実践者を「勇気づける」研究、「ゲンナリ」させる研究!?

 今日は研究室OBの関根さんが企画して下さったOJT研究会です(関根さん、ありがとうございます)。
 小生、最近、にわかにアドミニストレーションの仕事が増えており(年齢的には仕方がないですね)、一日丸ごとまるまま、研究に当てられる日は、まことに珍しい状況です。そういう意味では、今日の研究会は嬉しいですね、心から。

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 今日読むのは、最近の英語論文雑誌に掲載されたOJTに関する研究論文です。なぜか僕の担当文献は、それとは毛色の異なる文献で、「経営&学習研究の科学としてのあり方」についての論文でした。

 論文では、21世紀の仕事・キャリアにおいては、従業員は常に知識やスキルなどをアップデートする必要があり、組織は人的資本に投資する必要がある(Ilgen and Pulakos 1999)、としたうえで、それを裏打ちするサイエンスに、強固な理論的理解と実証的な裏付けを求めます。

 その上で、人材育成研究が、今後、科学として成立するためには、3つの要素を踏まえてなければならないということを述べ亜m素(Chen et al 2007)。その要素とは、かなり要約して話せば、下記の3点となります。

1.理論化のための、キー概念、変数、関係等に関して、明確に定義されること

2.研究が成立しうる境界、条件、対象者の多様性等に関する目配りがなされること。特に、個人的要因と組織的要因の交互作用の検討など、個人的資質を高めることに寄与する組織的要因を考慮すること

3.能力開発研究は「応用研究(Applied research)」であること「User-insired Science(ユーザーを勇気づけるサイエンス)」(Stokes 1989)でありかたを模索しうること

 上記1と2で論じていることは、ひと言で申し上げれば、「内的妥当性」「外的妥当性」とも解釈できます。
 これらを端的に述べれば、要するに「研究の内部で用いられている概念・要素に無理矛盾がないこと」、また「研究がどこまで適用可能かを、その外的諸条件に関する目配りを行うこと」です。
 これら2点は、研究者ならば、あるいは、研究を一度やったことのあるかたなら、すぐに理解しうることで、特段、目新しいことではないようにも思います。

 興味深いのは、能力開発研究のあり方をとう部分で「User-insired Science(ユーザーを勇気づけるサイエンス)」という概念が引用されていることです。これについては、僕も非常に共感できます。一瞬、「「User-uninspired Science(ユーザーをゲンナリさせるサイエンス)」というのを想像して、ちょっと笑えました。

(ちなみに、誤解を避けるために申し上げますが、研究一般がUser-inspiredであるべきだと思いませんし、Appliedな価値を持たなければならないとは思いません。しかし、人材開発研究はどうしても現場に価値を還元するというループと無縁ではいられません)

 よく研究の現場では、研究が「Scientific rigor(科学的な厳密さ)」と「Practitioner relevant(実践との深い関連性)」という二項対立軸で口角泡を飛ばした議論!?がなされますが、ここでは、そういう二項対立を一蹴し、「そのどちらもだ」と述べているかのように感じます。それは口ではひと言で述べられますが、実現するのは「茨の道」?「獣の道」です。数多く噴出する矛盾を抱きしめる覚悟が必要でしょう。

 論文中には「じゃあ、どのようにユーザーを勇気づけるサイエンスを組織するのか?」「どのような手法をとれば、ユーザーを勇気づけるサイエンスになりうるのか」は述べられていないのですが、それは個々の研究者が考えることだからでしょう。そんなことまで「おんぶにダッコ」ではいけませんね。

 ちなみに、長くなるし、ブログ上で話して伝わるとは思えないので、書きませんが、僕は僕なりの「User-insired Science」のあり方に関して持論をもっています(というよりも、15年以上も研究をしていると、そうした持論めいたものが形成されてきました)。
 こうした問題は、信頼できる場所で、きちんとした概念定義のもと、対面状況で議論できるといいですね。

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 今日は、人材育成・能力開発研究に関する「科学としてのあり方」について書きました。
 今日は、いつもみたいに「アドミン頭」と「リサーチ頭」を往還して、こんがらかっちゃって、よじれるんじゃなく、過ごしたいですね(泣)。
 今日という日を一日、「リサーチ頭」で愉しもうと思っています。

 そして人生は続く