「聞き取ること(ヒアリング)」に潜む「緊張の一瞬」とは何か?

 僕の研究の中核にある活動のひとつは「聞き取り(ヒアリング)」です。

 どんなに高度な統計処理をするような研究であっても、どんなに抽象度の高い理論的考察をする際にでも、それらのデータや理論が、一般世界の、具体的な事象として「何」を表現し、現場の人々においては、どのように「実践」されているのかを考えたい、と切に思います。
 いっけん抽象的でとっつきにくいデータや理論が、人々の、生の中でどのように実践され、剥き出しの言葉をもってどのように表現されうるかを知りたいと願います。

 それは、もしかすると「論文を通す」という意味では、査読者に「不必要」だと判断されるデータかもしれません。しかし、それは「自分の研究」を為していくうえでは、もっとも大切な活動のひとつです。「通る論文を書くこと」も言うまでもなく重要ですが、「自分として筋の通ることを為すこと」も、より大切なことです。「人生の正午」という年代にさしかかり、最近、とみにそのことを思います。

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 ところで「聞き取り(ヒアリング)」というのは、時に、のっぴきならないほどの「緊張」が走る一瞬があります。

 それがどういうときかと申しますと、典型的には「ヒアリングをされている方が、自分の経験を語っていたり、僕と会話していくなかで、ある、ふとした瞬間で、自分の経験の本当の意味について、自ら、気がついてしまったとき」です。
 毎回そうした出来事が起こるわけではありませんが、感覚的には、20回に1度くらいは、そうした一瞬が訪れることがあります。

 考えてみますと、聞き取り(ヒアリング)とは、幾重にも重なり「当事者の意味づけを要求すること」に似ています。

 第一に「ヒアリングをされている方」は、調査者から「どんなにニュートラルに、思ったこと、感じたことを語って良いといわれても」、いざヒアリングに臨む前には、自分の経験をあらかじめ整理して、ひとつのストーリーとして構成して望んでくるものです。そして、準備されたストーリーは、本人がまさに話しているその最中にも、自ら書き換えられ、意味が加えられていきます。人には「他人に話して」みたからこそ、はじめて「わかること」があるのです。

 このときに起こっていることは、「準備されたストーリー」が、ヒアリングの過程において、新たに意味づけがなされ「二重に書き換えられたストーリー」が生まれるプロセスです

 しかし、話はこれで終わりません。

 調査者による言葉かけ、問いかけ、そしてインストラクションひとつによって、ヒアリングされている本人のストーリーは、またまた書き換えられていきます。これで「三重の書き換え」でしょうか。
 調査者がどんなにニュートラル、かつ、傍観者的に対象に接しようとしても、その影響を「ゼロ」にすることはできません。
 社会科学の研究を少しでも志したことがあり、かつ、構造主義がこれだけ発展した世の中に生きている人ならば、「ゼロ・ニュートラルの調査者の立ち位置」を夢想するといった、あまりに「ピュアすぎる幻想」を抱くことは最近は珍しくなっているのかもしれません。
 自分が何気なく投げかけたひと言で、相手が考えこんでしまうこともゼロではありません。
 とはいえ、僕の場合、なるべく自分の存在や意見は、必要以上に出さないことを旨としていますが、それでも、それをゼロにすることはできません。
 それが「人と人が出会って行う研究」の宿命です。それが「人と人が出会って行う研究者」が背負っている十字架のようなものです。

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 今年も、もうあと数日ですので、1年を振り返ってみると、多数の方にヒアリングをさせていただきました。3桁にはのぼりませんが、おそらく数十名の方々の貴重な時間をいただいたのではないかと認識しています。この場を借りて心より感謝いたします。

 今年を1年振り返り、もっとも緊張が走った瞬間は何かと申しますと、ちょっと前のことになりますが、あるところで行われたインタビューでした。このときのヒアリングにお答えいただいた方は、「さまざまな事情で管理職をいったん離れ、今はプレーヤーで活躍なさっている中高年の方」ーここでは仮に「Xさん」としましょうーでした。その方に、自らのそのキャリアを振りかえってもらいながら、ヒアリングは行われました。
 一般に、こうした属性をお持ちの中高年の方々を対象にしたヒアリングは、当事者が孤独に苛まれていたり、煩悶していたりする方が少なくないので、ヒアリングの最中は、僕は、かなり緊張をしていました。その緊張の程度は、おそらく、一般的なインタビューの数倍であったかのように思います。

 Xさんにヒアリングでうかがえた話は、どれも興味深いものでしたが、当日は、少し時間があまってしまったので、「何かご質問はございますか?」と僕は言いました。
 すると、Xさんは、「今日、自分がした話を踏まえて、僕が感じたことを言って欲しい」と言われました。あまりヒアリングの最中で、自分の感想を述べることはしないのですが、このときは求められたこともあり、ひと言だけ感想を述べることにいたしました。

 僕が口にしたことは、

 「Xさんの仕事の話には"、どの場面にも、人"がでてきますよね。
  Xさんは、仕事をするうえで、人のご縁を大切になさってきたのですね。
  そうやって生きてこられたのですね」

 というひと言でした。

 僕は、このひと言を耳になさったときのXさんの顔が、どうしても忘れることはできません。僕の言葉がよかったかどうかはわからないのですが「そうなんですよ、わたしの仕事の話には人が多いのです。中原さんもそう思われましたか」といった趣旨のことをおっしゃっていました。
 Xさんの真意はわかりませんが、その場の雰囲気から類推するに、どこか自分のやってきたことに意味が見いだせてよかったという思いがつたわってきた瞬間でした。もしかすると僕の錯覚かもしれませんが、何となく、僕はXさんの人生の一部分に「触れた感覚」がありました。

 しかし、また反面、それと同時に、本当にこのひと言を自分は言って良かったのかどうかについても、僕は、あとあと悩みました。今回はおそらくポジティブな方向にすすんだからよかったものの、調査者として、このひと言をいってよかったのかどうか、少し反省したりもしました。今なお、その答えは「風の中」です。

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 今日は、聞き取り(ヒアリング)について書きました。

 どうやら、(人事の?)世の中的には「聞き取り(ヒアリング)というと、「ねぇ、こんど、情報交換しましょうよ的」な「軽い情報の相互伝達の場」みたいに考えられているところもないわけではないのですが、本質的に、それはそういうものじゃないよなと思います。

 また「聞き取り(ヒアリング)」というと、一方は「聴く方」、他方は「聴かれる方」という風に二分して考えたくなりますが、そこにはリフレクシブな関係ーすなわち相互反映的な関係ーがあるよな、とも思います。それはあたかも「ICレコーダ」のように、語られた内容を聞き取り、記録する以上の意味があるということです。
 よく言われるように「調査するということ」が多かれ少なかれ「調査対象者の時間を奪うこと」を意味します。そして「ヒアリング」とは、相手の人生に「触れる」という一瞬を内包する可能性のある手法なのかもしれません。

「希におとずれる緊張の瞬間」は「人と人が出会って行う研究」の「重い宿命」でもあり、調査者はそれを引き受ける必要があります。しかし、人によるとは思いますが、このことが「研究する意義」を見出すことにもつながっているような気もします。「それは重い」。しかし、だからこそ、僕は「関わりたい」と願います。

 今年出会ったすべての方々に、感謝をいたします。
 貴重な一瞬一瞬を、ありがとうございました。
 そして人生は続く