「コージーコーナー話題のゼリースキル」と「おれは死んだふりコンピテンシー」

 人材の言説、人材育成の業界では、今日も、新しい「コンピテンシー」やら「(なんとか)力」が生み出されています。「ほれ・・・これからは、ほにゃらら力」だとか、「やれ、これからは・・・スキルが必要だ」とか「それ、日本の成人には・・・コンピテンシーが足りない」だとか。
 毎日、生み出されているように感じるのは、僕だけかもしれませんが、管見に関する限り、世の中には、そうしたものが溢れているように感じます。

 小生、スキル論にも、コンピテンシー論にも、全くの「ど素人」なので、その真価・真偽、そして歴史的経緯は知りません。

 ですので、根本的には、そうした議論は横目に見ながら、本当に必要があればキャッチアップしようくらいの態度で接しているのですが、時に、華々しく提唱される「これからの・・・スキル論」「これから・・・コンピテンシー論」をきいておりますと、小生などは、たまに「目眩」を感じ、クラクラしてしまうときがあることを正直に告白せざるをえません。

 なかなか遅々としてすすみませんが、自分がヒアリングを積み重ねている、非常に生々しい、ビジネスの現場の悩みや課題、そして、それに対する各種のマネジメントとの世界との「ギャップ」に、どうも頭の中で整理がつかなくなり、非常に困惑してしまうのです。僕が耳にしている世界の方々も、同様に「これから」を見ていらっしゃいる「これからの方」です。しかし、同じ「これから」を見ていても、そこには目眩を覚えるほどのギャップがあるように感じます。

 たとえば、様々な雇用形態の方々が働く、あるマネジャーは、こんなことをおっしゃいます。この方は、月に一度「節目」に、職場でスイーツを振る舞っているのですが、こんなひと言をヒアリングの最後でもらしておられました。


 今日は暑かったから、アイスかな、とか。でもね、これも、サプライズがいるんですよ。毎月毎月やってたら、(スイーツ)が出てくるのがあたりまえになってますから。毎回、コージーコーナーのシュークリームでは、では、いけないんです。ゼリーの新商品とか、その季節にあわしたものとか、(みんなが職場で)話題になるものを選ぶのです。

 多様性あふれる方々が働き、必ずしも昇進・インセンティブだけではモティベーションを保てない場合、職場メンバーのモティベーションやコミュニケーションをうながし、成果をだしていく。
 このマネジメントの営為を、「第三者」は、「コージーコーナー話題のゼリースキル」と名付けるのでしょうか?

 たとえば、あるマネジャーは、職場をひきいるために、会社(本社から)のメッセージは、敢えて「スルー」するときがあると答えます。

 みんな、しんどく、忙しく働いてね。ようやく年度末乗り切った、と。数字達成したぞ、と。そしたら、4月1日になったら、やれ来年の、目標だせだの、なんやらかんやら、本部は、舌も乾かんうちから、やれやれやれやれ、行ってくるんです。そら、現場は、やらされ感漂いますがな(中略)やれ、やれ、やれ、って、これまでも、やってるがな、まだやれっちゅうんか。何をどないせいっちゅうねん。  そういうときは、つかの間であってもね、現場を読んで、現場立てな、あかんのです。おれは黙ったるぞ、と。本部が何をいうても、現場には、何も、指示しません。

 要するに、つかの間のあいだかもしれませんけれど、「死んだふり」を決め込むということですね。マニュアルには書いていないけれど、しかし、職場を率いていくためには、マネジャーにとって必要かもしれない機微。こうしたものを「おれは死んだふりコンピテンシー」と名付けるのでしょうか。

 閑話休題。

 今日も、また要領を得ない話になりました(笑)。別に、だからどうしてくれ、とか、だから、こうするべき、とか、僕は思いません(というより興味がない)。ただ、こういう議論を聞いておりますと、僕個人が、時に「目眩」を感じるときがありますよ、というだけの話です。

 ただし、ひとつだけ「間違いのないこと」があります。
 それは「これから・・・なんとか力」「これからのコンピテンシー」を「獲得」した人々が出会う、将来の職場とは、こういうリアリティにあふれる場所である可能性が高い、ということです。

 そして人生は続く