「今ここの現場への病的冷淡さ」と「誰かのつくった概念への病的固執」!?

 本間直樹・中岡成文(編)、鷲田清一(監修)「ドキュメント臨床哲学」(大阪大学出版会)を読みました。

 本書は、1998年、伝統ある大阪大学・倫理学講座の運営をまかされた鷲田清一さんが、講座の運営方針を「倫理学講座」から「臨床哲学」に大転換したときの様子をドキュメントしたものです。

 ここでは、さしずめ「臨床哲学」とは、「現実社会の具体的場面を対象にして、その人々の個別で一回性のある語り・事例の中から、一般的な哲学的原理・理論を考察する立場」とお考えください。

 既存のアカデミズムにおける哲学が、一般的な理論や公理から議論をスタートさせ、「ロゴス」を「語ろう」とするのに対して、臨床哲学は、個別で一回の人生を生きる人々の語りを「聞くこと」を重視します。

 それは著者らが、「存在しうるかもさだかではない服に袖を通そうとする試み」であったと述懐するように、アカデミズムにとって、「強烈な冒険」であり「強烈なアンチテーゼ」であったと感じます。

 僕は「哲学」は専門ではないので、鷲田先生のお考えや臨床哲学の学問的位置づけは「知りません」。
 でも、素人の独断と偏見で、これら一連の著作を斜め読みするとき、そこには魅了される何かがありますし、そこには、哲学のみならず、他の人文社会科学にとっても「看過できない問題」が取り扱われていることに気がつかされます。

 それは「現場に足がかりをもたない学問」「現場に刺さらない学問」・・・さらに明瞭に申し上げるならば「現場の諸問題とかかわればかかわるほど、学問的には低級なものとみなす」、現場をもつ人文社会科学系の一部の研究者であっても、心の奥底にしっかりと共有されていて、しかし、「シャバの社交辞令的なつきあいの中」では、巧妙に密かに押し殺している、「権力的な意識」です。 
(すべての学問が現場をもつ必要もありません)

 それら覆い尽くされている「権力的な意識」を喝破し、著者らは、鶴見俊輔氏の「アメリカ物語」を引用しながら、下記のように述べます。

 若い学生の人達が哲学に心をひかれる場合によく見られるひとつの「癖」がある。それは「事実」に対する「病的な冷淡さ」である。/

「具体的な事実」には、哲学愛好者は見向きもしない。

「一杯のお茶を飲む」という具体的な動作の中には、歓びを感じず、ことさらに「美とはなんぞや」「至高善とはなんぞや」という問題を論じる。
(アメリカ哲学 鶴見俊輔)

 この一文を目にしたとき、僕の脳裏に真っ先に浮かんだことがあります。

「似ている・・・あまりに似ている。僕の専門分野に関しても、このことは当てはまるのではないだろうか。そう、「今ここの現場への病的冷淡さ」と「誰かのつくった概念への病的固執」は、かなりの部分、自分の専門分野にも言えることなのではないだろうか。

「オーセンティックリーダーシップ」という専門用語に関しては目を輝かしても、組織を訪れ「現場で時に糾弾されながら、闘う人々の人生」に耳を傾けたことはない。
「コミットメント」という専門用語に頬を紅潮させるけれど、組織を信じ、しかし、組織の中で行き詰まった人々の語りに耳を傾けようとしたことはない。

 つまり「具体的事実」や「生の語り」ーすなわち「現場」に関しては「病的な冷淡さ」をもっているのにもかかわらず、「概念間のさして重要でもない違い」や「理論の正当な解釈」には「冷淡さ」と「こだわり」をもつ。
 そして、その上で「具体的事実」や「生の語り」から立ち上がるものは、「既存の体系に位置付かない」とする。
「市井で起こっている具体的なこと・生の語り」の取り扱いについて、「もうひとつの市井で起こっていること」は、つまりは、こういうことです。

 かくして、僕は、同書に引用された鶴見の指摘が、「どこかで見た光景」だなと感じたのですが、いかがでしょうか。

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 今日は「臨床哲学」ということを下敷きにしながら、「具体的事実」や「生の語り」ということについて書いてみました。
 こう書いてしまうと、ここで糾弾しているものについて、僕が抵抗を感じているようにも見えるかもしれませんが、それは少し異なっています。

 はっきり言って、他のプロフェッショナルが、プロフェッショナルとして、どのように生きようが、僕には「興味」も「関心」もありません。どちらが「マジョリティ」になるかも興味がないし、「他人の選択する方法論」にも「関心」がない。
 それらの類のことは、プロフェッショナルなのだから、自分で判断すればよろしい。

 一方で、僕には、そう時間がありません。
 僕は、あまりに短い時間の中で、
「僕の人生」を生きることにしたいと願うのです。

 そして人生は続く