる覚悟で(!)、米国インディアナ大学大学院に留学なさいました。
 米国インディアナ大学では、「補綴学:歯牙の修復治療」をご専門に学び、その専門医になられました。

 これは僕もよく知らなかったのですが、米国の歯科診療は、専門医制度をはやくからひいており、たとえば、補綴専門医、矯正専門医、歯周病専門医、歯内療法専門医といった具合に、専門がわかれているのだそうです。
 よく詳しいことはわからないですが、クラウンブリッジを専門にする人、矯正を専門にする人、歯茎を専門にする人、根っこの治療を専門にする人という風に、治療部位によって、専門がわかれているということですかね(もしテリこいてたら(北海道弁?でウソのこと)、どなたか捕捉して下さい)。

 実際の歯科治療は、これら専門家によるチーム分業制度をひいていることが、日本の歯科治療と全くことなるところなのだとか。そして、こうした専門医資格のためには、歯科医師免許取得後、数年間、プロフェッショナルスクール(専門職大学院)にてトレーニングを積む必要があるそうです(日本の現状は専門外なので、僕にはわかりません。こちらもどなたか捕捉して下さい)。

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 藤本先生は、インディアナ大学で「補綴学」をおさめられました。
 ひとつひとつのテクニックをステップバイステップで学び、実際の患者さんを割り当てられ、治療を行う。治療に際しては、最新の臨床論文をエビデンスとしてのせることが求められ、ファカルティを前にしたカンファレンスで徹底的に批判される。そういう数年間の徹底的なトレーニングを通して、藤本先生は専門医になられました。

 その後、フロリダ大学で教鞭をとり、日本に帰国。
 日本に帰国後は、大学教員には敢えてならず(いくつかのオファーを断り)、臨床の現場でクリニックをもちながら、当初は5名から6名の人数で、米国式の「理論に基づく臨床」を学ぶ研究会を立ち上げました。

 その当時、藤本先生の技術の高さは、全米でも素晴らしいレピュテーションを獲得なさっており、世界でもっとも読まれる「補綴学」の教科書のひとつを執筆なさるくらいでした。
 しかし、先生は、それでも帰国後、日本の大学の教員にはならなりませんでした。そして、民間で「学びの場・技能向上の場」を立ち上げた。これが、先ほどの「藤本研修会」ということになります。
 
 当初5名から6名ではじまった藤本研修会は、次第に規模を拡大しました。卒業生の中には、藤本先生と同じように、海外の大学院で専門医資格を取得する方々もでてきて、彼らがまた新たなコースを立ち上げました。そして、30年の月日が流れた、というわけです。

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 藤本先生のお話をお聞きしていて、いくつか興味深かったこと・思ったことがあります。

 ひとつめ。
 それは、現在の日本の歯医者さんの、一般的なスキル形成はどのようになっているのか、ということです。これは自分の研究柄ということもありますが、一般の「患者」候補(!?・・・患者にはなりたくないよなぁ・・・)として非常に気になるところです。だって、皆さんだって、いつどこで歯が痛くなって、歯医者さんのお世話になるかわからないでしょう? そのとき、できることなら、スキルのある歯医者さんに見てもらいたいと思うのではないのでしょうか。

 この間、何名かの歯医者さんに、匿名でインフォーマルにインタビューさせていただきましたが、彼らの弁によると、一般的には、歯科医師の技能形成は下記の3点ではないか、ということです。真偽のほどは、門外漢の僕にはわかりません。

1.大学での歯学教育は、主に「歯科医師国家試験」向けの、知識習得を主眼としたものとなっており、臨床で必要になる技能を身につけることは極めて困難である。たとえインターンをやったとしても、研究の現場である大学で、それを行うことは難しい

2.結局、大学を卒業したあとで、どこで働いたか、その最初の勤め先で、どのように教えられたかで、歯科医師の技能形成やキャリアはある程度決まってしまう。最初の勤め先が、大病院であることは希であり、多くは小さなクリニックか、父親のやっている医院ということになる場合が多い。そうした小規模の医院が、まずは「スキル形成」の基盤になる。しかし、一般に組織規模が小さすぎること、また、同時に歯科医が複数の患者に対して治療を行っているため、そこでスキルを習得することはそうやさしいことではない。実際には、院長の診療を横や後で見るか、ないしは、自分の症例を診断終了後に先輩にみせることになる。しかし、特に、昨今、歯科医の経営難が続く中で、体系的かつ網羅的に技能を習得するのは難しく、できたとしても、自分の担当する患者の抱える課題に対する、場当たり的なスキル習得になりやすい。

3.民間の勉強会などで学ぶ歯医者さんもいるが、それも一部である。歯科医師免許は終身免許なので、スキルアップしない人はそのままである。ただし、若手医師に関しては、近年、学ぶモティベーションが高まっている。

(要するに教育機関では、仕事で必要になる技能は教えることが難しい。しかし、職業領域においても、それを教える余力がなくなってきている、ということですね。だとしたら、歯科医師は、どこで高度な技能形成をすればいいのか、という問題が残ることになりますね)

 僕は、歯学教育や歯学の実践については、全く門外漢ですが、こうしたことをおっしゃっていました。

 まぁ、とはいえ、この記事を書くために、いくつかの都内の大型書店を回ったのですが、医学教育学や看護教育学の専門書は、当然のことながら、見つけることができるのですが、歯学教育学の専門書、一般書を見つけることはできませんでした。専門の学会はあるようですので、論文として流通しているものはあるようです。

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 ふたつめ。
 それは、藤本研修会が、テクニックだけでなく、いわゆる「倫理」を伝えることを重視なさっていたことです。

 専門職研究の泰斗、エツィオーニやスローカムの定義を敢えて引用するまでもなく、専門職(プロフェッショナル)とは、1)理論的基礎、知識的基礎をもつこと、2)専門職団体が発達していること、3)専門家としての価値観・倫理観をもつこと、4)コミュニティに対する献身を旨とすること、5)専門家としての自律性をもっていること、いった基盤をもつ職業です。

 このうち歯医者さんの場合には、「倫理」の部分は、さらに大切である気がします。
 なぜなら、藤本先生の言葉をそのまま引用すれば「歯科診療とは、医学とは異なり、なかなか命にすぐにかかわる事象が生まれにくいからです」。

 ミスをすれば、すぐに重大事象につながり、かつ、そこまでのフィードバックが早い領域ですと、いつも緊張した仕事を強いられます。
 しかし、「ミスをしても、数年間たたないと、なかなか結果がわからない」ないしは「歯科医療の場合、仕事の成果があらわれるまで時間がかかる」ないしは「不具合が起こるまでに長い時間がかかるために、それが治療のまずさによるものなのか、本人の不摂生のせいによるものかは、判別不能であること」という状況にありますと、歯医者本人が「高い倫理」をもっていなければ、「仕事の緊張感」を失ってしまうか、あるいは、自分の力量を高めようという意欲を失いがちです。もちろん、多くの歯科医師の方々は、そうではないでしょう。しかし、そういう可能性が合理的判断として生まれうるということは認識しておく必要があるようにも思います。
 本来、経営学習論風に述べるならば、初期キャリアのごくはやい時期に、患者本位の信念を早期に獲得し、自らのスキルを常に高める習慣を形成しなければなりません。しかし、歯科医の仕事に関する場合、それが阻害される可能性はゼロではない。
 その意味では、まことに門外漢ながら、歯科教育における「倫理」の果たすべき役割は大きいなと思いました。

 みっつめ。
 それは「大学とは何か」ということです。
 藤本先生が帰国なさったとき、藤本先生は、敢えて大学ではなく、在野で臨床を行い、民間の教育コースを立ち上げました。
 それは、今から30年前の当時は「自分のやりたい臨床を大学では教えられなかった」からだとおっしゃいます(現在、藤本先生は東京医科歯科大学・臨床教授として教鞭をとっておられます。状況は今は変わっているのだと思います)。
 大学での学問のあり方が、いわゆる「リサーチ」、それも「臨床とは関係のないリサーチ」に偏りすぎていて、ともすれば、当時は「臨床」が軽視される傾向があったのだといいます。今のことは知りません。

「患者さんの歯を治すことを教えなくて、なぜ、歯科教育とよべるのですか?」

 と、先生はおっしゃっておりましたが、「非常に重い問い」だなと思いました。
 だって、このような状況に陥っている分野は、歯学教育だけではない、と思うから。ここにも、そこにも、ほら、あそこにも(笑)

 ここで僕は「臨床と基礎」という二元論を持ち出すこともしませんし、敢えて、他の分野が何かを言い出すこともしません。
 しかし藤本先生のキャリアの話を聞くにつけ、僕は、心の中で「大学とは何か」を考えていました。

 一般論として、よく、アカデミアでは

「方法知は、理論知よりも低級だ」

 と言われます。

「教条化される方法知」「根拠・エビデンス・理論に裏打ちされない方法知」「思考停止に人々を導く方法知」は、確かに、便益よりもデメリットをもたらす可能性の方が大きいようにも思います。

 しかし、少し立ち止まり、冷静に考えてみると「方法知は理論知よりも低級だ」という言説とて、中立の立場で発せされる言説ではないことに気づかされます。
 それは、発話者たるアカデミアの人々によって「政治的に構築された言説」であるととらえられます。

 なぜなら、アカデミアの中には「方法知を教えられるプラクティショナー」はなかなか少ないであろうから。「自分が教えられないものの価値」「自分が提供できないものの価値」を「高い」と位置づける人はいないでしょ。
 少なくとも、方法知に関する上記のような言説を耳にするときには、私たちは、少なくとも、その政治的主張の部分を「割り引いて」聞く必要があると僕は思います。

 いずれにしても、僕は、ここで、今後のアカデミアでは「方法知」をがんがんに教えるべき、だという主張をしたいわけではありません。そうした性急な議論は、アカデミアのレゾンデートルを失わせることにつながりかねない、と思います。

 しかし、「方法知といかに付き合うか」それも「職業領域において必要になる方法知」について、アカデミアは、今後、どのようにつきあうのか。

 これは、歯学教育を超えて、どの領域においても、考えていく必要のある問いだと僕は思います。それも、腰をすえて、考えていく必要のある領域だと思います。
 アカデミアに残された時間は、あまり多くはない、と思うけれども。

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 この企画、これは人事専門誌の僕の連載「学びは現場にあり」の取材として立ち上がりました。
 藤本先生にお会いすることに関しては、中原がいつもお世話になっているサウジ歯科クリニック(目黒)の佐氏英介先生のご紹介で実現いたしました。小生、不摂生で奥歯を失い、サウジ先生のもとで、修行?もとい、治療に励んでおるのです。

サウジ歯科クリニック・ホームページ
http://www.sauji-dental.com/

サウジ歯科クリニック・ドクターズファイル・佐氏英介院長
http://doctorsfile.jp/doctor/hospital/23908/df/1/

 佐氏先生も、また、この藤本先生の病院や、藤本研修会で学び、今は、個人でクリニックを経営なさっている先生です。とても誠実な方で、かつ、学び続ける先生です。患者本位の治療をやってくださいますし、早朝から治療してくださるので、小生、おすすめです。

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滅菌された治療室、サウジ歯科にて

 ここ1年ほど、僕は、ずっと歯について悩んできました。もともと不摂生をしていた僕が悪いのですけれども、おそらく10年くらい前にかかった歯医者さんの(たぶん)ミス?が原因で、奥歯を1本失ったからです。
 だからというわけではないのですが、「歯医者さんの力量形成」について、興味がわいてわいて仕方がなかった(笑)。
 あのね、半分「恨み節」でございます。
 でも、転んでもタダでは起きないのです。
 すべて自分の研究分野に引きつける。
 どんなことがあっても、自分の土俵に引きつけて考える。
 それが研究者魂です。

「学び続ける歯医者さん」を探して:歯科医師の能力形成・専門性向上・技術伝承
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/02/post_1832.html

看護師の方々の学び、歯医者さんたちの学び
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/01/post_1928.html

 でもね、今回の問題は、僕だけのことではなく、世の中の多くの人々にとって、人ごとではないような気がします。
 歯は僕たち一般の人々にとって、非常に身近です。だって、皆さん、毎日、歯を使っているでしょう。そして、時には問題が起きる。
 しかし、そうしたとき、一般に、どこの歯医者がよいか、力量をもっているか、については、僕たち患者の立場からはなかなか見えません。

 僕は、歯科教育について全くの門外漢ですし、それについては、よく知りませんが、いずれにしても、患者の立場からして、「力量とパッションのある歯医者さん」が増えてくれればいいな、と思うし、そういう歯医者さんがすぐに「わかる仕組み」が欲しいな、と思います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月26日 08:48


マネジャーになるとは「水戸黄門的世界」からの離脱である(!?)

 最近、暇をみて(というよりも、誰にも邪魔されない早朝に!・・・泣)マネジャーの調査データの分析を(日本生産性本部さんとの共同研究)、あーでもない、こーでもない、とやっています。

 三歩進んでは、二歩下がり、「マネジャーになるときの学習課題」について分析をする。その歩みは、常に「前進」というわけにはいかないのですが、まぁまぁ、「自分がひとりのプレーヤー」に戻る、この時間を結構愉しんでいます。大学では、もう、僕には、そんな時間はないから・・・。

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 データを分析していて、心から思うのは、「マネジャーとプレーヤー」の「本質的な違い」についてです。これはデータそのものというよりも、僕の「感想」に近いということなのかもしれません。

 多くの会社組織において、マネジャーになる人は、「辞令一枚」でプレーヤーからの転換をはかることを強いられますが、そこには多くの「学習課題」があるな、という風に思います。
 「組織で仕事をする人々には、その状況に応じた学習課題がある」、ということは、近刊「経営学習論」で論じましたが、やはりマネジャーにおいても、独自の学習課題があります。

 数多い学習課題の中でも、もっとも印象的なのは「非勧善懲悪的な世界への移行」です。別の言葉でいえば、 「あっちがたてば、こっちがたたない問題」への対処といえるかもしれません。

 要するに、

 「あっちがたてば、こっちがたたない問題」
  ないしは
 「どんなに頑張っても、唯一絶対の正解はなく、自分なりの納得解しかない問題」

 への対処が「マネジャーになる際の学習課題」の本質のひとつであるような気がします。
 なぜなら「誰が直面しても、あっちか、こっちかを、すぐに決められる問題」「誰が向き合っても、明らかな正解がすぐに見いだせる問題」は、マネジャーのところに持ち込まれる「前」に、もっと若い人たちが、すでに「自分の裁量・権限」の中で、をもって意思決定をしちゃえる可能性が高いから。これは仮説でしかないですが、僕は、そのように想像します。

 マネジャーのところにまで上がってきて、しかも、彼が取り組み、意思決定しなければならないことは、そういうシンプルな問題ではないことの方が、割合としては多くなります。これは「割合」の問題であり、そういうグラデーションを、徐々に移動していくことが、「マネジャーへのトランジション」である、ともいえます。
「あっちがたてば、こっちがたたない問題」「どんなに頑張っても、正解はなく、納得解しかない問題」であることの可能性やポーションが、徐々に増えていくことだと思うのです。

 もちろん、マネジャー就任以前にも、取り組まなければならない問題は、前者のようなシンプルな課題ではなく、後者のような複雑な課題であることは、多々あります。
 しかし、そのポーションを、上位者と比べたとき、上位者がなすべき意思決定とは、「その選択がよかったのかどうか」を、ただちに判定できないグレーな問題が多く、それに悩むことが多々あるのだな、と気づかされます。
 だから、マネジャーには、「不確実さ・曖昧さへの耐性」と「どうにもならないことを諦める力量」も必要なのではないかと思うのです。

 別の言葉でいいますと、マネジャーになるということは「勧善懲悪的な世界」から「非勧善懲悪的な世界」への、段階的なトランジション(移行)だともいえますし、

 さらに比喩的に言えば

 マネジャーになることは「水戸黄門的世界からの離脱」である

 とでもいえるのかもしれません。

 毎回毎回「どっから見ても悪としか思えない人相の悪い悪代官」と「超越的な善の象徴たる水戸黄門」がでてきて、シンプルにシンプルに、印籠をとりだし、白黒はっきりさせることができる世界から、次第に、「一見悪いように見えて善、善に見えて悪」みたいな、非勧善懲悪的リアルワールドへようこそ!というのが、年齢があがり、マネジャーになるということの本質のようにも思えてきます。

  ▼

 嗚呼、それにしても、毎朝毎に、少しずつ作業をしていて、いつも我にかえってしまう瞬間があります。作業をしながら、つい「自分自身のこと」をいつも考えてしまうのです。


 僕も今年で38歳になります。
 決して「若いとは言えない年代」に、自分もさしかかり、高校・大学時代の同期の何人かが企業組織でマネジャーになりつつある今、今日、このブログで書いた感想は、とても「人ごと」のようには思えません。めちゃめちゃ「自分ごと」です。

 データと向き合いながら、いやがおうでも深まるリフレクションに、時々、作業の手が止むことしばしです。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月25日 06:25


ロングスパンで研究を見つめること

 確か、クリストフ・シャルルの「大学の歴史」だったと思うのですが、

 歴史的に見て、

「大学は、一度として、安定した時期はなかった」
「大学は、常に社会の中で揺れ続けていた」

 という一節があったように思います(うろ覚えですみません・・・もしかしたら、違ったかもしれません)。
 
 時に16世紀。大学は、専門的研究者のギルドととしてはじまり、時の権力やマネーの力に翻弄されつつ、時に力を失い、時に力を得て、これまで、何とか続いてきました。
 歴史という長いスパンから大学を見つめるとき、それは、いつも社会の変化の中にあり、社会と様々な関係を切り結びつつ、これまで生き延びてきたことがわかります。

 そして、社会が変わり、大学が揺れ続けるのなら、そこに集う「研究者」や「研究のあり方」「研究の方法論」「研究と現場の距離のあり方」も、揺れ続ける可能性が高いことになります。
 研究者の変化を、数百年というロングスパンでレビューすることは、僕の能力を超えていますが、このわずか半世紀を切り取ってみても、それは、社会のあり方の中で、ずいぶん変化してきたような気がします。

 下記は、あくまで僕の研究分野に限った話ですが、「研究者のあり方」ないしは「研究のあり方」も、この数十年で大きく変化を遂げてきました。「変わること」がよいことなのか、よくないことなのかという「価値判断」は、敢えて、ここではしません。しかし、少なくとも僕の研究分野の場合、それは、常に「変化」の中にあったといえます。

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 1970年代をひと言で述べるならば、「現場はいつもKKD(カンと経験と度胸)で動く」です。根本的には、それを「アンチテーゼ」としたような位置づけで、研究が行われることが多かったように感じます。

 現場は、いつも不確実性が高い。またカンと度胸は信頼性や再現性が低い。よって、そのような「フワフワ」したものに依存するのではなく、研究室という統制された環境で、実験や調査を行い、法則をつくって、現場に適応すればいいじゃないか。いわゆる「法則定位学」が、この時代の特徴でした。
 当然、現場と研究の間には、深い溝があります。それは、当時、よく用いられたという、このワンセンテンスに代表されます。

 研究室で法則をつくり、現場に「落とす」

 この「落とす」という言葉に、研究の特権性を感じざるをえません。

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 1980年代 - 1990年代くらいになってくると、大学にはポストモダンの風が吹き荒れます。
 前時代の機能主義的、かつ、実証主義的な学問のあり方や、特権的な現場と研究の関係が反省され、質的な方法論が研究の現場に急速に導入されはじめました。現場と研究の非対称な関係もずいぶん見なされてきました。

 現場で起こっている「現象」を定性的に把握して、それをエスノグラフィーとして編むこと。市井を生きる人々によって、そのつど、そのつどつくりだされるミクロな現象をおうこと。そういう志向性をもった研究がとても流行しました。

 特に、この時代に吹き荒れた「質的な方法論」に対する「熱狂振り」はすごいものでした。この時代に「僕は量でいきます」とは怖くていえないような雰囲気もあったような記憶があります。また、「質量論争」みたいなものも随分ありました。

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 1990年代後半にはいってくると、「質」に対する「熱狂」は少しやみました。むしろ、定量的か定性的かというダイコトミーで物事を考える思考が、止んでくるように思います。

 しかし、この時代には、研究者自らが研究対象に関与していくこと、さらには自分で場やツールをつくり、社会的実験を行うことが、あたりまえのようになされるようになりはじめました。現場の人々とアクションリサーチをするようなことも行われるようになってきました。
 研究が大規模化するにしたがって、共同研究が常態化しはじめました。同じ領域の中で興味関心をもつ研究者同士がつながり、共同で問題にあたることが多くなってきました。

 また、この時代、研究の現場に「ファンディング」「ファンドレイジング」という言葉が導入されはじめたな、という印象ももっています。
 研究が、パブリックセクターによってのみ支えられる時代は終わり、民の力と共振しはじめたように思います。
 
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 さらに、2000年代にはいってくると、デザインするべきものがさらに多様化し、さらには介入するべきものが変化してきます。ファンドレイジングは常態化し、共同研究というかたちも常態化しました。本当に多種多様な専門性をもった人々が、研究に関与してくるようになりました。

 一方、研究の介入対象、デザイン対象も変化していきます。この時代に問題になったことのひとつは、「実践の持続可能性が担保」です。サスティナビリティのある実践の変化を導くために、いったい、何をわたしたちはデザインしなくてはならないのか。
 コミュニティ、組織、制度、政策、社会関係・・・ありとあらゆるものが、デザインや介入のする対象としてかかげられるようになってきたのではないか、と思います。

  ▼

 そして、2010年代。
 この時代はどういう時代なのかを、今まさにその渦中にいる僕は、単刀直入にひと言で述べることはできません。
 ただし、時には、スパンを長くとらえ、自分をとらえることも大切なのかな、と最近、日々雑事に忙殺されながら、考えています。
 自分たちがどういう時代を生き、何を研究し、それにはどういう特徴があるのかを認識しておくことも、大切だよな、と、とみに思いはじめています。そういうものを、僕は、どうやら雑事にかまけ、見失いがちなようです。

  ▼

 僕は、何人かの同世代の研究者たちと、半年に一度、オフサイトミーティングをさせてもらっています。そこは、自分たちの研究やキャリアを半年に一度、振り返る、よい機会になっているような気がします。

 おりしも、次回の会が、そろそろ近づいてきました。
 次回には、「今とはどういう時代なのか」「僕らは、どんな時代を生きているのか」「僕らは、どんな特徴のある研究をしているのか」「この先、10年をどのように過ごせばいいのか」ということを、それぞれの研究者の目から見つめてみると面白いのかな、なんて思っています。

 動くために、立ち止まる
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月24日 09:16


「教えることを教えるプログラム」がスタートします!:大学教員をめざす大学院生向け「東京大学フューチャーファカルティプログラム」今春から開講!

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東大 × 学び × 革新
これから、大学の教壇にたつ、大学院生へ
東京大学 フューチャーファカルティプログラム、始動!


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 本日の朝日新聞朝刊に「東京大学フューチャーファカルティプログラム」の記事が掲載されました(川見能人記者)。

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東大「教える力」底上げ 教員目指す院生へ講座
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201301220526.html

 東京大学フューチャーファカルティプログラムは、「これから大学教員を目指す、東京大学の大学院生を対象として、"大学で教えることを教える"ためのプログラム」です。
 このプログラムは、大学の教壇にたつために、最低限必要な教育技術を集中的に教え、実践することをめざす、東京大学全学の教育プロジェクトです。

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 昨今の大学教員公募には、模擬授業やシラバスの提示などが要求されることもありますが、それに適応できる能力を、集中的に養うことを目的としています。カリキュラムのデザイン、授業のデザイン、ファシリテーション、シラバスライティング、教育評価の手法。コースの中では、模擬授業を相互に行う部分もあります。

 所定のカリキュラムを受講生した東大の大学院生生には、東京大学公式の「履修証」が交付されます。このことは、大学教員公募に応募する際の「履歴書」にも書くことができます。

 また、本プログラムは、東京大学全学の大学院生を対象にしています。東京大学には、一学年で約2000人の大学院生が在籍しておりますが、本プログラムにご登録をいただければ、学問分野に依存しない「大学院生コミュニティ」に参加することもできます。将来、大学教員をめざす「大学院生のヨコのつながりができること」も、本プログラムの副次的な産物となるでしょう。詳細は、下記のビデオ(暫定版)をご覧下さい。


■東京大学フューチャーファカルティプログラム説明:1分ビデオ(暫定版)

 本プログラムは、2013年4月よりスタートします。
 その内容は、下記の3つから構成されます。
 
 1)プレワークショップ(半日程度)の受講
  ・4月11日本郷キャンパスにて開催予定
  ・大学をとりまく社会的状況などをレクチャー
  ・大学で教えるためには何が必要かをレクチャー
 
 2)大学院共通科目「大学教育開発論」の受講
  ・大学院学際情報学府にて開講予定
  (栗田佳代子・中原淳担当)
  ・2授業開講します
   1授業は本郷キャンパスで開講
   1授業は駒場キャンパスで開講
  ・シラバスライティング、コースデザイン
   さらには模擬授業を含みこんだ授業

 3)ポストワークショップ(半日程度)の受講
  ・リフレクション

 をすべて受講した方に、大学公式の履修証が交付されます。近い将来、大学の教壇に立とうとおもっていらっしゃる大学院生の皆さんには、どうか、どうぞふるってご参加ただければ幸いです。

 下記は、「東大のファカルティディベロップメント」「東京大学フューチャーファカルティプログラム」に関して、濱田総長、佐藤理事・副学長、吉見副学長が想いを語ったビデオです。どうぞご覧いただけますと幸いです。


■東京大学フューチャーファカルティプログラム 総長 濱田純一


■東京大学フューチャーファカルティプログラム 理事・副学長 佐藤愼一


■東京大学フューチャーファカルティプログラム 副学長 吉見俊哉

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 なお、東京大学フューチャーファカルティプログラムは、東京大学教育企画室に設置されたFDワーキンググループ(山内祐平座長・齋藤希史教授・中原淳)にて立案され、教育企画室(吉見守俊哉室長)にて企画承認を受け、本部教育運営委員会部会等に提案・付議され、そこでの了承を受けて実施される、東京大学の全学教育プロジェクトです。

 実施にあたっては、東京大学大学総合教育研究センター 教育課程・方法開発部門 FDクラスタ(栗田佳代子特任准教授、藤本夕衣特任研究員、中原淳准教授)が中心になり、東京大学大学院学際情報学府にて大学院共通科目として開講されます。開講場所は、本郷キャンパス、駒場キャンパスの2キャンパスを予定しています。
(個人的には、この2年は、この立ち上げにひそかに、ひそかに、かげながら、尽力してきました。無事、この日を迎えられて、非常に嬉しく思います。まだスタートラインにたったばかり、これからですけれども、笑)

 詳細は、2月15日にオープンされます「東京大学FDポータルサイト」、さらには下記のYoutubeチャンネル、Facebookページにて御連絡いたしますので、どうぞふるってご参加いただけますよう、お願いいたします。学内では、近日中に、学内広報、ポスター、リーフレットなど、様々な場所での広報が開始されます。

 ぜひ、「いいね!」を御願いします。

■東京大学フューチャーファカルティプログラム on Facebook
http://www.facebook.com/pages/Todai-Faculty-Development/328638957234204

■東京大学フューチャーファカルティプログラム on Twitter
https://twitter.com/TodaiFD

■東京大学フューチャーファカルティプログラム on Youtube
http://www.youtube.com/user/TODAIFD?feature=watch

■東京大学大学総合教育研究センター 教育課程・方法開発部門
http://www.he.u-tokyo.ac.jp/study/study_school/

■東京大学大学総合教育研究センター 東京大学フューチャーファカルティプログラムの開講について
http://www.he.u-tokyo.ac.jp/2013/01/20134fd.html

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■東京大学FDポータルサイト(ただいま準備中)

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東大 × 学び × 革新
これから、大学の教壇にたつ、大学院生へ
ラーニングイノベーション、始動!

 そして人生は続く!

 ーーー

■追伸.

 このプログラムの立ち上げに際しましては、プレFDにもっとも早くから取り組まれていた、京都大学高等教育研究開発推進センターの田口先生、松下先生をはじめ、様々な先生方にご助言をいただきましたことを、この場を借りて、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。2月22日に予定されております、プレFDに関するイベント(京都大学・東京大学共催)をはじめとして、この領域が盛り上がっていくとよいな、と考えています。

既に開講されている他国立大学のプレFDプログラム

京都大学
http://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/fd/project/pre-fd/2012-1.html

名古屋大学
http://www.cshe.nagoya-u.ac.jp/pff/

東北大学
http://www.he.tohoku.ac.jp/CPD/pffp/program.html#boshu

投稿者 jun : 2013年1月23日 05:00


もうひとつの「北海道」、それは「分厚い記述」と「圧倒的なリアル」:渡辺一史(著)「北の無人駅から」を読みました!

 渡辺一史(著)「北の無人駅から」を読みました。書名を一読すればわかるとおり、この本が「オマージュ」としてかかげるのは、倉本聰原作「北の国から」。
「北の国から」をリスペクトしつつも、本書では、それとは違う路線をねらいます。「定型的」で「慣習的」な「北海道の語られ方」を敢えて「拒否」するという意味で、「北海道の現実」「北海道に生きることのリアル」を浮かび上がらせようとする、知的試みです。

 本書の執筆は、北海道の「無人駅」をテーマにして、渾身丁寧な取材によって可能になりました。

  小幌
  茅沼
  新十津川
  北浜
  増毛
  奥白滝信号場
  
 これらの「無人駅」が、まずは本書の「テーマ」です。
 しかし、その筆致は、テーマである「無人駅」を超え - もはや「無人駅」は筆をおこすきっかけでしかなかったとも言えるのではないでしょうか - 「地域振興とは何か?」「観光とは何か?」「農林行政とは何か?」「環境保護とは何か?」「北の大地に生きるとはどういうことか?」に関する鋭い問いをかかげ、縦横無尽に広がっていきます。その圧倒的な取材力と観察眼に、まずは敬服します。

 そこで筆者が問題提起するのは、「地方に生きることのリアル」。

 そこには、「悠久の自然が残る北海道」とか「ロマンチック北海道」とか「豊かで雄大な大地、北海道」とかいう、「紋切り型」で、「定型的」な北海道の語られ方は、入り込む余地がありません。そんな、「ステレオタイプ」で、よく「観光雑誌
に出てくるような「北海道」を表現するセンテンスは、本書には、全くありません。

 それは圧倒的なリアルの世界。
 エゴあり、矛盾あり、切なさ、醜さあり。
 そして、何はともあれ、儚い。

 700ページを超える圧倒的な分厚い書籍でありつつも、そこで語られる人間模様のリアルさと重厚さ。僕は、一気に読むことができました。

 正直に言います。
 本書をブログ記事にしつつも、本書のことを、誰にすすめてよいか、僕にはわかりません。
 しかし、少なくとも、我が故郷「北海道」を愛していつつも、ひと味違う「北海道」を知りたいと願う人々、さらには、北海道に興味はもっていなくても、「研究対象」をいかに「リアルに記述するか」に興味をもつ方々に、読んでいただけたとしたら、興味深いのかな、とも思います。

 我が故郷、北海道
 内地に出て、もう、20年か。。。
 僕は、どこに行こうとしているんだろうか。
 時々、わがんなくなるべや。

 そして人生はさらに続く

投稿者 jun : 2013年1月21日 22:14


「大人のための教育技術」を考える : 大人たちが集えば、うにょうにょと蠢く「権力」

「大人のための教育技術」というものは、「子どものための教育技術」とは異なり「独特の配慮」を必要とする場合もあります。ここでいう「大人のための教育技術」とは「学習者が大人である場合に、教授者側に必要となる教育技術」のことをいいます。

 さらに議論を前にすすめるならば、一口に「大人のための教育技術」といっても、「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たちのための教育技術」と「いつも所属している組織から離れて、自由意思で、一時的に集まった大人たちに対する教育技術」は、また、趣を異にします。

 それでは、それらによって、いったい「何」が大きく違うのか。

 最も大きな違いのひとつは「教育・学びの場」に駆動する「権力」です。特に「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たちのための教育技術」の場合は、もっともハードルが高くなる傾向があります。

 簡単にいうと、

 あなたの会社の職場のひとたちが、メンバーであるような学びの場のハンドリングは、ひとつ間違うと、"しょっぱい話"になりがちだ

 ということです(笑)。

 要するに、学習者のポジションや、それまでの業務経験によって、その場でいやがおうでも駆動してしまう「権力」に対して、ファシリテータ側は配慮やハンドリングすることが必要になります。場合によっては、その「権力の影響」を最小限にとどめたり、マネージするための、ほとんど「寝技」といってもいいような(!?)教育技術が必要になります。

 もちろん、子どもの場合でも、程度の差こそはあれ、権力は存在します。1980年代の学習研究が明らかにしたように、「教室の中に駆動する権力を無化することは、何人たりともできません」。しかし、経験上、それが大人ほど、ビビッドに、シリアスに、かつ、香ばしく(!?)発動することは多くの場合はありません。

 仕事柄といいましょうか、研究柄といいましょうか、僕は、おそらく人より多くの研修場面を見たり、経験していると思います。いくつかの「大人の学びの場」において「権力」が「うにょうにょ」と蠢く場面を、これまでたくさん見てきました。

 まるで、「風の谷のナウシカ」の「王蟲」のように・・・。
 ラン、ランララ、ランランラン
 ラン、ランラララン(笑)

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  ▼

 たとえば、これは研究室の大学院生・舘野泰一さんと話していたことですが、今、仮に研修やセミナーで、複数人の大人たち「ジグソーメソッド」によるグループ学習をしたとしますね。

 ジグソーメソッドとは、ひと言でいえば「ジグソーパズルをするがごとく、学習者一人一人が、教え手によって分割された個別の内容を学び、それらを持ち寄り、統合し、全体像をつくることを通して学ぶ学習方法」です。

 ていうか、わかんないよね、これじゃ。要するに、グループ全員で学ぶことは、ジグソーパズル全体。で、各人がピースをひとりずつ個別に学んで、みんなで話し合って、ジグゾーパズルをつくりながら、学ぶイメージです。

「ジグソーメソッド」においては、まず講師が、グループ全体で学びたい内容を分割します。次に、学習者たちが、それぞれ細分化されたある学習内容を、個別に学習します。その後、自分が学習した内容を、他のメンバーに説明することを行います。この手法においては、このように各学習者によってなされた説明を組み合わせたりしながら、全体像を組み立て、相互に学習を深めます。

 ジグソーメソッドは、もともと社会心理学のアロンソンが提唱し、初等・中等教育の現場で様々に広く活用されている手法です。が、もし、これをそのまま「大人の学習者」に活用したとしたら、どうなるでしょうか。この話を舘野さんがしていて、面白かった。

 特に、「大人」の中でも、もっともハードルの高いと思われる「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たち」に適応したとしたら、どういうことがおこるでしょうか。

  ▼

 「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たち」に「ジグソーメソッド」を適応しても、もちろん、うまくいく場合も多々あります。
 しかし、先ほどの「学習者メンバー間に作動する権力」の問題が深刻であった場合、全く同じインストラクションを行った場合でも、うまくいかない場合も生まれ得ます。

 本来のジグソーメソッドにおいては、個別の学習内容を学んだ学習者たちが、フラットな関係(擬似的民主性)の中で学ぶことが求められるのですが、実際の現場では、そうはなかなかうまくいきません。
 ポジション、肩書きによって、権力がうにょうにょと蠢きだし(発動し)、この学習手法の前提である「擬似的民主制」が崩されてしまう場合も少なくないことが予想されます。
 つまり、エライ人が永遠に喋り続ける事態、権力をもつ人が場の活動を独占してしまう事態が、容易に想像できます。

 具体的イメージはこちら

 皆さん、今日はフラットにしゃべり、アイデアをだしあいましょうね」という場において、あるオッサンが、永遠にしゃべくりまくり、仕切っている様子

 とか

 すごく素晴らしい見識をもっている若手の意見は、いっこうに採用されず、ペンペン草もはえないようなオッサンのしょーもないアイデアが、なぜか、みんなに拍手喝采される状態

 でしょうかね(笑)。
 ブラボー。

 また、こんなことも起こるかもしれません。
 一般に、大人は長い時間を生き、様々な経験をつんでいますので、これから学ぶべき全体像、他人の担当する学習内容について、すでによく知っている場合がでてきます。
 そうすると、この学習手法の前提 - すなわち、みんなが知らないことを、分割して学び、その組み合わせのあり方を探究しながら、学ぶ ということ- 揺さぶられる事態が容易に想像できます。場合によっては、各自がそれぞれ学習内容とは関係のない「経験を語り合う会」になってしまいがちなことも、また容易に予想できることです。

 上記は「学習者-学習者間の権力」でしたが、さらにいうならば、「講師・ファシリテータと学習者」のあいだにおいて発動する「権力の駆け引き」についても、見逃すわけにはいきません。

 講師・ファシリテータが学習者を動かそうとするとき、学習者側は、常に、その講師・ファシリテータが、どのような経験や業績をもち、どのような権力を組織から付与され、代弁されているのか、を常にモニタリングしているものです。

「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」(フリードリヒ・ニーチェ)

 企業内教育において、講師・ファシリテータは、公教育のように、国家から承認された公的な免許・資格をもつわけではありません。また講師の善し悪しは、単一の統一基準があるわけではなく、学習者と教授者が相対したその場の状況、さらには学習者のこれまでの業務経験、被教育経験にてらして、そのつどそのつど、推し量られます。
 教室において、そのつどそのつど行われる、学習者による「値踏み」によって、講師の発するメッセージが、学習者にどのように「刺さるか」が決まるのです。
 
 このように、さしずめ、「大人が集う教室」とは、「権力が蠢くアリーナ」のようにも見えてきます。「大人の学ぶ場を取り仕切る教育技術・学習手法」においては、これに関する対処が大切であることがわかります。

 ▼
 
 さて、今日は「大人のための教育技術」と「学びの場に作動する権力」についてお話ししてきました。

 このように、大人の学びの場には、子どもとは比較にならないほどの権力が作動する可能性があるのですが、一方、これまで多くの学習手法・教育手法研究においては、その場に駆動する「権力」の問題を真正面から扱ったものは、管見に関する限り、ありません。

 教授設計理論においても、その理論において、権力に関する目配りや、それに対するディレンママネージをふくみこんだものは、少ないのではないか、と想像します。もちろん、この問題に関する、若干の言及はされています。しかし、それを真正面から問題関心として扱ったものは、なかなかお目にはかかれません。

 それらにおいては、学習者のもつ「権力性」の問題は「各種の介入によって無化されていること」が前提になっているか、ないしは、「無視できるもの」とされていた傾向があるのではないか、と僕は、にらんでいます。

 よって、教授設計理論を成人学習の領域にインポートし、それに忠実に何かを設計したとしても、大人の場合、うまくいかない。うまくいくはずなのに、うまくいかない、といった事態が生まれていたのではないか、と思うのです。

「働く大人」の現状、「働く大人の集う教室」に即して、それにどっぷりと根をおろし、そこで作動する権力の問題に対処できる学習手法・教育手法研究が、求められているのではないか、と思います。

  ▼

 というわけで、今、僕は「マネジャー育成研究」「海外赴任研究」「大学生 - 企業研究」に続く、第三番目のひとりプロジェクトを、密かに、密かにひそかに進めています(第1から第3の研究は2013年-2014年には成果がまとめられるのではないかと思います)。
 
 名付けて「大人のための教育技術」プロジェクト。
 それは、「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たちのための教育技術のあり方」を探究するプロジェクトです。
 このプロジェクトで扱うデータには、「これまでも、これからも、同じ職場で働く大人たち」の集う教室で取得されたものを限定的に用います。そこで、様々な教授・ファシリテーションを行う人々の語りや行動をデータに用います。

 そのような作業を通して、「大人のための学びの場づくり」のための、新たな手法が生まれてくるのではないか、と勝手きままに夢想しています。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月18日 17:31


プレゼンテーションとは「対話」であり「贈り物」である:あなたの頭には、あなたに「問いかけ」てくる「仮想の聞き手」がいらっしゃいますか? - 「聞き手の問い」でスライドをつなぐ

 僕の専門分野の研究者にとって、「プレゼンテーション」は、今や、研究活動と「切っては切れない要素」になりつつあるような気がします(これは分野によって、状況は異なるでしょう。分野や研究志向性によっては、あてはまらないこともあるでしょう)。

 僕の研究分野の場合、企業や組織で働く人々と「よいリレーション」を築き、そこで働く人々の「データ」を取得させて頂かなければ、そもそも研究はできません。そして「データ取得」とは、現場の方々にとって、まずは「コスト」です。「コスト」に見合う分だけの「何か」を僕たちが提示しなければ、話は前に一切進みません。

「現場の方々の問題関心」と「自分の研究」の「すりあわせ」を行い、データを取得させて頂く交渉を行うことが、まず第一歩です。
 その上で、分析を行い、研究知見を論文や書籍のかたちで公的に「Publish」していくと同時に、「現場」にもデータを「お返し」することが、多くの場合求められます。
「データの活用のされ方」は様々です。経営陣や経営企画に資するかたちでお返しする場合もありますし、現場の方々に、研修場面などで直接お返しする場合もあります。
 いずれにしても、現場の方々は、提示されたデータをもとに、実践の振り返り(内省)を行ったり、計画を立てたり、何かの改善を行ったりなさることがほとんどです。つまり、そのあとには「アクション」が想定されている。

 つまり、僕たちの研究分野の場合、研究と現場のあいだには、そもそも「リレーション回路」が存在していなければなりません。そして、その「回路」をつくりだすうえで、いろいろな局面で、行わなければならないのが、「プレゼンテーション」です。

「よいリレーション」を築くため、また「研究知見を現場にお返しする」ために、さらには「現場の方々の内省と行動を促すため」に、いかに「現場の方々」にわかりやすく、しかし、「ウソ・脚色のないプレゼンテーション」を行うか。そして、いかに「アクション」を促すか。これが、僕の研究分野にかせられた「最大にチャレンジングな課題」です。

 かくして、僕の場合、「プレゼンテーション」は、おそらく年に数十本単位で行うことになります。
 年度末は、研究業績発表やら、次年度の企画などがでてきますので、どうしても、その機会が多くなる傾向があります。現在、その「真っ最中」「渦中」で、年をあけてから、ひたすらプレゼンテーションを作り続けているような気がします。

 ひーこら、ひーこら
 エンヤコーラ、エンヤコーラ

  ▼

 僕がプレゼンを作成するとき、心がけていることは、たくさんあります。それらをひとつずつ列挙してもよいのですが、紙幅といいましょうか、時間の都合で、それはやめましょう(笑)。というより、そんなものを全部聞いたって、腹がふくれるわけではありません。

 しかし、「最も心がけていることは何ですか?」と問われれば、ひと言で申し上げることができます。

 それは

 プレゼンテーションとは「対話」であり「贈り物」である

 ということに尽きます。

 前者も、後者も、プレゼンの教科書・参考書、プレゼントレーニングの研修などで、ごくたまに目にしますが、このことを、本当に実感します。

 少なくとも僕の研究領域においては、現場の方々に対して行うプレゼンは「情報提示」ではありませんし、ましてや「説明」でも「発表」ではありません。
 もちろん研究者ですので、そうしたことも学会活動などでは行いますが、こと「現場と研究の関係」において、それはそのまま成り立ちません。ソレとコレとは、僕の場合、明確にわけて行っています。
 ここの認識を「転換」していくことが、たとえば、僕が、中原研究室の大学院生に求めていることであり、自分自身もいつも心がけていることです。そして、それは最大の難問(アポリア)でもあります。いまだ僕も「修行中」です。

  ▼

 プレゼンテーションとは「対話」であり「贈り物」である

 という認識を強くしていることには、それなりの理由があります。

 それは、なぜかといいますと、それは先にも述べたとおり、もっとも根幹には、僕たちが行うプレゼンテーションの多くは、「聞き手になってくださる方々のアクションを促すこと」を目指す必要があるからです。

 つまり、プレゼンで、現場の方々にまずは「内容が理解」され、そこで「提示した情報」をきっかけとして、何かを「やってみよう」という思いになっていただければならないわけです。

 具体的には、「たとえば、共同研究を研究者と一緒にはじめてみよう」でも結構ですし、研究知見をお返しした場合には、「現場や実践の改善につながるよう、重い腰をあげてみよう」でもかまいません。
 いずれにしても、お聞き頂いた方々に、何らかの「行動上の変化」「認識上の変化」を生み出さなければならないわけです。ただ「説明」を聞いて頂くというわけにはいかないことが多いのです。

 ということは、「話し手」は、「提示した情報」に対して、聞き手がもつような「疑問」や「感想」を「想定」して、プレゼンを組み立て、それらをひとつずつ「解きほぐし」、場合によっては「誤解を解き」、現場の方々に、趣旨をよく「理解」していただく必要があります。さらには、その果てには「アクション」を導くことが求められます。

 ですので、僕はプレゼンをつくるとき、いつも3つの「問い」を頭に置きます。

 ひとつめ「僕が、この情報を提示したら、現場のどういう人に"刺さる"だろうか?」

 現場の人とて「一様」ではありません。「会場の聞き手」には、様々な人々がいます。一般社員の方もいらっしゃるし、マネジャーもいらっしゃる。自分の「聞き手」をきちんと決めることは、プレゼンテーション作成の根幹です。聞き手が「のっぺらぼー」では「対話」を行うことはできません。
 僕が講演をご依頼いただいた方はたぶんおわかりだと思うのですが(講演は月1に決めていますので、ほとんどお応えできていません・・・すみません)、僕が、事前の打ち合わせでもっともこだわっているのは、「参加者を知ること」です。性別、ポジションはもちろんのこと、経験、彼らの思い、通常の業務のこと、そうしたことを根掘り葉掘りお聞きすることが多いのは、その理由です。

 ふたつめ「僕が、この情報を提示したら、その人は"具体的にどういう疑問"をお持ちになるだろうか?」「どういう"問いかけ"を、"話し手である僕"に投げかけてくるだろうか?」

 最後にみっつめ「現場の方々の、生じた疑問に対して、次に、僕が、どのように"次の情報"を提示すれば、「聞き手」と「話し手」とのあいだに、いわゆる"対話"的関係、別の言葉でいうならば"情報のキャッチボール"が成立するだろうか?」

 ふたつめとみっつめは、「プレゼンとは対話である」という命題の根幹です。
 プレゼンをつくっているときに、いつも僕は、あたまの中で、「仮想の聞き手」を仮想し、彼らと話しています・・・ブツブツと(横でみている方がいらっしゃったとしたら、たぶん、気持ち悪いでしょう、笑い)。その上で、「仮想の聞き手」の「問いかけ」を想起し、それを用いて、「前後のスライド」をつないでいきます。

「そうはいいますけどね、と。・・・僕がこういえば、こういう疑問をお持ちの方もいらっしゃるんじゃないですか?」
「だよね、そうだよねって思いません?このことって、皆さんがすでに感じていたことですよね」

 僕のプレゼンの中で、これらのセンテンス - すなわち「聞き手による"仮想の問い"を用いたスライド間の接続」が多いのは、そういう理由です。ひと言で申しますと、スライドとスライドのあいだをつなぐのは「聞き手の問い」であるということですね。

 以上、これら3つがいつも留意していることです。
 プレゼンテーションを作成するときというのは、自分の頭の中に「聞き手」をクリアに想定し、彼がもつ疑問や感想を「想像」し、それに対する答えを、次のスライドで提示する。そうしたことの繰り返しが、プレゼンのストーリーを構成します。

 かくして、ひとつひとつ現場の方々の思う疑問に答えていく。そして、「アクション」を促す「きっかけ」をつくる。
 先に、プレゼンテーションが「対話」であるのと同時に、「贈り物」だと述べたのは、こと僕等の研究分野に関する「アクションにつながるきっかけ」を、「聞き手」に「手渡していく作業」でもあるからです。
 いみじくも、プレゼンテーション(Presentation)の語源は、Present(贈り物)です。この語源は、大切にしたいものですね。

  ▼

 今日は、プレゼンテーションのお話になりました。かくいう僕も、まだまだ「修行中」で、かなり「ヘタッピ」なのですが、こういうのは「場数」も大切だと思っています。中には、「思い出したくないような経験」や「失敗」もある。かくいう僕も、そういう「痛い経験」を何度も繰り返してきました。

 うまい人のプレゼンビデオは、今も、よく見ます。夜な夜な、チビチビとオチャケを飲みつつ、観察し、模倣し、日夜、修行に励んでいる最中です。
 僕は「プレゼン教育」や「情報教育」の専門家ではないので、その筋の専門的内容はわかりませんが、いつも考えていることは、こんなところです。 

 あなたは、「仮想の聞き手」と、どんな「対話」をなさっていますか?
 あなたは、プレゼンテーションで、どんな「贈り物」を、「誰」に届けていらっしゃいますか?

 そして人生は続く。

 ーーー

【関連する過去記事】

■人の前で話すコツ?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/11/post_666.html

■プレゼンやファシリテーションをどうやって学んだのか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/11/post_1606.html

 ーーー

追伸.
上記の文章の「プレゼンテーション」を「教えること」に置き換えてみてください。そうしても、すべてではないにせよ、意味が通じるところの方が多いことに気づかされます。
「教えることとは、対話であり、贈り物である」というのは、小生の持論です。そして、「プレゼンテーション」ないしは「教えること」とは、聞き手を「変化=学び」に「誘うこと」です。ですので、プレゼンテーションとは「学びを促すこと」でもある、と僕は思っています。
 僕の中では、「教えること」も「プレゼンテーション」も「学び」も、すべて「世界がつながって」いるように感じます。しかし一般には、「教えること」は「教授学」、「プレゼンテーション」は「プレゼンテーション教育」か「情報教育」、「学び」は「学習研究」という風にわけて捉えられ、それぞれに実践され、研究されています。究極、3つの領域は「同じこと」を言っているのにな、とよく思います。

 ーーー

追伸2.
プレゼンテーションは「対話」であるということを喝破し、その作成をマンガ表現を用いて支援しようとする、とてもインサイトにとむ先行研究に、下記があります。興味深いことです。

鈴木栄幸・加藤浩 (2008)「社会的ネットワーキングに着目したプレゼンテーション教育手法『マンガ表現法』の提案」科学教育研究32(3),pp196-215

投稿者 jun : 2013年1月17日 11:20


「引き継ぎを、OJTというのか?」から「芋食ってプッの英語訳」まで:ブログを書くこと、書き続けること

 ブログ(日記)を書き始めて、はや14年。一番最初の日記は、1999年2月15日ですので、ずいぶん、長い時間がたってきました。
 おかげさまで、このブログも、月間約20万PV、月間で約8万名 - 9万名の方々(UU)にお読み頂けるようになるまで成長(!?)しました(カウントはサーバに実装されたアクセスログによる)。しょーもないことばかり書いてすみません。

 こんな書き散らしの生活をしておりますと、

 もちょっと、煮詰めてから、書け!
 議論が雑だ! 根拠を示して書け!
 先行研究をレビューして書け!

 と「ありがたい・お叱り」をメール等でいただくこともないわけではないのですが、「日々、気になったこと、考えたことをすべて頭の外に外化すること」が、つまり「自分のぐにゃんぐにゃんな思考のおすそわけ」が、このブログの趣旨でありますので、どうぞお許し下さい。誤解を避けるために断言しておきますが - どうも誤解されている節もある - 「これは僕の研究ではありません」。

 14年もやっておりますと、もう「貧乏ゆすり」レベルの「日々の癖」のようになってしまっており、なかなかやめることもできません。
 大変申し訳ないのですが、イケるところまで、このまま書き散らしますので、どうかご了承を!

  ▼

 ところで、ふだんは忙しくて「このブログのアクセスログ」などを見ることもないのですが、昨日、たまたま、ちょろっと「エラー」が起こり、久しぶりに見たら、なかなか面白いことがわかってきます。

 一番面白かったのは、「検索文字列」のコーナーで、「検索エンジンなどで、どのような検索を行って、僕のブログにきたのか?」がわかります。

 僕のブログにくる「検索文字列」としては、「小生の氏名」の他には、こんなものがあります。

 「リフレクションとは」
 「リーダーシップを発揮した出来事」
 「学習する組織論」
 「学習環境」
 「マネジャー 学習 研修」
 「人材育成」
 「経営 学習」
 「組織学習の理論と実践」
 「組織社会化」
 「経営学習論」
 「企業 対話 場づくり」
 「看護 内省 理論」

 といったキーワードがならびます。
 まぁ、これは、僕の研究柄、そのようになることが容易に予想できますね。こういうワードが全くひっかからなかったら、それはそれで、また問題だわね。

 研究に関連する内容で、最近ですと、下記のような記事が比較的人気でございました。

仕事を振ると「なぜですか?」と問われる : 「意味や理由」を求める若い世代!? にイラつく理由
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/11/post_1902.html


 興味深いのは、

 「先行研究」
 「先行研究 まとめ方」

 という検索ワードも多いことです。これはおそらく下記のような記事をたまに書いているせいでしょうね。
 この記事、もともとは、中原研に所属している大学院生向けに書いたものですが、多くの方々に共感をいただいているようで、まことに嬉しいことです。


先行研究をまとめる5つのプロセス、陥りやすい3つの罠

http://www.nakahara-lab.net/blog/2011/10/post_1803.html

博士論文とは構造を書くことである
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/11/post_1907.html

 あと多いのは、「パネルディスカッション」に関する検索。これは下記のような記事のせいでしょう。僕、パネルディスカッションが「苦手」なんです。

パネルディスカッションの5つのトホホ文法 : 尻切れトンボ、みんな違ってみんないい、オレオレ質疑、過剰プロレス、リンダ困っちゃう!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/08/post_1879.html

  ▼

 面白いのは、検索数は少ないのですけれども、下記のようなワード(ぼやき)で検索をして、僕のブログに到達した方が、いらっしゃることです。

 「研修 長い なんとかしてくれ」
 「引き継ぎを、OJTというのか?」
 「海外勤務 打診された どうしよう」
 「部下の話が長い 聞けない」
 「仕事 ほどほどにしていいですか?」

 こういうビジネスパーソンの「ぼやき」というか「なげき」みたいなものが、小生は、個人的にとても好きです。
 まことに残念なことに、あいにく、僕のブログには、「長時間続く研修を、どのように乗り切ることができるか」に関する答えはないのですが(笑)。

 中には、「珍」検索ワードもあります。

「腹くくって、待ってろ、を英文にしたい」
「芋食ってプッ、を英文にしたい」

 これらを見たとき、
 思わず、スタバでコーヒーをふきました。

 英文にするのはいいけど、
 それ、何に使うの?(笑)

 ▼

 今日の記事は、ほとんど意味なしトークでしたが、あのね、ブログを14年続けて、僕が到達した結論がひとつあるんです。

 「書くこと」のコツは何ですか?

 それはね、トートロジカルではありますけれども、「書き続けること」です。これは下記に一度記事を書いたことがあります。よろしければ、どうぞごらんください。

書くためには書き続けることである
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/02/post_1833.html

 とにかく、しょーもないことでも、アホなことでも、煮詰まっていないことでも、とにかく、なんでもいいから、「外化」していくことです。周りなんて気にする必要はありません。だって、イヤなら「見なければいい」だけなんだから。Webは「プル型メディア」なんだから。

 そして、先ほどの記事ではないですけれども、書き続けていれば、書くときに何の心理的負荷もだんだん感じなくなってきます。

 そして、世の中というものは、まことに広いもので、誰かが、どこかで、あなたの文章を「面白い」と見ていてくれるものです。そこからブレークスルーが開けたり、チャンスをもらったりすることが、決して珍しくはありません。

 というわけでした。

 ところでさ、気になってきになってしょーがないんだけど、

 芋食ってプッは、英語でなんていうの?
 
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年1月16日 09:04


新たに「コミュニティ」を立ち上げ、育てていくための智慧:念仏、御文、講のネットワーク化 - 蓮如の人生から考える

「コミュニティを新たにつくって維持するためには何が必要なのでしょうか」
「コミュニティをデザインするためには、いったい、何をすればいいのでしょうか。
「コミュニティやクラスタを利用したマーケティングのコツはなんでしょうか」

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   ・

 ずいぶん前のことになりますが、あるところで、「コミュニティ」に関する「クローズドの自主勉強会」に参加させていただきました。
 参加していたビジネスパーソンの皆さんは、それぞれの仕事で、それぞれのアプローチの仕方で、コミュニティに関係する仕事をなさっている方で、上記のような「問い」を見事ときあかしてくれるような関連書・情報・言説が少ないことを、嘆いておられました。

 まぁ、それもそうでしょうね。だって「ニッチ」だもんね。
 近年は、「コミュニティデザイン」やら「コミュニティマネジメント」というコンセプトがあらわれ、多少、その状況も変わりつつありますが、そんな「ニッチな関心」を、マスメディアは、なかなか取り上げてくれません。

 僕は「コミュニティ」に関する研究をしているわけでもないのですが、そのときは、この問いについて考えさせられました。そして、そんなとき、僕の脳裏に浮かんだのは「歴史上のある人物」のことでした。
 僕は、宗教学や歴史学の専門知識はゼロですが、どうしても、こういう関心を耳にすると、「この人物」を思い出してしまうのです。

 その人の名は「蓮如(れんにょ)」。
 時は室町時代末期の乱世、1415年に生まれ、生涯を終えるまで、親鸞の教えを全国に広め、定着させ、それを媒介とする一大コミュニティを築いた人でした。

 この「蓮如」という人物、歴史書を見ても、解説書を読んでも、あまりよくは語られないことも少なくありません。

 以下、五木寛之さんのご著書ですとかを参照しつつ、書かせて頂きますが(参考にした書著は文末にあります)、どうにも専門書や解説書を読んでいても、「蓮如は、知識人から親しまれない」ことの方が多いことに気づかされます。

 この背景にはいくつかの理由があるような気がします。「独立孤高」の姿勢を守り、思想を極めた親鸞とは全くことなり、蓮如は明確な「独自の思想」を持ちません。
 反面、蓮如は、当時、着実に力を増しつつあった民衆の中に「身を捨てて」とびこみ、民衆の苦しみを背景に、親鸞とは全くことなるアプローチで、親鸞の思想を広めていきます。おそらく、こうした蓮如の姿勢 - すなわち、「ムーヴメント」に傾倒した生涯が、知識人の忌み嫌うところなのかな、とも思います。

 さて、それでは、親鸞の教えを普及させ、一大コミュニティをつくりあげるために、蓮如が採用したアプローチとは、いったい、どのようなものだったのでしょうか。

 ▼

 コミュニティを組織する際、蓮如のアプローチのひとつはこれです。

 帰命無量寿如来
 南無不可思議光
 法蔵菩薩因位時
 在世自在王仏所
  ・
  ・
  ・
 からはじまる、いわゆる「正信偈(しょうしんげ)」は、親鸞の著書『教行信証』の中にある一節です。
 これをもとに、「念仏」として制度化し、彼は、民衆のあいだに広めていった。「念仏」は、誰でも唱えることのできる「普及のためのハードルの低いアーティファクト」として、まずは機能しはじめて、人々の気持ちをとらえていきます。

 当時の日本は「乱世」。
 そこは、10%にも満たない支配階級と、90%の被支配階級の圧倒的な格差社会そのものでした(現代とは比較にもなりません)。そのような不条理な世界にあって、人々は「苦しみ」のどん底にあった。その様子は、ちょうど、アフリカで進行している悲惨な内戦や惨状に近いのかもしれません。
 ちょうど、今から600年前くらいの日本は、そんな「地獄絵図」が広がる世界でした。支配階級は内戦を繰り返し、さらにわることに飢饉や疫病が、被支配階級を襲う。人々は「受苦」のどん底にいました。

 その中で、人々をとらえたのは、わずか数百文字の「念仏」でした。それを唱えるだけで、圧倒的な「受苦」から、そして、「生きることの苦しみ」から、自分は「救われる」。「念仏」は現代人からすると、やや「プリミティブ」な感じもしますが、当時の時代状況を考えると、さもありなん、という気持ちもしてきます。

(ちなみに、帰命無量寿如来・・・は、子どもの頃、よく、小生の祖母が仏前で唱えていました。僕は、それを当時黙って聞いていた。それから35年・・・先日、そこからはじまる何センテンスかを、自分自身も諳んじることができることに気づいたときは驚愕しました)

 一方で、蓮如は「信者 - 僧侶」間、「信者 - 信者」間の「コミュニケーション戦略」も怠らなかった。

 日本史をやっていた人は、「おふみ(御文)」というのを聞いたことがあると思うのですが、これは、「難しい教え」を蓮如が、「誰にでもわかるように書き直したお手紙」のことをいいます。

 当時、誤解を恐れずにいうならば、仏教は「導管モデル」「支配階級のエクリチュール」の中にあった。それは、一部の支配階級の「教養」であり、「書き言葉」として記されていた。たとえば、親鸞の書いたとされる「歎異抄(たんにしょう)」という本がありますが、これは非常に難解です。当時、それまでの布教とは、僧侶が「高座」にすわりながら、そういう「難しくありがたい教え」を、「教えが理解可能な人々」に、語りかけることにあった。

 一方、蓮如は、これらの「難しい教え」を「おふみ」に書き記し、それを手に携え、民衆の中に入っていきました。彼はもう「身を捨てていました」。天台宗の僧兵に襲われ、寺を焼き討ちされ、退路はいっさいなかった。
 そんな崖っぷちの蓮如が、そんなとき目をつけたのは、民衆の中に生まれてきつつあった、「ある組織」でした。

 当時は、貴族によってつくりあげれた土地制度であった「荘園」が崩壊し、農民自身の中で、リーダーをつくり、共同祭儀を行ったり、秩序を自主的に維持していこうとする「惣(そう)」が立ち上がり始めていました。蓮如は、ここに目をつけました。

「惣」がさらに組織化され、ある目的や興味関心を満たすために、複数の人々が組織する集団的共同体を「講」といいますが、蓮如は「惣」を土台に、それを「講」として変化させ、念仏の思想・親鸞の思想を広める「講の連合・ネットワーク」をつくろうとしたのです。僕の言葉でいいますと、彼がつくろうとしたのは「学習共同体」であり、「学習共同体のアソシエーシエーション・ネットワーク」ということになります。

「講」を組織化する中心的アーティファクトは、先ほどの「おふみ」であり「念仏」です。つまり、蓮如は「おふみ」と「念仏」というアーティファクトをもとに民衆が自己維持可能な「信仰コミュニティ」をつくっていったんですね。

 こういう慣習をもつようになった民衆は、その「コミュニティ」を蓮如がいなくても、「自己維持」できるようになる。自己維持できる「コミュニティ」には、さらに人々が新規参入し、「自己増殖」を開始する。かくして、蓮如は、当時の仏教信者の3分の1となるような「巨大コミュニティ」を組織していったのです。

  ▼

 今日の問いとは、「コミュニティの維持・運営や普及」というテーマでした。蓮如の生きた時代と現代は、全くことなる時代とはいえ、当時蓮如が「手持ちのメディア」で、いかにコミュニティを組織していったかということが、おわかりいただけると思います。

 もちろん、今日のテーマは、仏教や歴史をご専門にしていらっしゃる方にとっては、ツッコミ満載だと思います。僕は、その筋の研究者ではありませんので、今日の話を1時資料に基づいてお話ししたわけではないことを付記しておきます。
 また、蓮如も「コミュニティを組織する」ために、このようなことを行ったわけではありませんので、彼の活動を読み解くとき、そこは慎重に解釈される必要があります。また、今日の話では触れることができませんでしたが、彼の活動が残した負の側面も、慎重に考慮されなくてはなりません。

 今日は、「今、コミュニティに関係する言説」が、「蓮如の人生のテクスト」と似ていることも少なくなくないことを例示しました。
 その人生からは、現代のコミュニティに関係する関係者が学ぶ「答え」を直接得られないにせよ、大切なポイントが含まれてるような気がします。

 とかく、蓮如という人は、たとえば、一向一揆を組織しただとか、5人の妻をめとって、27人の子どもがいたとか、いろいろ揶揄される人物です。
 しかし、そんなことは、僕にはどうでもよくて、現在は、蓮如の時代から600年以上もたっているのに、同じようなことが人々の興味・関心になっていることが興味深いことですね。

「現在」と「過去の歴史」は、つながることもあります。
「現在の問題を解く」ために、「現在生産されている言説」だけを頼りにしても、十分な情報を得られることができないときが、ままあります。

「ソーシャルメディアをどのように使えばいいのでしょうか」

 なんてことを考えていても、「埒」が空かないことの方が多いような気もします。

 そのようなときには、現代を「近視眼」的に見つめるのではなく、「歴史という大局の中に現代を位置づけること」も、注目されてしかるべき「知的チャレンジ」かもしれません。すなわち、「過去の歴史」から学び、それを鵜呑みにするのではなく、「自ら考えること」も、また一計だと思うのです。
 歴史は、似たようなことを「繰り返す」ものですし、わたしたちは、そのためもあって、長いあいだかけて、歴史的事実やそれにまつわる思考法を学んだようにも感じます。

  ▼

 ちなみに「蓮如の後世」も、また「我々にとっての教訓」に満ちたものです。
 彼は、晩年、大きくなった教団のトップに君臨し、彼をしたい、彼を持ち上げる関係者から祭りあげられ、偶像化し、次第に、そのメッセージは教条化・固定化してきます。蓮如のことがよく語られないのも、この晩年の「迷走」っぷりからかもしれません。

 しかし、僕自身は、このような「人間くさい」蓮如の人生が好きです。
 同時に、「コミュニティを維持する、管理する、普及させる」ということの背後に広がる「落とし穴」を、彼の晩年から学ぶこともできるような気がします。

 蓮如、享年85歳。
 波瀾万丈という4文字では、おいそれと形容できぬ
 激動の人生でした。
 
 

投稿者 jun : 2013年1月15日 09:53


【書評】上野行一著「私の中の自由な美術」:知識偏重か、感動の強要か、指導の放棄:僕たちは鑑賞の仕方を学んでいなかった!?

 上野行一著「私の中の自由な美術」を読みました。

 我が国の美術教育や鑑賞教育に対して警鐘をならしつつ、早くから対話型鑑賞に関する研究をすすめてきた著者の入門書ですね。
 僕は美術もアートも鑑賞も全くの門外漢ですが、愉しく読むことができました。

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 著者は冒頭、「日本のアートの消費シーン」の「特異さ」を論じます。

・日本の都市部の美術館の企画する「企画展」の集客は、世界の第1位、第2位、第3位を常に押さえてしまうほどの人気であり、常に企画展には長蛇の列ができるほどである

・一方、日本の美術館への入場者はそれほど多いわけではなく、年間の入場者の数分の1を企画展によっているところは少なくない

・小学校で図画工作は人気の高い教科であるのにもかかわらず、中学校、高校とその人気の落ち込みは激しい

・表現と鑑賞は、美術教育の根幹をなす活動であるが、鑑賞はきちんと教えられているわけではない。日本の美術教師教育の中に、きちんと鑑賞は位置付いているわけではない。

・日本の鑑賞教育は、1)知識偏重か(次の作品のうち、印象派の作品を3つ選びなさい、みたいな問題)、2)感動の強要か、3)指導の放棄になっている

 そうした、ある種の「歪み」を紹介した上で、本書では、「鑑賞のあり方」について紹介していきます。

 ロラン・バルトが「作者の死」という概念で述べたように、「作品」とは「読者・社会にひらかれてこそ、意味をもち、解釈されるテクスト」であり、そうした解釈を可能にするような社会的インタラクションをいかに保証するかが、本書に通底するテーマであると感じました。

「作品の中では、どのような出来事が起こっているのか」「この作品とは何か、そして、何を問いかけようとしているのか」「何をみてそう思ったのか」というDriving questionのもとで、対話がなされることにこそ、鑑賞の「学習」の根幹であると思いました。

  ▼

 この本の主張が、美術教育研究・鑑賞教育研究の中で、どのような位置づけにあるのか、僕は知りません。しかし、先日行ったMALLイベントとのつながりもあり、楽しく読むことができました。

 僕たちは、鑑賞の仕方を、きちんと教えられていたわけではなかったんだ・・・・。

経営学習研究所 ギャラリーMALL「対話型鑑賞を人材育成に活かす」に参加しました! & 中原のラップアッププレゼン資料の公開
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/01/_mall_1.html


投稿者 jun : 2013年1月14日 08:10


経営学習研究所 ギャラリーMALL「対話型鑑賞を人材育成に活かす」に参加しました! & 中原のラップアッププレゼン資料の公開

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 昨夜は、経営学習研究所 ギャラリーMALL「対話型鑑賞を人材育成に活かす」が開催されました(平野理事・企画)。

経営学習研究所 ギャラリーMALL「対話型鑑賞を人材育成に活かす」企画詳細
http://ow.ly/gKqHa

当日のTwitterまとめサイト(平野さん作成)
http://togetter.com/li/438064

 講師には、ニューヨーク近代美術館で学んだ対話型鑑賞の第一人者である 福のり子先生と、阪急阪神ホールディングスグループの人材採用・ 育成担当である岡崎大輔さんをお招きして、近年、とみに注目されている「対話型鑑賞の手法」を活かした人材育成の可能性を、参加者のみなさまの積極的な参加、議論のもとに考えることができました。

taiwagata_kanshou.png

 対話型鑑賞とは、ひと言でいえば「アート作品を前に、皆で対話を 行いながら鑑賞すること」です。
 こう表現してしまえば、非常に シンプルな鑑賞法ですが、実は、ここには様々な相互理解、チーム ビルディングの可能性がひらけているようにも感じます。

個人的には、福先生のひと言が、とても印象的でした。

鑑賞には、背負っている人生が、現れる

 ▼

 会の詳細な報告は、平野理事から別途なされると思います、下記には、中原の行ったラップアップのプレゼンテーションを公開させていただきます。ご笑覧ください。

 最後になりますが、福のり子先生、岡崎大輔さんをはじめ、京都造形芸術大学のみなさま、そして、経営学習研究所の松浦研究員、小池研究員、理事各位、ほか、ご参加いただいたみなさまに心より感謝いたします。ありがとうございました。素敵な場でした。そして、僕自身、とても愉しむことができました。

 疾風怒濤、そして、人生は続く。

投稿者 jun : 2013年1月12日 09:09


【経営学習研究所イベント・参加者募集中】「地に足をつけて、グローバル人材育成を語ろう  現役のグローバルマネージャーのリアルな経験から」(島田徳子さん・牧村真帆さん企画)

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経営学習研究所(MALL):Style Lab / C & c Lab.
「地に足をつけて、グローバル人材育成を語ろう
 現役のグローバルマネージャーのリアルな経験から」
2013年2月8日(金) 内田洋行東京ユビキタス協創広場CANVAS
参加申し込みページ:http://ow.ly/gH7W8
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経営学習研究所 (Management Learning Laboratory : MALL)
では、2月8日(金)に、Style LabとC& c Lab.のコラボ企画を
開催します。

今回のテーマは、
「地に足をつけて、グローバル人材育成を語ろう
 現役のグローバルマネージャーのリアルな経験から」です。

「グローバル化」が叫ばれ、「グローバル人材」「グローバルリーダー」
を求める声も色々なところから聞こえてきます。
「グローバル化」と言われると、なんだか得体のしれない大きな波が
押し寄せてくるような、そんな不安な気持ちを抱いてしまうことも
多いのではないでしょうか。

でも、様々な環境の変化により私たち日本人の「働くスタイル」自体も
変化していく中、「グローバルに働く」「外国人と共に働く」という
スタイルも、もう当たり前のスタイルと言ってもいいかもしれません。
私たち一人一人は、すでに「グローバルに働く」「外国人と共に働く」
波の中にいると言ってもいいでしょう。

20~30代は現場のスタッフとして、
30~40代はミドルマネージャーとして、
40~50代は経営者として、
私たちは今、日本でそして海外で、外国人の彼ら彼女らと
どのように接し、働いているのでしょうか。
世代や立場によって悩みや課題は異なるかもしれませんが、
お互いが共感できることも多いかもしれません。
今回のイベントは、幅広い年代・職場・立場の方々にご参加いただきたいと思っています。

今回のゲストスピーカーは、HOYA株式会社のCIO(最高情報責任者)の
近安理夫(ちかやす よしお)さんです。近安さんは、コンタクト
レンズや医療機器など12事業部門に裁量を委ねるHOYAで、情報システム
や業務管理を共通化する世界規模の「横串プロジェクト」に取り組まれています。
現役のグローバルマネージャーで、1年で世界の約20拠点を
3周された経験をお持ちです。

近安さんのお話をきっかけに、
「グローバルに働くこと」「外国人と働くこと」
について、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
そろそろ、
地に足をつけて、グローバル人材としての実践を語りませんか?

■ゲストスピーカー
近安理夫(ちかやす よしお)さん
HOYAにて、CIO(最高情報責任者)として働く。
外資系コンサルティング会社から転身し、伝統企業のCIOに就任。
コンタクトレンズや医療機器など12事業部門に裁量を委ねる
HOYAで、情報システムや業務管理を共通化する世界規模の
「横串プロジェクト」を率いる。
熱意を伝えるために1年で世界の約20拠点を3周した。

<略歴>
1966年  2月 高知県生まれ
1990年  3月 滋賀大学経済学部卒業
同年   4月 アーサーアンダーセンアンドカンパニー
(現アクセンチュア)入社
2010年  8月 アクセンチュア退社
2010年 11月 HOYA入社、
グループ情報システム統括責任者(現職)

■共催
経営学習研究所 Style Lab
経営学習研究所 Communication & culture Lab.
内田洋行教育総合研究所
■日時
2013年2月8日(金)18:00開場 18:30開演 21:00終了
■募集
50名さま

■会場
株式会社内田洋行 
東京ユビキタス協創広場CANVAS地下1階
http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas.html

■参加費
お一人様4,000円を申し受けます
 ※釣銭のないようご用意いただきますようお願いいたします
会場には、お飲物と軽食をご用意しております

■スケジュール(予定)
18:00 開場 (ウェルカムドリンク)
18:30 オープニング (島田徳子・牧村真帆)
18:40 近安理夫氏による講演
「グローバル人材としてのCapability - 結局何が必要なんだろう?」
19:10 休憩 (バータイム)
19:30 アカデミックリフレクション (島田徳子)
「海外経験と業務能力の関係を探ってみよう」
19:45 ダイアローグ 
「グローバル人材育成の課題とこれから、人事は何ができるか?」
20:15 休憩
20:25 インタラクティブディスカション (近安理夫氏&中原淳)
20:55 ラップアップ(島田徳子・牧村真帆)
21:00 終了


■参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所
の企画担当理事が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料、
書籍等に許諾なく用いられる場合があります。マスメディアに
よる取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.欠席の際には、お手数でもその旨、
info@mallweb.jp まで(松浦)ご連絡下さい。
応募者多数の場合には、繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。

3.応募者多数の場合は、抽選とさせていただきます。
1月24日までにお申し込みをいただき、25日には抽選結果を
送信させていただきますので、ご了承ください。

以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込み
くださいますようお願いいたします。
それでは、皆様とお会いできますこと楽しみにしております!

参加申し込みページ
http://ow.ly/gH7W8

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企画:経営学習研究所 理事 島田徳子、牧村真帆
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投稿者 jun : 2013年1月10日 21:59


看護師の方々の学び、歯医者さんたちの学び

 ここ2週間くらいのうちに、いくつかの医療関係の「学びの現場」を見学させていただく機会に恵まれました。ひとつは看護師育成の現場、ひとつは歯科医師さんたちの学びの現場です。誠にありがたいことです。

  ▼

 ひとつめは「看護師育成の現場」です。
「看護師育成の現場見学・訪問」の機会は、月刊「看護」2013年3月臨時増刊号・座談会をきっかけに生まれました。この企画、中原が思いつきで提案した案が、編集者の米丸さんの渾身の努力で実現しました。

月刊「看護」
http://www.jnapc.co.jp/products/detail.php?product_id=3116#

 座談会には、現在、大規模病院で看護部長をなさっている看護師の先生方(猪又克子先生:北里大学病院看護部教育科長・熊谷雅美先生済生会横浜市東部病院副院長兼看護部長)と中原が参加するのですが、猪又先生、熊谷先生には、日本航空(JAL)のCAの方々の人材育成の現場をご覧頂きます(話をつないでいただいた板谷さんには、心より感謝いたします)。

(日本航空さんのCAの方々の研修の様子は、僕も、以前、一度少しだけ見学させていただいたことがあります。そのときは、飛行機を模した施設の中で、ビジネスクラスのお客様にお料理をサーブしている研修場面でした。なかなか興味深いですね)

 一方、ふだん企業を訪問している中原は、スイッチです。
 僕の方は、大規模病院の看護師育成の現場を訪問させていただき、両者の訪問・見学が終わったところで、改めて「看護師の人材育成について語ろう」という趣旨になっています。

 両者の目には、何が映るでしょうか? 共通点、それとも差異点?差異点が「映る」のはある意味でアタリマエなのですが、敢えてつくりだした「異化」のきっかけに対話を行えることが楽しみです。

 僕は、看護業界は全くの門外漢ですが、大学院生の保田さんが看護師育成の研究をなさっています。これを機会にまた学ばせて頂きたいな、と思います。

(保田さんは、現在、看護師の方が、現場でどのように学んでいるかを研究なさっています。これから定量調査(質問紙調査)をはじめさせていただく予定なのですが、もし御協力いただけるよ、という方がいらっしゃいましたら、またご相談させてください。)
 
  ▼

 もうひとつの現場は、歯科医師さんたちの「学びの現場」です。
 雑誌「人材教育」に連載している「学びは現場にあり!」の取材で、藤本順平先生という大変ご高名な先生の主宰なさっている歯医者さんたちの自主勉強会(研修会)をご訪問させていただきます。訪問するのは、人材教育の編集者・吉峰女史と、ライター井上、中原の、毎度、全国で珍道中を繰り広げている3人コンビです。

人事専門誌「人材教育」
http://www.jmam.co.jp/productservice/jinzai/index.html

藤本研修会
http://www.fujimoto-dental.com/kensyukai/

 歯医者さんは、そのほとんどが、個人でクリニックを経営なさっています。そして、歯医者さんになった後は、勉強を続けようとする先生は、自ら技術を磨くべく努力しますが、そうでない人もいらっしゃいます。
 歯医者さんは、その多くが個人経営のために、大規模組織(病院)のように人材育成施策などが存在するわけではありません。ということは、学びを強制されること、他者から管理されることは、ほとんどありません。ということは、必然的に、個人の力量の差が、非常に大きくなることが予想されます。

 看護師育成に加えて、こちら歯科業界も、中原は全くの門外漢です。1ミリも知りません。ですので、これを機会に学ばせて頂こうと思っています。

   ▼

 この企画は、中原がいつもお世話になっているサウジ歯科クリニック(目黒)の佐氏英介先生のご紹介で実現いたしました。小生、不摂生で奥歯を失い、サウジ先生のもとで、修行?もとい、治療に励んでおるのです。

サウジ歯科
http://www.sauji-dental.com/

 佐氏先生も、また、この藤本先生の病院や、藤本研修会で学び、今は、個人でクリニックを経営なさっている先生です。とても誠実な方で、かつ、学び続ける先生です。
 小生、患者のひとりとして申し上げるのは何なんですけれども、1)高度な最先端の技術をお持ちでいらっしゃる、2)患者の身になって治療・手法選択をしてくださる(保険医療をもちろん含む)、3)朝早く場合によっては、7時30分から治療を行ってくださる、4)ひとりにつき30分から1時間も、まとまった時間をとって治療を行ってくれることなどから、すっかりサウジ先生のファンになり、なぜか歯医者さんにいくのが「愉しみ」?な状況になっています。先生には、この場を借りて感謝いたします。ありがとうございます。

  ▼

 このように去年あたりから、看護・医師育成・歯科医療のお問い合わせが増えております。
 僕は企業研究がメインで、現在、医療関係の研究は行っておりませんので、そのほとんどはお断りせざるをえない状況が続いていて、まことに申し訳なく思っておりますが、ご縁があり、せっかくいただいた機会ですので、学ばせていただこうとおもっております。

 嗚呼、現場は愉しいですね。
 見学させていただくたびに、発見があります。

 そして人生は続く・・・

投稿者 jun : 2013年1月10日 07:09


「子育て」にとってスマホは「プラス」か「マイナス」か? : どうにも歯切れの悪い「育児におけるスマホ利用論」

「子育て」にとって、スマホは「よいもの」なのでしょうか、それとも「悪いもの」なのでしょうか? つまり、「子育て」にとってスマホは「プラス」でしょうか?「マイナス」でしょうか?

   ・
   ・
   ・
   ・

 のっけから、結論を言ってしまうと、決まってるんです。

 「そんなもの、使い方による(笑)」
 「ケースバイケース」
 「そんな問い自体がナンセンス!」 

 もちろん、それはおっしゃるとおり! そのとおりなのだけれども、それだと「これで「話は終わっちゃうのよ」(笑)。
 なので、もう少しだけ、結論を急ぐのを我慢するとして、もし興味がございましたら、おつきあいください。
 僕は、最近、この問いを考えることが少なくありません。

 今日の話は、1ミリも学問的も理論的でもでなく、単なる「わたしの子育て論 / 子育てお悩み論」ですが、もし、それでよろしければ、どうかお読み下さい。

 ▼

「子育て」にとって、スマホは「よいもの」なのでしょうか、それとも「悪いもの」なのでしょうか?

   ・
   ・
   ・

 そのことに、最近、僕がモンモンといたしますのは、今現在、僕自身が、この問いに「アンビバレントな態度」をもっているからです。
 つまり、「そうだよな、ポジティブに使えるよ」と思うときと、「このままだとうちの場合、ちょっとヤバイよな」と思うときがあり、時に、どっちつかずの態度に自分がイヤになるのです。

 まず、ポジティブな側面から。

 最初に申し上げますと、「僕は、自分自身が、たぶんスマホなどがなければ、子育てを今のようなかたちではできなかったろうな」、と思っています。そういう意味では、僕は「スマホありがとう」といいたいですし、その「テクノロジーの恩恵」を一方で受けています。

 まだまだ子どもが「赤ちゃん」のときのお話しですけれども、たとえば、子どもに高熱が出ることがたくさんありました(愚息TAKUZOは、今でこそ、風邪を引きませんけど、幼い頃は、本当にヨワヨワキャラだったのです)。
 時には、僕が一人で子どもを見ているに高熱をだすことも多く、そんなときには、どうしていいかわからず、右往左往している。
 ベッドサイドで子どもが「ひーひー」と言っているのを背中をさすりながら、スマホでサイトで対処法を検索したり、Twitterで教えてもらったり、時にはスカイプしながら、何とか、「その場の対処」を行うことができる。そんなとき、とてもスマホは役に立ちました。「モビリティのある情報端末」を携帯できることは、本当に便利でした。

 あるいは、あるとき、子どもと「外出」したりする。
 そのときの様子を記録にしたり、文章を綴ったりして、実家の両親におくったり、ネットにアップロードする。それを見た人から、いろんなコメントやらフィードバックがもらえる。
 スマホは、僕にとって、「子育ての記録とシェアのためのメディア」でもありました。

 子どもの面倒を見ていると、なかなか、うまくいかないこともあったり、ぐずぐずされたりで、そりゃ、愉しいことばかりじゃない。ときには「煮詰まってくる」こともあります。時には、その「煮詰まり」が「怒り」や「やりきれなさ」に変わるときもあります。

 でも、そういうとき、「あ、一人じゃないんだな」「みんな同じような思いをしているんだな」「みんな同じ経験で悩んでいるんだな」と思えることは、僕にとっては、とても勇気づけられることでしたし、そんなとき、「今の時代に子育てをしていてよかったな」と思いました。

 また「仕事と子育ての両立」という点でも、スマホは大変役に立ちました。外出先でも、PDFやワードファイルをひらくことができる。書類のチェックができる。子どもの相手をしながら、何とかかんとか、差し迫った仕事をスマホでこなしたことは、一度や二度ではありません。

 煎じ詰めてみると、上記の話は、「スマホがあるからうけられた恩恵」だけの話ではないのですが、高度にソーシャルメディアが発達し、ネットへのアクセスがどこでも可能になったことが、僕にとっては、「子育て」をするうえで、大変助かりました。

  ▼

 一方で、子どもが大きくなるにつれ「ネガティブな側面」も、最近、感じるようになりました。これは子どもに責任があることではなく、僕自身に責任があることです。

 最も自分として「危機的」だな、と思っていることは、「子どもと一緒にいるときに、ついついスマホの画面をのぞき込んでしまい、子どものことが見えなくなったり、コミュニケーションがうまくいかなくなったりしている自分を発見するとき」です。

「いつでもどこでもコミュニケーションをとれる、つながれるメディア」というのは、言い換えますと、「利用者の時間を無限に奪ってしまうメディア」でもあるのです。
 いつでも「仕事」ができますし、いつでも人とつながれます。そうしますと、つい、「子育て」をし「ながら」、何かをやることになる。つまり、子育て自体が、"ながら化"するのです。

 もちろん、だからこそ、「子育てと仕事が両立に寄与できる可能性」がありますし、「本当に困ったときに、その場でリアルタイムに、教えてくれる人がいる」といったようなポジティブな要因も、生まれるのです。ひと言でいえば、それは「諸刃の剣」です。スマホは、先ほど述べたポジティブな側面の裏で、同時に「負の側面」もあわせもっているような気がします。

 自分としては、子どもと一緒にいるときには、なるべく「子どもと離れたとき」にスマホは使おう。子どもと何かをしているときには、「ながら」でスマホを使うことをやめよう、と思っていますが、本当にそれができているかはわかりません。ただし、かなり意識して、やめようと思っていることは事実です。
 
 といいますのは、このことは「長期的な危機」を招くだろうな、とも思うのです。

 人とあっているとき、話しているとき、相互作用をしているときに、スマホを「ながら」で利用している親の「様子」を、子どもは常に観察しています。そして、それが「よいこと」であると、「学習」して育ってしまうからです。
 別の言葉でいいかえまえますと、「スマホをながら利用している親の様子」を、子どもは「観察学習」しているからです。

 長期的には、子どもはそれを「マネ」してしまうでしょう。
 そして、もう少し大人になったとき、子どもも、自分自身のスマホをもつようになったら、同じ事をすると思うのです。
 
 誰かと話しているときに、誰かと一緒にいるときに、スマホの画面に虜になっている我が息子を思うと、すこし、親としては切なくなってきます。それを阻止しようと、反省しているところです。

 よくレストランなので、「親はスマホの画面、子どもはDSの画面を見て、会話がない家庭」を見ますね。このままいけば、それにつながる光景をゆくゆくは生み出してしまうような気がしています。まぁ、「身からでた錆」なのかもしれませんが。そこに危機感をもち、自分としては、反省しています。

 ▼

 今日の話は、ほんとうにとりとめもない話になりました。ごめんなさい。でも、自分の子育てについて述べられることなんて、この程度のことなのです。単なる「オヤジの与太話」だと思ってきいていただいて結構です。

 スマホは、子育てにとってプラスか、マイナスか?
 
 この問いが、あまり意味をもたないほど、今現在、スマホは、僕自身の生活にも、仕事にも、不可分なものになりつつあります。
 そして、この「割り切れなさ」に、なんか、モンモンとしています。

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追伸.
今日の話には敢えて書きませんでしたが、高度に発達したソーシャルメディア上では、育児情報(というより、早期教育に関する情報)が反乱しています。そして「ネット上の育児情報」は、必ずしも、手放しでプラスとは言えない側面もあります。先ほどの話では、「ネットにアクセスできて助かった」と書きましたが、それは手放しで称揚できるものではありません。ネット上の情報は、一概に語ることがとても難しいですね。

 特に、「早期教育」に関する情報に関しては、かなりシリアスだな、と思います。僕は、ほとんどそういうサイトを見ませんが、本当にたまにチラチラ見ていたりすると、「もう、TAKUZO、ダメだわ・・・手遅れだ」くらいに思うときがあります(笑・・・もちろん、そんなことは1ミリもない)。
 それほど、「早期教育」に関する情報が反乱して、親同士が子育てを急いでいる。急かされて、囲まれている。

 こういう、高度に情報が発達する世の中では、育児情報・早期教育に関する親同士のやりとりは、一方で大変助かるのですけれども、一方で、それを批判的に読み解くリテラシーといったものも必要だな、と思います。時には、「自分を不要に駆り立てようとする情報」を「あまり真に受けないこと」も大切なことなのかな、と思います。
 そうでないと、「自分が追われ」、ひいては「子どもを追い立ててしまいがち」になるのかな、と。ま、これはまた別の機会に、論じることにいたしましょう。

 ダイジョブ、手遅れなんてこと、ないよ。
 まだ始まったばかりだよ!

投稿者 jun : 2013年1月 9日 07:08


「よかれ」と思ってやった「支援」が、「過剰な依存」を生み出してしまうとき:他者をスポイルしない支援のあり方とは?

「支援」とは、まことに難しいものです。「よかれ」と思ってやった「裏目」にでる。「裏目」にでることを恐れて、支援のタイミングを失う。そういったことは、私たちの人生において、よくあることです。

 とかく「支援すること」の最悪の帰結は、「依存」を生み出すことでしょう。
 つまり、「人が、他者に過剰に助けてもらっている状態が続くと、助けてくれている人に依存してしまい、自律のきっかけを失ってしまう」ということですね。

 ひと言でいうならば、「過剰な支援」は「依存」という「中毒」を生み出し、人をスポイルしてしまいます。支援とは、ひとつ間違えれば、悲劇的な結末を創り出すことにもつながります。支援とは、そういう「諸刃の剣」なのです。
 
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 さて、それでは「依存」を生み出さないための支援のあり方は何か?

 この「問い」には、これまで古今東西様々な研究者や実務家が回答を試みてきました。それをすべてあげつらうことは、本ブログの紙幅ではできません。
 ただし、僕の考えに関する限り、特に注意しておきたいと思われるポイントは、以下の3つです。それは根源的なことかもしれませんが、チェックしておきたいポイントです。

1.そもそも「支援されるべき人」を支援しているのか?
2.支援の量と質は適切か?
3.支援を解除するタイミングを逸していないか?

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 1の「そもそも"支援されるべき人"を支援しているのか?」というのは、支援というコンセプトの根幹にかかわる問題です。

 支援とは、単純に「他者」を助けることではないと僕は思います。
 そうではなく、それは「何らかの意図をもった他者の行為に対する働きかけ」であり、「その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的な他者のエンパワーメントをはかること(小橋 2000)」です。

 これ、どういうことかと申しますと、「支援されるべき人」とは「何らかの意図をもった人」「行為の質を維持・改善したいと願う人」、そして「最終的にはエンパワーメントを受けて、自律を願う人」ではなければならないということです。支援とは、そういう人にこそ「提供」されなくてはならない。

 逆説的に述べるならば、「意図をもたない人」「行為の質を改善・維持しようと思わない人」「最終的な自律をめざさない人」を「支援すること」は、なかなかできません。もちろん、もしかすると、「支援を必要としている人」の中には、「深刻な状況や渦中にあって、今はまだ、意図を明確に持てない人」もいるかもしれない。しかし、支援プロセスの、どこかの局面では(なるべく早いうちに)、少なくとも「意図」をもっていただく必要があるし、そういう「支援の前段階」も場合によっては必要なことなのかもしれません。

 支援される側に意図がない場合、もし万が一、支援を為したとしても、その「支援」は「依存」を生み出すだけになってしまう可能性が高いようにも感じます。

 支援とは「支援される側」にも、一定の「覚悟」が必要なのです。

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2「支援の量と質は適切か?」は、語り出せば、これだけで一冊の本が書けるほど深いテーマでしょう。「よかれ」と思って行った支援が、全然「あさって方向での、間違ったベクトル上での支援」になってしまったり、「よかれ」と思って続けた「支援の量」が大きすぎて、いつまでたっても、「支援対象者が自律できないこと」は、よく聞く話です。

 これに関する「王道の解決」を、僕は、思いつきません。
 おそらくポイントは、地道でベタベタな解決のあり方 - 支援対象者の「話を聞くこと」、そして、支援対象者の「行為の変化」をモニタリングし続けること、でしょうか。
 支援のあり方を、制御理論よろしく、常にモニタリングし、コントロールする地道な努力の果てにしか、問題解決の方策はないような気がします。

 文章にすればワンセンテンスです。
 それは依然として「難問」であります。

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3「支援を解除するタイミングを逸していないか?」に関しては、すでに1の部分で一部を述べています。
 支援は「提供すること」も大切ですが、最終的なエンパワーメントを達成した場合には、「適切なタイミング」で「解除されること」が大切なポイントになってきます。

 どんな「良質の支援」であっても、いつまでもいつまでも「継続されること」は良い結果を生みません。「支援提供者」と「支援対象者」は、適切なタイミングで「分離」しなくてはならない、「別れ」を経験しなくてはならない。
 ですので、「支援の提供者」は「それまで支援を注ぎ込んできた対象者から、無条件で感謝され、承認される喜びや快感」から、自ら、袂を分かつことをしなくてはならない。支援のためには、支援する側にも、「矜持」が必要です。

 それは、支援の究極の目的が「自律」にあるからです。

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 以上、今日は「支援」と「依存」について書きました。

 とかく、「支援」というのは「よい語感」をもった言葉で、それだけで人を魅了・幻惑します。
 一般に、支援という言葉からは、人は「よきもの」を想像しがちです。しかし、上記に述べましたように、支援とは「厳しい側面」をもっている言葉であり、使い方を間違えば「悲劇的な結末」を導くものであると、僕は思っています。
 支援とは「支援される側」にも「支援する側」にも、「覚悟」や「矜持」を必要とするコンセプトなのです。

 人は、一生涯において、誰かを「支援している」か、誰かに「支援されているか」のどちらかである

 と言ったのは、誰だか忘れましたが(!?)、そんな「難しいもの」の網の目の中に、わたしたちの生活はあります。そして、私たちは、今日も「支援しているか」「支援されているか」のどちらかを生きています。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月 8日 07:19


マネジャーは、どの程度の時間をマネジメント業務にかけているのか? : イチゴケーキのイチゴは誰が食べるのか?

 よくあるマネジメントの教科書では、「マネジャーになるとは生まれ変わりである」と書かれています。曰く「今までは"ソロプレーヤ"として"個人の業績"を追うことが求められいましたが、今から、生まれ変わらなくてはいけない。ソロプレーヤーとしての自分に別れを告げ、生まれかわり、これからはマネジャーとして、他人を使っていかなくてはならない」というわけです。

 確かにマネジャーの業務は「他人を使って仕事をなすこと」ですので、そのことに「間違いはない」のですが、「マネジャーになること」が「ソロプレーヤーからの生まれ変わり」だというメタファ自体には、「現代の職場の実態」はかけ離れているような気がします。つまり、「マネジャー」と「プレーヤー」は「0」と「1」の世界のように、別れているわけではないということです。
 そして、もしこれが仮に「是」だとするなら、生々しい職場の現実、仕事の現実から、マネジメント論を再構築しなおさなければならないのではないでしょうか。「根性論」や「わたしのマネジャー論」を相対化しつつ、現代の職場、組織の現実にあったマネジャー論が必要であるような気がします。

 まだまだ分析の途上なので、確固たることは言えないのですが、僕が、日本生産性本部さんと行った調査では、「マネジャーの全業務時間において、マネジャーたちが、どの程度の割合をマネジメント業務にかけているか」をミクロに調べています。
 また同時に「マネジャーたちが、どの程度の時間を、いわゆるプレイングマネジャーとして、自分の個人業績を追い求めるために用いているか」を子細に調べています。

 たとえば「マネジャーたちが、全業務時間のうち、どの程度、マネジメント業務に時間をかけられているか」というと、下記の表にようになります。

management_time.png

「90%以上がマネジメント業務」という人、すなわち、「古典的なマネジャーの教科書が理想とするようなマネジャー」は、全体の2割程度しかいません。日本企業につとめるマネジャー536名のうち、約半数以上は、マネジャーの割合の方が、少ないか同程度で、自分の仕事を抱えつつ、個人として業績をだしながら、マネジャー業務を行っていることがわかります。

 中には、そのことに悩みをお持ちの方も少なくありません。43.5%の方々は、「プレイヤーとしての成果をあげなければならない自分」と「マネジャーとしての自分」に葛藤を憶えています(肯定的回答を示しています)。
 これは想像の域を出ませんが、よく起こりがちな葛藤は、おそらく、こういうことでしょう。「自分の成果」と「チームの成果」が重なってしまう場合に、こういうケースが生まれが知です。
 つまり、「プレーヤーとして自分の個人業績を追い求めること」は、究極でいえば、「一番おいしいところを、自分のものにすること」です。つまり「イチゴケーキのイチゴは、自分で食べてしまうこと」です。
 一方で、チームを率い、マネジメントを行っていくためには、「一番おいしいところを他人のものとして成果をあげさせ、動かすこと」です。つまり、「イチゴケーキのイチゴは、他人に食べさせなくてはなりません」。
 実際は、この関係は「トレードオフ」ではない場合も多いのかもしれませんが、それがトレードオフだと認識された場合、そこには激しい心理的葛藤が起こるはずです。

 前にもブログで書きましたが、僕は「マネジャーになるとは、生まれ変わりである」であるというよりも、「異なったメタファ」が必要になってきているような気がします。
 むしろ、「マネジャーになるとは、トランジションである」といったようことも言い得るのかもしれません。そして、この「トランジション」には一定の「痛み」が伴う場合があります。そこをどう支援していけるのか、乗り越えていけるのかが、おそらく重要な議論のポイントになるのでしょう。

 分析は、まだまだ途上です。
 しかし、いずれにしても、「新年の抱負」に書きましたとおり、今年は、「今、アクチュアルにおこっている現実や課題」を「地に足のついた生々しいデータ」から、解きほぐしていきたいと考えています。「理想のマネジャーとは・・・・あるべし」といった理想論」や、「マネジャーなんて根性で何とかなる」といったような「根性論」を相対化しつつ、「今を生きる、現場の方々にしっくりとくる議論」を模索していきたいと考えています。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月 7日 09:18


「論文」と「ビジネス書」は何が違うのか?

「論文」と「ビジネス書」とは何が違うのか?

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 昨日は久しぶりに都心の大型書店にいって、数時間、「書棚遊泳」をしていました。
 僕はリアル書店に出かけるときには、医学からダイエット、園芸に至るまで、すべての種類の書棚を遊泳することにしていますが、いろんな種類の本をパラパラとチラ見していて、今日の日記のタイトルを思いつきました。

「論文」と「ビジネス書」とは何が違うのか?

「全く違う、別物じゃん」、と言われると「ハイ、それまでよ」ですな(笑)。
「研究者が書くのが論文に決まってるだろ」「専門用語があるのが論文」というならば「おっしゃるとおり、別物ジロー(意味不明)」なのですが、年末年始、少し「暇」なので、この「1ミリも経済価値をもたない素朴な問い」について考えてみることにしましょう。
 僕は、文章論やライティング研究の専門家ではないので、詳しいことは知りません。専門外の立場から無責任に言い放ちます。

 もちろん「論文」といっても分野によってもいろいろありますし、「ビジネス書」といってもさらに多種多様ですから、「一概に言えないこと」は、言うまでもないことです。
 今日のお話は、あくまで「僕の専門分野の論文」に関することであり、かつ、「ビジネス書」の方は、昨日、「たまたま本屋で立ち読みしたある本」を想定して書きます。全く一般性はありません。

 上記の制約はあることはあります。ただし、個人的には、昨日、「興味深い違い」をひとつ発見して、本屋で「そうだったのか、なるほど!」と喜んでいました。

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 僕が気づいた「論文」と「ビジネス書」の「主要な違い」は、その「書き方」なのです。

 ひと言でいえば、

 論文とは「ストラクチャー」にしたがって「リニア」に進行する書き物

 です。

 その進行は、「フォーカスを徐々にしぼりながら、最後の結論の1点に至ること」が求められます。
 具体的にいうならば、「背景のレビュー - リサーチクエスチョンの提示 - 仮説提案 - 解決 - 結論・考察」という風に、徐々に問題を絞りながら、最後の1点をめざす。

 別の言い方をするならば、論文とは

「One Paper, One Conclusion」

 です。3個も4個も「重要なポイント」があることはありえません。「One Conclusion」に至るまで、根拠(Evidence)を積み重ねながら、フォーカスしていく、そういうストラクチャーに厳密でリニアに進行するのが「論文」です。

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 これに対して「ビジネス書」は、「全く違った文章構造」をもっているように感じます。僕の感覚からすると、

 ビジネス書は「クラスター」を寄り道しながら「ノンリニア」に進行する文章

 のように感じるのです。

 まず、書籍全体を通じて、主張したい「重要なポイント」がいくつかある。人が憶えられるポイントなんて、限られていますので、だいたい、3か5か7がベストでしょう。

 この「いくつかの重要なポイント」に付随し、それを強化する「クラスタ(話題の集まり)」があるのです。あとは、その「クラスタ内」において「読者の方々が共感を憶えたり」、「読者の方々が腹におちる」ようなエピソードや数字をちりばめつつ、文章が進みます。

 その文章は「リニア」に進んでいくというよりは、「ノンリニア」に、たまに「寄り道」をしたり、「道草」したりしながら、いろんな道をとおり、話を膨らませて、書いていくことが求められているように感じます。そのプロセスの中で、人の共感や興味を喚起することが求められています。

 その証拠に「ビジネス書」では、「話を元に戻すが・・・」とか「話がそれたが」とか「ともかく・・・・」という風に「急激な話題転換」を行うような文章が用いられる傾向があります。
 これは文章構造が「ノンリニア」である証左のひとつでしょう。そして、おそらく「論文」ではなかなかないのだと思うのです。なぜなら論文は「リニア」に進行していくので、「急激な話題転換」を行う必要がないのです。「話を元に戻す必要」がそもそもないのです。「話」は予定通り、構造に従って、進んでいきますので。

 反対に「論文」にはあって「ビジネス書」にないものは、何でしょうか。
 それは「文章を構造化するセンテンス」の存在です。例えば「以下では、第一に・・・を述べる。第二に・・・を述べる。最後に・・・を述べる」といったように文章構造を章前に提示するような文章はあまり見られることがありません。
 ビジネス書では、構造が「ノンリニア」になっておりますので、こうした「章全体を構造化するような文章」はあまり見られないのかもしれません。

 ま、あくまで、昨日、感じたことだけどね。
 下記に、勝手なイメージ図を書いてみました。

bussiness_ronbun.png

 論文は、「すこしずつ範囲を狭めて、One Conclusionに達するイメージ」。対して、ビジネス書は「クラスターを巡りながら、本のテーマを論じているイメージ」ですね。

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 以上、今日のお話は、「論文」と「ビジネス書」の違いのお話でした。どちらがよいとか、よくないとか、どちらのクオリティが高いか、低いか、そういう次元の話をしているわけではありません。読者と目的が異なるので、文章構造が変わってくるのはあたりまえのことです。

 ただ、おそらく予想なのですが、「論文をたくさん書いている人が、ビジネス書を書くのは、かなりのハードシップ」のように感じますし、おそらく「逆もまた真なり」の可能性もあるな、と想像していました。

 はい、今日の話題は以上です。
 今日の話は、最初に言い訳したとおり、1ミリも経済的価値をもたない文章(!?)だと思いますが、個人的に興味深かったので、おすそわけでした。

 そして人生は続く。
 明日、東京に戻ります。

 ---

追伸.
 今日の話は、「経営学の論文」と「ハーバードビジネスレビューに掲載されている論文」の違いにも言えることだと思います。後者はとても有用だと思いますが、どちらかというと、上記の分類でいくと「ビジネス書」の書き方をしているように感じます。研究者が読んだ場合、一瞬、面食らうのは、その文章構造の違いかもしれません。くどいようですが、どちらがよいとか、よくないとかいう次元の話ではありません。

投稿者 jun : 2013年1月 4日 08:34


言うことをきかない子どもを、どのようにして「動かす」のか!? : 規範的アプローチとストーリーアプローチ

 年末年始は、親戚が集まります。たくさんの大人が、たくさんの子どもを連れてくる。その相互作用の様子(!?)を観察していて、思うに「子どもを動かすこと」には「2つのやり方がある」と思うのです。それは「規範的アプローチ」と「ストーリーアプローチ」の二つです(笑)。

 これから、新年早々、しょーもないことを述べますが、どうか真面目に受け取らないように(笑)。
 一般化は1ミリもめざしてませんし、また僕は子育て論も保育論も知りません。正月まで、ただ、見てて思っただけ(笑)。

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 第一のアプローチ「規範的アプローチ」は、要するに「〜しなさい」という直接的な子どもに対する指示・命令です。
 たとえば、今、仮に、ある「おもちゃ」に固執し、遊んでいる子どもTAKUZO君がいるとします。彼は、はやく朝ご飯を食べなければならないのですが、そんなことはおかまいなしで、おもちゃで遊んでいる。

 その場合、「規範的アプローチな大人」は、

「TAKUZO、おもちゃで遊んでないで、はやく、食卓にきてパンを食べなさい!」

 と言ってしまう。
 お恥ずかしながら、これは小生が、いつも言ってしまうやり方です(笑)。ま、ひと言でいえば「子どもに指示・命令を与えて動かす」。オラオラ、さっさと飯食え(笑)。

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 これに対して「ストーリーアプローチな大人」は、TAKUZOが、「ついついゴハンを食べちゃうようなオルタナティブストーリーをつくること」で、子どもを動かそうとします。

「TAKUZO、こっちにパンあるよ。キリンさんみたいに見えない? こっちは、カメみたいじゃない? パンの動物園だねー」

 みたいな感じですね。
 小生からすれば、やや「ぬるく」見える。しかし、子どもは、確実に動く。このアプローチの大人は、「子どもにストーリーや世界観を与えることで、子どもを動かす」。

 さらに「高等テク」になってくると、「複数の子どもを動かすこと」もできます。

「AちゃんとBちゃん、こっちにパンの動物園があるよ!みてみて」

 AちゃんとBちゃんが、食事そっちのけで、どんなに遊んでいても、新たなストーリーについついのって、食事をはじめてしまいます。

 いいテク、もってますなー。

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 あらかじめ断っておきますが、「規範的アプローチ」と「ストーリーアプローチ」、このどちらかが優れているか、という話をしたいわけではありません。

「可及的速やかに、子どもに何かを禁止させなければならない局面」で、ぬるぬるとストーリーを語り、乗せていても仕方がないでしょう。
 また、思春期まっただ中のノドボトケ出てきた中2病の男子に、「こっちにキリンさんに似たパンがあるよ」といっても仕方がありません。
 対応は、状況により、かつ、対象者による。要するに、ケースバイケース。アカデミックな香りを漂わせて言うならば、コンティンジェンシーです(笑)。
 皆さんも、まだ親戚がお近くにいたとしたら、「大人が、どういう風に子どもを動かすか」参与観察してみてください。なかなか面白いですよ。

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 最後に・・・二つのアプローチは、案外、子ども以外にも、大人にも通用するような気もします。

 指示・命令で動かすのか?
 ストーリーで動かすのか?

 これら2つのアプローチを「メガネ」にしながら、少し「これまで」を振り返ってみると、「自分が部下などに出してきたメッセージ」、「自分が上司などから受けてきたメッセージ」の「特徴」が見えてくるかもしれません。

 ま、「いい年ぶっこいた大人」をストーリーで動かすのなら「キリンさんみたいなパンだねー」ではダメで、もう少し、アクチュアルでプラクティカルなストーリーが必要でしょうけど・・・(笑)。対象者にあわない「痛いストーリー」は、むしろ、逆効果でしょうね。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年1月 3日 09:20


子どもの頃、一番、印象に残っている光景 : 外へ、外へ、外へ

 あなたの子どもの頃の「印象に残る風景」を、写真3枚をつかって表現してください

 と誰かにいわれたら、あなたは、どのような「子ども時代の心象光景」を思い浮かべるでしょうか。そして、手持ちの写真の中から、どのような写真を選び取るでしょうか。
 雪国に生まれた方ならば、「しんしんと積もる雪の日の光景」なでしょうか。南国に生まれた方ならば、「海に夕日が落ちる光景」でしょうか。

 北国、酷寒の地、旭川に生まれた僕の場合、それは「凍てつくような吹雪(ふぶき)を含む光景なのです。

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 Image(1).jpg

 厳冬の頃
 部屋の中で
 ストーブが赤々燃えている
 
 ストーブの上にはヤカンがおかれ
 ゆらゆらと「湯気」がでている

 窓の外は、吹雪
 凍てつくような寒さ
「今日は、外に行っちゃだめだよ」と言われる

 僕はそれでも「外」に出たい
 「外」に出たくて出たくて
 一日中を、窓の外を見ながら過ごす

   ・
   ・
   ・

 僕は、ことあるごとに、この「自宅の風景」を思い出します。この話は、前にもしたことがあるような気もしますが、なぜかはわかりませんが、これなのです。この「心象風景」なのです。ときどき、夢にさえ見るくらいに。

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 思うに、子どもの頃から、「外に出たかった」のだと思います。
「外」は吹雪。そこは「視界不良」であるかもしれないけれど、そこは「かじかむような寒さ」であるかもしれないけれど、外に出たかったのではないか、と思うのです。

 北海道の家は、暖房施設が発達していますので、「ストーブが赤々と燃え」、まことに温かいのですけれども、それでも、やっぱり「外」に出たい。逆にいうならば、「暖かい自宅」があるからこそ、ベクトルが外に向いていたのかもしれません。

 そして、その思いは、なにやら、今の自分と重なりがあるようにも思います。
 外にでて、自分が何をしたいのかはよくわかりません。しかし、外へ、外へ、外へ。外に出たと思ったら、いつのまにか、中におり。また外を目指して。しかし、「中に居続けること」に憧れつづけ。僕は、まことにアンビバレント(両義的)な存在であるのです。

   ・
   ・
   ・

 北海道の自宅で、年末年始を過ごし、久しぶりに、昔を思い出しました。
 
  ▼

 あなたが、子ども時代に見た「光景」はどんな光景ですか?
 あなたの心象風景には何が表現されていますか?
 そして
 その風景は「今のあなた」と何かつながりがありますか?

 年始年末、実家にいらっしゃる方が多いのでしたら、昔のアルバムを開いてみても面白いかもしれませんね。

投稿者 jun : 2013年1月 2日 10:59


謹賀新年、新年あけましておめでとうございます! 今年もどうぞよろしくお願いいたします!

scholar_nakahara.jpg

 新年あけましておめでとうございます。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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 新年をはじめるにあたり、僕の今年の目標を公衆の面前で!?表明しておきます。今年の僕のテーマは「アクチュアリティ」です。「なんで、新年早々、カタカナなのよ」というツッコミがきそうですけど、まーいいじゃない。気にしないでください(笑)。

「アクチュアリティ」とは、「現在進行している現実」であり、「関与している人が自分自身のアクティブな行動によって対処する以外ないような現実」のことをいいます。もともとはラテン語の「Actio(アクチオー)」に起源をもつ言葉です。

 そして、今年は、この「アクチュアリティ」を前面にかかげた活動を行っていきたいと思います。「経営と学習」、いわゆる「人材育成」の領域、また高等教育の教育現場で、人々が「まさに今」悩んでいる問題に、現場の方々とともに、答えを模索していくような「生々しい活動」をしていきたいと感じます。
 今年は、「今まさに、多くの方々が格闘している問題」と取り組みたいと思います。「誰もが今悩んでいること」を、アカデミックな切り口で、なるべくわかりやすく、平易に、分析し、語ること。これが今年の目的です。

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 思えば、昨年は、おかげさまで、例年と比較して研究業績・教育業績を積み重ねることができた年ではありましたが、その活動は「理論的」、かつ、「先端的」内容が多かったようにも思います。
 別に「ねらった」わけではないのですが、結局、僕の発達段階・キャリアステージ的には、そういう活動が多くなる傾向があったのかと思います。

 もちろん、そうした活動は大変大切なことなのですが、「今年を生きる」上で、「昨年の自分のあり方」と「差異」をつけることも大切なことでしょう。この一ヶ月、そんなことを考えながら、師走の季節を過ごしていました。

 2012年は、もう「オワコン」です。
 2013年は、2013年の生き方があるでしょう。

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 というわけで、今年2013年の中原の活動は、「3年後」「5年後」に必要になること、というよりは、「今まさに起きている問題」に焦点をしぼっていきたいと考えています。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします! 

nengajyo_2013.png

投稿者 jun : 2013年1月 1日 07:52