グローバル化とは「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟である!?

 先だって、僕が慶應MCCでやらせていただいている実務家・ビジネスパーソン向け授業「ラーニングイノベーション論」に、一橋大学の守島基博先生におこしいただきました。
 守島先生には、もう7年間にわたって、素晴らしい授業をご出講いただいており、心の底から感謝しております。受講生の皆さんはもちろんのこと、僕自身も、様々なことを考えさせられるよい学びの機会になりました。本当にありがとうございます。

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 先日の守島先生のお話は「企業の戦略と人事」にかかわるもので、どの話題も興味深いものでしたが、個人的に非常に興味深かった内容に、

「今後の日本企業の職場では、職場構成員のダイバーシティがさらに高まっていく」

 という内容がございました。

 言うまでもなく、この場合のダイバーシティには、さまざまなダイバーシティがありえます。
 ダイバーシティとはワンワードで申し上げますと「メンバー間の差異の程度」ですので、外国人、性差、雇用形態などの「外見や属性から識別可能な違い」もありえますし、考え方・キャリア観・仕事の位置づけの違いといった、なかなか目にみえない「差異」もありえます。
 前者を比較的わかりやすい「鉄板系ダイバーシティ」とするなら(?)、後者はさしずめ「潜在系・そもそも人は多様だったねダイバーシティ?」とも呼べるでしょう(笑)。

 前者はもちろんのこと、後者のような「個々人の奥底に潜む違い」をも「ダイバーシティ」ととらえるのならば、わたしたちの今後の社会は、それぞれが、そこはかとなく拡大していくことが予想されます。それらの差異に対処したり、差異を前向きに企業経営・組織運営に活かしていくことが、現場のマネジャー、日々のマネジメントに求められるようになる、ということになるのだと思います。

 すなわち「今あるマネジメント」の「外側」に「ダイバーシティマネジメント」というものが存在するのではなく、「マネジメント」そのものが「ダイバーシティマネジメント(多様性をやりくりすること)」であるという状態が生まれます。
 かくして「ダイバーシティマネジメント」という言葉は、マネジメントそのものに「収斂」していくのでしょう。
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 さて、言うのは簡単、実行は大変困難です。・・・だって、今でさえ、「ひーひー」言ってるのに、さらにメンバーの向いてる方向が「あっちゃこっちゃ向いてる」のですから・・・。
 
 「今後の職場の変化」に関しては、かつてより、僕自身も、同様の方向性・方向感を感じており、守島先生のお話は「まさに我が意を得たり」という思いがしました。痺れます。

 おそらく、私たちの組織は、今後、さらに「ダイバーシティ」が高まっていくことが予想されます。
 その中では「背中を見て育つ」とか「阿吽の呼吸」とか「察し」といった、わたしたちの文化やメンタリティに深く埋め込まれているものは、機能不全に陥る可能性が高くなります。

 すなわち、「わたしたち自身が同じであるという共同幻想」を前提に「省略」することができたコミュニケーションスタイルが、必ずしも「作動」しなくなるか、あるいは「足かせ」となってしまう事態が進行する、ということが進行するということです。このことは下記のエントリーでこれまでにも、書かせて頂いておりました。

「背中」と「現場」と「ガンバリズム」に甘える国ニッポン!?:人材開発の未来を考える
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/01/post_2340.html

「言挙げせぬ国」の「グローバル化対応」とは何か? : 「阿吽」「察し」「背中」を考える!?
http://www.nakahara-lab.net/2014/03/post_2185.html

 これからの私たちの社会は、

 いつまでやっても、あうんの呼吸に「ならない」
 背中はおのずから「語らない」
 根性やガンバリズムには「逃げられない」
 
 ことが徐々に常態化していくことが予想されます。

 すなわち、グローバル化とは「英語を学ばなきゃなんない」とか、やれ「外国人とつきあわなきゃなんない」、そういう表面的な話ではありません。

 ワンセンテンスで申し上げますと、

 グローバル化対応とは「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟です。
 それは、外国人であろうと、なかろうと。
 たとえ、日本人同士であったとしても。

 言葉を換えるならば

 「おまえ、空気を読めよな」に逃げることができない社会に生きる覚悟です。
 くどいようですが、同じ日本人同士であったとしても。

 その覚悟を嫌がおうでも、持たざるをえない社会が、すぐそこ、今ここにまで迫っています。

 そのような中でもっとも大切で、しかしもっとも面倒なのはきちんと言葉をつくして、多様な人々のあいだに、ひとつひとつ納得解をつくりだしていくことが求められるようになるでしょう。
 これからの現場のマネジャーは、そうした努力を今よりも必要とするようになるのではないかと思います。このことを以前、こんなエントリーで書いたことがありました。遠い遠い記憶の彼方になっていますね。。。おんなじ事を書いているんだから、成長ないのかな(笑)


「雲の上マネジメント」から「言霊マネジメント」へ:マネジャーと言葉

http://www.nakahara-lab.net/2013/06/post_2035.html

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 さて、今日の話題は、ダイバーシティでした。
 これにゆるく関して、劇作家の平田オリザさんの著書「対話のレッスン」に非常に興味深いことをお書きになっています。少し長くなりますが、引用させていただくと、このような感じです。

  ーーー

 二十一世紀のコミュニケーションは「伝わらない」ということから始まる。(中略)

 私とあなたは違うということ。
 私とあなたは違う言葉を話しているということ。
 私は、あなたが分からないということ。
 私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。

 そして、それでも私たちは、理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、ひとつの社会のなかで生きていかなければならないということ。

 そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ。
 (中略)
 まず話し始めよう。そして、自分と他者との差異を見つけよう。差異から来る豊かさの発見のなかにのみ、二十一世紀の対話が開けていく。

(平田オリザ「対話のレッスン」p241-222より引用)

 ーーー

 平田さんは、現代の社会の様相を「差異」と「対話」に求めます。

 そして、僕がもっとも共感するのは、その道は容易な道ではないことを認めながらも、一方で、それは

「決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ」

 を信じると述べられているということです。
 
 つまり、これから起こる変化に「絶望」するのではなく、そこに「希望」を信じて、前に進むことをよしとする。
 そうした態度が素敵だなと思いました。

「世界を変えうるものは、"最後に希望のあるもの"だけである」

 というのは、僕の指導教官の口癖でしたが、僕もそのことを強く思います。

 さて、あなたには「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟はありますか?
 そろそろ、腹はくくりましたか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月30日 06:00


今週一週間を、バタビン(バタバタ貧乏)にしないためには何が必要か!?

 バタビン社長という言葉を、先だって、研究室OBの関根さんからはじめて教えてもらいました。
 バタビン社長とは「バタバタ動き回るわりには、成果がでず、貧乏をしている社長のこと」で、要するに「戦略性のない社長」なのだそうです。この言葉の出自はよく知りませんが、非常に興味深く思いました。

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 ベンチャーのスタートアップ期や、中小企業などで割と多いケースだそうで、「戦略」がないのに、とにかく、気合いと根性で動き回っても、なかなか成果が出ないそうです。

 先だって、研究室の保田さんらが中心になって開催された「中小企業HRD研究会」では(主宰者の保田さん、参加者のみなさま、お疲れさまでした!)、Ostgaard(1994)らの文献を読みましたが(文献担当お疲れさまでした!)、この論文の主張は、それに類するものでした。

 この論文では、中小企業の社長の「戦略性」と「ネットワーク行動」の関係を評価しています。
 分析の結果わかったことは、

 経営者の「ネットワーク行動」は、「戦略」に同期しておこなわれなければ効果は出ない

 ということです。
 戦略に応じて、誰を訪問し、いかなるネットワークを形成するか、しっかりと考えておかなくてはなりません。あたりまえのことですが、日々忙しい日常をすごすたび、つい忘れてしまうことです。まことに興味深いことですね。

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 今日のお話の主人公は、中小企業の社長さんの行動でした。しかし、バタビンの状況(バタビンステート:バタバタしているけれども、シオシオのパー状況)というのは、経営者のみならず、多くの人々に当てはまることではないかと思います。貧乏といっても、フィナンシャルな文字通りの貧乏から、精神的に余裕がない、という「心の貧乏」もあるでしょう。

 動き回っているつもりなのだけれども、成果がでない
 バタバタしているんだけど、どうも、しっくりきていない。

 そんな「バタビン」ステートに陥っていたら、もう一度、戦略を練り直す時期かもしれません。しっかりと「これまで」をリフレクションし、前に踏み出すときかもしれません。
 
 今日は月曜日、週のあたまです。
 
 今のままだと、あなたの一週間は、「バタビン」にはなりませんか?
 このまま突入していったら、あなたはどのような一週間を過ごすことになりますか?

 今週がみなさまにとって、よき週でありますよう。

 そして人生は続く
 


 

投稿者 jun : 2015年6月29日 05:36


「豪華客船タイタニックの悲劇」を生み出した「密かな理由」とは何か?

 先日、昨年から、かかわらせていただいている地域問題解決プロジェクト(ヤフー、日本郵便、アサヒビール、インテリジェンスの異業種課題解決・次世代リーダー研修)で、清宮普美代さんのセッションを拝見させていただいた際、清宮さんから「タイタニック号の悲劇はなぜ生まれたのか?」という話を伺いました。

 この話は、以前にもどこかで他の方から伺っており、これは有名な話なのかもしれないのですが(アサヒビールの福地元・会長も、先日、タイタニック沈没のお話をなさっておられました)、清宮さんによりますと、アクションラーニングの祖であるRevans, R.の父親がタイタニック号の近くで働いており、ゆえに、Revansがその話をよくなさっていたそうだとか。

 そこで問われている内容は、大切なことであるような気がいたしましたので今日は、清宮さんに感謝をしつつ、このお話をさせていただきます。

 さて、タイタニック号のお話の要旨は、こんな内容でございました。

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 タイタニック号の悲劇はなぜ生まれたのか?
 
 よく知られているように、英国客船タイタニック号は北大西洋航路で当時大量の移民を新大陸に運ぶべくつくられました。 

 この船は、当時の最新技術をあますところなく用いており「神でも沈めることができない不沈船」としてマスメディアに喧伝されていたそうです。

 しかし、不沈船タイタニックは、1912年、その処女航海で、氷山に衝突、あえなく沈没することになります。

 しかし「不沈船」と人々に信じられていた船ですが、船の関係者のあいだでは、実際に

 「何か、あの船、変だよね」
 「なんで、救命ボートがあれしかないんだよね」
 「この船、こんなに重くて大丈夫かね?」

 という風に、様々な噂がたっていたといいます。ここでのポイントは、「不沈船とはいうけれど、あの船、なんか、変だよね」と思う人もいた。

 しかし「最大の悲劇」は、多くの人々が「なんか変!」だとは思いつつも、誰一人、口にして他者に「問いかけること」ができなかったこととでした。それが、有史以来、最悪の悲劇を生み出します。

 Revansは、この状況を揶揄して、

「タイタニック号の悲劇が生まれたのは、誰もバカらしい質問ができなかったからだ」

 とまとめておられたそうです。

 もちろんタイタニック号の悲劇の真因は、言うまでもなく複数です。様々な技術的要因、組織的要因、自然要因などが重なったのでしょうけれど、「問うこと」の重要性を改めて考えさせる事例として、まことに興味深いことですね。

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 この世の中には、誰もが「常識」だと思っていること。誰もが「疑いをもたないこと」。そして、誰もが「想定の範囲内」だと思っていることがあります。

 そうした「あたりまえ」に対して、「バカらしい質問」や「空気を読まない問い」をなげかけること。「問いかけること」は大切なことです。そして、時にそうした「問いの欠如」が「悲劇」を導くことがあるから注意が必要です。

 最近、とみに思うことがあります。

 僕たちの社会には

「実は、あのとき、わたしは気づいていたんだけどね。ま、口にはしなかったよ。でもほらみろ。言わんこっつちゃない、やっぱりこうなったでしょ。わたしは、最初からわかっていたけどね」

 ということが多いものです。
 しかし、自戒をこめて申し上げますが、「後出しじゃんけん的」に、「実は、あのとき、わたしは気づいていたんだけどね。」というのは「ちょっとな」と思うのです。

 問うことをすれば、そのときは、短期的に「コンフリクト」は起こる。でも、問わずに、そのまま放置していては、長期的に「悲劇」を生み出してしまうことが多い。
「コンフリクト」と「悲劇」のどちらかをとれ、と言われれば、僕は迷わず「コンフリクト」をとるよ。
 
 だから、僕は言うよ。
 敢えて、問うよ。
 あのとき、僕は思っていたけどね、と言わないためにも。
 みんなの長期的な悲劇を避けるためにも。
 たとえ、そのとき、嫌われたとしても。

 年齢を重ねてきているせいか、なんか、最近、自分が「過激」になってきているような気もします。なんか、最近、一言一言がスパイシーになってきているような気も。大丈夫か、オレ(笑)。なんてことを、昨日も、学生のプレゼンにスパイシーなフィードバックをしながら、考えていました。

 でも、思いはこういうことです。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月26日 06:10


みんなで「水平分業」していた仕事が、ひとりに「垂直統合」されちゃう話:イラストも描けて、動画も編集できて、写真も撮れるライターさん!?

 先だって、あるWebを企画・ディレクションしている方と、「最近、どうよ?」なんて話をしていました。そのとき、その方がおっしゃっておられたのが、

「写真がある程度撮れるライターで、イラストもちょこっと書ける人って知り合いにいない?」

 という印象深い一言でした。

 曰く、

 現代はスマホの時代。すなわちそもそもユーザーが見る画面が小さいので、高解像度の写真とか、めちゃうまいイラストは必要がない。いや、クオリティの高いものはめちゃ欲しいけど、そんなにお金がない。もともとコンテンツも回転が速いので、そんなに支払う余力もない。

 でも、ある程度かっこよい写真とか、ちょこっとしたイラストはサイトには必要。そんなとき、写真がある程度撮れるとか、イラストがちょこっと描けるライターさんが助けてくれると、ずっとおつきあいさせていただきたい。
 でも、文章書ける人は世の中にたくさんいる。でも、イラストも写真もそこそこできるライターさんは、なかなかはいない。そういう人を探しているのだけれども、お近くにいない?

 とのことでした。

 僕はWebディレクションにも、ライターにも、写真にも、イラストの世界も全くの門外漢ですが、なぜかこの一連のやりとりは印象に残るものでした。

 そういえば、別のところでは、また違うWebディレクターがこんなことをおっしゃっていました。そのときはピンとこなかったのですが、よくよく考えてみると、件の方と同じ事をいっているようにも思えます。

 そこそこのクオリティでいいんだけど、チョロンと動画とって編集できて、数分のビデオをつくれるライターさん、中原さんの回りにはいらっしゃらないですか?

 今度は動画ね・・・。
 ふーん。

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   ・

 最近、こんなやりとりを連続していて、僕の脳裏にぼんやりと浮かんでいたのは、数ヶ月前にソーシャルメディアで話題になって見た「昭和のビジネスを再現してみた」というコンテンツでした。

昭和のビジネスを再現してみた
http://bbpromo.yahoo.co.jp/special/showa/

 このコンテンツは、1979年に総合商社に入社なさったFOXインターナショナル・チャンネルズ株式会社の元・代表取締役社長である小泉喜嗣さんが、昔を振り返り、「昭和のビジネスの仕事の様子」を語っていらっしゃるものです。

 インターネットも、メールも、スマホもない時代に、どのようにビジネスをしていたのか、非常に興味深く知ることができます。

 興味深いのはこのコンテンツの中で、小泉さんは、

「(当時は)もっと分担してやっていたということです。資料を探すのは資料を探す人、プレゼンするのはプレゼンする人、資料を作るのは資料を作る人、と完全な分業制だったんです」

「1人である程度のことは全てできるようになったので、働き方がそもそも変わりました」

 とおっしゃっておられたことです。ここが誠に興味深いことです。

 すなわち、昔だと、調べるのはAさん、資料づくりはBさん、発表するのはCさんという風に複数の人々で「役割」をわけて「水平分業」していたものが、コンピュータの普及とともに、「仕事が、そこそこできちゃうDさんひとりに垂直統合されてきた」ということです。
 コンピュータに入っているさまざまなアプリを使い、そこで研鑽をつめば、そこそこのクオリティで、ひとりで様々な作業を行い、垂直統合することができるようになってきました。

 もちろん、Aさん、Bさん、Cさんがそれぞれの領域でプロ級なのだとしたら、Dさんには単体で、Aさん、Bさん、Cさん、それぞれには勝てないかもしれません。
 でも、それぞれの仕事を、そこそこのクオリティで引き受けることのできるDさんの付加価値は、まさに「他の人の力を借りず(コストを下げて)ひとりでそこそこできる」というところです。
 別の言葉を用いるならば、これまでは、分業して、コストがかかっていた様々な作業を「垂直統合」することによって、ひとりで「価値」を創造できる。

 ここが、妄想力を駆使すると、先ほどのライターさんの需要の問題とリンクしてきているような気がしました。気のせいかもしれませんが。。。
 イラストも描ける、写真もとれる、動画もとれるライターさん。求められているのは、ライティング、写真、イラストという風にメディアをわけて表現をおこなうことなのではなく、「メディアによらず仕事ができる表現者」なのかな、と思いました。

 もし仮にそれが「是」だとして、かくして生まれてくるのは「何でも、そこそこできる人に仕事が集まってくる状況」です。ここらあたりは、まさに僕の専門です。
 仕事が高度化して、多重役割化して、それらを垂直統合することで付加価値がなければ仕事がとれない時代が出現してきた、ともいえるのかもしれません。
 そして、こうした時代をサバイブしていくためには、自分の専門性(ウリ)をコアにしながら、幅広い仕事に精通していることが求められるということではないかと思います。 単体のスキルをコアにしつつも、それに関連する複数のスキルを駆使して、バリューをだす時代、というのかな。ややこしいねぇ、、、(笑)昭和がうらやましいねぇ。

 世の中は、かくして、そこに生きる人のあずかり知らないところで「高度化」「複雑化」しています。

 人材を育成することが難しくなったのは、決して、教える人の怠惰、学ぶ人の怠惰が主な原因ではないという仮説も成立します。そもそもサバイブするために必要になる知識やスキルが「高度化」し、「そこそこの物事を垂直統合し、バリューをださなければならない状況」になってきており、そこに新規参入者がそもそも追いつけない、という仮説が成り立ちます。

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 今日は「水平分業していた仕事が、ひとりに垂直統合されてきた」話を書きました。繰り返しになりますが、こうした事態が、それぞれの業界で本当に起こっているかはわかりません。また、垂直統合された先に起こる弊害などの業界の実状を僕は知りません。

 皆さんの業界はいかがでしょうか?

 あなたの仕事は、ここ10年で
     垂直統合が進んできていますか?

 この後10年、あなたの仕事は
     誰かに垂直統合されませんか?
 
 ぶるぅ・・・シバれるねぇ。
 スパイシーだねぇ、生きるって。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月25日 05:49


ベンチャー企業の「成功」を決めるのは何か?:ココロザシ社長とギラギラ社長!?

 先だって、中原研大学院生の保田さん(博士課程)が中心になって、東大で「中小企業HRD研究会」が開催されました。

 中小企業の人材開発に関する英語文献を「ザザザとみんなで読もうぢゃないの」という会で、研究者のみならず、実務家の皆様が、20数名ご参加頂きました。まずは、ご参加頂きました皆様に、心より感謝をいたします。ありがとうございました。

 ちなみに僕も英語論文をひとつ担当させていただきました。が、あまりに多忙で、途中、研究会から中座しなければならないことがあったのは残念なことでした。こんな「地に足のつかない参加」は「本意」ではないのですが、心よりお詫びいたします。
 しかし、かなりバタバタした参加になりましたが、自分にとって、いくつもの発見のある研究会になりました。ありがとうございました。

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 研究会で興味深かったことはいくつもあるのですが、「へー」と思ったのは、自分が一度も研究をしたことのない「ベンチャー起業の成功 / 非成功を決める要因」に関する分析の英語発表です(ご発表者のSさん、お疲れさまでした)。
 僕はベンチャー研究には全くの門外漢なので、ここで述べられていることは、その「筋」では常識なのかもしれませんが「へー」と思いました。

 ご報告いただいた論文(Hormiga et al 2010)は、130社のベンチャー企業の調査研究です。

 この論文では、

「ベンチャー企業の起業家の知的資本は、ベンチャー企業の成功にどのような影響を与えるか」

 というリサーチテーマのもと、このテーマに対して実証的な量的分析をおこなっていました。

 ここで論文の中核概念となっている「知的資本」とは、ベンチャー企業の社長の個人的資質、人脈、さらには企業のもっている中核的な能力や他企業との連携関係をふくめた「壮大な概念」として利用されています(個人的にはやや壮大すぎるかなと思っていますが、それは、また別のところで)。

 分析の結果、ベンチャー企業の成功を決める要因は、

・ベンチャー企業が初期にどの程度の良好な評判を、「周囲」から勝ち取ることができるか?

・ベンチャー企業をいかにサポートするインフォーマルグループが発達しているか?

・ベンチャー企業経営者の固い決意

 などであることがわかりました。

 一方、「これで一山あてて、金儲けがしたい!」といったような「ベンチャー企業・社長の外発的動機付け」は、成功に対してマイナスに寄与することがわかりました。

 要するに、
 
「これで一山あてて、金儲けがしたい!」という動機で起業しても、成功しない!

 ということです。

 これらの発見をつきあわせ「妄想」するに、要するに言えることは

 ベンチャー企業は「孤独な一匹狼」では成功しない

 ということになります。

 一般にベンチャー企業というと「一匹狼」などを想像しちゃいますけれども、その成功には、「周囲のサポートや良好な評判」が必要です。とくに、社長の固い決意、すなわち「ココロザシ」のもと、周囲のサポートや評判をえながら、何とか成功させるものであるということになるのでしょうか。

 やっぱり、周囲がついつい応援したくなっちゃう「志ある社長」ー「ココロザシ社長」が、よいのでしょうねぇ。
 皆さんの周囲には「ココロザシ社長」はいらっしゃいますか?

 一方、僕はベンチャーは全くの門外漢ですが、いろいろな方々からいただいたご意見・感想によりますと、ベンチャー企業の経営者の中には、「ギラギラ社長」とでも形容するにふさわしい方が、少なくない数いらっしゃるそうですね。

「ギラギラ社長」とは「ひと山あてて、金儲けをすることしか興味がない臭」が身体全体から滲み出ているベンチャー企業の社長で、虎視眈々といろいろなところに接近し、ギラギラとした目で、いかに、それらを「踏み台」にして自分が儲けるかを考えている社長のことです(笑・・・逢ったこともないし、知らんけど)。

 この研究の知見によりますと「ギラギラ社長」は、ダメみたいですよ。成功しない。研究事実としてわかっているのですから、もしお心当たりの方は、どうかリフレクションをなさってください。

 皆さんの周囲には「ギラギラ社長」はいらっしゃいますか?
 だったら、ぜひフィードバックしてあげてくださいね。

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 今日はベンチャー企業では、ギラギラ社長ではいけないかもよ、という話をしました(は?笑)。面白いですね。

 この研究、データも130と限られていますし、また、概念的にも議論が必要な部分や課題はあるとは思いますが、いろいろ「考えさせられる論文」でした。興味深いですね。

 最後になりますが、会を運営してくださった指導学生の保田さん、そしてご発表頂いたみなさまに心より感謝をいたします。貴重な学びの機会をありがとうございました。

 それでは今日も長い一日を、ともに生き抜きましょう。
 そして人生は続く

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追伸.
 それにしてもまことに喜ばしいのは、今回のような英語をガリガリ読むような研究会の参加者のうち、半数以上が、民間企業におつとめの実務家の方々であるということです。皆さん大変クオリティの高いレジュメをおつくりなっておられました。さすがですね!、お疲れさまでした。
 個人的には、リサーチマインドのある実務家の方々が、さらに増えていき、この領域で、どんどんと面白いことをなさってくださることを願っております。

 Have fun!
 どうぞ素晴らしい知的な旅を!

投稿者 jun : 2015年6月24日 05:38


「自分のやりたいことを探している」ときは「自分のやってみたいことをやってはいけない」!?

 先日、河合塾さんのご依頼で、都内某所で講演をさせていただきました。当日の内容は、一般の高校1年生・2年生向けのもので

「仕事の世界は今後どのように変わっていくのか?:今、高校生は何ができるのか?」

 という内容でした。

 講演といっても、70分いただいたうち40分以上は、「さっきまで知らないもの同士だった聴衆の方々に御協力いただき、突然グループワーク」をしていただいているので(!)、僕は、あまり「喋っていない」のですが(高校生相手に、この内容で、講演スタイルはぜったいに厳しいでしょう? 少なくとも、僕は、そんな話術はないです・・・笑)、ともかく、高校生たち、親御さんたちのご協力もあり、何とか、無事終えることができました。御協力、まことにありがとうございました。

 また、このような機会をくださった河合塾・教育研究開発本部のみなさま、伊藤さん、石鍋さん、竹内さん、成田さん、片山さん、堀上さん、高井さん、谷口さんらには心より感謝をいたします。ありがとうございました。

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 僕が今回の講演?ジャジーなセッション?で、高校生におつたえしたかったことはいくつかありますが、その中のひとつに、

 「やりたいことがわからないとき」はどうするか?

 ということがあります。

 この手の話題になると、社会人の中には、「オラオラモード」で、「わたしの成功物語」の講釈をたれる人もいますね。

「おれって、若い頃からスゲーだろ。だから成功するんだぜー。すごいんだぜー」

 みたいな(笑)。
 ま、気持ちもわからんではないけど。。。「いまだ成功・非成功の舞台にすらのっていない高校生」に「成功している社会人」として相対しているという「非対称な権力関係」の中で、その手の「オラオラトーク」は繰り返されます。

 しかし、僕は、そういう語りをしたくはありません。
 ていうか、そんなに自信ないしね。

 「てめー、40近くになって、何、青臭いこといってんだ!」

 と便所スリッパで殴られそうだけど、「30になっても、40なっても、正直、自分のやりたいことなんか、自信もてないし」・・・。たぶん、60こえても、僕は「やりたいことが見えなくなった」とか言ってそう(笑)。

 まー、ともかく、今回の機会は、なるべくそうならないように、気をつけながら、お話をしたつもりです。

 講演?では、

1.若い人は、みんな「やりたいことがわからない」(ほんとのこというと、40近い僕ですら、わかんない)。だから全然OK。たかだか15年しか生きてなくて「やりたいことがわかってますー」という方が、むしろ「異常値」!「やりたいことがわからない」全然OK。

2.でも「みんな、やりたいことがわからない」でとりあえずはいいけど、その「後」の行動は、「やりたいことがわかる人」と「やりたいことが一生分からない人」は違うよ。どっちを選ぶかは自分できめてね。

 というお話をしました。一部は、中原研博士課程の大学院生・高崎 美佐さんの研究知見をご紹介させていただきました。

 「やりたいことがわからない」・・・僕自身も、まさに、高校時代は、そういう口でしたので、この気持ちはよくわかります。いや、本当に。世の中のことなんか、何にもわかってなかったし、大学4年生くらいになるまでは「霧のなか」にいた気がします。ま、今も「霧の中」とも言えるけど(笑)。濃霧よ、まさに霧の摩周湖!ひゅるるるー。

 しかし、講演でお伝えしたように、

「やりたいこと」を見つけるヒントは、「やってみたあとに率直に感じたこと」と「やってみたあとに感じたことに対する自分の思い(心の声)」との「ズレ」の間にしかない

 ということです。

 結局、人は「差異(ちがい)」や「違和感」を感じることでしか、「次の行動の指針」を認識できない、ということですね。
 だから、心ゆくまでまずは「何でもかんでも手あたり次第にやってみて」大いに「違和感」を感じなさいな(笑)。大丈夫、「違和感」を感じたくらいじゃ、人は「シオシオのパー」にはならないし、「手遅れ」にもならないから(笑)。

 ちなみに、甚だしい誤読と文脈ジャンプを許すのなら、「差異に着目した思考」のタネを、ソシュールという人は言語学という分野で播いたのであり、そういうものの見方が「構造主義」につながるのでは?ほら、人文社会科学も「みんなの課題」にすぐにつながるでしょう?(笑)あのね、最近、野蛮な議論がまかりとおってるけど、人文社会科学、きっちり勉強してから「役に立たない」と言いなさい(笑)。

 話をもとに戻すと、そういうことなんで、とにもかくにも、「何かをやること」を「先延ばし」せずに「やってみること」。そのうえで、なんか違うな、と思えば、違うことをやってみればいいし、「これかな」と思えば、とりあえずやりつづけてみること、が大切かと思います。

 つまり申し上げたかったのは、

「やりたいこと」を見つけるとは、「アクション」と「リフレクション」の連鎖の中にあるのだよ、、、

 ということです。
 もちろん、一般の高校生、しかも高校1年生、2年生相手に「アクション」だの「リフレクション」だのとは、申し上げません。当日は、それとは違う語り方で、高校生にお話をしてみました。

  ▼

 ところで、もうひとつの観点で「やりたいことをみつける」うえで、僕が、いつも学生のみなさんにアドバイスをさせていただいていることがあります。それを少しだけご紹介をしました。

 アドバイスといっても、たいした役に立たないことですが、「自分のやりたいこと」を考えるうえで、常に「自分」起点に考えてしまう方、すなわち「自分、自分、自分モード」に入っている方には、ぜひ、その軸をいったん「ズラ」してみることをおすすめしております。いったん「ズラ」すんだよ、そのための話だよ。

 それは

「自分のやりたそうなことをやってみること」も大切なんだけど、それよりは「誰かのためになること=他人に貢献できることをやってみる」と、ヒントになるかもよ

 ということです。

 と申しますのは、結局、「自分のやっていること」が「仕事になる」というのは、「誰かのために貢献し、そこに対価が生じる」ときです。

 ワンセンテンスで申し上げますと、

仕事を決める上で、大切なのは「自分のやりたいこと」よりも、「誰かのために貢献できるかどうか」

 なのです。「誰のためにもならんことをすることが大切!」だと自信をもって思える御仁は、どうぞそのまんま突き進んでください。ここで僕がお話ししたいのは、そういう「自信」のある方ではなく、「自分のやりたいこと」に考え疲れてしまった方です。

 要するに申し上げたいことは、仕事のことを考えるときには、常に「自分のやりたいこと」軸と同時に「誰かのためになるか」軸という2軸、そして、「交点」を意識しておくことが重要なのではないかと思うのです。そうしてみると、見えてくるものもでてくるのあkな。と。

 そこで、「自分のやりたいこと」に考え疲れた人というのは、軸をズラして、今度は「誰かのためになるかならないか」という視点で考えてみるとよろしいのかな、とも思っちゃたりします。しかし、ともすれば前者よりも後者は忘れ去られがちですね。

 今、下図のように、縦軸に「自分のやりたいこと」、横軸に「誰かのためになること」をとると、そこには4つの象限ー「4つの可能性の空間」がわかれます。

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左上の「◎ゾーン」は「OK!」、右下の「ペケゾーン」は「論外」として、びみょーなゾーンが二つ生まれます。ひとつは「ひとりよがりゾーン」と「長続きしないゾーン」です。そして、もっとも僕が深刻だと思われるのは「ひとりよがりゾーン」です。

 ひとりよがりゾーンとは、「自分のやってみたいこと」ではあるけれど「誰のためにもならないこと」をやり続けてしまうことです。この場合は、「自分がやりたい」という熱意があるだけに継続はしてしまいますが、「誰のためにもなっていない」のだから、ここに「対価は発生しません」。なぜなら、くどいようだけど、「誰のためにもならない」からです。

 そして、個人的には、ここがもっとも「危険」のように感じるのです。なぜなら「長続きしないゾーン」は、もともと「やりたいこと」ではないため、おそらくは、そもそも長続きしないのですが、先ほどの「ひとりよがりゾーン」は、自分がやりたいがために、「やめること」が遅くなるからです。

 自分のやりたいことがわからないときは、
 まずは、他人のためになることをやる

 僕がそうアドバイスをさせていただくのは、その理由です。

 まずは「誰かのためになること」さえやっていれば、いろんな経験ができる。しかも、誰かに感謝されて承認されることも増える。
 そのうえで、折りに触れて、その経験を振り返り、それが本当に自分にフィットするかどうかをリフレクションすればいい。そのリフレクションで感じた「ズレ」や「フィット感」の中にこそ、やりたいことを見つけるヒントがあるよ、ということです。

 ▼

 今日は、高校1年生、2年生向けの「やりたいことを見つけるヒント」を書きました。
 さんざんぱら書いてきて、つくづく思うのは、

「やりたいことが見つかっていない」という高校生の悩みは、シンドイだろうけど、貴重だよなということです。「やりたいこと」よりも何も、「やらなきゃならないこと」に追われる身としては、まことに羨ましい(笑)。

 自分たちは「まだ何者でもない」。
 だからこそ「何者にでもなれる」。
 それって、素敵なことだよな、と思うのです。

 やりたいことが見つからない、のはシンドイことかもしれません。でも、大丈夫、いつかは、何かをやるときがきます。そのときまでは、心おきなく「自分のやりたいこと探し」を愉しんでいただけたらと思います。

 大丈夫だよ、この世に、晴れぬ霧はない。
 動け、動かせ、世界をロックせよ!

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2015年6月23日 06:06


金閣寺に住んで、娘がコスプレ、息子がゲーマーなニッポン人!?:「ステレオタイプ化された現地人」を超えて

 先だって、大学院ゼミで、大学院学生の島田徳子さんが英語文献発表をしてくださいました(感謝!)。
 大学院生の皆さんと読んだ文献は、Morris et al (2014)、Research in organizational behavior. 34 p189-215で、「海外赴任者の異文化間学習と訓練への応用」に関するものでした。

 海外赴任者(海外赴任予定者)に対する教育、学習としては、かつて、拙著「経営学習論」でも扱ったことがありますし、ここ数年、ダイヤモンド社さんとの共同研究でも、「海外赴任者の縦断調査研究・アセスメント開発研究」を継続させていただいております(ありがとうございます!)。

 この研究で指摘されている内容は、我々のデータと同じ所も数多かったのですが、一方で、かなり違うところもあり、興味深く読ませていただきました。

  ▼

 個人的に最も興味深かったのは、

 海外赴任者が、海外赴任先で出会う「現地の人」は、誰一人として「ステレオタイプ化された現地人」ではない

 という指摘です。

 たとえば、あなたがアメリカに赴任したという場合、そこで出会うアメリカ人は、僕たちが勝手に持っている「ステレオタイプ化されたアメリカ人」ではく、それぞれ固有の人生・経験を生き、それぞれに違う人である

 ということです。

 ま、アタリマエなんですが、改めて、なかなか考えさせられますね。
 これは立場を逆にしてみれば、話はわかりやすいですね。

 たとえば、ある外国人の方が日本に赴任してきた場合、そこで出会う人は、「ステレオタイプ化された日本人」ではありません。話をわかりやすくするために、非ビジネス的に、過剰に戯画的に描き出すならば、日本に赴任してくる外国人の方々が出会う日本人は、

 金閣寺みたいな家に住んでいて、庭は枯山水で、自宅のお風呂にはフジヤマの壁画が描かれていて、娘がコスプレ、息子がゲーマな日本人

 ではないわけです(笑)。

 日本に赴任してくる外国人は、「それぞれに異なる日本人」ーつまりは、固有の人生を生き、固有の意味体系のもとで暮らしている、固有名詞をもった複数の日本人と相対することになります。

 そして、もしそうであるならば、

 ステレオタイプ的な日本人は、ちょめちょめだから、ほげほげすべし

 的な赴任者向けの教育訓練は、全く役に立たないとは言いませんけれど、注意深く選択される必要があります。

 今日の話は、アタリマエといったら、アタリマエですが、世の中では、これが逆になることがあります。たとえば赴任前研修などでは、

 ちょめちょめ人はホゲホゲだから、にょろにょろするべき

 みたいなことが教えられたりすることもあります。
 知らないよりは知っていた方がいいこともあるので、それらもまったく役に立たない、ということはないのですが(特に商習慣や雇用慣行に関する事前知識はぜったいに必要でしょう)、教育するべき内容を注意深く選択しなければ、最初から人種のバイアスにからめとられ、正確な判断を見失ってしまうと言うことですね。

 結局、「ステレオタイプ化された認識の枠組み」に頼ってすぐに結論をだすことを「うーん、うーん」と我慢して(専門用語を使って言うならば、認知的完結欲求に抗うことですね)、その場の状況を観察しながら、状況を判断し俯瞰的な目をもちながら(Cultural Intelligenceの中のメタ認知能力をみつこと)、その場の状況にもっともあった判断をしていく必要があります。

 ワンセンテンスでいえば

「曖昧さへの耐性」と「メタ認知」

 ということになりますね・・・。
 そして、、、ここでわたしたちは奇妙なことに気づきますね。
 これらの能力は、何も海外赴任だけに関係してくることではないからですね。要するに現代社会で生きていくためには、海外赴任であろうと、そうでなかろうと、
 
 「見通しのきかないもの」とつきあい
   状況に応じて即興的な判断をなしうる能力

 が求められるということです。
 ま、これはロボットでは無理かもね。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月22日 08:40


【〆切間近!】就職、採用、キャリア開発、人材育成の「最前線」カンファレンス「大学生研究フォーラム2015」最終のご案内

「就職、採用、キャリア開発、育成の「最前線」を1日で知る!」カンファレンスー大学生研究フォーラム2015の参加申し込みが最終段階に入りました。今年は「2015年7月24日(金)」の開催、〆切間近です。以前一度このブログでご案内していましたが会場が満員になってしまいます。どうかお早めにお申し込み下さいますよう、よろしく御願いいたします。

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 大学生研究フォーラム2015へのお申し込みはこちらです!
 http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/transmission/forum/outline/

 以前にも申し上げましたが、今年のカンファレンスのテーマは、

 大学教育に必要なのは「プロジェクト」か「プロジェクト学習」か

 です。

 企業の採用活動が前倒し化され、また、大学に職業教育が求められ始めるなかで、大学に「プロジェクト活動的なもの」が増えています。そこで、わたしたちは、敢えてこうした状況を逆手にとらえ、「プロジェクト」「プロジェクト学習」という対比する用語をもちいながら、大学ー企業のあいだをどのように「橋渡し」するかを考えたいと思います。

 当日のプログラムは、下記のとおりです。
 今年もやりますよ「ジグソーカンファレンス!」
 個々のピースセッションにわかれて、最後に大会場で、500人の参加者の方々が、それぞれ聞いてきたこと、考えたことを、わかちあいます。どうぞふるってご参加いただけますと幸いです。

daigakusei_kenkyuforum2.png

9:00 開場

9:30~9:40 フォーラム趣旨説明
溝上 慎一(京都大学 高等教育研究開発推進センター)

9:40~10:40 基調講演
「21世紀の学びのデザイン:サスティナブルからレジリエントへ」
 美馬 のゆり(公立はこだて未来大学)

10:40~11:00 主催者挨拶
(京都大学、東京大学、電通育英会)

11:00~11:20 ジグソーカンファレンスの愉しみ方
中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

11:20~12:30 移動・昼食

12:30~14:00 ピースセッション1
【1-1】【1-2】どちらかにご参加いただけます
【1-1】社会と直結する力を育てる
   ファシリテーター:
   村上 正行(京都外国語大学 マルチメディア教育研究センター)

①「未来を創る『主体的な学び』を実践する」
   平山 恭子(一般社団法人Future Skills Project 研究会事務局/
   株式会社ベネッセコーポレーション)

②「自己を社会の中に文脈化するリフレクション手法:科目『体験の言語化』の開発」
   岩井 雪乃(早稲田大学 平山郁夫記念ボランティアセンター)

【1-2】大学・企業・地域のコラボレーション
   ファシリテーター:
   中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

①「企業と大学のコラボ授業:なぜ大学でリーダーシップを教えるのか?」
   日向野 幹也(立教大学 経営学部)

②「企業と大学のコラボ授業:プロジェクトベースドラーニングは何をもたらすか?」
   見舘 好隆(北九州市立大学 キャリアセンター)

14:15~15:45 ピースセッション2
【2-1】【2-2】どちらかにご参加いただけます

【2-1】地域と学校教育との接点
   ファシリテーター:
   村上 正行(京都外国語大学 マルチメディア教育研究センター)

①「これまでの地域開発の研究から学校の地域連携事業がどう見えるか?」
   松永 桂子(大阪市立大学大学院 創造都市研究科)

②「地域の未来を切り拓くグローカル教育プロジェクト」
   中村 怜詞(島根県立隠岐島前高等学校)

【2-2】「揺れる社会への入口」
   ファシリテーター:
   中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

①「採用2020:採用学の視点から見えてくるトレンド」
   服部 泰宏(横浜国立大学大学院 国際社会学研究院)

②「企業・採用担当者座談会」

16:00~16:45 インテグレーションセッション
   中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

16:45~17:15 ディスカッション
   中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)
     1.ピースのシェア
     2.インテグレーション・ダイアローグ

17:15~17:45 ラップアップ
   溝上 慎一(京都大学 高等教育研究開発推進センター)

 夏の京都でお会いしましょう!
 I can't wait!

 大学生研究フォーラム2015へのお申し込みはこちらです!
 http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/transmission/forum/outline/

投稿者 jun : 2015年6月19日 05:16


「竹槍」で勝とうとしない、「根性」に逃げない!? : 「プロジェクト」として「育児」を考える!?

 この4月にカミサンが育休を終え、会社復帰をしました。というわけで、この春から、我が家の子育ては「地方出身・共働きの爆走育児」になりました。
 僕は北海道出身。カミサンは奈良出身。双方、地方出身で、首都圏に頼り?になるようなジジババはおらず・・・カミサンも僕も、フルタイムの仕事をこなしながら、小学生の8歳・TAKUZO、保育園に通う1歳・KENZOを抱え、毎日「爆走」しています。
 いやー、「爆走」といいましょうか・・・
 まさに「爆速」「モーレツ」「四面楚歌」!ひゃっほー(笑)

「子ども二人を両手に抱えて、ブレーキのないジェットコースターに乗っちゃったみたい」
 どひゃー(笑)。

「上の子が牛乳をこぼしているときに、下の子どものオムツのウンコが漏れて、同時に、宅急便のピンポーンが鳴った感じ?」
 どひゃー(笑)どないせーっちゅうねん!ウンコ、今、マジ、やめて。

 しかし、「自由意志による選択」で現在の家族形態になったのですから(笑)、この「爆走」っぷりに何も申し上げることはありません。まぁ、「大変さ」はありますが、あとは、家族全員で「走りきるのみ」です。ただ、それだけよ。だって、戻れないわい。

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  ▼

 ただ、「走りきる」といっても、そこには一定の「戦略」が必要だなと思います。
 けだし「地方出身・共働きの育児」と申しますのは、ワンセンテンスでいえば「プロジェクト」に似ていると思うのです。僕は「ジェンダー論」が専門でも、「キャリア論」が専門でもないので、下記はひとりの「親の経験談」として書きます。そのことをご承知のうえ、どうかお読みクダサイ。

 プロジェクトとしての「共働き子育て」は、夫婦がともに子育てをするにあたり、

1.自分はどういう子育てをしたいのか?のすり合わせ(ビジョン共有)
2.やるべきことと、やらないことを決めてリソースを確認すること(リソース確認)
3.リソースに応じて役割分担を決めること(役割分担)
4.足りないならばいかに外部資源(労働力)を動員するかを考えること(外部資源動員)
5.折りに触れ自分たちの子育ては今いかにあるのか?を振り返ること(リフレクション)

 をしていきつつ、「子どもを育てる」というアウトプットを追求していく試みであるように感じます。

 子育てを「プロジェクト」にたとえるアタリがすでにもう許せない方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも僕にはそのように思います。これは僕の専門が強い影響を与えているかもしれない。

 また、こんなことを申し上げると、カミサンは「あんたはあまりやってない!」と言いたくなると思います。ごめんよ、埴輪!、じゃなくて、ハニー(笑)

 また、うちの「子育てのアウトプット」が良好かどうか(?)は議論の分かれるところだと思います(TAKUZOも、KENZOも素直な子ではありますが、靴下ポイポイです)。

 それらの課題は、それはそれとして反省し、引き受けるとして、ともにこのプロジェクトを達成したいと、心から願っています。

  ▼

 反対に「共働きの育児」で、個人的に「これは避けたいよね」と思っていることがあります。
 それは上記のようなことをあまりネゴらずに、「戦略なき爆走」を行うことです。それでもいけるかもしれないけれど、うちは無理。少なくとも我が家に関して言えば、無戦略に「共働きの育児」に取り組むことは、「デスマーチ直行」です。
 要するに「長くはもたない」。別の言葉を使うならば「サスティナブル」じゃない。うちの場合は、すぐに行き詰まって、「デスマーチを夫婦ともども歩むことは確実」なので、それは何とか避けたいと思っております。

 やや比喩的に申し上げますが、「地方出身・共働きの育児」は(少なくともうちの場合は)、
 
「竹槍」では勝てません!
「竹槍」じゃ、無理。
「竹槍」で突撃して勝とうとしちゃダメです

 それに

「根性」で乗り切るには長すぎます
「根性」じゃ乗り切れない

 そして

「相手への思いやり」だけではもちません

 また、

「子どもへの愛情」だけでは、達成できない

 のです。

 もちろん、「相手への思いやり」とか「子どもへの愛情」が「不要」だと言いたいわけではありません。それは最低「ミニマムの基盤」です。
 むしろ、それらを基盤として、夫婦双方が、いかに考え、リソースをだしあい、課題解決をしていくのか。そのことが重要であると思います。

 ま、偉そうにいいますが、それがどの程度できているかはかなり怪しいのですが。。。
 改めて、ごめんね。

 ▼

 今日は「地方出身・共働きの育児」について書きました。
 その要旨をワンセンテンスで書くと、

 「努力や根性」に逃げない

 ということです。
 努力と根性はまことに尊い。だからこそ、それに甘えてはいけないと僕は思うのです。

 「相手ひとりの努力と根性」に甘えるな

 とも言えるかもしれないね。

 ちなみに、このあたりは、研究室のM2の浜屋さんが、まさにこのテーマで研究をなさっています。浜屋さんの研究テーマは、「共働きの育児行動が、仕事にいかに活きるか?」です。彼女の研究の進展を指導教員としても、またひとりの父親としても、本当に心から楽しみにしています。ぜひ心置きなく、よい研究をなさっていただきたいと思います(研究の知見は、来春に出版予定の「人材開発研究大全」に収録ということになると思われます)。

 我が家がこの「プロジェクト」を達成できるかどうかはまだわかりません。が、しかし、何とか頑張って、最後までプロジェクトをともに成し遂げたいと思っています。

 楽しさと苦しさの交わる「たのくるしいプロジェクト」になるとは思います。
 どんなプロジェクトでも、それを「楽しもう」とするところに、光明が生まれると僕は信じています。
 そう、終わらないプロジェクトは、ない。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月18日 05:29


新任マネジャーに必要な2つの「行動」とは何か!?

 かつて拙著「駆け出しマネジャーの成長論」で、

「新任マネジャーが陥りやすい最も大きな罠は「目標咀嚼」である

 ということを書きました。

(こちらの著書、各社のマネジャー研修の参考書や、マネジャー予備軍の方々の勉強会などでテキストに使っていますとの御連絡をいただいております。先だっては、静岡県立大学の国保先生らが行っている育休MBAの試みで、テキストに使ってくださり、またNHKさんで「目標咀嚼」という言葉をご紹介いただきました。まことにありがとうございます!)


 他にも様々な「罠」があるのだけれども、新任マネジャーの場合は、ここでつまづくと、他の「罠」にもハマりやすくなる、なると。

 ここでいう「目標咀嚼」とは、「自分の管理する職場の目標・めざすべきところを、相手にわかりやすく理解させて、腹に落としてもらうこと」です。そんなアタリマエのことをと思うかもしれませんが、これがなかなかシンドイものです。

 あなたが「目標を咀嚼させる側の人間(=マネジメント側の人間)」ならば、

 Said=Heard(自分の言ったことは、部下聞かれてるはずだろ!)
 Heard=Understood(聞かれてることは、腹におちてるだろ!)
 Understood=Acted(腹におちてることは、行動でも示せるだろ!)

 と思いたいです。

 が、もし仮に、あなたが「目標を咀嚼される側の人間(=部下側の人間)」ならば、こう思うはずです。

 Said≠Heard(なんか言ってるけど、聞いちゃいねーよ)
 Heard≠Understood(耳にはいっちゃいるけど、ピンとこないね)
 Understood≠Acted(ピンとこないもんは、動けないね)

 嗚呼(笑)。立場の違いによって、目標咀嚼はかくのごとく違った見えをしてしまうのです。

  ▼

 ところで「目標咀嚼」には、あるディレンマが潜んでいます。
 それは、「職場の目標とは、多くの場合、会社の目標からブレークダウンしてつくられていること」が多く、「会社から与えられた職場の目標」自体に新任マネジャーが心から納得できている場合も、そう多くない、ということです。

 中には「その目標でえーんかいな」「その目標、そもそも無理ちゃうの?」と思わざるを得ない目標も存在し得ます。それをかかげて、部下を動かさなくてはなりません。 
 すなわち、新任マネジャーは、ここで「自分が決めたのではない、組織が決めた目標を、部下に対して理解させなければならない」というディレンマの中に生きることになります。マネジメントとは、かくごごとく「ディレンマの塊」であり、グレイを生きるのです。

 ですので、まずは「新任マネジャー」が為さなければならないことは、
 「会社から与えられた職場の目標」を自分自身が、よく理解して、咀嚼することです。その上で、それを自分の言葉で話すことができるようにならなければならないということになります。

 ▼

 もうひとつ新任マネジャー期に大切な行動も、「駆け出しマネジャーの成長論」の執筆以降に、少しずつわかってきました(研究の成果は「人材開発研究大全」に収録される予定です)。
 これは、研究室OBの関根さん、浜屋さん、斎藤さんらで今年は取り組む、某社での調査の結果です(某社のK課長、T部長に心より感謝いたします)。

 その結論をワンセンテンスで申し上げますと、

 新任マネジャーにとって最も重要なのは「観察」である

 ということになります。

 新任マネジャーは、配属後、自分の職場、職場の人間模様、職場の仕事の流れ、商圏の特性、お客様の特性、などを、あたかも「フィールドワーカー」のように自分の目を駆使し、足で動きまわり、「理解すること」が求められます。

 このような徹底的な「観察」を通して、しかるのちに「職場の目標」や「職場の戦略」を決めていくことになるのですが、こうした情報収集行動は、あまりにも基本的すぎるのか、皆が行っているというわけではありません。なかには、「情報を収集せず、観察もせず、すぐに戦略をたてはじめる方」も少なくないのです。

 もちろん、マネジャーは部下からそうした情報を収集することもできるのですが、やはり新任の場合には、いったんは自分の手と足で動き回り、「現場粘着情報:現場に行かなければわからない、現場ならではの貴重な情報」を収集してこなければならない、ということになるのかもしれません。

  ▼

 このように新任マネジャーの駆け出し期の困難や克服のポイントが、徐々にですが、わかってきています。要するに「動き出す前に、現場を観察して、作戦会議をしましょう。現場としっかり向き合って対話しましょうよ」ということなのかもしれません。マネジャーになるような方には「前のめり」の方が少なくないので「動き出す前」が重要になるのかもしれませんね。このことは書いてしまうとあたりまえのことですね。でも、あたりまえのことだけれども、なかなかできない。それがマネジメントかもしれません。

 今後は、こうしたマネジャー研究の知見をもとにしながら、さらに新しいフィールドに挑戦したいと考えています。

 今度、僕が「志ある某社の方々」と話しあい(Tさん、Sさん、貴重な機会へのお声がけをありがとうございます)、某社 × 東京大学中原研の共同研究で挑戦しようとしているのは、

「オリンピックを背景として、人手不足時代に求められるマネジメント:多様な人材を活用するマネジャー」

 に関する研究です。

 言わずもがなですが、「人手不足」が大きな社会問題になってきています。「人手不足」時代には、「採用して、すぐに離職」ではなく「採用して、しっかり定着させ、できれば現場のリーダーとして働いてもらうくらいのマネジメント」が、求められます。

 こちらは、相互にやりたいことを話しあいながら、研究計画を練っている段階ですが、もし前に進めるようでしたら、「世界初?の研究」、しかも「現場に貢献できる研究」にしていきたいと考えています。

 時間に限りがあるけれど
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月17日 06:04


「いかに見るか」と「何を見るか」!? :N=3000とN=1の狭間で僕が思っていたこと

 僕がまだ学部学生の頃、学会などでは「質量論争」?というのがあったような記憶があります。分野にもよるのでしょうけれど、僕の分野では、当時、質的研究が紹介されはじめた頃で、人々の注目を集めていました。
 学会のシンポジウムなどでは、「質でいくべきか、それとも量か」といったようなテーマがかかげられ、両陣営のオジサマたちが熱のこもった議論をなさっていました。

 僕はというと、最初のうちは「質」に興味をもっていたような気がします。が、少し目が醒め、どちらかというと「ニュートラルな立場」を築くにいたるまで、それほど時間がかかりませんでした。
 
 世の中の議論を聞いているうちに、まことに恐れ多く、申し訳ないことですが

「僕には、どっちも話も、なんか、のれないんだよね」

 と思うようになったのです。

「自己の独自の世界観」を「他方」に押しつけ、「だから、おまえはわかっていない!」みたいな、いわば「宗教論争」のような議論には、小心者の僕は、すこし気後れしました。だって、怖いんだもん。

 また、議論の仕方が「ロジック」というよりは「感情」に左右され、まことに申し訳ないのですが、「品」が失われていることも少なくなく、ビビリな僕は、いたたまれなくなってきました。あのさー、落ち着こうよ。

 かくして、他の方はまったくご自由になさればよいとは思いますが、自分自身は「方法論の議論をする / かかわるのはやめよう」と思いました。
 実際は、そうこうしているうちに「質か? 量か?」という問いの立て方はめっきり少なくなったと記憶しております。

  ▼

 思うに「質か、量か」という認識の枠組み自体に、僕が興味をもてなくなった最大の理由は、それらの議論が「何を言うか?」と切り離されてなされることが多かったからです。「何を見るか」「何を残すか」というコンテンツから切り離されて、方法論が議論されるという奇妙な事態が、どうにも僕には気後れしてしまいました。

 たとえばフォーラムなどをするのでしたら、「ある同じ(ような)対象を見ている人たちが集まって、そのうえで、質か量か?」なら十分その意義が理解できます。
 しかし、実際はそうではありません。
 「全く違う対象を見ている方々」が集まって「みんな違って、みんないい」的な議論になったりすることも少なくありません。
 時には、「質量論争自体に興味があって、自分としては研究で何も見ていない方」ないしは「自分としては質的研究を一度もやったことがないけれど、質的研究が何か?には一家言もっている方」が集まって、まことに「微笑ましい議論」をなさっていることもありましぃた。

「やりたいことによって、何の道具を使うかなんか、自由にすればいいじゃない」
「質か、量か、どちらがいいかなんか、やりたいことによるんじゃないのかなぁ」
「質だの、量だのを他人に押しつける議論をするまえに、自分で何を見ているのかを教えてよ」

 まことに恐れ多くも、当時、学生の僕はそう思っていました。
 本当に生意気な学生で申し訳なく思います。

 それに、もうひとつは「研究の面白さ」って「N」によるのかなと考えていたところもあります。

 一般に、量的研究は「浅くてペラッペラ」と言われますが(!?)、それは本当でしょうか。僕にはそう思えません。それは「問いの立て方」による。
 「N=3000」でも、読み手にぐぐぐと深く差し込んでくる研究はあります。もちろん「N=3000」でも「それわかって、いったい、何が面白いの?」という研究も少なくありません。「そんなの、N=3000まで増やさなくても、みんなわかってるよ」(泣)自戒をこめて申し上げますが、そういう研究を生み出しかねない危険が量的研究にもあります。

 逆に「質的研究」は「深い」と言われますが、本当にそうでしょうか。「N=1」の中に「今を生きている人々」の「生の教え(Eisner 1991)」が宿っている研究がたしかにあります。こういう研究には、ぐぐぐと引き込まれます。

 一方で、「N=1」で確かに「深い」んだろうけど、先行研究のしめしたフレームを、個別具体的な別々の対象で再認しつづける研究もあります。

「ちょめちょめの領域でも・・・ほげほげの言っていることが確認できた」

 たしかに深いけど、それって「イシュー」なんでしょうか。
 僕にはわかりません。

 要するに、質量論争とは一線をかくし、僕がもっとも心を砕きたいのは「いかに見るか」ではなく「何を見るか」であり、「何を残すか」です。
 要するに、ワンセンテンスでいえば「問いの立て方」。

 僕の場合でしたら(僕の問いの立て方は極端です)、

「現場の人々に味わってもらえる問いとは、どんな問いなんだろう?」
「現場の人々に刺さる問いとは、どんな問いなんだろう?」

 を常に考え、「どんなメッセージを残すか?」のみを考えたいと願います(くどいようですが、僕の問いの立て方は極端なので、他人にはおすすめできません)。
 もちろん、100回やって数回くらいしかうまくはいきません。が、できるのだとすれば、自分の時間は、そうしたことに使いたいと思います。僕に残された時間は、そう長くはありません。

  ▼

 今日は「質か、量か」という、少しヘビーな内容について書きました。これは分野によってもいろいろあるんでしょうから、他の分野のことについては、僕は知りません。それぞれの領域の議論は、それぞれのプロフェッショナルな方々におまかせします。

 ちょっと前のことになりますが、先だって、某学会を通り過ぎたとき、「質か?量か?」というシンポジウムの垂れ幕をみて、懐かしくなりました。
 20年前より、どんな風に議論が発展しているか、見てみたい気持ちもありましたが、TAKUZOとKENZOのお迎えのため、家路に急ぎました。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2015年6月16日 06:22


人材開発の仕事は「課題発見8割」である!?

 人材開発の仕事は「課題発見8割」である

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 今期の大学院の授業では「Foundations of Human Resource Development」という、人材開発(HRD)の教科書のような本を輪読しています。

 購読文献の選定にあたっては「Handbook of Human Resource Development」という論文集とどちらにしようか少し悩みましたが、こちらの論文集の方は、OBの関根さんが自主勉強会で取り上げて下さったので、敢えて、前者の教科書の方にさせていただきました(感謝です!)。

 前者の方、理論部の記述にもう少し丁寧さと整理が必要かとは個人的には思いますが(扱われている対象領域が3つと限られていることとシステム論の記述は少し粗いと思います)、まぁ、理論部分から実践まで幅広くカバーされているので、「大学院レベルの初学者」が数多く受講してくる授業としては、適していたのかなと思っています。
 
 そして、この本を読んでいて、いつも思うのが、上記の命題、

 人材開発の仕事は「課題発見8割」である

 です。

 もちろん、本の中に、この命題がそのまま登場してくるわけではありません。が、本の中で繰り返し述べられるのは、人材開発の「解決策」ではなく、人材開発上、何を「課題」とするのか、という点から、授業をしながら、ついつい、このことを考えてしまいます。

 ▼

 ワンセンテンスで述べますと、他の仕事同様、人材開発の仕事もやはり「課題解決」そのものである、ということです。
 
 要するに、その仕事の骨格は、

 問題1.解決して意味のある「課題」を自ら設定せよ
 問題2.問題1を「解決」せよ

 で表象されるということですね。
 もう少し詳細に記述するのだとするならば、

問題1.解決して(組織にとって)意味があり(成果を残すことのできる)(人材開発上の)「課題」を、自ら設定して(組織内の合意をとりりつけよ)

問題2.問題1(で設定した人材開発上の課題)を(社内外のリソース・打ち手を活用しながら)「解決」して、(評価せよ)

 ということになります。ここで重要なのは、言うまでもなく前者の「問題1」です。なぜなら、ここで「課題の設定」が適切に行われていなければ、「問題2」において、いかにソフィスティケートされたリソースや打ち手を活用できたとしても、組織に成果を残すことはできないからです。

 まして、学校教育ではございませんので、「問題1」が、「学習指導要領という枠」の中から、「誰か」が与えてくれることはまずないですよ。あくまで課題は自ら設定しなければならないことの方がほとんどです。そして、そのとき、

 世の中では、

「解決してもさして重要ではない課題」を「どんなに魅力的な打ち手」で解決しても、評価されることはありません。

 世の中で「よくやったね」と言われるのは、

「解決してみなが重要だと思う課題」を「シンプルな打ち手」で解決して、その仕事の成果を「アカウント」できたとき

 です。

 しかし、人材開発の世界で「最も危険」なのは、この部分です。ともすれば、その仕事が「課題解決」であることを忘れ、「魅力的な打ち手の選定・展開・実施」こそに「仕事の本質が宿る」と思ってしまうことです。

 とくに危険なのは「打ち手の魅力」にはまってしまい、

 とにかく流行している「ちょめちょめ」を実施してしまう
 他社で実施されている「ほげほげ」を選んでしまう
 本で読んだ「ちょめちょめ」を自分でもやってみたくて仕方がなくなる

 ということです。要するに「課題の分析」をついついそっちのけにしてしまい、「打ち手」の考察に耽溺してしまいがちであるということです。

 ちなみに、大学院で読んでいる基本書では、これとは「逆の構造」になっています。ページ数の大部分のうち多くは「人材開発の仕事とは何か?」「人材開発の仕事は何を解決するのか?」「人材開発の仕事は何を課題とみなしうるのか?」に咲かれており、「打ち手」の紹介の部分は「サラリ」としています。章にしても数章。

 人材開発の仕事は「課題発見8割」

 とは、そういう意味です。

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 今日は、週のしょっぱなから、人材開発の仕事の本質について考えてみました。なんか、このように書いてしまうと、たいそうなことのように思えてしまいますけど、そんなことは一切ありません。

 人材開発とは「課題発見8割」である

 とは、要するに、

 人材開発で大切なことは「他の仕事の勘所」とさして変わらないよ

 と言っているのですから(笑)。

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 来期のゼミでは、少し趣をかえて、組織開発の基本書を読んでみようと思っています。「Dialogic Organization Development」というよさげな本を見つけてしまいました。今度は、いつか「組織開発の仕事の要諦」についても、このブログで書いてみたいと思います。

 そして人生は続く

 

投稿者 jun : 2015年6月15日 05:46


中小企業の人材開発は、本当に「特異」なものなのか?

 昨年より、中原研では

「中小企業の仕事の現場には、どのような人材育成のメカニズムが存在し、何が機能しているのか」

 を徹底的に調べる共同研究を推進しています。

 この共同研究は、トーマツイノベーション株式会社さまとの共同研究で、真﨑大輔社長はじめ、新谷健司さん、渡辺健太さん、鈴木義之さん、濵野智成さん、小暮勝也さん、伊藤由紀さん、五十嵐慎治さん、長谷川弘実さん、そして中原研からは僕と保田さんが参加させて頂いております。このような機会を与えて下さり、まずは心より感謝をいたします。

 まことに嬉しいことに、先だって、担当者の長谷川さんから「本調査のデータ収録が終了した」という御連絡を受けました。
「日本の中小企業300社 Nは数千クラスのデータ収録」が終わり、いよいよ、7月からの分析フェイズに入ることができるということです。

 このデータ収録に関しましては、多くの方々に多大なるご支援・御協力をいただきました。
 僕のブログなどで、この研究を知った多くの方々からメールなどでお問い合わせをいただき、なかには、「うちでよければ協力するよ」とおっしゃっていただけ方もいらっしゃいました。

 また、トーマツイノベーションの社員の方々は、現場で中小企業の方々と相対しプロジェクトに御協力を求めて下さいました。
 そして、何より、貴重な時間をこの調査に割いて頂ける回答企業の社員の方々にも、この場を借りて、心より感謝いたします。引き続きどうぞよろしく御願いいたします。

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 世界的には、中小企業は「SME研究」と呼ばれています。SMEとは「Small and Medium ized Enterprise」の略で、文献にもよりますが、各国の50%から80%の民間企業が、いわば中小企業だといわれています。

 しかし、これだけ多いSMEですが、そのHRDに関する実態はほとんど、といってよいほどわかっていません。

 かなり昔のことになりますが、

「日本では中小企業研究は進んでいないけど、欧米では、ちょめちょめだ。中原が中小企業研究をやらんのはケシカラン」

 と、昔、ある先生に「まことに温かいご指導」を受けましたが、同じ領域で研究に取り組まれている産業能率大学の橋本諭先生からわけていただいた最新のレビュー論文によりますと、たとえば、Human resource management journalとった著名雑誌でも、中小企業の研究は全体の3%程度、Human Resource Development Quarterly でも2%程度なのです。
「世間の多くは中小企業なのに、その実態はわかっていない」のは、日本だけではなく、世界的にそうなのだ、ということです。だからといって「言い訳」しているわけじゃないけど、「欧米ではちょめちょめだ」とか、適当に「ではの神」になるの、やめたほうがいいよ(笑)。
 
 とりわけ、興味深いのは、よく

 中小企業の人材開発は、大企業とは違うよ!

 とよく言われていますが、こちらに関しても、中小企業の人材開発の「特異性(idiosyncrasy)」を検証するにたるデータは、いまだ十分得られていない、結論は得られていない、ということです。

 これは中小企業の人材開発研究が、場当たり的に、ノンシステマティックに行われてきたことが一因になっており、大企業と比較を行いながら、その特異性を、データにねざして、明らかにしていくことが求められます。

 たとえば、中小企業の人材開発に関しては、一般社員に関して、

「公式の教育」よりも「インフォーマルな学び」の方が効果が大きい
「仕事に特定したスキル」が現場で学ばれている
「現場の同僚」がスキル向上のキーである

 などということが言われています。
 が、それは、おおよそ「大企業」でも同じであり、「中小企業の人材開発」の特異性を支持するものではありません。

 一方、マネジメントレベルの学びに関しては、

「公式の教育」が重要な役割を果たす

 ということが言われており、これは大企業の言説とは少し異なる傾向のように思えます。現在の、大企業の、マネジメントレベルの言説では「公式の教育」よりも、「現場の経験」が果たす役割が大きいとされることが多い傾向がありますね。なぜなんだろうね? 面白いねぇ・・・。

 いずれにしても、今回の共同研究で得られたデータでは、企業規模ごとに母集団をくぎり、その比較が行えるようにリサーチのデザインを行いました。このあたりについても、研究を本格化していくなかで論じていきたいなと感じています。

 暑い夏になりそうです。
 

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 最近、本当に本当に本当に時間がなくて、少しめげていました。

 働くことと子育てを両立することは、まことに激しいものです。毎朝起きたと思ったら、知らない間に夜寝ていて、また朝起きることの繰り返しで、気がついたら、一週間が過ぎています。いや、もしかしたら「両立」なんかありえないのかも、とも思います。日々を「やり過ごしている」だけで精一杯。

 しかし、新たに、こうしたデータに向き合えることを思うと、やる気がわいてきました。おそらく秋頃には、第一報、速報をお知らせできるものと思われます。共同研究者の皆さんと頑張っていきたいと感じています。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2015年6月12日 06:26


人材開発研究を「まるかじり」できる本を編む!?

「人材開発研究大全」という研究書の執筆プロジェクトがスタートしています。人材開発研究大全は「組織への参入」から「組織からの退出」に至るまでの「人材開発研究の最前線」を網羅した本です。

 採用研究
 教育機関ー大学からのトランジション
 新人育成
 管理職育成
 リーダーシップ開発
 非営利組織の人材開発
 学校の人材開発
 組織開発
 理念経営と学習
 中途採用者の育成研究
 ポストオフ後のマネジメント
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 などなど、多領域にわたる人材開発課題に関する研究を網羅して、本書1冊でまるごと学ぶことができます。ワンセンテンスでいえば「人材開発研究をまるかじりできる本」です。「まるかじり」って、よくわかんないけど。

 本書は、不肖・中原が「編著者」をつとめさせていただき、全章約40章、30人ほどの著者の方に、それぞれの章をお書き頂けることになっています。おそらくページ数は1000ページ程度になりますので「インテレクチャルな枕」としてもご利用いただけるはずです。

yabai_akumateki.png

(嗚呼、、、「本を枕にして寝ている人」を書いたら、こんな絵になってしまった・・・嗚呼、図工2。でも、時間がないので、このままいきます。パッと見ただけでは大丈夫ですが、3秒以上凝視しますと「呪われます」ので、ご注意を!)

 執筆に関して既にご依頼はさせていただいており、ご快諾をいただきました。お忙しいところ、本当にありがとうございます。心より感謝いたします。
 ちなみに出版元は「東京大学出版会」で、編集者は長年タッグを組んでいる木村素明さんです。いつもありがとうございます。

 僕としては、本書をもって、この10年の区切りをつくり、のちの10年を見通す本にしたいと考えています。2016年3月春、またひとつ、皆さんにお読み頂けるものをつくるべく、著者の先生方と連携しながら、前に進みたいと思います。

 ゆっくりでもいいから、しかし、確実に。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月11日 06:08


「就職、採用、キャリア開発、育成の「最前線」を1日で知るカンファレンス!ー「大学生研究フォーラム2015」のお申し込みがはじまりました!

「就職、採用、キャリア開発、育成の「最前線」を1日で知る!」カンファレンスー大学生研究フォーラム2015の参加申し込みが既にはじまっております。今年は「2015年7月24日(金)」の開催です。

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 大学生研究フォーラム2015へのお申し込みはこちらです!
 http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/transmission/forum/outline/

こちらのカンファレンス「大学生研究フォーラム」は、「大学の今、企業の今」を1日で知ることのできるカンファレンスであり、今年も、非常に豪華な登壇者の方々にレクチャーいただける予定です。

 今年のカンファレンスのテーマは、

 大学教育に必要なのは「プロジェクト」か「プロジェクト学習」か

 です。

 企業の採用活動が前倒し化され、また、大学に職業教育が求められ始めるなかで、大学に「プロジェクト活動的なもの」が増えています。そこで、わたしたちは、敢えてこうした状況を逆手にとらえ、「プロジェクト」「プロジェクト学習」という対比する用語をもちいながら、大学ー企業のあいだをどのように「橋渡し」するかを考えたいと思います。

 当日のプログラムは、下記のとおりです。

  ▼

9:00 開場

9:30~9:40 フォーラム趣旨説明
溝上 慎一(京都大学 高等教育研究開発推進センター)

9:40~10:40 基調講演
「21世紀の学びのデザイン:サスティナブルからレジリエントへ」
 美馬 のゆり(公立はこだて未来大学)

10:40~11:00 主催者挨拶
(京都大学、東京大学、電通育英会)

11:00~11:20 ジグソーカンファレンスの愉しみ方
中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

11:20~12:30 移動・昼食

12:30~14:00 ピースセッション1
【1-1】【1-2】どちらかにご参加いただけます
【1-1】社会と直結する力を育てる
   ファシリテーター:
   村上 正行(京都外国語大学 マルチメディア教育研究センター)

①「未来を創る『主体的な学び』を実践する」
   平山 恭子(一般社団法人Future Skills Project 研究会事務局/
   株式会社ベネッセコーポレーション)

②「自己を社会の中に文脈化するリフレクション手法:科目『体験の言語化』の開発」
   岩井 雪乃(早稲田大学 平山郁夫記念ボランティアセンター)

【1-2】大学・企業・地域のコラボレーション
   ファシリテーター:
   中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

①「企業と大学のコラボ授業:なぜ大学でリーダーシップを教えるのか?」
   日向野 幹也(立教大学 経営学部)

②「企業と大学のコラボ授業:プロジェクトベースドラーニングは何をもたらすか?」
   見舘 好隆(北九州市立大学 キャリアセンター)

14:15~15:45 ピースセッション2
【2-1】【2-2】どちらかにご参加いただけます

【2-1】地域と学校教育との接点
   ファシリテーター:
   村上 正行(京都外国語大学 マルチメディア教育研究センター)

①「これまでの地域開発の研究から学校の地域連携事業がどう見えるか?」
   松永 桂子(大阪市立大学大学院 創造都市研究科)

②「地域の未来を切り拓くグローカル教育プロジェクト」
   中村 怜詞(島根県立隠岐島前高等学校)

【2-2】「揺れる社会への入口」
   ファシリテーター:
   中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

①「採用2020:採用学の視点から見えてくるトレンド」
   服部 泰宏(横浜国立大学大学院 国際社会学研究院)

②「企業・採用担当者座談会」

16:00~16:45 インテグレーションセッション
   中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)

16:45~17:15 ディスカッション
   中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)
     1.ピースのシェア
     2.インテグレーション・ダイアローグ

17:15~17:45 ラップアップ
   溝上 慎一(京都大学 高等教育研究開発推進センター)

 夏の京都でお会いしましょう!
 大学生研究フォーラム2015へのお申し込みはこちらです!
 http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/transmission/forum/outline/

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投稿者 jun : 2015年6月10日 05:24


新人採用が激増した職場で起こること!? : 「育てられる者」と「育てる者」の関係をさぐる!?

 さて、皆さん、朝っぱらから「問題」です。

「1970」年と「現在」を比較して、この40年で、従事する人数が、90倍にふくれあがった仕事とは、何でしょうか?

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 90倍というのはものすごい「量的拡大」ですよね。
 具体的には、1970年には1112人であった人数が、現在は91064人になっています。

 答えは

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 そうです「理学療法士」さんです。様々な病気のあとにリハビリなどの支援をしてくださる仕事が「理学療法士」さんですね。ちなみに、先ほどの数字は、理学療法士協会会員数の伸びを表した数字です。理学療法士さんの8割程度が加入しているそうです。

 ちなみに、やや悪のりして、もう2つ数字を。
 ひとつは理学療法士さんの教育機関数。
 理学療法士さんが仕事をする前に、どのような教育機関で養成を受けるかですが、こちらも量的に爆発的増加を果たしましております。1970年には10校の専門学校がその任にあたっていたのが、現在は249校、うちわけは専門学校148校、短期大学6校、四年生大学95校となっているそうです。

 もうひとつは、理学療法士さんの仕事場です。
 理学療法士さんの所属施設(働いている場所)に関しては、こちらは1970年には1029施設しかなかったのが、現在は91459カ所まで増大しています。
 
 わずか40年前には限定的だった仕事が、ここまで大きくなるのですね。
 (理学療法詩士のインフォグラフィックス:http://50th.japanpt.or.jp/trend/

  ▼

 なぜ、このような話をさせていただいたかというと、僕が今から「理学療法士になる」とか、「理学療法士さんのお世話になる」とか、そういう意味ではありません。

 実は、先だって、東京女子医科大学八千代医療センターの薄直宏先生からのお声がけにより、日本理学療法士協会第50回学術集会で、「組織で人はいかに育つのか?:人材開発研究の最前線」とめいうった講演をさせていただいたのです。

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 僕は医療については全くの門外漢です。会では、そのことをきちんと断った上で、民間企業、組織における人材開発研究の世界的な動向、人材開発の実践のこの20年の動きを簡単におはなしさせて頂きました。お役に立てたかどうかはわかりませんが、今は「やりきった感」があります。講演をお聞き頂いた皆様、ありがとうございました。

 その際、上記の数字を薄先生に教えて頂いたのですが、この3つの種類の数字を聞いた瞬間に、僕には、何となくですが、理学療法士さんの人材開発課題に関する「妄想」が浮かびました。最初に断っておきますが「妄想」であり、「机上の空論」です。

 でも「育てなければならない人間の数」、そして、「育てるもの人間の数」というものは、人材開発にとって、もっとも「基礎的なデータ」です。何となくですが、これらの数字だけからでも、人材開発上、どのような課題が生まれうるかについて「妄想」をすることができます。

  ▼

 まず第一に気になるのは、40年間で増えた90倍に増えた理学療法士さんの数です。
 こちらは高齢化などの潜在的なニーズに裏打ちされた増加と考えられますが、やはり急激な増加といわざるをえません。社会科学の常識として、

 「量的拡大は質的転換をもたらす」

 というものがございます。これだけ増えた、経験の浅い理学療法士さんの熟達化をいかに支えていくのか、課題になると妄想します。

 まず教育機関には、これまで理学療法士さんにはならなかった層が、大量に流入してくることになるでしょう。1100人の、いわば職人時代の理学療法カリキュラムが、そうした量的拡大において、どのように変質するかが、興味深いところです。

 卒業後は、膨大な人数が、年ごとに医療施設に入ってきているのでしょう。ハイパー高齢化社会のなかで、少しずつ身体の各所が動かなくなる年配の方は、これからも増えていくのでしょう。また、保険医療制度がおりますので、経営にとっては安定的な収益が見込めると妄想します。つまり、量的拡大は、社会的諸条件、経済的条件のもとで、これからも拡大するのではないか、という見たてです。

 そうしますと、大量の経験の浅いチームを率いる中間管理職(マネジメント層)が不足するのではないかと妄想します。中間管理職を担う人が若年化するか、あるいは、過剰にプレイングマネジャー化すること、ないしは、負担が増大することが予想されます。もともと職人文化の強い職種だと思いますので、マネジメントになりたくない層も一定以上いらっしゃるはずです。おそらく、数年目で複数人の部下を抱えることも、比較的常態化しやすい環境になるのかなと、妄想します。

 また、校種についても量的拡大をしつつ、同時に多様化しています。ひとつの免許制度のもとの管理下にありますので、3種類の学校から学生がきても問題ないという判断もありますが、年限と学んでいる内容や幅には差があることが予想されますので、それらの差を埋めることが求められるのではないか、と妄想します。

 また、もっとも気になるのは、理学療法士さん全体の人数と理学療法士さんの所属施設の関係です。先ほどの協会加盟の理学療法士さんの数から、その総人数を多く見積もっても、11万人ー12万人くらいとなります。たいして、施設数は91459カ所ということになります。
 ということは、1施設の理学療法士さんの人数が少ないところも少なくないと想像します。こういう場合、熟達を支える支援というのが不足する傾向があります。

 以上、妄想タイムでした。

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 いずれにしても、このような学びの機会を与えてくださり、東京女子医科大学八千代医療センターの薄直宏先生、そして、ご講演をお聞き頂いた皆様には、心より感謝いたします。

 まったくの「にわか仕込み」ではありましたが、一応、理学療法士の仕事に関する論文、書籍は、ざっとだけ読ませて頂きました。世の中はまことに広い。僕の知らない仕事の世界が、まだまだたくさんあります。まだまだ修行が足りません。

 最後に・・・僕は、身体にはあまり自信がありません。たぶん、遅かれはやかれ、理学療法士さんのお世話になるときが来るような気がします(笑)。そのときはどうぞお手柔らかに。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月 9日 05:59


「新しい働き方」をしている人は「新しい働き方をめざしていた人」ではない!?

 かなり前のことになりますが、某所から「新しい働き方」についてのインタビュー(対談だったかな?)を、お願いされたことがあります。

 僕に、きちんとお役に立てるかどうかを判断しようと思い、

「新しい働き方とは何ですか?」

 と伺ったら、「組織に所属しない働き方」とか「組織に所属していながらも、自分で事業をもっている働き方」とか、そういうイメージを「新しい働き方」とおっしゃっていることがわかりました。

 その上で、僕はこう質問させて頂きました。

「この記事のターゲットは、今、全く"新しい働き方"をしていない人で、"新しい働き方"をめざす人に、内容をお届けしたいのですか?」

 と伺ったら、「そうです」とおっしゃいました。
 おそらく、これは僕にお役に立てないだろうなと思い、インタビューのお申し出を丁重にお断りさせて頂きました。

  ▼

 なぜ、僕が丁重にこのご依頼をお断りさせていただいたのか。

 まず誤解を避けるために申し上げますが、「組織に所属しない働き方」とか「組織に所属していながらも、自分で事業をもっている働き方」とかいう「新しい働き方」が「ダメ」だと申し上げたいわけでは「断じて」ありません。

「働くこと」は「国民の義務」であり、「働き方」を選ぶことは「個人の自由」なのだから、あとは、それぞれが「判断」なさればよろしいのかな、と思うのです。要するに「好きにしようよ」ということですね。僕も「好き」にしますので。それに関して、他人の僕が、とやかくいう気持ちはございません。
 まぁ、正直にいうと「自分の働き方」を考えていくだけで頭がいっぱいで、他人の働き方まで目がまわらないというのが本音かもしれませんが(笑)。
 いいんじゃないでしょういか「組織に所属しなくても」「組織に所属しながら、自分でも事業を回していても」そういうの、すごいなと思います。

 実際、僕のまわりには、ここでいう「新しい働き方」をなさっているんだろうな?と思われる?人がたくさんいらっしゃいます。
 それぞれ皆さん働くことを楽しんでいらっしゃいますが、なかには悪銭苦闘している方もいらっしゃいます。
 そんな彼らを見ておりますと、「新しい働き方」は「理想」として語ることには僕にはできません。それなりの「エグさ」や「辛さ」が反面にあり、「たのくるしい」くらいが実際のところかなと思えます。だってさ、簡単に申し上げますが、

「人の2倍以上働いてるんだよ」。

 しかし、話をもとに戻して、先の記事のご依頼に失礼ながらも、もっとも違和感をもったのは、このことではありません。

 もっとも違和感をもったのは、

「新しい働き方」というものは、それ自体をめざすべきものなのか

 ということです。

 といいますのは、少ないサンプルながらも、僕の周囲にいる「新しい働き方」をしていると思われる人々は、「新しい働き方」をしようと思って、「今の働き方」になっている人ではないのです。

 このことがどの程度の「一般性」のあることかは承知していません。ただ「他人の働き方」をどうこう述べることには僕には興味がわかないので、「一般性」があるかないかを検証することは、これまでも、これからもしないでしょう、と申し添えます。

 僕の周囲にいる「新しい働き方」をなしていると思われる人は、むしろ、「組織に所属するかしないかはどっちでもいい人」のように僕には見えます。
 
多くは「組織」で当初は働きながら、自分のやりたいことやってたら、だんだんと「組織の枠」を少しずつはみだしていて、それも、だんだんチョロまかせなくなってきて、「Xさん、最近、外で活躍してるみたいだね!すごいなぁ!」なんて嫌みをそれとなく言われ、軽くいなしたり、時には「死んだふり」しながら、気づいてみたら、「自分の働き方」が、赤の他人から「新しい働き方」と呼ばれるようになった人々なのです。自分のあずかり知らないところで、「新しい働き方」というラヴェルを張られちゃった人っていうのかな。これは僕のまわりだけかもしれませんが(笑)。

 要するにワンセンテンスで申し上げますと、 

 今、僕の周囲にいる「新しい働き方」的な人々は、「新しい働き方をめざした人」ではない

 のです。

 むしろ、

 今、僕の周囲にいる「新しい働き方」的な人々は、「新しい働き方」かどうかなんて、あまり気にしていない人

 のように思います。むしろ、ちょっぴり「組織の枠」をはみだしちゃって、「やばいな、ダマでどこまでいけるかな?」と思っているくらいの人のように思うのです。

 そして、彼らが、「新しい働き方」なるものを、他人に「よきもの」として語ったり、推奨したりしているところを僕は見たことがありません。「Xさんは、新しい働き方だね」と言われちゃうと、どこかで「気後れ」や「違和感」を感じたりする人のようにも思います。


 新しい働き方をしているように見える人とは、

「組織に所属するかしないか」とか「ノマドか、ノマドじゃないか」なんて、そもそもあまり意識のなかには入っていなくて、ただ「自分のやりたいこと」や「自分のやらなければならないこと」をやっている人

 なのです。

 ですので、「新しい働き方めざす記事」というのが、僕にはピンときませんでした。

  ▼

 今日は「新しい働き方」について書きました。

 要するに申し上げたいことは「新しい働き方は、個人の自由なんだから、どうぞお好きになさればいいのではないか」、と思う一方で、「新しい働き方=それ自体をめざすもの」として掲げる言説の問題の切り取り方が、腹に落ちなかった、ということです。

 それにしても、みなさん、「働き方」を語るのがお好きなんですね。僕は「自分の働き方」だけで精一杯で、「他人の働き方」まで気がまわりません。

 組織に所属してようが、してまいが、
 オシャレなカフェで仕事をしようが、しまいが、
 働くことを楽しみたいものです。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月 8日 06:34


「今ここの現場への病的冷淡さ」と「誰かのつくった概念への病的固執」!?

 本間直樹・中岡成文(編)、鷲田清一(監修)「ドキュメント臨床哲学」(大阪大学出版会)を読みました。

 本書は、1998年、伝統ある大阪大学・倫理学講座の運営をまかされた鷲田清一さんが、講座の運営方針を「倫理学講座」から「臨床哲学」に大転換したときの様子をドキュメントしたものです。

 ここでは、さしずめ「臨床哲学」とは、「現実社会の具体的場面を対象にして、その人々の個別で一回性のある語り・事例の中から、一般的な哲学的原理・理論を考察する立場」とお考えください。

 既存のアカデミズムにおける哲学が、一般的な理論や公理から議論をスタートさせ、「ロゴス」を「語ろう」とするのに対して、臨床哲学は、個別で一回の人生を生きる人々の語りを「聞くこと」を重視します。

 それは著者らが、「存在しうるかもさだかではない服に袖を通そうとする試み」であったと述懐するように、アカデミズムにとって、「強烈な冒険」であり「強烈なアンチテーゼ」であったと感じます。

 僕は「哲学」は専門ではないので、鷲田先生のお考えや臨床哲学の学問的位置づけは「知りません」。
 でも、素人の独断と偏見で、これら一連の著作を斜め読みするとき、そこには魅了される何かがありますし、そこには、哲学のみならず、他の人文社会科学にとっても「看過できない問題」が取り扱われていることに気がつかされます。

 それは「現場に足がかりをもたない学問」「現場に刺さらない学問」・・・さらに明瞭に申し上げるならば「現場の諸問題とかかわればかかわるほど、学問的には低級なものとみなす」、現場をもつ人文社会科学系の一部の研究者であっても、心の奥底にしっかりと共有されていて、しかし、「シャバの社交辞令的なつきあいの中」では、巧妙に密かに押し殺している、「権力的な意識」です。 
(すべての学問が現場をもつ必要もありません)

 それら覆い尽くされている「権力的な意識」を喝破し、著者らは、鶴見俊輔氏の「アメリカ物語」を引用しながら、下記のように述べます。

 若い学生の人達が哲学に心をひかれる場合によく見られるひとつの「癖」がある。それは「事実」に対する「病的な冷淡さ」である。/

「具体的な事実」には、哲学愛好者は見向きもしない。

「一杯のお茶を飲む」という具体的な動作の中には、歓びを感じず、ことさらに「美とはなんぞや」「至高善とはなんぞや」という問題を論じる。
(アメリカ哲学 鶴見俊輔)

 この一文を目にしたとき、僕の脳裏に真っ先に浮かんだことがあります。

「似ている・・・あまりに似ている。僕の専門分野に関しても、このことは当てはまるのではないだろうか。そう、「今ここの現場への病的冷淡さ」と「誰かのつくった概念への病的固執」は、かなりの部分、自分の専門分野にも言えることなのではないだろうか。

「オーセンティックリーダーシップ」という専門用語に関しては目を輝かしても、組織を訪れ「現場で時に糾弾されながら、闘う人々の人生」に耳を傾けたことはない。
「コミットメント」という専門用語に頬を紅潮させるけれど、組織を信じ、しかし、組織の中で行き詰まった人々の語りに耳を傾けようとしたことはない。

 つまり「具体的事実」や「生の語り」ーすなわち「現場」に関しては「病的な冷淡さ」をもっているのにもかかわらず、「概念間のさして重要でもない違い」や「理論の正当な解釈」には「冷淡さ」と「こだわり」をもつ。
 そして、その上で「具体的事実」や「生の語り」から立ち上がるものは、「既存の体系に位置付かない」とする。
「市井で起こっている具体的なこと・生の語り」の取り扱いについて、「もうひとつの市井で起こっていること」は、つまりは、こういうことです。

 かくして、僕は、同書に引用された鶴見の指摘が、「どこかで見た光景」だなと感じたのですが、いかがでしょうか。

 ▼

 今日は「臨床哲学」ということを下敷きにしながら、「具体的事実」や「生の語り」ということについて書いてみました。
 こう書いてしまうと、ここで糾弾しているものについて、僕が抵抗を感じているようにも見えるかもしれませんが、それは少し異なっています。

 はっきり言って、他のプロフェッショナルが、プロフェッショナルとして、どのように生きようが、僕には「興味」も「関心」もありません。どちらが「マジョリティ」になるかも興味がないし、「他人の選択する方法論」にも「関心」がない。
 それらの類のことは、プロフェッショナルなのだから、自分で判断すればよろしい。

 一方で、僕には、そう時間がありません。
 僕は、あまりに短い時間の中で、
「僕の人生」を生きることにしたいと願うのです。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月 5日 09:29


演劇を自社研修に取り込む!?:どんな効果があるのか、どのように企画するのか?

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「演劇を自社研修に取り込む!?:どんな効果があるのか、どのように企画するのか?」という、かなり興味深いイベントのご紹介です。一緒に経営学習研究所を経営している田中潤さんの企画で、6月25日に開催されます。

セッションには、音楽座ミュージカルのプロの俳優さんの方々もご参加いただけるようです。演劇を取り入れた研修とはどのようなものなのか? それはどんな効果があり、どのように企画すれば良いのか。ご興味があう方は、ぜひご参加いただければ幸いです。、

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経営学習研究所sMALLラボ
「演劇を自社研修に取り込む!?:
 どんな効果があるのか、どのように企画するのか?
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今年1月に開催したシアターモールのテーマは、

【演劇の力で「ひと味違う新人教育」を創る:
音楽座ミュージカルが贈る講師力パワーアップセッション】

でした。

当日は、音楽座ミュージカルの俳優・プロデューサーである藤田将範
さんら、同ミュージカルに所属の俳優さんらを多数お招きし、演劇を
用いた「ひと味違う新人研修づくりのネタ」を体験型で学ぶセッションでした。

演劇の要素を自社の研修に取り入れる、担当者の強い想いがあっても、
実現までのハードルは低くはありません。しかし、1月のシアターモール
の参加者の中から、4月の新入社員研修に見事に導入を果たした企業が
複数あります。

今回は、あらためて音楽座ミュージカルの皆さんが提供する演劇のア
プローチを用いたいくつかのワークを実感、実体験した上で、それを
自社の研修プログラムに導入するためには何をどう考え、どのように
進めていく必要があるのかを参加者全員で考えます。

ゲストとして、1月のシアターモールに参加し、4月には自社研修に
取り入れた企業の担当者の方にも参加していただき、新しいスタイル
の研修を自社プログラムに採り入れるためのポイントや苦労なども
ご披露いただきます。

そもそも演劇を自社研修に取り入れるとどのような効果が得られるのでしょうか?
そして、その企画はどのように行えば良いのでしょうか?
今回は「音楽座ミュージカル」が提供する様々なワークを理解した上で、
これらを自社の研修に取り込むためには、何が必要なのかを考える場とします。

企画責任者:田中 潤

■主催
一般社団法人経営学習研究所sMALLラボ

非営利型一般社団法人「経営学習研究所」、
略称「モール」(MALL : MAnagement Learning Laboratory)とは、
実務家と研究者による「全く新しいイニシアチブ」です。
MALLは、経営・組織・学習に関する研究・実践の普及・振興・研究を行うために
実務家と研究者がつくった新たな組織です。
具体的には、実務家と研究者の協働によって「経営」「組織」「学習」に関係するセミナー、
シンポジウム、ワークショップを開催していきます。
MALLでは理事が1人、1ラボを持ちます。
この「sMALLラボ」は理事:田中潤が主宰するラボです。
学びの「場」つくりによって日本を「学習大国」にすることがMALLの志であるのならば、
「場」は多様に多数あった方がいい。
でも、よく考えてみると学びの「場」は創らなくてもいたるところにあるのではないか、
との思いから、普段では学びの「場」としては認識されていないようなものを拾い上げ、
学びの観点から見直すことによって、その「場」は新たな光を得る。
また、普段は仲間内の学びの「場」であるものをMALLと一緒に扉を広げることによって、
学びの「場」はそこかしこにあふれるのではないか。
そんな思いで小さくてもいいので「場」を増やし、
再発見したいというのがsMALLラボの思いです。

■共催

株式会社内田洋行、音楽座ミュージカル

■日時
2015年6月25日(木曜日)
18時30分から21時00分まで(終了時刻は前後します)。
開場は18時00分を予定しています。

■会場
株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場CANVAS地下1階
http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas.html

■参加費・定員
40名

恐縮ですが参加費として、お一人様3000円を当日受付にて申し受けます。
参加希望者多数の場合は、抽選とさせていただきます。

当日はいつものMALLイベントらしく、
アルコールと軽食をとりながら、フランクな場での進行を予定しています。

■内容(予定)

・イントロダクションー1月のシアターモールを振り返ってー(18:30-18:50)
・ワークショップ 音楽座ミュージカル 藤田将範ほか(18:50-20:00)

○なぜ演劇の要素が人を変えるのか
○すぐに心を開かせるアイスブレイク
○演劇を活用した各種プログラムの紹介・体感
○ミュージカルを活用した各種プログラム紹介・体感

・ブレイク(20:00-20:10)
この時間以降は、アルコールと軽食をとりながら進行します。

・私たちはこうやって自社の研修に取り入れました(20:10-20:20)
 株式会社インテリジェンス HITO本部
 人材開発グループ マネージャー  武井伸悟様

・会場全体による企画会議(20:20-20:50)

今日の体験を自社の研修に採り入れるには、どうすればいいのか。
会場をいくつかのグループに分けて、実際の企画会議を模して進めます。

・ラップアップ(20:50-21:00)

■参加条件

下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいているとみなさせていただきます。

1. 本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、
写真・ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所の企画担当理事が関与する
Webサイト等の広報手段、講演資料、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。
マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.欠席の際には、お手数でもその旨、
info [あっとまーく]mallweb.jp まで必ずご連絡をお願いします。

3.希望者多数の場合は、恐縮ですが抽選とさせていただきます。
6月11日(木)までお申し込みを受けさせていただき、
6月15日(月)には抽選結果を送信させていただき ますのでご了承下さい。
※申し込みが多い場合、締切前に受付を終了させていただく場合があります。

4.もちろん1月のシアターモールに参加していない方もご参加できます。
逆に参加されていた方にとっても、未体験のワークを用意しています。

5.動きやすい服装でおこしください。床に座るなどの可能性があります。
また会場にクロークはございませんので、どうか軽い装備?でおこしください。

6.企業担当者の方のみでなく、研修ベンダーの方の参加も歓迎します。

以上、すべての項目にご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みください。
皆様とお会いできますこと愉しみにしております!

お申し込みサイトはこちらです!
https://goo.gl/jb0ypR

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投稿者 jun : 2015年6月 4日 06:34


うちのオカンに電話しても通じるか法!?:むずかしいことをやさしく語ること

 昔々のことです。「難しいこと」を余計難しく言っちゃって、「おれって、スゲーだろ」的な自己満足に浸ってしまう「痛い時期」が、かつて、僕にも、ごくごく短い時期でしたが、あったような気がします。

 曰く

 ホゲホゲの話を、何とかのパラダイムで見てみると、ほにゃららのコンテキストでは、レリヴァントなメソドロジーだよね

 みたいな感じ。

「当時、いったい何を言いたかった」んだか、さっぱりわかりませんが、かつて、そのような「奇妙奇っ怪な言葉遣い」をしていた、おおよそ、僕にもありました。大学には、たまーに、こういう「痛い人」がいると思います。たぶん、、、今でも。

 当時のことを思い出すに、今から考えるに、ひとつには、きっと「自信がなかった」んだと思います。「アカデミックフレーバーがいかにも漂う言葉遣い」をすることで、相手を凌駕しちゃおう、みたいなゴリラ的?マウンティング願望?が、短い時期ではありましたが、当時の僕にはあったような気がします。

 しかし、同時に、まことに幸いなことに、そのような時期はごくごく短かったような気がします。
 ほどなくして、そんな風にマウンティングすることが「ダサい」と思うようになりましたし、何より自分の言葉が他者に「伝わらないこと」に苛立ちを感じるようになりました。

 当時の指導教員から受けた指導も、大変よい薬になりました。指導教員には、こんなことを言われたことも覚えています。

「自分で定義を語れない専門用語は、一切使うな!」

 嗚呼、今から考えれば、まことに汗顔の至りですね。
 それからというもの、僕は、難しいことを、なるべく原型をとどめたまま、いかに他者に伝えるかについて心を砕くようになりました。誰かに何かを伝えるとき、いつも脳裏に浮かぶことがあります。しょーもないことなのですが、いつも脳裏に浮かぶのは、

「その説明で、うちのオカンに電話して通じるか?」

 ということです。

「そのコンセプト、うちのオカンでもピンとくるか?」

 といってもいいかもしれません。

 決して北海道の「うちのオカン」をバカにしているわけではないですが(笑)、たぶん、うちのオカンに電話して通じる言い方ならば、どんな人にも通じます、、、たぶん。悪いけど、手強いよ、、、うちのオカンは。
 ぜひ、皆さんも、誰かに何かを伝えるときには、「うちのオカン電話法」を試していただければと思います。
 伝えるというのは、まことに難しいものですね。

  ▼

 今日は「伝えること」について書きました。
 最後に、劇作家・井上ひさしさんの僕の好きな言葉で、今日のブログを締め括りたいと思います。

 むずかしいことを やさしく
 やさしいことを ふかく
 ふかいことを ゆかいに
 ゆかいなことを まじめに書くこと

 作文の秘訣をひと言でいえば
 「自分にしか書けないこと」を
 「誰にでもわかる文章で書く」
 と言うことだけなんですね

 (井上ひさし)

「伝えることは難しい」
 しかし、難しいことをやさしく語れる人でありたいと願います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年6月 3日 09:06


自分の乗っかっている「ちゃぶ台」をひっくり返すリフレクション!?

 英語の「クリティカル(Critical)」というのは、日本語では「批判的」と訳されることが多いと思います。

 Critical Thinking(クリティカル・シンキング)といえば「批判的思考」になりますし、今日のお題であるCritical reflection(クリティカル・リフレクション)といえば「批判的省察・批判的内省」ということになるのでしょう。

  ▼

 このように「批判」という用語は、人材開発によく出てくる用語のひとつなのですが、実は、まことに「曲者ワード」のひとつでございます。

「批判」というと、シャバ的には「否定すること」「非難すること」「物事の善悪を判定すること」という風にとらえがちなので、ちょっともともとの意味からズレてしまうのです。
 先だっての授業でも、勇気ある方々が「批判的内省」とは何かについて解説を求めて下さいました。ありがとうございます。

 その質問に対して、僕は、「批判」という言葉をきいたときには、

「ちゃぶ台をひっくりかえすイメージ」を頭に思い浮かべて下さい

 とお話をしました。図工2の絵としては、こんな感じです(小生は、若い時分、図工2をとっていました)。

chabudai_gaeshi.jpg

 そうですね「批判=ちゃぶ台をひっくりかえす=ものごとの前提や根本からひっくりかえす」イメージです。
 前提や根本にいったん立ち返ったあとで、物事を考え直すことが「批判」というイメージです。どうですか・・・少しはイメージがつきますか?

 ですので、「批判的省察」というと、「ちゃぶ台をひっくりかえすリフレクション」です。それも、さらに正確に述べるならば、

「自分が乗っかっているちゃぶ台をひっくりかえすリフレクション」

 と考えれば、さらによいと思います(笑)。
 通常のノーマルなリフレクション?ではなく、折りに触れて、自分が乗っかっているちゃぶ台や、自分がアタリマエと思ってきた自分の存立基盤すらも「ひっくりかえす」。

 批判的省察とは、そのようにディープなものなので、「あいたた!」という風に「痛み」が伴うものであり、自己が「変容」する可能性がでてくるのです。ていうか、どう考えても、いてーよ。

 くれぐれも「リフレクションして非難しあうこと」ではないので、あしからず。
 え? 絵、ですか? ごめんなさい。図工2には描けません。どうか、絵心のある方、お願いいたします。「自分の乗っかっているちゃぶ台をひっくりかえす」??? 頭になぜか(!)イメージはできるけど、描けない(笑)

  ▼

 今日は「批判的省察」について、面白おかしくアレンジして書いてみました。くれぐれも申し上げておきますが、その道のプロの方は、決して真に受けず、原典にあたってくださいね。

 そして人生は続く

追伸.
 僕が監修に携わった「教師の学びを科学する」の著者の脇本さん、町支さん、そして、この本の舞台になった横浜市教育委員会×中原研の共同研究を立ち上げをしてくださった横浜市教育委員会の
前田先生らが、6月5日(13:00〜14:40)で講演をなさるそうです。前田先生には、このプロジェクトにお誘いいただき、心より感謝をしております。「教師の学びを科学する」と序文にも書きましたが、前田先生が拙著「職場学習論」をお読み頂き、研究室を訪問してくださっていなかったら、心と志ある職員の方々と、このプロジェクトの成立に尽力してくださらなかったら、このプロジェクトも本もなかったものと思っております。本当にありがとうございました。

「若手教師が育つ学校づくりへの挑戦:サーベイフィードバックによる学校・教育委員会・大学の新たな連携」というテーマです。僕は参加できませんが、まだ少しだけ残席がおありなようなので、ぜひ起こし頂ければ幸いです。「教師の学びを科学する」のサーベイ、ワークショップの全体像がご理解いただけるものと思います。

「若手教師が育つ学校づくりへの挑戦:サーベイフィードバックによる学校・教育委員会・大学の新たな連携」

横浜市教育委員会 北部学校教育事務所 指導主事室 室長
前田 崇司 氏

青山学院大学 情報メディアセンター 助手
町支 大祐 氏

東京大学 教養教育高度化機構
特任助教
脇本 健弘 氏


NEW EDUCATION EXPO 2015(6月5日をクリック!)

https://edu-expo.org/seminar.php?event=2015&hall=T#timeline

6月4日(13:00〜14:40)には、同僚の栗田さん、市川さんらが「インタラクティブ・ティーチング:教えることを学ぶオンライン教員研修プログラムの成果と展望」というテーマでご発表なさいます。こちらもどうぞお申し込みいただけますと幸いです。

東京大学 大学総合教育研究センター 特任准教授
栗田 佳代子 氏

東京大学 大学総合教育研究センター 特任研究員
市川 桂 氏


NEW EDUCATION EXPO 2015

https://edu-expo.org/seminar.php?event=2015&hall=T#timeline

投稿者 jun : 2015年6月 2日 05:50