「徒弟制ロマンス」という落とし穴 - 徒弟制を成立させる社会的条件

「必ず高座のあとは打ち上げがあるわ。でも、あんたは飲んじゃだめ。師匠をおくる仕事があるんだからね / 食べ物は勧められたら、断るな。ありがとうございますって言って、全部、平らげるの。それも、誰よりも、早く食べなさい」

「あんたも楽屋に入ったら、しくじりの山だよ。落ち込んでいる暇もないよ」

「いい / 初対面の師匠には、前座は決して、自分から言葉をかけてはいけないの。 / 必ず、立前座から紹介して頂くのが、決まりよ」

「今日一日で、何回、すみません」を言っただろう。明日は、何回言うんだろう」

「体を動かせ、頭を使え。どんなに楽屋が忙しくても、耳は高座に向けていろ。そこは落語を愉しむ場所じゃねぇ。学ぶ場所だ」


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 ふだん漫画を読むことはないのですが、最近、はまっているものがあります。漫画「どうらく息子」です。
 この漫画、ひと言でいえば、ある一人の青年が、落語の師匠のところに弟子入りし、熟達していくプロセスを描いている漫画です。兄弟子、おかみさん、他の一門の師匠。様々な人間関係の網の目の中で、青年は落語家になっていくプロセスを描写しています。

  

 この漫画の面白いところは、「徒弟制」という「教え方 - 学び方」の面白さ、魅力を伝える一方で、その「闇」や機能する「諸条件」も描き出していているところです。

 どんなに師匠が間違っていようと、何を指示されようと、「はい」か「すみません」しか言えない上下関係。高座の裏のタイトな人間関係。「楽屋」での「しくじり」と、嘲笑などは、その筋を経験した人にしか、想像すらつかない世界でしょう。

 かつて、僕がインタビューさせていただいた落語家の方は、落語家の熟達を「血と血のつながった家族になること」とおっしゃっていました。
 徒弟制のパワフルさは、「特殊な人間関係」に裏打ちされています。「家族」という切っても切れない関係が、「闇」を凌駕するからこそ、この制度が機能します。

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 ひるがえって、企業人材育成の言説空間では、ともすれば、よくこの「徒弟制」が、あまり文脈を考慮されず、引用され、消費されます。
 若手を育成するシステムとして、それが引用され、ともすれば、ノスタルジックな感情、懐古的な感情とともに、それが語られます。その様相は、さしずめ、「徒弟制ロマンス」とも言いえるかもしれません。

 先にも述べましたように、徒弟制が機能するためには、「血と血のつながった家族になること」がベースであります。より具体的にいうならば、それが機能するためには、

1)長期間にわたる安定的で右肩あがりの修行期間が確保されていること

2)長期間のモティベーションを確保するために、師匠に「威光模倣」が存在すること(師の背後に広がる世界の華々しさがあること)

3)師匠から継承するべき技術が、世の中の環境変化に対して頑健で、それほど変化しないこと。そして、その学び取る技術は師の能力を超えていないこと

4)学習は偶発的に起こることから、その教育的瞬間にフィードバックを変えすためのタイトな人間関係とモニタリングシステムが存在すること

5)伝承は非言語コミュニケーションによって行われることもあるので、生活をともにできること

 などの諸条件が存在しうるものと思われます。
 
 誤解を避けるために申し上げますが、これらの諸条件が機能し、かつ、組織のかかげる戦略に合致しているのであれば、徒弟制はパワフルに機能します。それがよいとか、悪い、とか言っているわけではありません。

 徒弟制とは「特殊な社会的コンテキスト」のもとに成立する育成システムである。そして、ともすれば、人はそのパワフルさや効果に魅了される一方で、それをならしめている「特殊な社会的コンテキスト」を無視するという「徒弟制ロマンス」に陥りやすい。
 だからこそ、それを参考にするときには、それを成立ならしめている社会的コンテキストに注目しなければならないのではないか、と申し上げているのです。

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 それにしても、この漫画は面白いです。
 勧めてくださったのは、同僚の藤本徹先生ですが、この場を借りて感謝いたします。いつものように思いつきなのですが、そういう「学び・熟達プロセスを描いた漫画」を集めて、本が描けたとしたら(〆切間近の論文1本、本2冊を抱えて、よくしゃーしゃーと新しい企画を語れるな、という感じですが)、より多くの人々に、「経営学習論的世界」を知って頂けるような気もしています。ぜひご教示いただければと思います(笑)。

 もう少し、寝不足の毎日が続きそうです。
 そして人生は続く