パッションあふれるストーリーテリングで研究発表!?:「独り歩きする手法」のお話

「プレゼンテーションの手法」というものは、「聴衆」と「目的」、これら2つと整合性をもってはじめて意味を為します。「聴衆(どんな人々で何に問題関心をもっているか) - 手法(どんなやり方でプレゼンをするのか) - 目的(どんな成果が期待したいのか?)」の3つが一貫していてこそ、意味があるということです。
 書いてしまえば、アタリマエのこと。そりゃそうだ、という感じです。おそらく、ここに疑問をお持ちの方は少ないのかな、と思います。

 しかし、悲しいかな、いつの時代も、「プレゼンテーション手法」は「問題」や「目的」とのつながりを失い、「自走自爆」しがちです。「ブレーキのないジェットコースター?」というのか、「空中浮遊するスケートボード?」と申しますか、「全く地に足のつかない事態」が生まれがちです。 
 ひと言で申しますと「問題」や「目的」と切り離された「脱文脈化された手法」が、時代の雰囲気にあわせ「流行」し、「独り歩き」しはじめるのです。

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 たとえば、卑近な例を出すならば、研究の現場で行われるプレゼンテーションについても、そのことは言えるのかもしれません。
 一般に、研究の現場のプレゼンテーションとは、多くの場合、「その分野の専門家」を主とする聴衆に対して行われるものですので、「最低限、伝えなければならない情報」と「伝え方」が存在します。

 前者、最低限伝えなければならない情報としてあげられるのは、問題の背景、リサーチクエスチョン、先行研究、オリジナリティの主張、作業仮説の構築、研究方法論、結論、展開、今後の課題などでしょうか。
 学問分野によっても違いがあるので、何とも言えませんが、そうした物事を踏まえておくことが、研究の現場で研究者同士がコミュニケーションするときには、どうしても必要になります。

 また、「伝え方」に関しても、根本的には、冷静に、かつ、クールに物事を批判的にとらえ、探究する態度が求められます。必要なのは「ロジック」です。
「ロジックが見失われたプレゼン」は、どんなにマインドフルで、パッションがあっても、研究の現場では意味をなしません。研究者が自分の人生を語るようなプレゼンでは別でしょうが、少なくとも学会や研究会などのフォーマルな場で、専門的議論が行われる場では、それはナンセンスです。

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 しかし、昨今、こうしたことが昨今、見失われがちであるような気もします。昨今流行している特定のプレゼンテーションの手法が、聴衆の特質や目的と「整合性」をもたないままに導入されて、語られる傾向があるような気がするのは、僕だけでしょうか。
 これには、おそらくマスメディアの影響もあるのでしょう。マスメディアでは、「グローバルに活躍するセレブ」が、マインドフルで、ストーリーフルなプレゼンテーションをしておりますので、ついつい、自分も、研究の現場で、やってみようと思われたのかもしれません。

 1年以上前のことになりますが、ある学生さんが「T●D風のストーリーテリング風プレゼンスタイル」で、学会の研究報告をなさっているのを見ました。熱いパッションでストーリーを語り、プレゼンの最後には「社会を変える」とか何とかと記されておりました。

 まことに残念なことですが、僕には、どうして、その研究が達成されれば、「社会を変えること」になるのか、はたまた、そこで指し示されている「社会」とは何を指しているのか、わかりませんでした。
 他の方もそうだったようで、パッションあふれるプレゼンであっただけに、会場は「ちょっぴり残念なムード」に包まれたことが印象的でした。まことに心苦しい思いがいたします。

 「ストーリーテリング風のプレゼンテーション」とは、「ムーヴメントをつくるためのパブリックスピーキング」に近いものです。聴衆や目的がそれに合致しているのであるのならば、そういう手法もありえますので、それ自体に善悪があるわけではありません。
 しかし、「研究報告の現場で必要なコミュニケーション」と、そのプレゼンスタイルは、少しズレているような気がします。
 
 研究報告の現場で、多くの場合、専門家が知りたいのは「ストーリー」ではありません。
 把握しなければならないものは、リサーチクエスチョンの妥当性であり、研究方法論の信頼性であり、結果の信憑性などです。少なくとも研究者が研究に関する議論を行う、フォーマルな場では、そのようなことが言えるようです。

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 今日のお話の意図するところは明確です。既述しましたように、「問題や目的と切り離された"手法"は残念な結果を生み出しやすいよ」ということです。
 そして、今日のお話は、実は、プレゼンテーションだけに言えることではありません。「手法」とはいつの時代も、「独り歩き」しやすいので、注意が必要です。

「手法」を売り出す側は、いつだって「どんな状況で、何が問題なのか?(課題)」「何をめざすのか?(目的)」といった「文脈」から切り離し、特定の手法の有効性を喧伝します。
 なぜなら、文脈から切り離し、「一般を装った方」が、対象者は格段に広くなります。つまり、マーケットを意識すれば、「ある特定の文脈において発達してきた手法を脱文脈化する方」が都合がよいのです。より多くの信奉者、支持者を獲得できる可能性に開かれます。

一方、「手法」を安易に買う側は、「思考停止」に安住しがちです。自分の目で状況を見つめ「何が問題なのか?(課題)」「何をめざすのか?(目的)」を考えるのはたしかに骨が折れます。その上で、自分の手法を選択するのはなかなか面倒です。ですので、ついつい、「思考停止の誘惑」にかられるのです。「どんな問題でもキャッチオール(Catch all)」と位置づけられている「誰かの漂白した手法」を求めてしまいます。

 この両者、つまり、ある一時点までは、両者は「Win-Win」で思惑は合致しているのです。もちろん、その「Win-Win」は、「仮初めのもの」に過ぎないのですが。。。

 このような事例なら、皆さんの周りにも、枚挙に暇がないでしょう?
 かくして「独り歩きする手法」には、注意と目配りが必要です。

 そして人生は続く。