合宿をデザインする!? : 「飲んで、食って、温泉入って、二日酔いで帰る」を避ける!?

 最近、多くのビジネスパーソンとお話するなかで、気になりはじめたことのひとつに「合宿」があります。

 昨今は、ダイバーシティあふれる環境のなかで仕事をなさる方が多いので、チームの方向性や職場の目的を「腹をわって」、話し合ったり、あるいは、IT系の方々だと、新たなプログラム開発のために、「合宿:Gashuku」に出かける方が多くなっている印象です。

 そして、僕が気になっているのは、この「合宿」にあります。海外ですと、レトリートとか、オフサイトとか、Woods learningとよばれる活動に近いのかもしれません。

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 そもそも「合宿」とは、辞書的定義を斜め読みして要素に分解すれば、下記のように要素分解できます。

 すなわち、

1)日常の社会生活から切断された場所において
2)特定の目的を共有する複数人の人々が
3)一定期間、起居を共にしつつ
4)目的達成に資する集合的活動に従事すること

 つまり「合宿」とは、そもそも単に「宿泊する」だけではないですし、「勉強・練習・開発」をするだけの場ではありません。まして、「夜のエンドレス飲み会」を愉しむ場ではありません。

 それは、強制的に「日常からの切断」と「生活経験の共有」することをとおして、「メンバーシップの強化」と「集合的活動の深化・強化」をはかり、「目的達成」を円滑にするための「学習(再学習)機会」と、意味づけられます。
 
 しかし、この「合宿」というものに対して、わたしたちは、それをどのように実施するか、ということについては、あまり体系的な知を持ち合わせていません。もう少しシャレた言葉を使うのなら、わたしたちは

 合宿をいかにデザインすればいいのか?

 ということについて、プリミティブな認識しかない印象があるのです。そこについて、既存の理論が答えうるのは、あまりにも限定的である印象を僕はもっています。

 例えば、いわゆる教授設計理論は、教授の場を超えたもの、たとえば「食べること」「生活すること」や「集団のメンバーシップを強化すること」に関しては、明確な答えを持ち合わせていません。

 経営学の観点でいうと、組織社会化の理論や、組織開発の理論が、それに該当するのかもしれません。たとえば、組織社会化の理論は「生活経験の共有」や「日常からの切断」に関する理論的意味づけを行うものの、それを「デザインする知見」をあまり持ち合わせていません。「実践としての組織開発」は、たしかに合宿の形式で行われるものの、そこで語られる手続きは「組織開発の手法」に限定されています。

 つまり「研修のデザイン」については語られていても、「合宿」はデザインすることに有用な知は少ない。「合宿」で起こっていることを「社会化の専門用語」で解釈することはできても、「合宿はデザインできない」。すなわち「合宿のデザイン」は「ブルーオーシャン」のように見えるのです。

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 しかし、今、世の中で求められていることは、「研修のデザイン」もさることながら、「合宿のデザイン」なのだと思います。
 単に「学ぶ」のではなく、集団の凝集性を高める。目的をしっかり共有する。そういうことが求められているような気がします。

 合宿の最大のメリットは、「比較的まとまった長い時間を共有できること」にあるのですが、それは安易に時間を過ごしてしまった場合、容易に「デメリット」に「反転」します。

 要するに、

 飲んで、食って、温泉はいって、ちょびっと作業して、また飲んで、朝は二日酔いになって、帰る

 ことになるのです。

 いそがしい現代であるからこそ、いったん立ち止まり、じっくりと腹をわって、お互いに向き合う。そういう貴重な時間をいかに過ごせばいいのか。そういうことに関心をもって、今日も電車に揺られています。

 そして人生は続く

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追伸.
「合宿のデザインの知」に比較的近い領域として、野外教育の知、キャンプ研究があります。その話は、また別の機会に!