「ブラック臭がダバダーと漂う背伸びの仕事」とそこに忍び寄る「善意の権力」

「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」

 何と言ってもよいのですが、目の前の仕事や困難を、何とかかんとか、ひととおりこなすことで、能力形成につながったり、のちのち、成長や自信を実感できたりする仕事が、おそらく、社会にはあります。

 確かにそう。しかも、それはパワフル。
 僕自身も、あの仕事、あの研究は、自分にとって大切な意味をもったな、という出来事が、過去にあります。
(個人が、苦難の出来事を回顧した場合、その出来事は、自己にとって魅力的に物語化されることを勘案したとしても、上記は、おそらく言えることなのかな、と思います)

 しかし、一方で、「これらの言葉」は、「権力をもつ他者」によって「善意のデコレーション」をされたうえで、巧妙に、権力をもつものに都合のよいように「利用」される可能性もないわけではないから、注意が必要です。
 くどいようですが、ダメだ、といっているわけでは1ミリもありません。そこには、一定の注意と目配りと監視が必要だと言うことです。

 つまり、どこからともなく「ブラック臭」がダバダーと漂う仕事を、「この仕事は、あなたの"能力"や"成長"につながるから」という理由で正当化して、押しつける・・・「あなたの成長ために」
 やり抜けば「よかったね、能力が伸びて!」。失敗すれば「あなたが悪い。努力が足りなかったね、能力が伸びないね」で終わる。
 その仕事が「業務として妥当なものであったか、否か」「それを付与することがマネジメントとして適当であったかどうか」は問われることは少ない。
 そういう言説として「能力形成」「キャリア発達」という言葉が用いられるということです。

 誰の目から見ても「火ボーボー」状況で、誰一人かかわりたくない物事がそこにある。そこからは、香ばしい「危険な香り」がしているのにもかかわらず、「個人の能力や成長につながる」という言説を利用しつつ、この仕事を、他者に対して付与する。

 「近代」と「ポスト近代」にわたる「権力のあり方」を分析したフーコーは、近代のそれが「権力に従わなければ、罰を与える」という作動原理において体制化されていたことを明らかにしています。
 しかし、よく知られているように、ポスト近代の権力とは、そこまであけっぴろげで、あっけらかんとして、「そのまんまやん!」的ではありません。
 むしろそこで巧妙に利用されているのは「自己」です。
 ポスト近代の権力とは、「権力の指し示すベクトルにのるならば、あなたの今後は、よきものになるだろう」というかたちで、巧妙に「自己の関与」をとりこみ、「他者が自発的に動くという建前」を担保しつつ、他者の「管理」を可能にしたことを明らかにしています。
(これらの説明は僕の誤解もたぶんに含んでいるかもしれません。専門家ではないので、ごめんなさい。)

 以前も指摘したことですが、McCallらは、「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」が付与される際には、それらを引き受けるものへのサポート、それらを正統に評価する仕組み、メンタリングの仕組み(支援)など、各種のセーフティネットが必要であることを明らかにしていました。また、戦略への同期性、組織の目指すベクトルの明示も大切なことであると指摘しました。
 また拙著「経営学習論」でも述べましたが、「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」を作動させるためには、管理者から本人に対する仕事の説明、目標設定が行われ、意味づけがしっかりおこなわれる必要があります。
 しかし、前者の3つに比べて、後者の「警告」や「諸条件」の必要性は、忘れ去られる傾向があります。

 いま、仮に、喩えとして妥当かどうかは知りませんが、「走り高跳び」に喩えてみましょうか。
 たとえば、今、あなたは「走り高跳び」を数回しかやったことのない人だとして、コーチにバーの高さを設定される状況だとします。
 あなたはまだ走り高跳びをやったことがない。それなのに、そのバーが、たとえば、鳥人ブブカでも超えられなかったような高さ、6m20cmに設定されていたとしたら、困るでしょう。
 もし乗り越えられなくて、失敗してしまったときに、「じゃ、どう落とし前とってくれるんだ? おらおら」と聞かれても、困るでしょう。
 万が一、飛ぶことに成功して、受け身をとって着地しようと思ったら、そこに「穴」が掘ってあったら、衝撃、涙目でしょう。
 あるいは、走り高跳びをやると聞かされていて練習をしてきたのに、飛んだらすぐにルールが変わって、「走り幅跳び」になっていたら、びびるでしょう。せっかく飛ぶことに成功したのに、「何、頑張って、飛んでんの? 」と言われたら、信じるものを失った気がするでしょう。
 よい喩えかどうか知りませんが、お伝えしたかったことの一部は、そういうことでもあります(笑)。ごめん、この喩えは、あまり真に受けないでください。

 くどいようですが、社会には「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」として後付けされる仕事の機会が、たしかにあると思います。そして、それらはパワフルであり、そうした挑戦の機会を、得ていくことが大切だと思います。

 しかし、これらの言葉は、知らず知らずのうちに「悪意のある他者」によって「利用」される可能性があること。それらが作動するためには、種々のソーシャルサポートが必要です。

 それらが存在しない「成長の機会」「背伸びの仕事」「ストレッチ」とは、単なる「ブラックな仕事」です。「ブラックな仕事」が、「能力形成・キャリア発達」という「善意のデコレーション」で、人工的で、魅力的、かつ、甘美な香りを漂わせている、ということだと思います。

 そして人生は続く。