誰のために評価はあるの!?

 ちょっと前のことになりますが、ある方と話しているときに、ふと話が「評価」のことに及びました。その方は、「評価は学習者がよりよく学べるために行うものであり、それが理想なのだ」ということをおっしゃっていたのですが、どうも、これが僕にはひっかかっちゃったんだねー。

 いいえ、別に異論があるわけではないんです。「評価で、教育活動が何らかのかたちで改善されるのならば、学習者にとってとてもよいこと」でありましょう。

 というよりも、「それだけなのだろうか?」、と、ふと思ってしまったのです。小学生的にいうと、「つけたしー」とか言って、手をあげちゃう感じ。

 最終的に「メリット」を享受できるのは学習者であることに全く異論はないのですが、それとは違った側面があるんじゃないかな、と思ったのよ。

 結論からいうと、評価は「教育に変革を起こそうと思っている側」のためにもなるのではないかと思うのです。それを行わないと、なかなか「変革」を長続きさせることはできない。今風にいうと、サスティナビリティが確保出来ないわけです。

 ここで重要なのはさ、「長続きしない」のは「教育に変革を起こそうと思っている側」が「サボッてる」とか、「タルんでる」、とかそういう問題ではないの。そういうところで、青筋立てちゃいけないの。「教育で手を動かしたことのない人」ほど、ここで「ケシカラン」といいがちだけど。

 これ、宿命なんです。教育という営みの性格と、人間の性(サガ)から導き出される宿命よ。だから、この宿命に「静かなる抵抗」を行うために、評価が必要なのですね。

 なんだか、よくわけがわからなくなってきましたので(笑)、まず、「教育」に関して、もっとも基本的なことを押さえましょう。それはこういうことです。

「教育に王道がない故に、ある一時輝いて見えた変革は、必ず色褪せてしまう」

「教育に、変革をもたらしたとしても、その効果は、なかなか目に見えにくく、変革をもたらした側にとっても手応えを実感しにくい」

 なんだ、アタリマエのコンコンチキだと思うかも知れませんが、これを押さえることは、とても重要だと僕は思います。

 まず、「変革は必ず色あせる」というのはアタリマエだよね。だって、最初のうちは変革であっても、だんだん日常になっていくんだもん。そうなると惰性ですよ、まさに「終わりなき日常」。

 また後者の方、教育は、「タミフル」とか「バチスタ手術」とか、そういう類のものではないのです。変革の効果は、劇的にドパーンとでてくるものではありません。どちらかというと、漢方?・・・。

 いや、よくわからないけれど、とにかく、「ある日、突然、子どもが変わりました」っていうものじゃない。それは教育じゃないよ、なんか変なもん食わせただろう(笑)。

 とにかく、教育の効果は目に見えにくい。それを「目に見える」ようにするための手段が評価ということになります。それはテストかも知れないし、面接かも知れない。

 いずれにしても、何らかの「介入」を行って、手応えを「実感」できるのです。変革の効果は「見えるようにするための手段」を講じないと「見えません」ということになります。

 で、この「見えにくい」「手応えを実感しにくい」という性質のおかげで、評価がない場合、どうなるかというと、こうなっちゃうんですね。

「変革の手応えが、いつまでたっても、実感出来ないから、だんだんヤケのヤンパチになって、焦り出す」

「変革の効果が見えないから、どんどん中だるみをおこすようになっていく」

「変革の効果を、誰にも説明出来ないから、変革の方針の確からしさを確認できずに、どんどんと不安になっていく」

 これは人間の性ですね。誰だって、フィードバックのないアクションなんて、長続きしない。そんな強いものじゃないの、人なんだから。焦りだしたり、もういいよ、ってことになったり、不安になっちゃうんです。

 で、どうなるか・・・。

 その先にあるものは、「変革の終わり」ですよ。いつしか「変革」は忘れ去られ、闇に葬られます。

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 評価というのは、ある変革をサスティナブルにする効果をもっているのですね。そしてそれは変革を起こす側のメンタリティを支える至言にもなる。結局、最後は学習者にとってのメリットになる可能性もあるんですけどね。

 その人と話しているあいだ、僕は、そんなことを考えていました。

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