90分に慣れ親しんだ「わたしの身体」!? : アンラーニングと適応の春

 東京大学は、今年度から、1コマあたり90分だった授業が105分に延長されました。背景には「単位の実質化」とよばれる問題やら、何やらかんやらあるのですが、ここでは、ややこしいので詳細に触れません。
 要するに、これまで1コマあたり90分だった授業が、15分増えて105分になったということです。

 たかが15分とよばれるかもしれませんが、これが、授業をする側からすると、なかなか「大きな変化」です。僕だけですか? もしそうだったらすみません。

 要するに、僕自身が15年にもわたる大学教員歴の中で、90分授業に、身体感覚・時間感覚が慣れ親しんでしまっているということです。そして、突然授業時間が15分ふえても、うまく、その時間をとり扱えないのです。
 「いかに自分が90分授業に慣れ親しんでいるか」なんてふだんはあまり考えませんが、今回の授業ではそのことを痛感させられました。

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 先だって行われた大学院の最初の授業では、「今年は15分増えたから、今までよりじっくり話せるな」と思って、レクチャー部分を増やしました。ところが、これが大失敗。
 もともと、これまで僕の授業は90分の授業のうち、冒頭15分が僕のレクチャー、残り1時間は学生のプレゼンとディスカッション、最後15分が僕のレクチャーとなっていたのですが、このうち冒頭の15分のレクチャーをがっつり増やしたのです。

 しかし、、、増えた「15分の感覚」というのが、どうにもわからず、結局、授業は最後は「時間切れ」。「人材開発の歴史的展開」の部分を次週に回すことになってしまいました。トホホ。
 わたくしとしたことが、「時間切れ」なんて初歩的なミスを!(僕は、授業・講演いずれにしても、絶対に時間どおりにはじまり、時間通りに終わることをプロとして信念としているのです・・・ま、アタリマエですが)

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 このように、自らが長いあいだ「適応」しているものは、本人は必ずしも「自覚的」であるとは限りません。このようなことは、みなさんにもあるのではないでしょうか。
 いいえ、たいがいの場合、個人は「適応」しているものには「無自覚」で、そのことが「適応は適応を阻害する」という事態を招くのだと思います。これに類する経験をおもちの方も、少なくないでしょう。

 「適応は適応を阻害する」とは、「"中長期によって実現したある適応"は、"後続する環境変化への適応"を邪魔してしまう」ということです。

 長いあいだ慣れ親しんでしまった「90分の身体・時間感覚」をいかにアンラーンして、新たな105分環境に適応するか。
 僕自身も、日々、アンラーンと適応のループの中にいます。

 そして人生は続く