「新しい物事を生み出すためには何が必要か?」という問い自体のナンセンスさ

「新しいアイデアや商品を生み出すためには、何をすることが必要なのか?」

 こういうセンテンスを、メディアなどの論調で聞くたびに、「へそ曲がりの僕」は、口にこそ出しませんが、心の奥深いところで、ふと、思ってしまうことがあります。
 そういう「認識自体」が、いいえ、先ほどのセンテンスの背後に横たわる「思想自体」が、「新しいものを生み出すこと」とは、「縁遠い考え方」なのではないか、と思ったりするのです。
 むしろ、その考え方の延長上に「創造」は存在するのかな、と。
 もっというならば、私たちは「新しい物事を生み出すためには何が必要か?」という問いの「答え」を語り得ないのではないかん、と思うのです。語り得ぬものには、沈黙せざるをえない。

 どういうことかと申しますと、先ほどのセンテンスは、その背後に「合理主義」といっていいような考え方が色濃く反映しています。

 すなわち、「新しいもの」を生み出すためには、何らかの「条件」や「手段」が存在している、とまず考えます。その上で、その「条件」や「手段」が「満たされれば」、何かが「必ず」生まれるはずだ、という考えるのです。別の言い方をすれば、「機能主義的な世界観」といってもいいかもしれません。何かをInputすれば、Outputがうまれ、それらInput-Outputは、一対のペアとしてつながっている。

 しかし、僕の認識に関する限り、どちらかというと事態は「逆」です。
 つまり、新しい発想・着想というのは、合理主義を「裏返した」ような「反転世界」に存在する可能性の方が高いのではないでしょうか。少なくとも僕が何か、新しい?(たいしたことではない)ことを思いついちゃったときは、逆です。

 つまり、何をやれば、何かが生まれる、といった機能的な考え方で、物事に取り組んでいるときではなく、それからは意図的に離れた瞬間、「ふと、何だかしらないけれど、結びついちゃった!」「ふと意識していなかったものが、偶然に、つながっちゃった!」というかたちで、「生まれる可能性」がある、ということなのかな、とも思うのです。

 興味深いのは、そうした現象は「合理主義」を裏返したところに存在しますし、そこで新しいものが生まれるかどうかは「統御不能」です。
 しかし、わたしたちは「意図的」に、その世界を「垣間見ること」ならできます。もちろん、そこで何かが生まれるかどうかは、統御不能。いわゆる「可能性の問題」になってしまうのでしょうけれども。

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 損保ジャパン東郷青児美術館で開催されている「遊ぶ・シュルレアリスム」展に出かけてきました。

 20世紀の最大のアートムーヴメントといっても過言ではないシュルレアリスム。そこでは、多くの画家や詩人などが、伝統的で保守的なものとは全く異なる、新たな表現、現実の見方をさらに広げてしまうような新しい視点を求めて、運動を繰り返しました。本個展は、そんなシュルレアリストたちの作品を集めたものです。

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 本個展が興味深いのは、シュルレアリストたちが、新たなもの、新たな表現を生み出すために、どのような人生を送ったかをモティーフにしていることです。彼らがとった生き方は「遊び」です。徹底的な「遊び」。

 シュルレアリストたちは、夜な夜な、パリのカフェなどに集まり、「知的な遊び」に興じ、その中で、たまたま?、新たな表現を生み出していきました。

 その背景には、「意識をしていないものの中にこそ、美しさが存在する」という「オートマティスム」、そして「あるものとあるものが、偶然ぶつかり、生じた表現にこそ、美しさが存在する」という「デペイズマン」という考え方、そして「子どもが行うような、つじつま合わせの手仕事のような中にこそ、美しさが存在する」という「ブリコラージュ」という考え方が色濃く見えるといいます。今から考えれば。でも、おそらく当時は「非合理主義」を思想的背景とした「遊び」でした。

 僕はアートは専門ではありませんが、この3つの考え方は、とても興味深く思います。ひと言でいいますと、「反意識・反理性」「偶然性」「操作性」。これらの延長上に、たまたま生まれ得たものが「創造」と呼ばれることになるのでしょう。

 シュルレアリストたちは、カフェでお茶やお酒を飲みながら、「遊んで」いました。

 数人で言葉や絵をだしあい、組み合わせるゲームに興じました(甘美な死骸ゲーム)。ペンや筆を持った手を自由に動かし自動デッサン実験をしました(自動デッサン)。
 絵の具をキャンバスに塗り、紙で押さえつけ、浮かび上がった模様から作品をつくったりもしました(デカルコマニー)。雑誌や印刷物を貼り付け、偶然できあがった表現を愉しみました(コラージュ)。
 シュルレアリストの表現は、かくして、これらの「遊び」をモティーフやきっかけとして生まれたものもあったようです。

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 本個展は、このようなシュルレアリストたちの作品を集めています。
 彼らの「遊び」を紹介しつつ、作品を鑑賞できますので、非常に面白く見ることができます。
 しかし、さらに秀逸なのは、この個展の1Fにあります。1Fには、ワークショップコーナーが開かれており、子どもから大人まで無料で、シュルレアリストたちが行った「知的遊び=作品作り」を行うことができるのです。

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 僕が出かけたときは、10名弱の大人や子どもが、コラージュをやったり、デカルコマニーに興じたりしていました。僕自身も、みようみまねで、やってみました。とても興味深い体験でした。

 展覧会は8月25日までのようです。
 新しいもの、着想、アイデアを求めている方、ぜひ、シュルレアリストたちの生き方に触れてみて下さい。おすすめです。

「シュルレアリスム、男性名詞。口頭であれ、記述であれ、他のどんな方法であれ、思考の実際の機能を表現することを目的とする純粋に精神的な自動現象。理性によって行使されるあらゆる抑制がなく、審美的な、あるいは、倫理的ないかなる関心事をのぞいた、思考の書き取り!」
(アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」)

 そして人生は続く!