「言挙げせぬ国」の「グローバル化対応」とは何か? : 「阿吽」「察し」「背中」を考える!?

「グローバリゼーションとか、グローバル化いかに対応するか」というトピックは、様々な識者が、それこそ口角泡とばして議論していることですので、専門が異なる僕としては、これ以上、あまり申し上げることはありません。

 そうした外部環境の変化に対して、我が国の組織や、組織のメンバーがどのように対応しうるのか。様々な答えがあるんだと思います。

 しかし、個人的には、グローバル化と拮抗するような、日本の文化(価値観)として、3つ考え直さなければならないものがあると思います。それは「阿吽」「察し」「背中」です。

「阿吽(あうん)」とは「阿吽の呼吸」。すなわち複数の人物が、全く「言葉で申し合わせていない」のに、自ずと、呼吸まで合わせるように同調していく様子ですね。

「察し」とは「言葉にしなくても」複数人の人が気遣える様子。そして、「背中」とは言うまでもなく「背中をみて学ぶ」です。それは「言葉を用いることなく、相手の様子を見て、学ぶ」ということでしょうか。

 要するに、何が言いたいかというと、日本の文化(日本人が魅了される価値観)とは、「一つひとつ言挙げしないということ」のように思えるのです。

 協働するときでも「阿吽」。コミュニケーションは「察し」。そして教え、学ぶときには「察し」という具合に、高文脈文化を背景に、「言挙げすることを避ける」。こういうコミュニケーションパターンが、わたしたちのメンタリティに深く埋め込まれているように感じます。それがいいとか、悪いとかいいたいわけではありません。

 しかし、グローバル化に対応するというのは、僕個人の意見では、「一つひとつ言葉を尽くして説明して、納得解を得ること」に思えます。そうしたものにこれまで以上に時間的コスト、精神的コストをかけることのように思うのです。ひと言でいうなら、グローバル化に対応するとは「言葉を尽くすこと」のように思えます。

 だって、グローバル化すれば、異質なものとつきあい、それらが出入りすることとつきあわざるをえないのですから。そこにはお互いが寄って立つコンテキストはないですから。

 それは、はっきりいって「めんどくさい」し、なんだか「あっぱくさい」し、どこか「水くさい」。少なくとも、僕にはそんな風に感じます。

 でも、一方で、異質なものが入ってくる、そうしたものとつきあう、というのは、寄って立つコンテキストを、とりあえずは「シェア」できていない意味において、そういうことなんだろうな、と思います。

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 今日の話は、詳細はオープンにはできませんが、全く「人ごと」ではありません。大学も、急速な勢いで、この流れの中にあります。
 自分たちのメンタリティの中に深く埋め込まれたルーツを大切にしつつも、もはや、覚悟を決めるほかはありません。こういう問題は、四の五の議論していても仕方がありません。「腹をくくる」か、「逃げるか」、それとも「オルタナティブを提案する」か。選択肢は3つです。

 そして人生は続く。