「アクティブラーニングの育成論」と「アクティブラーニングの組織論」を追い求めて!?

 高校におけるアクティブラーニングの取り組みが、進み始めてきています。
 中原研究室でも、社会貢献・研究開発事業として、「高校」に着目し、昨年来からマナビラボの取り組みをはじめています。
 このプロジェクトに際しての、中原含め研究員たちの思いは、こちらにございますので、ぜひご覧下さい。

マナビラボとは

http://manabilab.jp/aboutus

  ▼

 ところで、志あふれる研究員たち、日本教育研究イノベーションセンターの皆さんと、この1年間、「高校のアクティブラーニングの研究」で走り続けていて、最近、とみに思うことがあります。

 それは、

 アクティブ・ラーニングの「事例」は、世の中に溢れはじめているけれど、
 しかし、徹底的に不足しているのは

 アクティブラーニングの「育成論」であり、
 アクティブラーニングの「組織論」である

 ということです。

 こんなことを最近よく思います。
 以下、このことを論じてみましょう。

  ▼
 
「アクティブラーニングの育成論」という用語で僕が意味したいものは、

 アクティブラーニングを実践したいと思う先生が、自分の授業をどのように変化させ、どのように熟達していくか

 ということです。

 これは必ずしも教員養成大学(学部生相手の教師教育)の問題だけではありません。

 むしろ、
 
 最大の課題は、すでに自分の授業スタイルを確立し、慣れ親しんだ教え方で日々を過ごしておられる先生方が、どのような支援やタイミングをもって、自分の授業スタイルを振り返り、愉しみながら「考えさせる授業」を実践していくのか

 ということです。
 最大の課題は「日常」「職場」にあります。

 この問題は、学問領域的に申しますと、教師教育(Teacher education)という領域になるとは思うのですが、わたしの目には、この領域の知見が「アクティブラーニングの言説空間」とはかなり距離があるように感じます。

 アクティブラーニングの事例は世の中にあふれています。
 しかし、いくら事例を知ったところで、それを実践できるかどうかは別の問題です。そこには、どのようなタイミングで、どのような「支援」を為すべきか、ということに関する視座・分析が必要であるように思います。

  ▼

 もうひとつはせんだってのブログで書きましたとおり、「アクティブラーニングの組織論」です。

 よく、巷では、アクティブ・ラーニングといいますと、

 いかに授業をするか?
 どんな話しあいをさせるか?
 いかにファシリテーションをさせるか?

 ということが問題になりますが、これを僕は「アクティブラーニングの教育論」と呼んでいます。
「アクティブラーニングの教育論」は「アクティブラーニングの事例集」とともに世の中にあふれています。

 しかし、一方、決定的に不足しているのは、

 アクティブラーニングを実施できている「学校」とはどんな組織か?

 という組織的課題に対するアプローチであると思います。

 「アクティブラーニングの事例集」や
 「アクティブラーニングの教育論」は世の中に溢れていますが、

 今後は、

 「アクティブラーニングの組織論」

 を論じることが重要だと思っています。

 わたしどものプロジェクトでは、全国の高等学校約3983校のうち、62%にあたる2414校を対象にした全国調査の結果、アクティブラーニングと学校の関係は下記のようなことがわかりました。

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引用:木村充, 山辺恵理子, 中原淳 (2015). 東京大学−日本教育研究イノベーションセンター共同調査研究 高等学校におけるアクティブラーニングの視点に立った参加型授業に関する実態調査: 第二次報告書.

マナビラボ:全国調査分析結果 第二報
http://manabilab.jp/article/1158/6

 要約すれば、アクティブラーニング(参加型学習)を実施している学校は、実施していない学校と比べて、目標意識、教員間の仕組みなどに違いがあるということでしょうか。

「学校全体」で、教えるべき内容や方法について目標を決めたり、評価改善をしたり、そうしたものに一致団結したり、校長先生がそういう仕組みをつくるかどうかに、違いがあるということです。

 こうした分析は緒についたばかりですが、今後は、こうした組織的課題を明らかにしつつ、この解決に至るまでの書籍を編みたいと思っています。

  ▼

 マナビラボプロジェクトは、本日をもちまして1年が終了しました。
 マナビラボ研究員にも入れ替わりがあり、堤君が上武大学へご就職、松尾君がご卒業となります。おめでとうございます。

 なお、研究の成果は、山辺さん、木村君、中原、日本教育研究イノベーションセンターで話し合いつつ、北大路書房さんから書籍を今年度中に出版させて頂く予定です(編集者は奥野さんです)。
 個人的な思いとしては、アクティブラーニングの育成論、そしてアクティブラーニングの組織論を加味した、オリジナリティ溢れる研究にしたいなと思っております。
 どうぞお楽しみに!

 そして人生はつづく

 ーーー

追伸.
 8年にわたって長年僕の仕事を支えてくれた、アシスタントの阿部樹子さんが、本日をもちまして東京大学を「卒業」なさいます。
 ついにこの日が来てしまったのかと思う一方、阿部さんの門出を応援したいと思います。この1か月は、よく阿部さんと研究室で昔話をしておりました。

 僕のアシスタント業務(なにせ靴下ポイポイです)、研究部門の事務統括というのは、本当に大変な仕事です。この8年、僕が前線で戦ってこられたのは、阿部さんが背後を守って下さっていたからだと思っています。僕は安心して、活動を為すことができました。

 阿部樹子さんには心より感謝をいたします。
 本当にありがとうございました。
 学び多き人生の旅を!

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投稿者 jun : 2016年3月31日 05:50


創造的・脱二分法のすすめ!?

 Aか、さもなくば、Bのどちらかだ!

   ・
   ・
   ・

 この世には「二分法思考」があふれています。
 ここで「二分法思考」というのは、ある対象Aと、それとは真逆のBを想定し、それらを対照づけて考える思考法です。

 僕が、よく学生さんに申し上げているのは、

 二分法思考で描き出されるものは、たいてい「怪しい」

 ということです。

 言葉をもう少し換えるならば、

 人々が両極・両端に描き出そうとするものは、便宜上、その方が「簡単」だからそうしているだけであり、その内実は、いったん「疑う」必要がある

 ということになります。
 今日はこのことについて考えてみましょう。

   ▼

 例えば、伝統的に組織論では、よく「個人」と「組織」が完全に分けられた要素であるかのように論じられます。

 個人が・・・をする
 組織が・・・をする

 個人レベルでは・・・かくかくしかじかである
 組織レベルでは・・・ちょめちょめほにゃららである

 上述の物言いにおいては、ここでは、「個人」があたかも「組織」とは異なる独立した要素として描き出され、かつ、組織の方も、個人とは異なる主体かのように描き出されます。

 しかし、よーく考えてみてください。

 組織「が」・・・・する

 と、組織をあたかも「主体」かのように描き出しますが、組織を構成しているのは「個人」の集合です。

 「組織が」という言葉は日本語のセンテンスとしては通用しますが、

 「はい、それでは組織さん、出てきてくださいー」

 といっても、「ある特定の何か」が

 「はーい、何かお呼びになりましたかー?」

 とでてくるわけではありません。
 あたりまえですが、この世には「組織君」も「組織ちゃん」も、そのような実態は存在していません。組織はその概念の内部に個人を内包しています。また、個人は、組織を構成する要素の一部です。

 これは非常に簡便な例で、さらに掘り下げていくと、なかなか味わい深い例だったのですが、僕が述べたいことの概略はおわかりいただけたかな、と思います。

 冒頭に述べたとおり、人々が両極・両端に描き出そうとするものは、便宜上、その方が「簡単」だからそうしているだけであり、その内実は、たいてい「怪しい」ものです。
 
 日常的には、このような二分法を用いて世界を認識することはよいのですが、本気の本気でものを考えるときには、こうした二分法を、いったん疑う必要もありそうです。
 おそらくビジネスの世界も、二分法に支配されている世界のひとつです。
 多忙ゆえに致し方ないところもあるのですが、時には、二分法をいったん疑い、その内実をじっくり考えることが大切なのかもしれません。
 
  ▼

 今日は、二分法思考について書きました。

 今日は二分法のネガティブな側面についてのみ書きましたが、実は、逆手にとれば、二分法とはチャンスでもあります。

 なぜなら、二分法によって対照づけられる2つの要素は、そもそも

 一般に、人が「両極」に描き出すことをよしとしている常識のかたまり

 だからです。

 ここを逆手にとって、敢えて、意図をもち、それらを結合させることができたとしたら、そこにリマーカブルなアイデアが生まれる可能性が高まるかもしれません。
 
 すなわち「A or B」と他者に選択を迫られたら、「Aか、Bかのどちらかを選びたくなる習性」をぐっとこらえて、「A and B」が成立する地平を探す、ということです。

 あなたの近くに、疑う価値のある「二分法思考」は存在していませんか?

 そして人生はつづく

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追伸.
本日(水曜日)19:00-20:00まで「マナビの笑劇場ライブ!」をYoutubeライブ配信いたします。
お笑いコンビ・モクレンに加え、中原も登場します。
配信は19時になったらこちらから!見てねー


マナビラボ公式 Youtubeチャンネル

https://www.youtube.com/channel/UCkIbtLt_5cEP93NF9Lb28xA?platform=hootsuite

投稿者 jun : 2016年3月30日 04:52


あなたの会社のトップは「毒性感情に見舞われたモヤモヤ社長」ですか?

 エグゼクティブ経営層は「毒性感情」を内に抱えてモヤモヤしている!?

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 先だって、関根さん(ラーンウェル代表・中原研OB)、舘野さん(立教大学)、斎藤さん(中原研M2)らが中心になって、ここ最近のコーチングに関する実証研究(英語論文)をよむ研究会が、東大で3か月にわたって開催されました。

 先だっての研究会は、その研究会の最終会。
 こちらの研究会には、20名程度の、志ある実務家・研究者の方々にご参加いただきました。皆様、本当にお疲れ様でした。心より感謝をいたします。

  ▼

 先だっての研究会では、様々な論文を読みましたが、個人的に興味深い概念だなと思ったのは、冒頭に申し上げた「経営層が抱える毒性感情(emotional toxic)」です(笑)(市ノ瀬さんによるご報告、感謝!)。

 ここで毒性感情とは、

 エグゼテクティブが立場上抱えてしまいがちな仕事上の負のストレス、心理的葛藤

 とお考えいただいてもOKかと思います。

 経営層は、アクションオリエンティッドな存在であり、多忙です。

 しかし、徹底的に「行為!行為!行為!」な前のめりピーポーであるからこそ、多忙であるからこそ、本来は、内省を通じて、倫理や道徳観に支えられたリーダーシップを涵養することが重要になります。

 また、経営層は孤独であり、人に弱みを見せられる存在ではありません。
 会社の中で、トップである自分が

 「うーん、ぼく、今期の戦略に自信ないんだよね」
 「あのさ、うちの会社、今の状況、イマイチじゃね」

 と言ってしまったが最後。周囲からの「袋だたきアワー」は目に見えています(泣)。
 経営陣は、会社組織のなかで、決して「弱み」を見せたり、自分をさらけ出したりはできないものです。
 かくして、経営陣は、先ほどの毒性感情(Emotional Toxic)を抱えることになります。

 かくして、経営陣には、内省を促し、かつ、こうした毒性感情を中和するような「深い対人的な対話(Deep interpersonal communication)が重要になります。
 モヤモヤしている心、仕事上抱えてしまった心理的葛藤をそのままにしておいては、意志決定を誤ったりしてしまう可能性が高くなるからです。

  ▼

 僕は仕事上、経営層の方、次世代経営層にもお会いすることが少なくありません。以前、志があり、かつ将来有望な次世代経営層の方にお逢いしたときに、こんな一言を伺ったことがあります。

 ポジションがあがるとですね
   不安が「べき乗」にあがりますよ。

 思うに、この方のかかえておられる「べき乗にあがりゆく不安」は「毒性感情」のひとつとしても解釈が可能です。
 そして、この「毒性感情」はいくつかの次元が重なり合ってでてくるのだと思います。

 容易に想像できるのは、成果へのプレッシャーや責任感の重さ。
 そして、将来のキャリア上の不安。

 人は組織のなかで、上昇移動を繰り返してきますと、将来、ここからあがっていける「階段の数」も、1段、ないしは2段、とかなり限られてきます。
 執行役員まであがってしまえば、あとは役員、副社長、社長くらいしか、ポストがないでしょう。そして、そこには、多くの有象無象・海千山千の競争相手がいます。事業統括部長、執行役員クラスとなると、そうした「毒性感情」は、とてつもないものがあるでしょう。

 しかも、このクラスになると、日々の仕事もかなりモヤモヤしてくるものが増えてきます。
 自分のところまであがってくる案件は、白黒はっきりつかない、相当グレーなものばかりです。だからこそ、トップの意志決定が必要になるからです。

 白黒はっきりつくものは「課長レベル」で処理されているので、ここにあがってくるものは、「限りなくブラックに近いグレー」でしょうか。あるいは、「限りなく大炎上に近い炎上」かな(笑)。あるいは、「限りなくつづく謝罪モード」かな。

 かくして、エグゼクティブ経営陣は「毒性感情」に見舞われます。
 モヤモヤモヤ。

 はやく、誰か話をきいてあげて、スッキリさせてあげなきゃね。
 あんまりモヤモヤしていると、シンドクなっちゃうよ。
 モヤモヤモヤ。

  ▼

 今日はエグゼクティブ経営陣の抱えやすい毒性感情について書きました。
 毒性感情の処理については、さまざまな手法があるかとは思いますが、もっとも基本になるのは、

 エグゼクティブ経営陣だからこそ「孤独」にしない

 ということに尽きるのだと思います。

 まぁ、トップともあろう人ならば、自ら「孤独」には陥らないように、自分で自分の人的ネットワークを整備することが求められるのかもしれませんね。

 専門家を頼むで有れば、欧米の場合、日本よりも彼らに対するコーチングサービスが発達しています。
 欧米の専門のコーチングファームには、エグゼクティブコーチングの資質があるコーチが存在しており、ある文献によりますと、60名中45名が博士号を取得しているといいます(Judge and Cowell 1997)(水野さんによる報告、感謝!)。
 まぁ、専門家を頼まなくても、身近に相談にのってくれる他者がひとりでもいてくれれば、事態は変わるのかもしれませんね。

 日本も、次第に、経営陣の人材流動性が高まりつつあります。
 いずれにしても、経営層の「毒性感情」をともに支える人的ネットワークが、今後の人材開発の世界にはさらに求められるようになるんだろうな、と思います。

 そして人生はつづく
  

投稿者 jun : 2016年3月29日 06:33


すべてが「IT産業化」する時代、「IT産業」という言葉がなくなる日ー私たちはどう生きるか?:ヤフー株式会社・宮坂学社長×中原淳のオンライン対談

これからは多分、自動車だってIT産業になりますし、家自体もスマートホームという言い方でIT産業になりますし、時計だってIT産業になると思いますし、ヘルスケアもIT産業と言っていますし。だから、全ての産業がインターネット、ITとどのように付き合うのかと考えているところで。どの業界に行こうとも、IT業界に行こうが行かまいが、遅かれ早かれあなたの働く仕事は必ずITが入ってくる時代になるんではないですかね。

   ・
   ・
   ・

 ヤフー株式会社・代表取締役社長の宮坂学さんと中原の対談ビデオの最終編が「マナビラボ」で昨日から公開されました。ビデオの文字おこし(テキスト版)も公開されているので、ぜひご高覧いただけますと幸いです。

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IT産業という言葉がなくなる日?:ヤフー株式会社・宮坂学社長×中原淳対談
http://manabilab.jp/article/1302

 大変お忙しいところ貴重なお時間をいただきました、宮坂学社長には、この場を借りてあつく御礼差し上げます。どうもありがとうございました。

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 今回、宮坂さんと僕が議論しているのは、

 1.これからIT産業はどうなっていくか?
 
 という話題と、

 2.そのようなとき、私たちや私たちの子どもたちは、どのように生きるのか?

 ということです。

 冒頭で宮坂さんがおっしゃるように、これからの世の中は、

 あらゆる産業が「ITとつきあっていく」時代
 あらゆる産業が「IT産業化」する時代

 に突入していくものと思われます。

 くしくも先だって、英国の新聞「インディペン紙」が、紙の印刷をやめることになりました。これからはデジタルでの展開を行うそうです。このように、これからの産業は、いやがおうでも、ITとつきあっていくこと、ITを目の前にして「フラット」になっていくことが予想されます。

 このことは、さらにラディカルに申し上げますと、

「IT産業」という言葉がいつかなくなる日がくること

 をも意味します。
 
 すべてがIT産業化し、フラットな立ち位置に置かれるのなら、敢えて、ITを「独自の産業」としてくくり出すことに、それほどの意味があるとは思えません。だって、すべてが「IT産業」なのだから(笑)

 逆に「すべての産業がIT産業化してくる世の中」とは、既存のIT産業にとっても、「レゾンデートル(存在証明)」を求められる社会への突入を意味しているように、僕には思えます。

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 次に、このような時代をわたしたちの子ども達は、いかに生きることが求められるのでしょうか。

 宮坂さんは

「何でもいいからインターネットで何かを作れるというところを学ぶことが大事」

 だとおっしゃっておられました。
 僕もまったく同感です。

 宮坂さんはおっしゃいます。

多分、ITも同じような世界だと思うんですよ。ITは別にIT業界に行くから覚えるわけではなくて、「読み、書き、そろばん」と昔でいっていたもの。英語に近いものだと思いますけど。どの業界に行こうともそれはすごく役に立つことで。
今まではインターネット業界に行くときに役に立つもので。インターネット業界が伸びているという言い方が多かったと思いますが、多分そうではなくて、もうどの業界に行こうとも、インターネットとかIT技術が分かる、使えるというのは間違いなく役に立つと思いますね。

「すべてがIT産業化してくる社会」「IT産業がなくなる日」を生きる社会においては、「読み、書き、そろばん」と同じようにITとつきあうことが、子どもをふくめ、すべての人々に求められるようになるものと僕も思います。

「プログラミングができるようになればいい」という意味ではありません。IT中毒、スマホ中毒にならないこともふまえて、「ITとよいつきあい方」ができるようになることが求められます。

 せんだって、我が家では、コンピュータを「勉強道具」として正式に認定しました。もちろん、だからといって、既存の国語・算数・理科・社会が意味がないという意味ではありません。そういう既存教科は当然重要。だけれども、これからはケシゴム、鉛筆と同様に、ITとつきあうことが求められるように思います。

 でも、もう「情報教育」とか「コンピュータ教育」といっている時代ではないと僕は思います。PCを特別の機器として括り出すことに、さほど意味がない時代を生きているような気がするのです。

 むしろ、

「情報教育」や「コンピュータ教育」が死語になる社会
PCとケシゴムと鉛筆が「同レベル」になる社会

 を私たちは生きているように思うのです。

 ITとつきあうといっても、願わくば、しかも「誰かのつくったサービスやゲームの消費者になる」だけではなく、「ITを使うことで新たな付加価値を世の中に生み出す
す生産者」
として、ITと向き合うことができたとしたら、さらに素敵なことです。

 ワンセンテンスで申し上げるのだとすれば、

 「使う側」から「作り手」へ

 近年、PC離れというものが進行し、スマホを使う若者が増えているといいますが、これがイコール「PCをつかって生産を行うこと」から「スマホでゲームだけをやる消費者」への移行を直接意味しているのだとしたら、あまり望ましくない事態と僕は思います。

  ▼

 宮坂さんのお話からは、わたしたちが、今後、どのような社会を生き、どのように学び、挑んでいくかについて非常に示唆にとむ洞察を得られるような気がいたします。最後になりますが、ふたたび、心より感謝いたします。

 皆様もどうぞ、この対談ビデオをご覧頂ければ幸いです。
 このブログ記事では、ほんのさわりをご紹介させていただきました。テキスト版もありますので、是非、下記のサイトを訪れて頂けますと幸いです。
 そして願わくば、この対談ビデオへの「いいね!」「シェア!」、Twitterでの「RT」をお願いできますれば、さらにさらにうれしいことです(笑)

 そして人生はつづく

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IT産業という言葉がなくなる日?:ヤフー株式会社・宮坂学社長×中原淳対談
http://manabilab.jp/article/1302

投稿者 jun : 2016年3月28日 06:30


研修講師やファシリテータの「密められた仕事」とは何か?(後編):バウンダリーのマネジメント

 先だって、僕は、このブログで、「研修」やら「ワークショップ」やらに登壇したあとは、もれなく「廃人」になってしまう理由のひとつに「ステータスのマネジメント」がありますよ、というお話しをしました。

研修講師やファシリテータの「密められた仕事」とは何か?(前編):ステータスのマネジメント
http://www.nakahara-lab.net/blog/2016/03/post_2581.html

「ステータスのマネジメント」というのは、研修講師やファシリテータが、

「自分のポジション・身分(ステータス)を、集団の垂直的な権力関係のどこに位置づけるのか? それをどのように上下移動させるのか?」

 ということです。

 研修講師やファシリテータは、会の間中、ステータスを上下にびゅんびゅんと移動させながら、会を進行させていくので、シンドイのかもしれません、ということをいくつかの例を出してお話しました。

 今日は、この問題の、もうひとつの理由「バウンダリーのマネジメント」について書かせて頂きます。

 研修講師やワークショップのファシリテータをなす人は、会の進行中、「ステータスのマネジメント」に加えて、「バウンダリーのマネジメント」を行っています。

 ▼

 まず、「バウンダリーのマネジメント」の「バウンダリー」とは「境界(boundary)」のことです。

 バウンダリーのマネジメントとは、

 研修講師やファシリテータが、「自分のポジションを、ある特定の集団の内外のどこに布置するか? 自分の立ち位置を、集団の内部におくのか、外におくのか?」

 ということです。

 具体的に申しますと、ワークショップの冒頭部では、研修講師は、まず自分を信頼してもらい、集団内に「心理的安全(何かをいっても刺されない雰囲気)」や「集団効力感(このグループでなら何かできそうな雰囲気)を確保しなくてはなりません。

 そんなときに、彼らがよく用いるのは、バウンダリーのマネジメントを駆使して、その集団「内部」に自分を溶け込ませることです。

 曰く

 「今日は・・・私たち、一緒に学んでいきましょう」
 「今日は、私たちは・・・の課題に直面しているわけですが・・・」

 大切なのは、ここで「私たち」「一緒に」という用語が用いられていることです。冷静になって考えてみれば、研修講師やファシリテータのこの発話は、少しだけ「奇妙」です。

 敢えて二分法的に明瞭に描き出すのであれば、「学ぶのは学習者」であり、「教えるのは研修講師」です。それなのに、ここで用いられているのは「私たち」「一緒に」です。
 つまり、このとき、研修講師やファシリテータは、学ぶ人の内部に自分を定位して、安心感、効力感を高めようとしているのですね。

 先だって、あるコンサルタントの方とお話した際に、その方は、自分のクライアントのことを決して「御社」とは呼ばない、とおっしゃっていました。クライアントとともに問題解決をするのだから「当社」とよびたいよね。
 これも、自分が支援しようとしている集団の「内部」に自分を定位している例です。

 しかし、これで済むのなら、研修講師やファシリテータに「気疲れ」はありません。みんなで仲良く、お手てつないで、チーパッパと学び、行進をしていけばいいのです。

 ただ事態はそのようにはすすみません。
 たいてい、研修講師やファシリテータは、どこかの段階で、参加者や学習者に「スパイシーなフィードバック」や「ソルティな問いかけ」を行う必要がでてきます。そのとき、彼らは、自分の立ち位置をズラす必要がでてきます。

「皆さんは・・・であるようにわたしには見えます。それで本当によろしいのですか?」

「皆さんは、この局面でどうなさいますか?」

 あれっ、さっきまで「わたしたち」「一緒に」といっていたはずなのに、上記のセンテンスの「皆さん」に、もう研修講師やファシリテータは含まれていません。つまり、ここでバウンダリーマネジメントが起こったのです。

 研修講師は、ここで集団の「外部」ー外側ーに自分を定位し、「客観的」で「俯瞰的」だだと思われる立ち位置から「スパイシーなフィードバック」や「ソルティな問いかけ」を行いました。

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 ところが!こればかりを続けていると、場や集団が持ちません。というわけで、またまたバウンダリーをもとに戻して、最後には

「今日はいろんなことがありましたが、また明日から、私たち、一緒に学んでいきましょう」

 となるわけです。

 このように、研修講師やファシリテータは、会の間中、バウンダリーをえっちらおっちら移動させながら、自分の立ち位置を変えて仕事をしています。
 これは簡単なようでいて、大変センシティビティを必要とする作業です。感情も押し殺しながら、物事をすすめなくてはなりません。だから、気疲れすんですよ、きっと。

 皆様、今週も、まことにお疲れ様でした!

  ▼

 今日は「研修」やら「ワークショップ」やらに登壇したあとは、もれなく「廃人」になってしまう理由のひとつとして「バウンダリーのマネジメント」について書きました。ステータスのマネジメントにくわえて、これも頻繁に用いられるものです。

 これらは人材開発の世界では、「科学的な知」というよりも、「実践知」として伝えられるテクニックですが、いかがでしたでしょうか?

 仕事柄よく研修や人材育成の現場に居合わせますが、経験の浅い講演者、ファシリテータは、たいていステータスやバウンダリーのマネジメントにミスってしまっているものです。自戒をこめて注意したいものです。

 ちなみに、本当に本当のことをいうと、研修講師やファシリテータのみならず、現場のマネジャーでピープルマネジメントのうまい人は、ステータスやバウンダリーのマネジメントが非常に巧妙です。ぜひ、そういう視点から、御社のマネジャーを見つめてみるとよいかもしれません。

 あなたは、今、集団の内部にいますか?それとも外部ですか?
 使っているのは「わたしたち」ですか「皆さん」ですか?

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月25日 06:37


「本当の自分」は決して見つからない!?:「生きる意味」より「死なない工夫」!?

 僕が大学時代に学んだことのひとつに、

 「本当のちょめちょめとは何か?」
 「真のほにゃららとは・・・・・何か?」

 という問いの立て方を疑えというものがあります。

 これをむちゃくちゃシンプルにワンセンテンスで述べるならば、

 「本当の・・・・」
 「真の・・・・・」

 というものは、たいてい「怪しい」ということです。

 このことはややこしく言えば、「形而上学的な問いの立て方」をするんじゃない。たとえば構造主義的に物事を見なさい、ということになるんでしょうが、今、ここの段階では、そういう「ややこしい問題」は、うち捨てておきましょう。

 現在は、オックスフォード大学で教鞭をとられている苅谷剛彦先生(社会学)から、僕はこのことを学びました。

 昨今、センセーショナルなタイトルで新書「文系学部廃止の衝撃」を上梓された吉見俊哉先生(社会学・・・わたくしめの上長です)ではないですが、人文社会科学をで獲得できるものが「視点」や「視座」や「価値の相対化や創出」であるのなら、僕は、人文社会科学学徒のひとりとして、こうした「視点」を学びました。


  ▼

 先日ふとしたところで、南直哉さんの書かれた「老師と少年」という新書を手にしました。
 

 老師と少年は、思春期なのか「本当の自分とは何か?」「生きるとは何か?」などの崇高な問いについて思い悩む少年が、ある老師の庵をおとずれ対話をしていく物語です。
 少年の素朴な問いーしかし思い悩む問いーに対して、老師がかえす言葉がひとつひとつ重く、なかなか味わい深く読むことができました。

 「本当の自分とは何か?」について思い悩む少年に、老師は言います。

 「本当の」とつくものはどれも決して見つからない。
 それは「今ここにあること」へのいらだちにすぎない
 (p34)

 なかなか刺さる一言です。
 前段の「本当のちょめちょめ」「真のほにゃらら」を疑え、という内容がここでも出てきます。老師によれば、「本当の・・・」とつくものは「今ここにあることの苛立ち」だといいます。

 その上で老師はいいます。

 「本当の自分」を永遠に知ることはできない。
 「会ったことのない人」は探せない。
 (p32)

 もし本当の自分があるとすれば、
 「わたしという物語」をつくらせる病としかいえない。
(p33)

なるほど。ここで老師が言いたいのはこういうことでしょう。

 自ら逢ったことのない「本当の自分」に、相対したときに、逢ったことのない自分は、それが「本当の自分」であると同定できない。

 また「本当の自分」とは「わたしという物語」をつくらせる病のようなものである

 老師はそう喝破します。
 ここから先は、書籍の方をご覧いただきたいのですが、最後に老師はいいます。

 大切なのは答えではなく、
 答えがわからなくてもやっていけることだと、彼が感じることだ
 /やっていく方法は自分で見つけるしかない。

 「生きる意味」より「死なない工夫」だ
 (p112)

 うーん、渋い。

  ▼

 今日は、「本当の・・・」という問いの立て方を疑え、というお話しから、南直哉著「老師と少年」について感想を書きました。

 いつか我が子が大きくなって、「本当の自分」を探しはじめたら、渡してあげたいなと思う良著でした。

 あなたは「本当の自分」を探していませんか?

 そして人生はつづく
  

投稿者 jun : 2016年3月24日 06:24


強制と自己選択の両立!? : カウンセラーはクライアントと何をしているのか!?

 信田さよこ著「カウンセラーは何を見ているか?」という書籍を読みました。

 この書籍は、経験あるカウンセラーである信田さよ子さんが、ご自身のカウンセリングを振り返りつつ、

「カウンセラーである自分自身が、カウンセリングルームのなかで何を考え、どのように対応しているか?」

 を記述した本です。僕はカウンセリングがズブの素人なので、本書の専門的な位置づけや、本書の一般化がどの程度可能かは知りません。
 ですが、そこに書かれていた内容は、挑戦的な記述も多く、面白く読めました。

 信田さんはおっしゃいます。

「私たちは職人みたいなものです。決して表舞台に出てはいけません」。
 援助職の世界は、なぜかこんな優等生的発言に満ちている。/
 落としどころに「クライアントとの協働」「解決主体としてのクライアント」といった言葉をきめれば、どこにいっても通用するし、研究論文の一本も駆けてしまうほどだ

(本書より引用)

 援助職の世界は「優等生的発言」に満ちているという指摘は小気味よいものです。

 その上で、本書では、カウンセラーの実践知がいくつか紹介されます。

 ・カウンセリングの部屋は、わたしにとって一種の「舞台」である
 ・カウンセラーが目の前で困っている態度を示すことは、
  クライアントにとって必ずしも不快なことではない
 ・クライアントの感情表出に対して、それが激しければ激しいほど
  「とにかく高台にのぼれ」
 ・(クライアントの)感情に焦点をあてるのではなく、
  クライアントがかかえる「問題」としてとらえる
 ・クライアントの話を、住所にまつわる後景とともに繰り広げられる
  映画として際限できるくらいにじっくり聞かなければカウンセリング
  を始めることができないと思う

(本書より引用・短縮)

 僕にとってもっとも興味深かったのは、信田さんがカウンセリングとは何かを喩えていらっしゃる下記の記述です。

 曰く、

自分で選んだ満足感のもとに生け簀の中を泳いでもらう。そして生け簀ごと、望ましい方向に移動させること。これがカウンセリングにおける独特の強制であり、介入なのである


(本書より引用)

 要するにカウンセリングとは「強制」と「自己選択」を両立させることだと解釈できます。そして、もはやここには「援助職」に独特の「優等生的発言」はありません。

 このことは、多かれ少なかれ、少なくない人が、薄々気づいてはいることなのかもしれませんが、カウンセリングを長くやってこられ方に、このように言い切って頂けると、小気味よく感じました。
 「強制」と「自己選択」の両立という問題は、カウンセラーのみならず、人にまつわる多くの職業、ポジションに横たわる問題であるように思います・・・実は。

  ▼

 今日は門外漢ながら「カウンセラーは何を見ているか?」という書籍の書評をさせていただきました。医学書院さんの「ケアをひらく」シリーズは、僕が好んでいるシリーズですが、こちらも面白い本でした。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月23日 06:34


研修講師やファシリテータの「密められた仕事」とは何か?(前編):ステータスのマネジメント

 以前、どちらかでお話したような気もしますが、最近の僕は、「研修」やら「ワークショップ」やらに登壇したあとは、もれなく「廃人」になってしまいます。

「廃人」とは「疲労困憊が極限にまで達した状況」の喩えです(笑)。腰・肩・背中には疲労がたまりパンパンなのになぜか意識だけはハッキリしていて、なかなか寝付けず。でも、気疲れはハンパないので、いったん寝付くと、朝、起きるのがシンドすぎる、という状況です。

 北斗の拳的にいうと、

 あべし・・・
 お前はもう死んでいる(泣)

 てな感じですね。

  ▼

 それでは、「なぜこのような状況が生まれているのか?」

 「そりゃ、中原さん、年とったんだよ!」

 と言われれば、「はい、それまでよー」なのですが(笑)、研修やらワークショップやらの間に、自分がどのようなことをやっているかをしっかりとリフレクションしてみると、それもしゃーないな、という思いに至ります。

 研修講師やワークショップのファシリテータをなす人は、会の進行中、一般に2つのものをマネジメントします。
 専門用語では、これを「ステータスのマネジメント」「バウンダリーのマネジメント」とよびます。
 今日と明日で、この2つについて紹介していくことにしましょう。

 ▼

 まず今日は前者「ステータスのマネジメント」。
「ステータスのマネジメント」というのは、研修講師やファシリテータが、

「自分のポジション・身分(ステータス)を、集団内に生起する垂直的な権力関係のどこに位置づけるのか? それをどのように上下移動させるのか?」

 ということです。

 たとえば、ワークショップ冒頭。
 ファシリテータをつとめる人は、まずは一般的に自分の自己紹介をします。

 ワークショップの種類にもよりますが、このとき多くのファシリテータが為さなければならないのは、

「自分が信頼にたる人物=専門性・知識・経験・有している人物であること」

 のディスプレイです。

 このようなときには、講師やファシリテータは「ステータス」を一時的に「上昇」させます。人によっては、これまでの自分の人生遍歴や、業務経験、そうしたものを紹介して、自分が専門性・知識・経験を有していて、身を預けてもよい人物であることを自己提示させます。

 しかし、同時にワークショップでは、多くの人々に気持ちよく自発的にコミュニケーションをとり、作業をしてもらわなければなりません。

 そのときに重要なのは、ファシリテーターは「ここが安全な場ですよ!」という雰囲気をつくることと、「わたしは皆さんのサポートをしますよ!」というメッセージを伝えることです。その場合、ファシリテータは、一時的に、学習者の「下」に自らのステータスをおきます。

 おやおや、先ほどは学習者の「上」にあったはずのステータスが、急に「下」に置かれましたね。そう、このようにステータスは、会の進行と同時に上下に移動させなければならないものなのです。
 
 今度、ステータスが上昇せざるをえないのは、例えば、意見をまとめあげるとき、規範を抵触する行為が生じたとき、スパイシーなフィードバックをするとき、目標からそれたときなどですね。こうした場合には、自らのステータスを学習者の「上」に配置します。

 このようにファシリテータは、会の間中、ステータスを上下にびゅんびゅんと移動させながら、会を進行させていきます。

 ふぅ、やれやれ。
 こりゃ、気疲れするわいな。

  ▼

 今日と明日で、「研修」やら「ワークショップ」やらに登壇したあとに妙に疲労困憊する理由について論じてみることにいたします。今日はステータスのマネジメントという観点から、この問題を論じました。

 皆さんは、このような経験はございますか?
 お体、ぜひご自愛ください!

 今週も頑張りましょう!
 そして人生はつづく

ーーー

cf. 続編
研修講師やファシリテータの「密められた仕事」とは何か?(後編):バウンダリーのマネジメント
http://www.nakahara-lab.net/blog/2016/03/post_2584.html

投稿者 jun : 2016年3月22日 06:36


「恐山の生々しいリアリティ」に「理論」を想う!? : 南直哉著「恐山ー死者のいる場所」を読んだ!?

 僕は、割と、読書の幅は広い方だと思います。
 今日の読書は「恐山ー死者のいる場所」(笑)
 そう、あの下北半島にあり、死者が降臨?するという「恐山」が今日の一冊でした。

 この書籍は、南直哉さんという曹洞宗のお坊さんが書かれた書籍です。新書なので、すぐにどなたでもお読み頂けるかと思います。

  ▼

 結論から申し上げますが、本書は僕にとって、とても興味深いものでした。
 その理由は「恐山」に本当に死者は降臨するのか、どうなのか、という紋切り型の問いに対する答えが、本書に存在していたからではありません(笑)。恐山にまつわるスピリチュアルな現象についての記述を本書に期待なさる方は、きっとよい意味で肩すかしを食らいます。

 本書を僕が面白いと思った理由は、そうではなく、「恐山に出会い、煩悶する著者の姿」が大変興味深かったからです

 著者の南さんは、曹洞宗の中心寺院である永平寺で20年修行を積まれて、紆余曲折あり、2005年から恐山で過ごしている方です。

 永平寺というエリート中のエリート寺院を出て仏教の知識をたくさん身につけている彼が、恐山という「日本の土俗信仰に仏教の皮をかぶせたもの(p104)」に出会い、そこで様々な苦しみを担った人々と出会ったときに、彼は煩悶します。

 恐山に出会う人々は、「動かしがたい、圧倒的な想いの濃度と密度」ーリアリティを背負って、ここにわざわざ来ています。その彼らに対して、既存の仏教の理論や教義をふりかざしても、全く意味がありません。
 そうした人々の苦しみをどのように受け止め、どのように声をかけたらよいのか。南さんは煩悶します。

「今まで考えてきた枠組みの中には、恐山の濃厚なリアリティを収納する器がないことを早々に痛感させられた(p105)」

「ただの教義理論や修行経験が通じる世界ではない。一から考え直さないとだめだ(p105)」

 さらに南さんの煩悶はつづきます。

「そもそも原理主義というものが有効なのは、現実が非原理的な世界であるときです。しかし、原理主義が現実になった瞬間、原理主義は現実を壊してしまいます。ならば原理主義などなくてもいいではないかと思うかもしれませんが、常に現実の構造は曖昧で、それを批判するための道具として原理主義は必要になってきます(p119)」

 似ている。
 あまりに似ている。
 この「どっちつかず」で「割り切れない」思いに、僕は思わず、共感してしまうのです。

  ▼

 僕はこの新書の読書を通して、「原理と現実」「理論と実践」についての思考を巡らせました。本題である「恐山」はどこいった?という感じですが(笑)、それはどうかお許しを。

 なぜ原理や理論は存在するのか?
 答えは今日も風に吹かれている

 そして人生はつづく
 

投稿者 jun : 2016年3月21日 06:30


写真家の仕事の本質は「光を読むこと」である!?

 先だって、ご縁があって、写真家のたかはしじゅんいちさんに、ポートレートをとっていただくことができました(Yさんにご紹介いただきました。心より感謝です)。

 いつも使っているポートレートが、5年以上前のもので、

「さすがに、そろそろ実態にあってなくて詐欺だろう」的な雰囲気が漂ってきた

 ので、そろそろ変えなきゃな、と思っていたのです。

  ▼

 たかはしじゅんいちさんは、1980年代後半からNYをベースに活動なさったフォトグラファーで、その当時は、ロバートデニーロ、ジェニファーロペスなどを撮影なさった経験をお持ちの方でした。

たかはしじゅんいちさんのポートフォリオ
http://junichitakahashi.com/profile/

 2009年 newsweek誌が選ぶ世界で尊敬される日本人にも選出されたことがあるそうです。現在は、東京をベースに活動をなさっていらっしゃいます。

 こんな素晴らしいご経歴をお持ちの方に、小生なんぞシオシオノパーマンが、写真をご依頼させていただいていいものかと一瞬躊躇いましたが、また小生の悪い癖?が頭をもたげ、

 どうしても、プロの写真家の仕事の様子が見てみたい!
 たかはしさんがどんな風に仕事をなさるのかが見てみたい!

 ということで、仕事をご依頼させていただきました。
 ショボショボの被写体ですみません(笑)

  ▼

 撮影は、都内の某所で行われました。
 僕は大変緊張して、某所に伺いましたが、すでにこんなセットが組まれておりました。ヤっ、ヤバイ、「おおごと臭」が漂っています(笑)

takahashijyunichi1.png

 たかはしじゅんいちさんには、はじめてお逢いしましたが、大変気さくな方で、ホッといたしました。
 こちらの緊張や、慣れていない様子を常に気遣ってくださっていただいたことは、心より感謝いたします。

 撮影は、たかはしさんと、おしゃべりをしているうちにあっという間に終了いたしました。たぶん、相当愉しくおしゃべりをし、またいろんな話を伺っていたので、撮影には、かなり笑顔で望めたのではないかと思います。
 
 グローバルで仕事をするということ、写真を学ぶということ。駆け出し時代のご苦労。日本の帰国後のこと。日本がもつ可能性。そんなことを話しているうちに、あっという間に時間が過ぎました。

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 個人的に大変興味深かったのは、たかはしさんがおっしゃっていた、「写真家の仕事の本質」に関する議論です。

 「写真家の仕事の根っことは何か?」という話の際、たかはしさんは、

 僕らの仕事でもっとも重要なことは、「光」を読むことです

 とおっしゃっていました(ICレコーダを持っていたわけではないので、一言一句同じではないと思いますが、そのような主旨のお言葉です)。

 一般の人は、ふだん生活するうえで、あまり「光」を意識しないかもしれませんが、写真家は、常に「光」を意識し、それをどのように活かせば、被写体を効果的にうつせるかを計算しているといいます。

 たかはしさんは、おっしゃいます。

 光をつかって、影をつくるのです。光の力で、2次元のものを、3次元に見せるのです

 たかはしさんは、仕事の合間、何度か

 あっ、今、いい光です

 とつぶやいておられました。僕には何のことかわかりませんが、きっとたかはしさんの目には、「僕の目には見えない光」が見えておられていたのかな、と思っておりました。

 プロの仕事は、まことに興味深いものです。
 そして、プロフェッショナルの語る「仕事の本質」は、いつもハッとさせられます。
 

  ▼
 
 たかはしじゅんいちさんに、ご撮影いただいた写真はこちらです(他にもございます)。
 被写体がショボショボなので恐縮ですが、自分自身としては気に入っております。

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 このたびはお逢いできて光栄でした。ありがとうございました。
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月18日 05:58


「道を知ってること」と「歩むこと」は全く違う!?:「マウスとキーボードのインターネット」から「親指のインターネット」への組織変革:ヤフー株式会社・宮坂学社長との対談ビデオ公開!?

 ヤフー株式会社 代表取締役社長の宮坂学社長と不肖・中原の「対談ビデオ・中編」をマナビラボ「15歳の未来予想図」で公開させていただきました(サイトには書き起こしテキストもあります)。

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マナビラボ「宮坂学社長×中原対談ビデオ中編(書き起こしテキストあり)
http://manabilab.jp/article/1265

 宮坂社長には、お忙しいところ、このような取材をお引き受けいただき、心より感謝いたします。ありがとうございました。

  ▼

 対談ビデオの中で宮坂社長は、2012年のご自身の社長就任前後からはじまったヤフー株式会社の経営改革について語っておられます。
 その改革は、その後、同社のV字回復とともに「爆速経営」というキーワードで世に知られるようになりました。

 改革の本丸は、情報環境が急速にスマホにシフトしていくなかで、「パソコンで使われるヤフー」から「スマートフォンで使われるヤフー」に生まれ変わる、脱皮させることであったと宮坂さんはおっしゃいます。

 これまでのヤフーでは、いわば「マウスでクリックをする。キーボードを使うインターネット」に最適化されたサービスが提供されており、事業のうち90%がこちらに依存していました。

 これを「親指とか人さし指だけで使うインターネット」に最適化しなおすことが経営改革の重要な論点だったそうです。しかし、企業サイズもヤフーほど巨大になってくるけれど「分かっちゃいるけれど、なかなか変わらない」のが「人のさが」。

 宮坂さんは、映画「マトリックス」の中で、モーフィアスが残した有名なセリフ

 「道を知ってること」と「歩むこと」は違う

 を引用しながら、この様子を振り返っておられました。
 人は、時に「組織改革」に語り、饒舌になります。しかし、組織改革を語ること、知っていることと、それを「為すこと」は全く異なるということでしょう。後者の厳しさが、ひしひしと伝わる言葉です。
 現在も、「経営の仕組みや、スマートフォンで頑張らないと、あまり会社で評価されない(制度)を整備すること」で、インターネットの変革を先導なさっていました。

 印象的であったのは、宮坂さんが、後半部で

「社長になると社長にしか見えない景色」があるので、
そこはまた新しい学び(直し)が私には必要でした

 とおっしゃっておられたことでした。

 宮坂さんほどの経営者になっても、たとえ、社長になったとしても、学び続けることが求められます。
 志望の高校やら大学に入ったからといって、入試を終えたからといって、希望の会社に入ったからといって、課長や部長になったからといって、執行役員になったからといって、取締役になったからといって、「学び終わる」わけじゃないんですよ(笑)。

 繰り返しになりますが、素敵なお話しをきてくださった宮坂社長に心より感謝いたします。ありがとうございました。
 皆さん、どうかお楽しみいただけますと幸いです。 
 そして人生はつづく

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マナビラボ「宮坂学社長×中原対談ビデオ中編(書き起こしテキストあり)
http://manabilab.jp/article/1265

投稿者 jun : 2016年3月17日 06:07


アクティブラーニング温泉に「湯あたり」しちゃって生まれる「リフレクション疲れ」!?

「先生、授業の最後の振り返りってウザくないですか。最近、どの授業でも、お隣の人と振り返りをしましょう!って、言われるんですよ。「何」振り返っていいのかな。いつも、駄弁ってるだけだけど」
  
  ・
  ・
  ・

 先だって、ある学生さんが、僕にこんなことを教えてくれました。
 これに類することは、先だって別の学生もおっしゃっていました。

「先生、振り返りって何したらいいですか。授業の終わりで疲れてるし、いっつもやらされるから、もー、疲れた。」

 嗚呼、どうも、世の中には「リフレクション疲れ」が生まれているような気がします。

  ▼

 ここで問題とされていることは、

 振り返りをすること重要性
 リフレクションを為すことの重要性

 では「ありません」。

 リフレクションとは、ワンセンテンスで述べるならば、

 1.過去を見直し
 2.「今ここ」を分析し
 3.そのうえで未来を決めること

 リフレクションは、

 変化が激しく、問題が「所与」で渡されず、何が「問題」かが不可視化していく時代
 個人が自分の人生をデザインし生きなければならない時代

 に必要な知性です。

 このような現代社会においては、アクションの合間に一歩立ち止まり、リフレクティブな時間をもつことは非常に重要なことです。

 人は、もともと、猛烈にアクションオリエンテッド(Action-oriented)な存在です。
 力強く、早く、確実に生き抜く為にも、たまには立ち止まり、リフレクションを為すことが重要です。

 しかし、問題はここからです。

 1.リフレクションをしなければならない理由とは何か?

 2.いえいえ、そもそもリフレクションとは何なのか?

 についてあまり明瞭に教えられていないために、リフレクションが、

 「隣の人との単なるおしゃべり」
 「ワークショップの最後の〆の儀式」

 に化しているということです。

  ▼
 
 もうひとつは「リフレクション」する対象に関する問題です。

 1.過去を見直し
 2.「今ここ」を分析し
 3.そのうえで未来を決めること 

 はいわばリフレクションのプロセスです。過去といっても、「何」について振り返り、「今ここ」といっても「何」について分析するのか、についてしっかりとしたインストラクションがないために、冒頭の学生さんのように「何、振り返っていいのかな」という事態が生まれます。

「さー、最後はリフレクションですね。何でもいいからお隣の人と話し合ってください」的なインストラクションが横行することになります。

 経験のある方は、自分だけで「対象」を決定し、効果的なリフレクションを為すことができます。
 が、経験上、多くの人々は難しいと思います。
 経験のない方が学習者である場合には、リフレクションする「対象」について、ある程度のフォーカスを絞ってあげることが大切になってきます。

 ▼

 今日は、世の中に広がる?「リフレクション疲れ」について書きました。

 世の中は、「アクティブラーニング」という言葉が、いわばブームのようになり、「アクティブラーニング温泉」というような状態が生まれています。

 アクティブラーニング温泉に「湯あたり」して、これ以上「リフレクション疲れ」に陥る人を生み出さないようにしていくことが大切かと思います。

 なぜなら、くどいようですが、リフレクションそれ自体は、これからの現代社会を生き抜く人々にとって重要な知性であるからです。
 それはアクティブラーニングが流行しようと、なかろうとも。

 そして人生はつづく

 ーーー

追伸.
 超有名進学校、灘・開成の卒業生達の実像と社会での活躍に迫る。
 年収はいくらか、出世の違いは? そして、学生時代の経験は、いかに影響をあたえているのか。
 濱中淳子先生(大学入試センター)による調査分析を掲載した新書。
 面白かったです。濱中さん、献本御礼、感謝です!

 

投稿者 jun : 2016年3月16日 06:45


「トヨタの人づくり」の秘密!? : 次世代幹部候補「かばん持ち研修」から「新任部長フィードバック研修」まで

 今週の雑誌「プレジデント」にトヨタ自動車さんの「人材育成」についての記事が掲載されています この記事は昨年の12月から行ってきた3回にわたる取材をまとめた記事で、文章は、井上佐保子さんが執筆なさっています。取材は、中原、井上さん、プレジデントの佐藤さん、九法さんで行ってきました。

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 内容は、ぜひ本誌をご覧頂きたいのですが、トヨタ自動車さんが、

1.ここ最近OJTをキーワードにしながら、幹部研修から新人研修にいたるまでの研修を見直し、実施していること

2.その背景には、ここ10年に進行した事業拡大と、その「成長痛」が関連していること

3.こうした背景をもとに、「上の職階の人が下の職階の人を教えること」を徹底したかたちで同社のすべての人材育成の考え方を見直し、研修を実施している

 といった内容でしょうか。
 記事は、次世代幹部候補生向けの、いわゆる「かばんもち研修」なども紹介されていますし、トヨタさんの人材育成の歴史を年表の形式でもまとめてあります。

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 その上で、トヨタ自動車上田常務へのインタビューを敢行させていただき、さらにさらに、なんと!同社における新任部長研修への潜入ルポなども行わせて頂きました。

 見学させて頂いた新任部長研修では、部長級社員が、耳の痛い内容を通知し、どのように部下の立て直しをはかるかという、いわゆる「フィードバック研修」がなされていました。

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 いわゆる「働かないおじさん」をどうするか?
 育メン部下をどのように処遇するか?

 など、3人1組でグループになって、交互にロールプレイを行い、実践スキルを学んでおられる姿が印象的でした。詳しくは記事の方をどうかご覧頂けますと幸いです。後半には「ちょろん」と小生のコメントも掲載させていただいております。どうかご笑覧ください。

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 同社の上田達郎常務、人事の福井猛さん、トヨタインスティテュートの米増隆一さん、他広報部の方々に多大なる御協力を得ましたことを、心より感謝しております。

 今回の取材は3回にわたって同社を訪問させていただき為されたもので、非常にハードでしたが、僕としては、非常に学ぶべきものが多い取材でした。

 今度は同社の皆さんには、またお世話になり、今度4月には新入社員研修に見学させていただく予定です。今からとても楽しみです。また皆さんにご報告できる日を愉しみにしております。

 そして人生はつづく


 ーーー

追伸.

あなたも「ラーニングイノベータ」になりませんか?

中原が主宰している人事・人材開発担当者の講座「ラーニングイノベーション論」の第8期生が募集開始になりました。慶應丸の内シティキャンパスで全14回のこってりしたセッションです。14回のセッションを通して、最後は人材開発施策を立案していただきます。

ラーニングイノベーション論
https://www.keiomcc.com/program/lin16/

 今回の講義のひとつには、上記のトヨタ自動車様のセッションもございます。同社の桑田正規(トヨタインスティテュート 担当部長)さまに、ここでご紹介いただいた同社の人材育成をご紹介頂きます。
 その他、ヤフーの本間浩輔さん、池田潤さんによるヤフーの人材育成に関するツープラトン?講義、サイバーエージェントの曽山さんによる元気溢れる講義など、研究者による理論はもちろんのこと、実践知も広くお届けできる予定です。人事・人材開発のご担当者様なら一度は聞きたいゲスト講師を多数お招きして開催させて頂いております。

松尾 睦さん(北海道大学大学院経済学研究科教授)
難波克己さん(玉川大学 TAPセンター センター長代理)
高尾義明さん(首都大学東京大学院社会科学研究科経営学専攻教授)
守島基博さん(一橋大学大学院商学研究科教授)
中村和彦さん(南山大学人文学部心理人間学科教授)
島村公俊さん(講師ビジョン株式会社 代表取締役)
桑田正規さん(トヨタインスティテュート 担当部長)
髙木晴夫さん(法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科教授)
高尾 隆さん(東京学芸大学 芸術・スポーツ科学系音楽・演劇講座演劇分野准教授)
本間浩輔さん(ヤフー株式会社 執行役員 ピープル・デベロップメント統括本部長)
池田 潤さん(ヤフー株式会社 人材開発本部 組織・人材開発部長)
曽山哲人さん(株式会社サイバーエージェント 執行役員人材開発本部長)

 あと魅力のひとつには、これまで300名以上のアラムナイがいらっしゃいます。卒業してからのネットワーキングも大変盛んです。もしご興味あらば、ご参加いただけますと幸いです。

あなたも「ラーニングイノベータ」になりませんか?


ラーニングイノベーション論
https://www.keiomcc.com/program/lin16/

投稿者 jun : 2016年3月15日 06:09


大人の学びは「投資」である!?

 大人の学びには「投資」が必要です。

 経済的な投資、学ぶための時間、精神的余裕、体力の余裕・・・忙しい大人は、敢えて学ぶために、一時的に、自分のもつ様々な資源を「投資」して、学びます。

 ここには機会費用というものも存在します。本来、この投資を行わなければ、自由に用いることができたはずの資源、それによって可能になった便益ー大人の学びには機会費用が存在します。すなわち、家族との時間、リラックスできた時間、回復できた体力・・・そうしたたくさんのコストをかけて、大人は学びます。大人の学びは、原則は「自腹の投資」です。

 もちろん「投資」というメタファを使った以上、そこには「厳しさ」も存在します。投資に対して、それに見合う「リターン」があるかどうかはわかりません。
 何を、誰から、どのように学ぶかの決断が決定的に重要になります。
 
 大人は、自ら学ぶべき内容と、学ぶべき師と、ともに学ぶ仲間を「真剣」に選び、決断しなくてはなりません。「何を学ぶか」ということも重要ですが、「誰に学ぶか」、そして「誰と学ぶか」は、それと同じくらい重要です。これによって、大人の学びのクオリティは大きくかわります。
 
 これに対して、敢えて戯画的に描き出すことを最初からお詫びいたしますが、子どもの学びというものは、自ら投資を行う必要が多くはないものです。多くは両親が、あるいは国が初期投資を行ってくれます。

 また誰から、誰と、どこで学ぶかについても、受験というものは存在しますが、子どもは、師や仲間をそうそう自由には選べません。師は多くの場合あてがわれ、そこには学ぶ仲間が所与のものとして集められています。

 また学ぶべき内容に関しても、学習指導要領という「大きな枠」が決まっています。

 そこに不自由さや枠があるからこそーそして、自ら選択する余地が少ないからこそ、一定のクオリティアシュアランスは他人によって行われていることが多いものです。

  ▼

 せんだっての週末は、MOOC講座「インタラクティブティーチング」のリアルセッション(集中講義)でした。こちらには、全国(海外イスラエル、韓国からも!)から20弱の(大人の)皆様が参加なさり、3日間にわたって学ばれました。まずはご参加頂いた多くの方々に心より感謝いたします。修了証を手になさった皆さん、本当にお疲れ様でした。そして、おめでとうございました。

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 また同僚の栗田さん、講師をおつとめいただいた成田先生、堀上先生、ランチセッションで興味深いディスカッションをいただいた本田由紀先生、入江直樹先生、吉見俊哉先生にも心より感謝をいたします。本当にありがとうございました。ここまでプロジェクトを率いて下さった市川さん、吉野さん、お手伝い頂いた大学院生のみなさま、FFP・OBのみなさま、山本さん、高井さんはじめ多大なる社会的投資をいただいた日本教育研究イノベーションセンターのみなさまに心より感謝いたします。こちらも本当にお疲れ様でした。

 このたび多くの参加者の方々が、自ら「投資」を行い、こちらのリアルセッションにご参加頂きました。
 今回みなさんが学ばれた内容が、その投資にみあったプログラムであったかどうかは、企画者側が再度リフレクションを行う必要があると感じていますが、またそれは機会を改めさせて頂ければと思っております。

 このたびの皆さんの「投資」が、開花する日を願います。
 春よ、来い。
 早く、来い。

 そして人生はつづく

 ーーー
【無料履修登録・参加者熱烈募集中】
なお、東京大学MOOC講座「インタラクティブティーチング」は、次回、第四期が最終会です。これを逃してしまうと(笑!)もう二度とこのコースで学ぶことができません。いや、焦らせているわけでも、何でもないのですが、本当に事実なのです。途中で挫折してしまった人も大歓迎ですよ。皆さんでもう一度学び直しましょう。
大人の学びはいつだって「一期一会」の「真剣勝負」です。
花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ(笑)

現在、無料で履修登録中です。
これまで2万人弱の方々が履修登録を行ってくれている講座です。この講座は、日本教育研究イノベーションセンターさまからの多大なる投資、ご寄付で無料で公開されています。
もしよろしければ、ぜひご参加いただけますと幸いです。お見逃しなく!

東京大学MOOC講座「インタラクティブティーチング」
https://lms.gacco.org/courses/course-v1:gacco+ga017+2016_04/about

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投稿者 jun : 2016年3月14日 06:28


あなたは過去にしがみつく人?今ここを生きる人?それとも未来を駆ける人!? : ジンバルドら「迷いの晴れる時間術」を読んだ!

 フィリップ・ジンバルド、ジョン・ボイドさんらが著した「迷いの晴れる時間術」という本を読みました。
 この本は、時間に関して多くの研究を残した心理学者であるフィリップ・ジンバルド(スタンフォード大学)が一般向けに書いた書籍です。

  ▼

 ジンバルドらのテーマは「時間」ですが、彼らが本書で問題にしたのは、巷にあふれる「タイムマネジメント技術」でもなければ、「手帖の使い方」でもありません。

 ジンバルドらが問題にしたのは、人々の

「時間に対する見方」と「そのバランス」です。

 ジンバルドらは、まず大別して人の時間への視座を「過去志向」「現在志向」「未来志向」に分けました。細かいことを申し上げますともう少し枝分かれがございますが、ここでは簡潔に。

 ワンセンテンスで申し上げますと、過去志向とは「過去に固着する視座」、現在志向とは「今ここを大切にする視座」、そして未来志向とは「未来を向いて前向きに取り組む視座」です。

 人は時間に関して、様々な時間への志向性をもっています。

 過去にしがみつく人、過去を否定する人、過去を肯定する人
 現在を享楽的に生きる人
 未来を夢想する人、未来を生きる人

 彼が大切だとするのは、その「バランス」だといいます。
 極端に過去志向が強かったりすると、人は

 今の人生を、自分で生きることができなくなってしまいます

 反面、極端に現在を享楽的に生きてしまえば、アリとキリギリスがごとく、未来に行き詰まっています。

 本書では、ジンバルドの開発した簡単なアンケート用紙に答えることで、自分の時間志向性について知ることができるようになっていました。僕もトライしましたが、

 僕は
 「未来志向がそこそこ高く」
 「過去については肯定」

 というタイプでした。あとの項目はかなり低く出ました。

  ▼

 言うまでもないことですが、

 時間は、誰もが平等にもつ「有限の資源」です。
 
 もし時間の使い方に行き詰まっている方がいらっしゃったとしたら、本書を読んで、自分が知らず知らずのうちにもっている時間への視座を問い直してみることも一計かもしれません。

 時間の使い方に行き詰まっている人???
 おれじゃん(泣)

 そして人生はつづく

追伸.
 下記にジンバルドのTEDトークがございました!

投稿者 jun : 2016年3月11日 06:29


技術革新は、みなに「リセットボタン」を提供する!? ー学び続けることと挑戦のすすめ:ヤフー宮坂学社長×中原の対談ビデオが公開されました!

 新しい技術が急に出てくるときって、新しい技術を覚えた人がその会社の中で一番詳しい人になるんですよね。そうするといろいろと重宝されて、どんな大きな仕事も全部おまえがやれ、というふうになるんですよ / インターネットがでた当時、「全員が素人」だったんですよ。

  ・
  ・
  ・

 ヤフー株式会社・代表取締役社長の宮坂学さんと中原の対談ビデオが「マナビラボ」で昨日から公開されました(ビデオの文字おこしも公開されていますよ!)。

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「15歳の未来予想図」ヤフー株式会社 代表取締役社長 宮坂学さん×中原淳 対談ビデオ「新しい技術の誕生で「全員が素人」になったとき、船に飛び乗って学び続けられるか?」
http://manabilab.jp/article/1236

 宮坂さんには、大変お忙しい中、この対談をお引き受けいただきまして、この場を借りて、あつく御礼を申し上げます。またこの対談の実現に動いてくださった同社の本間浩輔さん、池田潤さんにも、心より感謝をいたします。ありがとうございました。

  ▼

 宮坂学さんとの対談の第一弾のテーマは、

 技術革新×挑戦×仕事の中での学び

 についてです。

 対談では、宮坂さんのこれまでのキャリアを振り返りをさせていただきながら、インターネット前夜の頃、宮坂さんが、どのような仕事をなさり、今に至ったのかを語って頂いております。

 冒頭部に紹介させて頂きましたとおり、宮坂さんによりますと、インターネット前夜は、

 新しい技術が急に出てくるときって、新しい技術を覚えた人がその会社の中で「一番詳しい人」になるんですよね。そうするといろいろと重宝されて、どんな大きな仕事も全部おまえがやれ、というふうになるんですよ / インターネットがでた当時、「全員が素人」だったんですよ。

 という時代でした。

 その中、宮坂さんは進んでネットの仕事をなさいます。そして、そのことが宮坂さんに様々なチャンスをもたらした、とおっしゃいます。

「新しい技術を身に付けておくと、「下克上」のお話しされましたけど、一回リセットされるわけですよ。」

「それまではDTPで大ベテランだった人も、インターネットの前にいくと新卒入社1、2年目の人と全く同じラインに立つわけですよ」

 このように、技術革新は、みなに「リセットボタン」、「同じライン」、さらには「下克上」の機会を提供することがあります。
 しかし、そのとき、新たにやってきた「船(ビデオの中ではメイフラワー号の話がでてきてますね)」にのるか、のらないかは、「個人の選択」です。

 皆さんは、インターネット誕生前夜、どんな日々を過ごしていらっしゃいましたか?
 振り返ってみれば、あのとき、皆さんは何をしていらっしゃいましたか・・・
   ・
   ・
   ・
 そして、今もなお、今日、この瞬間さえも、「技術革新」が日に日に生まれています。
 今、皆さんは、どう過ごしていらっしゃいますか?

 宮坂さんはおっしゃいます。

「技術の知識と業界、業務の知識っていうのは常に学び続けないといけないと思いますね」

 宮坂さんのお話からは、わたしたちが、どのように技術とつきあい、そして学び、挑んでいくかについて非常に示唆にとむ洞察を得られるような気がいたします。ふたたび、心より感謝いたします。

 皆様もどうぞ、この対談ビデオをご覧頂ければ幸いです。
 そして願わくば、この対談ビデオへの「いいね!」「シェア!」、Twitterでの「RT」をお願いできますれば、さらにさらにうれしいことです(笑)

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「15歳の未来予想図」ヤフー株式会社 代表取締役社長 宮坂学さん×中原淳 対談ビデオ「新しい技術の誕生で「全員が素人」になったとき、船に飛び乗って学び続けられるか?」
http://manabilab.jp/article/1236

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月10日 06:39


「そこらへんにいろ」からはじまり「示せ」で終わる徒弟制!?: 立川流落語を愉しみ学ぶ「人材育成」の極意!?イベントレポート

「僕にはね、師匠のYシャツのポケットに入っているタバコの本数が、透けて見えましたもん。師匠がタバコを吸うたびに、数えているわけですよ、残りのタバコの本数を。で、残り1本を吸い終わったら、さっと静かに、師匠に、新しいタバコの箱を差し出すのです」

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 昨夜は、立川流の真打の立川晴の輔さん(立川志の輔門下)と、立川晴の輔さんとコラボ研修の実績が数多くある公認会計士の田中靖浩さんにお越しいただき、経営学習研究所イベント「立川流落語を愉しみ学ぶ「人材育成」の極意!?」が開催されました。

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 会場は140名の満員御礼。年度末のお忙しい時期に、多くの方々にご参加いただけたことに心より感謝いたします。

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 また、今回のイベントは理事が総出で運営するものですが、特に中心になって企画・準備頂いた板谷和代さん、岡部大介さん、島田徳子さん、平野智紀さん、松浦李恵さんに心より感謝いたします。本当にお疲れ様でした。

   ▼

 当日は、板谷さんから趣旨説明から会がはじまりました。その後、いよいよ田中靖浩さん、立川晴の輔さんにご登場。会場は拍手につつまれます。

 まず、田中さんと立川さんからは、立川流の弟子育成論?について30分ほどお話をいただきました。

 晴の輔さんによりますと、立川流の弟子育成とは、

「そこらへんにいろ」
「芸はおしえられねーんだ」
「すべての答えはグレーだ」
「オレが食べたいマックを勝ってこい」(指示は曖昧)
「オレが飲みたいときにお茶をだせ」(指示は曖昧)

 に代表されるような、いわゆる厳しい徒弟制(笑)。
 外部の世界とは一線を画した「圧倒的な不条理の世界」です(泣)。

 それは、一言で申し上げますと「反制度の世界」でもあります。つまり、「明文化された制度やシステムがほぼなく、師匠の一言ですべてが決まってしまう世界」。どんなに頑張っていても、「おまえは破門だ!」のひとことですべてが覆ってしまう世界。それが「反制度の世界」です。

 この「反制度の世界」のはじまりは、まずは採用プロセスからはじまります。
 弟子は、まず「どのように採用されるか」すらわからないのです。
 弟子は、自分の惚れ込んだ師匠を選び、採用の手段やシステムすらないところから、師匠の家をさがし、師匠に入門しなくてはなりません。

 落語の世界に便利な採用システム「リクナビ」やら「マイナビ」はありません。
 すべてが「自分の行動」、すべてが「師匠の判断」で決まるのです。

 実際に修行がはじまれば、師匠と生活をともにし、曖昧な師匠の指示を解釈しては厳しいフィードバックをなされる中で進行します。
 人を育てる道筋やシステムや制度が、あるわけではありません。あるのは、師匠と弟子の、のっぴきならない、愛憎あふれる、しかしときどき「不条理な関係」だけです。

 その様子は、僕の持論である、「徒弟制とは共同生活」をはるかにしのぐ勢いと厳しさをもっているようなものでした。

 この長期にわたる、いわば厳しい修業時代を耐え得るのは何なのでしょうか?
 それは「弟子が自ら師匠を選んでいるということ」と、「師匠の芸に惚れ込んでいるということ」、そして、「師匠の背後に後光のようなもの」を感じているからでしょう。

 かつてマルセル・モースは、師匠の背後にある「後光」のようなものをさして「威光模倣」という概念を提唱しました。

 「威光模倣」とは、師の背後に広がる世界の「善さ」を感じ、師がその身体技法によって成功するところを目の当たりにするとき、学習者は、師の「わざ」を模倣し、獲得・習熟することに動機づけられる、という状態をあらわす概念です。

 すごいですねぇ・・・。
 そういう世界なんです、徒弟制というのは。
 浪漫を感じるのは勝手ですが、そういう師への愛情、憧憬なしでは、徒弟制は希望しません。

 かくして、田中さんと晴の輔さんのセッションは、非常に興味深い時間でした。

  ▼

 その後は、いよいよお待ちかね、晴の輔さんの落語となります。

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 今日のお話しは、古典落語のひとつである「お見立て」。

 舞台は吉原。
 喜瀬川花魁は、お客さんの木兵衛大尽のことが大嫌い。亭主気取りの木兵衛さん。そういう木兵衛さんの態度に対して虫ずが走る喜瀬川ですが、そのあいだに、若い衆・喜助が入っていくところからお話がはじまります。

 晴の輔さんは

「テレビは見るもの、落語は想像させる芸」

 とおっしゃっていましたが、まことに素晴らしいものでした。
 晴の輔さんのお話は、まさに数百年前の吉原の情景を彷彿とさせるようなものでした。素晴らしい芸を見せて頂きました。本当にありがとうございました。

 その後は、田中さん、晴の輔さんらをまじえて、理事がなかに入り、パネルディスカッション。参加者の皆様の御協力もあり、無事、会は終了しました。

 ありがとうございました。
 小生、ちゃっかり高座にのぼる(笑)

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  ▼

 先だっての会でつくづく思ったのは、

 徒弟制という弟子育成システムの「特殊性」です。

 それは、冒頭部

「僕にはね、師匠のYシャツのポケットに入っているタバコの本数が、透けて見えましたもん。師匠がタバコを吸うたびに、数えているわけですよ、残りのタバコの本数を。で、残り1本を吸い終わったら、さっと静かに、師匠に、新しいタバコの箱を差し出すのです」

 とご紹介差し上げたように、濃密という言葉では表現できない、のっぴきならない師匠と弟子の愛憎極まる関係の中から生まれてきます。

 出会い、ふれあう部分が、この調子なら、別れるときも大変。

 晴の輔さんによりますと、晴の輔さんが真打ちになったときに師匠から出されたお題は、

「示せ!」

 だけだったそうです。

 この「示せ」の背後にある師匠の意図を読み取り、もがき苦しみ、弟子は、数千名が入る会場で行われる真打ちのお披露目に準備することが求められます。

 お話をうかがいつつも、わたしたちは、この徒弟制に浪漫を感じつつも、一方で、それを相対化する目をもつこと。
 人が人を育てることの難しさと、その背後に蠢く業のようなもの、そして、サバイバーの健闘をたたえつつも、途中で朽ち果てていった人々の思いを感じることなのかな、と思っておりました。

「徒弟制」とはこういうものです。
「認知的徒弟制」とか、そんな「生やさしい概念」じゃないんだよ(笑)。
 それでも、あなたは「徒弟制」をロマンチックに描き出したいですか?
 
 最後になりますが、会場におこしいただいたすべての参加者のみなさま、田中靖浩さん、立川晴の輔さん、このたび会場をコラボ共催させていただきました内田洋行教育総合研究所、内田洋行のみなさま、板谷和代さん、岡部大介さん、島田徳子さん、松浦李恵さん、平野智紀さんに心より感謝いたします。

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 ありがとうございました!
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月 9日 06:39


僕が「合気道」を学ぶ理由!?

 ここ3年間くらいですが、何を隠そう「合気道」を習っております。

 あまりにも多忙で行けないことも多く、「習っている」と公衆の面前で申し上げることに少し気が引けますが、ここでは「愉しみながら、趣味程度に取り組んでいる」とお考え頂ければと思います。

 合気道を僕が習う理由ですが、いくつかの理由があります。
 子どももやっているので、共通の話題ができてよい、というのが最たる理由。二番目は、たまに身体を動かしたいというもの。
 三番目には、合気道のなかには、僕の仕事に通じると思われる考え方が、含まれていて、それを考えながら学ぶことは、実は愉しい、ということです。

 最後の三番目の理由は、僕の仕事に根ざした理由になるので、どれだけ一般性があるかどうかわかりませんが、今日は、これについて書いてみましょう。

  ▼

 例えば、合気道には他の武道と同じように「型」というものがございます。
 最初のうちは、この型というものをひたすらに練習するのですが、昨日、師匠に伺いましたところ、この型というものも、少しずつ変化を遂げている、とおっしゃるのです(師匠はたまにこうしたお話をしてくださいます、心より感謝です)。
 下記は師匠から伺ったお話の受け売りになりますが、これを今日はご紹介させていただきましょう(ご迷惑になるかと思いますので、お名前は差し控えさせて頂きます)。

 ▼

 合気道を習う生徒の方からすると、「型」は不変と思われるので、それ自体に変化があることがあまり解せないのですが、師匠曰く、それはいくつかのモーメントで変化している、といいます。

 まず第一に「合気道を実践している / 習う人」の身体の大きさが、時代をへるごとに変わってきているので、型が「変わる」。
 平均身長が160センチー170センチであった時代と、それ以降の時代では、微妙に型に変化が生じます。

 次に起こるのは、「合気道を実践している / 習う人」の目的によって変わるです。
 すなわち、合気道で習ったことを実践にいかしたいと願う人と、型をまなび身体を動かしたい、と願う人々がいれば、その型自体にも変化が生じる、ということですね。

 合気道には流派が存在し、流派によっては、前者に重きをおく流派と、後者に重きをおく流派があります。ということは、集団としても、伝承される型に変化が生じる、ということです。

 最後に言えるのは「コンテキスト」によって変わるです。
 これは合気道が生まれた時代は、剣術などが今よりも盛んな時代でした。合気道のいくつかの技は、剣術のコンテキストにおいて生み出されているものも少なくないといいます。

 しかし、現在は、剣術をたしなむ人は、以前よりは減っております。かくして、現代というコンテキストにあわせて、型も変化する、ということになります。

 ▼

 今日はわたくしめごときが、茶帯の分際で、合気道を語ってしまいました(笑)。まことに恐縮です。

 でも、こうして書いてみると、「型」というものの伝承において、何がそのまま変化なくそのまま継承され、何が棄却されるか、という観点からも、非常に面白いものがあります。合気道をやりながら、不謹慎ですが、僕は仕事のことや研究のことを考えてしまうことがあります。

 くわえて、合気道は、相手の力を利用たり、ひきだしたりして、防御を行う武術です。このあたりも、たとえば、ファシリテーションやコーチングに通じる考え方なのかなとも思います。

 なかなか本腰が入らないダメダメ学生なのですが、自らが「教員」の立場をおりて、学び手になる時間をもつことは、僕にとって非常に貴重な時間です。末永く続けていきたいと考えております。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月 8日 06:41


あなたは組織の「内側」にいますか?それとも「外側」にいますか?

 個人が組織に対して、何らかの働きかけを行なったり、参入をはたそうとするとき、そこには、「境界線(バウンダリー)」の問題がでてきます。
 
 自分を、組織の「どこ」に位置づければよいのか?
 組織の「内側」なのか、「外側」なのか?
 
 決して目には見えない「境界線」を引き、時には更新を行いながら、外部から参入していく個人は、次第に組織になれていき、仕事をしていくことになります。

  ▼

 たとえば、先だって、ある経営コンサルタントの方が、こんなお話をなさっていました(感謝です!)。

 わたしたちの仕事は、クライアントの組織に出張ってするわけですが、先輩コンサルタントには、いつも、言われていたことがあります。それは「御社」という言葉を使わず、「当社」と言え、ということです。

 察しのよい方ならおわかりのように、これは「境界線(バウンダリー)」にまつわる問題です。

 「御社」といってしまえば、あくまでコンサルタントは、組織と対峙し、組織の外側にいる人として認識されることになります。

 コンサルタントの仕事は、クライアント組織で、クライアントとまさに協働しながら仕事をするわけだから、当事者意識をもって「当社」といえ、というわけでしょうか。

  ▼

 先ほどの事例はコンサルタントについてのお話でしたが、新入社員についても、この問題はついてまわります。

 たとえば

 「うちの会社は・・・かくかくしかじかである」
 「うちの組織は、ほにゃららほにゃららである」

 という表現があります。

 まだ、新入社員が新人研修を受けている頃には、おそらくですが(?)、「うちの会社」はという表現はあまり使わないのではないでしょうか。

 ところが、研修が終わり、配属がなされ、仕事の酸いも甘いも、職場の不条理も葛藤も目に見え始めた頃には、新入社員は「うちの会社は・・・」だという表現を用いるようになるのかな、と思います。この場合は、組織の内側に自分を定位させているのかな、と思います。

  ▼

 今日は「バウンダリー(境界線)」のお話をしました。皆さんの心の中にある「目にはみえない境界線」は、どのように引かれているでしょうか。
 
 あなたは組織の内側にいますか、それとも外側にいますか?

 そして人生はつづく

 

投稿者 jun : 2016年3月 7日 06:47


「よいチーム」とは「失敗しないチーム」ではない!?

 中原研にはチームワークのことを研究している大学院生もいらっしゃいますので(D2の保田さん:看護師チームワークと熟達の関係を研究なさっています)、僕も、チームについて考えることがあります。

 考えてみれば、研究も大学の業務もそうですが、わたしたちの仕事は、その多くがチームワークで成立しています。このあたりは人によって異なるのかもしれませんが、たとえば、現在、僕の研究の90%は、いわゆる共同研究であり、多くの人々とタッグをくんで問題にアタックしていくものです。
 研究の成果を向上させるためにも、よいチームの中にありたい、と日々願います。

 多くの研究者が同意可能な、「チームワークのロバストな2軸」といえば、目標軸と相互作用軸です。

 いかに「目標」をにぎっているのか?
 いかにメンバー間に「相互作用」があるか?

 こうしたものがチームの成果を決める主要な2つの要因だといわれています。

  ▼

 ところで、「よいチーム」について考えていくとき、目標軸と相互作用軸の「他」にも、もうひとつ重要な要因があることにきづかされます。

 僕はそれを「リカバー軸」と個人的に呼んでおります。
 そこにはこんな思いがあるのです。

 要するに、

 よいチームとは「失敗しないチーム」ではない
 「失敗したときに、失敗をうけとめ、リカバーできるチーム」が「よいチーム」である

 という思いです。
 あたりまえのことですが、リカバーをするためには、おこった問題を真摯に「受け止め」、ともにリフレクション(内省)をおこない、未来を構想できることが重要になります。

 ま、目標軸や相互作用軸とは、すこし違う次元のお話なのかもしれませんが、自分がチームとかかわるときには、これが大事なんだよな、と思うことがあります。

 もちろん、失敗はしないにこしたことはありません。
 しかし、そこは世の常、人の常。
 人にまつわることに失敗はつきものです。
 といいましょうか、失敗は当然「起こりうる」ものとして、考えておくくらいがちょうどいいのでしょう。

 だから「失敗しないチーム」をつくるのではない。
 「失敗をリカバーできるチーム」をつくる。

 僕はそんな風に感じます。

 あなたは、今、どんなチームにいますか?
 それは「失敗をリカバーできるチーム」ですか?
 それとも
 「失敗を責め合うチーム」ですか?

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月 4日 06:21


「アクティブラーニングの教育論」から「アクティブラーニングの組織論」へ

 昨日、僕の所属する研究部門で行っている調査研究のひとつである「マナビラボプロジェクト」が、ひとつの調査報告書を公開させていただきました。

 マナビラボプロジェクトは、

 1.高校のアクティブ・ラーニングの実態を把握すること
 2.高校での学びがより、さらに生き生きしたものになること

 をお手伝いさせて頂くプロジェクトです。
 このプロジェクトは、日本教育研究イノベーションセンター様から多大なるご寄付をたまわり遂行させていただいているプロジェクトです。この場を借りて、心より感謝いたします。

 このプロジェクトに際しての、中原含め研究員たちの思いは、こちらにございますので、ぜひご覧下さい。

マナビラボとは
http://manabilab.jp/aboutus

  ▼

 ところで、研究員の木村充さんが中心になって執筆した昨日公開の報告書では(お疲れ様でした!)、ひとつ、僕たちらしい分析もありました。組織、社会関係といった観点から、学校というものを見つめる、ということです。

 よく、巷では、アクティブ・ラーニングといいますと、

 いかに授業をするか?
 どんな話しあいをさせるか?
 いかにファシリテーションをさせるか?

 ということが問題になりますが、今回の報告書では、僕たちは

 アクティブラーニングを実施できている「組織」とはどんな組織か?

 にスポットライトをあてています。

 ワンセンテンスでいえば、

 「アクティブラーニングの教育論」

 だけではなく

 「アクティブラーニングの組織論」

 を論じることを手がけようとしています。

 もちろん、分析は、まだはじまったばかりですので、それほど詳細を見られているわけではないのですが、下記のようなことがわかっています。
 全国の高等学校約3983校のうち、62%にあたる2414校を対象にした全国調査の結果、アクティブラーニングと学校の関係は下記のようなことがわかりました。

infographics_06.png

引用:木村充, 山辺恵理子, 中原淳 (2015). 東京大学−日本教育研究イノベーションセンター共同調査研究 高等学校におけるアクティブラーニングの視点に立った参加型授業に関する実態調査: 第二次報告書.

 要約すれば、アクティブラーニング(参加型学習)を実施している学校は、実施していない学校と比べて、目標意識、教員間の仕組みなどに違いがあるということでしょうか。

「学校全体」で、教えるべき内容や方法について目標を決めたり、評価改善をしたり、そうしたものに一致団結したり、校長先生がそういう仕組みをつくるかどうかに、違いがあるということです。
面白くないですか? 僕は面白い。
これまで「教育方法は教科の専権事項!」と見なされてきたきらいがあります。高校のなかには、「教科の壁」というものが存在し、学校全体の議論がなかなか難しいところも少なくない、と聞きます。
アクティブラーニングは、それをこえ、学校のなかで、いかに教育内容について話しあい、合意をとるかどうかが問われるような気がいたします。

 詳細は下記のサイトでご覧下さい。

マナビラボ:全国調査分析結果 第二報
http://manabilab.jp/article/1158/6

 こちらでは無料で報告書がダウンロードできますし、ここで用いられている図版などは引用を行って下されば、ご自身のパワーポイントなどで用いることができます。

 ▼

 マナビラボプロジェクトは、今後、さらなる分析を行いつつ、2年目には追跡調査を企画しています。この研究の成果は、北大路書房さんから研究書として今年度中に出版させて頂く予定です(編集者は奥野さんです)。

 どうぞお楽しみに!
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月 3日 07:01


「あの人、声がでかいので何とかしてください」を真に受けてOKか?:人材開発か、それとも、組織開発か?

 人材開発の世界でもっとも難しいことのひとつに、

 介入(はたらきかけ)の単位を何にするか?

 という問題があります。

 介入の単位とは「外的から働きかけようとする対象」が個人であるのか、組織であるのか、というものです。

 結論から申し上げますが、これを考えるためには、

 今、本当に起こっている「問題」は何なのか?

 をじっくり観察したうえで、その真因をさぐる必要があります。

  ▼

 たとえば、今、あなたが人材開発の専門家だとして、一緒に仕事をしているあるチームがクライアントだとします。
 たとえば、そのなかのひとりが、こんな風にうったえているとします。

 リーダーのAさんは、「声」が大きいので何とかしてください

 この問いに対して

 あー、そうだね、Aさんは、たしかに声が大きくて、自分の言いたいことばかりいっていて、傾聴できないね。何とかしなきゃね。。。

 として、Aさんに外的に働きかけたとすればーたとえばコーチングをするなどしてーこれは、「個人」を対象にした働きかけを行ったことになります。

 問題は個人が有していて、
 それに対処するには
 個人を対象にした開発手段(いわゆる人材開発手法)を
 選択する

 ということです。

 しかし、賢明な読者のみなさんは、ここで立ち止まらなくてはなりません。

 リーダーのAさんは、「声」が大きいので何とかしてください

 という訴えは、「本当に本当のこと」なのかを観察し、考察する必要があります。

 いや、待てよ。リーダーのAさんが、「声」を大きくしたいのではなく、やむをえず「声」を張り上げなければならないのかもしれない。このチームは、関係が悪くて、Aさん以外のメンバーが声を出せないのかもしれない

 こう考えてAさん以外の人、ないしは、Aさんを含めたチーム全体に働きかけたとすれば、それは「組織」を対象にした働きかけをしたことになります。

 問題は組織が有していて、
 それに対処するには
 組織を対象にした開発手段を
 選択する

 ということになります。
 こういう考え方をとる働きかけを、いわゆる「組織開発」と呼んだりします。

 だから、人材開発も、組織開発も、実は「別々のこと」では全くなく、つながっているというのが僕の考えです。
 それは「働きかけ」の対象を何とみなすかの差から生じるものである、という説明もできるのかな、と思います。

  ▼

 今日は「働きかけ」のお話をしました。やや「授業」のようになってしまいましたが、朝っぱらからすみません。

 あなたは何を問題だと「見なして」いますか?

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2016年3月 2日 05:55


「スマホ老人」にならぬために、今、できることは何か!? : 親父の小言ワークショップ

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 せんだって、35歳以上のオヤジ限定、親父の小言ワークショップ in KANSAI を開催させていただきました。このご時世に「男性限定」のワークショップ!?、しかも35歳以上のオヤジのみ(笑)

親父の小言ワークショップ in KANSAI
http://www.nakahara-lab.net/blog/2016/02/_in_227.html

 このワークショップは、35歳以上の自称!?オヤジのみなさまが、これまでを振り返り、これからを構想するワークショップです。
 メインのファシリテータとして京都造形大学の伊達隆洋さん、岡崎大輔さんらが中心になり、内田洋行教育総合研究所 / 経営学習研究所の平野智紀さん、経営学習研究所 / 東京大学の中原らが議論しつつ、企画してきたものです。

 当日は、内田洋行株式会社の市村伸昭さんにも大変お世話になりました。ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました。

  ▼

 当日のメインファシリテータをつとめてくださったのは伊達さんです。

「親父の小言ワークショップ」は、メインファシリテーターの伊達さんのイントロダクションからはじまりました。

 まずは自己紹介です。
 自己紹介は、一般的な自己紹介に加え、「オレもオヤジになったな」と思う瞬間のストーリーを付け加えることを、伊達さんが参加者の皆さんにお願いいたしました。

 僕は各テーブルを回っておりましたが、参加者の方々からは、

 ・身体が硬くなって、最近、「靴下」をはくのが時間がかかるようになった
 ・耳の穴から「毛」が生えてくる

 という「オレもオヤジになったなストーリー」が語られます。
 もはや、この時点で、腹をかかえて笑いたくなります、笑。

 その後、伊達さんからのインストラクションで、身の回りで「いいな」と思う老後を過ごしている人のイメージをあげていただきました。

 参加者の皆様からは、

 ・大学に入り直して園芸を学び、ガーデニングをする
 ・定年してからMBAをとる
 ・堤防オヤジ(夕方になったら堤防に行って釣りをするオヤジ)
 ・女性への関心を失わない

 といったような事例がでてきました。

 一方、参加者の皆さんには、次のワークでは「ああなるのは避けたい」「できれば勘弁」という老後の出来事・状態には、どんなものがあるかを考えていただきました。

 ・スマホ老人
 ・嫁さんが出かける度に「どこいくの?」と聞く生活
 ・嫁さんが出かける度に「オレもいく」とついていく生活
 ・朝から晩までFacebookに「いいね!」を押す生活
 ・用もないのに元の職場にいく
 ・セコくなる
 ・友達がいない
 ・変化のない生活
 ・テレビと話をしたくない
 ・離婚
 ・孤独
 ・朝から酒をのむ
 ・定年後すぐ死ぬ
 ・近所の鼻つまみ者

 などがでました。
 うーん、しょっぱい、笑。
 それにしても、「スマホ老人」って・・・(笑)
 でも、これからのシニアには、そうなる人がたくさんでてきそう・・・クワバラクワバラ。

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 そのあと、それぞれについて、今のままの自分なら、どの程度の可能性でそれに陥るかを予想してもらったあと、いよいよ、「未来の自分」から「今の自分」に対するお小言を考えます。将来の自分から、今の自分に対する「お小言」は、センテンスで2つです。

 その後、伊達さんからのインストラクションで、2つのセンテンスを「創作漢字一文字」で表現してもらいました。創作漢字とは、部首などを勝手にいじくって、自分だけの漢字をつくる知的遊戯です。

 それぞれの方々が、創作漢字を厚紙に筆ペンでかいて、ラミネート加工をして、壁にはり、相互に合評会をします。皆さん、それぞれにつくった漢字をあてっこしながら、鑑賞をなさっておりました。

 抱腹絶倒の創作漢字、思わず「そうだよねー」とうなずいてしまう創作漢字が続出し、楽しい時間を過ごすことができました。

  ▼

 かくして、親父の小言ワークショップは終了いたしました。

 参加者の皆様には、会に参加して頂くだけなく、会の進行のなかで、様々な点について助けられましたことを心より感謝いたします。
 本当にありがとうございました。

 そして人生はつづく

 ーーー

追伸.
 先月のYahooニュース個人は、月間102万6086PVを達成しました。祝!100万!ありがとうございました。

Yahooニュース個人:中原淳
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakaharajun/
 
 

投稿者 jun : 2016年3月 1日 06:47