博士論文とは「最後の教育機会」である!?

 ここ最近、指導している学生諸氏が、そろいもそろって、博士論文に挑戦しているせいでしょうか。最近、僕自身も、以前と比べて、博士論文について考える機会が多くなっているような気がします。

 夜、自分が帰ろうとしているとき、ふと、研究室を見ると、まだ灯りがともっており、大学院生が論文を書いています。論文を書いている学生が、揃いもそろって、並んで、真剣にコンピュータに向かっている。声をかけようかな、とも思うのですが、「邪魔しちゃ悪いな」と思い、そうしない日もあります。
 そんな日々が続くと、彼らが取り組んでいる博士論文って、どんな意味があるのかな、という思いにかられることがあります。

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「博士論文が何か?」とは、吐いて捨てるほど多種多様な既存の言説が存在しますし、その意味づけや位置づけも、研究分野ごとに違うんでしょう。だから、僕がこれから語ることは、「一般論」では、断じてありません。

 ただ、僕の分野に近く、また僕の半径1キロ?程度の範囲内で(僕がよく出会う先生方の認識ですね)、もっともよく頻繁に語られる言葉はこれです。この考え方には、僕もピンとくるところがあります。

 博士論文とは「最後の教育機会」である

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「博士論文とは"最後の教育機会"である」というセンテンスの含意とはいったい何でしょうか?
 それは、とどのつまり、博士論文を執筆するというプロセスが、「最高学府の、最終教育課程を修了することで獲得できる、最終学位であること」に起因します。

 ひと言でいえば、博士課程はすべての「最後」なのです。「最後の最後」、それ以上は何もないのです。具体的に言いますと、博士課程以上の教育課程は存在しませんし、博士号以上の学位もありません。
 特に「教育課程が存在しない」ということは、そこから先の世界には、「教員も、学生もない」ということです。「二人の独立した人間」が存在するだけ。論理的には、それだけです。博士論文執筆以降、大学院生は「自律したひとりの研究者」として生きていかなければならない、ということになります。

 かくして、「博士論文を書く」という行為には、「指導者として提供できる最後の教育機会」にふさわしい知的活動が埋め込まれています。それは、「過去と決別し、指導者と別離し独立した研究者として生きていくことを宣言すること」に似ています。見方によっては、「儀式的性格」を帯びている、といっても過言ではないでしょう。

 一般的に、博士論文の中には、下記の3つの活動が埋め込まれているのですね。
 
1.先行研究をレビューする
 博士論文では、先行研究をレビューして、自分の研究を位置づけなくてはなりません。それは、別の言葉でいえば、「学問の中の自分を知る」ということであり、学問の世界の中に「わたし」を意味づける行為です。まずは、これから生きていく「学問コミュニティ」、そして「学問コミュニティ」における「自分のあり方」を知らなくてはなりません。比喩的にいえば、それは「世界を知ること」であり、「世界の中にある自分を知ること」です。

2.過去の自分の論文をまとめ、ストーリーをつくる。
 通常、博士論文では、これまでの自分の研究をまとめ個々の章を執筆します。個々の章を書くためには、それまでの自分の過去の研究と向き合い、それらとのあいだに「意味的連関」をつくらなくてはなりません。これは「自分の過去と向き合う」という行為であり、その上で、自分なりの「オリジナリティ(強み)」のある、ストーリーをつくらなくてはなりません。これから知的冒険をひとりでなす若手は、「自分の過去と向き合い、自分の強みを知ること」が大切なのです。

3.将来の構想を書く
 博士論文の最後では、「個々のこれまでの研究」を総括したうえで、「学術コミュニティに対する学問的貢献」を記す必要があります。そのうえで、最後は、将来の課題や構想を書きます。これは「自分の名前を学術コミュニティに記し、これからを歩みつづけることを宣言すること」に似ています。

 以上をまとめますと、博士論文を書くということは、

 1.自分の学問コミュニティを意識する
 2.自分の過去(強み)を知る
 3.将来を構想し、歩み続ける宣言をする

 なのです。

 そして、こうした事柄を、これから「知的冒険」にでる若い研究者に「敢えて意識」させる「最後の教育機会」が「博士論文を書く」ということなのです。
 だって、それがそれ以降は、何もないのです。先ほど述べましたように、「二人の独立した人間がいるだけ」です。
 指導教員と大学院生は、博士論文執筆以降は、「ひとりの独立した研究者」として、相対します。
 いくら指導教員といえども、こうした基本的なことを、目の前の「ひとりの独立した研究者」に「意識させる」なんてことは、少なくとも僕は、気が引けます。
 そんな基本的なことを、「ピンで立ってる自律した研究者」に、敢えて言葉にして指摘したくはありません。たぶん、心の中では、何か思っていても、僕は、本人に指摘はしないと思います、本当にほんと、よほどのことじゃなければ・・・。
 畢竟、「自由になる」「自律する」とはそういうことです。誰も「守って」はくれません。そこからは、自分一人で「考え」、自分で自分にフィードバックをかけ、ピンで立っていかなくてはなりません。

 くどいようですが「博士論文を執筆する」ということは、過去と決別し、未来に向かう儀式的性格を帯びている知的活動です。そして、それは先ほど、述べましたように「指導者との別離と自律」も意味します。
 メンタリング研究の知見がすでに明らかにしているように、メンターとメンティは、「出会った」ときから、「別れ」を約束されている存在です。「出会った」からには、きちんと「別れられなければ」、ダメなのです。
 いつまでたっても、「別れられないメンターとメンティ」は、最悪の場合、「メンターに対するメンティの隷属」「メンティに対するメンターの搾取」を生み出すもとになるのです。これは「別れられないこと」を両者で選択したことによって生じる「共犯・共依存」です。
 いつまでたっても、指導教員から自律できない人、いつまでたっても指導教員に甘える人、それじゃ困ります。逆に、また、いつまでたっても、大学院生を隷属させる指導教員でも、困るのです。

 大村はまの言葉に、下記のような言葉があります。

わたしは「渡し守り」のような者だから、向こうの岸へ渡ったら、さっさと歩いて行って欲しい、と思います。後ろを向いて、「先生、先生」と泣く子は困るのです。「どうぞ、新しい世界で、新しい友人をもって、新しい教師について、自分の道をどんどん開拓して行きますように」そんな風に、子どもを見送っております」
(大村はま)

 最後に提供された教育機会 - すなわち「学問コミュニティを知る機会、自分の過去をしる機会、将来を構想する機会」を提供され、それを成し遂げた個人は、きちんと、「向こうの岸」にわたり、「さっさと歩いて」いかなければならないということです。
「指導教員の知らない向こう岸で、新しい世界と、新しい人達と出会って、自分の研究領域を築き、さらには後世を育てるための一国一城を築いてもらわなくては困る」のです。

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 博士論文を書くということは、研究分野によって多様な解釈ができそうです。ですので、上記は「一般論」ではありません。
 しかし、どの分野の博士論文であっても、それを執筆するのシンドサは共通しているでしょう。それは、あまりに負荷が高く、しんどいことであり、時に泣きたくなることもあります。その辛さは、痛いほど、よくわかります。言葉にできないよね、、、その辛さは。痛いですよね、、、自分の過去の文章を読むことは。

 でも、それを成し遂げることには、上記のような「意味」があるんだとお考えになると、いかがでしょうか

 過去との決別。
 世界を認識する。
 未来に向けて歩み出す。

 そんなドラクエ的世界観?に、博士論文を重ね合わせてみると、いかがでしょうか? そのことで、皆さんの、少し負荷や負担感が減少するとよいのですが・・・(苦笑)。
 残念なことに、指導教員には「博士論文は書けません」。「書く」のは、僕ではなく、あくまで「本人」です。指導教員にできるのは、「博士論文を書くことの意味づけをすること」くらいです、ブログで(笑)。

 いずれにしても、中原研の研究室の学生諸氏の健闘を祈ります。
 いつも言っていることですが

 「終わった論文が、よい論文!」
 「完璧をめざすより、終わらせろ!」

  そして

 「早く向こう岸に行って、自分の世界をつくりなさい」

 Enjoy!

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