組織が「主語」になる言葉

 先日、Learning barで金井壽宏先生がおっしゃっていた言葉で、非常に印象的なものがあった。

 それは、

「組織が主語になる言葉は、怪しい」

 ということである。

 組織が主語になる言葉といえば、組織変革、組織社会化、組織学習・・・枚挙にいとまがないほど思いつく。
 私たちも、日々、「組織が変わる」「組織が一体感をもつ」という風に「組織を主語」にして、ものを語ることが多い。

 しかし、よくよく考えてみれば、「組織」は「組織」として主体性をもっているわけではない。存在するのは「個人」、そのひとである。

 ミクロに見ていけば、変わるのは「組織」なのではなく、「個人」である。学習する主体はもちろん「個人」であって、「組織」などではない。「社会化」されるのも、するのも、実は「組織」などではない。いわんや、感情をもっているのは「組織」ではない。

(ちなみに近年の組織学習論では、個人の学習と組織の学習を統合するような定義があらわれている)

 金井先生は、組織変革論、組織社会化論、組織学習論などの意義を認めつつも、「組織が主語」になることで見えなくなるもの、覆い隠されるもの、つまりは「個人」について、経営学、経営論がより積極的なアプローチをしなければならない、と指摘したかったのかな、と勝手に邪推する。

 最近、あるデータを分析していて、このことを実感する。
 組織レベルの変数として処理する上では、あまりパフォーマンスに影響を与えていない、と見える施策であっても、個人レベルにおいては大きな変動を与えていることもある。正しくいうと、影響を受けている人もいるし、いない人もいる、というのが実際である。

 しかし、それを平均化してしまうと、「何事もなかった」と片付けられてしまうことが、実に多い。つまり、「組織」としては「何もなかった」ということになる。

 実に奥深い。