業績社会化・計量社会化する「世の中」で、間違った方向に「成果」を出さないためには!?

 わたしたちの生きる時代が、業績社会化・計量社会化しているように、とみに感じます。

 ここで業績社会化・計量社会化と申し上げますのは、私たちの行うあらゆる「営為」に対して、誰もがわかりやすいKPI(Key performance Indicator)を設定して、それらを「業績」として「計量」すること、それによってリソースの再配分されるということが、社会生活のあらゆる場所に常態化していくことをいいます。

  ▼

 ちょっと前になりますが、ある研究プロポーザルを書いていたときも、「成果指標」というものを明記して、それを提出しなければならず、一瞬戸惑いました。

 といいますのは、研究には、うまくいくかどうかわからない、やってみなければわからない、「リスキーな側面(賭けみたいなもの)」が必ずつきまとうのですが、そのリスクをあたかもなかったかのように「漂白」し、「これをやれば必ずうまくいき、成果がでまっせ、こんな数字がだせまっせ」みたいなことを、「やる前」から「確約」しなければならない、ということに、良心が少し痛みました。それはちょっと「本当は言い切れないこと」を言い切らないと、書けないよ。

 これに近いこと下記のことは、哲学者の鷲田清一さんが、どこかでおっしゃっていたことですが(すみません・・・書名をうろ覚えです)、大学は、いまや、「100万年前の古代の姿」を探究する研究でえさえ、「3年後の論文数」を明記する必要がある場所になってしまいました。

 最近になりますと、さらに惨い事態も進行しているようですね。噂によりますと、「指導受け入れした大学院生の数」「学位取得させた大学院生の数」すらも、業績・計量化し、ポイント化する大学があるのだとか、ないのだとか。噂なので、本当のところは知りません。

 もしその噂が是だとして、少なくとも、言えることは、「僕自身は、そういう大学で研究指導をしたくない」ということです。むろん、「おまえみたいなカスは、うちの大学に、入れてやんないよ、バーカ」と言われるだろうけれど(笑)

 ま、売り言葉に買い言葉で、自分の育ちの悪さを言い訳にしつつ、「最後っ屁」をかまさせていただきますと、申し上げたいのは

 研究指導をなめるな!

 です。

 僕たちは、ポイント獲得のために、大学院生を育てているわけじゃない。

 そういえば、これも噂だけど、授業中の学生の発言数とか、学生が顔をあげる頻度とかも計測・ポイント化して、授業のクオリティを測ろうとしている教育機関があるのだとか、ないのだとか。
 ま、「教室がブラックボックスであること」をいいことに、「やりたい放題やっていた人」もいるんだと思うし、それを「見える化」、「あぶり出したい気持ち」「管理せざるをえない気持ち」はわからんでもない。そこに自浄作用がないことも、最大の課題であることは承知しています。

 でもなぁ、自分の授業が、その指標でポイント化され、ランキング化されると、僕は激しくモティベーションが下がりますね。僕はそんな指標をあげるために、授業をしたくない。僕のやり方で、学生に考えさせるから、ほっといて、と言いたいです。

 こちらでも、やはり言いたいことは、

 授業をなめるな!

 ですね(笑)。

 第一、ポイント、ポイントって
 スーパーマーケットか? 最近の大学は!
 ま、うちのカミサン、ポイント集めるのとか、好きだけど。うちのカミサンを喜ばして、どうする(笑)?
 
  ▼

 そういえば、せんだって、ある施策を拝見していたら、ある施策に設定されているKPIにのけぞりました。
 膨大な金額を動員してなされる施策、そして、その施策に治して設定されていた指標は、ほんのわずかな人々の行動変化。
 それならば、膨大な金額をそのまま、人々に配付して、その行動をとってもらった方が、合理的であるように僕には感じました。これは、KPIの設定、計量する単位を間違ってしまった典型のように思われます。

  ▼

 おそらく、世の中は、さらに業績社会化・計量社会化の方向に進むものと思われます。こうしたとき、もし、わたしたちが業績社会・計量社会から「逃走」することが不可能であることを前提とするならば、せめて「何」を「計量単位」・「業績単位」と設定するかについて、「徹底的な議論」と、時には「あからさまな抵抗」を示した方がいいように思います。

 僕はサルコジ元フランス大統領の業績や人柄は存じ上げませんが、下記の書籍において、彼は素晴らしいことを述べられております。

「ますます業績志向になっていく社会において、計量単位は重要である。計量するものによって我々の行動は影響を受ける。

もし計測する基準が間違っていたら、われわれは間違ったものに向けて努力してしまう」

(サルコジ・元仏大統領「暮らしの質を測る」内から引用)

 業績社会・計量社会のなかで、わたしたちに許されているのは、「何を計量するのか?」という計量単位に対する徹底的な議論なのかもしれません。

 その成果指標、本当に、本当に、それでいいの?
 間違った方向に「成長」しない?
 意図せざる方向に「前進」しちゃわない?

 「指標を設定するということ」は、「伸びる方向を決めること」なんだよ。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2015年7月30日 06:24


【前の記事へ移動: 無気力と怠惰と傲慢さは、いかに「学習」されるのか?:人に接する職業にひそむ罠!? ...】  

無気力と怠惰と傲慢さは、いかに「学習」されるのか?:人に接する職業にひそむ罠!?

 先だって、病院の受付で、あまりに惨い受付に出会いました。とても混雑している病院だと聞いており、かつ、家から電話をして診察時間を確かめたときから、電話ごしに「あっ、雰囲気、やばそうだな」と思ったのですが、案の定、「むごい経験」が待っていました。子どもとともに茫然。あべし、ご愁傷さま。

  ▼

 しかし、こうした一瞬でも、「なんちゃって研究者」のはしくれたるもの、研究マインドは衰えません。ここは「親子」で「幽体離脱」し、「研究スイッチ」を入れるときでしょう。僕にとって、研究者とは、「寝てもさめても、24時間、研究のことばかり考えている人」をいいます(他の方にとっての定義は知りません)。

 研究スイッチON!
 きゅるーウィンウィンウィン(笑)

 まず、この「無気力」で「怠惰」に思える対人態度は、どのような経験の蓄積によって「学習」されたのかに思いをはせ、彼女が為してきたであろう長期の「経験学習」を想像します。

 思うに、病院の受付とは、患者からのクレームや要望が殺到するフロントラインであり、患者の中には「ややこしい患者」もいたのかもしれません。そのような患者を相手にすることを長期に繰り返していれば、そのような対人態度が「学習」されたのも無理はないことです。

 また、この、あまりに「傲慢」に思える「他者への態度」は、なぜ、これまで「アンラーン(学習棄却)」されずに、ここまで残存してしまったのかに思いをはせ、この病院の「職場における学習」のプロセスを想像します。彼女は、いかなる他者のネットワークの中にあり、いかなるフィードバックを得ていたのか。

 外見から想像するに、彼女は「年配者」であり、この病院でも「古株」に思えます。
 きっと業務知識を豊富に有する彼女に対しては、何かリフレクションするべき事態がおこっても、他者からフィードバックをうける機会は「限定的」だと考えられます。
 先生はとても「よい人」なのですが、そのやさしい性格にくわえ、診察室と受付は隔絶されており、かの先生が扉を一枚隔てた人に対してフィードバックをかけられるようには思えません。「先生がとてもよい人」というまさにこの1点が、この病院のレピュテーションを高め、受付の怠慢を相殺してしまうポイントとしても機能することが想像できます。

 かくして「経験から学び」「職場から学べず」に、僕が経験することになった「惨い対人態度」が形成されたものと考えられます。
 
 学習とは、「ポジティブな方向」にむくとは限りません。
 学習は「ネガティブなもの」にもひらかれているのです。
 ネガティブなものを「獲得」し、ネガティブに振る舞うことを覚えること
 それも「学習」です。

 しかし、この解釈にも一定の限界があることも最後に付記しておかなくてはなりません。それは「通院という出来事の非対称性から生じるバイアス」です。
 ここでいう「通院という出来事の非対称性」とは、受付の方にとっては「患者が通院してくるという出来事」が、「日々、数分単位で繰り返されるオペレーション」であるのに対して、患者にとって、それは「当事者意識の強い、一回性の、しかもネガティブな出来事」であるという事実です。すなわち、ここには立場の違いによる「非対称性」が存在する。

 ということは、もしかすると、彼女がそれほど「やばい接客」をしておらず、いつものように接しているのだけれども、患者の方からみれば、それが「疳の虫に触る可能性」があります。患者にとってみれば、通院とは「苦しい」中で、藁をもすがる思いで成し遂げる出来事であるのだから。
 そう、ここで、彼女を厳しい面持ちで見つめる「僕自身」の目にも「バイアス」がかかっていないかを、検証する必要があります。

 嗚呼、なるほど。
 現場の問題は、いつも根深い。

 そう考えると、なんだか「怒り」が収まり、仏像のように非常に穏やかな面持ちで、受付を後にして診察室に入ることができました。
 嗚呼、わたしに、穏やかな思惟の時間をありがとう。学問とは素晴らしいものです。

 さっ、診察うけよ。

 ▼

 帰り際、また受付をとおります。
 あっ、今度は人が変わりました。先ほどの女性はいなくなり、新たな方が受付にたっています。

 会計時、今度の受付の方は、非常に易しく、子どもにも接してくれます。そのほほえみに癒されました。興味深いのは、ここが、「先ほどと同じ病院」とは、あまり思えません。受付のクロゼットの色すら「暖色」に見えてくるから不思議です。嗚呼、あたたかい。

 そう、結局、「人」なのです。
 「人」で「風景」は変わるよね。

 そして、人生は続く
 
 

投稿者 jun : 2015年7月29日 05:38


【前の記事へ移動: 年配者の経験談を「オレオレの押し売り」にしないためには!? 】  
【次の記事へ移動: 業績社会化・計量社会化する「世の中」で、間違った方向に「成果」を出さないためには ...】 >

年配者の経験談を「オレオレの押し売り」にしないためには!?

 ちょっと前のことになりますが、テレビ番組「情熱大陸」に高田純次さんが登場なさったことがあります。

 高田純次さんといえば、僕の中では、子どもの頃に家族で見ていた「天才たけしの元気がでるテレビ」のレポーター役がもっとも印象にのこっている姿であり、それから数十年後、68歳の今なお、元気で活躍なさっていることに、まずは驚愕しました。

 

 番組の方も、「68歳の今なお、現役で活躍できること」をフィーチャーしており、そのことも踏まえ、高田純次さんの魅力に迫っておりました。

 番組のなかで高田純次さんは、こうおっしゃいます。

 肩書きは第三者が決めるからね
 歳とってやっちゃいけないことは
 「説教」と「昔話」と「自慢話」
 だからおれ、この3つ無くしてるからエロ話しかできない

 嗚呼、自戒をこめて申し上げますが、高田さんの、この言葉にドキッときた方もいらっしゃるのではないでしょうか。かくいう僕も、まだペーペーなのですが、最近、この3つが「全くない」わけではないな、と思いました。年齢を重ねると、若い人に対する「説教」と「昔話」と「自慢話」が一般的に増えていくのでしょう。おー、気をつけなければ!あぶない、あぶない。

  ▼

 とはいえ、年配者の経験談というのも、全くの「有害物質」かと問われると、そうではない一面ももっている気もします。うまくもちいれば、後輩からみれば、非常に学ぶことの多いリソースになる可能性があるものです。
 僕の専門は人材開発ですが、「年配者の経験を、自社の人材開発に活かせないだろうか?」というご相談は、頻繁に寄せられます。

 これにはいくつかコツがあるのですが、もっとも大きいことは何かと申しますと、

「経験談を、ほったらかしにしない」

 ということです。つまり、年配の人だけが経験談をしゃべくりたいだけ話して、それで終わり、という「新春大放談的」な場にしないこと。そうした場は、たいがい

 オレ、すげーだろ
 オレの過去、いかしてるだろ?
 オレ、今も、イケてるだろ?

 というような「オレオレの押し売り」になりはてます。そして、そのような場をつくると若手は「やらされ感」が漂います。

 むしろ「経験談を、ほったらかしにする」のでは「なく」、それを素材として議論をしたり、質疑を活発にしたりする。つまりは、経験談に「インタラクション」を交えていくことがもっとも重要なことだと僕は思います。たとえば、仮に今、60分時間があったとします。そうであるなら、経験談は20分でもいいくらいです。残りの40分はインタラクションにあてるくらいの覚悟がなければ、僕は、個人的に経験談のセッションは組みません。大切なことは、年配の数ある経験談の中から、「若い人=聞き手が知りたいこと」についてより深い理解につながる話しあいができるか、どうかということです。

 これまでかかわってきた現場、そういえば、先日かかわった現場でも、工夫して経験談を料理しておられました。経験談の危険性と可能性をよく熟知しておられる人材開発の方が、機転をきかして、場をつくっておられたのが印象的でした。

 ▼

 今日は高田純次さんの話題から、なぜか?「人材開発における経験談」の取り扱いに話が飛びました(笑)。休み明けなので、そのようなこともございましょう。

 いずれにしても、「押し売り」をしたりせず、若い人々とはしっかり向き合いたいものです。

 そして人生は続く
 

 

 

 

投稿者 jun : 2015年7月28日 06:14


【前の記事へ移動: 人材開発の仕事は「企画8割、運用2割」!? 】  
【次の記事へ移動: 無気力と怠惰と傲慢さは、いかに「学習」されるのか?:人に接する職業にひそむ罠!? ...】 >

人材開発の仕事は「企画8割、運用2割」!?

 仕事柄、人事・人材開発を企業で担っている方で、かつ、これまでに様々な接点がある方々から、人材開発に関する種々の相談をお引き受けすることがあります。

最近増えているように感じるご相談事項としては、

人材開発を担ってくれる人を採用したいのだけれども、思うように人がとれない

です。
このお悩みに直接お答えすることはなかなか難しいのですが、半分、ぼやきのようなかたちで「中原さんのお近くにいい人いませんか?」と聞かれることが少なくありません。
最近も、同種の3件のご相談を、別々の組織におつとめの方からご連絡いただいたくらいなので、よほどのことなのでしょう。皆様のご苦労に同情を禁じ得ません。

 ここで興味深いのは、「人材開発を担ってくれる人」ということで、どういう能力要件(人材スペック)をもった個人が求められている、ということです。

「人材開発」というからには、「講師ができる」とか「ファシリテーションが上手だ」とか、そういうスペックが思い浮かびそうですが、僕の周囲で求められている人材はそうではありません。それはできるにこしたことはないけど、絶対の要件ではないように感じます。

 もっとも求められているのは「企画力」です。
人材開発の基礎知識・基礎的な概念・語彙については周知し、過去に人材開発のプロジェクトを立ち上げた経験を有しており、新たに企画をたてて、人を巻き込んで、それらを実行できること。それがもっとも求められているように感じます。ま、あたりまえのことですが。ほかの仕事と同様、人材開発の仕事も「企画8割、運用2割」です。

その際、外国語を扱えることも、プラスの材料になることも増えているようです。
といいますのは、昨今の日本企業は、多国籍企業との企業合併をくりかえしており、人事プロセスの設計などが、海外企業の人事・人材開発担当者をまじえて行われることも増えています。
給与や処遇などは、それぞれの国で雇用慣行がありますので、それらを統一することは難しいのですが、まずはリーダーシップ研修から、まずは人材開発から、ということになりがちなようです。
そういうわけで、人材開発担当者の方々のテレカン(テレビカンファレンス)の利用度は増えていく、ということでしょうか。海外の場合、人材開発の仕事がプロフェッショナルとして確立している企業もありますので、先程申し上げた「人材開発の基礎知識・基礎的な概念・語彙」については、さらに必要になります。
ま、こちらも一般論としていえることではないですが、僕のまわりでは、テレカンと専門用語に苦労なさっている方が、増えているような気がするのは、気のせいでしょうか。

今日は人材開発の仕事について書きました。
人材開発の仕事は、「講義のスキル」とか「ファシリテーションのスキル」とか「ワークショップデザインの能力」とかがよく注目されますが、「企画力」「巻き込み力」といった、より上位の経験が求められているような気がします。

世間では、グローバル人材が求められる、とよく言われます。
グローバル人材を求めるのであれば、その人材を養成する側も、グローバルな仕事のあり方に適応することが求めらるのかもしれません。

そして人生は続く

 
 

投稿者 jun : 2015年7月27日 08:51


【前の記事へ移動: もれなく「廃人」になれるラップアッププレゼンテーション!? : 聴衆にフィットし ...】  
【次の記事へ移動: 年配者の経験談を「オレオレの押し売り」にしないためには!? 】 >