「人に変わってもらう系社会と「人に替わってもらう系社会」!?

 この世には、外部環境に相当の変化がおこった場合、

 「人に変わってもらうことで組織を維持・活性化しようとする社会」

  と
 
 「人に替わってもらうことで組織を維持・活性化しようとする社会」

 があります。

 「変わる」と「替わる」で、たいした違いはないように思えますが、今日は、このことを、あるセンテンスから考えてみましょう。

  ▼

 例えば、

「うちの組織には、今こそ、アンラーン(Unlearn)が必要だ」

 こんな言葉をもしあなた(日本が長い人材開発担当者だと仮定します)が耳にしたとき、あなたは脳裏にどんなイメージを思い浮かべますか?

 人材開発の世界で、「Unlearn」というと、一般には「すでに学んでしまったものを、痛みをともないながら捨て去り、新たな知識を獲得すること」と考えられがちです。

 ですので、

「うちの組織には、今こそ、アンラーン(Unlearn)が必要だ」

 というセンテンスは、

「うちの組織には、成功体験などに酔っている人などが多く、そういう人々は、すでに学んでしまったものをもう一度痛みを伴いながら、もう一度学び直す必要がある」

 と解釈されがちです。
 ここで喚起されるのは、あくまで、「個人が学び直すイメージ」です。

 しかし、
 
 「うちの組織には、今こそ、アンラーン(Unlearn)が必要だ」

 という言葉を、わたしたちとは別の社会の人々が耳にすれば、それは全く異なる意味に聞こえる場合もあります。

 国によっては、

 「うちの組織には、今こそ、アンラーン(Unlearn)が必要だ」

 という言明は、

 「うちの組織は、時代にあわないダメな部分があるので、それらを切り捨てなければならない」

 と考えてしまいます。言うまでも無く、ここで喚起されているのは、「取り替えるイメージ」です。「Unlearn」に関する海外の文献を読んでおりますと、ほぼ「Replace」の意味で用いられている研究に出会うことがよくあります。むしろ、そっちの方がマジョリティである気もいたします。

  ▼

 冒頭に戻りますと、僕は、この世には「人に変わってもらうことで組織を活性化しようとする社会」と「人に替わってもらうことで組織を活性化しようとする社会」がある、と述べました。このことからも、同じ「Unlearn」という言葉でも、ニュアンスがまったく異なること、そして、それはその国々の雇用慣行や社会文化背景に根ざしていることが、おわかりいただけるかと思います。
 皆さんはどちらの社会に、自らありたい、と願いますか?

 今週も「Unlearnの淵」に立たぬよう、Learnしましょう。
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年2月29日 06:52


「議論の修羅場」を乗り切るためのプロセスコンサルタントになるためには、いったい何が必要か?:

 今週、僕は、プロセスコンサルテーションについて学ぶワークショップに参加させていただいておりました。

 プロセスコンサルテーションの開祖、マサチューセッツ工科大学のエドガー・シャインによれば、「プロセスコンサルテーション」とは、

「コンサルタントが、クライアントとの関係を築くことをベースにして、クライアントが自身の内部や外部環境において生じている出来事のプロセスに気づき、理解し、それに従った行動ができるようになること」
(エドガー・シャイン「プロセスコンサルテーション」より引用・一部改)

 です。

 もう少しわかりやすく説明を足していくと、先日のブログにも書きましたが、

 プロセスコンサルテーションの仕事場とは「議論の修羅場」

 です。

 より具体的には

1.利害関係の異なるようなステークホルダーたちが集まって行われる「議論の修羅場」に

2.彼らを支援することを目指しながら、ニュートラルな立場で立ち会い、

3.そこで起こっている出来事(プロセス)を、議論の参加者に伝えながら(ミラーリング)しながら

4.ステークホルダーたちの議論が「成果」につながるように

5.インタラクションをガイドする役割を担う

 というイメージをお持ちになるとよいのかな、と思います。

 すぐにおわかりになるかと思うのですが、ある組織のメンバーが自分たちの独力で「議論の修羅場」を何とか乗り切れる力があるならば、多くの場合、外部の人に「プロセスコンサルティング」を依頼したりはしません。

 要するに、

 プロセスコンサルテーションの仕事の現場とは、「もはや、自力では、にっちもさっちもどうにもブルドック?的な会議の場所

 であることが多いものです(笑)。

 別の言葉を借りれば、プロセスコンサルタントの活躍の舞台は「焼き畑的にもうすべて焼き払われていて、もはやペンペン草すらもはえないような場所」です(笑)。

 そして、多くの場合、

 プロセスコンサルテーションの仕事には「火中の栗」をひろうようなシンドサがついてまわる

 と思います。

 くどいようですが、「組織が上手く回っている」ならば、プロセスコンサルテーションをわざわざ外部の人に依頼する必要はありません。それが「できない」から外部に依頼することが多くなるのでしょう。

 ま、ブログなんで、多少は大げさかもしれないけど(笑)、そんなイメージでプロセスコンサルテーションを捉えていただければと思います。

   ▼

 かくして、プロセスコンサルタントは、このような「議論の修羅場」を乗り切り、そこで交通整理をしなくてはなりません。

 今回、わたしたちはメアリー・アン・レイニーさんというNTL(National Training Laboratory)の先生から、そのスキルを学びましたが、この数日を過ごしていて、つくづく考えたことがあります。

 それは

 プロセスコンサルタントになる(Becoming a process consultant)には何が必要か?
 
 ということです。

 もう少しひらたく述べるならば、

 プロセスコンサルタントになるためには、どのような個人的資質、知識、経験が必要なのか?

 を僕はずっと考えていました。

 やはり、小生、一応、人的資源開発が専門(キリッ!なんつって)でございますので、何をみても、「育成」に関するネタが気になって気になって仕方がありません。

 今出先で手元に文献がございませんので専門的な議論は差し控えますが、この1週間、レイニーさんと過ごしていて、僕は、少なくとも下記に関する知識や専門性は、この仕事には必要だと感じました。

1.とにもかくにも観察力
2.グループや人間行動に関する知識
3.倫理
4.場数
5.分厚い皮膚(メンタルタフネス)

 下記では、それらを1つずつ論じてみましょう。

  ▼

 まず1は「とにもかくにも観察力」です。

 会議に対して効果的な働きかけを行うためには、とにもかくにも、その会議で何が起こっているか、を正確に把握することが求められます。これが「観察力(Observation)」です。

 会議で話されている内容(コンテント)の流れはあたりまえとして、その会議のテーブルの下では、どのような人間関係や権力関係、そして意志決定のルールが「渦巻いて」いるのか。そうしたもの「観察力」を駆使して「データ」を収集しながら、ある「意図」をもち、適切な打ち手をうっていくことが求められました。

 メアリーさんは、私たちが行うプロセスコンサルテーションに対して繰り返し、

 何を観察したのか? どんなデータを収集したのか?
 どんな意図で行ったのか?
 何を行ったのか?

 を繰り返しフィードバックされてました。彼女の観察眼と解釈の確からしさは、すごいもので、時には「へー、そんなとこ、見てたんだ」と思ってしまうことがありました。

 また、彼女は言葉にも敏感で、

 「このセッションでは・・・という言葉は18回でてきていました」

 とカウントしていました。
 いずれにしても、おそるべき観察力だな、と思いました。

 わたしも大変ありがたいフィードバックをいただきました。心より感謝です。

  ▼

 2の「グループや人間行動に関する知識」は5つの要素の中で最も知識に近いところだと思います。

 特にこの講座で重視されていたのは、

 グループが形成されてから解消されるまで、グループのなかで、人は、どのような行動をとりやすいのか? 

 グループの中で、逃避・闘争・葛藤が生まれやすいのは、どのようなときか?

 に関する知識でした。
 僕たちは、これらの知識をいわばテンプレートとして使いながら、今グループの中でおこっていることを解釈することを求められました。知っているのと知らないのでは、グループに対する働きかけは変わってくるものと思います。
 
  ▼

 3つめは「倫理」です。

 これは特にこの講座で重視されていたことではないのですが、僕が個人的には非常に痛感したことです。

 人々の相互作用に時に介入するプロセスコンサルタントは、時に政治的謀略、政治的罠に巻き込まれます。また、そもそもが利害が渦巻く場面で介入を行いますので、悪意をもってコンサルタントが働きかけを行えば、人を傷つけたりしてしまう可能性がゼロではありません。

 特に非構成の会議体やそこで行われるプロセスコンサルテーションは「セラピー的な効果」を意図せずあたえてしまう可能性がありますし、そうであるならば、そこには「高い倫理綱領」があってしかるべきです。

 海外の組織開発のハンドブックや専門書には、必ず、倫理に関して論じるチャプターや教えるセッションが含まれているものです。

 あとで伺ったところによると、海外では、この仕事は大学院レベルの知識・専門性を有した人がつく仕事で、そこには倫理綱領が含まれているとのことでした。

 この仕事には、倫理に関する高い意識と、場合によっては、それらを再確認するリカレント教育(再教育)が、この分野には必須なのではないかと感じておりました。

  ▼

 4つめの「場数」と5つめの「分厚い皮膚」は、実際は「ひとつ」につながっている内容です。

 要するに、

 プロセスコンサルタントになるために絶対に必要なのは「場数=経験」であり、その経験を通じて「分厚い皮膚=メンタルタフネス」を鍛錬していくこと

 だと僕は思います。「分厚い皮膚(Thick Skin)」とは、メリーさんの言葉で、プロセスコンサルタントが身を守るための強靱さ、タフネスを表しています。

 もちろん「場数=経験」の中には、思い出したくもないような経験、身の毛もよだつ経験、修羅場の経験も含まれるでしょう。プロセスコンサルタントは、これらの経験を通じて、少しずつ少しずつ「分厚い皮膚=メンタルタフネス」を身につけていかなければなりません。

 メリーさんはいいます。

 プロセスコンサルタントは、どんなことが起こっても、話しあいの場所をキープする役割をもつ。何があろうとも、バウンダリーを守らなければならない。だから、分厚い皮膚を持ちなさい(コンテナとは組織開発の用語で相互作用がおこる場のことをいいます。バウンダリーとは、ここでは安全な場所のこととお考え下さい)。

(Process consultant has to stay here to keep the container. No matter what happened to you, you should keep the boundary. So that's why you need the thick skin!)

 いかがでしょうか。
 プロセスコンサルタントとは、こんな仕事ですが、皆さんはなりたいですか?

 ▼

 今日の日記は、この1週間のリフレクションをかねたものでした。

 最後になりますが、ともに学んだ参加者のみなさま、主催者であられる南山大学人間関係研究センターの中村和彦先生、講師のDr.Mary Ann Raineyさん、通訳のMikikoさん、Megumiさん、事務の石川さんに心より感謝いたします。また一週間オフィスをあけて迷惑をかけた職場のみなさま、家をあけることを許してくれた妻、息子達にも感謝をいたします。

 本当にありがとうございました。
 今日、シャバにかえります。

■関連リンク

「議論の修羅場」をいかに乗り切るか!? : プロセスコンサルテーションを学ぶにはどうするか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2016/02/post_2564.html

 ーーー

※メリーさんの動画をYoutubeで発見(ただし英語です)。なぜチームに着目しなくてはならないのか?

Dr. Mary Ann Rainey: Group Dynamics in Teams
https://www.youtube.com/watch?v=vE8ZDHFhPgg

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投稿者 jun : 2016年2月27日 08:34


【参加者募集開始!】立川流落語を愉しみ学ぶ「人材育成」の極意!?

※本イベントはいったん満員御礼になりましたが、20席増席させていただきました。あとわずかの席数になってしまっておりますが、もしご興味のある方はぜひ、お申し込み下さい!

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立川流落語を愉しみ学ぶ「人材育成」の極意!?
新春大笑い:経営学習研究所シアターモール

日時:2016年3月8日(火曜日)午後6時30分から午後9時00分まで
場所(希望):株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS 2F
参加費:6,000円
主催:一般社団法人 経営学習研究所
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 このたび、3月8日(火曜日)に、経営学習研究所のシアターモール
イベントを内田洋行さまとともに開催させていただくことになりました。

 今回のイベントのテーマは

【落語から人材育成のヒントをもらいませんか?】

 です。

立川流の真打の立川晴の輔さん(立川志の輔門下)をお招きし、
立川流の学習論、および熟達のためのデザインについて伺います。
噺家としての熟達には、ひたすらノートにメモしたネタを暗記したり、
師匠の高座から技を盗んだりする「独習」の段階と、
師匠や兄弟子に偶発的に稽古をつけてもらったり内省を促される
「越境学習」や「協調学習」の段階とのシームレスな往来が欠かせません。

そのような学びの環境の中で、どのように「自分のスタイル」を
確立していくのか、または確立するよう足場を掛けていくのか。
この問題は、若手の人材育成に携わる方々、
学校をはじめとする教育現場に関わる方々にとって、重要な関心事
だと思います。そしてもちろん、落語を趣味になさっている方々に
とっても学び多き機会となるでしょう。

今回は、モデレーターとして立川晴の輔さんとコラボ研修の実績がある
公認会計士の田中靖浩さんにお越しいただきます。
ご来場のみなさまとMALL理事を交えた議論を展開しながら、
「独習」と「越境」をあらためて問う機会になればと思います。
今回は特別に、立川晴の輔さんの高座もお楽しみいただきます。

みなさま、ぜひお誘いあわせの上、ご参加いただければ幸いです。

お申し込みは下記のサイトからお願いいたします。
お申し込みチケットサイト :
http://ow.ly/XnACf
(ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!)

どうぞみなさま、お誘いあわせのうえ、お越しいただけますことを願っております。

板谷和代・岡部大介・島田徳子

日時
 2016年3月8日(火)午後6時30分から午後9時00分まで
 開場は午後6時00分から

共催
 一般社団法人 経営学習研究所
 内田洋行教育総合研究所

会場
 株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS 2F
 http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas/tokyo/

 JR・東京メトロ八丁堀駅または東京メトロ茅場町駅下車 徒歩5分
 近隣に内田洋行様の別ビルもありますのでお間違いのないようにお願いいたします。

参加費
 お一人様6,000円を申し受けます。軽食+ビールなど、もちろん込みです。
#ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!
#チケットはお一人様1枚づつ,ご購入ください.


内容
・ウェルカムドリンク pm6:30-6:40
・オーバービュー pm6:40-6:50(板谷)
・セッション1:トーク pm6:50-7:35「噺家にみる人材育成」
       (立川晴の輔さま・田中靖浩さま)
・軽食・ドリンクタイム pm7:35-7:55
・高座タイム pm7:55-8:25(立川晴の輔さま)
・セッション2:パネル pm8:25-8:50
       (立川晴の輔さま、田中靖浩さま、中原、and more)
・リフレクションとラップアップ pm8:50-9:00(島田、岡部)

※タイムラインは変更になる可能性があります。

参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいているとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・ビデオ撮影
・ストリーミング配信する可能性があります。写真・動画は、経営学
習研究所、ないしは、経営学習研究所の企画担当理事が関与するWeb
サイト等の広報手段、講演資料、書籍等に許諾なく用いられる場合が
あります。マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供するこ
とがあります。参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.応募が多い場合には、〆切まえであっても、予告なく応募を停止
する可能性がございます。あしからずご了承下さい。

以上、ご了承いただいた方は、
下記のフォームよりお申し込みサイトよりチケットをご購入ください。
なお、また繰り返しになりますが、いったんご購入後の返金はでき
ませんので、くれぐれもご注意ください!

お申し込みWEBサイト
http://ow.ly/XnACf

皆様とお会いできますこと愉しみにしております!
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投稿者 jun : 2016年2月26日 07:00


「議論の修羅場」をいかに乗り切るか!? : プロセスコンサルテーションを学ぶにはどうするか?

 今週、中原は、プロセスコンサルテーションについて学ぶワークショップに引き続き参加させていただいております(南山大学・人間関係研究センター 中村和彦先生主催、講師:Dr.Mary Ann Raineyさん、心より感謝いたします)。

 20名弱の皆さんと、1週間にわたってホテルに缶詰になって、プロセスコンサルテーションのスキルを高めることを目的に、過ごしております。

 プロセスコンサルテーションの開祖、マサチューセッツ工科大学のエドガー・シャインによれば、「プロセスコンサルテーション」とは、

「コンサルタントが、クライアントとの関係を築くことをベースにして、クライアントが自身の内部や外部環境において生じている出来事のプロセスに気づき、理解し、それに従った行動ができるようになること」

 です(中原一部改訳)。

  

 一般には、こんな場面を思い浮かべていただければと思います。

 今、複数の利害関係者が集まる会議体(たとえば役員会など)があって、彼らが意見交換をする場面があるとします。様々な政治的パワーのため、みなの発言は滞っているか、ないしは、議論がスムーズに進みません。
 あなたはコンサルタントとして、彼らのインタラクションに外部から働きかけながら、成果につながるようインタラクションをガイドする役割を担っています。

 こういう場面が、プロセスコンサルテーションの実際です。
 ま、一言でいえば

 プロセスコンサルテーションの仕事場とは「議論の修羅場」

 です。

 一般に、「コンサルテーション」とは、有能な専門家がクライアントに対して「こうすればいい」「絶対にこうするべき」といった「処方箋」をだしたり、 絶対的な基準に照らして「点検」を行う行為として捉えられています。

 シャインは、こうした「コンサルテーション像」に「異」をとなえ、反省を迫り、プロセスコンサルテーションという概念を「Coin(製造)」しました。プロセスコンサルテーションには、下記のような「強烈な哲学」があります。

 ---

 人にできるのは、人間システムが自らを助けようとするのを支援することだけだ。

 コンサルタントというものは、問題を解決するために、組織のメンバーはこれこれをなすべきである、と具体的に勧告できるほど、その組織の特殊な状況や文化について熟知していることは決してない。

 問題を抱えているのは、クライアントだけなのである。また、問題の複雑さを知っているのもクライアントである。さらには、所属する文化において、何がうまくいきそうかを知っているのもクライアントだけである。

 クライアントとコンサルタントは、一緒に状況を診断し、問題が何かを見極め、適切な対策を共同で考え出し、一緒に実現することをめざすべきである。

 クライアントが自分で問題を理解し、自分たちがおこなう治療法をとことん考えて見るようにならない限り、彼らが解決法を実行にうつすことはあまり期待できない。

 そうであるならば、コンサルタントの仕事とは、クライアントが援助を受けられるような関係を築くことである。
(プロセスコンサルテーション1章、中原一部抽出・要約)

 ---

 今回のワークショップでは、20人の参加者が「大きな円」になってすわり、議論をします。自分たちだけで何らかの議論設定をして、自分自身で議論をしたりする40分のセッションが、合計9回(合計360分)もうけられています。

 参加者の中の2人が交代で、プロセスコンサルタントとして、この会議に加わり、おおよそ10分に1度くらいを目安にして、「ワンステートメント」で、会議への外的働きかけを行います。

 もっともクライアントにとって有益な「ワンセンテンス」を選び出すことが、非常に難しいことです。

 40分のセッション終了後は、講師のリフレクションタイムが30分もうけられ、40分の時間をじっくり振り返ります。メアリー・アンさんからの辛口のフィードバックがあります。

 1日の終わりには、下記の4つの問いが投げかけられ、みなでリフレクションをするという感じです。

1.What am I learning about the group
2.What am I learning about myself?
3.What am I learning about our group
4.A name for the session(セッション事に名前をつける)

 おー、スパイシー。
 なんというマニアックな場でしょう。

  ▼

 こう文字に書いてしまうと、非常に簡単なことのように思えますが、それは全くそういうことはございません。僕たちが今まで経験してきたセッションは、僕の「名づけ」をあえて引き合いにだすのであれば、

 1.軸なき迷走
 2.秩序から無秩序へ
 3.分裂
 4.統合への痛み
 
 となります。まぁ、のたうち回るほど話が「迷走」します。
 しかし、この「迷走」に、プロセスコンサルタントは、「どこまで」何を根拠に関わるか、ということが問題です。

 メアリーさんはここで2つのメタファをだします。
「Direct the movie」と「Watch the movie」です。前者は否定的なニュアンスで、後者は肯定的なニュアンスで用いられます。

 プロセスコンサルタントは、どんなに会議体が紛糾しようとしても、「ムービー(ここでは会議)のディレクターになっても、主人公になってもいけません。客観的な事実を収集し(Watch the movie)、それを参加者に鏡のようにフィードバックしていくことが求められます。

 例えば、会議のメンバーが注意散漫になり、下を向いて明らかに会議から離脱しようとしているとき、こんな言葉掛けをするという事例が出されていました。

 皆さん、上を向いて議論に参加しましょうよ(×)
 皆さん、下を向いて足下をみていらっしゃいますね(○)

 他には

 つまり、あくまで会議の参加者が「自ら選択できる」ように「選択の余地」を残しながら介入を行うと言うことですね。

 あのね、これ、口で言うのは簡単です。

 でも、

 わたしたちは、言い足りないか、あるいは、言い過ぎるかのどちらかになってしまう

 ものです。

  ▼

 今日はプロセスコンサルテーションについて書きました。
 ホテルに缶詰になり、外に一歩も出ない日がもう4日、つづいています。せっかくのチャンスなので、思い切り学びたいと感じています。

 そして人生はつづく 

 ーーー

■関連リンク
「議論の修羅場」を乗り切るためのプロセスコンサルタントになるためには、いったい何が必要か?:
http://www.nakahara-lab.net/blog/2016/02/post_2565.html

投稿者 jun : 2016年2月25日 07:24


「長くなる仕事人生」をいかに生きるか!? : 映画「マイ・インターン」を見た!

音楽家の「引退」は、自分のなかに音楽が消えたとき
わたしの中には、まだ音楽があります

  ・
  ・
  ・

 遅ればせながらですが、映画「マイ・インターン」をレンタルビデオ店で借りてきて、自宅で見ました。

 映画「マイインターン」は、「70歳の元会社人間が、ベンチャーのインターネット企業に、シニアインターンとして入社し、女性社長のもとで働くこと」ということを「舞台」にした作品です。
 70歳のインターンをロバート・デ・ニーロ、女性社長をアン・ハサウェイが演じ好評を博したようです。

 映画の批評や映画内部で展開する色恋関係のネタは専門家のサイトにお任せするとして、この映画で僕がもっとも興味深かったのは、ロバート・デ・ニーロ分する元会社人間が、「職場に適応していき、仕事を任されるようになっていく過程」でした。

 シニアインターンの彼は、彼が長年奉職した会社とはまったく価値観の異なる新興ベンチャー企業の職場のメンバーと真摯に向き合い、ときに彼ら個々人の相談にのるなどして、少しずつ少しずつ職場に適応していきます。
 自分の過去の経験から思い浮かぶ「押しつけがましくない、ちょっとした気遣い」こそが、彼の適応プロセスを促進する源泉です。
 
 彼は、当初、コンピュータの使い方や、フェイスブックの使い方はわからないのですが、今度は、様々な職場のメンバーや女性社長が、彼にそれらを教えていきます。
 かくして、シニアインターンは、「社内で必要な人材」と目されるようになり、職場に適応していくのでした。
 
  ▼

 ここで妄想力をたくましくして、こんなことを思います。

 わたしたち自身の寿命が延びていること、さらには、社会保障がそれになかなか追いつかない現状を鑑みると、この映画で起こっている出来事は、それほど「他人事」ともいえないよな、と個人的には感じます。

 もちろん、僕たちが新興インターネット企業に就職するか、はたまた専業主夫をもつ女性社長のもとで働くかどうかは、わかりません。が、しかしながら、当初、わたしたちが想定していたよりも、

 わたしたちの仕事人生が、「長くなる」可能性があること

 は気にとめておいてもよいような気がします。

 そして、

 その「延長された仕事人生」の舞台は、あなたが奉職してきた組織であるかどうかは不明瞭になりつつある

 ような気もします。ワンセンテンスで述べるならば、「組織が延長された仕事人生を丸抱えすることにも限界がでてくる」であろうということです。

 そして「価値観や常識がまったく異なる組織」でいかにサバイブするかは
過去の成功体験にしがみつくのではなく、「今、ここ」の瞬間で、いかに振る舞い、いかに必要とされる人材と見なされるようになるか
 
 にかかっているような気がします。

 延長される仕事人生をいかに生きるか。

 僕はそんなことを考えながら、この映画を見ていました。
 ま、マニアックな見方かもしれませんので、他人にはおすすめいたしませんが(笑)。
 みなさまは、ぜひ、こんなシリアスな見方ではなく、この映画を、純粋にお楽しみ下さい。

 そして人生はつづく

 

投稿者 jun : 2016年2月24日 07:11


人が自律するときに必要な「あったか毛布的支援」と「ゴリゴリ紙やすり的支援」!?

 某所で開催されている「組織開発」の研修会に参加しております。

 この研修会は、南山大学人間関係研究センターの中村和彦先生が中心となり、毎年1回、米国NTL(National Training Laboratory)から講師を招聘なさることで実現しているものであり(心より感謝です!)、僕は、これで3度目の参加をさせていただいております。

 毎年1度、この時期に、1週間近く研究室をあけるので、スタッフや指導学生には迷惑をかけており、申し訳なく思っています。
 また、最も大変なのは妻・家族なのですが、何とか協力を得て、この場にきている次第です。本当にありがとうございます。

  ▼

 昨日は1日目。オリエンテーションが開催され、会で使う様々な概念などについて一通り学びました。

 講師のDr.Mary Ann Raineyさんは、NTLのトレーナーであり、かつ、博士号授与のときの指導教員がDavid Kolbであった方です。とても聞き取りやすい英語で大変ありがたいことです。

 Maryさんのお話は、どれも面白いものでしたが、昨日、もっとも興味深かったのは、

「支援とは何か?」

 というお話でした。

 学問的に申しますと(様々な定義がございます)、支援とは、

「何らかの意図をもった他者の行為に対する働きかけであり、その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的な他者のエンパワーメントをはかることである(小橋 2000)」

 となるのでしょうけれども、Maryさんによると、支援には2種類のあり方があるのだそうです。

 Maryさんはいいます。

「支援には、ブランケットサンドペーパーがあるのです。

ブランケットとは"毛布"のこと。毛布的支援は、他人に温かさや共感、受容の感覚を提供します。

一方、サンドペーパーとは"紙やすり"のこと。紙やすり的支援は、相手に時に痛みを感じてしまうようなコメントやフィードバックを提供します。

 なるほど、支援とは「他者のエンパワーメント」をめざすことという1点では変わらないものの、そのあり方には、「毛布」と「紙やすり」があるのですね。

 その上で彼女は続けます。

「他者に介入するODコンサルタントは、支援のあり方が、ブランケットの方向に傾きすぎていれば、敢えてサンドペーパーの方向の役割を自分が担います。

一方、サンドペーパーの方向に人々の関心がうつりすぎていれば、ブランケットの役割を自分は担います。

結局、両方の支援ともに、人が自律するときには必要なものなのです。

そして、こうした介入を行うためには、徹底的に相手を観察していなければなりません

 毛布とブランケット・・・どちらの道具立てをどのようなタイミングで用いるかを判断するには、相手を常に観察し、場の状況を見ていなければならない、ということですね。

  ▼

 今日は、支援のことについて書きました。

 あなたは、どのような支援を他者に対して提供していますか?
 それは偏ってはいませんか?

 そして人生はつづく

 ーーー

追伸.
 昨日は急に夕方頃から腹痛+発熱し、夕食もスキップして、イブニングセッションを中座してしまいました。12時間ほど寝ましたが、何とか回復しました。南山大学の石川さんには薬などをもってきていただき、大変お世話になりました。ありがとうございました。

投稿者 jun : 2016年2月23日 08:04


子どもに伝えたいビートルズ楽曲 25選!?:皆さんなら何を選びますか?

 僕がビートルズを聴き始めたのは、従兄弟のおかげです。10歳弱、年の離れた従兄弟が、僕にビートルズという外国のグループの存在と、その楽曲を教えてくれました。今から30年前くらいの話です。

 決して裕福な方とはいえなかった我が家には、当時、レコードプレーヤーもCDもありませんでした。従兄弟にレコードからカセットテープに録音をしてもらい!(懐かしい)、テープがすり切れるくらいにビートルズをひたすら聴きました。

 はやいもので、それから30年後・・・。
 ひょんなことから(たまたま僕が聞いていたTwist and shoutを耳にした!)、
 今度は、我が子・TAKUZOがビートルズファンになりつつあります。
 ただし、カセットテープレコーダーではなくて、視聴に使っているのは「Youtube」だけど(笑)
 親父としては、ここぞとばかりに、我が子に「ビートルズ道」を注入しています。
 というか、ほぼ洗脳。

 というわけで、「週のど頭」から、小生、趣味に走ってしまって恐縮です。
 今日は、子どもに伝えたいビートルズの25曲を選んでみました。
 誰にも頼まれていないけど、ついつい、選んでしまった(笑)。
 「わたしが選ぶビートルズ25選」! どうだ!
 
 何気ないリストですが、しかし、本当に選ぶのがきつかった(笑)。
 これ以外にもたくさんあるけれど、敢えて25曲というのなら、僕はこれを選びます。

 皆さんはいかがですか?
 皆さんだったとしら、どんな曲を選びますか?

 週のど頭からゆるいブログですみません。
 今週も張り切っていきましょう!

 そして人生はつづく

 ーーー

追伸.
 ちなみに、遅ればせながら下記のベスト盤を購入しましたが、これはよかったです。CDの他にブルーレイがついているのですが、ライブ映像がクリアで泣けた。


  ▼

I saw her standing there

Twist and shout

Chain

From Me to You

Please please me

Ticket to ride

A hard day's night

You are going to lose that girl

Norwegian Wood

Here, There and Everywhere

You've Got To Hide Your Love Away

I wanna hold your hand

She loves you

Eleanor Rigby

No reply

We Can Work it Out

Cant buy me love

In my life

If I fell

I'll follow the sun

Hey Jude(音質・画質ともに圧巻!最高!)

Across the universe

Oh! Darling

Let it be

Get Back(おお、切ない!)

投稿者 jun : 2016年2月22日 06:40


リフレクションとは「私が悪かったです、頑張ります、大丈夫です」と「言わせること」なのか?

 ここ十数年の人材開発の領域をかんがみるに、

 リフレクション(振り返り:内省)

 という言葉ほど、広まった言葉はありません。この間、人口に膾炙した言葉のひとつには「経験学習」もあげられますが、リフレクションは「経験学習」とともに、この十数年の人材開発の世界で、もっとも頻繁に語られる言葉のひとつであったような気がいたします。

 しかし、「普及」というものは、注意を要する「負の側面」も同時に持ち合わせるものでございます。

「リフレクション」という言葉が多くの人々に使われ、消費されていくうちに、「リフレクションとは全く非なるもの」が、「リフレクション」というラベルで、呼称されるようになっているような気がするのです。

 先だって、このところ、共同研究でお世話になっているトーマツイノベーションさんの渡辺 健太さん、長谷川弘実さんが、研究室にお越しになり、リフレクションについて話しておりました。

 このお二人は、共同研究のお打ち合わせのとき、ときたまぴったりと息の合った即興劇を見せてくれるのですが(上司役は渡辺さん、部下役は長谷川さん)、先だっては、彼らはインプロはリフレクションについてもおよびました。
(ご本人たちは演じていることをお気づきじゃないかもしれません。そのくらい息がぴったりです)

 いったい世の中では、どのような「リフレクション」がリフレクションと呼ばれているのか?
「リフレクションとは全く非なるもの」の典型とは何かを即興劇で見せてくれました。いつも素晴らしい即興劇を演じてくれるお二人には感謝です。
(あたりまえですが、お二人は、本当はリフレクションについてはよくご存じです。下記は演じておられるのです)
 
 
■上司ー部下面談の場面 リフレクションあるある

 上司「あのさー、あの件だけどさー。話、今いい?」
 部下「はい」
 上司「でさー、誰が悪かったんだっけ?」
 部下「わたしです」
 上司「だよなぁ、そうだよな、お前が悪いんだよな」

  ・
  ・
  ・
  ・
  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

 これってリフレクション???(笑)
 「悪いと言わせている」だけじゃ???

 リフレクションの研究者?が見たら発狂しそうな場面が、リフレクションの典型なのかもしれません。
 そして、もし、これが事実だとするならば、まだまだリフレクションの重要性を指摘した方がいいような気もします。

 即興劇は、もしかすると、こんな風につづくのかもしれません。

上司「で、どうするんだっけ?」
部下「頑張ります」
上司「大丈夫?」
部下「大丈夫です!」

 いったい、何が大丈夫なんだか・・・(泣)。
 
  ▼

 今日はリフレクションについて書きました。

 皆さんのまわりには「リフレクションとは全く非なるもの」が「リフレクション」の名前であふれていませんか?

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年2月19日 07:10


「ペンペン草も生えないような研修」は、なぜ生まれてしまうのか?

 十数年にもわたって、人材育成に関する研究をしておりますと、いくつかの組織の「研修体系」や「人材育成体系」の「変遷」というものを感じるときがあります。

「あれ、A社は、かつて、ちょめちょめ研修やっていたけど、やめちゃったんだ」

 とか

「そうなんだ、B社の、ほにゃらら制度、結構、よかったのに、変えちゃったんだ」

 とか、

「へー、C社の、ほげほげ研修、最近、やっていないんだ。全部変えちゃったんだね」

 とか、そういうことが、よく起こります。
 もちろん、外部の第三者には「研修のよしあし」など一部しか分からない、ということもあるとは思えます。しかし、どこから見ても、誰もがうらやむ研修や体系が、ある日、突然変更され、影も形もなくなる、ということが、ままおこるのです。

 時代の変化に応じて、研修体系なども「変化しつづける」というのは、「問題」というよりも、むしろ「よいこと」である場合もあります。しかし、一方で、それらの変更が、ジョブローテーションのプロセスにおける担当者の異動・交代で、さして「根拠なく」起こる可能性があります。要するに担当者が変わり、後任の担当者が「根拠なく」「思いつき」で変更してしまうという事例や、担当者の無理解や理解不足で変更してしまうという事例が、まま、起こっているような気がします。
 変えて「よくなる」のならよいのですが、そうならない場合もままあるような気がいたします。

 人材開発が専門職として位置付いていない我が国においては、人材開発の知識や経験は、個人になかなか蓄積していきません。ジョブローテーションによって、全く経験のない人、経験の浅い人ーまだそれならよいのですが、人材開発にまったく向いていない人ーが、後任にやってくる場合もゼロではないような気がしますが、いかがでしょうか。

 かくして、

「あのとき輝いていた研修体系」が、担当者の変更とともに「ペンペン草」もはえなくなる

 という事態が起こりえます。
 
 こうした事態を悪化させてしまう原因には、「研修ならではの事情」もあるような気がします。

 それは、

 研修体系を変えると、「変革した気」がする

 のです。

 別の言葉でいいかえましょう

 研修体系を変えると、「仕事をした気」がする

 のです(笑)。
 
 変更に大きな設備投資などが必要のない研修は、合意さえとることができれば、比較的「変更」をしやすいもののひとつです。生産ラインとか、そういう大がかりなものと比べれば、の話ですが。

 しかし、ここには大きな問題があります。

 一般に、世の中では、「変革」をすれば「効果」が問われます。

 しかし、研修体系というものは、それが問われにくい構造があります。
 これに一役買っているのは「研修効果の不可視性・遅効性」というものです。

 要するに、

 研修は「効果がただちに見えにくい」(研修効果の不可視性)
 研修の効果は「じわじわと遅れてやってくることもある」(研修効果の遅効性)

 ということですね。

 そうしますと、たとえ「変えて」、それが「ペンペン草」もはえないようなどうしようもない「代物」であったとしても、効果が見えにくいので、「責任をとらなくてよい」という事態が発生します。

 要するに

 研修体系とは「かえ放題」の世界

 なのです。

 しかも、それ自体をいじくれば、「変革をした気がする=仕事をした気がする」。かくして、ペンペン草もはえない研修が生まれることになります。
 つまり、ペンペン草もはえないような研修には、生まれやすい「構造」があるのです。

 ▼

 今日は、「研修の変革」について書きました。
 もちろん、時代に応じて、研修体系を変化させなければならないことは、言うまでもありません。多くの人材開発担当者の方々は、パッションをもって「変革」に立ち向かっていることは言うまでもないことです。しかし、その「歯車」がいったん狂い始めると、「研修効果の不可視性と遅効性」によって、研修かえ放題の世界が生まれてしまうので、注意が必要です。

 しかし、研修の中には、時代にあわせて変更してもよいものと、そうでないものというものがございます。

「変更してはだめ」なものを、担当者の都合や無理解によって変更してしまうことが、もし仮に起こっているのだとしたら、それは第三者の目からみますと、残念なことのように思えます。

変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を
われらに与えたまえ

変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ

そして

変えることのできるものと
変えることのできないものとを
識別する智慧を与えたまえ

(ラインホルト・ニーバーの祈り)

そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年2月18日 07:01


OJTは「人材育成課題」の「ゴミ箱」じゃない!

 ちょっと前のことになりますが、人材育成に関するあるフォーラムに登壇させていただいた際、その内容で少し考え込んでしまったことがあります。

 催しは、新人育成ーとりわけOJTに関する内容紹介をするもので、新入社員が入ってくる4月、OJTをどのように運営していけばいいのか、ということに関する内容が主に扱われておりました。

 そのなかで、ある方が、こんなご質問をなさったことを印象深く記憶しています。

 曰く

「最近の新人は、新しい発想でモノを考えられない。これをOJTで何とかできないか?」

 僕は、比較的、「今の若い人達は優秀だな」と思って仕事をしているので、「へー、そんなものかいな」と思って話をうかがっておりましたが、ここで、ハッと思い当たる部分がありました。


 一般に人は、OJTに対して
  どこからどこまでを「期待」しているのだろうか?

 
 ともすれば、OJTは「過剰期待」されていないだろうか?
 
 OJTは「ひとにまつわる課題」のすべてを
 背負わされていないだろうか?

 すなわち、

 OJTに「できること」は何で、
 OJTに「できないこと」は何なのか?

 これを明らかにしつつ物事を思考しないことには、

 OJTは「人にまつわる課題」のゴミ箱
  のようなものになってしまう

 のではないか、と考えてしまいました。

  ▼

 この問題にゆるく関連する内容は、以前、記事にしたことがございます。

OJTはパワフルだけれども、泣き所もある人材開発手法」なのだよ、ということを論じた雑文です。少し長くなりますが、引用しますと、OJTの泣き所は、下記の4点になります。

OJTとは「お前が(O) 自分で(J) トレーニング(T)」!?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakaharajun/20160213-00054364/

1)OJTの学習効果は「師」に依存する OJTは「師- 部下間」において行われるため、外部から第三者が介入を行うことは難しいといわざるをえません。師の思うところによって、そして、師の考えにしたがって、教育が行われます。その学習効果、教育のクオリティは、「師のあり方」に大きく依存します。

2)師の能力を超えることは、学べない
OJTは原則的に「師と部下間」のブラックボックスにおける閉じられた学びです。「師のわからないこと」「師の知らないこと」は、OJTにおいて学ぶことはできません。
OJTとは、そもそも「師の知識・経験がなかなか色褪せてしまわないような安定的な領域」に向いている教育のあり方です。
師や部下の存立している場所が、「不確実性の高い領域」であったりする場合- すなわち、上司にとっても「わからないこと」「知らないこと」が生まれやすい知識流動性の高い場所においては、OJTはあまり向いていません

3)学習の起こるタイミングが「偶然」に依存する
部下が何かのミスをする。そうした「偶発的な教育的瞬間」に、上司と部下がともに居合わせ、さらには上司が適切なフィードバックを行ったときに、OJTが奏功します。
ということは、OJTが奏功するための条件としては、「上司と部下がともにいる時間が長い」ということになります。
伝統工芸の師弟関係を見ればわかるように、ともすれば「生活時間」をともにするような「長時間」の人間関係が、OJTの奏功する条件です。

4)OJTはともすれば「単なる労働」に変わり果てる
OJTのもっとも深刻なことは、それが「単なる労働」になり果ててしまうことです。
メタファを使って言うならば、OJTは「Learningful Work」でなければならないのですが、それが容易に「Learningless job(学びもクソもへったくりもない、単なる労働)」になってしまう、ということです。


  ▼

 今日の話題は、このうちの2番の「泣き所」に関連しているのかなと思います。

 要するに、人材開発手法としてのOJTは、一般に

「師の知識・経験がなかなか色褪せてしまわないような安定的な領域」

 に向いていて

「不確実性の高い領域ー師にとっても「わからないこと」「知らないこと」が生まれやすい知識流動性の高い場所」

 には向かない

 ということです。

 もちろん、これはやり方にもよるかもしれません。
 が、一般には限られた時間のなかで、対人関係を基盤にして実施されるOJTは「社会化(組織に染めること=組織の一員になってもらい、仕事を覚えること)」の手法としてはパワフルであるものの、それ以外の領域には拡張することはなかなか困難に思えます。

 よって、

「最近の新人は、新しい発想でモノを考えられない。これをOJTで何とかできないか?」

 という冒頭の願望は、僕には、少しだけ「過剰期待」に感じられるのですが、いかがでしょうか?気持ちはとてもよくわかりますけれども。

 そもそも、

 OJTを提供する側、管理者側は「新しい発想でものを考えられる」のでしょうか?

  ▼

 今日はOJTに関する「過剰期待」と「泣き所」について考えていました。くどいようですが、運用を間違えなければ

 OJTはまことにパワフルな手法

 であり、かつ、日本型組織の慣行にそれなりに準拠し、フィットしたものであると考えます。

 しかし、拡大に拡大を重ねるとき・・・

 OJTが「ひとにまつわる課題」のゴミ箱

 になってしまわないか、

 あるいは

 OJT指導員が「人にまつわる課題」のゴミ箱の清掃員

 になってしまうことを懸念します。
 ま、これは、机上の空論で、僕の取り越し苦労かもしれませんが(笑)。

 そして人生はつづく

  ーーー

追伸.
 僕は「東京大学・中原研究室メルマガ」というものをもう10年?くらい運営しています。不定期で、中原が関与・登壇・ファシリテートするイベント、ワークショップ、研修、セミナーなどの情報をお届けいたします。1月に1度程度流れるくらいでしょうか。すでに6800名をこえる人事・人材開発ご担当者の方にご登録いただいております。

 大丈夫、このメルマガにご登録いただいても、「怪しいイベント」の情報は流れますが、「怪しい壺」とか「怪しいネックレス」を売ったりはしません。もしよろしければ、どうかご登録いただけますと幸いです。

welcomeirashai.gif

中原淳研究室メルマガ
http://www.nakahara-lab.net/mailmagazine.htm

投稿者 jun : 2016年2月17日 06:28


【参加者募集中!】人生の折り返し地点にたって今後を考えてみませんか>「親父の小言ワークショップ in 関西」を開催します!(2/27 土曜日 13:00)

 2月27日(土)13時ー@大阪で、「親父の小言ワークショップ in 関西」を開催します。昨年、東京で開催されたおりには、大変盛り上がったワークショップです。
 人生の折り返し地点にたって、今後の人生をあり方ー下山の仕方を考える、というのがワークショップのテーマになります。このワークショップは、(珍しい!)男性限定です。
 男性同士、これまでの人生をふりかえり、かっこつけず、今を語り、今後を考えましょう。
 皆さんにお会いできますこと、愉しみにしております。
 東京開催同様、中原も、皆さんとお会いできますこと愉しみにしております。当日、会場で気軽にお声がけください。

 どうぞよろしく御願いいたします。
 中原 淳

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火は粗末にするな!? 風呂にはさっさと入れ!?
「親父の小言ワークショップ in 関西 :
往生せずに往生するために(笑)」

2月27日(土)13時~17時
株式会社内田洋行 大阪ユビキタス協創広場 CANVAS
申込サイトアドレス:http://ow.ly/XXIyA
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関西の皆さん、出番ですよ!(笑い)

このたび、昨年9月に東京にて開催したワークショップ
「親父の小言ワークショップ」をさらにバージョンアップさせ、
2月27日(土)に大阪で開催することになりました。

対象は前回同様、元気にはたらく男性(35歳以上ー60代まで)です。
※別途、同テーマで女性を対象とさせていただくワークショップを企画中です。
今回も男性に限定させて頂きますが、どうかご了承ください。

このワークショップは、「長い仕事人生」に区切りをつけた後、
「次の人生」も充実させて「大往生」するために、どんな準備や
心構えが必要かを考える「男性向けワークショップ」です。

大往生のなかの「往」という漢字は、
 ①どんどんと前進する。さきに向かって行く。
 ②過ぎ去る。いってしまう。転じて、人が死去する。
 ③のち。それより後。
 ④おくる。ものを人に届ける。
といった意味を持っています。

先に向かって進んできた仕事人生には、同時に、過ぎていった過去の
積み重ねがあるはずです。

仕事人生を終えた後も、こうして積み重ねてきたものを誰かに
「おくる」「届ける」ように、充実感を感じながら、次の人生を
過ごせるようにいたしましょう。

どんなに華々しい仕事人生を送っても、次の人生で「立往生」して
しまっては、元も子もありません。
そして、仕事人生を終えたその翌日には、すぐに次の人生が始まります。
そこで、なるべく早い時期に、仕事人生の後にもまだまだ続く次の人生を
考える機会をもっていただきたく、本ワークショップを企画しました。

当日はまず、自分のまわりにいる親父のロールモデルを参考にしながら、
「こうなりたい」という理想のあり方、逆に「できればこれは避けたい」という
今後やってくる可能性のあるリスクについて、思いを巡らせます。

その後、やってくるリスクをどう充実感を感じながら乗り越えるか、
理想の姿に近づくために何が必要かを話し合いながら、これからの
自分に向けた「親父の小言」を書にしたため、まわりの親父たちと
共有していただきます。

おそらく多くの方が
「まだこの仕事人生すらどうなるかもわからないのに、
次のことなんて想像できないよ」と思われることでしょう。
でも、考えてみてください。教育機関を終えて、働き始めて、
今の年齢になるまでは「一瞬」ではなかったですか?
かくして、あっという間に次のタイミングはやってきます。

みなさんで、次への備えを整えましょう。
ふるってのご参加、お待ちしております。

ーーー

■共催
 京都造形芸術大学 アート・コミュニケーション研究センター
 一般社団法人 経営学習研究所 中原ラボ・平野ラボ
 内田洋行教育総合研究所

■日時
 2016年2月27日(土)13時~17時(開場は12時45分から)


■会場
 株式会社内田洋行 大阪ユビキタス協創広場 CANVAS
 http://ow.ly/XXIQW
 地下鉄谷町線・中央線「谷町4丁目駅」8番出口より徒歩8分


■募集人数・参加費
 30名/3,000円

チケットはお一人様ずつご購入ください。
(ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!)
軽食・ビール・ソフトドリンクなどご用意しますが、差し入れ大歓迎です。


■内容
 1.オープニング「親父の大往生ワークショップ」
   ワークショップのめざすもの、趣旨説明
 2.親父の「大」往生 
 3.親父の「立」往生
 4.親父の「往生際」
 5.親父の小言
 6.クロージング

■参加資格
 働く35歳~60代の男性


■参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
お申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。


1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、京都造形芸術大学アート・コミュニケーション研究センター、
経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所の企画担当理事が
関与するWebサイト等の広報手段、講演資料、書籍等に許諾なく
用いられる場合があります。マスメディアによる取材に対しても、
許諾なく提供することがあります。


2.会場にクロークはございません。
お荷物の管理は自己責任でお願いいたします.

参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。
以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みサイト
よりチケットをご購入ください。

なお、チケットが完売した際は、〆切まえであっても、
予告なく応募を停止する可能性がございます。あしからずご了承下さい。
また繰り返しになりますが、このたび、いったんご購入後は返金は
できませんので、くれぐれもご注意ください!

申込サイトアドレス:http://ow.ly/XXIyA

皆様とお会いできますこと愉しみにしております!

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投稿者 jun : 2016年2月16日 06:26


「しなやかマインドセット」でモティベーションが変わる!?:改訂新版「マインドセット:やればできる」の研究

 スタンフォード大学・キャロル=ドゥエックの書いた一般向けの著書である「やればできる!の研究(原著はMindset)」が改訂されたそうです(御献本感謝いたします)。週末、あらためて読み直してみました。

 2008年に翻訳された従来のバージョンでは

4章 スポーツ:チャンピオンのマインドセット
5章 ビジネス:マインドセットとリーダーシップ

 の部分が省略され、翻訳されていなかったのですが、改訂された新版では、こちらも完訳されました。まことに喜ばしいことです。

 キャロル・ドゥエック博士といえば、1980年代ー90年代「固定的知能観:硬直マインドセット」「拡張的知能観:しなやかマインドセット」の研究で、動機論の世界で一世風靡した著名な研究者です。ドゥエックに非常に影響を受けた研究者といえば、わたしの周囲では、敬愛する上田信行先生も、そのひとりですね(かつて「プレイフルラーニング」という本を一緒に書かせて頂きました)。
 
 ドゥエックの仕事は、アカデミックにいえば、「認知主義の観点から動機論を捉えなおす」ということになるのでしょうか。もう少し具体的にいうと「人間のもつ信念によって動機がいかに変化するか」というパラダイムで、「従来の動機論」を変えたひとりであろうと思います。

 ドゥエック博士の主張は、端的に述べるならば、こうなるでしょう。

「自分の能力は固定的で、もう変わらないと"信じている"人」ーすなわち固定的知能観(硬直マインドセット)をもっている人は、努力を無駄とみなし、自分が他人からどう評価されるかを気にして、新しいことを学ぶことから逃げてしまう

 これに対して、

「自分の能力は拡張的・可変的で、常に変わりうると"信じている人"」 - すなわち「拡張的知能観(しなやかマインドセット)」をもっている人は、人間の能力は努力次第で伸ばすことができると感じ、たとえ難しい課題であっても、学ぶことに挑戦する

 ということになります。

 つまり、「自分の能力や知能に対する信念」=「知能観(マインドセット)」こそが、後続する学習のあり方、その後の人生のあり方を決めてしまうのだ、ということになるわけですね。

 本書では、この2つのマインドセット概念を中核にして、スポーツ、ビジネス、対人関係、教育など、さまざまな領域について論じています。今回改訂された4章スポーツの部分では、マグジーボーグズ、マイケルジョーダン、モハメドアリなどが取り上げられ、5章のビジネスの部分ではGE元経営者であるジャックウェルチが、しなやかマインドセットの持ち主として描かれています。


 もともとの論文を知っている専門家からみると、やや話がシンプルすぎるところ、そこまでいえるのか、と思わないところがないわけではないけれど、それはそれで愉しむことができました。

 少し前のブログでは、河合隼雄著、河合俊雄編(2014)「大人になることのむずかしさ」 を引用しつつ、近代社会では、「大人が、学び続けなければならない理由」についてご紹介させて頂きました。

大人になっても、人が、学び続けなければならない理由!?:あなたは「大人」でいられていますか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2016/02/post_2555.html

 自戒をこめて申し上げますが、動き続ける世の中にあっても、「しなやかマインドセット」の持ち主で生きていきたい。週の頭から、そう願うのでした。

 そして人生はつづく
 

投稿者 jun : 2016年2月15日 06:07


育成コンテンツ化する「採用」!?:社員全員参加の採用活動!?

 先だって、ある企業の採用担当者の方が、研究室を訪れました。

 その会社では、去年あたりから、

1.社員全員が採用活動に参加し
2.社員と学生が膝詰めで、将来や仕事に関する青臭い対話をすることで
3.学生・社員双方の経験の棚卸しをして、仕事の価値観を確認する

 ワークショップをなさっています。このプロセスの中で、本当に自分の会社で働いてみたいと思える学生を採用したいのだそうです。
 ご相談は、このワークショップをいかに洗練されたものにし、さらに深い対話を促すか、ということでした。

 担当者の方が、とてもパッションのある方でしたので、これまで僕がかかわったワークショップの事例などを話ながら、あーでもない、こーでもないと議論をしました。

  ▼

 このブログは主に採用のことを扱っているわけではないですが、ここ数年、一部の採用の現場で、「採用場面に育成が導入されていること=育成コンテンツ化する採用」という事態が生じていることは、これまでにも何度か述べてきました。

 まず前提になっているのは、

「従来のマスメディア・1クリックエントリー採用が一部見直されていること」ないしは、それを「補完する機会」をもうけることに関心が集まっていること

 です。

 その上で、

1.数はたとえ少なくとも、採用者ひとりひとりとの濃密なインタラクションを提供するようにいること

2.そのインタラクション場面では、"育成"とも解釈できるような機会を提供することがあること

3.場合によっては、仕事そのものを提供する場合もあること(Work sampleといいます)

4.そうした育成機会には、人事部だけではなく、事業部の社員も参加して提供されていること

5.そうした濃密なインタラクションのなかで顕在化してくるもの・情報をもとに、選抜を行おうとすること

 が、近年の特徴としてあげられるのかなと思います。

 ワンセンテンスで申し上げますと、

「採用のなかに育成コンテンツが入り込み、ごくごく短期間の育成プロセスにおいて"顕在化された学生の価値観"、"学生の伸びしろ"、"学生が組織に馴染む可能性を評価すること」

 が実施され初めているのかなと思います。

 どの程度の一般性のあることかはわかりませんが、インターンシップも含めると、これに近いことをしている企業も増えてきているのではないでしょうか。

 社員を採用場面に参加させることは、組織内の反発を招くこともありますが、よく理解を得られた場合には、社員の経験の棚卸しをめざしたり、組織の中に一体感(採用という祝祭場面による集団一体感の醸成)をつくりだしたりすることにも寄与します。

 ここで重要になってくることは、こうした選抜手法をとるばあいには、あらかじめ、相当に対象者を選ばなければならないということです。

 濃密なインタラクションは、経営の観点から考えれば、コストフルです。よって、こうしたものを大人数のプール全てに適応することは、経営上、難しいという判断をせざるをえません。

 その結果、意図せざる結果として生じうるのが、対象者の事前選別であると推察します。そのことが社会という観点からみた場合、社会全体にどのような功利をもたらすのか、慎重に見極める必要があるのかなと思います。

 ▼

 今日は、「育成コンテンツ化する採用」に関して書きました。ここで書かれていることがどの程度の一般性のあることかはわかりませんが、ここにはこれまで人材開発が培ってきた様々な手法や思想が活きるのかなとも思います。
 このあたりは、中原研究室D1の高崎さんが、研究を進めていらっしゃるところです。指導教員としては、高崎さんの研究のさらなる進展を願っています。

 一方、こうした採用手法の変化が、社会全体にもたらす変化、学生の学習行動等にもたらす変化は、注意深く見ていかなければならないな、と思っています。

 そして人生はつづく
 

投稿者 jun : 2016年2月12日 07:03


あの繁盛店が「お客スカスカ」になってしまうプロセスでは、いったい何が起こるのか!?

「パパ、なんか、このお店、暗くなったよね」

  ・
  ・
  ・

 これは先だって、愚息TAKUZOと、あるお店で食事したあとで、彼が、店を出て数歩あるいたところで、僕にもらしたセリフでした。

 このお店は、月に2度ほど、僕とTAKUZOで一緒に訪れるお店です。実は、この数ヶ月まえに店長が交代したのでした。

 当然のことながら、TAKUZOのみならず僕自身も、店長の交代、そして、店の変化には気づいていました。
 が、その変化が、まさか9歳の子どもでも「認識しうるものである」とは思っていませんでしたので、ちょっと「ギョッ」としてしまいました。

 店長交代によるお店の変化ーそれもネガティブな方向への変化ーは、わずか数ヶ月のあいだに、9歳の子どもにもわかるほど、劇的なものだったのかなと思います。

   ▼

 まず、店長が変わって、真っ先に変わったのは「人」です

・お店の従業員の方々が、いらっしゃいませ、などの挨拶を元気よくしなくなりました。とても繁盛していた店が、一点「静かに」なりました。

・最初に注文を取りに来るときに、必ず、おすすめのメニューを言ってくれていたのですが、それをいう従業員の方と、言わない従業員の方が、でてきました。サービスに「ムラ」がでてきました。

・そのうち、No2だと目されていた(と思われる)バイトの若頭が止めてしまいました。とても気のつく方だったので、とても残念です。

・「研修中」の名札をつけた経験の浅いバイトスタッフが、来店のたびに出てくるようになりました。おそらくは、採用しても採用しても、辞めていくのかなと思います。

 次に、この3週間ほどで気づいたのは「素材・環境の変化」です。

・食材に対する最後の一手間(例えば、最後に炙るとか・・)を無くしてしまいました。ずっと長いこと同じ素材を食べてきただけに、少しショックでした

・テーブルの「しょうゆ」などの調味料が、減っているものがまま見受けられるようになりました

 最後に「客層の変化」です。

・かつては常連さんと目されるおっちゃん連中が、店の片隅でワイワイと飲んでいたのですが、その人がいなくなりました。たくさんお金を使っていると思われますので、相当の打撃かと思われます。

・長居するお客さんが減りました。あまりお酒を飲まず帰ってしまうようになりました
 ・
 ・
 ・

 とまぁ、今現在は、こんな感じです。
 もちろん、これらの変化が、店長交代だけによって引き起こされていたと考えるのは早計ですが、そのタイミングと店の変化のタイミングは、不思議と一致していたように思います。

 願わくば、もう一度、現在の店長さんには頑張って頂いて、お店を「立て直して」いただけたら、と僕もTAKUZOも思っているのですが・・・。

 パパ、お店が、また元気になるといいね

 TAKUZOも、そんなことをつぶやいておりました。

  ▼

 今日は、店長交代による店の変化について書きました。

 実は、去年から、中原研究室ではテンプHD様とともに「2020年を見据え、アルバイト・パートの戦力確保・育成」に関する共同研究プロジェクトを実施しています。

 このプロジェクトには、外食・運輸など各業界ののべ従業員数30万人以上の異業種7社が参画し(その後一社増えましたので、相当の従業員規模になると思われます)、様々な調査を重層的に実施しながら、

1.採用条件の改善や採用手法の高度化をいかに行うか?
2.店舗のマネジメント行動・職場環境を見える化・改善し、「早期離職の防止=出口対策」をいかに行えばよいか?

 を明らかにしようとしています。

 プロジェクトには、テンプホールディングス株式会社 渋谷和久さん、大澤則幸さん、テンプスタッフラーニング株式会社の岩崎真也さん、株式会社インテリジェンスHITO総合研究所小林祐児さん、井上史実子さん、研究室から中原、田中聡さんが参加しています。

 このプロジェクトの成果は、2016年冬あたりに、井上佐保子さん、ダイヤモンド社藤田さんらの力添えをえながら、出版の予定です。

 そんなわけで、僕としては、最近、どの店に入っても、店長の動き、店員の動き、店舗の様子が気になって気になって仕方がありません。

 願わくば、僕とTAKUZOのごひいきのお店が、何とか元気になってくれることを願っています。
 それにしても、どこから立て直せば良いのかなぁ・・・外食がご専門の方、どうかご教示ください(笑)

 そして人生はつづく

  ▼

「アルバイト・パート人材不足の社会課題」に共同研究で挑戦
http://www.tempstaff.co.jp/corporate/release/2015/20151022_6381.html

2015-10-23_0537press.png

投稿者 jun : 2016年2月10日 06:21


コーチングとは一体「誰のもの」なのか?

 コーチングは「リーダーシップ開発」にどのような効果をもたらすのだろうか?

 関根さん(ラーンウェル代表・中原研OB)、舘野さん(立教大学)、斎藤さん(中原研M2)らが中心になって、ここ最近のコーチングに関する実証研究(英語論文)をよむ研究会が、東大で、1月・2月・3月と月1・3日間にわたって開催されています。

 こちらには20名程度の、志ある実務家・研究者の方々にご参加いただいております。心より感謝をいたします。

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 研究会では、みんなで手分けしながら、

 コーチングがリーダーシップ開発に対してどのような影響を持っているか?

 という実証研究の知見をザザザと読んでいます。リーダーシップ開発の手段のひとつとしてコーチングが用いられるようになって久しいですが、その効果とはいかほどか。最近の英語論文を手分けして読んでいます。

 僕自身も英語文献要約を担当していますが、こうしてまとめて知見を読むことはないので、とても勉強になります。

 しかし、個人的にはそうした実証研究の議論もたしかに面白いのだけれども、コーチング研究には、もうひとつ大変興味深いことがあります。

 それは、

 コーチングとは、いったい「誰のもの」なのか?

 という素朴な問いをめぐる答えが、それぞれの論文や著者によって「微妙に異なっている」だろうことが予想できることです。
 
 それは「表だって」表面化しているわけではありません。でも、たとえば変数のとり方や、論文の書きっぷりから「コーチングに対して、この著者がどのような思いをもっているか」が推察できるのです。

 もう少し具体的に申しますと、

 コーチングとは

  どんな専門知識や技術を有している「誰」が
  どのような資格制度のもとで
  サービスのクオリティや品質を担保され
  どのような権限で他者に介入することが

 許諾されるのか?

 ということに関して、コーチング研究の関係者の中には「考えの違い」が多いのではないかと考えます。
 
 ものすごく「極」にふった議論をいたしますと、敢えて先ほどと「逆方向」に考えた場合は、こうなりますね。

 コーチングとは

  専門知識や技術など必要のない
  在野の発達支援技術であり
  徹底的なアマチュアリズムによって運営されるべきである
  よって、質やクオリティには差があり
  かつ、
  どのような人にコーチされるかによって
  その後の効果もポジにもネガにもかわりうる
  しかし、
  それが「コーチングらしい」ってことなんだ
  そもそももともと
 「コーチング」ってそういうムーヴメントから生まれたじゃないか

 いかがでしょうか。
 コーチングに関して先ほどとは「逆の発想」をする場合も、まったくゼロではないんだろうなと思うのです(もちろん、クオリティは高ければいいにこしたことはないのですが・・・)。

 実際は、先ほどの「プロフェッショナリズム文化」と「アマチュアリズム文化」のグラデーションの中の「どこか」に、コーチングを為す人々のそれぞれの考えが「定位」しているのではないでしょうか。

 論文を読んでおりますと、こうした事柄関して、コーチング研究業界?内部に、様々な「葛藤」が見て取れるような気がいたしました。

 もちろん、すべての葛藤が論文上に明示的に記されているわけではないですが、丹念に実証研究を読み込んでいけば、このことは、研究会の誰しもが感じることではなかったかと思うのです。

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 よく知られているように、コーチングは1960年代の人間性回復運動(Human Potential Movement)、アブラハム・マズローらの人間主義心理学、ロジャースらの来談者中心療法、さらにはヒッピーを代表とされるカウンターカルチャー(対抗文化)の中に、その萌芽をみてとることができます。
 
 それは、当初、人間の内部に「内なる力(Natural Resource)」が存在し、それを伸張させることができるとする、ある種の信念のもとにはじまったムーヴメントでした。
 そのムーヴメントの中心地のひとつが、カリフォルニア州・エサレン研究所であったことはよく知られている事実です。

 文献を読んでおりますと、このことを理解するためには、当時の時代背景に関する理解が必要になります。

 時代はベトナム戦争が泥沼化している真っ只中。
「体制に対する抵抗」「他者に管理される自己」からの逃避、「自己成長を重視する価値観」、そして、「アマチュアリズムを尊ぶ価値観」「反専門家論」などが根源に存在していることが、容易に見て取れます。
 これらの価値観は「役に立つものの折衷主義」「科学的探究に対する猜疑心」などの価値観と共振しながら、当時、様々な「自己成長のテクニック」を生み出しました。

 コーチングは、もともとそうした起源のなかで生まれた副産物でしたが、後日、ビジネスに取り込まれ、商業化、体制化され、組織化され、紆余曲折をへて、今に至っていることはよく知られていることです(少なくとも海外では)

(ここは本当はめちゃくちゃ興味深いプロセスなのですけれども、短いブログでは、はしょります。去年の夏から、僕は、この関係の本を、日本語・英語あわせて乱読していました。ようやく出口が見えてきて、コーチングの歴史や思想に関する全体像が見えかけてきたような気がします。ちなみに、これはワークショップとよばれる「在野の学習」の起源でもあり、組織開発の源流でもあると思います)

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 論文の中では、

 コーチングとは、専門知識をもったプロフェッショナルが為すべきものである

 とする人々(Professional Coaching)と

 いやいや、

 コーチングは、一般の市井のビジネスパーソンやマネジャーが為すべきものである

 とする人々(Managerial Coaching / Developmental Coaching)が、それぞれの背後仮説を隠しながらも、さまざまな実証研究を展開しています。

 いや、表だっては何もないんですよ(笑)。
 でも、コーチング関係の論文を読んでいると、

「なぜ、この著者は、このリサーチクエスチョンを提示したのかがわからなくなるとき」

 があります。

 そんなときには、論文の背後に「コーチングとは誰が為すのが正統か?」ということに関する「支配的な考え」や、それに対する「抵抗」がみてとれるような気がします。

 ちなみに、このことは、Cox et al(2010)らのハンドブックの「コーチングの将来」に関する一節においても展開されていますね。

 この一節で展開されているのは

 コーチは「専門職」かどうか

 ということに関する議論になります。

 ま、論文上、あるいは文献上、「表」だって何があるわけではない、別に何もないのですが(笑)、一口に「コーチング」と言っても、それぞれの「背後仮説」は、相当に違っているのだろうな、と勝手に推察しました。これは、僕だけではない、研究会で多くの方が痛感したであろうと推察します。

 コーチングとは、いったい「誰のもの」なのか?

 そしてもう一歩、問いをすすめるのであれば、

 コーチングとは、いったい「誰のためのもの」なのか?

 まことに興味深いことです。

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 今日はコーチングについて、つらつらと書きました。

 研究会は3月にあと1回ございますが、引き続き学んでいきたいと考えています。
 インプットの機会は僕にとってとても貴重です。関係者の方々、参加者の方々に心より感謝を致します。ありがとうございました。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年2月 9日 07:19


大人になっても、人が、学び続けなければならない理由!?:あなたは「大人」でいられていますか?

「一生勉強」とか「生涯学習」とか、よく言いますけれども、

「大人になっても、人が学び続けなければならない理由」

 について考えるためのヒントになるような議論を、せんだって、河合隼雄さんの本に見つけました。

 河合隼雄著、河合俊雄編(2014)「大人になることのむずかしさ」(岩波現代文庫)という本の中で、河合さんは、「古代社会と近代社会(正確に述べるならば、古代社会と近代社会のイニシエーション(通過儀礼)の役割)」を対比させながら、「2つの社会」における「大人と子どもの関係」を下図のように解説なさっています。

 妄想力をたくましくすると、ここからわたしたちは

「大人になったとしても、人が学び続けなければならない理由」

 を考えるヒントを得ることができるように思います。
 今日は、こちらをご紹介します。

kawaihayao2016.png
(河合隼雄著、河合俊雄編(2014) 大人になることのむずかしさ. 岩波現代文庫 p47-48の図を併置し、読者の弁を考え、一部、筆者が加筆・修正)

 上図は「古代社会」と「近代社会」の2つの社会における「大人と子ども」そして、世界の関係を図示したものです。

 上図に見るように、古代社会(左図)においては、社会は非常に安定的(Stable)で、かつ、変化に乏しいものでした。古代社会においては時間がゆっくりと流れており、人は一生のうちに、ひとつの「出来上がった世界」にしか相対しません。人はひとつの「出来上がった世界」に生まれ、子どもから大人になり、そのトランジションにまつわる「イニシエーション(通過儀礼)」を経験し、そこで生きていきます。

 古代社会(左図)において、大人になるということは、イニシエーションを得た「出来上がった世界」への参入であり、いったん「出来上がった世界」に参入したあと=大人になったあと」は、それで、その「身分」が脅かされることはありませんでした。

 メタフォリカルに述べるのであれば、

 古代社会では
 いったん「大人」になることができれば、
 その後は「大人は大人でいることができた」

 ということです。

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 しかし、時代はながれ、わたしたちは「近代社会」(右図)を生きることになります。

 近代(右図)においては、「社会は進歩する」という概念が加わります。時代がたつにつれて、世界は「右肩あがり」に進歩する。右斜め上方のベクトルにむいた矢印は「時間にともなう世界の進歩」を表現し、そこには「A」「B」「C」という3つの異なる世界が表現されています。進歩とは抽象的な表現ですが、具体的には、「技術の進歩」とか、「知識の進歩」などを思い浮かべていただければ、わかりやすいのかな、と思います。

 近代社会では、人が一生において相対する世界は、「単一」ではなくなりました。近代社会においては、ひとつの「出来上がった世界」と、それにまつわる通過儀礼(子どもから大人への移行)があるのではない。

 右図にみるように、近代社会は、世界は「A」から「B」、「B」から「C」へと常に変化しつづけていきます。右

 このような世界にあっては、たとえば「A」の時間に子どもから大人になり、世界の内部に移動したとしても(子どもaから大人aへの移動ですね。子どもは、このプロセスにおいてイニシエーションを経験します)、そのままでは「安泰」ではありません。

 時代Aにおいては「大人a」の状態でいられたとしても、近代は右肩あがりに「進歩」します。すなわち、右斜め上方に、つねに時代は変化していくのです。時代は流れ、「A」から「B」に移行してしまうのです。

 時代が「A」から「B」にうつれば、「前時代の大人a」は大人のままではいられません。図に表現されるように、「前時代の大人a」は「次世代の子どもb」と「同じ立ち位置」にたってしまうことになります。

 すなわち、何もしなければ、せっかく「大人」になったとしても、「次の時代の子ども」と「同レベル」の立ち位置になってしまうのです。このことは、人工知能やコンピュータテクノロジーの発展ことを思い浮かべていただければ、わかりやすいかと思います。
 前時代の大人が、すでに次世代の子どもに「逆転」されている状況は、変化の激しい分野では、常識でしょう。

 さらに残酷なことに、時代は右肩あがりに「変化」します。
 さて、このとき「時代Aの大人a」は、「時代C」においては、どうなるでしょうか?
 もし「時代Aの大人a」が何も変化し続けなければ、彼 / 彼女は、「子どもc」よりもはるかに下位の立ち位置に置かれてしまいます。

 すなわち、同時代を生きる大人一人ひとりに求められているのは、通過儀礼をへて大人になり、そのままでいつづけることではありません。「時代の進展」に応じて、常に「右斜め上方」に「大人」が移動していくことです。

 メタフォリカルにのべるのであれば、

 大人は、何もしなければ
「大人は大人でいられなくなる」。

 これが河合さんの主張の一部である「大人になることのむずかしさ」の根源です。

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 今日は河合隼雄さんの論考から、

「大人になったとしても、人が学び続けなければならない理由」

 を考えてみました。

 週明けしょっぱなからスパイシーですね(笑)。でも、「大人a」がそのまま大人であり続けるためには、「変化」しつづけることが必要になります。
 もちろん、「大人a」が「子どもb」と同じ立ち位置でよいというのならば、この限りではありません。それは個人の意志決定の問題です。わたしたち大人自身ひとりひとりが、どうなりたいかを自分で決めこみ、腹をくくることです。

 このブログをおよみの大人の皆さん、あなたは、今、どこにいますか?
 今の時代に「大人」でいられていますか?

 週明け、動きだそう、今日から。
 そして人生はつづく


投稿者 jun : 2016年2月 8日 06:00


「3つの問い」から見つける「わたしの研究テーマ」!?

 一応、これでも「なんちゃって研究者」のはしくれでございますので、自分の仕事、すなわち、研究のことについては、よく考えます。

 自分の研究をいかに立ち上げていくのか。その次に、これまでとは違う「何」を打ち出していくのか、は僕の関心事の常に上位をしめます。といいましょうか、起きている時間は、24時間、それしか考えていません。

 ふりかえって考えてみると、研究にまつわるこの手の思考は

 1.「自分が研究したいのは何か?」
 2.「世の中の人々があなたに研究してほしいことは何か?」
 3.「研究として成立するかしないか?」

 という3つの問いの「せめぎ合い」のような気がします。
 これは僕の研究領域だけにあてはまることかもしれないので、拡大解釈は禁物ですが、何かの研究を立ち上げようとするとき、僕は、常に、この3つの方向から、物事をあーでもない、こーでもないと、「連立方程式」をとくがごとく考えているような気がします。

 連立方程式だってさ、、、20年ぶりに、この文字に出会ったよ(笑)

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 3つの問いは、それぞれを言い換えると、こうなるのかもしれません。

 まず第一に「自分が研究したいのは何か?」とは、自分の純粋な知的好奇心にてらして、明らかにしたいことは何か、ということです。
 よく研究という営為を誤解なさっている方の中には、「体系的に物事を学びたいですぅ」とか「学問的知見を学ぶことをやぅてみたいですぅ」という感じで、大学院にこられる方がいらっしゃいますが、おそらく、それは「研究」ではなく「勉強」です。

「研究」とは、誰も知らない、誰もやったことのないような「何か」を、あなた自身がつくりだす行為であり、それを明らかにする行為です。学問的知見を「つくりだす側」、すなわち、あなた自身が「こちら側」にくることが、研究者として求められていることです。
 だから、まずは物事を不思議に思ったり、何かを明らかにしたいという強烈なモティベーションがなければ研究は駆動しません。

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 その次に、第二に意識するのは、とりわけ僕の場合は、「研究の社会的意義」や「研究に対する社会的期待」です。「世の中の人々があなたに研究してほしいことは何か?」とは「あなた自身がやりたいと思っている研究には、どの程度ソーシャルインパクトがあるか?」ということです。

「人材開発」という研究領域柄、どうしても、これを僕は意識してしまいます。「人材開発」の研究領域は、「かくかくしかじかの人材開発の様子がわかりました!ちゃんちゃん」では、実務家の期待に応えることはできません。

 実務に近い研究をしておりますと、

 「かくかくしかじかの様子がわかったのはいいけど、で、どうする?」
 「ちょめちょめ、ほにゃららの状況を、どう立て直す?」

 という「So what ?」的な問いが、かならず矢のように刺さってきます。
 僕自身は、こうした問いに研究内部、ないしは研究を離れてでも少しでもお答えしていくこと、ご相談に応じることが、この研究領域のもっとも大切なところだと思っています。

 僕が、いつも大学院生に口酸っぱくいうことの中に、

 「あなたの研究のオーディエンスは誰?」
 「それって、誰の、どういう問題を解決するの?」

 というのがあります。これらは表現は異なりますが、言っていることは同じです。自分の研究に「宛先性」を持って下さい、ということです。これらは、僕のような実践に近い研究領域だけに限られることかもしれませんが、僕は、このことをかなり意識して研究しているような気がします。

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 最後に意識したいのは「研究として成立するかしないか」です。これは、自分の研究したい内容がわかり、かつ、それにいっていの社会的意義が認められたあとに、丹念に丹念に考え抜かなければならないことです。

「研究として成立するかしないか」とは、要するに、「すでにその内容が、先行研究においてやられておらず、オリジナリティが確保でき、かつ方法論としても妥当なものが見つかり、一定期間にアウトプットを得られるかどうか」ということです。一言でいえば、研究のフィージビリティとも考えられるかもしれません。

 研究の中には、どんなに問題関心がすぐれていても、「研究としては成立しないもの」というものがございます。たとえば、すでに先行研究において何かが明らかになっているものは、どうあがいても、研究としては成立しません。また、妥当な研究方法論を確保できないもの、そもそもそのスケジュールではできないものも、研究としては成立しません。
 自分のやりたいことを明確にして、それが社会的意義が認められることが確認できたら、これらの研究のフィージビリティを確認していきます。

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 以上、3つの問いを複合的、かつ、多角的に考えていった先に、ようやく、「研究の立ち上げ」が存在します。
 とりわけもっとも大切なことは、この3つの問いのプライオリティです。個人的には僕が、何より大切にしなければならないと考えているのは第一の問い「自分が研究したいのは何か?」です。その次に「世の中の人々があなたに研究してほしいことは何か?」。最後は「研究として成立するかしないか?」かなと思っています。

 しかし、ともすれば、これが逆転するということもままあります。

 すなわち、

 自分としてはたいしたやりたくないのだけれども、世の中的にはやって欲しいと思っているテーマだからやる
 
 ということが生まれたり(社会的意義>自分の知的好奇心)、

 自分としてはたいした関心がないのだけれども、研究として成立しやすいからやってみようかな

 という安易な思考が生まれたりします。(研究として成立>自分の知的好奇心)

 しかしね、やってみればすぐにわかりますが、研究とは、非常に苦しい知的格闘です。自分の関心のないものを、忍耐をもって最後の最後まで追求できるほど、研究はあまくはありません。ですので、何よりは自分の好奇心を優先なさるのがよいのかなと思います。

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 今日は「研究を立ち上げるときに考えていること」を書いてみました。皆さんの場合は、どんな価値を優先なさりながら、研究を立ち上げていらっしゃいますか? またお聞かせ願えると幸いです。

 そして人生はつづく


 

投稿者 jun : 2016年2月 4日 06:31


ストレスリリースをめざす「引き離す育児」!?

 子どもを2人授かり、あれやこれやとやっている間に、1年が過ぎ、2年が過ぎようとしています。近くに両親がいない田舎出身者の共働き育児は、まさに「ブレーキのないジェットコースター」にのって爆走いるような思いです。何とかかんとか、綱渡りでここまでやってきました。
 おかげさまで、下の男の子KENZOは現在2歳。まさに「イヤイヤ期」に突入しています。

 うちだけかもしれませんが、この時期の子どもが「ややこしい」のは、「イヤイヤ期」であるのと同時に、「超絶ママっ子」であることです。そして、その「超絶ママっ子っぷり」は、時に「被差別意識」を父親に感じさせるほどのものです。

 たとえば、保育園などで僕が送るときには、保育園の入口に入った途端、2歳児はさっさと教室に向かい、こちらを振りむくことすらしません。それがママの場合には、玄関で、別れたくないと「ぎゃん泣き」です。

 おうちで僕とふたりでお留守番をしているときなどは、ママがいないときには、近寄ってきて、僕とじゃれているときもあります。しかし蜜月は長くはつづきません。ママが帰宅したとたん、手のひらをかえし、態度を豹変させます。

 今のいままで、

「パパー、遊んで、あそんでー」

 と言っていたのが、ママが帰宅するやいなや、

「アンタ、まだ、いたんだ!」

 に変わります。その顔つきからは、

「ちっちっち、気づいてないようだから、これからフィードバックするね。あのさー、時代が変わったんだよ。いつまでも、アンタが、僕のお相手をさせてもらえると思ったら、大間違いなんだよ。ほれっ、しっしっ。」

 というメッセージがくみ取れます。「カーニヴァル的倒錯状況」とは、まさに、このような状況をいうのでしょう。
 大人げないとは思いますが「プチ殺意」がわく瞬間です。
 
 要するに、子どもはほおっておけば、必ずママに向かいます。世話はかくしてママがどうしても多くなります。そして「イヤイヤ」もすべてママに向かいやすいのです。
 かくして、ママは、いつも2歳児の「イヤイヤ」につきあわされることになります。ママのストレスは「構造」として生まれているのです。

 こんなような状況ですから、僕が、2歳児の面倒を見ることは、なかなか難しいのですけれども、最近になって、「子どもを可愛がること」「子どもと遊ぶこと」だけが、育児じゃないのかなと思うようになってきました。ま、僕は気づくのが遅いのかもしれませんが(笑)、ごめん。

 ママにイヤイヤが向きやすいことを素直に認め、彼女から子どもを「引き離すこと」も、育児なのかなと思っています。
「子どもを連れて外に出る」とか「週に1日はいつ帰ってきてもOKな日=夜ご飯・お風呂・寝かしつけまでを僕がすべて担当する日」をつくってあげるとか、そういうことも大切なのかなと思っています。これを僕は「引き離す育児」とひそかに読んでいるのですが、どうでしょうか。

 子どもと常に相対していることは「ストレス」を感じることもあります。たいていの人は、そうしたストレスが積もり積もって、もう噴火しますけんのー的状況にならなければ、子どもと正対して向き合うことができると感じます。必要なのは、ほんの少しのストレスリリースなのかもしれません。一時的かもしれませんし、対処療法かもしれませんが、ストレスを一時的にリリースするのが「引き離す育児」の眼目です。

 ま、いずれにしても、僕は2歳児の中で「身分が低い」ので、やれることには限りがあるのですが、そんなことを考えながら、日々奔走している状況です。

 そして人生はつづく
 人非人的扱いは、いつまでつづく?

投稿者 jun : 2016年2月 3日 07:09


やりたいことは「かけ算」で見つけなさい!?

 僕がいつも愚息TAKUZO(9歳)に言っていることのひとつに

 やりたいことは「かけ算」で見つけなさい!

 という僕自身の持論があります。学術的でも何でもない、ただの、ひとりの親の持論なので、今日は、そういうつもりでお読み下さい。もちろん、他の方におすすめすることもいたしません。下記は、単なる僕の持論です。

  ▼

 やりたいことは「かけ算」で見つける

 これはいったいどういうことでしょうか。
 それは、曖昧な自分の将来に対する願望を、ほんの少しだけ具体的にして、しかも、エッジのきかせるための「プチ工夫」です。

 たとえば、今、TAKUZOが仮に写真家になりたいと言っているとします。「将来、何になりたいの?」という会話を僕としているとき、彼が、そういったと仮定して、以下の話をすすめます。

 一般に考えれば、

 やりたいこと=写真家

 で終了なのです。

「あっそ、写真家になりたいんだ」

 で終わり。これを僕は「ベタ思考」とよびます。
 「アンタ、ベタやなぁ・・・」という感じですね(笑)。

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 一方、中原家家訓では、「やりたいことはかけ算で見つけなければ」なりません。
 別の言葉で述べるのならば、我が家では

「やりたいことをベタに述べてはいけません」

 中原家では、やりたいことを考えるときに、「下記の数式」を完成させなければならない。

 やりたいこと=写真家 × 「  ?  」

 すなわち「  ?  」の部分に「何か」を代入しない限り、中原家では「やりたいこと」とは見なされないのです。
 そこで、本人が考えなくてはならないのは「焦点をしぼること+エッジをきかせること+ニーズを考えること」です。「写真家になりたい」というニーズからより一歩踏み出して、具体的に焦点をしぼり、エッジをきり、ニーズを意識してほしいのです。

 【焦点をしぼる】
  たとえば、写真家といっても、主に何をとる写真家なのか?
 
 【エッジをきる】
  ふつーの写真家とは何が違うのか?

 【ニーズを考える】
  それはみんなが喜ぶものなのか?

 こうしたことを考えながら「  ?  」を埋めようね、と話します。

 TAKUZOは、最初、

 やりたいこと=写真家 × 「歌って踊れること」

 を入れました(笑)。

 なるほど!

 それは「写真家」という職業の定義そのものを変えているかもしれない。エッジもきいている、世の中ではあまり聞いたことがない。しかし・・・TAKUZOがヘナヘナダンスで歌って踊りながらブレブレの写真を撮っていたとして、誰かが喜ぶかな・・・。ちょっと最後の3番目が厳しいかも(笑)。

 そんな会話を繰り返していると、つぎにTAKUZOは、最近、憧れている「マサイ族」を代入しました。

 やりたいこと= 写真家 × 「マサイ族」

 なるほど!
 文章では、何人かの方々が、マサイの生活を描写することに挑戦しているけれども、マサイ族を専門にとる写真家というのは、あまり聞いたことがない(いるのかもしれませんが)。彼らの類い希なる「マサイジャンプ」を写真や映像におさめることができるのなら、人々は、それを見たいと思うかもしれない。もしかすると、ニーズもあるかもしれない???

 という感じです。しかし、それは本当に「是」といえるでしょうか。それを検証するためには「調べなくて」なりません。それから彼は、マサイ族を撮影している写真家について、ひたすら「ぐぐって」いました(結論からいうと、似たことをしている人はいたみたいです)。

 その後

 やりたいこと= 写真家 × 「プログラミング」

 とか、いろいろウンウン唸っていましたけれど、いったいどうなることやら。でも、プログラミングする写真家ってあんまりいなそうだよね?

 誤解を避けるために申し上げますが、僕は正直、この段階で、自分の子どもに職業を決めて欲しいとは1ミリも思っていません。そんなのすぐに変わるし、変わっていいと思います。

 でも、ただ、物事を考えるときに、常に「かけ算をする癖」をつけてほしいのです。物事を「ベタ」に考えるのではなく、より焦点をしぼって、様々な角度から意志決定をおこなう癖を付けて欲しいとは願うのです。そして勘のいい方ならおわかりのとおり、それを「成し遂げる」ためには、仕事のことをしっかり調べなくてはならなくなります。

 要するに、

 仕事に向き合う癖
 多角的に仕事を考える癖
 仕事のことをじっくり調べる癖

 を持って欲しいのです。それが「やりたいことはかけ算で考える」の含意です。

 ま、そんなオヤジの暑苦しい思いは、
 1ミリも伝わっていないとは思いますが(笑)。
 そんなもんよ(笑)。

 ▼

 今日は、やりたいことの見つけ方の僕の持論を述べました。
 考えてみれば、自分も、この「かけ算」で今まで生きて気がします。
 僕の場合は、

 やりたいこと=「経営」 × 「学習」
       =「人材開発」

 です。

 あなたのやりたいことは、どんな「かけ算」で表現されますか?

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年2月 2日 06:14


人を動かす2つのやり方!?:「恐怖モード」と「信頼モード」

 人を動かすやり方には、大きくわければ2つのやり方があります。
 ひとつは「恐怖モード」。

 恐怖モードは、ワンセンテンスでいえば、動かしたい人間の「生存恐怖」をあおりながら人を動かす方法です。何らかの恐怖や権力を背景にして、意味を強制したうえで、罰などの外的報酬を用いつつ、人を動かします。

 もうひとつのやり方は「信頼モード」。
 信頼モードは、動かしたい人間とラポールを気づき、本人の「動きたい思い」を最大限に利用した上で、さも本人自身が、そのことをえらびとったか」のように振る舞い、動かします。

 信頼モードの方が、恐怖モードよりも効果は高いし、穏便なのでしょうけれど、すべてがすべて物事を信頼モードで動かせるわけではありません。時には恐怖モードを用いざるをえない場合もあるというのが、世の中の「なかなかに割り切れないところ」です。

 何より、信頼モードは、本人とのあいだに「信頼」がなくてはなりません。信頼を失っている状況では、後者が駆動する余地がないのです。しかし、いったんそれが駆動すれば、信頼モードは「パワフル」です。

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 ところで、先日、某所で開催された研究会で、「信頼モード」について考えさせる、下記のビデオをご紹介いただきました(感謝)。

 僕は乗馬や競馬のことは全く知らないので、妥当な紹介ができるとは思えませんが、このビデオは、生まれてはじめてクラをつける若馬の調教のビデオだそうです。

 世界的に有名なモンティ・ロバーツさんという調教師の方が、わずか30分で、若馬にクラをつけ、最後には騎手をのせてしまいます。わずか30分で若馬をこのように調教するというのは「神業」なのだそうです。

 生まれてはじめてクラをつけられる若馬にとって、「クラをつける」というものは、トラウマティックな出来事だそうです。
 一般的には、ムチで叩き、無理矢理クラをつけ、騎手を乗せてしまうのだそうですが、ロバーツさんは、そうした方法はとりません。

 馬に優しく話しかけ、恐怖を感じさせないようにします。そのうえで、馬が興味をひくものによってくる性質をうまく利用して、クラをつけるのだそうです。

 30分ほどのビデオになりますが、ぜひ、ロバーツさんと馬の関係の変化をご覧頂ければと思います。「信頼モード」で、馬に寄り添い、馬の行動を変化させていきます。

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 今日は週明け早々、「人を動かすこと」について書いてみました。

 あなたの周囲では「恐怖モード」が駆動していますか? それとも「信頼モード」ですか?

 そして人生はつづく 

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追伸.
 先月一ヶ月は、Yahooニュース個人で過去記事を連続で配信するというチャレンジをしていました。個人的チャレンジです(笑)。時間が本当にないのですが、2つのブログを書いたり、修正したりしていました。
 Yahooニュースは、より一般の方々に読まれるメディアです。ですので、過去記事を配信すると言っても、そのままでは読まれません。またタイトルの付け方も、よりわかりやすく、短くする必要があります。Yahooニュースの配信経験をとおして、こうしたことを学ぶことができました。何が人々の関心になっているのか、おぼろげながら、以前よりも、少しだけわかった気がします。
 今後はまた不定期配信に戻りますが、よいお付き合いをしていきたいと思っています。ちなみに、Yahooニュース個人での月間PV数は68万PVでした。僕の個人ブログの月間PVの約10倍です。さすが、Yahoo!

投稿者 jun : 2016年2月 1日 06:50