目に頼りすぎる昼は怖い、危険は感じるものなんだ!? : タクシーの運転手さんから、仕事の話を聴く

 他人の仕事の話を聴くのが好きです。

 特に、その方が、どのようにして、その仕事に「熟達」していったのか、そのプロセスの話題をうかがうこと。あるいは、仕事の中に埋め込まれた職人芸的な感覚の話を伺うのが、好きです。

 先だっては、たまたま深夜に乗り合わせたタクシーの運転手さんから、車中、じっくり話を伺っていました。

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「タクシーの運転手、やりはじめて、33年になるんです。

子どもも、女の子で2人いて、いや、なに、若い頃は、子ども、女房食わせていかなきゃならんので、銀座だろうと、丸の内だろうと、昼も、夜も、走らせてました。

時代も、なんか右肩上がりで、自分の給料も、日本も、みんなこのまま上がっていくんじゃないか、って思ってた。

で、十数年やって、個人タクシーになって、深夜しかやらなくなりました。深夜だけ、出待ちしてね。今は、深夜だけ。

そうすると、変な話なんですが、だんだん、「昼」が怖くなるんですよ。昼、タクシーを運転するのは、明るすぎる、だから「見えすぎて」怖い。夜は、感じるんですよ。危険、ここから来るぞ、って。ほら、きたって。

いや、なーに、33年やってたら、誰だって、気配を感じられるようになる。逆に、昼は、明るさが気配を消しちまう。だから、昼は見えすぎて、危険がわからない。

目に頼り過ぎちゃうんですね、危険は、目だけじゃなくて、からだで感じるものなんだ」

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 ICレコーダを持っていたわけではないので、一字一句同じというわけではないですが、伺っていたのは、そんなお話しでした。

 この運転手さんは、「昼が、明るすぎて、見えすぎて、怖い」とおっしゃいます。この感覚は、日常、私たちがもっている常識とは、全く逆です。「明るくて、見えていた方が、危険を認識しやすい」であろうから。

 しかし、この運転手さんにとっては、「昼は、明るすぎて、見えすぎる」がゆえに、気配を感じなくなってしまうというのです。
 彼にとって「目に頼りすぎること」はネガティブなことであり、「危険は、(目に頼りすぎず)、からだで、感じなくてはならない」とおっしゃいます。

 非常に興味深いことですね。

 奇妙なことに、僕はちょうどこのとき、文化人類学者 カルロス・カスタネダが、ヤキインディアンの呪術師ドン・ファンから聞いた言葉を思い出していました。

「わしらは、生まれたときから物事を判断するのに、目を使ってきた。わしらが、他人や自分に話すのも、主に、見えるものについてだ。戦士は、それを知っとるから、世界を聴くのさ。世界の音に聴き入るんだ」
(真木悠介「気流のなる音」 p101)

「目の独裁」をときはなち、「知者の敵」としての明晰を相対化することの大切さを。

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 それにしても、こういう自分の仕事に埋め込まれた、言語になかなかしにくい感覚は、タクシーの運転手さんだけでなく、職業事に、いろいろあるんだろうな、と思って伺っていました。そんな話を、これからも伺っていきたいものです。

 ちなみに、これを目的として「他人の話を伺っているわけ」ではないのですが、「じっくりと話を伺っている」と、「料金をオマケしてくれたりしてくれること」が、たまーにあります。

「お客さん、今日は、1時間も、オレが話し続けちゃった。オレは、自分の仕事のことを、これまで、ほとんど、他人に話したことがない。オレの話、面白いかな? でも、今日は、すっきりした。端数はいいから、とっておいてください」

 そして人生は続く