「盛り上がったけど思考停止しているワークショップ」と「沈黙しているけどダバダーと深く学んでいるワークショップ」!?

 研修やワークショップなどを実施した際、その様子を「語りうる言葉」の問題について、ちょっと前になりますが、ある方と議論になりました。たしか、研修の効果測定での議論だったように記憶しています。こんなしょーもないことに対して、ぐだぐだと議論しているのは、僕のまわりくらいだけかもしれませんが(笑)、別に暇人なわけではありません。いたって真面目なのでございます(笑)。

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 研修やワークショップなどを実施したあとで、その様子を語りうる場合、もっともよく用いられる言葉というのは、

「めちゃめちゃ、盛り上がりましたよ」
「いまいち、盛り上がりにかけましたね」

 というものですね(笑)。いわゆる、ひとつの「盛り上がり度」です(笑)。

 人は何を見て、その研修やらワークショップやらを「盛り上がっている」と意味づけるのか、というRQ(リサーチクエスチョン)も、これまた味わい深いのですが、今は、それについては触れないようにしましょう。

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 もっとも興味深いのは、「盛り上がっている」という研修・ワークショップ状況の記述は、研修やワークショップの「プロセスを語る言葉」であって、「成果を保障していないという事実です。仮に、それらの成果を、受講生が「考えること」「行動を変えること」におくならば。

 たとえば、

「わーわーと盛り上がったけど、誰一人、問題については、まともに考えちゃいない」

 とか

「めちゃめちゃ盛り上がったけれど、ひとっこ一人、行動をかえていない場」

 というのは存在しうるということになります。

 反対に

「みな沈黙しているのに、しかしそれでいて個人の頭の中は、まったりとディープラーニングしている、ダバダーなワークショップ」

 とか(意味不明)

「盛り上がりは今ひとつかけるが、そこに参加している個人が、考え込み、行動を変えるきっかけになる場」

 いうのも存在するかもしれません。
 つまり、「ものを考える」「行動を変える」という軸は、「盛り上がる」という軸とは直交し、様々な可能性の象限をつくりうるということになります。
「盛り上がっているけど、成果はシオシオのパー」とか「盛り上がっていないけど、渋く成果を生み出している場」というのは存在し得ます。
 しかし、ややこしいのは、「盛り上がっている」というものが、もし学習者同士の相互作用の頻度であるならば、それは、第三者が外的に観察可能ですが、後者の「考えている」とか「行動を変える」というものは、その時点で外的に観察可能なことではありません。それは「個人の内部にある潜在的な要因」であるか、「未来にひらかれている要因」ですので、その時点での研修を語りうる言葉としては、やや不足があります。まぁ、帯に短し、たすきに流し、という状況なのかもしれませんね。

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 今日は「研修・ワークショップが盛り上がること」ついて書きました。もちろん「えぐるように盛り下がる」よりは「そこそこ盛り上がった」方がいいような気もしますけれども。

 そして人生は続く