「ペンペン草も生えないような研修」は、なぜ生まれてしまうのか?

 十数年にもわたって、人材育成に関する研究をしておりますと、いくつかの組織の「研修体系」や「人材育成体系」の「変遷」というものを感じるときがあります。

「あれ、A社は、かつて、ちょめちょめ研修やっていたけど、やめちゃったんだ」

 とか

「そうなんだ、B社の、ほにゃらら制度、結構、よかったのに、変えちゃったんだ」

 とか、

「へー、C社の、ほげほげ研修、最近、やっていないんだ。全部変えちゃったんだね」

 とか、そういうことが、よく起こります。
 もちろん、外部の第三者には「研修のよしあし」など一部しか分からない、ということもあるとは思えます。しかし、どこから見ても、誰もがうらやむ研修や体系が、ある日、突然変更され、影も形もなくなる、ということが、ままおこるのです。

 時代の変化に応じて、研修体系なども「変化しつづける」というのは、「問題」というよりも、むしろ「よいこと」である場合もあります。しかし、一方で、それらの変更が、ジョブローテーションのプロセスにおける担当者の異動・交代で、さして「根拠なく」起こる可能性があります。要するに担当者が変わり、後任の担当者が「根拠なく」「思いつき」で変更してしまうという事例や、担当者の無理解や理解不足で変更してしまうという事例が、まま、起こっているような気がします。
 変えて「よくなる」のならよいのですが、そうならない場合もままあるような気がいたします。

 人材開発が専門職として位置付いていない我が国においては、人材開発の知識や経験は、個人になかなか蓄積していきません。ジョブローテーションによって、全く経験のない人、経験の浅い人ーまだそれならよいのですが、人材開発にまったく向いていない人ーが、後任にやってくる場合もゼロではないような気がしますが、いかがでしょうか。

 かくして、

「あのとき輝いていた研修体系」が、担当者の変更とともに「ペンペン草」もはえなくなる

 という事態が起こりえます。
 
 こうした事態を悪化させてしまう原因には、「研修ならではの事情」もあるような気がします。

 それは、

 研修体系を変えると、「変革した気」がする

 のです。

 別の言葉でいいかえましょう

 研修体系を変えると、「仕事をした気」がする

 のです(笑)。
 
 変更に大きな設備投資などが必要のない研修は、合意さえとることができれば、比較的「変更」をしやすいもののひとつです。生産ラインとか、そういう大がかりなものと比べれば、の話ですが。

 しかし、ここには大きな問題があります。

 一般に、世の中では、「変革」をすれば「効果」が問われます。

 しかし、研修体系というものは、それが問われにくい構造があります。
 これに一役買っているのは「研修効果の不可視性・遅効性」というものです。

 要するに、

 研修は「効果がただちに見えにくい」(研修効果の不可視性)
 研修の効果は「じわじわと遅れてやってくることもある」(研修効果の遅効性)

 ということですね。

 そうしますと、たとえ「変えて」、それが「ペンペン草」もはえないようなどうしようもない「代物」であったとしても、効果が見えにくいので、「責任をとらなくてよい」という事態が発生します。

 要するに

 研修体系とは「かえ放題」の世界

 なのです。

 しかも、それ自体をいじくれば、「変革をした気がする=仕事をした気がする」。かくして、ペンペン草もはえない研修が生まれることになります。
 つまり、ペンペン草もはえないような研修には、生まれやすい「構造」があるのです。

 ▼

 今日は、「研修の変革」について書きました。
 もちろん、時代に応じて、研修体系を変化させなければならないことは、言うまでもありません。多くの人材開発担当者の方々は、パッションをもって「変革」に立ち向かっていることは言うまでもないことです。しかし、その「歯車」がいったん狂い始めると、「研修効果の不可視性と遅効性」によって、研修かえ放題の世界が生まれてしまうので、注意が必要です。

 しかし、研修の中には、時代にあわせて変更してもよいものと、そうでないものというものがございます。

「変更してはだめ」なものを、担当者の都合や無理解によって変更してしまうことが、もし仮に起こっているのだとしたら、それは第三者の目からみますと、残念なことのように思えます。

変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を
われらに与えたまえ

変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ

そして

変えることのできるものと
変えることのできないものとを
識別する智慧を与えたまえ

(ラインホルト・ニーバーの祈り)

そして人生はつづく