「実践のなかでのリフレクション」を饒舌に語る!?

 先だって、中原研OBの関根さん、研究室M1の田中さんが中心になって、大学で「リフレクション」に関する英語論文を読む研究会を開催してくれました。

 当日は、僕も参加させて頂き、まずこの広範な研究領域の最近の進展の歴史を、僕の短い研究の歴史で知りうる範囲で、オーバービューさせていただきました。リフレクション研究の広がりには、僕の目からみて、いくつかの「結節点」や「ねじれ」が存在します。発表では、これを言いたい放題言わせて頂きました。

 研究会は15名くらいの、多様な領域の研究者・実務家の方々にご参加頂きました。皆さんとは、久々に議論をすることができました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

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 思うに、リフレクションは、マネジャー教育、看護教育、教師教育研究の過去30年間の最も注目される概念として発展していますが、それを「どのように捉え」、「実証研究を積み重ねるか」は、必ずしも容易なことではありません。

 その最大の理由は「リフレクション」という概念自体ー特にショーンが「専門家」の特質として概念化した「状況に埋め込まれたリフレクション(Reflection in Action)」が、外部から「観察」し「語る」ことを「拒否」する側面があるからに他なりません。

(Reflection on Actionの方は、また違った学問的諸問題がありますが、ここでは述べません)

 例えば、当日盛り上がった議論に、専門家がそのつど、そのつど、状況において行う「Refction in Action(実践の中でのリフレクション)」を外部からいかにして把握・観察可能にするか、という課題がありましたが、これなぞは、そもそも外部から観察し、記述することを、そもそも拒否している概念に近いような気もいたします。

 なぜなら、この概念が指し示す専門家の行為は、「状況の把握」と「次の行為の創造」が再帰的(リフレクティブ)な循環を持っておりそれらが「不可分」であることを概念の中に内包しているからです。

 すなわち、この概念は、端的に述べるならば「行為と熟慮の不可分性」を取り扱っている。それは当の本人は意識しておらず、その駆動をリアルタイムで説明することもできない。
 しかし、それでいて、そういうものがなければ、「専門家が専門家たる由縁」を説明することはできない。私見ながら、それが「Refction in Action(実践の中でのリフレクション)」という概念のとらえどころのなさなのかもしれません。

 ということは、これを無理矢理、外部から記述しようとすれば問題が生じます。それは外部から観察すれば、「熟慮」の部分は見えませんので「専門家の行為」を抽出することになってしまいます。
 一方、「行為と不可分に結ぶついた熟慮」を取り扱おうとすれば、それは専門家に「後付け」的に自らの行為を意味づけたものを抽出することになります。
 それらを、もともとのRefction in Action(実践の中でのリフレクション)」と読んで良いかは、かなり議論の分かれるところです。

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 かつて、僕は「暗黙知」を考察するときに、同様の問題提起を行ったことがありますが、「Refction in Action(実践の中でのリフレクション)」という概念も、それに近いものがある印象です。それは最初に概念化した人以外に、それ以上「語り得ぬもの」なのではないでしょうか。


暗黙知を饒舌に語る!?

http://www.nakahara-lab.net/2010/02/post_1650.html
 
 以前、このエントリーを書いたのは4年前。それから僕は成長しているか否かというと、かなり心許ないのですが、そんなことをぐだぐだ考えています。研究会は来月にも開かれ、今度は批判理論の系譜に基づくリフレクション研究を読んでいくようです。

 それにしても、こういう時間は貴重なものです。
 押し寄せる「マネジリアルな処理案件」に、時に、迷子になりそうながら、そんなことを考えています。
 我が人生は続く。