スーパー他責ピーポー「くれない族」にご用心!?

 せんだって、学内のある会議で議論していたとき「くれない族」という言葉があるのを、うかがいました。

「くれない族」とは「あの人は〜くれない」「課長は〜してくれない」と、様々なところで不平不満を「他者の行動」に向け、「くれない」「くれない」を連発する「スーパー他責ピーポー」のことをいうのだそうです。
「被害者意識満載のスーパー他責ピーポー」、それが「くれない族」です。なんで、こんなものが議論の対象にのぼるんだか(笑)。

 僕のあまり長くはない人生経験をもってみても、確かに、そういう人っているよね、と思います。うん、3万人くらいはいる(笑)。きっと(笑)。

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「くれない族」は「今起こっている不都合な現象」に対して、自分が及ぼしている影響力のことを1ミリも考慮せず、常に「傍観者」的視点から、周囲の行動のみを批判します。

 興味深いのは、ある事象に対する「自己の要因」は、くれない族の頭からは、都合良く、きれいさっぱり抜け落ちていることです。

 「くれない族」の態度は、おそらく、長らくの経験の蓄積から、「学習」されてしまったものだと認識しています。

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 対して、この世に「反くれない族的志向」というものが存在しうるのだとすれば、それは、

 周囲にどんな「面倒な事態」が起こったとしても、自分の行動や認知が、その事態に及ぼしている影響はゼロではないことを想像すること

 そして、

 もし自己が「面倒な事態」に少しでも影響していたのだとしたら、「面倒な事態の変革」に、何らかのかたちで貢献しようと思う「意志」をもつことだと思います。

「主体性」というのは、巷でよく使われる言葉ですが、僕は、そういう知的態度こそ、「主体性」とよぶのにふさわしいのではないかと思います。

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 僕個人の考えを述べれば、「主体性」とは、「自分の頭で考えること」でも「自分自身で動くこと」というレベルのものではありません。
「自分勝手に考えること」や「自分の意志で動くこと」は、要するに「How」の部分を規定している概念であり、それほど難しいものではありません。あるいは、いくらでも「ふり」ができると僕は思います。

 都合良く「自分で考えて動く」のだけれども、起こっている事態にはコミットせず、「くれない」「くれない」を連発するってことは容易に想像できます。僕は、そういう事態を「主体性」という用語で把握したくはありません。

 ここでもっとも重要なのは「動くこと」や「考えること」の「宛先」であり「到達点」です。
「何」に対して、あなたは考え、動くのか。そして「何」をめざすのか?という「What」がもっとも大切なことであるように思います。

 僕は「主体性」という言葉を「今、ここで起こっている事態」に、自らの身体を投企し、潔く動くことをよしとするか、否か、という「腹のくくり方」のことを指示するもの使いたいと思います。

 そして、トートロジカルになることを承知しつつ申し上げますが、こうした「主体性」は、主体生を行使する経験を通してしか獲得できません。

「今ここで起こっている事態」に対して、自らが影響力が存在しうることを想像すること

 その上で

「今ここで起こっている事態の変革」に対して、自らが為すべきレベルで貢献を行うこと

 こうしたスパイシーな経験を蓄積することでしか、こうした態度は身につかないのだと思います。
かくして、「主体性を獲得するためには、主体性を行使する場面が必要になる」という奇妙奇天烈な関係が成立します。

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 今日は「くれない族」と「主体性」について書きました。
 
 個人的な思いを綴ったので、そのあたりは差し引いてお読み頂ければと思いますが、願わくば、これからの時代を生きる若い人々には「主体性」を行使する経験を、なるべく早くからもっておいて欲しいと願います。

「くれない」「くれない」を連発していても、誰も「くれない」よ。
 
 そして人生はつづく