大人になっても、人が、学び続けなければならない理由!?:あなたは「大人」でいられていますか?

「一生勉強」とか「生涯学習」とか、よく言いますけれども、

「大人になっても、人が学び続けなければならない理由」

 について考えるためのヒントになるような議論を、せんだって、河合隼雄さんの本に見つけました。

 河合隼雄著、河合俊雄編(2014)「大人になることのむずかしさ」(岩波現代文庫)という本の中で、河合さんは、「古代社会と近代社会(正確に述べるならば、古代社会と近代社会のイニシエーション(通過儀礼)の役割)」を対比させながら、「2つの社会」における「大人と子どもの関係」を下図のように解説なさっています。

 妄想力をたくましくすると、ここからわたしたちは

「大人になったとしても、人が学び続けなければならない理由」

 を考えるヒントを得ることができるように思います。
 今日は、こちらをご紹介します。

kawaihayao2016.png
(河合隼雄著、河合俊雄編(2014) 大人になることのむずかしさ. 岩波現代文庫 p47-48の図を併置し、読者の弁を考え、一部、筆者が加筆・修正)

 上図は「古代社会」と「近代社会」の2つの社会における「大人と子ども」そして、世界の関係を図示したものです。

 上図に見るように、古代社会(左図)においては、社会は非常に安定的(Stable)で、かつ、変化に乏しいものでした。古代社会においては時間がゆっくりと流れており、人は一生のうちに、ひとつの「出来上がった世界」にしか相対しません。人はひとつの「出来上がった世界」に生まれ、子どもから大人になり、そのトランジションにまつわる「イニシエーション(通過儀礼)」を経験し、そこで生きていきます。

 古代社会(左図)において、大人になるということは、イニシエーションを得た「出来上がった世界」への参入であり、いったん「出来上がった世界」に参入したあと=大人になったあと」は、それで、その「身分」が脅かされることはありませんでした。

 メタフォリカルに述べるのであれば、

 古代社会では
 いったん「大人」になることができれば、
 その後は「大人は大人でいることができた」

 ということです。

  ▼

 しかし、時代はながれ、わたしたちは「近代社会」(右図)を生きることになります。

 近代(右図)においては、「社会は進歩する」という概念が加わります。時代がたつにつれて、世界は「右肩あがり」に進歩する。右斜め上方のベクトルにむいた矢印は「時間にともなう世界の進歩」を表現し、そこには「A」「B」「C」という3つの異なる世界が表現されています。進歩とは抽象的な表現ですが、具体的には、「技術の進歩」とか、「知識の進歩」などを思い浮かべていただければ、わかりやすいのかな、と思います。

 近代社会では、人が一生において相対する世界は、「単一」ではなくなりました。近代社会においては、ひとつの「出来上がった世界」と、それにまつわる通過儀礼(子どもから大人への移行)があるのではない。

 右図にみるように、近代社会は、世界は「A」から「B」、「B」から「C」へと常に変化しつづけていきます。右

 このような世界にあっては、たとえば「A」の時間に子どもから大人になり、世界の内部に移動したとしても(子どもaから大人aへの移動ですね。子どもは、このプロセスにおいてイニシエーションを経験します)、そのままでは「安泰」ではありません。

 時代Aにおいては「大人a」の状態でいられたとしても、近代は右肩あがりに「進歩」します。すなわち、右斜め上方に、つねに時代は変化していくのです。時代は流れ、「A」から「B」に移行してしまうのです。

 時代が「A」から「B」にうつれば、「前時代の大人a」は大人のままではいられません。図に表現されるように、「前時代の大人a」は「次世代の子どもb」と「同じ立ち位置」にたってしまうことになります。

 すなわち、何もしなければ、せっかく「大人」になったとしても、「次の時代の子ども」と「同レベル」の立ち位置になってしまうのです。このことは、人工知能やコンピュータテクノロジーの発展ことを思い浮かべていただければ、わかりやすいかと思います。
 前時代の大人が、すでに次世代の子どもに「逆転」されている状況は、変化の激しい分野では、常識でしょう。

 さらに残酷なことに、時代は右肩あがりに「変化」します。
 さて、このとき「時代Aの大人a」は、「時代C」においては、どうなるでしょうか?
 もし「時代Aの大人a」が何も変化し続けなければ、彼 / 彼女は、「子どもc」よりもはるかに下位の立ち位置に置かれてしまいます。

 すなわち、同時代を生きる大人一人ひとりに求められているのは、通過儀礼をへて大人になり、そのままでいつづけることではありません。「時代の進展」に応じて、常に「右斜め上方」に「大人」が移動していくことです。

 メタフォリカルにのべるのであれば、

 大人は、何もしなければ
「大人は大人でいられなくなる」。

 これが河合さんの主張の一部である「大人になることのむずかしさ」の根源です。

 ▼

 今日は河合隼雄さんの論考から、

「大人になったとしても、人が学び続けなければならない理由」

 を考えてみました。

 週明けしょっぱなからスパイシーですね(笑)。でも、「大人a」がそのまま大人であり続けるためには、「変化」しつづけることが必要になります。
 もちろん、「大人a」が「子どもb」と同じ立ち位置でよいというのならば、この限りではありません。それは個人の意志決定の問題です。わたしたち大人自身ひとりひとりが、どうなりたいかを自分で決めこみ、腹をくくることです。

 このブログをおよみの大人の皆さん、あなたは、今、どこにいますか?
 今の時代に「大人」でいられていますか?

 週明け、動きだそう、今日から。
 そして人生はつづく