消えゆく年賀状?

 昨日、車を運転しながらラジオを聞いていたら、「新年の挨拶は、年賀状にするべきか、それともメールでよいか」という話題がでてきた。

 この話題は、もはや、語り尽くされた感があるので、ここで、敢えて僕が取り上げることもない。が、僕個人としては、「新年の挨拶は、やはり年賀状でお送りしたい」と思っている。

 理由は下記のとおりだ。

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 新年の挨拶は、いわゆる「儀式」のようなものである。あらゆる「儀式」とは、面倒くさく、もってまわるような煩雑さをともなう。そういうものなんだから仕方がない。年賀状が、日常とは異なる「儀式」である以上、必要不可欠の「演出」と、それをおこなう上での何らかの「負担」が不可欠である。

 一方、メールとは、僕にとっては「日常的」な仕事道具である。一般にメールは、要点だけ書いてあるものがもっとも望ましいと言われている。そこには、「煩雑さ」もなければ「演出」もない。「負担」はないにこしたことはない。

 よって、新年の挨拶は、メールには向かない。たとえ煩雑であっても、年賀状を書いた方がいい。

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 ということになる。

 もちろん、この考えは僕個人の考え方である。これを誰かに強制するつもりはないし、そもそも年賀状をださない自由を侵害するつもりは、毛頭ない。

 人の勝手じゃない、と思う。

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 ちなみに、我が家の年賀状づくりは、12月中旬からはじまる。その年にあった出来事を、週刊誌風のレイアウトで綴るのが、毎年の恒例である。「週刊女性」をもじって、「年刊中原」と呼んでいる。

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 大変面倒な作業であるけれど、どうせやるなら誰もやらないオリジナリティがあった方がオモシロイ。こんなところで、発揮しなくてもいいとは思うけど。

 というわけで、今年もせっせとつくりました。楽しんでいただけたでしょうか。長く東京を離れているので、まだ、いただいた年賀状を拝見していないのですが。

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 年末のニュースによると、年賀状は、前年比6.7%減の19億1000万通となったという。年賀状はきっと、段々と、現在の「暑中見舞い」的なポジションにうつっていくのかもしれない。

 たとえそうだとしても、僕個人としては、年賀状をお送りしたいと思う。「何でもメールで送れば1秒」ですむ時代の恩恵を日々受けているからこそ、敢えて、1年に1度くらいは、煩雑さを引き受け、儀式を楽しみたいと思う。