ロジックがほんわか・ゆるゆるしたスティーブ・ジョブズ並のプレゼン!? : プレゼン全盛時代に文章を書くことの意味

 大学教員になって、はやいもので13年ほど立ちますが、これまでを「振り返って」、いつも思うことに、

「この10余年で、学生のプレゼンテーションのスキルは、格段に向上したな」

 というのがあります。

 昔は、プレゼンといっても、パワポがそもそもつくれないとか、ずっと下を向きながらあらかじめつくってきた原稿を、ただ読んでいるだけ、という学生も少なくなかったように思います。

 ところが、最近は、中には

「あなたはスティーブ・ジョブズじゃないの?」

 というような!?(持ち上げすぎ)学生もでてくるようになってきました。

 生まれながらにして家庭に情報機器があふれているせいなのでしょうか、初等中等教育での情報教育がよいせいなのでしょうか、僕には、その理由はわかりません。
 
 が、堂々としたプレゼンテーションを最初から行うことができる学生が、以前よりは、非常に増えてきたな、という印象を持っています。

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 しかし、いくつか、気になることもないわけではありません。

 ひとつは「格差」が大きいということです。
 ジョブズなみのプレゼンを行う学生がいる一方で、全くプレゼンを行ったことのない学生、携帯電話以外のメディアを使ったことの学生がいます。
 知識を生産するためにメディアを利用する一方で、知識を消費することにしかメディアを利用しない学生がいます。この差が年々ひろがっているように感じるのは、気のせいでしょうか。

 この背後には、おそらく家庭でのメディア利用、ひいていえば、親の文化資本、経済資本の問題、そして、地方と都市 / 私立と公立の教育格差の問題があるような気がします。無理矢理こじつけ野郎的な論理ですみません。詳細は専門家ではないので、わかりません。

 もうひとつは、うまくなっているプレゼンの技術は「アピアランス(見せ方)」に特化している傾向があるということです。つまり「見せ方」が、この10年で格段にうまくなってきたしかし、一報で、デリバリーするコンテンツの「ロジック(論理・因果)」は、「飛躍」が見られることも多々あります。

 プレゼンとは、伝えたいコンテンツをそのままデリバリーするだけでなく、「相手を説得・魅了する技術」であったりします。
 よって、前後のスライドのあいだでロジックが多少破綻していたり、飛躍があったりしていても、「ほんわか」「ゆるゆる」「なんとなく」つながっていれば、それでOKというところもないわけではありません。

 オーディエンスは、消え去ってしまった前画面のロジックを、憶えていないことがあります。次のスライドが提示されたときには、前の画面をはっきり憶えていない。こんな風にして、前後のロジックが「ほんわか」「ゆるゆる」したものになっている印象があります。

 もしかすると、ないものねだりなのでしょうか。
 最近の学生のプレゼンを見ていると、確かに「アピアランス」は非常に魅力的になりましたが、その分だけ「ロジック」がややぼけているところが目につくようになってきました。昔と比べて、ロジック構築の能力があがったのか、さがったのかはわかりません。印象的には、それほど変わらない印象があります。ただ、アピアランスの能力が上がったために、相対的に目につくようになっただけなのかもしれません。

 ちなみに、僕は、大学院の自分のゼミ発表では、学生にプレゼンで研究説明をすることを禁じています。敢えて紙(レジュメ)を用意させ、一文一文、文章でロジックを書かせます。
 プレゼンだと、ロジックを誤魔化すことができるけれど、文章になると、それは不可能です。そういう理由で、プレゼン全盛時代に、敢えて、文章に書かせて発表をしてもらっています。

 もちろん、最初からロジックもアピアランスも秀でている人は少ないと思いますし、それが学びなのですから、両者をバランスよく獲得できるよう、学生時代を過ごせばよいということになります。焦る必要はまったくありません。大丈夫だよ、昔はアピアランスさえ、ひどかったんだから。

 そして人生は続く。