残された時間は・・・

 最近の研究ノートより、下記引用。

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「公立校を地域の"学びのコミュニティ"として再編しよう」とする教育思想の、最もナイーヴな点は、コミュニティを中心とした地域の「再編」や「再構築」をコーディネーションできる専門性のある人材が、そもそも全国に多いわけではない、ことにあるのではないかと思われる。

 もし、それを中軸原則として、公立校や地域を再編しようとするならば、それが可能な「専門性のある人材」を育成することにも取り組まなければならない。

 現在のところ、"学びのコミュニティ"は、研究者のアクションリサーチを主導として展開されることが暗に期待されている。が、そういう研究者や、研究マインドをもった実践家は、それほど多いわけではない。

 一言でいえば、

 まー、それでもいいけど、で、誰が、やんの?

 これである。

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 もう1点ナイーブだと思われる点は、"学びのコミュニティ"が、自己目的化してしまうことにある。

 ともすれば、「学力低下論」や「基礎学力の向上」などの社会ニーズに対して、それとは全く逆の立場として、「学びのコミュニティ」を位置してしまう傾向があるから、話がややこしい。

 圧倒的に社会ニーズの高まっている学力低下論に相対するものとして、それを布置してしまうと、いわゆる「基礎学力か、学びのコミュニティか?」という単純な二項対立に議論が回収され、本来理論がもっていた豊穣さ、可能性が失われる。

 事実、

「学校が学びのコミュニティである方がいいですか、それとも、百マス計算がいいですか?」

 という二項対立図式を持ち込んだ質問を(本来は二項対立になるわけがないんだけど・・・)、保護者に問うた場合、前者を選ぶ人はほぼ皆無だろう。

 たとえ、教員や学校長が、「後者を選びたがる保護者」を何とかかんとか説得しようとしても、非常に困難であることが容易に予想される。

 本来、「学びの共同体」は、学校と社会の組織原理であるはずだ。つまり、「よい教育」を実現するための「手段」のひとつであって - つまりは市場における競争を中軸原則とした教育理論がその「手段」のひとつであるのと同じように - 「目的」ではない。ところが、これが自己目的化してしまうことが多い。

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 一方、これに対する新保守主義的な教育改革にも、ナイーブな点がある。「なぜ、競争を経れば、教育がよくなるのか」という内部メカニズムに対して、誰も説明していないことである。

 正しくいうと、「競争によって、教育全体がよくなるのか、それとも局所的な教育がよくなるのか - つまりはすべての学校が底上げするのか、それとも、よい環境にある学校だけが、よりよくなるのか」全然わからない。

 全然わからないのに、その内部メカニズムに関しては思考停止する。「何となく、民間オーライ、競争オーライ」の雰囲気のもと、教育改革が進行している。

 昨今、いろいろ教師、学校の不祥事などが明るみになっているけれど、そういうことは、「民間」の人が担えば、「会社」が一部を担うようになれば、本当に減るのだろうか。

 そんなに、みんな「ミンカン」を信頼しているのか・・・

 と素朴に思う。「あのねー、ミンカンって言っても、いろいろあるぞ、いろんな人いるぞ」と思う。

 どんな社会であろうと、一定の割合で社会的不適格な人物はいるし、やはり一定の割合で、組織は間違いをおかす。

 ひとつの事件や事故をもって、ヒステリックに全体システムをそのたびごとに、場当たり的に替えることは、必ずしもよい結果を生まないように思う。それほどまでに不信感が募っているのだから、どうしようもないのかもしれないのだけれど。

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 ともかく、どちらの陣営も、「国民の議論が必要だ」というけれど、残された時間はそう多くない。